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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)

2020-10-13 23:23:18 | 第三章 中世の食の革命
イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)
古代における高度な文明と言うと、第一にギリシア文明があげられる。古代ギリシアの文明はローマ帝国においても模範とされていた。このギリシア文明を受け継ぎ、さらに発展させたのがイスラム帝国である。

ギリシアにおいて文明の担い手となった学者たちはお互いに切磋琢磨しながら、自らの専門とする道を極めて行った。例えば、哲学者のソクラテスやプラトンは現代でも多くの人にその名が知られており、またプラトンの弟子である哲学者・自然科学者のアリストテレスは万学の祖とも言われる。一方、ヒポクラテスは「医学の父」と呼ばれ、「人生は短く技術は長い」という彼の言葉はとても有名である。この「技術」を「芸術」に置き換えた言葉「人生は短く芸術は長い」は、誤訳によって生まれたものと言われている。

このような高度な学問が醸成される上で、学者同士の対話や議論、そして教育はとても重要である。プラトンが紀元前387年に創設した学園「アカデメイア」はまさしくこのような役割を担っていた。アリストテレスもアカデミアで学んだ一人であり、多くの優秀な学者を生み出した学問のメッカだった。

アカデメイアはギリシアがローマによって征服されたのちも存続したが、ローマ帝国がキリスト教を国教にしてからしばらくすると、キリスト教の思想以外を教える学校の閉鎖政策によって529年に約900年の歴史に幕を閉じた。その結果、多くの学者は活動する場所を失ってしまったのだが、そんな彼らを受け入れたのがササン朝ペルシアだった。ササン朝はチグリス川流域の首都クテシフォンの近くのグンデシャープールに哲学や医学、科学の研究施設を設立して彼らの活動を援助した。この施設では、ギリシア人以外にインド人や中国人の医者や学者、技術者が招かれて研究が行われていたと言われている。

640年頃にイスラム勢力によってグンデシャープールが征服されるが、その後もこの研究施設は生き延びた。そしてアッバース朝になると、首都バグダードに新しく設立された学院に統合されたようだ。こうしてイスラム帝国ではバクダードが学問の中心となる。

アラビア半島から出てきたアラブ人が出会った新しい学問には、哲学や論理学、幾何学、天文学、医学、博物学、地誌学、植物学、錬金術などがあった。このような新しい学問を広めるために、ギリシア語からアラビア語への翻訳が盛んに行われた。中でも、第7代カリフのマアムーン(在位:813~833年)は「バイト・アル=ヒクマ(智恵の館)」と呼ばれる大きな図書館を備えた研究施設をバクダードに作り、たくさんの科学者を集めて翻訳と研究を行わせた。こうして10世紀から11世紀には、イスラムの科学は空前の発展を遂げた。

その中で、食にも関係ある化学の分野について見て行こう。

化学は、安い金属(卑金属)を金に変えようとした「錬金術」から生まれた。錬金術は古代ギリシアや古代エジプトで生まれたと考えられており、その起源はかなり古い。この錬金術がイスラム帝国で大きく発展し、「化学」と呼べる学問が誕生するのだ。

錬金術師たちはさまざまな物質について実験を繰り返し、酸やアルカリなどの単離などに成功している。このような化学技術の中でも「蒸留」技術の進歩は、食の世界で特に重要である。なお、蒸留についてはインダス文明やメソポタミア文明においても知られており、技術的には古くからあるものだったが、イスラム帝国において技術的に確立するのだ。

8世紀の錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーンは金や白金を溶かす王水(塩酸と硝酸の混合物)を考案したことで有名だ。また彼はアランビックと呼ばれる蒸留装置を考案したと考えられている。


     アランビック

9世紀には錬金術師のアル=キンディがアルコールを初めて蒸留したと言われている。また、彼は、バラの花からバラの香りを含んだオイルを蒸留によって精製する方法についても記している。彼の本には100を越える香水の調合法が紹介されている。

そして11世紀になって、コイル状のパイプを用いた冷却槽が発明され、効率よく蒸留が行えるようになった。パイプの中に水を流すことで、アルコールの蒸気などを急速に冷やして液体にすることができるのである。

