間違いだらけのヨビノリチャンネル《数学の歴史》
この記事は
古代エジプト人は3:4:5の比を辺をもつ三角形を使って直角を作図した
ピュタゴラスは三平方の定理を証明した
古代ギリシャで無理数(量)の研究は禁止されていた
無理量を口外した者はピュタゴラス教団に殺された
アルキメデスは「私の円を乱すな」と言った
キリスト教徒のせいでギリシャ数学は滅びた
デカルトは「デカルト座標」を発明した
古代ギリシャ人は三大作図問題を解けなかった
古代エジプト人は円周率を計算していた
以上のような数学史上の俗説を検証するものです.全文無料公開ですが,注釈(本文で ³ のような上付きの数字で示されている箇所の脚注を読めます)を含めたPDFは有料となっております.さらに学びを深めたい方はご購入ください.それでは始めます.
序.
数学史に関する書物で,原典を調べもせずに,他の書物から無批判にその主張を受け売りしている例,お伽噺のようなことが「あまねく知られた事実」として流布している例,それらは何と多いことであろう¹!
この言葉は,数学者であり数学史研究者でもあったヴァン・デル・ウァルデン(1903~1996年)が1954年に語ったものです.残念なことに,数学の歴史として語られるものの中に数多くの「お伽噺」が含まれているという状況は,半世紀以上たった現在でもさほど変わっていないようです.
残念ながらヨビノリチャンネルで公開されている《数学の歴史》は,世間に流布する誤りを一箇所に集めてしまったような動画になっています.
本稿は,その誤りを指摘するものですが,すべての間違いを網羅的に指摘するものではなく,またその誤りを晒すことを目的ともしていません.というのも,動画で紹介される「お伽噺」の多くは,他の本や記事でも見られるものだからです.本稿では,ヨビノリチャンネルで歴史として誤って説明されている俗説や事実誤認について解説することで,より魅力的な数学の歴史の楽しみ方を提案することを目指します.
それでは最初に古代エジプト数学が我々に何を教えてくれるのかを考えてみましょう.
1.エジプト数学という異質な数学が教えてくれるもの
動画では,冒頭で「なぜ古代エジプトで幾何学が発展したか?」という問いを発します.そしてその理由を
ナイル川の氾濫によって土地を測量する必要があったため
と説明します.しかしこの発言が,紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスによるものである点には注意が必要です².動画で取り上げるエジプト数学(幾何学)が書かれてある『リンド数学パピルス』は紀元前17世紀頃のものですから,そこから1200年以上も後のヘロドトスの発言を一体どれほど信用してよいものか,正直分からないとしかいえません.例えばヘロドトスは「ピラミッドは強制労働によって造られた」と報告していますが³,近年の研究はこの報告に否定的です⁴.ナイル川のように定期的な氾濫を繰り返さない地域でも興味深い発展を遂げた幾何学は誕生していたので,ヘロドトスの報告はあくまでも推測に過ぎないと考えるべきでしょう⁵.『リンド数学パピルス』の問題は,食糧分配の問題,領域の計測,(ピラミッドの)勾配計算など多岐に亘りますが,天文学への応用は見られないという特徴があります.したがって,エジプトの数学は行政の実務を担う書記官育成のために発展したと考えられます⁶.土地の測量のために発達したというヘロドトスの報告をそのまま信じるわけにはいかないのです.
まず動画の誤りを指摘する前に,エジプト幾何学の実例を見てみましょう. 注目するのは三角形の面積です.
『リンド数学パピルス』では,図1のような三角形を,底辺4の半分に辺10を乗じることで求めます.この三角形を直角三角形と解釈すれば,その面積は4×10÷2となるので正しい計算(底辺)×(高さ)÷2をしていることになります.しかし,もし細長い三角形を描いているとすれば,彼らはその面積を(底辺)×(斜辺)÷2としており計算を誤っています(ただし細長い三角形ですから概算にはなっています)⁷.
「数学は普遍的だからエジプト人が三角形の面積を誤るはずはなく,そこで扱っていたのは直角三角形に違いない」と断定するのは歴史的には危険な発想と言えます.というのも,『リンド数学パピルス』の三角形はつねに縦に短い底辺をもつ横長な形で書かれてあるのです.さらに「底辺」と訳されている語の原義は「口」です.三角形が図2のようなワニの口に見えると評する研究者もいます⁸.この問題は「細長い三角形の面積は(底辺)/2×(辺)で計算せよ」というものだった可能性もあるわけです.
つまり,数学は普遍的だという先入観を捨てると,この時代のエジプト人に「平面図形の辺の長さ」という発想はあっても,「平面図形の高さ」という発想が明確には現れないということが見えてくるのです(少なくとも彼らが残した図と用語に「平面図形の高さ」は見当たりません).それと同時に,仮に「高さ」という概念が欠如していたからといっても,それをエジプト人の欠点とするのは歴史の見方として不適切であるということにも注意を払う必要があります.過去の数学を評価する際,その数学に見られる「欠点」を彼らの能力の欠如に帰するのは過去の数学的才能への敬意を欠きます.そうではなく,その「欠点」を彼らの関心の欠如(この場合は平面図形の高さへの無関心)で説明すべきなのです⁹.古代エジプト人の幾何学は我々とは異なる図形の見方があったことを教えてくれます.
ここで少し脱線しましょう.中世ヨーロッパでは,三角形の面積が(底辺)×(高さ)÷2になるということに疑念を投げかけた人がいます¹⁰.例えば図3のように,1辺が3の正方形の面積は4.5ですが,これが三角数の和,つまり4×3÷2=6と一致しないのは何故なのかというのです.なんとも不思議な疑念ですが,「面積」「平面図形の高さ」という概念が人類にとって自明ではないことを教えてくれるエピソードです.
さて,三角形の底辺に垂線を作図して高さを見出すという発想を古代エジプト数学になかなか見出せないとすれば,動画での次の発言も怪しくなります.
