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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

北部ニューイングランド植民地の発展-独立前後の北米の食の革命(4)

2021-09-18 17:36:24 | 第四章 近世の食の革命
北部ニューイングランド植民地の発展-独立前後の北米の食の革命(4)
アメリカ独立戦争(1775~1783年)では、北米に築かれた13のイギリス植民地の人々がイギリス軍と戦いました。そして、この13の植民地がのちのアメリカ合衆国を建国することになります。

ちなみに、現在のアメリカ合衆国の国旗には50個の星が描かれていますが、これは合衆国が50の州でできていることを示していて、建国当初は13の星が描かれていました。

13の植民地は、北から南に向かって「ニューイングランド植民地」「中部植民地」「南部植民地」に分けられます。この3つは成立過程や社会環境が異なっていたため、それぞれ異なる食文化を持っていました。

今回は、この中のニューイングランド植民地の食について見て行きます。

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アメリカ北部にあったニューイングランド植民地は、マサチューセッツ・ニューハンプシャー・コネティカット・ロードアイランドの4つの植民地からできていた。

ニューイングランド植民地は、1620年にメイフラワー号でやって来たピューリタンによって建設されたプリマスを始まりとしていて、彼らにならって多くのピューリタンが移住することで発展した。このため、移民の多くはイングランド人であり、宗教の自由を基本としていた。

ニューイングランド植民地では、良い港を作ることができたボストンが中心都市となった。1700年頃のボストンには6000人以上の人々が生活していたと言われている。

アメリカ南部に比べて、気候が冷涼で地力が低かったニューイングランド植民地では、農業で生計を立てるのが難しかった。一方、ボストンを始めとして良い港を作ることができたので、漁業や貿易が盛んになり、多くのニューイングランド人が漁業や貿易、商業に従事するようになった。

マサチューセッツ湾では大量の「タラ」を捕まえることができた。タラは西洋人がよく食べる魚で、ボストンに水揚げされたタラは塩漬けされ、ヨーロッパに送られた。また、その一部はカリブ海にも輸出され、砂糖のプランテーションで働く奴隷の食糧となった。こうしてカリブ海でもタラはなじみ深い食材となり、塩ダラとアフリカ原産のアキーと言う果物を炒めた料理はジャマイカの国民食になっている(朝食によく食べるらしい)。


タラ(Susanna WinqvistによるPixabayからの画像)

なお、マサチューセッツ州東端の特徴的な形をした「ケープコッド」は、タラ(cod)が沖合でたくさん獲れたことからそのように命名された。


ケープコッド

ニューイングランドからはタラ以外に、造船に使われる木材や帆船がイギリスなどに輸出された。独立前にはイギリスの船舶の3分の1はニューイングランドで造られたものだったと言われている。

また、ニューイングランドでは「ラム酒」造りが盛んだった。ラム酒は、砂糖の結晶を精製したあとの「糖蜜」を水で薄めて発酵させ、それを蒸留したあと樽の中で熟成することで造られる。カリブ海ではイギリスを中心に砂糖のプランテーションが行われており、廃棄物だった糖蜜をニューイングランドに持ちこみラム酒の製造を行っていたのである。

出来あがったラム酒は船でアフリカ西海岸に運ばれて奴隷の購入費用となり、奴隷はカリブ海に送られて砂糖のプランテーションで働かされた。このように、「カリブ海:糖蜜」「ニューイングランド:ラム酒」「アフリカ:奴隷」の三角貿易が成立していたのである。

ラム酒はニューイングランドでもよく飲まれていた。「フリップ」と呼ばれるカクテルは、ビールとラム酒と砂糖を混ぜ合わせたもので、泡立つ様子に人気が出てよく飲まれていたという。時代が進むとフリップにはビールの代わりに卵が使われるようになった。

「ストーン・フェンス」というウイスキーと炭酸水で作るカクテルがあるが、これは元々ラム酒にリンゴ酒の「ハードサイダー」を加えたカクテルだった。アメリカでは時代とともにウイスキーの醸造が盛んになったため、レシピが変わったのだ。

このハードサイダーはリンゴジュースの「アップルサイダー」から作られ、どちらもニューイングランドを代表する飲み物となっている。

ピューリタンはリンゴの種を持ってアメリカ大陸にやって来た。そして1625年には、最初のリンゴ園を造った。また、品種改良もさかんに行い、たくさんの品種を生み出して行った。

