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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

グルメでワイン好きのトーマス・ジェファーソン-独立前後の北米の食の革命(9)

2021-10-05 21:10:58 | 第四章 近世の食の革命
グルメでワイン好きのトーマス・ジェファーソン-独立前後の北米の食の革命(9)
1776年7月4日に開催された13植民地による大陸会議においてアメリカの独立宣言が採択されました。そのため7月4日がアメリカの独立記念日になりました。

この独立宣言は若干27歳のトーマス・ジェファーソン(1743~1826年)が起草し、いくつかの修正が加えられたのち採択されたと言われています。


トーマス・ジェファーソン

ジェファーソンはその後、バージニアの議員や知事、連合会議代表を務めたのち、1785年から1789年まで全権公使としてフランスに駐在しました。フランスでは公務のかたわら、フランス料理やフランスワインを楽しみ、また、農学研究にいそしんだと言われています。

帰国した彼はすっかりグルメで大のワイン好きになっていました。ワシントン大統領の国務長官に就任すると、彼はホワイトハウスのワインの調達を一手に担うようになります。そして1801年に大統領(在職:1801~1809年)に就任すると、ジェファーソンはホワイトハウスに2万本ものワインを保管するワインセラーを作りました。そしてディナーでは4〜6本のワインを毎日のように空けていたそうです。

彼がホワイトハウスにいた8年間で購入したワインは全部で1万ドルにもなったと言われていますが、今だといくらくらいになるのでしょうか。1ドル=1万円とも言われているので1億円くらいになるかもしれませんが、とにかくワインに莫大なお金をかけていたことは間違いありません。

ジェファーソンが最も愛したワインは、ボルドーのシャトー・ラフィットシャトー・ディケムと言われています。シャトー・ラフィットはボルドーの格付け筆頭のシャトーであり、シャトー・ディケムは最高峰の貴腐ワインで有名です。ジェファーソンはフランスにいる時にワインの飲み比べを行ってこの2つに行きついたということですが、ワインの良さをしっかり評価できたのでしょう。

なお、ジェファーソンが亡くなった時には莫大な借金が残されていたそうで、皆はフランスワインで作った借金だと噂したそうです。

さて、以降ではジェファーソンのアメリカの農業に遺した功績について見て行きます。

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ジェファーソンは、自分のアメリカ合衆国に対する最大の貢献は独立宣言の執筆に加えて、イネとオリーブを合衆国に導入したことだと述べている。実際のところ、多湿な気候の南部にはオリーブは根付かなかったが、合衆国の土壌と気候に適した作物を見つけようと努力したことは、彼の大きな功績だ。「有用な植物をその国の文化に加えることは最大の貢献である」というのが彼の信念だったのだ。

ジェファーソンの農場は実験農場のようなもので、89種330品種の野菜やハーブを栽培し、また果樹園やブドウ園では170品種の果物とブドウを育てたという。

しかし、その試みのほとんどは失敗したと言われていて、近所の人たちは彼のことをバージニアで最悪の農夫と呼んでいた。ところが、彼に言わせると失敗こそが重要で、失敗の経験をしっかり記録することで、二度と同じ失敗をしなくなるのである。

こうして彼は少しずつ栽培できる作物を増やして行った。毒があるなどと言われていたジャガイモトマトの栽培を行い、食用利用をいち早く始めたのもジェファーソンだった。また、ナス、カリフラワー、ブロッコリーなど、今ではアメリカでよく食べられている野菜を導入したことでも知られている。
彼は土壌の利用においても先進的だった。

当時の農場では肥料を使うことは一般的でなく、同じ作物を植え続けることで生産性低下すると、新しい農場を購入することが普通だった(土地代よりも肥料代の方が高かった)。こうして放置された農地からは土壌が風雨によって簡単に流出し、二度と耕作できない荒れ地になってしまう。

それに対してジェファーソンは、畑に肥料を施し、地力が極力落ちないようにトウモロコシ・ジャガイモ・カブ・ソラマメ・牧草などの輪作を行った。彼は土地が有限であることを理解していて、後世のために持続可能な農業を行おうとしたのだ。

ジェファーソンは農機具の改良を行ったことでも知られている。

彼の時代の土壌を掘り起こす犂(プラウ)は木でできた粗末な道具で、土壌の表面を少しだけしか掘ることができなかった。これだと、少しの大雨で土壌が流れ出してしまう。そこでジェファーソンは、先端に鉄製の刃をつけるとともに、土の抵抗の少ない形状をした新しいプラウを開発したのだ。このプラウを使うと、15cmの深さまで耕すことができた。そうすると、作物は深く根を張ることができて生産性が向上した。また、農地を平らにしたり、浅い溝を掘ったりすることが可能になり、土壌の流出を最小限に抑えることができたのだ。