「(古代エジプトの)縄張り師は3:4:5の長さの比をもつ縄をもちいて直角をつくった」
実のところ,この説を耳にした方は多いかもしれません.ところが,三平方の定理によって直角(三角形)を作図していたという説は,19世紀の数学史研究者カントールという人が「かもしれない」と言い出したもので¹¹,その後英国の哲学史研究者バーネットらが(あたかも事実かのように)広めてしまい¹²,数学史の研究者らによって度々「事実ではない」と注意されている俗説なのです¹³.三平方の定理がエジプトに現れるのは,紀元前3世紀の『カイロ・パピルス』です¹⁴.もちろん,それ以前にエジプト人が三平方の定理を知らなかったとは断定できませんが,それでもエジプト人にとって,直角三角形になるように印をつけられた縄を用いて垂直を作図するというのは,平面図形の高さというものに関心のなかったように見える彼らにとって,馴染みのないやり方だったのでしょう¹⁵.
さらに動画では「セケド」というエジプト数学の概念を「セケドは今で言うコタンジェント」だと説明します.確かにセケドは,(底辺の半分/高さ)によって計算されますので¹⁶,コタンジェント(余接)に相当するように見えます.しかしエジプト人は,セケドを長さの単位で表していることから,それを「比」ではなく「長さ」であると考えていたことが分かります.三角比とは別物なのです.
そのうえ,彼らには「角」の発想が見られません¹⁷.そもそも「角」とは一体何なのでしょうか.辺と辺に挟まれた「大きさ(面積?)」なのか.それともその「開き具合(回転?)」でしょうか.この「角」という発想はエジプトだけではなく,他のあらゆる地域の数学において明確に現われることはなく,ギリシャ数学において初めて誕生する風変わりな概念なのです¹⁸(ギリシャ以来,近世に至るまで「角とは何か?」という問いは哲学者を巻き込み論争となりました¹⁹).したがって,エジプト数学には角という概念が見当らないため,セケドはコタンジェントとは異なり,角(度)ではなく,長さで形(ないし勾配)を定める概念であるというべきなのです.過去の概念を現代のものと同一視すると見失うものがあるのです.
しかし,平面図形における「高さ」には無関心であったかもしれないエジプト人も,セケドの例から分かるように立体図形の場合は正しくその「高さ」を捉えていたようです.このことから自分たちのことを振り返ってみると,我々は平面図形に「高さ」という術語を当たり前のように用いますが,それは随分と違和感のある(斬新な)図形の見方をしているといえそうです²⁰.このようにセケドという過去の概念を現代の三角比という概念で説明するという試みは,彼らのものの見方を誤解し,過去を歪曲する可能性を含んでいるのです.
なお,動画ではセケドを説明する文脈で非常に気になる発言をしています(12:36~).
「余談なんですけど,これ実際見てみたんですよ.どんな風に定義されてんのかなって結構おおもとの原本の方まで.そしたら今では考えにくいんですけど,水平距離と高さで使われる単位が違うんすよ.」
セケドは例えば『リンド数学パピルス』の問題56で扱われていますが,その現代語訳はこうなっています.
底辺の1辺が360(メフ),その高さが250(メフ)のピラミッドを計算する問題,汝は私にそのセケドを知らせよ.〔中略〕このメフは7シェセプ(である).汝は7掛け算を行うことになる²¹.
問題では,水平距離と高さのいずれもが「メフ」(mḥ)という「肘の長さ」を基準にした単位(約52.5cm)で表されているのです.「汝は7掛け算を行うことになる」と指定することで,答えのセケドを「シェセプ」(šsp)という「掌」を基準とする単位(約7.5cm)に変換するように要求しているだけです.もちろんセケドはある勾配における「高さが1メフあたりの水平距離」ですから,セケドに限れば水平距離の単位にシェセプを用いているというのは事実です.しかし,そもそも問題文を読んだ時点で,水平距離と高さとで単位を使い分けていなかったことは明白です.たくみ氏が実際に見た「おおもとの原本」には一体何が書かれてあったのでしょうか.
さて,エジプト人は問題が解決できたかどうかを検算によって確かめていました²².食料の分配問題などでは,この検算は威力を発揮したことでしょう.ところが,この検算が正しさを保証するという状況は「証明の発明」によって劇的に変化します.それでは証明はいつ頃,誰によって発明されたのでしょうか.
2.タレスとピュタゴラスは数学者なのか?
次に動画では,話題を古代ギリシャに移します.そこでは「紀元前6世紀頃:証明文化の誕生」と題し,タレスを証明という概念の発案者だと説明します.ちなみにたくみ氏は「万物の根源は水」というタレスの学説を「正解とはほど遠い」と評しています.ここは哲学史を学ばれている方たちから「正解って何だよ」というツッコミがありそうですが,本稿では置いておきましょう.
さて,数学史におけるタレスですが,彼が証明の発案者だという説はいまではほぼ完全に否定されており,ギリシャ数学に証明が誕生したのは紀元前5世紀末頃(タレスよりも150年くらい後)だと考えられています²³.動画では「(先輩)タレスが(後輩)ピュタゴラスにバビュロニアやエジプトへ遊学するように勧めた」という伝説²⁴を紹介し,タレスの数学がピュタゴラスに継承されたと考えているようです.しかし,タレスにはアナクシマンドロス(とアナクシメネス)という直弟子がいたにもかかわらず,彼(ら)はまったく数学に携わっていないのです²⁵.タレスやピュタゴラスの定理があっても,アナクシマンドロスの定理がないというのは奇妙な話です.矛盾だらけの伝説を歴史として語ることを受け入れることは,もはやできません.
したがって,証明がタレスの発明だというのは極めて頼りない伝承に過ぎないわけですから「紀元前6世紀頃 三平方の定理を(ピュタゴラスが)証明」という説明もいまでは受け入れられないものになっています²⁶.そもそも動画では「ピュタゴラス教団という当時の最先端数学研究グループ」と言っていますが,そのようなものを裏付ける史料はなく,状況証拠による推測もブルケルト(1931~2015年)によって悉く否定されており,1970年代以降,研究者の多くはその解釈を概ね受け入れているのです²⁷.ピュタゴラス教団は数学とは無縁な「当時の輪廻転生信奉グループ」というのがその実態です²⁸.
