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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

シトー派修道会とブルゴーニュワイン-中世盛期のヨーロッパと食(10)

2020-12-10 21:14:26 | 第三章 中世の食の革命
シトー派修道会とブルゴーニュワイン-中世盛期のヨーロッパと食(10)
フランスワインの2大産地と言えば、フランス北東部の「ブルゴーニュ」と南西部の「ボルドー」です。前回のお話ではシトー派修道会が出てきましたが、シトー派修道会はブルゴーニュワインの礎を築いたことでも有名です。そこで今回は、シトー派修道会のワイン造りについて見て行きましょう。

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ブルゴーニュワインの大きな特徴は、単一品種のブドウでワインを造ることだ(多少の例外あり)。一方、ボルドーワインでは複数品種のブドウが使用される。

ブルゴーニュの赤ワインでは「ピノ・ノワール」が主に使われている。このブドウで造ったワインは繊細な香りと味わいが特長とされていて、有名なものとしては「ロマネ・コンティ」がある。


ピノ・ノワール(moni quayleによるPixabayからの画像)

一方、白ワインでは「シャルドネ」がメインとなる。ブルゴーニュの白ワインはさわやかな酸味と辛口が特徴で、「シャブリ」地区のものが有名である。なお、シャルドネはピノ・ノワールとグエ・ブランという品種との交配で生まれたと考えられている。


シャルドネ(jane2494によるPixabayからの画像)

単一品種のブドウでワインを造ると、似たような風味のワインばかりが生まれると思われるかもしれない。しかし、ピノ・ノワールもシャルドネもニュートラル(中立)系の品種と呼ばれており、生育地の土壌や地理、気候などによって風味が変化しやすい。このため、畑ごとに異なったワインが生まれるのだ。なお、生育地の土壌や地理、気候などをフランス語でテロワール(Terroir)と言い、ワインの話ではよく登場する言葉だ。

このような単一品種を使ったワイン醸造の礎を築いたのが、ブルターニュの地に建てられた修道院の修道士たち、すなわちシトー派の修道士たちだった。祈りと質素な生活、そして労働に重きを置いていたシトー派の修道士たちは、ワイン造りにも精を出した。彼らは、神には最高のワインをささげねばならないと考えたのだ。

シトー派の修道士が目指したのが、彼らの白い衣に象徴される「純真さ」である。この純真さを生み出すために、ピノ・ノワールなどのブドウの質の向上に努めた。純真な良いワインを造るために極上のブドウだけを使おうと言うわけである。

このようなシトー派の修道士たちの考えが後世に受け継がれ、ブルゴーニュでは単一品種のブドウでワインが作られるようになって行く(完全に単一品種でワインが造られるようになるのは18世紀のフランス革命以降と言われている)。

またシトー派の修道士は、それぞれの土地の性質を調べることで、最高のブドウができる畑を整備して行った。

彼らの修道院の近くでは良いブドウが出来なかったので、他の土地をくまなく探したところ、少し離れた丘陵斜面がブドウ栽培に最適であることを見つけた。この地が「黄金の丘」を意味する「コート・ドール(Côte-d'Or)」であり、ブルゴーニュワイン醸造の中心となっている。

さらにシトー派の修道士たちはコート・ドールの丘陵斜面を細かく区分し、その優劣を決めて行った。畑が違うと出来上がるワインの風味が異なることに早い段階で気づいていたのだ。彼らは土壌の状態を調べるために土を食べたとも言われている。

このように畑を細かく区分し、それぞれで異なるワインを生み出すやり方は現代に受け継がれている。例えば、ブルゴーニュワインの格付けは畑ごとに行われている。「特級畑(グラン・クリュ)」と「一級畑(プルミエ・クリュ)」が上位の格付けであり、これらのワインのラベルには畑の名前まで記載するのが規則になっている。

ワインの歴史の中でシトー派修道会が果たした役割はとても大きいものだったと言える。

聖職者の食-中世盛期のヨーロッパと食(9)

