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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ラクダとベドウィン-イスラムのはじまり(2)

2020-09-30 22:49:43 | 第三章 中世の食の革命
ラクダとベドウィン-イスラムのはじまり(2)
アラビア半島の面積は約260万平方kmで、世界最大の半島である。ほとんどの地域は一年中乾燥しており、河川はほとんどが枯れている。半島の約三分の一は砂漠で、中でも南部に広がるアラビア半島最大のルブアルハリ砂漠の面積は約65万平方kmで、日本の総面積の約38万平方kmよりもずっと広い。

アラビア半島の紅海沿岸地域は「ヒジャーズ」と呼ばれ、山脈が連なっており比較的降雨に恵まれている。このヒジャーズ地方にイスラムの二大聖地であるメッカとメディナがある(下図参照)。



ヒジャーズ地方では古くから農耕が行われており、ナツメヤシなどが栽培されていた。また、アラビア半島南部で産出される香料である乳香をエジプトなどに運ぶための中継地になっていた。乳香はカンラン科の木の樹液が固まったもので、乳白色をしていることからこの名前が付いた。乳香は高貴な香りがすることから、古代エジプトやユダヤ教では神にささげる神聖な香として用いられた。

アラビア半島に住む人々はアラブ人と呼ばれ、「ベドウィン」と言われる遊牧民と商人が主である。アラブ人の言葉はユダヤ人のヘブライ語と似ており、アラブ人とユダヤ人は同じセム族に属していたと考えられている。イエス・キリストが話したと言われているアラム語もセム族の言葉の一つである。

また、イスラム教では旧約聖書も新約聖書も神の言葉を記した書(啓典と呼ぶ)であり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神を信仰していると言っても間違いではない(この話は次回に詳しく触れることにします)。

さて、ベドウィンはヒツジやヤギ、ラクダを飼育する遊牧生活を送っていた。食用としてはヒツジが特に重要で、旧約聖書ではヒツジとハトを神にささげている。アラブ人にとっては、客にヒツジを丸々一頭ふるまうのが最大級のおもてなしとされているらしい。そして客は目玉を丸呑みするのが礼儀と言う。

アラビア半島の家畜としては、やはりラクダが特徴的だ。ラクダは乾燥に強く、砂漠ではラクダは必需品となる。最近の研究によると、地中海東岸部でラクダが家畜化された時期は紀元前10世紀頃ということである。



ラクダにはヒトコブラクダとフタコブラクダがいるが、アラビア半島にいるのはヒトコブラクダの方だ。一般的にヒトコブラクダの方が暑さに強いと言われている。このコブの中には水が入っていると思っている人もいるが、これは間違いで、ラクダは水を飲まなくても数日間は生きられるために、このような俗説が生まれたと考えられている。

実は、ラクダのコブの中に入っているのは脂肪だ。この脂肪が水の元になっている。脂肪を分解してエネルギーを生み出す時に一緒に水ができるのだ(脂肪中の水素原子に呼吸で取り込んだ酸素が結合することで水ができる)。ラクダはこの水を利用している。

同じように渡り鳥も脂肪を分解することで水を得ている。渡り鳥は渡りをする前にエサをたくさん食べて体脂肪量を増やす。一般的に遠くまで渡りをする鳥ほど体脂肪率は高くなる傾向にある。中には数千キロの距離を飛び続ける渡り鳥もいるが、脂肪を分解してエネルギーと水を生み出すことで休むことなく飛び続けることができるのだ。

ラクダにはコブ以外に水不足に強い仕組みがある。それが血液や体液の中に水を貯える仕組みだ。たいていの哺乳類は大量の水分を摂取すると、血液や体液の浸透圧が低下して体の機能が低下する「水中毒」が起こる。ところがラクダの体は低浸透圧にも耐えられるようになっているのだ。ラクダは水が飲める時には何十リットルもの水を飲んで体の中に貯えることで水が飲めない時に備えている。

このように乾燥に強いだけでなく、ラクダの体は砂漠で活動するために様々な進化を遂げている。足の裏は大きく平たくなっていて、歩く時に砂に埋まらないようになっている。また、砂を吸い込まないように鼻の穴を閉じることができるし、まつ毛は二重になっていて砂が入りにくくなっている。このまつ毛のおかげで人間を見下したような独特の目つきになるが、ベドウィンはその理由をラクダの方が人間よりアッラーのことをよく理解しているからだとしているらしい。

ラクダは移動手段だけでなく、食肉としても利用されるし、乳もそのまま飲まれたりヨーグルトにして食べられたりする。ラクダの乳は脂肪分が少ないため、チーズやバターにはなりにくい。なお、ラクダはハラール(イスラム法で許された行いや食べ物)であるため、食べても良いことになっている。