したがって,動画でのピュタゴラスとその一派への言及は,すべて20世紀中葉までになされた時代遅れの推測をもとにしていることになります.しかし問題は時代遅れの通説にこだわっていることだけではありません.そこで語られる「数学」も問題だらけなのです.
まず,ピュタゴラスとその弟子たちは「完全数を4つ発見した」と述べられています.ピュタゴラスが論証数学の証明とは無縁であっても,完全数(自身を除く正の約数の和が自身に等しくなる自然数)は地道な計算によって発見できます.すると,彼らが完全数を発見したという可能性はあるのでしょうか.
史料はその可能性に否定的です.というのも,ピュタゴラス派は「10を完全数」と言っていたと伝承されているのです²⁹.完全数は6, 28, 496, 8128…ですから,我々(とユークリッドのような数学者)の考える「完全数」とピュタゴラス派の考える「完全数」は,そのいずれもが‘teleios arithmos’(完全なる数)と呼ばれているだけで,内容は別物だったと考えざるを得ないのです.そのうえ(数学の)完全数の実例を残しているのは紀元後2世紀に活動したニコマコスの『算術入門』であり³⁰,ピュタゴラスの時代とはかけ離れていますし,10を完全数に含めていません.
続いて動画では,ピュタゴラス教団による「無理数」の発見についての説明が始まります.
ここで注意しなければならないのは,古代ギリシャには「無理数」はありません.我々は,1辺が1の正方形の対角線の長さを√2というように「数」と「量(この場合は長さ)」を同一視しますが,古代ギリシャにおいては「数」と「幾何学的な大きさ」とは区別されていました.したがって「非共測量」ないし「通約不能量」「無理量」と呼ぶべきなのです.数と幾何学的な大きさが区別されていたということはルネサンスでも重要になるので覚えておいてください.
さて,動画では「√2×√3=√6の計算ができるようになるのは,この時代の1000年後くらい」と説明していますが,そもそも√2という数がないのですからその計算が出来ないのは当たり前です.とはいえ無理数と非共測量とを同一視する立場から,ギリシャ人は「√2×√3=√6の計算が出来ない」と言ってしまうのは,あまりにも彼らの能力に対して敬意を欠く説明です.ここで少しギリシャ数学について説明してみましょう.
図6において,(面積6の正方形):(面積3の正方形)=(面積xの正方形):(面積1の正方形)となるように,(面積xの正方形)の大きさを定めるとします.
我々は,面積6の正方形の1辺の長さを√6と表しますので,この問題は,√6 : √3=√x : 1 という比例関係を満たすxを求める問題と同値です.この問題はユークリッド『原論』第Ⅵ巻命題22で扱われており(ただし6や3といった具体的な数値はありません),そこでは,この比例関係が6 : 3 = x : 1に変換できることが証明されています.すると,求める正方形の大きさは2となりますから,その1辺を我々は√2と表します.さらに√6 : √3=√2 : 1 という関係は√6 =√2√3 と理解されますので,ギリシャ人が「√2×√3=√6の計算ができない」というのは,彼らの幾何学の前提を無視した説明であることが分かります.
なお,「√2×√3=√6の計算ができるようになるのは,この時代の1000年後くらい」というのは,おそらく9世紀に活動したイスラームの数学者アブー・カーミルの方法のことを指しているのだと思われます.そこでは,√9×√4=√36がまず図7のような「図形」によって証明されます.正方形AEとENにおいて(四角形を2文字で表すのはギリシャ以来の伝統で正方形AEとは正方形ABEKのことです),AB=√9, BG=√4とし,長方形ZKの面積(√9×√4)を求めます³¹.そのためにギリシャ流のやり方で,正方形の中の線分の比を面積の比へと変換していきます³².
ME : EK = ZE : EB
ME : EK = 面積EN : 面積ZK
ZE : EB = 面積ZK : 面積AE
面積EN : 面積ZK = 面積ZK : 面積AE
(面積ZK)² = 面積AE × 面積EN
すると,(面積ZK)²が出てきますが,これは「面積の平方」という3次元までの幾何では意味をなさないものです.そこで,アブー・カーミルはこれ以降を数の計算に転換して,(面積ZK)² =36,すなわち面積ZK=√36としています.アブー・カーミルはこの幾何学的な証明につづき,「量」についても同様にして,(√9√4)²=(√36)²を証明しています.「面積の平方」という幾何学では扱えない量が現れると,数に転換することで証明をつづけているのです.これはアブー・カーミルが「実数」の概念に無意識に近づいていることを示しており,そこには厳密な論証からの逸脱,言うなれば「健全な鈍さ」を読み取れます³³.
このように,無理量の研究が禁止されていたというのは史実ではありません.ユークリッド『原論』第Ⅹ巻の主題を現代の記号法で意訳すれば,√(√a±√b)で表される無理量の研究なのです.したがって「ギリシャ人は無理数の計算ができなかった」というのは不適切な表現であることが分かります.それと同時に,我々が期待するような「量」から「実数」への移行には,彼らの考える厳密な証明の枠組みを乗り越えて量と数を同一視するという飛躍が必要だったことも分かるのです³⁴.
さて,ピュタゴラス教団と非共測量の話に戻しましょう.動画では,非共測量にまつわる恐ろしい噂話を流しています.
「紀元前5世紀頃 無理数の発見者とされるヒッパソスは無理数の存在を公表して殺される」
この発見は,彼らの「万物は数である」という学説に反していたため,それを公表したヒッパソスは殺されてしまったというのです.しかし,ヒッパソスの最期を伝える史料には「不敬神のため海で溺死した³⁵」とだけ書かれてあり,ピュタゴラス教団を殺人罪で訴えるには(歴史的に)証拠不十分なのです³⁶.我々はこの現代の噂話を鵜呑みにして,輪廻転生を信じて殺生を避けたピュタゴラス教団を貶めることのないようにしたいものです.
