はじめまして、The White Roseと申します。「憲法と皇室」を考える連載コラムを執筆させていただくことになりました。「皇室問題INDEX」は皇室をめぐる偏向報道を検証することを主目的としていますが、本コラムは「憲法と皇室」を考察することで、側面からそれを支えることができればと思っています。
連載内容は、次を予定しています。あくまで大まかな予定で、途中変更などあるかもしれませんが、その場合はご容赦ください。
1.「日本国憲案」と「皇室制規」(いずれも女系承継を認めていた)
2.井上毅による「男系男子主義」の採用
3.後期水戸学派の影響に基づく歴史修正と、旧憲法・旧典範に与えた影響
4.旧憲法、旧典範の成立
5.大正デモクラシー下の天皇
6.天皇の神格化~国体の本義を中心として~および敗戦
7.象徴天皇制の成立
8.象徴天皇制下における男系男子主義
9.比較憲法的考察
10.総括
日本では結論を曖昧にしたり先送りしたりすることが好まれがちですが、私はあえて、私見の最終結論を最初に述べておきたいと思います。次の通りです。
2005年の有識者会議報告書案(注1)に沿った、できうる限り早期の皇室典範改正が実現されるべきこと。ただし、上記報告書案の全てを支持しているわけではなく、次の2点については、同報告書とは見解を異にします。
(1) 将来起こり得る可能性のある問題を事前に回避すべく、現行の永世皇族制を見直し、皇位承継資格者たる皇族を限定すべきこと。
(2) 皇位承継に万全を期すため、旧典範制定時にも論議され、諸外国にも立法例のある「胎中天皇」の皇位継承資格について典範に明示すべきこと。
本コラムでは、私見と異なるお立場のご意見にも十二分に配慮しつつ執筆するつもりですので、異なるご意見をお持ちのお方もお読みいただけますと幸甚です。以上を前提として、本論に入ります。

現行皇室典範1条は「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と明記しており、現在でも、これが日本建国以来の不変の伝統であると信じている方も少なくないようです。しかしながら、いわゆる男系男子主義が公式に採用されたのは、明治22年(1889年)2月11日公布の大日本帝国憲法と同日、非公式に公布された旧皇室典範においてです。そして、以下に述べるように、上記旧憲法や旧典範制定以前には、女性天皇や女系天皇を認める意見も有力だったのです。
明治天皇が元老院に命じた「日本国憲按」起草

▲明治天皇
明治維新後、明治天皇は慶應4年(1868年)3月14日に「ご誓文」を神前に奉告され、同年閏4月21日には早くも政体書を発せられました。そして、明治7年(1874年)に「民撰議院設立建白書」が出されるや、翌8年(1875年)4月14日に漸次立憲政体樹立の詔を下せられ、翌9年(1876年)9月には、霊元天皇(江戸時代前期の第112代天皇)の来孫(玄孫の子)にあたる有栖川宮熾仁親王殿下を議長とする元老院に、国憲を起草するよう勅命を賜りました。
元老院では、早くも同年10月には第一草案を起草し、その中で、女性天皇を認める条文を設けました(第一編第二章二条 同四条)。
第一次案には一部議員の反対もあり、二次案では女性天皇を前提とした規定は削除されますが、西南戦争を挟みつつも、起草作業は続けられました。最終案である第三次草案は、起草作業開始から4年後の明治13年(1880年)に聖上に奏上されましたが、岩倉具視、伊藤博文らにより「国体に合わない」等と酷評され、不採用とされました。着目されるのは、最終案の一編二章三条です。同条では、男系承継を前提としながらも、男系が絶えた場合には、明確に女性天皇だけでなく、女系天皇の皇位承継も認めています。
欧米諸国を参考に起草された「日本国憲按」
いわば闇に葬り去られるという悲惨な運命をたどったため、従来あまり注目されなかった元老院の国憲按ですが、今日の研究では、日本の伝統は当然としつつ、ベルギー、プロイセン、オーストリア、イギリス、アメリカ、フランス、イスパニア、ポルトガル、スイス、オランダ、イタリア、デンマーク、スウェーデンなど、当時の主要諸国の憲法が幅広く参考にされたことが明らかであり、内容的にも明治憲法よりもはるかに自由主義的、民主的性格の強いものでした。西南戦争という国難を挟みつつも、4年の歳月をかけて起草された草案が握りつぶされたことは残念です。