彼はまた、いけすを作って魚やカニの養殖も行っている。彼は自分の農園内で自給自足の生活をすることを目指しており、当然のごとく、ワインやビールの醸造も行った。

彼が大統領ととして行った最大の仕事が、ミシシッピー川から西側のルイジアナの購入だった。その頃はスペインからフランスに所有権が移っていたが、ジェファーソンは黒人の反乱に苦しんでいたナポレオンから1500万ドルでルイジアナを買い取ったのだ。その結果、アメリカ合衆国の領土は2倍に広がった。

ルイジアナは動植物の宝庫であり、また、温暖な気候と豊かな土壌から作物の生産性が高かったため、合衆国の食糧庫として大きな役割を果たしていくことになるのである。

ルイジアナとケイジャン料理-独立前後の北米の食の革命(8)

2021-10-03 14:00:21 | 第四章 近世の食の革命
ルイジアナとケイジャン料理-独立前後の北米の食の革命(8)
ジャンバラヤという料理をご存知でしょうか。ジャンバラヤはアメリカ合衆国南部のルイジアナの伝統料理の一つで、肉と野菜などを炒めたものにコメとスパイスを加えて炊き上げた料理です。これに似た料理にスペイン料理のパエリアがありますが、実はジャンバラヤはパエリアを元に考案されました。


ジャンバラヤ

ルイジアナは元々フランス領でした。フランス領ルイジアナは全長約3800㎞のミシシッピー川の流域のほとんどを含むような広大な領域からできていました。その首都はニューオーリンズで、ミシシッピー川の河口に位置します。



フランスは現在のカナダにも大きな植民地を有していて、アカディアと呼ばれていました。しかし、イギリスとフランスが戦ったフレンチ・インディアン戦争(1754~1763年)でフランスがイギリスに敗れると、14000人ものアカディア人がカナダから追放されます。彼らの多くは南下してルイジアナ南部にたどり着きました。こうして移住してきたアカディア人によって考案されたのがジャンバラヤなどの「ケイジャン料理」です。

このような成り立ちから、ケイジャン料理はアメリカ料理の中でも異色なものと言われています。今回は、ケイジャン料理を中心に、アメリカ合衆国南部のルイジアナの食について見て行きます。

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フレンチ・インディアン戦争の結果、カナダのフランス植民地とミシシッピー川から東側のルイジアナ植民地はイギリスのものとなった。一方、ミシシッピー川から西側のニューオーリンズを含むルイジアナ植民地はスペインの領土となった。このスペイン植民地に、カナダを追放されたアカディア人が移住してきたのだ。この地域は外からの移住者を広く受け入れていたからである。

こうしてニューオーリンズなどルイジアナ南部の街は、フランス人(アカディア人)とスペイン人、そしてアメリカ先住民やカリブ海から移住して来た黒人が居住する国際都市として成長して行った。アカディア人が中心になって生み出したケイジャン料理も、このような様々な地域の料理が組み合わされて出来上がった国際料理だったのだ。

アカディア人は身の回りで手に入るものは何でも食べていた。カナダでは、肉と野菜の煮込み料理をよく作っていたという。また、北大西洋で獲れるロブスターやタラ、サーモンもよく食べていた。新天地でも、近くで獲れるカキ、カニ、ワニ、エビ、ザリガニ、ナマズなどの魚介類を使った料理を生み出した。つまり、ケイジャン料理は魚介類を中心とした料理であり、身の回りの食材を使うという比較的質素な料理だった。

特にザリガニ料理は有名で、今でもルイジアナの名物料理になっている。ザリガニ(クロウフィッシュ)はフランス料理でも一般的な食材であったが、ザリガニが豊富なルイジアナでは特に主要な食材になったのだ。現在では世界のザリガニの90%以上がルイジアナで消費されていると言われるほど、ルイジアナはザリガニ王国になっている。


ザリガニ料理

温かいルイジアナではイネの栽培が盛んであったため、コメを使ったガンボなどの料理もよく食べられた。また、カナダでよく食べられていたニンジンの栽培が難しかったので、代わりにピーマンがよく使われるようになった。これにタマネギとセロリを加えた「タマネギ・セロリ・ピーマン」はケイジャン料理の基本となる「三位一体(The Holy Trinity)」と呼ばれている。