さらに「無理数(量)は当時受け入れられなかった,無理数(量)の研究は禁止されていた」という動画の説明も史実に反します.ヒッパソスと同時代の,つまりヒッパソスによって非共測量の存在を公表されたはずの数学者には,どういうわけか非共測量の存在は自明であり,そのすぐ次の世代のプラトンやアリストテレスはなんの遠慮もなく非共測量に言及しています³⁷.そこにスキャンダルや禁止の痕跡は見当りません³⁸.正方形の1辺と対角線とが非共測(通約不能)であることは,証明を発明したギリシャ人にとっては当たり前のことだったのです.
ひとたび証明という概念が発明されてしまえば,非共測量(無理量)の存在はおのずと知られることになります.それこそが証明という新しい概念の威力なのです.
3.本当のアルキメデス
証明というものの威力をまざまざと見せつけてくれるのがアルキメデスなのですが,動画では,そのアルキメデスの数学の説明においてもいくつかの事実誤認をしています.たくみ氏は「アルキメデスは天秤とか使って(放物線の面積を)実験で予想している」と説明していますが,このことを裏付ける史料は存在しませんし,動画の概要欄で参考文献として挙げられている佐々木力『数学史入門』(80頁)でも明確に否定されています.
アルキメデスは「幅のない線」や「厚みのない面」に重さがあると前提し,それらを理想的な天秤(仮想天秤³⁹)の上で扱うことができるようにすることで,求めたい図形の面積や体積と,既知の図形とを比較する方法を編み出したのです⁴⁰.具体例を挙げれば,三角形の面積と重心は分かっているので,それと放物線がつり合えば,おのずと放物線の面積も分かるという方法です.それでは図8で説明してみましょう.
まず放物線をAOGとし,その接線をGZとして三角形AGZを作ります.任意の点Nにおける放物線の切り口をOXとし,三角形の切り口をMXとします.すると放物線の特性から,MX:OX=KG:KNであることが知られています⁴¹.すると,切り口OXをKG=KQである点Qに吊し,GQを天秤の横木とし点Kを支点とすれば,図9のように切り口OXと切り口MXがつり合うことが分かります.
これはすべての(無限個の)切り口において成り立つため,その切り口を図10のように集めると放物線と三角形はつり合うはずです.三角形の重心は横木GKを2:1に分割する位置にあるため,(放物線):(三角形)=1:3となることが分かります.なおアルキメデスはその三角形の1/4の大きさである放物線の内接三角形を考え,(放物線):(内接三角形)=4:3と予想しています.
このようにアルキメデスは,動画で説明されるような器具を用いた実験をしていたわけではなく,あくまでも幾何学的な推論によって面積や体積を予想していたのです.
しかし,この方法は①線や面に重さがあるとしていること,さらに②重心やつり合いという幾何学にはない概念を使っていること,また③無限個の切断面を集めるといった難点があったため,アルキメデスは,正しい結果を教えてくれるものの厳密な証明にはなっていないと考えたようです⁴².そこでアルキメデスは動画内で紹介する「数列の和」を用いた証明を準備するのですが,そこにも事実誤認があります.動画ではアルキメデスは「等比数列」の和の計算を正方形の内部で議論したかのように説明しています.しかしそのような事実はありません.
図11の放物線ABΓに内接する三角形ΑΒΓ,AΔΒ,BΕΓ,…の面積の和は,公比1/4の等比数列の和と等しくなります.アルキメデスは仮想天秤を用いて,放物線ABΓの面積が内接三角形ABΓの4/3倍になることを予想していましたので,この等比数列の和が4/3になることも予想できていたのでしょう.もちろんそれは証明する必要があることです.
動画では,その和を評価するために,アルキメデスは正方形を図12のように分割し,その和は正方形の1/3になると説明するのです.しかし,これはあくまでもたくみ氏(あるいはウィキペディア)の再構成でありアルキメデスのものではありません.このような正方形の無限分割には終わりがなく,ギリシャ人が要求する証明の厳密さの基準を満たしていないのです.
実際にアルキメデスは,等比数列の最後の項(大きさ)を1/3にしたものを数列に付け加えると,この数列の和が「常に1/3」になることに着目したのです(正方形の無限分割と同じように見えますが,アルキメデスのやり方は常に「有限の範囲」に留まっていることに注目してください)⁴³.
この性質を利用して放物線の面積が内接三角形の4/3倍より大きいと仮定しても,小さいと仮定しても矛盾する,すなわち4/3に等しいことを導いたわけです.アルキメデスは有限のステップと帰謬法(背理法)こそが,厳密に曲線図形の面積や体積を決定する証明法だと考えたのであって,正方形を分割して直観的に1/3としたわけではないのです.大胆に無限を駆使して結果を予想し,その結果を有限の範囲で論証したという点にアルキメデスの偉大さがあります.
さて,第2次ポエニ戦争において,アルキメデスの暮らすシュラクサイはローマ軍に陥落させられます.アルキメデスを生かしておくように厳命されていたローマ兵ですが,アルキメデスは名乗ることを忘れるくらいに幾何学の問題に没頭しており,結局ローマ兵に殺されてしまったと伝承されています⁴⁴.「私の円を乱すな(動画では「壊すな」)⁴⁵」という最期のセリフはあまりにも有名です.たくみ氏はアルキメデスの数学的な天才を知ってしまうとこの伝承を「たとえ嘘だとしても信じてしまう」と述べられています.しかし,概要欄の参考文献である斎藤憲『アルキメデス「方法」の謎を解く』では,この伝承が嘘かどうか以前に「まず『私の円を乱すな』という言葉そのものは古代のどの作家にも出てきません」と注意されています(3頁).さらに,アルキメデスは誤って殺されたのではなく,ローマの敵として処刑されたという近年注目を集めた説を紹介することで,この伝承を否定的に検討しています(1–8頁).果たして動画作成時に参考文献を確認されているのかと苦言を呈したくなります.