リンゴをすりつぶしたのち、麻袋に入れて絞り出したのがアップルサイダーだ。日本的にはリンゴジュースだが、日本で市販されているものとは異なり、不透明なのが特徴だ。ちなみに、日本では「サイダー」は炭酸飲料のことを指すが、本来はリンゴなどの果汁のことを意味している。

アップルサイダーは熱殺菌などを行っていないので、置いておくとすぐにアルコール発酵が始まって二酸化炭素を出すようになる。このように発酵が進んでアルコール度数が高くなったものがハードサイダーで、お酒としてだけでなく、飲料水代わりとしても飲まれていた。

リンゴはジャムになったり、アップルパイなどのお菓子にも利用されたりなど、とても有用な作物だった。



私が中学生の時の英語の教科書に「ジョニー・アップルシード(1774~1845年)」がリンゴを植えたお話が載っていた。彼はマサチューセッツ州出身で、西部開拓で活躍した実在の人物だが、彼がオハイオ州やインディアナ州、イリノイ州を巡りながらリンゴの種を植えて行った話は、有名な伝説として語り継がれている。アメリカ人にとってリンゴはとても大切な食べ物だったのだろう。

ニューアムステルダムの食-独立前後の北米の食の革命(3)

2021-09-15 18:13:46 | 第四章 近世の食の革命
ニューアムステルダムの食-独立前後の北米の食の革命(3)
ニューアムステルダム」と言う街をご存知でしょうか。

実は、今はニューアムステルダムという街は存在しません。ニューアムステルダムは「ニューヨーク」の昔の名前で、その名前の頃はオランダ人が街を支配していました。オランダの首都がアムステルダムのため、ニューアムステルダムと名付けられたのです。

今回は、ニューアムステルダムがニューヨークになるまでの歴史をたどるとともに、当時の食について見て行きます。

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アメリカ合衆国の大都市ニューヨークは、最初はオランダ(ネーデルラント)の植民地として出発した。そして後にイギリスの植民地になる。そのいきさつは次の通りだ。

1609年にオランダ東インド会社が派遣したイングランド人のヘンリー・ハドソンが現在のニューヨークを含む一帯を発見した。ちなみに、マンハッタンに沿って流れるハドソン川の名は彼にちなんで付けられたものだ。

ハドソン川ではビーバーがたくさん獲れたため、オランダ人はハドソン川流域に植民地を建設することにした。紳士が身に付けるものにシルクハットがあるが、19世紀にシルクハットが作られるまでは、ビーバーの毛皮で作った帽子が紳士の必需品となっていた。このため、ビーバーはとても重要な獲物だったのだ(ちなみにビーバーの肉も美味しいそうです)。

そうして1626年にはマンハッタン島の南端にニューアムステルダムが建設された。元はアメリカ原住民の土地だったが、オランダ人が奪い取った形だった。この地が後にニューヨークになる。

アメリカ植民地全体に言えることだが、植民が始まった頃には植民者に好意的だったアメリカ原住民も、自分たちの土地を侵略されたことが分かってくると、武力で侵略者を排除しようとした。一方のヨーロッパ人も高性能の武器で対抗した。また、拠点となる場所には防護壁を建設した。証券取引所があるニューヨークの「ウォール街」の名もそのような防護壁(wall)に由来している。

1664年になると、イギリス軍がニューアムステルダムを占領する。その後もイギリスとオランダの間で争奪戦が繰り広げられたが、最終的にイギリスの植民地として認められた。なお、ニューアムステルダムはイギリス国王チャールズ2世の弟のヨーク公に与えられたので、「ニューヨーク」と改名された。

さて、ここからニューアムステルダムの食について見て行こう。

オランダ人は貿易を生業としており、船をたくさん保有していたため、植民地に必要なものはすべて船で運んできた。ウシヒツジもヨーロッパから連れてきて、ミルクやバター、チーズを作った。マンハッタンにもヒツジの放牧地が作られたという。

オランダ人はかなりの酒好きだ。ちなみに、現代のオランダでは、高学歴になるほど酒をよく飲むらしい。そういうわけで、ニューアムステルダムではすぐにビールの醸造所とジンを造るための蒸留所が作られた。ジンは、ねずの実(ジュニパーベリー)と、さまざまな香草や香辛料を加え再蒸溜することで造られるため、香りが豊かなことを特徴としている。オランダではジン造りが盛んだったため、蒸留所が作られたのだ。

