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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ゲルマン民族と古典古代文化とキリスト教-中世ヨーロッパのはじまりと食(1)

2020-10-24 23:06:00 | 第三章 中世の食の革命
3・3 中世ヨーロッパのはじまりと食
ゲルマン民族と古典古代文化とキリスト教-中世ヨーロッパのはじまりと食(1)
今回からしばらく中世前期のヨーロッパにおける食を見て行きます。この中世前期とは5世紀頃から10世紀頃までの時代を言います。最初は中世前期ヨーロッパの概要について簡単にお話ししましょう。

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ヨーロッパの中世になる前の時代は「ローマ時代」と呼んでも差し支えないだろう。

その頃のヨーロッパはローマを中心に回っており、ヨーロッパはローマ本国とローマの属州だったガリア地域(現在のフランスなど)、そして蛮族であったゲルマン民族が生活していた地域に漠然と分けることができた。

この3つがゲルマン民族の大移動によって混合され、再統合されて行くのがヨーロッパの中世である。

その後のヨーロッパを作る上で重要な要素となったのが「ゲルマン民族」と「古典古代文化」と「キリスト教」である。つまり、ゲルマン民族が進んだ古代ローマの文化とキリスト教に接触し、それらを取り込んで、新たな文化を作り上げて行くのである。ちなみに、現在はヨーロッパの中心は北部であるが、これはもともとゲルマン民族が北部にいたからである。

ゲルマン民族がヨーロッパの支配者になることによって、彼らの食生活も変化して行くことになる。

ローマ帝国時代の政治家・歴史家のタキトゥス(55年頃~120年頃)が著した『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人は「野生の果実や新しい獣肉、凝乳」が主食だった。穀物は補助的なものに過ぎず、農業は肥料をやらないので地力が衰えるため毎年耕地を変える必要があり、遊牧民に近い生活をしていた。

それがヨーロッパを支配することになって定住を余儀なくされた。その結果、農耕の重要性が高くなるのである。とは言っても、ゲルマン人にとって「肉」は依然としてとても重要な食品で、「肉を食べざる者は貴族にあらず」という暗黙のルールがあった。王侯貴族は毎日肉を食べていたという。そして、貴族に「肉を食べることを禁ずる」ことは、貴族の称号をはく奪することを意味していたのだ。

さて、ゲルマン民族によって複数の国家が興るが、その中でも他を圧倒したのがフランク王国である。5世紀末にクロヴィス1世がフランク王国を建設し、キリスト教に改宗する。そしてフランク王国はイベリア半島とブリテン島を除く、西ヨーロッパの全域を支配する王国を打ち立てていくのである。



最初にフランク王国を率いたのはクロヴィス1世のメロヴィング朝(481~751年)であった。しかし、フランク王国はクロヴィスの死後に複数の国に分裂して内乱が続くようになる。ゲルマン民族の伝統では財産は子供に分配されることが普通だったので、国も同じように分割譲渡されたのだ。まだまだローマの文化は受け入れられていなかったのである。この結果、王族の力が低下して豪族の力が大きくなり、各地に割拠するようになる。

キリスト教の受容もまだまだ不十分だった。一夫一婦制はなかなか受け入れられず、女性にうつつを抜かす王が相次いだ。このような状況も王の力を弱め、「宮宰(マヨル・ドムス)」と呼ばれた王の執事が実権を握るようになる。

つまり、メロヴィング朝の時代には「ゲルマン民族」「古典古代文化」「キリスト教」の融合は全く進んでいなかったと言える。

こうした停滞を打開したのがカロリング朝(751~987年)である。この王朝は宮宰の一つであったカロリング家が興したものだ。カロリング家はカール・マルテル(686~741年)がフランク王国の貴族を動員して732年のトゥール・ポワティエ間の戦いなどでイスラム勢力の侵入を食い止めたことよって名声を高めた。そして、その息子のピピン3世(714~768年)がローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪した。このカロリング朝の時代になって、「ゲルマン民族」「古典古代文化」「キリスト教」の融合が始まると言われている。