4.古代のキリスト教への偏見
動画では,ユークリッド『原論』の紹介を終え紀元後に話題を移すと,「本が残るようになった」という大きな変化に言及します.そのうえで,「本が残るようになる原因は?」という問いを発し,
「ローマによる支配が進んで数学に実用性が求められたから」
「戦争によって口述から書籍へ推移したから」
とその理由を説明します.しかし,ここにも基本的な事実誤認が認められるのです.
まず,ギリシャ人が著作を残すようになったのは紀元前5世紀からであり,これは数学書の場合も同様です⁴⁶.早くも前5世紀末にはすでに最初の『原論』が書かれています(著者はキオスのヒポクラテス)⁴⁷.残念ながらそれらの著作は失われてしまいましたが,紀元前300年頃に書かれた数学書は現在でもいくつか伝存します.アルキメデスやユークリッドの著作以外にも多くの数学書が書かれていたのです⁴⁸.
したがって,「ローマによる支配が進んで数学に実用性が求められた」「戦争によって口述から書籍へ推移したから」というのも数学書が誕生した実態を捉えていません.ヘレニズム期の数学書に限っていえば,ローマとは無関係に,王侯(パトロン)へ研究成果を報告するものであり,そして遠くの数学者仲間と通信するためのもの(書簡)だったのです⁴⁹.
さらに「キリスト教徒によって数学書が焼かれてしまった」と古代末期の数学の衰退を説明しますが,これも迷信です.
確かに,古代末期のキリスト教徒は文化財を破壊しました⁵⁰.そして古代末期最後の有力な数学者であるヒュパティアがキリスト教徒に惨殺されたことも史実です.しかし,彼女以降も著名な数学者は知られていますし,そもそも数学の「停滞」や「衰退」と捉えられる現象はすでに紀元前2世紀(驚くべきことにアルキメデスとアポロニオスの没後すぐ!)には始まっているのです⁵¹.図13は古代の科学者の人口の推移を表わしたものですが,数学以外の学芸(天文学や医学など)でも,その人口が激減していること等からハドリアヌス帝の時代(2世紀)には「凋落」が始まっていたことが分かっています⁵².これはキリスト教がローマ帝国の国教となる200年以上も前のことですから,古代の数学の衰退にキリスト教は無関係なのです.
これは些末な点かもしれませんが,たくみ氏が『原論』を「聖書の次に重版された」「1000回以上重版された」と紹介しているのも問題です.「1000回以上」というのは初耳としても,この人口に膾炙した表現はド・モルガンが『原論』の偉大さを「聖書に次ぐベストセラー」と比喩的に表現したものが,その後ひろく流布されるようになっただけであって,本当にそれだけ売れた,ないし重版されたわけではありません⁵³.西洋古典に限っていえば,ホメロスやウェルギリウスのような文学作品の方が圧倒的に写本も多く,よほど重版され続けているのではないでしょうか(これは現代でも)⁵⁴.
5.広まらない便利な発明
つづいて話題は0,そしてアラビア数字に移ります.動画では,フィボナッチ(12~13世紀)がインド-アラビア数字をヨーロッパに紹介したことで広まり,飛躍的に計算力が上がったと説明されていますが,ここにも誤解があります.そもそも数字は記録用だからです.
図14は筆算とアバクス(算盤)による計算の様子を描いたものです⁵⁵.安価な紙が普及するまで,紙を使う計算は経済的ではありませんでした.図14でも筆算は消すことが容易な板(算板)で行われています⁵⁶.紙とペンを用いない算板での筆算は計算過程が残らず,伝統的に用いられてきたアバクスに対する優位性が不明確だったのです⁵⁷.ソロバンを用いて巨大な数の計算ができることから分かるように,計算能力の向上理由を筆算に求めるのは誤解を招く説明です.
また,商業においてアラビア数字は(例えば0を加えることで)改竄が容易であることから法律で禁止されており⁵⁸,ようやく15世紀(あるいは16世紀)になって広く用いられるようになったという点にも注意が必要です.もちろん禁止されたということは,それが普及しつつあったということでしょうが,数字は計算用ではなく記録用だったことがよく分かります.紙の普及により計算過程が記録できるようになることで,その優位性が明確になり16世紀には筆算が主流となります.それでも数字は記録用という通念は根強く,たくみ氏が動画内で「(初期)ルネサンスの三大科学書」として言及しているコペルニクス『天球の回転について』にも,天文学的数値がアラビア数字ではなくローマ数字で書かれてある箇所が数多くあるのには驚かされます⁵⁹.アラビア数字はフィボナッチの紹介によってすぐに広まったわけではなかったのです.
また,動画では,インド数字がアラブで「ワンバン」してヨーロッパに伝承されたと言っており,イスラーム文化における数学の魅力的な展開を無視しているかのように見えます.中世ヨーロッパにとってイスラーム文化は「ワンバン」――つまり東方の便利な数字の橋渡し役に過ぎない――と形容できるようなものではありません.
6.数学対決のゆくえ
さて,ルネサンスに話題を移し,動画ではイタリアでは「どうして流行ったのかは分からないが」と前置きした上で「数学対決が流行っていた」と,あたかも数学のストリートファイトのようなものが唐突に始まったと想定しています.しかし,これは誤解を招くもので,この公開対決(討論)は中世の大学における公開討論の伝統に則っているものなのです⁶⁰.大学での公開試験や討論は,図16のように多くの人を巻き込んだある種のお祭り騒ぎの様相を呈していたようです.
さて,タルタリアとカルダノの間に起きた3次方程式にまつわる諍いは有名です.タルタリアが発見した3次方程式の解法を公開しないという約束のもとカルダノに教えたが,カルダノはタルタリア以前に,その解法を発見していた人(フェッロ)がいたことから,約束は無効だと考え,自身の著作『大いなる技法(アルス・マグナ)』でその解法に証明をつけて公開しました.約束を反故にされたと怒ったタルタリアとカルダノの間には諍いが生じ,数学対決に発展したというものです.動画では,カルダノとタルタリアの諍いをこう説明します.