ケイジャン料理は香辛料をたっぷり使うことでも知られている。主要となるスパイスが「カイエンペッパー」だ。これは赤く熟したトウガラシのことで、パウダー状にして使用する。このように、ピリッと辛いのがケイジャン料理の特徴でもある。

ケイジャン料理ではこれ以外に、ブラックペッパーやオレガノ、タイムなどを使用する。最近では、「ケイジャンスパイス」という名前で複数のスパイスを混合した商品が販売され、手軽にケイジャン料理の風味を楽しむことができる。

南部ではブタがたくさん手に入ったが、ブタのあらゆる部分は捨てることなく利用された。冷蔵庫が無かったので保存が効くソーセージなどがよく作られたが、その代表がブーディンと呼ばれるものだ。これは、豚肉にコメ、タマネギ、ピーマンなどを腸詰にして作られる。風味を増すためにブタの肝臓を入れるのが一般的で、現代でもよく食べられているという。

ルイジアナでは、ケイジャン料理のほかに「クレオール料理」という伝統料理がある。これはクレオールと呼ばれた上流階級の人々が食べていた料理だ。

18世紀にはニューオーリンズを支配していたフランスやスペインの上流階級の子孫がクレオールと呼ばれていたが、その後、カリブ海から移住してきた黒人やアメリカ先住民との子孫もクレオールと呼ばれるようになった。

クレオール料理もケイジャン料理と同じように国際色豊かな料理だが、上流階級の料理だったためクレオール料理の方が少し高貴で豪華な料理だ。クレオールは裕福であったため、料理には豊富な食材と調味料・香辛料が使われていたのだ。クレオール料理にはトマトが使われることが多く、これはケイジャン料理には見られない特徴だ。また、クレオール料理には南部では高価なバターが使われるのに対して、ケイジャン料理ではラードが使われることが多かった。

クレオール料理とケイジャン料理は時代とともに融合して行き、現代のルイジアナ料理が生み出されたと言われている。

紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(7)

2021-09-28 20:34:15 | 第四章 近世の食の革命
紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(7)
ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」はアメリカ独立戦争(1775~1783年)のきっかけとなった出来事としてとても有名な事件で、多くの教科書や書籍に取り上げられています。

この事件は、1773年12月に、マサチューセッツ植民地のボストンで先住民の格好に扮した植民地の人々がイギリス東インド会社の貨物船を襲い、積み荷の紅茶を海に投棄したというものです。翌朝たくさんの茶葉が海に漂っていて、それがティーポットのように見えたため、昨夜「茶会」が開かれたというジョークが生まれて「ボストン茶会事件」と呼ばれるようになりました。

今回は、紅茶が飲まれるまでの歴史とボストン茶会事件を中心に独立戦争が始まるまでのいきさつについて見て行きます。



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まずは茶(紅茶)の話から始めよう。

茶は中国が原産地で、最初は上流階級の飲み物だったが、唐代(618~907年)には知識人にも普及し始め、宋の時代(960~1279年)には一般庶民の間でも広く飲まれるようになった。一方、日本には遅くとも平安(794~1192年)の初期までに伝えられ、最初は貴族や寺院だけで飲まれていたが、室町時代(1336~1573年)になると茶屋などが発達し、一般庶民も茶をよく飲むようになった。

なお、今も昔も、中国や日本において一般的に飲まれる茶の大部分は「緑茶」だ。これは、摘み取った茶葉をすぐに熱処理したものだ。こうすることで茶葉に含まれる酵素が働かなくなる。一方、摘み取った茶葉に傷をつけたり、良く揉むなどしたりして酵素が働くようにすると、次第に独特の風味と渋みが生まれて来るとともに色が黒くなる。こうして作られたのが「烏龍茶」や「紅茶」だ。

16世紀になっていち早くアジアに進出して来たポルトガルは、中国や日本で「茶」に出会うことになり、その様子を本国に報告している。実際に最初に茶をヨーロッパに持ちこんだのはオランダの東インド会社で、1610年のことだ。茶と一緒に茶道具も中国や日本から輸入され、ヨーロッパにおける茶を飲む文化が始まった。なお、中国や日本にならって、この頃の茶はほとんどが緑茶だったと言われている。