ニューアムステルダムでは、子供も大人もビールを飲んでいた。安全な飲料水が不足していたため、その代わりにビールを飲んでいたのである。ビールと言ってもアルコール度数が0.5〜1.5%と非常に低いため、それほど酔うことはない。なお、酔いたい大人は、強いビール(アルコール度数が高いビール)を飲んだ。酒をよく飲んだため、ニューアムステルダムの料理は塩や香辛料がたっぷり入っていたと言われている。

ニューアムステルダムでは1日に3回の食事を摂ることが多かった。

朝食には、バターやチーズを塗ったパンやパンをスープに入れた「ソップ」を食べ、飲料水代わりのビールを飲んだ。

昼過ぎの食事はその日のメインディッシュだ。「ハットスポット(hutspot)」と呼ばれるニンジン、タマネギなどと肉、香辛料を入れたシチューがよく食べられたらしい。また、魚や果物も食べられた。マンハッタンの近くでは、動物はシチメンチョウやシカがたくさん手に入ったし、魚はシマアジやチョウザメが獲れたという。

夕食には、バターやチーズを塗ったパンやムギの粥、そして昼食の残り物などを食べた。冷蔵設備がなかったので、腐りやすい食べ物はその日のうちに食べなければならなかった。


ハットスポット(kalhhによるPixabayからの画像)

ニューアムステルダムでは朝昼晩の三食のいずれでもパンを食べており、食事には欠かせないものだった。様々なパンが作られていて、例えば、ロールパンやパンケーキ(今よりも厚くて固かったらしい)、固めの焼き菓子パンのプレッツェル、ワッフル、そして現代のドーナツの前身となる油で揚げたパンなどが売られていたという。

このようなパンがイギリス植民地のニューヨークに受け継がれて、現在食べられているようなパンケーキやワッフル、ドーナツなどが生まれたと考えられている。

豊かな植民地バージニア-独立前後の北米の食の革命(2)

2021-09-12 18:33:31 | 第四章 近世の食の革命
豊かな植民地バージニア-独立前後の北米の食の革命(2)
初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントン(任期:1790~1793年)は、北米におけるイギリスの最初の永続的な植民地となったバージニアの出身です。

また、第3代大統領でアメリカ独立宣言を書いたトーマス・ジェワーソン(任期:1801~1809年)と第4代大統領ジェームズ・マディソン(任期:1809~1817年)、第5代大統領ジェームズ・モンロー(任期:1817~1825年)もバージニア出身です。

このように、アメリカ初期の大統領の多くがバージニア出身なのには、バージニアがとても豊かな土地で、入植者たちがきわめて裕福だったという背景があります。

今回は、豊かな植民地バージニアの食について見て行きます。

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アメリカ合衆国をいくつの地域に分けるかについては明確な決まりは無い。歴史的にはイギリスの植民地の建設が東海岸から始まったことから、アメリカの東部を南北の2つに分けて、それぞれ「北部」と「南部」と呼び、1860年代から開拓された「西部」と合わせて、3つの地域に分けるやり方が伝統的に行われてきた。



バージニアは南部の中心とされてきた州で、この地のジェームズタウンがイギリス最初の永続的な植民地として1607年に104名の植民団によって建設された。植民の当初の目的は金や銀などの採取であったが、大した鉱山は見つからなかった。しかし、カリブ海からタバコを導入して栽培したところヨーロッパで人気を呼び、バージニアの一大輸出品に成長して行った。

1607年4月に建設されたジェームズタウンでは清潔な飲料水の確保が難しく、また湿地帯であったためマラリアなどにかかる者が多く、1年の間に60人以上が死亡した。植民地の最初期の指導者のジョン・スミスは銃で威嚇することでアメリカ原住民から食糧や飲料水を提供させ、生きながらえたと言われている。

ジョン・スミスが後に記した回顧録で「アメリカ原住民のポウハタン族に捕まり処刑されそうになったが、族長の娘ポカホンタスがその身を投げ出して彼のために命乞いをしてくれたために助かった」という話を書いた。これは美しい伝説となり、現在でも多くの教科書で取り上げられているらしいが、実際はスミスの作り話と考えられている。ちなみに、この伝説を元にしたディズニーのアニメ映画『ポカホンタス』が1995年に公開されている。