ベドウィンはラクダに乗ってヤギやヒツジを飼育する遊牧生活を送ったり、交易品を運んだりしていた。そして、点在するオアシスで農耕や商売をする人々と物品のやり取りをしたのだろう。こうした生活が繰り広げられていたアラビア半島でイスラム教が生まれるのである。

2つの古代ペルシア帝国ーイスラムのはじまり(1)

2020-09-28 23:10:55 | 第三章 中世の食の革命
3・1 イスラムのはじまりと食
2つの古代ペルシア帝国
古代オリエントの時代になるが、西アジア(中東)の歴史を分かりやすくするために古代ペルシア帝国についてまず見て行こう。

古代ペルシア帝国は、イラン高原の南西部のペルシア州(現在のファールス州)(下図参照)を拠点としていたペルシア人が建てた2つの帝国のことを指す。1つ目のペルシア帝国はアケメネス朝ペルシア(紀元前550~前330年)で、もう1つがササン朝ペルシア(226~651年)である。



紀元前7世紀頃にアーリヤ人の一部がペルシア州に進入し、ペルシア人となった。ペルシア州は高度が1000メートル以上の高原地帯で、降水量が少ないため自然の降雨を利用した農業である天水農業では十分な作物を育てることができない。そこで開発されたのが「カナート」と呼ばれる灌漑設備である。

カナートについては以前に「ペルシアの新しい灌漑技術」で紹介したが、山麓部の水を地下水路によって耕作地まで運ぶものだ。ペルシア人は主に牧畜を行いながら農耕でコムギやナツメヤシなどを栽培していたようだ。
「ペルシアの新しい灌漑技術」はこちら

もともとペルシアは中東の中では小国にすぎず、イラン高原全域を支配していた大国のメディアに服属していた。ところが紀元前550年にメディアを滅ぼすと、さらにメソポタミアを支配し、紀元前525年にはエジプトを併合してオリエントを統一した(下図参照)。



その後アケメネス朝ペルシアはギリシアの征服を目指してペルシア戦争(紀元前500~前449年)を始めるが、マラトンの戦い(紀元前490年)などで敗れ、最終的にギリシアと和平条約を結ぶことでペルシア戦争は終結した。しかし、それ以降もギリシア征服のために干渉を続けた。

ところが、王族内で後継者争いが起こるなどして国力が低下したところに、ギリシア・マケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)(紀元前356~前323年)が攻め込んできた。紀元前331年にアレクサンドロス軍とペルシア軍はチグリス川上流のガウガメラで一大決戦を行い、アレクサンドロス軍が勝利した(ガウガメラの戦い)。アレクサンドロス3世はペルシアの中枢都市ペルセポリスを制圧し、また、逃げたペルシア王が部下に殺された結果、アケメネス朝ペルシア帝国は滅亡した。

その後、アレクサンドロス3世が急死すると、彼の征服した地はマケドニアの後継者によって分割統治されることとなった。イラン高原を含む中東の分割統治地域は紀元前312年にセレウコス朝と名乗った。

その後の紀元前2世紀頃には、セレウコス朝に属していた遊牧民族の国家であるパルティアがイラン高原を支配した。パルティアはギリシアの文化や制度を引き継ぐが、ローマとの抗争によって次第に弱体化した。

紀元後226年、農耕民族を母体とするササン朝ペルシア(226年~651年)がパルティアを破って中東を支配する。ササン朝はペルシア州を起源とすることから、アケメネス朝の正統な継承者であると主張した。

ササン朝はイラン高原に加えて230年にはメソポタミアを征服し、621年にはエジプトや地中海西岸域を含む広大な地域を支配下におさめた(下図参照)。



ササン朝はローマ帝国や東ローマ帝国、そしてそれを引き継いだビザンツ帝国と領土をめぐって長期間にわたって何度も激しく争った。この戦いによってメソポタミアから東地中海を結ぶ交易路が大きなダメージを受ける。

商人たちは戦乱を避けるためにアラビア半島南部を通る迂回路を使用するようになり、この結果ムハンマドが活動していたメッカなどが栄えることになる。そして、ムハンマドによってイスラム教が創始された。7世紀にアラビア半島に勃興したイスラム勢力は651年にササン朝ペルシアを滅ぼした。

ここでペルシア帝国の食について見ておこう。
イスラム教以前のイランの料理の記録は少ししか残っておらず、そのほとんどが宮廷料理についてだ。この料理の特徴としては、以前に支配していたギリシアの食文化や周辺のインドやオリエントなどの食文化の影響を受けたものだった。

ペルシア人たちはニワトリの肉と卵がとても好きだったようだ。ニワトリや家畜の肉は主に焼いて食べていた。ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としたが、この宗教は火をあがめており、肉を焼くことには儀式的な意味もあったようだ。

ギリシアからはブドウが持ち込まれており、かなり大掛かりな施設でワインの醸造を行っていた。ササン朝時代の銀製の豪華なワインの盃が現在に伝えられている。また、コメ、タマネギ、挽肉や香味野菜などを混ぜたものをブドウの葉で包んだ料理の記録が残っている。この料理はトルコで現在も食べられており「ドルマ」と呼ばれている。

