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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ハンガリーとマジャール人-中世ヨーロッパのはじまりと食(10)

2020-11-16 20:32:46 | 第三章 中世の食の革命
ハンガリーとマジャール人-中世ヨーロッパのはじまりと食(10)
中世のハンガリーは高校の世界史では詳しく取り上げられない国の一つです。その理由の一つが、ハンガリー人の起源が他のヨーロッパの国々とは異なっているからではないかと私は思っています。

しかし「貴腐ワイン」の発祥の地であるなど、食の世界では重要な国の一つです。そこで、ヨーロッパ中世前期シリーズの最後となる今回は、ハンガリーを取り上げます。

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ハンガリーの人々は自国のことをハンガリーとは呼ばずに「マジャール人の国(Magyarorszag)」と呼ぶ。中世にハンガリーに移動してきて、それ以降ここを居住地にしているのがマジャール人だからだ。「ハンガリー(Hungary)」は英国を始めとする他の国々の呼び方にすぎない。

マジャール人はウラル山脈南西部を原住地とする遊牧民族で、夏はヒツジやヤギ、ウシ、ウマを放牧し、秋から春にかけて秋播きの穀物などを栽培する生活を送っていたと考えられている。

彼らは定住を行わずに良い土地を求めて小規模な移動を繰り返していたが、9世紀頃になると東ヨーロッパに向けて集団で大規模な移動を始めた。そして、ビザンツ帝国の北部領域に到達すると軍事行動を開始するようになる。

そこではビザンツ帝国と結んでブルガリアを攻撃するなどしたが、ブルガリアの反撃に会い、さらに西に移動した。そして、パンノニアと呼ばれた現在のハンガリーの地に到達する。

パンノニアは水が豊富で土壌も肥えており農産物の生産性が高かった。また広大な森林もあって、木材資源にも恵まれていた。このため、ローマ帝国やフン族、ゲルマン民族などによって相次いで支配されていた。マジャール人はこのパンノニアに進入し、9世紀の終わり頃に新しい支配者となった。そして、ヨーロッパ各地への侵攻を行った。



マジャール人は10世紀になるとさらに西進して東フランク王国と衝突するが、その戦いに敗れたためパンノニアに戻り、それ以降はこの地に定住するようになった。

定住を始めたマジャール人はヨーロッパに同化するためにキリスト教に改宗し、1000年にはローマ教皇から王冠を授けられ「ハンガリー王国(マジャール王国)」を建国した。その後、ハンガリーは豊かな土地を背景に、次第に東ヨーロッパの大国となって行く。

ところで、マジャール人とウラル山脈からパンノニアへの移動をともにした「コモンドール」というイヌがいる。このイヌは歩くモップと呼ばれるほど被毛が発達していて、これがオオカミなどの牙から身を護るヨロイとなっているため、護畜犬として活躍してきた。現在でもハンガリーではヒツジを守るために頑張っているらしい。


コモンドール(Jakob StraußによるPixabayからの画像)

さて、ここでマジャール人の食に関する話をあげておこう。

マジャール人は遊牧民で常に移動していたので、それに適した調理道具を常備していた。それが大きな鍋である。鉄製の鍋に肉とタマネギやそれ以外の野菜、そしてラードなどを入れて焚火にかける。弱火でコトコト煮るとシチューになるし、野菜を増やしたり水を加えたりするとスープになる。これがハンガリー料理で定番の「グヤーシュ」だ。簡単に作れるし、必ず美味しくできる料理だ。なお、食べきれなかったグヤーシュは乾燥させて、ヒツジの胃で作った袋に入れて持ち運び、後で食べたという。


グヤーシュ(Kobako, CC BY-SA 2.5 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5>, via Wikimedia Commons)

パンノニアの主要な作物はオオムギとライムギで、ゲルマン民族が支配していたころはオオムギからビールがよく造られていた。それがマジャール人の国となってキリスト教が定着して行くと次第にブドウの生産が盛んになり、ワインが大量に造られるようになる。そして、ハンガリーは東ヨーロッパの一大ワイン産地へと成長して行くのだ。

このような背景のもとで1650年頃に極甘口の「貴腐ワイン」がこの地で誕生するのだが、その話はするのはもう少し先のことになる。

ヴァイキングとエリザベス女王と北の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(9)