2020-12-07 23:54:25 | 第三章 中世の食の革命
聖職者の食-中世盛期のヨーロッパと食(9)
今回は少し地味ですが、中世盛期の修道士の食生活のお話になります。
NHKの麒麟が来るでは僧侶がお金儲けに熱心な姿が描かれていますが、それは中世ヨーロッパの修道院でも同じことでした。人って堕落しやすいもののようですね。

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キリスト教では(キリスト教と同じように預言者のアブラハムを始祖とするユダヤ教とイスラム教でも)断食はとても重要な行為だった。元々食べること自体が罪であると言う意識があったからである。イエス・キリストも40日間の断食を行ったと言われている。

このため、聖職者は断食を行わなければならなかったし、肉料理などの豪華な食事を摂ることは堕落とみなされた。特に、厳しい修行を行う修道士は清貧な生活をするのが常だった。

ところが、中世の農業革命によって経済活動が活発になり始めると、11世紀末頃から修道院の収入も大幅に増加するようになった。領地内の農産物の生産量や農民が納める税金が増えたからである。その結果、修道士たちの食生活は豊かになり、メニューも多様になったと言われている。

ヨーロッパにキリスト教を広める上で重要な役割を果たしたベネディクト派の修道院は、ベネディクトゥス(480年頃~547年)によって創設された。彼は「ベネディクトゥス会則(戒律)」と呼ばれる厳しい生活規範を作成したのだが、その厳格さは時代とともに失われた。

こうして堕落した修道院生活を改革するために、910年にフランスのブルゴーニュ地方に建てられたクリュニー修道院を中心に、ベネディクトゥス会則を厳格に守ることによって本来の修道院の在り方を回復させようとする運動が行った。その運動はヨーロッパ中に広まり、11世紀にはヨーロッパ各地に1500ものクリュニー派の修道院があったと言われている。


クリュニー修道院(Michal Osmenda from Brussels, Belgium, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons)

しかしクリュニー派はキリスト教の儀式を豪華にすることにとても熱心だった。その結果、修道院の建物とその装飾は次第に豪華になって行った(これがロマネスク様式やゴシック様式が生まれるきっかけとなった)。また、それにつれて聖職者の日常も華美なものになり、本来の質素な生活から離れて行ったのである。

例えば、ベネディクトゥス会則に決められていた昼食の「野菜と果物」の一皿は、卵5個とチーズに変わった。また、特別な祝日には卵のパイや肉料理、ハチミツを使ったお菓子などが食卓に並んだようだ。修道士一人に毎日割り当てられていたパンとワインも量が増え、質が向上した。

このようなクリュニー派の修道士の華美な生活を批判し、より質素な修道院生活を復活させようとして1098年に建立されたのがシトー派修道会だ。クリュニー派の修道士が豪華な黒い衣を身にまとったのに対し、シトー派の修道士たちは染料を用いない白衣を身につけた。そして、地面の上に寝て質素な生活を行い、農業などの労働に励んだ。

1日の食事はパン1ポンド(約450グラム)とワイン1ヘミナ(約270ミリリットル)、そして火を通した野菜だけだった。このパンも、小麦粉で作った白パンが一般的だったにもかかわらず、オオムギ・キビ・エンドウマメなどの粉で作られた黒いパンだった。食事のマナーも徹底していて、食事中におしゃべりをした者はワインや野菜が取り上げられて罰せられたという。

このようなシトー派の改革運動はヨーロッパ全土に広がったが、労働で得た余剰分については売却して利益を上げてもよかったことから、次第に労働と利益獲得に興味が移って行った。その結果、東ドイツで農地の開墾を行ったり、イギリスで毛織物の生産技術を開発したりなどの社会的貢献を行う一方で、清貧な生活も終えることとなった。13世紀にはパンにキビやエンドウマメの粉を使うことは無くなったということだ。