やがて、イスラムの科学はヨーロッパに伝えられることになり、ヨーロッパの科学が発展する要因の一つとなった。蒸留技術もヨーロッパで広がり、ブランデーなどの蒸留酒が作られるようになる。

ところで、アラビア語で錬金術を意味する「al-kīmiyā」は英語の錬金術「alchemy」の語源となっており、ここから「al」が取れて「chemistry(化学)」という言葉が生じた。「al」は英語の「the」に相当するアラビア語の定冠詞で、「アルコール(alcohol)」は「さらさらしたもの」を意味するアラビア語の「アル=コホル(al-khwl)」が語源とされる。

このように、イスラム科学の歴史的な重要性は明らかのように思えるが、欧米ではイスラムの科学の重要性は過小評価されているようである。

アッバース朝と交易路の発達-イスラムの隆盛と食(1)

2020-10-10 18:39:46 | 第三章 中世の食の革命
3・2 イスラムの隆盛と食
アッバース朝と交易路の発達-イスラムの隆盛と食(1)
今回は、イスラム帝国の最盛期であるアッバース朝のお話です。この王朝期には中国とイスラム帝国を結ぶ広大な交易路が完成し、豊富な物資が東西を行き来しました。そして、この頃は、食文化を含む様々な文化が世界規模で伝わった時代でもあります。

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ウマイヤ朝はアラブ人のための国家であり、同じイスラム教徒でも非アラブ人には満足のゆく世界ではなかった。例えば、アラブ人なら免除されていた人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)などの税が非アラブ人には納める義務があり、かなりの負担になっていた。これは「ムスリムは平等」というイスラムの教えにも反しており、非アラブ人には政府に対する不満がたまっていた。

一方、シーア派はずっとウマイヤ朝と対立を続けており、また、人々の間にもムハンマドの子孫がカリフを務めるべきだという考えが根強くあった。

このような状況をうまく利用して反乱を成功させたのが、ムハンマドの叔父の子孫のアッバース家である。彼らの戦略は巧妙で、自らは先頭に立たずに「皆がふさわしい人を指導者に」というスローガンを広めることで人々を反乱へと誘導した。シーア派にしてみれば、アッバース家に協力して王朝転覆が成就した暁には、ムハンマドの娘婿アリーの子孫がカリフになるはずであった。

こうしてイラン東部で蜂起した反乱軍はウマイヤ軍を破りながら西進し、749年にイラクの州都であるクーファを占領した。そして翌年には、アブー・アルアッバース(在位:750〜754年)がカリフとなった。アッバース朝(750〜1258年)の始まりである。

ウマイヤ朝打倒に協力したシーア派であったが、当初の目論見どおりには行かなかった。アッバース朝は政権を安定化させるために多数派であったスンニ派と手を結び、シーア派を厳しく弾圧するようになったのだ。そのため、アリーの子孫であったイドリースは北アフリカ西部のモロッコに逃げ延び、そこでイドリース朝(788~985年)を興すことになった。これがシーア派最初の王朝である。

また、ウマイヤ家の王家の一人だったアブド・アッラフマーンもイベリア半島に逃げ延び、独自の王朝である後ウマイヤ朝(756~1031年)を開いた。

アッバース朝の話に戻ろう。

ウマイヤ朝はアラブ人だけを優遇するアラブ人のための国家であったが、アッバース朝ではイスラム教徒(ムスリム)の全員に地租(ハラージュ)だけを課すようにして、イスラム教徒であればみな平等という政策をとった。このようにアッバース朝はアラブ人のための国ではなく、イスラム教徒の国と言えることから「イスラム帝国」と呼ばれることが多い。

アッバース朝は、ウマイヤ朝時代の北アフリカ西部やイベリア半島を失ったが、東は唐と国境を接するところまで進出する。そして、751年に唐との間で「タラス河畔の戦い」が起きた。この時にアッバース軍が捕虜とした唐軍の兵士の中に製紙技術を有する職人がいて、イスラム世界に製紙技術が伝わることとなった。この結果、アッバース朝では製本が盛んになり、現存する最古の料理本である『キタブ・アル=タビク(Kitab al-Tabikh)(料理の本)』を始めとするたくさんの料理書も出版された。

