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死者の加護を願う傾向



さて、色々話したいことはありまして昨年から下書きはしてあるものの、投稿を躊躇していました。
それはその出す話がピンと来ないと、ブログに出すのを考えてしまうんですね。

これは今まで何度も有ったことですが、しばらく間が空いたのはそのせいでもあります。
そしてようやく「これを出そう」と成ったのが今回の記事です。


さて、タイトルはどういうことか、ですがこれはこういうことから派生したものです。


例えば自分の家族や知り合いが何かで亡くなったとします。するとそこでよく出てくる言葉が


「あの世で私たちを見守っていてください」


というやつです。



この言葉はよく聞く言葉で、且つ使われる言葉でもあります。
また過去の私もこの言葉に違和感を覚えないでいました。



ですが、ここ数年前から「凄い違和感」を覚えたのです。




それは「死んだ人が生きている人の都合によく合わせられるものだろうか」と言うことから始まりました。



確かに生きている人からすれば生きていた人が生前いろいろ助けてくれたりなどしてくれた存在なので、死してもそれが続くようにと願うのは気持ち的にはわかります。

だが、それが果たして叶うのか?ということです。




またこういうのもあります。よく「ご先祖様が見ている」などと言うのを言う人がいますが、その確証が必ず有るのか。
有るとしたらそれがいつも無いのは何故なのか、と言う疑問です。




死んだ方が死してあの世に行っても私たちを守ってくれるというのはとてもありがたいことでは有ります。
ですが、それがどのようにどのくらい得れるのか。または必ずなのか、というのはわからないことです。


そして死んだ方には生きている人をそんなに守る義務があるのか、ということです。





私にはそれらの言葉はどうも生きている人の都合に寄った考えだなあと思えるのです。





守ってくれるとしたら、では何故守ってもらえたというときと守ってもらえなかったというときが存在するのか。
その差はどこから生じるのか。何でも守ってもらえないときが発生するのか、なのです。



これに対して明確に答えれる人は居ないですね。




それよりも亡くなった方にそういう期待や言葉を発するのではなく、生きていたときは大変であったから「どうぞお眠りください」でいいのではないか。
私たちを守る云々ではなく、死者に安穏を与えることが出来ないのか、と思うのです。


もっと悪い言い方をすれば「死んだ人にあの世へ行っても私たちを守れ」とでも言いたいのか。そこまで依存したいのか、と言うことです。
何で「自分たちは頑張りますから、安心してお眠りください」といえないのか、なのです。




もちろんそのように言う方も居ます。ですが、その逆の「私たちをお守りください」というのをどうか、と言っているのです。
そしてこれが高じると「居もしない神仏に加護をねだる方向」に行ってしまうことです。
つまり詐欺宗教に騙される傾向に入ってしまうぞ、ということです。




私の過去の経験ですが詐欺宗教に騙されない人にはある種の特徴があります。
それは「端から宗教を信じていない・充てにしない人」がその特徴だといえます。



私が過去、阿含宗の欺瞞を知らない時期ですが知り合いの人を阿含宗に導こうと動いたことが何度かあります。
そこで応じなかった人はまずこの傾向があったことです。

当時は確かに「頑固で随分宗教を嫌うんだな」と思いましたが、今になってよくわかります。
つまり依存がない分、宗教はもちろん実際リアルな人にも「頼らない」のがあります。

要は「自分だけを信じ何かを充てにしない」という人ほど宗教の毒牙にはまらない、というのを見せられたわけです。
だから私は当時逆のパターンを通じて「学ばされていた」わけですね。




依存しないのですから如何においしい言葉や内容を言われても「いや、それは自分には不要だから」といって悉く断る。
これが詐欺宗教に騙されない一番の方法です。



だから天邪鬼ではないですが、もしも「亡くなった方が守ってくれる云々」と言うのを言ったらそういう人たちは皆

「いや、自分のことは自分でするから別に守ってもらわなくていい」といいますね。


またお陰話をしても



「いや、欲しいものは自分で働いて買うから要らないし、祈願も祈念も供養も不要だから」といわれます。



今思えばこれが正解なんですね。





ヘタに護摩木に願い事を書いて願えば願いが叶いますよ、とか、うちの神仏は奇跡を起こすんですよ、なんてのに釣られない。
自分だけを信じ、又は自分が信じるものを信じるという強い心があれば、別に宗教なんて要らないんですよね。
だからそのように全然なびかないんです。




だからその人は死んだ人が死して生きている人を守る存在になるとかも考えてないことでしょうね。
もしもそういうのをいっても信じないかもしれません。



だから巷で使われる「耳さわりのいい言葉」や「聞きなれている言葉」に同調しすぎるとヤバイ、と言うことがある。
それは相手とのことで一時的に頷いたり同意はしても、本当に信じてしまっては危険である。私はそのように思います。



死んで人が神とかになると言うのは「神道系」でよく見られる概念です。


しかしそれはその宗教の中だけの概念であって、必ずとはいえない。
また宗旨変えをしたらそれが無くなるとすれば、これはますます「どういうことなのか」ともなる。



お釈迦さまは人が死んだ後、生きている人を守るだのそういうことは一切言っていません。
別な宗教がそういうことを言っていたのを真に受けたり、リップサービスだったものを信じている。
または生きている側がそう願うことで安心を得たいから信じるのが大半です。


良く考えれば死んだ人が守るなんてのは、どこにあるかなんてわからないのです。
それよりもそういうのを充てにせず、自分の力や自分の考えで動く。
それが当たり前であり、当然なのです。



ぜひ、皆さんが詐欺宗教の魔の手から一人でも離れることを祈る次第です。
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