やはり、普通の人間にとっては美味しいものを遠ざけるのは難しいのだろう。

ビールにホップ-中世盛期のヨーロッパと食(8)

2020-12-05 20:42:17 | 第三章 中世の食の革命
ビールにホップ-中世盛期のヨーロッパと食(8)
ビールに使われるホップは中国語では「酒花」と言いますが、私はとても良い名前だと思っています。

ホップはビール特有のほろ苦さと芳香の源であることはよく知られていますが、役割はそれだけではなく、「ビールに魂を吹き込んだ」と言われるほど重要なものです。

今回はこのホップについて見て行きたいと思います。


ホップ(M. RichterによるPixabayからの画像)
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まず、ホップの役割をあげてみよう。それは次のようなものだ。

・ビール特有のほろ苦さと芳香を付与する
・輝くような透明感を与える
・美しい泡を作る
・雑菌の繁殖を抑えて保存性を良くする

これを見ると「ビールに魂を吹き込んだ」と言われる理由がよく分かると思う。

ビール造りにホップが使われたのは新バビロニア王国(紀元前625~前539年)が最初と言われており、野生のホップらしきものが使用されたとの記録が残されている。8世紀頃になると、ホップやサルビア、アニス、ショウガ、パセリ、チョウジ、ハッカ、ニガヨモギなどの「グルート」と呼ばれる香草を使用したビールが造られるようになった。ホップが栽培されるようになったのもこの頃で、最初はドイツのバイエルンと言われている。

このようなグルートの中でホップの優位性を明らかにしたのが、ドイツのビンゲンという都市にあったルプレヒトベルク女子修道院のヒルデガルデス院長(1098~1179年)だ。「修道院とビールとカール大帝」でもお話ししたが、当時の修道院は大学のように知識人が集まっていた。ヒルデガルデス院長も医学の知識を持った科学者で、実験を繰り返すことでホップの優位性や最適な使用方法を明らかにして行ったという。

中でも重要な点がホップに強い抗菌力を見つけたことである。それまでのビールは腐りやすくて保存性が悪かった。このため、出来上がってからすぐに飲まないといけないし、遠くに運ぶことも難しかった。それがホップを使うことで保存性が高まり、遠くの都市まで運んで販売することも可能になったのだ。

しかし、この画期的な発見はしばらくの間封印される。領主たちがグルートの生産と販売の権利を独占していて、醸造業者にこの権利を売ることで大きな利益を得ていたからだ。ホップだけが使われるようになると、この利権が損なわれてしまうというわけである。彼らは「ホップは毒」というウソまで広めてホップの使用を妨害したという。

しかし14世紀以降になるとホップを使用するとビールが腐りにくくなることが確認され、次第にホップの使用が広がるようになった。そして1516年にはバイエルンの君主であったウィルヘルム4世が「ビールはオオムギとホップ、水だけを使って醸造すること」という「ビール純粋令」を発布するほどにホップを使用したビールが主流となる。

ここで現代のホップとビール醸造について見て行こう。

ホップは雌雄異株の8~12メートルくらいに成長するツル性の植物で、ビール醸造に使用されるのは雌株にできる「毬花(まりはな)」と呼ばれる部分だ。毬花は葉っぱが花を包み込んで保護する「苞(ほう)」が集まることでできている。

この苞の付け根に「ルプリン」と呼ばれる油を含んだ樹脂が分泌される。このルプリンにビールの苦みや芳香の元となる成分が含まれているのだ。その一つにα酸(フムロン)がある。これが醸造過程で構造が変化して「イソα酸(イソフムロン)」になるのだが、これがビールの苦みの正体だ。また、イソα酸には強い抗菌活性もある。

ホップの毬花とルプリン(村上敦司『ホップの探求』日本醸造協会誌105巻12号より)

イソα酸はビールの泡にも関係している。ビールの泡はイソα酸がオオムギ由来のタンパク質と結合してできたものなのだ。このため、苦みの強い(つまりイソα酸が多い)ビールほど泡持ちが良いと言われている。