オランダ東インド会社が運んできた茶は1650年代になるとオランダに加えてフランスやイギリスなどにも持ち込まれて、コーヒーハウスなどで飲まれるようになった。そしてコーヒーと同じように、砂糖を入れて飲むようなやり方も始まった。サフランを添えることもあったという。

1662年にイギリス王チャールズ2世に嫁いできたポルトガル王女キャサリンは、茶と砂糖、茶道具を持参し、イギリス王宮に茶を飲む文化を紹介した。こうして上流階級でも茶を飲む風習が広がって行った。この高まる需要に応えるために、1669年になるとイギリス東インド会社は独自に中国から茶の輸入を始めるようになった。

イギリス人が中国人と直接茶の取引を行うようになると、茶には緑茶の他に紅茶などの別の種類のものがあることが分かってきて、これらも飲まれるようになった。すると、タンニンが多くて濃い味の紅茶の方がイギリス人の嗜好に合ったようで、次第に紅茶の方が多く飲まれるようになって行った。そして、それとともに茶の消費量も増えて行った。

こうしてイギリスの上流階級(ジェントルマン)では、紅茶は無くてはならないものになって行くのである。もちろん、紅茶には砂糖をたっぷり入れて飲むのが英国流である。

海外のイギリスの植民地でも、上流階級の人々は本国のジェントルマンを真似て紅茶を飲むことを習慣としていた。紅茶だけでなく、その他の食事や飲み物、服装などの生活スタイルをジェントルマンに似せることがステイタスとなっていたのである。このため、イギリスから多くの生活必需品を輸入する必要があった。

このような状況で起きたのがヨーロッパの国々が戦った「七年戦争」(1754~1763年)だ。この戦争では、プロイセンとオーストリアの戦いに、イギリスはプロイセン側で参戦し、フランスとロシアはオーストリア側で参戦した。イギリスとフランスは北米でも戦い、これはフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)と呼ばれる。

北米での戦いはイギリスが勝利し、カナダやルイジアナなどのフランスの植民地のほとんどがイギリスの領土となった。しかし、この戦争での両国の出費は莫大なものとなり、それぞれの国の財政を大きく圧迫することとなる。

するとイギリス政府は戦争の支出をアメリカの植民地に負担させることを決定し、課税を強化した。例えば、1765年に印紙法と呼ばれる消費税のようなものを導入し、あらゆる物品から税を徴収した。また、イギリス本国の産業を保護するため、アメリカ植民地での経済活動を制限した。

当然、アメリカ植民地の人々は反発した。イギリスからくる商品の不買運動を行い、植民地内で生産される物品だけで生活する機運が高まって行ったのである。つまり、イギリスのジェントルマンのまねをやめて、アメリカ独自の文化を作る動きが始まったのである。

このような反発を受けてイギリス政府は印紙法を撤廃するが、1767年には再び茶や紙、ガラスなどに税金をかけるようになる。この時も植民地の人々の激しい反発に会って、ほとんどの税金を廃止したが、茶の税金だけは残ったのだ。

そうして1773年に起きたのがボストン茶会事件だ。この事件に対してイギリス政府は1774年に懲罰的な法律を施行し、イギリス政府と植民地の間の対立はますます深まって行った。そして同じ年にフィラデルフィアのカーペンターホールで、独立運動の嚆矢となる第一回大陸会議がジョージアを除く12植民地の代表によって開催されたのである。

南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(6)

2021-09-25 17:02:19 | 第四章 近世の食の革命
南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(6)
今回はアメリカ独立前の南部植民地の食について見て行きます。

独立時の南部植民地は、メリーランド・バージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアから構成されていました。すでにお話したように、バージニアがアメリカにおけるイギリス植民地の第一号で、1607年に最初の都市ジェームズタウンが作られました。そして、メリーランドは1632年にバージニアの北部を切り取る形で建設されました。

1660年のイングランドの王政復古で活躍した貴族たちに与えられたのがバージニアの南にあったカロライナ植民地で、1663年に建設されました。カロライナ植民地は1729年に南北に分割され、さらに1732年にはサウスカロライナの南部を分離することでジョージアが作られました。

以上のような南部植民地の最大の特徴は、「農業」を主体とした社会が作られたことです。南部の沿岸地帯は土壌が肥沃で、亜熱帯性の雨が多い気候だったため、農業を行うのに適していたからです。

このため、南部植民地には農業目的の移住者がたくさん集まってきました。また、大農園の経営者は労働力として、アフリカから連れて来られた大勢の黒人奴隷を利用しました。植民地時代には南部の人口の三分の一以上が黒人だったと言われています。