バージニアが植民地として軌道に乗るのは、1630年代にたくさんの人々がイギリスから入植してからのことである。彼らの多くは手に職を持った人たちで、新天地で生活すると土地をもらえるという話に魅せられてはるばるやって来たのだ。こうして1650年には約1万5千人もの人々がバージニアで生活するようになった。

金や銀が見つからなかったため、入植者たちはトウモロコシやタバコ、コメなどを栽培し、家畜を育てて生計を立てるようになった。ちなみに、北米でコメが最初に栽培されたのはバージニアで、その後稲作は南部全域、そして西部へと広がって行く。

バージニアは豊かな土地で、気候が温暖だったため作物が良く育った。そのため、タバコを始めとして農作物を大量に輸出できるようになった。そして、さらなる生産量の拡大を狙ってアフリカの黒人を労働力として利用するようになった。これが北米における黒人奴隷の始まりである。

さて、ここからバージニアなどの南部の伝統的な食について見て行こう。なお、南部は豊かな土地であったことから伝統的に料理が美味しい地域とされている。

南部の食材で代表的なものが「豚肉」だ。植民地を建築した頃のバージニアでは、スペイン人が放ったブタが野生化して群れをつくって生活していて、豚肉が簡単に手に入った。バージニアのブタは森の中で脂肪分たっぷりのピーナッツをたらふく食べるため、とても美味しくなったと言われている。このため南部は豚肉中心の食となった。

この美味しい豚肉を使って作られて来たのが「バージニアハム」だ。このハムは1640年頃から美味しいと各地で評判になった。中でもスミスフィールドという街で作られるバージニアハムが有名で、19世紀になると英国ヴィクトリア女王の御用達となった。

このハムは、ブタの肢を塩漬けし、ヒッコリー(クルミ料の木)の煙で燻製にしてから熟成して作られる。非常に塩辛く、食べる時には水で何度も塩抜きする必要があるという。塩抜きしたものは煮込んだり、フライパンで焼いたりして食べる。



バージニアなどの南部海岸近くの植民地では、海に出れば、様々な魚やカニ、エビ、貝などをたくさん捕まえることができた。このカニを使って作られる伝統的な料理に「クラブケイク」がある。これは、ほぐしたカニの身にパン粉とタマネギ、卵などを混ぜ合わせて丸め、ラードで揚げ焼きにしたものだ。バージニアの北隣のメリーランドの名物料理になっている。



南部の朝ごはんに食べるものとして有名なのが「ホットビスケット」だ。これは、小麦粉の生地にバターやラードなどの脂と塩・砂糖、そして重曹を加え、焼いて作った即席のパンのことだ。サクサクとした食感でハチミツなどをたらして食べることもあるそうだ。

感謝祭のはじまりの物語-独立前後の北米の食の革命(1)

2021-09-08 18:04:15 | 第四章 近世の食の革命
感謝祭のはじまりの物語-独立前後の北米の食の革命(1)
アメリカでもっとも大切な祝日の一つに、11月の第4木曜日の「感謝祭(Thanksgiving Day)」があります。感謝祭の翌日は「ブラックフライデー」と呼ばれ、ニュースでよく話題になるように、売れ残りの感謝祭のプレゼントが激安で売られる日になっていて、大勢の人がお目当ての品物を求めて殺到します。

感謝祭では「シチメンチョウ(七面鳥)」の丸焼きを食べるのが慣習になっています。また、丸焼きになるはずだったシチメンチョウにアメリカ大統領が恩赦を与えるセレモニーがホワイトハウスで開かれたりします。

感謝祭の起源は、1620年にメイフラワー号でイギリスから北米に渡ったピューリタン(清教徒)が1621年に開催した収穫祭だと言われています。
今回から、独立前後の北米の食のシリーズが始まりますが、初回は移住した清教徒たちの食生活について見て行こうと思います。


シチメンチョウ(ElstefによるPixabayからの画像)

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イギリス最初の永続的な植民地となったのは大西洋岸の南部バージニア州のジェームズタウンであり、1607年に105名の植民団によって設立された。
1620年にメイフラワー号でイギリスを脱出したピューリタン(清教徒)102名も当初はジェームズタウンを目指したのだが、船に積んでいた飲料水代わりのビール(エール)が尽きたため、現在のボストンにほど近いプリマスに上陸したと言われている。ニューイングランドの植民地の始まりである。