カロリング朝フランク王国国王ピピン

ところで、ゲルマン民族の移動後も地中海貿易は存続していた。そして、ゲルマン民族の生活もこの貿易からもたらされる様々な品々に依存していた。多くのワインや油、香辛料も地中海貿易でヨーロッパに持ち込まれていた。この地中海貿易がイスラム勢力の勃興によって崩壊するのである。このこともヨーロッパの経済の中心が地中海から北部へ移動する要因となった。

ヨーロッパ北部と言えば、ゲルマン民族の一つのノルマン人が活動を開始するのも中世前期のことである。有名なヴァイキングはスカンジナビア半島などを本拠としたノルマン人のことである。また、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦のノルマンディーもノルマン人の居住地であったことから名付けられたものだ。

このような中世前期のヨーロッパの食の世界についてこれから見て行きましょう。


イスラム世界の分裂とシシュ・ケバブ-イスラムの隆盛と食(6)

2020-10-21 18:17:12 | 第三章 中世の食の革命
イスラム世界の分裂とシシュ・ケバブ-イスラムの隆盛と食(6)
今回は日本でもおなじみになった「シシュ・ケバブ」の話です。なお、しばらく続いていたイスラムの話も今回でいったん終わりになります。なお、次回からは中世ヨーロッパの話です。

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アッバース朝(750〜1258年)は1258年まで存続するが、内部では分裂が相次いだ。初期にはイベリア半島に後ウマイヤ朝(756~1031年)が興り、北アフリカ西部にはイドリース朝(788~985年)が建国された。

さらに873年には中央アジアに、アッバース朝のカリフに認められてサーマーン朝(873~999年)が建てられる。また、北アフリカではシーア派のファーティマ朝(909~1171年)が興り、エジプトを征服してカイロを建設するなど北アフリカ一帯を支配した。

さらに、バクダードのあるイラン・イラク地方をブワイフ朝(932~1062年)が支配する。ブワイフ朝はアッバース朝のカリフを保護する代わりに一帯の支配権を獲得した。

このようにアッバース朝の支配力が弱まった要因の一つにマムルークと呼ばれるトルコ人奴隷兵の重用があると言われている。中央アジアの遊牧民だったトルコ人は騎馬の技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたことから高い戦闘力を有していた。この戦闘力の高さから次第に力をつけたマムルークは政治にも介入するようになり、その結果カリフの権威が衰退したのである。しかし、イスラム教においては依然としてカリフは最高指導者であり、宗教上の権威は存続していたという。

1033年にはトルコ系のセルジューク族が中央アジアから西に移動し、セルジューク朝(1038~1308年)を興した。そして、1055年にはバクダードを占領し、アッバース朝のカリフからスルタンに任命される。スルタンとは「神に由来する権威」を意味しており、カリフから一定地域内での統治権を認められた者の称号として使用された(日本の征夷大将軍に似ている)。

さらに西に進んだセルジューク軍は1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破り、アナトリア(小アジア)を征服する。アナトリアにはビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルがあった。この地はギリシア人の植民市ビザンティオンとして始まり、ローマ帝国時代にコンスタンティノープルに改名され、やがてオスマン帝国(1299~1922年)においてイスタンブルとなる。

セルジューク朝はその後十字軍と激戦を繰り広げながらも存続するが、1308年にモンゴル帝国によって滅ぼされた。

さて、ここでセルジューク朝の食について見て行こう。実は現代のトルコ料理はセルジューク朝時代の料理が基になっているのだ。

その頃のトルコ人たちの料理は、前回見たアラブ人たちの料理に遊牧民の料理が組み合わされたものだった。遊牧民の生活習慣から、持ち運びが簡単な料理が好まれた。また、アラブ人たちのように、皆が同じ皿から料理を取って食べた。

トルコ人には羊肉が一番喜ばれたが、かなり贅沢なごちそうだった。ヒツジをつぶした時には、脳や内臓などあらゆる部位を食べ尽くしたという。ヒツジ以外には鳥の肉などが食べられた。