なお、製紙技術はその後イスラム勢力の支配地内を西進し、北アフリカを通って12世紀にはイベリア半島に伝えられ、14世紀にはヨーロッパ全域で紙の製造が始まることになる。

イスラム教では商売が奨励されており、アッバース朝の成立前後からアラブ人やイラン人などのムスリム商人による交易が盛んになった。彼らは中国やインド・東アジア、アフリカ、ビザンツ帝国などに出向いて交易を行うと同時にイスラム教を布教した。

ムスリム商人は中国からは陶磁器・絹織物などを、インド・東アジアからは香辛料・香料などを、アフリカからは金・奴隷などを、そしてビザンツ帝国からは絹織物などをイスラム世界にもたらした。これ以外に食品では、インド方面からレモン・オレンジ・バナナ・マンゴーがこの時期にイスラム世界に持ち込まれ、やがてヨーロッパにももたらされることになる。

アッバース朝の首都はチグリス川流域のバクダードだった。この地は初代カリフによって「世界の交差点」と呼ばれたように海の道と陸の道が集約する地で、交易に非常に適していた。ムスリム商人は、ラクダを使ってシルクロードなどの陸の道を通ったり、ダウ船と呼ばれる三角帆をつけた船で海の道を進んだりして交易を行った。中国や東アフリカの交易都市にはムスリム商人の居留地が造られ、自治権も認められていたという。



さらにバグダードは肥沃なチグリス川流域の中心に位置していたこともあり、短期間のうちに急速に発展した。アッバース朝最盛期の第5代カリフ・ハールーン(在位:786~809年)の時代には人口は150万人にも及び、世界最大の都市となった。市場には世界各地の品々が満ちあふれていたという。このような発展につれて、バグダードには学者や技術者などもたくさん集まるようになり、イスラムの高度な文明が開花して行くことになる。

イスラムの分裂とウマイヤ朝とパエリア-イスラムのはじまり(5)

2020-10-07 17:30:01 | 第三章 中世の食の革命
イスラムの分裂とウマイヤ朝とパエリア-イスラムのはじまり(5)
今回はスペイン料理の「パエリア」が生まれた経緯について見て行こうと思います。



その前に正統カリフの時代からウマイヤ朝の時代までの歴史を振り返ります。

4人の正統カリフは皆ムハンマドの側近であったが、その出自の違いがイスラム勢力の分裂を引き起こす。それが「シーア派」と「スンニ派」への分裂だ。ただし、出自の違いと言っても同じクライシュ族に属するウマイヤ家とハーシム家の対立だ。

ムハンマドはクライシュ族の一支族のハーシム家に属していた。この時メッカの指導層だったのがクライシュ族のウマイヤ家であった。両親を早くに亡くしたムハンマドはハーシム家の長であった叔父に守られて布教活動を始めたが、叔父が亡くなるとクライシュ族の人々と対立しメッカを脱出した。その後ムハンマドがアラビア半島を統一すると、それまで対立していたクライシュ族はそろってイスラム教に改宗した。

正統カリフの全員がクライシュ族出身であるが、第3代正統カリフのウスマーン(在位644~656年)はウマイヤ家に属する。一方、第4代正統カリフのアリー(在位656~661年)はメッカでムハンマドを守ってくれた叔父の息子(すなわち従弟)にあたり、ムハンマドと同じハーシム家に属する。また、アリーはムハンマドの娘と結婚し、二人の間にはムハンマドの孫も生まれていた。

イスラム共同体の指導部では次第にウマイヤ家の発言力が強まって行った。そんな中で第3代カリフのウスマーンは何者かによって暗殺され、アリーが第4代カリフになる。しかし、ウマイヤ家の長を継いだムアーウィヤはそれに納得せず、反乱を起こした。ムアーウィヤ軍は槍の穂先にクルアーンの章句を結び付けて戦ったためにアリー軍の戦意はそがれ、戦いは膠着状態に陥った。最終的に和議が結ばれることになったのだが、これを不服とした過激なグループがアリーを暗殺してしまったのだ。過激派グループはムアーウィヤも暗殺しようとするが、これは失敗に終わった。