民間での憲法論議
明治13年(1880年)から同14年(1881年)頃までの間は、民間でも憲法論議は盛んで、多数の私擬憲法案が起草されていますが、そうした案も、男系を優先させながらも、女性天皇を認めるものが多数であり、女系天皇を認める案も少なくないという状況でした。
「皇室制規」について
上記の国憲按を握りつぶした伊藤博文や井上毅は、いわゆるお雇い外国人で公法顧問、内閣顧問として活躍したドイツの法学者、ロエスレルの意見を尊重しつつ、自ら憲法起草に当たることとし、ドイツ・オーストリアに留学します。オーストリアでは、当時の法学の大家シュタインから、皇位継承については、憲法とは別個に議会の関与を許さない皇室の家憲を制定すべきと指導され、伊藤らは議会不関与の皇位継承法を制定する構想を抱くに至ります。
こうして明治18年(1885年)から19年(1886年)頃に、旧典範の第一草案である皇室制規が起草されますが、その1条では男系が絶えたときには、女性天皇並びに、女系天皇を認める旨を規定していました。さらに周到にも、同13条では、女性天皇の皇配は、臣籍降下したもののうち(男系の実系で)もっとも現皇統に近い者を選ぶ旨が定められ、男系主義の伝統との接合も図られていました。
井上毅の介入

▲井上毅
ところが、上記皇室制規に、伊藤博文の懐刀と言われた当代きってのやり手官僚の井上毅が強烈に反対します。この井上の介入以降の展開は次回とさせていただきます。それではまた。
(執筆:The White Rose)
---------------
1.注:皇室典範に関する有識者会議報告書(2005年11月24日)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html
連載内容は、次を予定しています。あくまで大まかな予定で、途中変更などあるかもしれませんが、その場合はご容赦ください。
1.「日本国憲案」と「皇室制規」(いずれも女系承継を認めていた)
2.井上毅による「男系男子主義」の採用
3.後期水戸学派の影響に基づく歴史修正と、旧憲法・旧典範に与えた影響
4.旧憲法、旧典範の成立
5.大正デモクラシー下の天皇
6.天皇の神格化~国体の本義を中心として~および敗戦
7.象徴天皇制の成立
8.象徴天皇制下における男系男子主義
9.比較憲法的考察
10.総括
日本では結論を曖昧にしたり先送りしたりすることが好まれがちですが、私はあえて、私見の最終結論を最初に述べておきたいと思います。次の通りです。
2005年の有識者会議報告書案(注1)に沿った、できうる限り早期の皇室典範改正が実現されるべきこと。ただし、上記報告書案の全てを支持しているわけではなく、次の2点については、同報告書とは見解を異にします。
(1) 将来起こり得る可能性のある問題を事前に回避すべく、現行の永世皇族制を見直し、皇位承継資格者たる皇族を限定すべきこと。
(2) 皇位承継に万全を期すため、旧典範制定時にも論議され、諸外国にも立法例のある「胎中天皇」の皇位継承資格について典範に明示すべきこと。
本コラムでは、私見と異なるお立場のご意見にも十二分に配慮しつつ執筆するつもりですので、異なるご意見をお持ちのお方もお読みいただけますと幸甚です。以上を前提として、本論に入ります。
現行皇室典範1条は「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と明記しており、現在でも、これが日本建国以来の不変の伝統であると信じている方も少なくないようです。しかしながら、いわゆる男系男子主義が公式に採用されたのは、明治22年(1889年)2月11日公布の大日本帝国憲法と同日、非公式に公布された旧皇室典範においてです。そして、以下に述べるように、上記旧憲法や旧典範制定以前には、女性天皇や女系天皇を認める意見も有力だったのです。
明治天皇が元老院に命じた「日本国憲按」起草
▲明治天皇
明治維新後、明治天皇は慶應4年(1868年)3月14日に「ご誓文」を神前に奉告され、同年閏4月21日には早くも政体書を発せられました。そして、明治7年(1874年)に「民撰議院設立建白書」が出されるや、翌8年(1875年)4月14日に漸次立憲政体樹立の詔を下せられ、翌9年(1876年)9月には、霊元天皇(江戸時代前期の第112代天皇)の来孫(玄孫の子)にあたる有栖川宮熾仁親王殿下を議長とする元老院に、国憲を起草するよう勅命を賜りました。