2020-11-14 19:31:08 | 第三章 中世の食の革命
ヴァイキングとエリザベス女王と北の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(9)
今回はヴァイキングの話です。ヴァイキングとは北方系ゲルマン民族の一つのノルマン人の別称で、ヴィーク(入り江)に住む人を意味すると言われています。

ヴァイキングと聞いて思い浮かぶものとしては「海賊」と「料理」が多いかと思いますが、料理のヴァイキングは日本だけで使われている言葉です。1958年にオープンした東京・帝国ホテル内のレストランが、映画『ヴァイキング』で船の上の食べ放題のシーンからヒントを得てこの名前を使用したということです。


(Gary ChambersによるPixabayからの画像)

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ヨーロッパでは9世紀になると第二のゲルマン民族の移動が始まった。北方にいたノルマン人がヨーロッパ各地への移動を開始したのである。彼らはイギリスやフランスなど西ヨーロッパ各地に進出し、交易とともに時には海賊行為を行った。そして一部はイギリスやフランスなどに定住するようになった。

ノルマン人は最初のゲルマン民族の大移動の時には移動を行わずに、もともと住んでいたノルウェーなどのスカンディナビア半島やデンマークなどにとどまっていた。この地域には氷河による浸食作用によって作られたフィヨルドと呼ばれる複雑な形をした湾や入り江が多く存在する。この海域でうまく生き抜いていくために、ノルマン人は造船技術や操船技術を身に付けて行った。そして、巧みな航海術を用いて他の地域との交易を行うようになる。農耕・牧畜・漁業もノルマン人の重要な生産活動だったが、次第に交易が生活を支えるようになって行った。

ノルマン人の海外進出は9世紀頃から急激に活発化するが、その要因には8世紀頃から始まる温暖化によって食料生産量が増え、ノルマン人の人口が増えたことがあるという説が有力だ。地域内に収まり切れなくなった人たちがあふれ出たということだろう。

ちょうどこの頃は、カール大帝の死後フランク王国が分裂した時期で(843年に西・中部・東に分裂し、870年に現在のフランス・イタリア・ドイツに近い形になる)国力が低下しており、ノルマン人の侵入を退けることはできなかったと言われている。また、ノルマン人は進んだ技術を持ったイスラム勢力とも交易などによって交流しており、西ヨーロッパの人々に対して軍事力でも優れていたと考えられている。

ノルマン人の一部はフランス北部のノルマンディーに定住し、911年にフランス王からノルマンディー公国として認められた。また、イングランドでは1016年にデンマーク王がデーン朝を建て、さらに1066年にはノルマンディー公ウィリアム(1027~1087年)がノルマン朝を成立させた。ウィリアムはイングランド王ウィリアム1世として即位した。その後のイングランドの王はすべてウィリアム1世の子孫となっている(現女王のエリザベス2世はウィリアムの27世の孫であり、ヴァイキングの子孫と言える)。



なお、ウィリアム1世はノルマンディーではフランス王の臣下という立場にあり、イングランドとフランスに広大な領地を有することになるが、これがジャンヌ・ダルクが活躍する英仏間の100年戦争(1337~1453年)の原因となる。

ノルマン人はイングランド・フランス以外に、シチリア島を含む南イタリア各地への侵攻や、ロシア方面、そしてアイスランドや北アメリカへの植民を試みたと言われている(カナダのニューファンドランド島北西端で、1000年前のノルマン人のものと考えられる住居跡が発見されている)。コロンブスがアメリカ大陸を発見する500年も前のことになる。

以上のようなノルマン人の移動は、その後の西ヨーロッパ社会の形成に大きく影響することになるが、それについては今後見て行く予定だ。

ここで、ノルマン人(ヴァイキング)の食べ物について見て行こう。

ヴァイキングが主に食べた穀物はライムギとオオムギだった。これは、ライムギやオオムギはコムギが育たない寒冷な気候や痩せた土壌などで育つためと考えられる。それ以外に、エンバクやキビなども栽培されていた。

このような穀物は粉にされて平たいパンになった。甘味料としてハチミツが塗られて食べられることもあったようだ。また、穀物はお粥にして食べることも多かったようだ。味付けのために野生のベリーやリンゴが入れたりした。