こうして残されたムアーウィヤはカリフとなり、それ以降はウマイヤ家が代々カリフを継ぐこととなった。このため、この時代を「ウマイヤ朝」(661~750年)と呼ぶ。

一方、この体制を認めずにムハンマドの血を引くアリーの子孫のみをイスラムの指導者とする「シーア派」が誕生した。それに対してウマイヤ家のカリフ独占を認めたのが「スンナ派」であり、両者は激しく対立するようになる。

ウマイヤ朝の初期はシーア派との抗争によって帝国内の情勢は不安定であったが、7世紀の終わり頃までに反ウマイヤ勢力の抑え込みに成功すると、領土拡張に乗り出した。まず、帝国の東側では、中央アジアとインダス川流域までを支配するようになる。際立っているのが西側方面の領土拡大で、ビザンツ帝国と戦いながら地中海南岸を西進し、北アフリカを征服するとともに、711年にはアフリカとヨーロッパをつなぐジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出し、西ゴート王国を滅ぼした。さらにピレネー山脈を越えてフランク王国内に進入したが、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗れ、イベリア半島まで退いた。こうして、東は中央アジアとインダス川流域に始まり、西は北アフリカとイベリア半島を含む広大な領土を獲得したのである(下図参照)。



さて、ここからが食の話である。
イスラムに征服される前のイベリア半島の住民はほとんどがキリスト教徒であり、パン食をしていた。ここにアラブ帝国の食文化の一つである米食がもたらされた。

冒頭のパエリアは、コメと野菜、魚介類あるいは肉などとともに着色料のサフランを加え、スープと一緒に平たいフライパン(パエリア鍋)で炊きこむスペインの代表的な料理だ。このパエリアが作られるようになったのも、ムスリム(イスラム教徒)がイネやサフランをイベリア半島に持ち込んだからだ。ここに、地中海で採れる魚介類やヒツジ肉などを組み合わせてパエリアが生まれた。

イネは8世紀にウマイヤ朝がイベリア半島を征服した時に持ち込まれた。また、サフランは10世紀頃に同じようにアラブ人によって伝えられたと言われている。アラブ人はコメとサフランのほかに、ナスやタマネギ、ザクロ、モモ、サトウキビなどの農作物をイベリア半島に伝えた。こうしてイベリア半島の食生活は大きく変化して行く。

ところで、イネやサトウキビを育てるためには大量の水が必要だ。アラブ人はカナートなどの設備を作って大規模な灌漑を行い、農耕地や居住地を拡大して行った。現在のスペインの首都マドリードはカナートによって水の便が良くなり、アラブ人の宮殿が建てられたことによって発展した町である。アラブ人によってイベリア半島に伝えられたカナートの技術は、大航海時代になってスペインによって新大陸にもたらされることになる。

なお、イベリア半島からイスラム勢力を完全に追い払うのは1492年のことであり、実に800年近くもイベリア半島はイスラム国家の一部であった。

西アジアの征服と食文化の融合-イスラムのはじまり(4)

2020-10-05 23:41:05 | 第三章 中世の食の革命
西アジアの征服と食文化の融合-イスラムのはじまり(4)
632年にムハンマドが死去すると、当然のことながらイスラム勢力には動揺が広がった。ムハンマドの死後、先頭に立ってイスラム勢力をまとめたのが「カリフ」と呼ばれる後継者たちだ。特に、最初の4代のカリフはウンマ(イスラム共同体)の合意によって選ばれたため「正統カリフ」と呼ばれる。そして、632年のムハンマドの死から始まり、661年のウマイヤ朝成立まで約30年間を正統カリフ時代という。この正統カリフ時代には、いわゆる聖戦(ジハード)を積極的に行うことによって、イスラム勢力の領土が西アジアに広がった(下図参照)。この領土を治めたのはアラブ人であったことから、この国家を「アラブ帝国」と呼ぶことが多い。



初代カリフはムハンマドの親友で最初期の入信者であるアブー・バクル(在位632~634年)だった。アブー・バクルの娘はムハンマドの妻の一人だったことから、ムハンマドの義父でもあった。彼はムハンマドの死後に分裂しそうになったイスラム勢力を説得してその危機を回避した。また彼は、イスラム共同体から離反しようとしたアラブ諸部族に討伐軍を派遣してアラブ半島の再統一に成功する。