現在ホップには多くの品種が存在しているが、苦みが強い「ビターホップ」と芳香成分が強い「アロマホップ」に大別できる(最近では苦みも芳香も強い品種もある)。ビール醸造者はホップを使い分けることでいろいろな風味のビールを生み出している。

ビールの仕込みは麦芽(ばくが)を作ることから始まる。麦芽はオオムギに水を含ませ発芽させたのち、乾燥させることで作られる。次に麦芽をくだいて水と混ぜて温めると、麦芽中の酵素の働きでデンプンからブドウ糖が作られる(このブドウ糖が酵母の発酵によってアルコールに変換される)。

糖化された麦芽の液にはムギの殻やもろみなどの固形物があるためろ過を行う。ろ過されたものが「麦汁(ばくじゅう)」だ。この時に最初に出てきたものが「一番搾り麦汁」で、某社の一番搾りビールにはこの麦汁だけが使われている。通常のビール醸造では残った固形物中の成分をさらに湯で抽出した「二番搾り麦汁」も合わせて使用されている。

こうしてできた麦汁にいよいよホップを加えて煮沸する。この熱処理でα酸がイソα酸に変わる。十分に煮沸を行うとイソα酸がたくさんできてビールの苦みが増す。一方、芳香成分は揮発性のため煮沸が長いと芳香が少なくなってしまう。このため煮沸をやめる直前にホップを加えるビールもある(例えばドイツのピルスナー)。つまり、ビールごとにホップを入れるタイミングや回数が異なっているのだ。

煮沸にはもう一つの重要な役割がある。ホップの成分がオオムギのタンパク質やにおい成分と結びついて沈殿することで、ビールに輝きのある清澄さを生み出すのだ。

麦汁は煮沸後に再びろ過されたのち、酵母が加えられて発酵が行われる。この発酵過程でブドウ糖からエタノールが作られるとともに、ホップの芳香成分が変化してビール特有の芳香が生まれると考えられている。

このようにホップはビール造りに欠かせない材料なのだ。

西ヨーロッパ上流階級の食-中世盛期のヨーロッパと食(7)

2020-12-03 18:22:17 | 第三章 中世の食の革命
西ヨーロッパ上流階級の食-中世盛期のヨーロッパと食(7)
今回は西ヨーロッパ中世盛期の王族や大貴族の食を見て行きます。
中世都市の発展とともに封建社会の頂点を占める彼らには多くの富が集まってきました。そして彼らは当時としては最も豊かな食生活を送っていたのです。

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「中世盛期の都市生活」でお話ししたように、西ヨーロッパの中世都市の多くは冒険商人が作り上げた。彼らは司教などの封建領主の領地の近くに集落を作り、領主の領地を取り込む形で新しい都市を作って行った。

当初、都市は領主によって統治されていたが、やがて商人たちは一致団結して自治権を求めるようになり、戦いなどによって要求を実現させた。なお、商人たちは「都市の自由を守るために互いに助け合い、共同して敵に立ち向かう」という宣誓を行っており、個人の自由よりも都市の自由が優先された。こうした都市を「宣誓共同体」(フランスではコミューン)と呼ぶ。


中世都市の面影を残すオルヴィエート(Valter CirilloによるPixabayからの画像)

こうして自治権を獲得した都市が生まれ始めると、宣誓共同体ではない都市の住民たちも自治権を持ちたいと思うようになった。この時になって大領主であった国王や大貴族、有力な司教たちは、商人の味方をした方が自分たちにはうま味があることに気づき始める。自治権を売ったり、自治権を認める代わりに税などの義務を負わせたりした方が得になると考えたのだ。

その結果、たくさんの中世都市が生まれるとともに、国王や大貴族、有力な司教たちが富を蓄えるようになる。そして、国王が経済力をつけることよって、国王の権威が高まることになった。金のない地方領主が大金持ちの国王に従属するようになったのだ。国王をはじめとして各地の領主が勢ぞろいした十字軍では、地方領主は豪華な武具に身を包んだ国王を見て畏怖の念を抱いたという。