ピューリタンの移住者はいわゆる中産階級の人々で、農業や漁業、狩猟の経験が無かった。また、食べ物に対する融通性に乏しく、食べたことが無い食べ物を口にすることに抵抗があった。つまり、船で運んできた食料以外に食べられるものは少なく、やがて飢えに苦しむようになったのだ。

そうして12月に上陸した102名のうち約半数は春を迎えるまでに亡くなってしまった。特に女性はイギリスの食に対するこだわりが強かったため、29名のうち4人しか生き残らなかったと言われている。

それでも約半数が生存できたのはアメリカ原住民のおかげと言われている。彼らは移住者たちに食べ物を分けてくれたし、食べられる食材も教えてくれたのだ。アメリカは豊かな土地であり、森には食料となる動物や野鳥がたくさんいるし、ナッツやベリーなどの木の実も豊富だ。また、海岸に出ればクラムやムール貝がゴロゴロ転がっていた。

2021年の春になると、アメリカ原住民はトウモロコシの育て方を教えてくれた。トウモロコシは単位面積当たりの収穫量がコムギの約3倍になるほどの優秀な穀物だ。また、アメリカ原住民は1年に3回の収穫ができる栽培法を確立していたため、移住者の食糧事情は一挙に好転した。

移住者たちは11月になるとお世話になったアメリカ原住民を招いて収穫祭を開いた。これがアメリカの感謝祭の始まりだ。宴にはシチメンチョウなどの野鳥やシカ、ハマグリの料理や、トウモロコシの粉で作ったコーンブレッドなどが並んだと言われている。

さて、感謝祭のメインディッシュであるシチメンチョウであるが、英語では「Turkey(ターキー)」言い「トルコ」という意味になる。その当時のヨーロッパでは、オスマン帝国から伝わったものにTurkeyの名を付けることが多かった。オスマン帝国からはアフリカ原産のホロホロチョウがヨーロッパに持ちこまれ、これをTurkeyと呼んでいたのだが、シチメンチョウとホロホロチョウの見た目が似ていたため、両者を混同してシチメンチョウもTurkeyと呼ぶようになったのである。

感謝祭でシチメンチョウを食べる習慣はその後イギリスに持ちこまれたが、イギリスではクリスマスにシチメンチョウの丸焼きを食べるようになった。これが日本にも伝わったが、日本ではシチメンチョウが出に入らなかったため、代わりにチキンの丸焼きを食べるようになったのである。

さて、生き残ったニューイングランドへの移住者たちは、イギリスから運んできたムギ類やキャベツ、リンゴなどをアメリカの大地に植えて行った。また、アメリカ大陸にはいなかったミツバチを持ちこんで蜂蜜づくりを始めた。

さらに、移住者たちは海に出て漁業を始めたが、近くにタラの良い漁場があったため、干鱈が有力な輸出品になって行った。

一方、森には以前にスペイン人が持ち込んだブタがいたが、1624年になるとイギリスから乳牛が届き、ミルクと乳製品を口にできるようになった。このミルクがアメリカの海岸に生息する二枚貝のクラムと出会って誕生したのが「クラムチャウダー」だ。このクラムチャウダーはニューイングランド・クラムチャウダーとも呼ばれている。



その作り方は簡単で、肉厚のクラムをゆでてから刻み、それをたっぷりのミルクを加えたゆで汁に戻して、さいの目に切ったジャガイモとタマネギ加えて煮込むだけだ。

とても簡単な料理なので、日々の労働に追われていた家庭でも手軽に作ることができた。

もう一品だけミルクとアメリカの出会いで生まれた料理を紹介しよう。「コーンプディング」という料理だ。

これは、そぎ落としたトウモロコシの実をクリームの入ったミルクに投入し、溶き卵を加えて、固まるまで遠火でじっくりと焼き上げた料理だ。これも簡単な料理で、手間暇をかけることができなかった当時の状況が思い浮かぶ。

こうして、1620年にピューリタンが上陸して始まったニューイングランドの植民地は、大成功をおさめるようになったのである。

ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)

2021-09-06 18:00:24 | 第四章 近世の食の革命
ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)
ドイツはビール大国です。ビールの年間消費量は、国民1人当たり約100リットルで、日本人のおよそ2.5倍になります(日本人は38リットル)。ちなみに、ビールの個人消費量第1位はドイツの東隣のチェコで、約190リットルのビールを飲んでいます(いずれも2019年の統計)。