肉はそのまま焼くかローストしたり、油で揚げたり、鍋で煮てシチューにした。揚げ物には前回登場した脂尾羊からとった油やバターを使った。香辛料はあまり使われず、使用されてもせいぜいコショウとシナモンくらいだったと言われている。

遊牧民らしく、トルコ人には乳製品が欠かせない。特にヨーグルトとチーズが大好きだったらしい。また、アイランと呼ばれる飲み物が古くから知られている。これは、脱脂したヨーグルトに塩と水を入れてよくかき混ぜたものだ。このため、作ったばっかりのアイランはすごく泡立っている。現代のトルコでも人気で、ファーストフード店で普通に売られている。

穀物の食べ物としては、コムギだけでできた薄いパンが好まれていたようだ。パンを焼くのにはタンドーリ窯が使われていた。また、コムギをくだいてスープにしたものに、バターやヨーグルト、アイランを上にかけて食べていたという。

ところで、トルコ料理の中で日本人になじみの深いものに「シシュ・ケバブ(シシカバブ)」があるが、この料理名は違う民族の言葉が組み合わされたものだ。つまり「シシュ」はトルコ語で「串」もしくは「剣」の意味で、一方の「ケバブ」は「焼き肉」を意味するアラブ語である。アラブ人たちの料理にトルコ系遊牧民族の料理が組み合わされてトルコ料理ができたということが、この料理名からもよく分かる。


シシュ・ケバブ(Alexei ChizhovによるPixabayからの画像)

宮廷料理の登場-イスラムの隆盛と食(5)

2020-10-19 12:10:06 | 第三章 中世の食の革命
宮廷料理の登場-イスラムの隆盛と食(5)
アッバース朝(750~1258年)においては、1000年頃までにイスラム世界で初めての高級料理が確立されました。この料理を食べたのはイスラムの指導者であるカリフたちです。今回は、このイスラム初の高級料理について見ていきましょう。

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もともとアラブ人たちは、ナツメヤシ、ヤギやヒツジなどのミルク、オオムギなどを材料に作られたかなりシンプルな料理を食べていた。バグダッドの宮廷料理人たちはこれをベースに、ペルシアや古代メソポタミア、ギリシア、インドの高級料理を積極的に取り入れて宮廷料理を作り上げて行った。

前回お話ししたように、イスラム世界では古代ギリシアの医学理論が活用されており、「健康的な食事」=「おいしい食事」だった。そして、美味しい料理を食べることは天国の片鱗に触れることだと考えられていた。

イスラムの高級料理にはは欠かせなかった。肉を食べることは男性的であるとされ、力の象徴であったのだ。特にヒツジの肉が好まれ、焼くかロースト(あぶり焼き)するか、スープで煮込んで供された。スープにはハーブや香辛料、砂糖が入れられたり、小麦粉でとろみがつけられたりしていたそうだ。一般的に、高級料理になるほどたくさんの香辛料を使用した。また、ナッツやヒヨコマメをペースト状になるまで煮込んで作ったソースを肉に添えたものも出された。味付けは酢が入って酸っぱくなっているものが好まれたらしい。

中東で好まれるヒツジは尾に脂肪を大量にため込む種類のもので「脂尾羊 (fat-tailed sheep)」と呼ばれる(下図)。中東の人々は脂肪分がたっぷりの肉が大好きらしく、紀元前から飼育され続けている。


脂尾羊のイラスト

ヒツジ以外には、ヤギ、ニワトリ、アヒル、ガチョウ、ハト、ウズラなどの肉も食べられていた。なお、アル=アンダルス(イベリア半島)では現地でたくさん獲れたウサギの肉もよく食べられたそうだ。

穀物の中ではコムギが最も良いものとされていて、都市部ではいたるところで水車がコムギを挽いていたという。金持ちは発酵させたパン生地をインドから導入されたタンドーリ窯で焼いて食べた。小麦粉からはパスタのような麺も作られて食べられたらしい。