ところで、アラブ半島は乾燥地帯のため生産性が低く、もしペルシア帝国やビザンツ帝国に攻め込まれると、対抗するのは難しい状況だった。そこでアブー・バクルは、二つの大国に攻められる前に自ら打って出るという戦略をとった。この戦略はその後の正統カリフにも受け継がれた。

イスラム軍はまず東地中海に面する豊かなシリアの奪還をかけてビザンツ帝国と戦った。イスラム軍は当初はビザンツ帝国軍に敗北するが、635年にはシリアの征服に成功する。一方、ペルシア帝国軍に対しても最初は旗色が悪かったが、次第に劣勢をひっくり返し、637年にはササン朝ペルシアの首都クテシフォンを征服する。その宮殿には財宝が満ちあふれていたという。さらに641年にはエジプトを征服した。エジプトはそれ以降の地中海進出の大きな足場となる。次の年の642年にはイスラム軍はササン朝ペルシアに完勝し、651年にペルシア王が殺されたためササン朝は滅亡した。以上のようにイスラム軍が征服した地はすべてがイスラム化して行った。

なお、イスラム勢力はキリスト教のギリシア正教が支配していたエルサレムを637年に奪取する。そしてユダヤ教徒の居住を認めた。この時からエルサレムは、キリスト教とともにイスラム教とユダヤ教という3つのセム族の宗教の聖地として守られていくことになった。

こうして生産性の低かったアラブ半島を飛び出して豊かな西アジアを征服したアラブ帝国では、食文化も大きく変化した。もともとアラブの人々はコムギ、オオムギ、ナツメヤシとヤギやヒツジ、鳥などの肉や乳製品を食べていた。ここにペルシア帝国などの豊かな食文化が加わったのである。

ペルシアの食文化から伝わった重要な食材としては、コメと砂糖やコショウ・ターメリック・シナモン・サフランなどの香辛料がある(これらは元はインドの食材であるが)。特に砂糖はアラブ人を虜にしたようだ。クルアーンには「甘いものを食べることは信仰のしるし」とあるらしく、もともとアラブ人は甘いものが好きだったようだ。

小麦粉を使ってドーナツのようなものやパンケーキのようなものを作って砂糖やシロップをかけて甘くしたらしい。また、コメにも砂糖を入れて甘くして、サフランやターメリックで色をつけたという。ジャムや甘い果物のジュースも人気だったようだ。

食材や料理法がアラブ帝国に導入されるとともに、その栽培法や農耕技術も取り入れられた。中でも重要なものが灌漑設備のカナートで、イスラム勢力によってアラビア半島や北アフリカに伝えられ、さらにその後のイスラム帝国のヨーロッパ進出にともなってイベリア半島などにも導入されることになる。このようにイスラム勢力の拡大は、アジアの文化や技術をヨーロッパに伝えるという大きな役割を果たすことになって行くのである。

イスラム教のはじまり-イスラムのはじまり(3)

2020-10-03 15:40:16 | 第三章 中世の食の革命
イスラム教のはじまり-イスラムのはじまり(3)
今回はムハンマド(モハメッド)がイスラム教を創始したお話だ。このため、食に関する話題は少なくなります。

前回、ユダヤ人もアラブ人も同じセム族だという話をした。このセム族と言う言葉はノアの息子のセムに由来する。つまりセム族はセムの子孫という意味だ。セムの子孫にアブラハムがいて、アブラハムがサライとの間にもうけた子供の子孫がモーゼやイエス・キリストとされる。一方、アブラハムがハガルとの間にもうけた子供の子孫がムハンマドである。このように、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じセム族の宗教から始まった。

ムハンマド(570年頃~632年)はクライシュ族という遊牧と交易をなりわいとする部族の一員としてメッカに生まれた。メッカにはイスラム教興隆以前から360もの神々の偶像をまつるカアバ神殿があって、4月になるとアラビア半島の方々から人々が巡礼に訪れる聖地だった。クライシュ族は5世紀半ばにメッカに定住し、やがてカアバ神殿の管理者・支配者となる。

クライシュ族の一支族のハーシム家の子として産まれたムハンマドは幼い時に両親と死別し、祖父と叔父に育てられた。成長したのちは商人となり、25歳の時に夫に先立たれた40歳の女性豪商と結婚する。二人は子宝にも恵まれて幸せな生活を送っていたという。