       ドルマ

ペルシアでは、熱い料理と冷たい料理を同時に食卓に出す風習があったが、これもギリシアの医学理論に基づいていたと考えられている。

一方、インドからはサトウキビが持ち込まれており、砂糖を使った菓子などが作られた。また、インドから入ってきたものだと思われるが、コショウ・ターメリック・シナモン・サフランなどの香辛料が料理の調味料として使われていた。コメをつぶした料理(餅のようなもの?)の記録もある。また、牛乳を使った料理も食べられた。

これ以外に、小麦粉でとろみをつけた野菜のスープや鶏肉のマリネ、肉と穀物をすりつぶしてペースト状にした料理などが人気だったようだ。

第三章 中世の食の革命

2020-09-26 18:31:27 | 第三章 中世の食の革命
第三章 中世の食
中世の世界へ
今回から中世の世界の食について見ていく。ここで中世について概観してみよう。

「中世」と言う言葉は、もともと17世紀のヨーロッパの歴史学者が言い出したもので、ローマ時代を「古代」とし、ルネッサンス以降を「近代」として、その間をつなぐ時代が「中世」となる。このような形で時代を区分する根底には、ギリシア・ローマ時代の古典文化がヨーロッパ文化の基礎となっており、古典文化の復活(ルネッサンス)を素晴らしいものととらえる考え方があった。そして中世とは、素晴らしい2つの時代に横たわる「暗黒時代」とみなされたのである。

実際にヨーロッパの中世には目立った文化芸術作品は多くは生み出されなかった。しかしこの時代は、ギリシア・ローマ時代の古典文化とキリスト教の文化、そしてゲルマン民族の文化が融合することによって、現代のヨーロッパ文化の基礎が形成されて行く大切な時期である。例えば「ローマ法王」もこの時代に誕生する。

また、11世紀になって農耕技術が飛躍的に発展すると、耕作地が大きく拡大し、食料生産量も増加した。その結果、ヨーロッパの人口は大幅に増えた。ちなみに、現在耕作されているヨーロッパの農地のほとんどが中世に作られたものである。

西アジア(中東)に目を向けると、イスラム勢力の勃興と拡大という大きな出来事が起こる。ムハンマドが610年頃にイスラム教を創始すると、イスラム勢力はまたたく間にアラビア半島の主要部分を統一し、さらに数十年の間にペルシア、シリア、メソポタミア、エジプトなどへと拡大した。8世紀になると、イスラム勢力はインド西部や北アフリカ、イベリア半島をも支配することになる。このような征服活動によって、ムスリム(イスラム教信者)とヨーロッパを含む各地の人々との交流が盛んになった。



イスラム・ヨーロッパ間の交流をさらに活発化したのが十字軍遠征だった。もともと聖地エルサレムを奪還するために開始された十字軍であったが、この遠征は多数のヨーロッパ人に豊かなイスラム世界を知らしめることとなった。その結果、ヨーロッパとイスラム世界との交易が盛んになり、経済が活発化するとともに交通網も整備されていった。さらに、この交易は物資面だけでなく文化面においても大きな影響力を発揮する。

ムスリム商人は様々な物資を携えて各地を巡ることによって、他国の異文化を各地にもたらしたのである。この異文化は現地の既存の文化と融合することによってヨーロッパを含む様々な地域で新しい文化が芽生えることとなる。ヨーロッパの近代科学もイスラムとの文化交流によって誕生した。

一方、中国では、唐が滅ぶとそれぞれの地域で独自の文化を持った国家が建てられた。この変動期を経たのちに新しい統一国家である宋が960年に誕生する。中国では、唐朝の末期から商業の規制が緩んだことから商業が活発化していた。さらに、次の南宋の時代には中国南部で農地の開発が進み、コメやシルクを中心とした商業が大発展する。その結果、中国商人の海外進出も盛んになり、シルクや陶磁器、銅銭を船に乗せて世界の各地に輸出を行った。

13世紀にモンゴル帝国がつくられると、中国からヨーロッパまでのユーラシア大陸の全域に及ぶような交易網が整備された。その結果、東西の物資と文化の交流は盛んになった。ヴェネツィアのマルコ・ポーロが中国を訪れたとされるのもこの頃である。

東西の交易網で大活躍したのもムスリム商人だった。モンゴル帝国はチンギス・ハーンの子孫たちが治める地方政権の集合体となるが、そのうちのいくつかの国の君主はイスラム教に改宗した。交易と布教活動のセットがイスラムのやり方だった。

以上のように、ヨーロッパ・中東・アジアで新しい国家が誕生し、それらが活発に交流し合うのが中世の特徴である。この中世の時代には食の世界にも大きな変革が生まれた。この変革についてこれから見ていきたいと思います。