小麦粉はお菓子の材料としてもよく利用された。アラブ人は甘いものが大好きで、たくさんの種類のお菓子が作られていた。小麦粉を練って発酵させた生地を油で揚げてからシロップに浸したり、砂糖をまぶしたりしたお菓子が好まれた。また、ミルクと砂糖を煮詰めて作ったクリームをパンケーキに詰めて食べた。ジャムやゼリー、シャーベットも女性に喜ばれていたようだ。

小麦粉以外にはコメを使ったお菓子も作られた。コメに砂糖を入れて煮て作ったライスプティングや、コメをサフランやターメリックと一緒に煮て黄色に着色したお菓子も作られた。

さらに菓子職人は、砂糖の加熱時間を変えることで、透明になったり褐色のカラメルになったりすることを見つけた。このカラメルを作る技術は十字軍によってヨーロッパにもたらされ、フランス菓子の技法の一つになったそうだ。

また、蒸留技術によってバラや柑橘系のフルーツの香りを抽出し、お菓子や料理の香りづけをしていたという。

以上のように調理された料理は様々な木々や花々、果物が植えられた庭園に運ばれた。庭園の一角には絨毯(じゅうたん)が敷かれ、料理の皿は絨毯の上に置かれたスフラと呼ばれる食卓に並べられる。そして列席者は片膝を立てたり、胡坐をかいたりして車座に座った。

ムスリムの伝統では料理は個々の皿には分けられず、大皿に盛られて出されるのが普通だった。銘々は皿に手を伸ばして食べ物を直接手に取って食べた。イスラムの戒律では左手は不浄であり、食べ物は右手の親指、人差し指、中指の三本の指を使って食べた。

このように手食であったことから、手をきれいにすることはかなり重要であった。このためイスラム世界では石鹸の作製技術が発達したようだ。石鹸は油にアルカリ(通常は水酸化ナトリウム)を反応させることで作られるが、7世紀頃にムスリムによって石灰石を用いて水酸化ナトリウムを作り、それから石鹸を作成する方法が確立された。この石鹸の作製法が8世紀頃にイベリア半島に持ち込まれ、その後ヨーロッパに広まることになる。なお、シリア北部のアレッポでは、現在でも当時の方法でオリーブオイルから石鹸が作られている(アレッポ石鹸として知られている)。

食事が終わると宴会が開かれた。現代のイスラム教では飲酒は禁止されているが、初期のイスラム教ではワインは普通に飲まれていたらしい。ワインが入った盃を持つのはやはり右手だった。皆が飲んでいる時には詩が朗読されたという。しかし、このような飲酒はイスラム教では次第にタブーとして禁じられるようになる。

砂糖の帝国-イスラムの隆盛と食(4)

2020-10-17 16:08:34 | 第三章 中世の食の革命
砂糖の帝国-イスラムの隆盛と食(4)
私は甘党です。甘くないケーキは食べません。この甘さの元は言うまでものなく「砂糖」です。砂糖は様々な料理や飲料に加えられて人類を喜ばせてきました。
今回は、砂糖の存在を広くヨーロッパに広める要因を作ったムスリムのお話しです。

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サトウキビは現在のニューギニア島付近が原産地とされており、紀元前6000年前後にインドや東南アジアに広まったと考えられている。そしてインドで砂糖の精製法が発明されたと言われている。


サトウキビ(Albrecht FietzによるPixabayからの画像)

この製糖の技術は7世紀の初め頃にインドからササン朝ペルシアに伝わった。そして、その後中東を支配したイスラム勢力下で10世紀までには東地中海沿岸地域とヨルダン川渓谷、さらにはエジプトへと拡大した。その後、12世紀頃までには北アフリカやイベリア半島のアンダルシア、キプロス島やシチリア島などの地中海諸島、さらにはマデイラ島やカナリア諸島などの大西洋の温暖な島々でもサトウキビの栽培と製糖が行われた。中でもエジプトのナイル流域が当時の最大の砂糖生産地であったと考えられている。