ムハンマドが40歳になった610年頃に山の洞窟で瞑想にふけっていると、何者かが現れ、いきなり「読め!」と命令した。文字が読めなかったムハンマドは「読めません」と言ったが許してもらえず、体を強く締め付けられたという。そしてその者の言葉を復唱すると許された。この言葉を伝えたのは大天使ガブリエルで、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のそれぞれで神の言葉を預言者に伝えるという重要な役割を果たしている。

ガブリエルはその後もたびたびムハンマドのもとに現れ、神の言葉を伝えた。これがクルアーン(コーラン)である。自分が預言者であることを自覚したムハンマドはメッカの人々に布教を始めた。しかし、「唯一神アッラー」への信仰を説くムハンマドの布教活動は、多神教を信じていた当時の人々の強い反発を招く。特にカアバ神殿を支配しているクライシュ族の指導者にとっては許しがたいものだった。

身の危険を感じたムハンマドは622年にメッカを脱出し、住民からの招きがあったメディナに逃れた。これを「聖遷(せいせん、ヒジュラ)」と呼び、イスラムの暦であるヒジュラ暦では622年を紀元元年としている。

メディナでモスクを建て、信者を増やしたムハンマドはイスラム共同体(ウンマと呼ぶ)を組織し、メッカ軍と戦うようになる。一進一退の攻防を繰り返すうちにウンマは次第に拡大し、630年には1万人もの戦闘員によってメッカを無血開城することに成功した。そして、カアバ神殿の360の神々の偶像をすべて破壊し、唯一神のアッラーに祈りをささげる場とした。それ以降、カアバ神殿はイスラム教の最高の聖地とみなされるようになる。


カアバ神殿(KoneviによるPixabayからの画像)

メッカを征服するとアラビア半島の諸部族がイスラム共同体に参加するようになり、これによってアラビア半島の統一が成る。翌年にムハンマドはメディナからメッカへの大巡礼を行った。この巡礼には10万人のムスリム(イスラム教徒)が参加したと言われている。そして、すべてを成し遂げたムハンマドはメディナのモスクに隣接した自宅で没した。632年6月8日のことである。
ここで、ムハンマドが創始したイスラム教について簡単に見て行こう。

メディナに移ったムハンマドは、ムスリムが行わなければならない行為を神からの啓示(クルアーン)によって定めた。最初の一つが神をたたえる言葉を発する「信仰告白」だ。これをムスリムになる時に行う。サウジアラビアの国旗にはこの言葉が書かれている。

もう一つが「礼拝」であり、一日に5回の礼拝を行う。また、金曜日にモスクで礼拝を行う。礼拝をする方向は決まっており、もとはエルサレムの方角だったが、メディナに移住後少ししてからメッカのカアバ神殿にむけて礼拝することになった。

礼拝とともに重要なのが「喜捨」である。富を持てる者は貧しい人のために富の量に応じて分け与える。例えば、農作物であれば収穫量の1割と決められていた。

メディナに移って2年目には「断食」をする月が決められた。ヒジュラ暦の9番目の月が断食の月で「ラマダーン」と呼ばれる。この月には夜明けから日没まで一切の食事と飲み物を摂ってはいけない。また、性行為や争いごともしてはならないとされた。

断食をすることで神に許しをこうとともに、貧しい人の苦しみを知る意味があるという。ラマダーンの終わりには断食明けの喜捨が義務づけられており、コムギやナツメヤシなどの食べ物を家族の人数分だけ貧しい者のために差し出す。

また、ヒジュラ暦の12月にはメッカへの「大巡礼」を行った。巡礼の季節には犠牲祭が執り行われ、ヒツジなどをいけにえにして、その肉は皆に分配された。普段肉を食べられない貧しい者も犠牲祭には肉にありつけた。

さらに、偶像崇拝、無実の人を殺すこと、賭け事、占い、飲酒、豚肉を食べることなどが禁止されている。また、拷問にかけることや死体を痛めつけることも禁止されている。イスラムと言うとテロを思い浮かべる人も少なくないが、本来のイスラム教はそのような行為を禁止しているようである。