「騎士道」と呼ばれる騎士の行動規範が求められるようになるのもこの頃で、「キリスト教を信仰し教会を守る」「弱者を保護する」「国を愛する」「敵と戦う」「異教徒を退ける」「臣従の義務を果たす」「他者にほどこす」ことなどが求められた。

「気前が良い」ことは騎士の美徳とされ、市場で高価な食材を大量に買ってきて家臣や仲間に食べさせるのは日常茶飯事だったという。また、中世前期には上流階級でも肉の炙り焼きなどの単純な料理が多かったが、十字軍によってビザンツ帝国やイスラム帝国の料理や材料が西ヨーロッパに持ち帰られた結果、スパイスなどを利用した凝った料理が作られるようなった。

こうして中世盛期の王族や貴族社会では、中世前期に比べてぜいたくで手の込んだ料理が食べられるようになったのだ。

12世紀頃の貴族の食の基本は肉・パン・ワインだった。また、卵とチーズも重要な食材だった。野菜はほんの少ししか食べず、また果物もあまり食べなかった。ゲルマン民族の嗜好がまだ強く残っていたのである。

肉はメンドリや若いニワトリ、ガチョウのものが極上とされ、ヒツジの肉とブタ肉がそれらの次に好んで食べられた。また、森の開拓のために数が少なくなったが、狩で獲られたクマの肉やシカ肉もとても喜ばれたという。

肉は風味を増すためとやわらかくするために、最初にボイルするか湯通しされた。その後、コショウなどの香辛料とタマネギやニンニク、塩などでしっかりと味付けされて、鍋やフライパン、グリルなどで調理された。串刺し肉のローストは依然として人気があったという。また、ラードなどの油でフライにされることもあった。

キリスト教では断食する日や期間が決まっていて、肉・魚・卵・バターやチーズなどの乳製品や、油(オリーブオイル)・ワインを摂ることは許されていなかった。しかし、ローマ・カトリック教会では次第に魚は食べても良いことになった。そこで断食日の王族や貴族の食卓では、魚を使って肉や卵の模造品が作られるようになった。また、魚の定義も広げられて、クジラやビーバーが魚として食べられるようになった。

食材は主に市場で購入された。地中海貿易が活発になったことから、香辛料や砂糖のような珍しいものも店頭に並ぶようになっていたという。と言っても、砂糖は主に薬として利用されており、甘味付けにはハチミツが使われていた。

市場で購入された食材は宮廷やお城の厨房に運ばれて、料理専門の使用人によって調理され、多種多様なメニューが生み出された。厨房の中で最も大事だったのがパンを焼くかまどで、精錬度の高い「白い小麦粉」からふっくらとした白パンが焼かれていた。

中世の庶民の食卓では堅い板状のパンが皿の役割を果たしていたが、上流階級では金属や陶磁器、高級木材の皿が使われていた。食具としてはスプーンやナイフはあったが、フォークはまだなく、肉などは手づかみで食べていたという。フォークの使用がヨーロッパで一般的になるのは16世紀以降のことである。

西欧人とソバ-中世盛期のヨーロッパと食(6)

2020-11-30 23:32:29 | 第三章 中世の食の革命
西欧人とソバ-中世盛期のヨーロッパと食(6)
今回は十字軍によって西ヨーロッパに持ち込まれたソバの話です。西洋人はあまりソバを食べないような気がしますが、実はヨーロッパの多くの国々でよく食べられています。

最初はコムギが育たないところで栽培されていたソバでしたが、次第に各地の重要な食になって行ったのです。


ソバの花
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人間が食料にしている穀物のほとんどはイネ科の植物だ。つまり、イネ・ムギ・アワ・ヒエ・キビに加えて、トウモロコシもイネ科だ。さらに、砂糖を取るサトウキビもイネ科である。一方、ソバはタデ科の一年草であり、イネ科が幅を利かす中で珍しい存在と言える。