エジプトでは2~3月に植え付けられたサトウキビは夏を過ぎると2~3メートル以上にも成長し、12月頃に刈り取られたという。刈り取られたサトウキビはすぐに処理をしないとダメになる。農場近くの製糖場に運び込まれたサトウキビは細かく刻んでから牛を用いた石臼で圧搾された。しぼり出された液汁は大釜に集められ煮詰められる。煮詰まったところで砂糖の細かい粉を入れると結晶ができて来る。これを底に穴があいた円錐形の壷に注ぎ込み、液体を除去することで褐色の粗糖の固まりが作られた。この粗糖を水に溶かして煮沸し、先の工程を繰り返すと、上質の白い砂糖が得られるのである。14世紀頃の記録によると、当時のエジプトの首都フスタートには65の製糖場があり、王侯貴族などの有力者だけでなく、ムスリムやユダヤ教徒の商人もその経営に熱心に携わっていたという。

ムスリム商人は砂糖の貿易も盛んに行っていた。カーリミー商人と呼ばれるムスリムの交易商人たちは、12世頃からアラビア半島南端のアデンでインドから運ばれてきた中国産の絹織物・陶磁器やインド・東南アジア産の香辛料などを買い付け、紅海を通ってエジプトまで運び、そこでエジプト産の砂糖や小麦、紙、ガラス製品などを加えてイタリア商人に渡していた。イタリア商人はその引き換えに、綿織物・木材・鉄・銅・武器・奴隷などをイスラム側にもたらしたという。13世紀には、ジェノヴァ・ヴェネツィア・ナポリなどの地中海貿易を担っていた諸都市は、この貿易のためにエジプトの各地に商館を建設したとされている。
(*イタリア商人の活躍については、この後の「中世ヨーロッパの食」で詳しく取り上げる予定です。)

一方、11~13世紀の十字軍の遠征も砂糖をヨーロッパの人々に広める要因となった。この十字軍の活動によって、ヨーロッパ人は製糖技術を始めとするイスラムの新しい知識や技術を学ぶことができたのである。エルサレムを占領したヨーロッパ人はムスリムから製糖技術を教わり、帰国時にサトウキビを持ち帰ったという。こうして、ヨーロッパ人も気候の暖かい地中海沿岸でサトウキビ栽培と製糖を始めた。

さて、砂糖の生産が盛んになったとは言え、まだまだ砂糖は貴重なものだった。このため、イスラム世界でもヨーロッパでも砂糖は食品としてよりも薬として使われることが多かった。

「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でお話ししたように、イスラム世界は古代ギリシア文明を進んで取り入れた。ギリシアでは食品の医学的効用について研究が進んでいて、この考え方がイスラムに引き継がれた。ちなみに、古代ギリシアの医学では、人間の体は血液質・粘液質・黄胆汁質・黒胆汁質の4つの要素からできていて、これらの調和が健康をもたらすと考えられていた。そして、それぞれの食品には、この4つの要素に及ぼす効果があるとされていた。

このようにイスラムに引き継がれたギリシア医学の中での砂糖の効用について見てみよう。13世紀にシリアで活躍した医者のイブン・アンナフィースは彼の主著である『医学百科全書』において、砂糖の効用について次のようにまとめている。

「砂糖は脳の調和を保って穏やかに作用する。また、まぶたの炎症を治すための薬が砂糖から作られる。砂糖は胃の粘液を取り除いてきれいにする。また肝臓の入り口を開き、きれいにする。しかし、古い砂糖は不純な血液を生じさせる。砂糖には利尿の効果があり、バターと一緒に飲めばさらに著しい効き目を発揮する。また、砂糖は喀血・呼吸困難・喘息・息苦しさに効果がある。さらに肋膜炎や肺炎に効き、胸から膿を排出させ、胸や肺の炎症を取り除く。」

現代では砂糖が生活習慣病の根源のように言われることが多いが、まだまだ栄養状態が悪く砂糖が貴重だった古代や中世においては「砂糖は薬」という考えが受け入れられていたのだろう。嗜好品としての砂糖が世界を席巻するのは、ヨーロッパがアメリカ大陸を再発見した後のことである。