タルタリアは3次方程式の解の公式を発見していたが,それを秘匿して数学対決で無双していた.それを公表しないという条件でカルダノに教える.しかしカルダノは『大いなる技法』の出版によって3次方程式の解の公式を,弟子のフェラーリの発見した4次方程式の解の公式とともに公表する.その本を読んで約束が反故にされたと怒ったタルタリアはカルダノと揉めたため,カルダノの代わりとなるフェラーリと数学対決させられるが,「持っている武器が違った」ためにフェラーリに完敗した.
ここで語られるのは,方程式の解法の進歩が数学対決の勝敗に直結し,利己的な秘密主義によって数学の進歩を阻んだ側が,成果を公表して数学の進歩に貢献した側に敗れるという「麗しい進歩の物語」です.
しかし,この物語には奇妙な点があります.まず,①約束違反に怒っているはずのタルタリアが,「被害者」であるにもかかわらずカルダノ(の弟子フェラーリ)と数学対決させられることになるのは奇妙です.タルタリアは約束を反故にされても,抗議ではなく正々堂々(?)と数学で勝負をつけるような「数学紳士」だったのでしょうか.そのうえ,②4次方程式の解法はすでに公表されている(つまりタルタリアも知っている)にもかかわらず,「持っている武器が違った」という理由でフェラーリがタルタリアに圧勝したというのも違和感があります.カルダノはフェラーリの発見した解の公式を知っていても,それを敢えて用いずに4次方程式を解くべきだと考えた…骨の髄まで「数学紳士」あるいは「数学闘士」だったとでもいうのでしょうか.
歴史を学ぶとき,しばしば現われる「もっともらしいけど怪しい話」には注意が必要です.自分の信念に合致するように歴史は改変される場合があるのです.史実はこうです.
タルタリアは『大いなる技法』の出版でカルダノの約束違反を知り,そのことを批判する内容を含む本を出版しました.カルダノは無視を貫きますが,この批判に喧嘩で指を失うような血気盛んな弟子のフェラーリが怒り,公開討論を申し込みました.もちろんタルタリアはカルダノとの対決であれば応じると返答したものの,フェラーリの再三の「煽り」にたまりかねたのか,ついに対決に応じることにしました⁶¹.そして,ここからが特に問題となる説明なのですが,②その対決結果は,罵詈雑言が飛び交う騒然としたものだったということが(タルタリア自身の証言から)伝わる程度で公式記録はなく,あとはフェラーリが数多くの名声と大学の職を得たということから推測するしかないのです⁶².少なくとも,動画内で説明されるような「持っている武器が違った」からフェラーリが圧勝したというものではなく,そのうえフェラーリが討論に提出した31の問題は,代数だけではなく,幾何,天文学,建築そして哲学と多岐にわたっています⁶³.
「3次方程式 VS 4次方程式」そして「秘密主義 VS 公開主義」という分かりやすい構図を思い描くことで「史料からははっきりと言えない事件」が「もっともらしい話」に改変されたのが分かります.
この世紀の対決において注目すべきことは,動画で語られるような勝敗のゆくえではなく,「麗しくもっともらしい話」でもありません.まず注目すべきは,この対決以降,数学史上の重要な問題が数学対決という公開論争の場で争われることはほとんどなくなり,研究成果は書物によって公表されるようになったことです.学問の世界では,口頭での実演に重きをおいた中世風の討論から,書物による公表へと変化が起こっていたのです.この背景には,写本から活版印刷へと書物の媒体が変化することで,その普及が進んだという事情があります.それまで羊皮紙に書かれた貴重な写本は,図17のように鎖に繋がれて一部の大学に保管されていましたが,ようやくこの時代になると,印刷本を蔵書した自前の図書館を持つことが一般的になります⁶⁴.
活版印刷による書物の増大は,後世への伝承,あるいは遠く離れた人との通信という書物の役割に,同時代の多くの人に自分の業績を公表するという今では当たり前の役割を付け加えました⁶⁵.カルダノの『大いなる技法』を含む多くの印刷物の誕生は,そのような時代の賜物です.タルタリアが印刷物でカルダノを批判したこと,そしてフェラーリのタルタリアへの挑戦状が,手書きではなく印刷物であったというのはこの時代の変化を象徴しています⁶⁶.数学史上の最後の公開討論の背景には書物の大きな変化があったのです.
そしてまた,激しく対立していたタルタリアとカルダノですが,発見された解法が「証明」を与えていないという点において両者は同意していたということにも注目すべきです⁶⁷.カルダノが『大いなる技法』で「解法に証明をつけて公開した」と言ったのは,タルタリアは解法を証明していないと考えられていたからです.タルタリアがカルダノに教えたのは詩でした.彼は3次方程式の解法を秘匿するために,それを図18にあるような詩として暗記していたのですが,これはまさしく実演が重要であった時代の発想といえます.
ところでこの詩は,解を計算する手順を示すものですから,その手順(=計算)が証明になっていないというのは実に不思議なことです.このことは,例えば2次方程式の解の公式を導出する過程そのものが「証明」になっていることを想像するとよく分かります.この考え方の背景には,定数(pやu, vなど)を表すための方法(記号)がなかったこと,そして代数計算はあくまでも計算に過ぎず,その証明には幾何学的な議論がなくてはならないという通念が当時はあったのだと想定できます.そこでカルダノは,図19左のような立方体(右はカルダノの図を見取り図にしたもの)を用意して3次方程式の解法に幾何学的な「証明」を与えました⁶⁸.カルダノが公表したのは,方程式の「解法」だけではなかったのです.我々にとっては同じことですが,彼らにとっては重大な違いがありました.
タルタリアとカルダノの対決からは,数学の麗しい進歩の物語ではなく,写本から活版印刷によって情報の伝え方の変化が起きた時代に数学者の生き方の変化があったこと,そして,代数と幾何がまったくの別物であったことが読み取れるのです.
ルネサンス期が終りを告げると,このような「代数計算は証明を与えない」という通念に,デカルトは革命を起こします.この革命によって数学の「計算」は「証明」となるのです.
7.デカルトの夢
さて動画では,デカルトの数学における解説で「これまでの数学には座標がありません」と切り出し,デカルトは『方法序説』(の『幾何学』)で「デカルト座標」を導入したと説明します.