こうして、メリーランドとバージニアではタバコのプランテーションが行われ、ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアではコメインディゴ(藍色の染料)のプランテーションが盛んになりました。それが19世紀になると、大部分が綿花のプランテーションに置き換わります。綿花の方が儲かるようになったからです。

このように南部では黒人が多く暮らしていたため、アフリカから持ち込まれた作物が南部に根付きました。今回はこのようなアフリカ由来の作物を中心に、南部の食について見て行きます。

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南部植民地では白人のほとんどが大農園の経営者か自作農だった。大農園の経営者は広大な農地を所有し、プランテーションによって莫大な富を得られたことからとても裕福で、政治的な権力も有していた。彼らが目指したのは本国イギリスの貴族のような生活だった。イギリス貴族と同じような大きな邸宅を建て、豪華な料理とヨーロッパから取り寄せたワインを楽しんだ。料理をしていたのは主に黒人の女性奴隷で、料理を作るのがとてもうまかったからだと言われている。

黒人奴隷がアフリカから一緒に持ってきた食材に「オクラ(okra)」がある。オクラはアフリカ北東部が原産地で、その栽培は紀元前12世紀頃にエチオピアで始まったと考えられている。その後、アフリカの西部にも栽培が広がって行った。また、2000年ほど前にはエジプトでも栽培が始まった。エジプトにはトマトスープでオクラを煮た伝統料理がある。



南部植民地では、黒人奴隷は故郷の料理を真似てオクラ料理を作り始めた。西アフリカではオクラは様々なスープやシチューに使われることが多く、同じような料理を作り始めたのだ。また、オクラをぶつ切りにして、トウモロコシの粉をまぶしてフライにした「オクラフライ」という料理も考案され、南部の名物料理になっている。

スープやシチューにオクラを使うと汁にとろみが加わり、料理に厚みが出る。南部ではこのようにとろみのあるスープやシチューが次第に定着して行き、現代でも伝統料理としてよく食べられている。

なお、このようにとろみのあるスープやシチューはオクラが入っていなくても「ガンボ(gumbo)」と総称されるようになった。ガンボは、アフリカ西部でのオクラの呼び名の「キンゴンボ」に由来するとされる。


ガンボ(Jon Sullivan による Pixnioからの画像)

ガンボはご飯にかけて食べるのが普通だ。実はこのご飯(コメ)もアフリカから南部植民地に持ちこまれたものだった。

あまり広く知られていないが、イネは大きく分けてアジアイネ(Oryza sativa)とアフリカイネ(Oryza glaberrima)の2種類がある。このうちアジアイネは約1万年前に中国原産の野生種から栽培化されたと考えられている。一方のアフリカイネは、約3000年前にアフリカ東部原産の別の野生種を栽培化することで誕生したとされる。

アフリカイネはその後アフリカの西部に広がるとともに、品種改良が行われることによって多様化して行ったことが最近の研究から明らかになっている。そのうちの一品種が黒人奴隷とともに南部植民地に運ばれたのだ。その後コメ作りはカロライナの大きな産業となり、17世紀の終わりには、海外に向けて大量に輸出されるようになった。

ただし、アフリカイネからとれるコメはアジアのコメに比べて扱いづらいという特徴がある。アジアのコメは強度があるため機械で精米しやすく、大規模な生産が可能であるのに対して、アフリカの米は粒が割れやすいため、手作業で精米しなければならないのだ。このような特徴から、アメリカにおけるアフリカイネの栽培は時代が進むにつれてアジアイネに取って変わられてしまったのだ。

なお、最近では、アフリカイネとアジアイネを交配することで、乾燥に強いというアフリカイネの特長と、扱いやすいというアジアイネの特長を持った新品種のイネが開発され、アフリカなどで栽培されている。

ペンシルベニア・ダッチの食-独立前後の北米の食の革命(5)

2021-09-22 22:42:31 | 第四章 近世の食の革命
ペンシルベニア・ダッチの食-独立前後の北米の食の革命(5)
今回はアメリカ独立戦争(1775~1783年)を戦った13植民地のうち、ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルベニア・デラウェアから構成される「中部植民地」の食について見て行きます。