オオムギからはビールが造られ、ハチミツからはミード(蜂蜜酒)が造られた。この頃の水は消毒されておらず生のまま飲むことができなかったため、アルコール度数の低いビールも作られて子供を含めたすべての人が飲んでいたという。大人が酔いたい時にはもちろん、強いビールやミードを飲んだ。なお、ミードには神聖な力があり、不死や知恵を授けると考えられていたそうだ。

ところで、ヴァイキングというとウシの角で酒を飲んでいるイメージがあるが、これは事実だったらしい。11世紀頃まではこうしてビールを飲んでいたという。その後は住みついたヨーロッパ大陸の影響によって木製の容器に変化した。

ヴァイキングが一番よく食べた肉は豚肉だった。彼らは、ウシ、ウマ、ヒツジ、ヤギ、ブタなどの家畜を飼っていたが、中でもブタは肉をとるために大量に飼われていたようだ。それ以外には、ニワトリやガチョウなども飼育していた。また、狩で獲れるアザラシは貴重な脂肪の供給源で、血液、肉、脂肪などあらゆる部分を口にしたという。寒い地域では体に脂肪つける必要があるためだ。なお、ウシの角のように、家畜の骨・角・皮は針やスプーン、容器や、衣服を作るために最大限に活用された。

野菜や果実は野生のものが食べられていた。森でラズベリー、ビルベリー、プラム、リンゴ、ヘーゼルナッツなどを手に入れることができた。特にリンゴは健康に良いと考えられており、北欧神話では女神イズンが護る黄金のリンゴを食べ続けると不老不死になると言われていた。

また、北欧では肉料理などに使用する野生のハーブが豊富だった。現代でも北欧のハーブとして有名なディル、ジュニパー、キャラウェイや、マスタードシード、ニンニク、西洋わさび、コリアンダー、ミント、タイムなどが採集されていた。

なお、ヨーロッパ各地に移住したノルマン人はその地の文化に同化することで新しい食文化を作って行くことになる。

ビザンツ帝国の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)

2020-11-12 23:13:46 | 第三章 中世の食の革命
ビザンツ帝国の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)
今回はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の食べ物について見て行きたいと思います。
ローマ帝国を引き継いだことから、ビザンツ帝国の食はローマ帝国の食の延長線上にあります。しかし、キリスト教の影響などによって新しい要素が加わって行きます。

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同時代の多くの場所と同じように、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)でもコムギやライムギ、エンバクなどの穀物は最も重要な食べ物だった。これらの穀物からパンが焼かれたが、金持ちは小麦粉から作られた白パンを食べ、お金がない人はエンバクやエンドウ豆、アザミなどの粉で作ったパンを食べた。中でも酵母を使って発酵させた白パンはふっくらとしていて最高級品だったそうだ。

穀物の粉からはビスケットのようなものも作られていた。これは2度ほど焼いて十分に水分を飛ばした堅いパンで、長期保存ができるためビザンツ軍の携帯食となっていた。ただし、食べる時にはスープなどの液体にひたして柔らかくする必要があったそうだ。

また、ビザンツ帝国ではさまざまなお粥も食べられていた。 現代でもギリシア料理の一つとして食べられているトラチャナスという料理は、ひびの入った挽き割り小麦を酸味のきいたサワーミルクやヨーグルトで煮たものだ。これにハルーミーあるいはフェタというギリシア地方特産のチーズを乗せて食べる。このチーズは塩味がきいているため、トラチャナスは酸味と塩味の絶妙な風味があるそうだ(残念ながら私は食べたことがありません)。

ビザンツ帝国では、ブタ、ヤギ、ヒツジ、ウシなどの家畜や、シカや野ウサギなどのさまざまな肉が食べられていた。特に、乳離れしていない子供の動物の肉に人気があったようだ。

肉は鉄板で焼かれたり、あぶり焼きにされて食べられた。また、揚げ物や蒸されることもあったそうだ。調味料には、塩や酢、コショウのほかにローマ帝国と同じように魚醤のガルムが使用されていた。ちなみに、ローマ人に代わってゲルマン民族が支配した西ヨーロッパではガルムは廃れてしまう。