しかし「(平面で)直交するxy軸と,それらの交点である原点(0, 0)によって,点の位置を数で表す座標系」はデカルトの著作には現われません.そこに現われるのは図21のような図版です⁶⁹.
デカルトは,CB=y, AB=xとし,CD,CFおよびCHの長さを代数方程式で表し,それを解くことで,問題の条件を満たす軌跡(ここでは点線で描かれた円)を決定します.このようなデカルトの幾何学の特徴についてボイヤーはこう評しています.
デカルトは測量技師や地理学者のように点を位置づけるために座標という枠組を設定したわけでもなかったし,また座標を数の対と考えたのでもなかった.その点では,こんにちしばしば用いられる「デカルト積」という言葉も時代錯誤である⁷⁰.
したがって,デカルトが発明した「座標」というのは,図形をxとyを変量とする代数方程式で表し,それを解くことによって幾何学の証明が遂行できるというものであり,xとyで表される線分は直交している必要はなく,また点を(x, y)で指定するものでもありません.動画では「デカルトは従軍中に,テントのなかで蠅の位置を表わす夢をみて座標を発想した」という発見時の詳しいエピソードまで付け加えています.たくみ氏はこのエピソードによって座標が発見されたのは「納得いかない」と指摘していますが,当然です.デカルトの幾何学は蠅(点)の位置を直交座標上の(x, y)で表すようなものではないのですから.
この「従軍中」「夢」そして「蠅」というキーワードは,ヨビノリチャンネルの動画以外でも,さまざまに組み合わせられてデカルトの著作にはまったく見当らない「デカルト座標」を発明した際のエピソードを形成します.動画では言及されないものの,この夢をみた日付を「1619年11月10日である」と特定する本や記事もあります.デカルトがこの日付に炉部屋で思索し,夢を見たというのは史実とされていますが⁷¹,蠅の話は,そこについてしまった「尾ひれ」に過ぎない奇妙な俗説だと考えざるを得ません.
デカルトの新機軸は,デカルト座標の発明などではなく,代数と幾何の融合にあったのです.数学史上におけるこの「革命」によって,代数による計算がそのまま幾何学的な証明として認められるようになりました.これでアブー・カーミルによる最初に図形を用いて,途中から数に転換する平方根の積の証明,そしてカルダノによる立方体を準備することでの3次方程式の解法の証明は必要なくなります.しかし「便利な数字」であるアラビア数字がすぐには広まらなかったのと同様に,幾何学の証明こそが正当であるとの立場に固執する数学者もいました.そして,このことが微積分の発明者は誰なのかということにおいて決定的に重要なのです.
動画では,フェルマーは「微分と積分が逆の関係である」ことに気づけなかったため,微積分の発明者とはならなかったと説明されていますが,これも概要欄で参考文献として挙げられている佐々木力『数学史入門』(168頁)で否定されています.微分と積分が逆関係であることは,すでにニュートン以前にも示されていたのですが,彼らは幾何学的な表現に留まっており,代数的アルゴリズムで表現しなかったのです.ニュートンとライプニッツはその条件を満たしていたため,微積分の発見者となり得たのです.
なお,我々が「デカルト座標」として想起する直交座標系は18世紀を通じて徐々に形成されたことが知られていることを補足しておきます⁷².
8.過去に現代の価値観を投影する
法律やルールの効力はその施行以前には遡って適用されません.これは「法の不遡及」と呼ばれる大原則ですが,数学の歴史と語られる物語においてはどういうわけかこの原則が破られることがあります.
まず,動画では「ガウスは19歳のときに正十七角形の作図をやった」と説明しますが,これは「19歳のときに正十七角形⁷³の作図が可能であることを証明した」の誤りです⁷⁴.ガウスが正十七角形の作図法を示したという証拠はありません⁷⁵.なお,動画でも語られるように,日本では「ガウスは目覚めたときに(作図可能性を)思いついた」という逸話が,高木貞二『近世数学史談』(7頁)によって知られていますが,高木がどのように「目覚めたとき」という詳細な状況を知ったのかは不明です.留学先のドイツでガウスの弟子筋から聞いた可能性もありますが,高木によるドラマティックな脚色の可能性も否定できません.
さて,ここから「法の不遡及」の大原則が破られる問題の説明が現れます.動画では「三大作図問題は紀元前500年頃に流行ったが,当時の人は誰もできなかった」と説明しています.しかしこれは史実ではありません.三大作図問題は古代のあらゆる期間を通じて,さまざまな解決をされていました.例えば,動画で紹介される立方体倍積問題は,もっとも盛んに研究された問題でありアルキュタスやメナイクモス(いずれも紀元前4世紀に活動)らによって解かれています⁷⁶.ここではメナイクモスの解法を説明しますが,その前に「立方体の比」の問題を「線分の比」の問題に還元する方法を説明します.
体積がa³の立方体の2倍の体積をもつ立方体を2a³とし,その1辺を作図することが求められています.線分x, yを比例中項として線分a, 2aの間に
(a:x) =(x:y)=(y:2a)
となるように挿入すれば,ay = x²かつxy = 2a²となります.すると,
a : x = x² : 2a²,すなわち
x³ = 2a³となりますので,立方体倍積問題は線分の比の問題に還元されます.
さて,図23においてメナイクモスはΔZ=x, ZΘ=yとします.すると,この線分が(a:x) =(x:y)=(y:2a)を満たせば,ay = x²かつxy = 2a²となることから,ΔKを軸とする放物線ay = x²と,ΔK, ΔHを漸近線とする双曲線xy = 2a²の交点が立法体倍積問題の解を与えることが分かります⁷⁷.もちろん当時は曲線を表すために代数が用いられることはなかったので,ここでの説明は時代錯誤な意訳であることには注意してください.
したがって,放物線と双曲線の交点Θから漸近線ΔHへと下ろした垂線とΔHとの交点Zが立方体倍積問題の解となります.