ハドソン川とデラウェア川流域に築かれた中部植民地は穀物の生産性が高く、カリブ海やヨーロッパに食料を輸出することで栄えていました。

この中部植民地の中でペンシルベニアはアメリカの独立運動が始まった地であり、アメリカの歴史をリードしてきた、とても重要なところです。

独立運動の実質的な始まりは、1774年に11植民地の代表がペンシルベニアのフィラデルフィアにあるカーペンターホールに集まり、「権利の宣言」などを決議したことだとされています。そして1776年に、フィラデルフィアにある独立記念館(Independence Hall)で独立が宣言されました。フィラデルフィアは1790年から1800年まで、合衆国の首都にもなりました。

ペンシルベニアという名前は、この地の所有者だったイギリス人ウィリアム・ペンにちなんで名づけられました。彼は他国民や原住民に寛容な社会を目指したため、ペンシルベニアにはイギリス人に加えて、オランダ人やスウェーデン人、そしてドイツ人などが移住してきました。中でも「ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)」と呼ばれたドイツ語圏の人たちは、手工業などの分野で様々な技術を持っていたため、植民地の中でとても活躍しました。なお、「ダッチ」はオランダのことではなく、その当時はドイツ人(Deutsch)を意味していました。

今回は、このペンシルベニア・ダッチの食を中心に見て行きます。

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ペンシルバニア・ダッチの人々は食べることが大好きだ。腹いっぱい食べることを身上としており、食べ残すよりも胃袋が破裂する方を良しとする。このため普通は捨てられる豚肉などのくず肉を使った料理「スクラップル(Scrapple)」が開発された。

その作り方は次の通りだ。

ブタの頭や心臓、肝臓、その他の切れ端を、骨の付いた状態で茹でてスープを取る。肉は骨と脂肪を取り除いて取っておく。スープで乾燥させたトウモロコシを粉にしたコーンミールを煮てペースト状にする。肉もつぶして同じ鍋に戻し、セージやタイム、黒胡椒等の調味料を加えたのち、大きなカマボコのように形を整える。冷やして固めれば出来上がりだ。食べる時には薄く切り、フライパンなどで焼く。


スクラップル(Garrett Zieglerによるflickrからの画像)

スクラップルの原型はローマ時代以前にさかのぼると言われており、一部のペンシルベニア・ダッチがペンシルベニアに持ち込んだと言われている。植民地が始まるとすぐに人気が出て、中部を代表する料理となった。

ジョージ・ワシントンもベンジャミン・フランクリンも、独立運動でフィラデルフィアに滞在していた頃は、このスクラップルを何度も食べたと言われている。現在中部ではスクラップルを朝食に食べるのが普通で、朝食付きのホテルに泊まると必ず出てくるらしい。

スクラップのように、ペンシルベニア・ダッチの人々は豚肉をよく食べる。元旦には、この一年が良い年になりますようにという願いを込めて「グッドラック・ポークアンドザワークラウト(Good luck pork and sauerkraut)」という料理を食べる習慣がある。

この料理は、ローストした豚肉をザワークラウト、タマネギ、ニンジン、スパイスなどとともにじっくり煮込んだものだ。


グッドラック・ポークアンドザワークラウト

また、ペンシルベニア・ダッチの人々は甘いものも大好きだ。その代表が「アップルバター(apple butter)」だ。

アップルバターは、すりつぶしたりんごをアップルサイダー(リンゴジュース)や水、砂糖、クローブやシナモンなどのスパイスと一緒に長時間かけて煮込むことで、りんごの糖分がカラメル化して濃い茶色になったものだ。バターの名が付いているがバターは含まれておらず、とろりとした状態がバターに似ているため、そう呼ばれる。リンゴの糖分が濃縮されているためとても甘く、保存性も高い。アップルバターはパンに塗ったり、調味料として料理に加えたり、焼き菓子の材料として使われたりすることが多い。

アップルバターのルーツはドイツ北西部・ベルギー北東部・オランダ南東部にまたがる地域であり、中世に修道院が考案したとされている。ただし、このアップルバターにはスパイスがほとんど入っておらず、ペンシルベニアのものとは少し異なっている。このようにスパイスをよく使用するのもペンシルベニア・ダッチの特徴と言われる。


アップルバター(cgdsroによるPixabayからの画像)

ペンシルベニア・ダッチの人々は、祝い事では7つの甘味と7つの酸味を出すことが伝統となっており、アップルバターはその定番となっている。

すっぱい料理として代表的なのが「ゆで卵とビーツのピクルス(Pickled beet eggs)」で、祝い事の食事の前菜として供されることが多い。これは、ゆで卵とビーツを酢、砂糖、クローブで作ったつけ汁に漬けたものだ。赤紫色がお祝いの特別感を醸し出している。