元老院では、早くも同年10月には第一草案を起草し、その中で、女性天皇を認める条文を設けました(第一編第二章二条 同四条)。
第一次案には一部議員の反対もあり、二次案では女性天皇を前提とした規定は削除されますが、西南戦争を挟みつつも、起草作業は続けられました。最終案である第三次草案は、起草作業開始から4年後の明治13年(1880年)に聖上に奏上されましたが、岩倉具視、伊藤博文らにより「国体に合わない」等と酷評され、不採用とされました。着目されるのは、最終案の一編二章三条です。同条では、男系承継を前提としながらも、男系が絶えた場合には、明確に女性天皇だけでなく、女系天皇の皇位承継も認めています。
欧米諸国を参考に起草された「日本国憲按」
いわば闇に葬り去られるという悲惨な運命をたどったため、従来あまり注目されなかった元老院の国憲按ですが、今日の研究では、日本の伝統は当然としつつ、ベルギー、プロイセン、オーストリア、イギリス、アメリカ、フランス、イスパニア、ポルトガル、スイス、オランダ、イタリア、デンマーク、スウェーデンなど、当時の主要諸国の憲法が幅広く参考にされたことが明らかであり、内容的にも明治憲法よりもはるかに自由主義的、民主的性格の強いものでした。西南戦争という国難を挟みつつも、4年の歳月をかけて起草された草案が握りつぶされたことは残念です。
民間での憲法論議
明治13年(1880年)から同14年(1881年)頃までの間は、民間でも憲法論議は盛んで、多数の私擬憲法案が起草されていますが、そうした案も、男系を優先させながらも、女性天皇を認めるものが多数であり、女系天皇を認める案も少なくないという状況でした。
「皇室制規」について
上記の国憲按を握りつぶした伊藤博文や井上毅は、いわゆるお雇い外国人で公法顧問、内閣顧問として活躍したドイツの法学者、ロエスレルの意見を尊重しつつ、自ら憲法起草に当たることとし、ドイツ・オーストリアに留学します。オーストリアでは、当時の法学の大家シュタインから、皇位継承については、憲法とは別個に議会の関与を許さない皇室の家憲を制定すべきと指導され、伊藤らは議会不関与の皇位継承法を制定する構想を抱くに至ります。
こうして明治18年(1885年)から19年(1886年)頃に、旧典範の第一草案である皇室制規が起草されますが、その1条では男系が絶えたときには、女性天皇並びに、女系天皇を認める旨を規定していました。さらに周到にも、同13条では、女性天皇の皇配は、臣籍降下したもののうち(男系の実系で)もっとも現皇統に近い者を選ぶ旨が定められ、男系主義の伝統との接合も図られていました。
井上毅の介入
▲井上毅
ところが、上記皇室制規に、伊藤博文の懐刀と言われた当代きってのやり手官僚の井上毅が強烈に反対します。この井上の介入以降の展開は次回とさせていただきます。それではまた。
(執筆:The White Rose)
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1.注:皇室典範に関する有識者会議報告書(2005年11月24日)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html
皇室と憲法についての新コラムしっかり拝読したいと思います。
週刊現代のトピックスにつなげるべきかもしれませんが、水戸学について章を設けておられるので、こちらへ書きます。
週刊現代の記事を読み違えているかもしれませんが、あの記事は、皇太弟や皇太甥の制定を煽るというよりは、皇太弟や皇太甥という名称は馴染みが少ないので、皇位継承権第一位の方を皇太子と規定するように誘導しているように感じました。
正名論の段階的な日本的変容が、現在の皇室をめぐる劣化につながっていると感じていますが、その名が馴染みにくいという理由で、実態と異なる名を用いることまで許されるのでしょうか。
さすがに近現代史研究家は、皇太子不在は歴史的に例があることを示したうえで皇太甥と呼ぶようにコメントしていますが、 宮内庁関係者などの言を読めば、理念も歴史的考察もなく、とにかく現在ある公務をこなす頭数としての皇族の必要性を説いているようにしか見えません。
皇位継承権者の人数を安定的に確保する方法を模索してこその皇室典範改正であり、藩屏としての存在価値だと思います。