イスラムの農業革命-イスラムの隆盛と食(3)

2020-10-15 23:00:44 | 第三章 中世の食の革命
イスラムの農業革命-イスラムの隆盛と食(3)
今回はイスラム帝国での農業技術の革命について見て行きます。
もともとアラブ人は農作物があまり育たない乾燥地帯で生活していました。農耕ができるのはオアシスぐらいでした。それが、広大な土地を支配することによって作物を育てることができる土地を大量に手に入れたのです。ここに科学技術の進歩が組み合わされることで、農作物の大量生産に成功するのです。

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イスラム科学が発展してゆくと、実用的な技術もイスラム社会に広く普及することになった。その一つが新しい農耕技術だ。この技術のおかげで食料生産量が増えてより多くの人口を養えるようになり、さらなる文明の繁栄をもたらすことになった。そのため、この新しい農耕技術の開発は「イスラムの農業革命」と呼ばれる。

農業革命を生み出した要因の一つが植物学の進歩だ。それぞれの農作物について、適した土壌や育てる季節、必要な水分量などが詳しく調べられた。また、接ぎ木の技術も盛んに研究された。こうして効率よく農作物を育てることができるようになった。

農業革命を起こす上で最も重要だったのが灌漑技術の進歩である。カナートの技術は古くから知られていたが、それに加えて、高い位置に水を運ぶ技術が生み出された。この技術によって、広大な土地に水を運ぶことができるようになったのだ。

これは「水汲み水車」または「ノーリア(noria)」と呼ばれるもので、垂直に立てられた車輪にバケツがくくりつけられており、車輪を回転させると水面下に入ったバケツに水が入り、高いところで用水路などに水を流し出すようになっている。中世のイスラム帝国では直径が20メートルにもなるノーリアが使われていたそうだ。また、イベリア半島のバレンシア地方にはイネを育てるためのノーリアが8000もあったという。


スペインのノーリア(Falconaumanni撮影)

ところで、水は高いところから低いところに流れるので、広い土地に効率よく水を運ぶためには、それぞれの場所の高さが詳細に分かっていないとだめだ。この点でもムスリムは優秀だった。彼らは「三角法」を用いて正確な測量を行ったのだ。三角法は三角形の角度と辺の長さを研究する数学の一分野で、ムスリムはインドからその基礎を学んでさらに発展させることで高度な三角法の理論を生み出した。

このように、数学の進歩に果たしたムスリムの役割はとても重要で、私たちが普段使っている「0, 1, 2, 3 …」のアラビア数字も、アラブ人がインドの「ゼロ」の概念を取り入れて作ったものだ。これがイベリア半島に持ち込まれ、16世紀中頃のヨーロッパで、それまで主に使われていたローマ数字に代わってアラビア数字が使用されるようになる。

ところで、このような有用な知識は広く活用されなければあまり意味がない。イスラムでは、新しく得られた知識は書物としてまとめられ、主要な都市に送られて多くの人の目に触れるようになっていた。このように新しい知識を迅速に活用する体制が整っていたのだ。

ムスリムが作り出した新しい農業技術は、イベリア半島(現代のスペイン・ポルトガル)を通してヨーロッパに導入される。ムスリムはイベリア半島の各地にノーリアを作り、集中的な灌漑設備を整えて行った。また、ヨーロッパ固有の農作物に加えて、コメ、ほうれん草、ナス、ニンジン、アーティチョーク、ザクロ、モモ、サフラン、サトウキビなどのアジア原産の農作物をイベリア半島に持ち込み、それぞれに合った土壌で栽培を行ったと言われている。また、大量の家畜も飼育されるようになった。

このような大規模な農業改革の結果、イベリア半島の食料生産性が向上し、人々の生活が豊かになったと言われている。このようにムスリムによって持ち込まれた農業技術は、現在でもスペイン農業の基礎となっている。