豚肉はひき肉にされてソーセージに加工されることも多かった。ただし、血液を使ったブラッドソーセージを食べることはギリシア正教会によって禁止されていたという。

このブラッドソーセージのように、ビザンツ帝国ではギリシア正教の教えによって食べてはいけないものが決められていた。また、一月以上にわたる長くて厳しい断食の期間があった。この期間中は、肉、魚、卵、バターなどの乳製品、油(オリーブオイル)やワインを口にしてはいけなかった(ただし、日曜日などの儀式ではオリーブオイルとワインは許される)。断食期間中は夜になると、これら以外の食べ物や飲み物を摂ることが許された。

なお、ローマ・カトリックでも当時は長期間の厳しい断食を行っていたが、時代とともに緩やかになった。一方、ギリシア正教では現在でも昔と同様の断食を行っているという。

さて、断食中に食べてはいけないものに魚があるが、その理由は魚には赤い血液があるからだ。一方、同じ海の生き物である貝やイカ・タコ・エビ・カニなどには赤い血はない。このため断食中でもこれらのシーフードを食べることができた。その結果、ビザンツ帝国ではシーフードの料理が発達したという。現代のギリシアでも、タコやイカ、貝類の消費量が多い。


(Mikele DesignerによるPixabayからの画像)

ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは海に面していたので、断食中で無ければ魚をよく食べていた。当時の記録には、マグロ、タラ、マス、チョウザメ、サーモン、カワカマス、カレイなどの名がある。魚は焼いたり、揚げたり、シチューに入れたりして食べられていた。

ビザンツ帝国では野菜もたくさん食べられた。ギリシア料理の特徴はたくさんの種類の野菜を使うことだが、その理由は野菜が断食の対象でなかったことだ。なお、現代のギリシア料理ではトマトやジャガイモをよく使うが、これらは新大陸(アメリカ大陸)の野菜であるためビザンツ帝国の時代には存在しなかった。トマトやジャガイモがヨーロッパで食べられるようになるのは18世紀以降のことだ。

ビザンツ帝国の歴史②-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)

2020-11-10 22:14:37 | 第三章 中世の食の革命
ビザンツ帝国の歴史②-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)
今回はイスラムと戦った後のビザンツ帝国について、農業と交易を見て行きます。ポイントは農民の力と絹織物です。

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717年にイスラム勢力の侵攻を何とか食い止めたビザンツ帝国は、11世紀の初め頃まで発展期を迎える。その要因は、皇帝の専制君主制を優秀な官僚たちがうまく支えたこととされている。その頃のビザンツ帝国では教育制度がしっかり構築されており、優秀な人材を育てて官僚として登用する道筋が整っていたのである。

ビザンツ帝国がとった政策の一つが、生産性の高い自営農家を生み出すことであった。農村では以前は地主が力を持っていて、小作人は地主と国に多額の税を納める必要があった。ところが、イスラムとの戦いによって国家体制が危機的状況になり、都市部に住んでいた地主たちも大きな打撃を受けて没落した。そこで、農民に土地を与える代わりに税を納めさせ、また戦争が起こると自前で武器を用意させて兵士として戦わせたのだ。いわゆる「屯田兵(とんでんへい)」である。このように農民の自主性を重視した方策は成功し、農民はビザンツ帝国を支える大きな力になった。

農民は農村ではそれぞれの土地を家族単位で耕作したが、時には村人同士が共同して村内の整備などを行うこともあった。また、病気などで作業ができない人が出た場合は他の村人が助けたという。これは、その頃のビザンツ帝国の徴税が村単位であったためだ。もし耕作できない人が出た場合には、他の村人がその人が払うはずだった税を負担しなければならなかったのだ。このため、少しでも収穫があった方が良かったのである。この連帯責任を負わせた徴税法は国の財政を回復させた。きっと優秀な官僚が考えたものだったのだろう。

次に、ビザンツ帝国の交易について見て行こう。

かつてのローマ帝国は地中海を舞台にした東西貿易で繁栄した。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)や西ヨーロッパでも当初は交易がそれまで通りに行われていた。この交易ではギリシア商人などが東方から香辛料や絹、陶器、貴金属などを運んできた。そしてビザンツ帝国や西ヨーロッパの人々はその代金を金で支払った。ヨーロッパにはまだまだ金があったのである。