ローマ帝国の後に西ヨーロッパを支配したゲルマン民族は移動前からビールを飲んでいたと言われています。フランク王国となってキリスト教を国教としてからはワインもたくさん飲むようになりましたが、ブドウを栽培できないドイツ北部ではワインの代わりにビールの醸造が盛んに行われていました。

しかし現在では、ドイツ南部の都市ミュンヘンが「ビールの都」と呼ばれています。ミュンヘンでは、毎年「オクトーバーフェスト」と言うビール醸造の開始を祝う祭典が開催され、16日間の祭りの間に500万人以上の人が訪れると言われています。

どうして南部の都市ミュンヘンがドイツビールを代表する都市になったのでしょうか。今回は、その理由を中心に、ドイツビールの歴史をたどって行きます。なお、近世のミュンヘンはバイエルン公国の首都であり、バイエルン公の居城がありました。


(StockSnapによるPixabayからの画像)

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ミュンヘンはドイツビールの歴史を語る上で欠かせない都市だ。その理由の一つは、1516年4月23日に、この地を治めるヴィルヘルム4世(在位:1508~1550年)が「ビール純粋令」を公布したからだ。このビール純粋令はそれ以降改訂を重ねながら、現在のドイツでも遵守され続けている。

1516年に公布された最初のビール純粋令では、「ビールはオオムギ・ホップ・水の3つの原料以外を使用してはならない」とされた。そして1551年の改訂版では、3つの原料に「酵母(Hefe)」が加えられた。

ただし、顕微鏡によって酵母の姿がとらえられるのは1680年頃のことであり、ビール純粋令の改訂版が出された当時に、酵母の実体が明らかになっていたわけではない。実は、ビールを醸造すると次第に樽の底にたまって来る「粘着性のオリ」を「Hefe(酵母)」と名付けたのだ。これを次回の醸造に使用すると上手くビールが出来ることに気が付いて、改訂版で原料の一つとしたのである。この粘着性のオリが酵母の塊だったわけで、当時の人々が経験から導き出した真理と言える。

酵母が底にたまるということから、このビールは「下面発酵」で造られた「ラガー」だった。つまり、ビール純粋令は下面発酵のラガービールについて定められたもので、「上面発酵」で造る「エール」には適用されない。

ここで、ミュンヘンでラガービールが造られるようになった経緯について見て行こう。

中世のバイエルン地方ではワインが主に飲まれていた。上質のビールはバイエルンでは醸造されておらず、美味しいビールを飲もうとすると、北ドイツのハンザ同盟に所属する都市で造られたものを輸入するしかなかったのだ。これらの都市ではビール醸造業者のギルドがあり、高い技術が保持されていたのである。中でも、アインベックと言う街で造られたビールの評価は高く、バイエルン公も頻繁に取り寄せては楽しんでいた。そして、その代金は莫大なものになったそうだ。

節約と言う意図もあったと思われるが、バイエルン公は美味しいビールをたらふく楽しむために、バイエルンでアインベックに負けないようなビールを作ろうと考えたのである。そこで公布されたのがビール純粋令で、これによって劣悪な業者を締め出すことで、ビールの品質を向上させようとしたのだ。

このビール造りの情熱は、ヴィルヘルム4世の後の代にも引き継がれた。彼らもアインベック・ビールが大好きだったのだ。

ヴィルヘルム5世は、1591年にアインベック・ビール専門のビール醸造所ホーフブロイハウスを建設した。そして1612年に、その息子マクシミリアン1世がアインベックから醸造技師を招いたことで、やっと本家に肩を並べることができるビールを造ることができるようになったと言われている。

1618年になるとドイツを主戦場とした30年戦争(1618~1648年)が始まったが、これがミュンヘンのビール産業の一大転機になった。戦争の結果、ドイツ全土は荒廃し、バイエルン地方のブドウ畑も壊滅状態になったのだ。そして戦争が終わると、この地方ではブドウの代わりにオオムギが主に栽培されるようになり、ビールの醸造が盛んになる。ワインを造るよりも、ビールを大量に生産する方が儲かったからである。何と言っても、アインベックから連れてきた醸造技師のおかげで、高品質のビールを作ることができるようになっていたことが大きかった。

こうしてバイエルン地方は高品質ビールの一大生産地となり、その首都ミュンヘンビールの都と呼ばれるようになったのである。ちなみに、現代でもバイエルンの人々は他の地域の人に比べて2倍以上のビールを消費していると言われている。