ここのところずっと忙しかったので、時期を逸脱してしまいましたが彼岸のことについて触れてみます。
ご存知の通り彼岸は年二回あり、1つは「春のお彼岸」もう1つは「秋のお彼岸」があります。
お彼岸の意味はネットで調べると簡単に出てきますね。
意味は色々出てきますが、特に巷的、又は日本人が認識し行っている行為としては、そもそもの仏教の意図とは違った行為。
悟りを開くための仏道修行ではなく、春・秋の期間に行われる彼岸会の法要やお墓参りのことを指していることが多いようです。
私もそうでしたが、実はこの風習(のようなもの)に沿いすぎて、疑問を持つ人がどれだけいるか。
まあたまに「何かエンドレスでおかしくね?」と思ったことがありましたが、せいぜいそこまでです。
よく考えてみてください。
生きている人が彼岸を渡るようにと、又は死者(先祖)が彼岸を渡って行けますように、と願う行為なら私は「不要」とみます。
まず、生きている人が彼岸を渡るように、は余計なお世話です。
真っ先に浮かぶのがこの事項に該当する人のことです。
それは「仏教を信奉していて修行を行っている人のこと」を指します。
だったら別に仏教以外の宗教を奉じていたり信仰をしている。又は無宗教の人には「関係のない話」になります。
仏教は凡夫が仏陀になり、ゆくゆくは涅槃へ入るのが目的と何度も言ってきました。
だから仏教を心底奉じ究極まで登り詰める、又はそうなるために修行に励むならそれは間違いない。
だが、これも目標だから別に春だの秋だの関係なく、死ぬまで目標にひたすら、で良い訳です。
なので、わざわざ「彼岸に至る」なんてのは言わなくてもいいし、言う必要も無い。
正確には「涅槃へ至る」なんですけどね。
また今度は「死者(先祖)が彼岸を渡って行けますように」も、これまたおかしいことです。
生きている人が死んだ方を敬う、または偲ぶのはよろしいことです。
ですが、彼岸に至るかどうかは「その人の全て」が掛かっており、また死んだから彼岸へ至るというのも正式には違うことです。
なぜなら仏教的に正しい修行をして仏陀になりその果てに涅槃へ至ってようやく「渡れる世界」です。
これが何も講じていない、奉じてもいない輩が子孫縁者が祈っただけで「渡れるか」です。
またいつになったら渡れるのでしょうか?
そんなことは誰にもわかりません。
というか厳密に言えば極楽浄土の世界はお釈迦さまが説いたものではありませんしね。
後世の人間が考えたものですからね。いわゆる「嘘」又は「外道・邪道の世界」です。
本当の仏教にそういう考えは有りません。
となると、死んだ方はどうすれば行けるのか?と言う問題です。
それは簡単です。多くの方は輪廻転生しますから、黙っててもいつしか何かに生まれてきます。
そして人間に生まれたなら正しい仏教を講じて仏陀になり、その後涅槃へ入ればそれで終了です。
そうならない限りは気が遠くなるほどの転生をしますから、何度もやれば良い。
つまり人間に生まれて正しい仏教を行って涅槃へ入るまでは「入れない」ということです。
だから死んだ方は死んで彼岸を渡る、ではなく「生まれ変わってから正しい仏教の修行を満了しなければ入れない」のですから、死んだ方の彼岸を渡る願いも祈りも「無駄」ということです。
また生きているからと言って必ず誰しもが「仏教を奉じるか」もあります。
ましてや嘘の仏教が多い中、正しい仏教を講じれるのはさて、というのもある。
仮に正しい仏教を講じても仏陀になれるかどうかもわからない。ましてや仏陀になっても陥落と言うこともありえる。
つまり仏陀に成ることさえ至難なのに、涅槃入りなんて夢のまた夢の話です。
尚且つ巷にある認識は間違った教えによる「躍らせ」に近いものです。
毎年春と秋にやらされ、しかもエンドレスです。
尚且つやったって意味はほとんど無い。
こんなものをお釈迦さまが説くでしょうか?
といっても説いていないと最初に私が言っていますけどね。
だからキテレツすぎるんですよ。
情報もロクにない時代で、皆が変に思っても意義を立てない時代が今まででしたからね。
今やその気になったらある程度まで調べられる時代です。
心霊写真もUFO写真も簡単に作れる時代です。
それこそ私が子供の頃にはまだ騙されるのは当然と言う時代でした。
それが30~40年ほど経って今の時代です。
逆に今の子供たちの方がいろいろ知ってて無知な人が変な事を言うと「笑われる時代」なのです。
別に憎くて風習などを馬鹿にするつもりも非難するつもりもありません。
ただ、実際的にやってて「意味あるの?」とか「それって正しいの?」となると話は変わってくる。
その一環として話しているのです。
正しい仏教にはお彼岸もお盆も回忌もありません。供養の意味さえ違う。
巷にあるほとんどの事項は「嘘の教え」です。そのことを知らずに自分たちは「やらされている」又は「なぞらえて生きている」のが実情です。
正しい仏教を奉じようとならなくても、せめて「嘘の仏教はやらないようにしよう」私はそのように思います。
今日はここまでとします。
18/09/27 03:49