また、交易には関税がつきものだが、商人から徴収する税がビザンツ帝国やゲルマン民族の国家の重要な財源となっていた。

ところが、7世紀になってイスラムが地中海に進出してくると、ビザンツ帝国の支配域は地中海北岸の東側だけになってしまう。地中海のほとんどをイスラムが支配するようになったのだ。その結果、地中海北岸頭部への物資の輸入が滞るようになり、ビザンツ帝国の交易も下火になってしまった。

ただし、絹織物だけは別だった。ビザンツ帝国には優れた工芸品を生み出す高い技術があり、中でも絹織物は各国の王侯貴族や教会がこぞって欲しがる品だった(下図参照)。イスラムが地中海を支配するようになっても、この絹織物の貿易は継続したのだ。


アルビュインの祭服(山中良子『ビザンティン中期の錦』地中海学会月報331より)

養蚕が始まったのは中国で、殷の時代(紀元前1500年頃から紀元前1046年)の遺跡から絹布の切れ端や蚕・桑・糸・帛などの文字の跡が見つかっていることから、養蚕は既にこの時代には盛んに行われていたと考えられている。しなやかで美しい光沢のある絹織物は多くの人を魅了し、古くから他民族を従わせる戦略品として使用されていた。「シルクロード(絹の道)」という言葉が生まれたことからも、絹がとても重要だったことが分かる。

中国王朝はカイコの国外持ち出しを禁止していたが(持ち出すと死刑になったと言われる)、550年頃に中国でキリスト教を布教していた2人の伝道僧が、ビザンツ帝国皇帝のユスティニアヌス(在位:527~565年)の命によって密かにカイコとエサとなる桑を持ち出し、2年の年月をかけてビザンツ帝国まで運んできたのだ。

こうして自前で絹糸を生産することができるようになって、ビザンツ帝国の絹織物の技術は飛躍的に向上した。そしてビザンツ帝国はヨーロッパの絹織物を独占するようになる。ビザンツ帝国も中国王朝と同じように絹織物を戦略物資として扱った。つまり、外交交渉の武器として絹織物を利用したのである。

なお、8世紀頃から、ヴェネツィアなどの海洋都市国家がヨーロッパと中東を結ぶ地中海貿易を次第に独占するようになる。彼らは香辛料などを東方からヨーロッパに運び、莫大な富を築いていくのである(海洋都市国家の話については別の機会に紹介します)。

ビザンツ帝国の歴史①-中世ヨーロッパのはじまりと食(7)

2020-11-07 15:39:19 | 第三章 中世の食の革命
ビザンツ帝国の歴史①-中世ヨーロッパのはじまりと食(7)
今回からしばらくはビザンツ帝国(東ローマ帝国)のお話しです。最初にビザンツ帝国の歴史について概略を見て行きましょう(食の話は少ないです)。

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ビザンツ帝国と言えば首都の「コンスタンティノープル」が思い浮かぶ。ビザンツ帝国の始まりをいつとするかは人によって異なるが、330年にコンスタンティノープルが建設されたことをもって始まりとする考えもかなり有力だ。

コンスタンティノープルは、アジアとヨーロッパを結ぶとともに黒海と地中海を結ぶ十字路となっているボスポラス海峡に向かって開かれた町である(下図参照)。このため、この町は交易の都として繁栄したのである。



コンスタンティノープルは、元は古代ギリシア人によって建設されたビザンティオンという名の町であったが、ローマ皇帝コンスタンティヌス(在位:306~337年)がローマと並ぶ新しい首都とするために自分の名前にちなんで改名したものだ。ちなみにビザンツ帝国(ビザンティン帝国)という名は、この古い都市名のビザンティオンから来ている。

コンスタンティヌスの時代から、ローマ皇帝には独裁的な権力が集中するようになる。また、民衆の宗教だったキリスト教が国教として国を支える宗教へと変わり始める時代でもあった。ビザンツ帝国でも、この専制君主としての皇帝と国教としてのキリスト教が国を動かす中心的な役割を果たしていく。