この解法を見て「(目盛りのない)定木とコンパスだけを用いていないではないか!」という異議を唱える方もいると思いますが,そもそもギリシャ人はそのようなルールを設けていません.そのようなルールは近世以降に形成されたものなのです.特に,デカルトの革命によって,作図題が方程式の解と同一視されるようになり,定木とコンパスによる作図で表せるのは2次方程式を解いて得られる範囲の数であることが知られるようになったことで,この偏見は強化されたのかもしれません.しかし,近世以降にできたルールで古代ギリシャ人を縛るべきではありません.例えばアルキメデスは正七角形の作図を行っています⁷⁸.もちろん定木とコンパスだけを用いているわけではありませんし,そのうえ円錐曲線も用いていないことからイスラームの数学者に「(作図の)実行は困難」と評されています⁷⁹.しかし,その数学的なテクニックは実に興味深いものです.ところが,この状況は近世になると変化しているようで,ケプラーは「正七角形の作図はできない」と表明しています⁸⁰.しかし,ほぼ同時代のヴィエトは正七角形を作図しています⁸¹.作図のルールは普遍的ではないのです.
動画の三大作図問題の説明では,近世以降に変更されたルールが,そのまま過去の数学に当てはめられているのです.これは代数方程式と幾何を同一視する現代の価値観を,無理矢理過去に投影した結果であり,「誰もできなかった」という表現は史実に反するだけではなく過去の数学的天才への敬意を欠くものです.
9.数学史とは解法の歴史
これまで,ヨビノリチャンネル《数学の歴史》の誤りを解説してきました.数学という技芸(art)の特徴はなんといっても,そこで得られた結果が普遍的だということでしょう.三平方の定理は二千年前も,そして二千年後もそのまま正しい命題として通用します.数学の命題は一度証明されてしまえば未来永劫正しいのです.そのせいか数学の歴史を扱う際,我々は過去の数学者が出した「結果」に注目してしまいがちです.そして,この「結果」に注目するというやり方が,過去の知識を現代の知識で評価・整理するという歴史観の源泉となっているようです.最も数学が発展している現代において数学を学んだ我々であれば昔の数学を正しく評価・整理できると考えてしまうのでしょう.数学の歴史は「結果」ではなく,「解法」に注目すべきなのです.エジプト人の三角形の計算やアルキメデスの放物線の決定を「積分」という現代の知識で整理すべきではありません.彼らが問題をどう解いたのかということこそ数学の歴史なのです.
このことを確認するために,古代エジプト数学をもう一度振り返ってみましょう.動画では,エジプト人の求めた円の面積において「円周率の精度はπ=3.1604…」と述べられています.この数値は一体どこからでてきたのでしょうか.
エジプト人は円の面積を求めるために,図24左を準備しました.この図を図24右のように1辺が9の正方形と八角形だと解釈すると,正方形と八角形の面積はそれぞれ81と63になります.そこで円の面積は八角形よりも1大きいとすれば64となり,円の直径を2dとすれば,(円): 4d²= 64 : 81から,円の面積は256d²/81≒3.16d²となり,ここからπ=3.1604…がでてきます.なかなか魅力的な方法ですが,あくまでも現代の解釈であることには注意しなくてはなりません.
それでは実際の『リンド数学パピルス』のテクストにはどう書かれてあるのでしょうか.
問題50
(直径)9ケト〔=900メフ〕の円い土地(の面積)を計算する問題.それは土地(の単位)でいくらか.汝は(9から)その1/9である1を引くことになる.残りは8である.汝は8を8倍する計算をすることになる.それは64になる.これは土地(の単位)でのその量である.すなわち64セチャト〔広さの単位で1ケトの平方〕である⁸².
テクストには,円の直径を1/9減らし平方することで円の面積とせよと書かれています.半径の平方をいかなる数とも掛け合わせていないのです.「減らし平方すること」は「平方し掛けること」と(たとえ同じ結果であっても)同じではありません.エジプト人の円の面積の解法を見ると,彼らが円周率という定数に関心がなかったことも明白です.紀元前3世紀以降,エジプトの円の面積は半径を1とすれば3になります(すなわちπ=3)⁸³.この「衰退」を彼らの「サボり心」や「知的退化」ではなく,いくらでも精度を向上できる円周率という定数への「関心の欠如」によって説明する方がはるかに魅力的ではないでしょうか.過去の数学を理解するには,その解法の違いに関心を持たなければならないのです⁸⁴.
おわりに.
動画の冒頭では「(数学史における発展は)高校数学の教科書で勉強する順番とかなり違う」と過去の数学への感想を述べられています.これまで,数学の歴史を振り返ることで分かったのは,検算の時代,証明の発明以後,代数と幾何の融合というように問題への取り組み方そのものが変化していることです.アルキメデスの放物線の面積決定が進化して積分法になったわけではなく,『原論』の正多角形の作図の延長線上にガウスの19歳の発見があるのでもありません⁸⁵.したがって「順番とかなり違う」のではなく,「順番などない」と考えた方が適切です.似ているからといって同じ概念として扱い,年代順に並べてしまえば,角のない時代の,しかも長さの単位で表されていたエジプト人のセケドを三角関数のコタンジェントと同一視するような誤解を生むことになります.これまで指摘してきた数学史における数々の誤りと俗説の背景には,冒頭で引用したヴァン・デル・ウァルデンの「原典を調べもせずに,他の書物から無批判にその主張を受け売りしている」という指摘の他に,このような過去の数学への無理解があるのではないでしょうか.ポアンカレは数学について,「すでにどこかで言ったかどうかは定かではないが」と前置きした上で,次のように言っています.
数学とは,異なるものに同じ名前を与える技芸である⁸⁶.
もし数学がポアンカレの語るようなものであるならば,数学の歴史を学ぶとき,我々はそのことをいったん忘れる必要がありそうです.
数学史とは,名前が異なるものを異なるものとして扱う技芸なのですから.
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労作ですね。早速購読させていただきました。 私は天文学史における同種の「俗説」をコレクションして検証していますが、この種の「過てる俗説」は天文学界だけでなく他の分野でもあるんじゃないかと思っていただけに、期せずして証明されました。私もとある俗説まみれの本(と検定)を批判しています…