ソバはやせた土地や乾いた土地でも育つし、病気や害虫にも強いという性質を持っている。また、生育期間がとても短く、種をまいてから2~3カ月で収穫できる(このため「蕎麦75日」という言葉がある)。

ソバの原産地は中国南部とされており、日本では遅くとも弥生時代からソバの栽培が行われていたと考えられている。

前回お話ししたように、ヨーロッパには十字軍によって中東から伝えられた。このため、フランスやイタリアではソバのことを「サラセンの麦」(仏:ble sarrasin、伊:grano saraceno)という(サラセンとは北アフリカのイスラム教徒のこと)。

西ヨーロッパに持ち込まれたソバは、イタリア、ドイツ、フランス、ベルギー、イギリス、そして東ヨーロッパに広がった。特に、コムギが育ちにくいやせた土地にコムギの代わりに栽培されることが多かった。

ここで、各国のソバ料理について見て行こう。

最初はイタリアだ。

北イタリアの山岳地帯ではコムギが育たないので、そば粉で作った粥を主食にしていた。これを「ポレンタ」と呼ぶ。風味付けにオリーブオイルやバターを入れたりする。15世紀になってアメリカ大陸からトウモロコシが持ち込まれると、ポレンタはトウモロコシの粉で作られるようになったが、今でもそば粉のポレンタも少しは残っているという。

また、スイスやオーストリアとの国境近くのロンバルディア州ヴァルテッリーナ地方では、そば粉で作ったパスタ「ピッツオッケリ」が古くから作られている。現代では、ピッツオッケリにキャベツやジャガイモを加えて、バターとチーズのソースを絡めて食べることが多い。


ピッツオッケリ(By Nnaluci-Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3560772)

次はフランスだ。

フランスでソバを使った料理の定番と言えば「ガレット」だ。

ガレットはブルターニュ地方で昔から作られている料理だ。この地方もコムギの栽培には適さず、代わりにソバが育てられてきた。

ガレットは、そば粉を牛乳、水、塩と一緒にこねて1時間ほど寝かしたものをクレープ状にしてバターでこんがりと焼いたものだ。その上にハム、卵、チーズを乗せて食べる。パリッとした表面で中はもちっとしている。食べると口の中にソバの香りが広がる。

ブルターニュでガレットを食べる時には必ず特産のリンゴで作った発泡酒(シードル)を飲む。シードルは甘い風味があるため、塩気のきいたガレットとよく合う。なお、シードルを蒸留して作ったリンゴの蒸留酒は「カルヴァドス」と言い、これもブルターニュの特産品だ。


ガレット(By DC-Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25694464)

最後はスロベニアだ。スロベニアはイタリアの東、オーストリアの南に位置する。

スロベニア人の年間のソバの消費量は日本人よりも多く、ソバをほぼ毎日何らかの形で食べているという。おそらく、ソバを使ったレシピも世界で最も多いと思われる。

スロベニアではパンにもケーキにもそば粉を入れる。「ポタンツァ」というカッテージチーズ入りのそば粉で作ったパンはお祭りに欠かせないもので、肉料理や野菜料理と一緒に食べるという。また、ニジマスの表面にそば粉をまぶして油で焼いた料理も伝統的な料理として知られている。さらに、そば粉の生地で袋をつくり、中にクリを詰めてゆがいた料理もあるらしい。

スロベニア人はソバの実だけでなく、花や茎もアルコール漬けにして食べたり、しぼってジュースにして飲んだりするという。こうして見て来ると、スロベニア人が日本人よりもソバ好きなのは間違いないと思われる。

ソバを今日でもよく食べる国としては、イタリア・フランス・スロベニアのほかに、クロアチア、ポーランド、デンマーク、チェコなどがある。ソバにはほかの穀物にない独特の風味があるが、それが日本人だけでなくヨーロッパの人々にも好まれるのだろう。