キリスト教を正式に国教化したローマ皇帝のテオドシウス(在位:379~395年)が395年に亡くなると、ローマ帝国は東西に分けられて、それぞれを2人の息子が統治するようになる。その後、西ローマ帝国が476年に滅亡したが、ゲルマン民族の侵入が少なかったことやエジプトなどの穀倉地帯を有していたことなどから東ローマ帝国は存続できた。



ところで、東ローマ帝国はギリシアなどがあるバルカン半島を中心とする国家だったため、主要な民族はギリシア人だった。この結果、東ローマ帝国は次第にギリシア的性格が強くなり、「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになった。また、ビザンツ帝国のキリスト教は「ギリシア正教」と呼ばれるようになる。

しかし、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がずっと安泰だったわけではない。

まず、542年から545年にかけてビザンツ帝国ではペストが猛威をふるった。コンスタンティノープルでは毎日数千人の人が死亡したと言われている(それほど大規模ではなかったという説もある)。皇帝のユスティニアヌス((在位:527~565年)も感染したため「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれた。

なお、ユスティニアヌス帝は盛んに遠征を行い、ヴァンダル王国や東ゴート王国を滅ぼして地中海全域の支配権を再獲得した。また、その後のヨーロッパの法律に大きな影響を与えた法典集である「ローマ法大全」の編纂を行ったことでも知られている。

ところが、ユスティニアヌス帝の死後しばらくすると、スラブ民族がビザンツ帝国内に侵入してきた。スラブ民族は現在のポーランドやウクライナなどにまたがるカルパティア山脈付近が原住地と考えられており、4世紀からのフン族やゲルマン民族の大移動とともに東や西、そして南に移動を開始した。580年頃にはビザンツ帝国の北部に侵攻したとされている。

その後スラブ民族は他の民族と交わり、ブルガリア人やロシア人、ポーランド人が誕生する。なお、これら東欧の国々が現在ギリシア正教なのは、戦いや交易などを通じてビザンツのキリスト教が伝わったからである。

6世紀まではビザンツ帝国の穀倉地帯であったエジプトやシリアが支配下にあり、たくさんの食料がコンスタンティノープルに運ばれてきていた。そして市民には無料で食料が配られていた。また、競馬場では毎日のようにレースが開催され、数万にのぼる市民の憩いの場となっていた。「パンとサーカス」の世界がビザンツ帝国でも続いていたのである。

ところが7世紀になるとササン朝ペルシアの侵攻を受け、シリアとパレスチナ、そしてエジプトを奪われてしまう。ビザンツ帝国は穀倉地帯を失うとともに、パレスチナに保管されていたキリストがはりつけにされたという聖十字架も持ち去られてしまったのだ。

ビザンツ帝国はいったんは穀倉地帯と聖十字架を奪い返すが、今度はイスラム勢力が侵攻してきた。そしてイスラムとの戦いに敗れたビザンツ帝国は再びシリアやエジプトを失い、「パンとサーカス」の世界もここで終わりを迎える。自分の食料を確保できない市民はコンスタンティノープルから追放されてしまったという。

イスラムは首都のコンスタンティノープルに迫り、674年から678年にかけて首都包囲戦が行われる。こうしてビザンツ帝国は滅亡の危機に瀕するのだが、「ギリシアの火」と呼ばれた水をかけても激しく燃え続ける液体状の火炎兵器(下図参照)を駆使することでイスラム軍を撃退することができた。


ギリシアの火(スキュリツェス年代記より)

その後、イスラム軍はササン朝ペルシアを滅ぼして中央アジアを支配するととともに、西はイベリア半島まで進出する。そしてイスラム軍は717年に再びコンスタンティノープルを包囲した。この時も、ギリシアの火と鉄壁と呼ばれた陸と海の城壁、そしてブルガリア軍の助けによってイスラム軍を撃退することに成功する。

もしコンスタンティノープルがイスラム軍によって占領されビザンツ帝国が滅亡していたら、イスラム勢力はそのまま西ヨーロッパに侵攻することで、その後の歴史が大きく変わっていた可能性が高い。「イスラム勢力に対する防波堤」が、ビザンツ帝国が果たした役割の一つと言われるゆえんである。