The white Rose様のコラムを契機として、今一度真正面から皇室と皇位継承について考えたいと思っているので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
今上天皇の次には、必ず皇太子が天皇となります。
その意味では、天皇に準ずるご存在です。
皇位継承権の順位は、単なる順番の問題なので、新たな継承資格者の誕生によって、順位が繰り下がったりします。
昭和の初めの時、秩父宮殿下は皇位継承第一位でしたが、昭和8年12月に昭和天皇の親王が誕生されたことで皇位継承第二位になられました。
ですが、もしも昭和の初めの時点で秩父宮殿下が皇太子になられていたら、その後に昭和天皇の親王が何人誕生しても、昭和天皇の次には秩父宮(雍仁親王)が即位されることになります。
皇位継承権第一位と皇太子とは、全然意味が違うということを、国民自身が心に銘記しておかねばならないと思います。
立太子は皇統の確定です。
国民の8割が女性天皇女系天皇を支持しているという昨今において、
秋篠宮殿下を皇太子だか皇太弟だか名称はさておき、次の天皇となることが確定する存在に据えようとすることは、
皇太子殿下の次に秋篠宮殿下を天皇にすることを今の時点で確定させようとする
つまり、今後女性天皇女系天皇容認という風に皇室典範を改正しても、敬宮さまが天皇になられないように
秋篠宮殿下とその内親王方が天皇になるように
秋篠宮殿下が皇統を継がれるように確定するということそのものです。
そのことを、まず、私たちがしっかり認識しなければならない。
秋篠宮を皇太子に、論は、今後どんなことがあっても秋篠宮が天皇になる、そのように確定した立場に、
女性天皇女系天皇論議が起きる前に、
一刻も早く秋篠宮殿下を据えたいという意志そのものであることを、我々はしっかり認識すべきです。
女性天皇女系天皇論議が起きる前に、
一刻も早く秋篠宮殿下を据えたいという意志そのものであることを、我々はしっかり認識すべきです。
なるほど、「皇太子がいなくなる」と言う状況を憂うように言い立てる意味がよくわかりました。
有難うございます。
宮内庁と千代田は、国民が意味がわからないうちに、コソッと地ならしをして基礎まで作っちゃおうとしているわけですね。
2012年以来、再三出てくる皇室典範をめぐるアドバルーンは、くっきり一つの方向性をもっています。
それは、女性天皇女系天皇論議が起きる前に、秋篠宮家に皇統を移してしまおうという意志です。
・一代限り女性宮家設置への皇室典範改定(2011年秋~)
女性皇族を結婚後も皇統とは無関係な形で皇室に残すというキャッチフレーズながら、この問題のミソは
「悠仁様までの即位は決まっているから」
という文言にあったのではないでしょうか。
悠仁さままでの即位は決まっている、そのことを現時点で確定するために
一代限り女性宮家論議はあったのだと思います。
実は密かに8割は女性天皇女系天皇賛成という国民の意識があるから
女性皇族を皇室に残すという大義名分なら、すんなり認められるだろうというもくろみだったのでしょう。
ですが、女性天皇女系天皇賛成派からは、皇統に関わらない形で女性宮家をつくることに何の意味があるかという反発を受け
(公務のためだけなら、公務を減らせば良いし、あるいは公務員のように、結婚後の女性皇族にも働いて頂く形を取ればよい)
男系男子派からは、そうはいっても女性皇族に継承権をという流れにつながるのではないかと警戒され
要するに、こんな中途半端な改定に何の意味があるのかと反発を受けて、あっさり頓挫しました(2012年末)
・皇太子退位を可能とする皇室典範改定(2013年初め~)
一代限り女性宮家が安倍政権の誕生と共に完全に立ち消えたのと入れ替わるように
2013年初めのころから、断続的に週刊誌を賑わせた報道です。
アドバルーン自体は、一代限り女性宮家問題が政治日程に上がる前から、断続的に出ていましたが
(病気療養中の雅子妃が皇后になるのは難しいし、離婚はあり得ないのなら、皇位から離れて京都でお暮らしになればよいとか何とか)
一代限り女性宮家が完全に潰えたあと、週刊誌を使って根強く、今上天皇のご意志の方向を匂わせるかのように、繰り返し報じられました。
結局、内閣も承知という週刊誌報道に及んだ結果、内閣官房長官から厳しく反論され
それに後押しされるように宮内庁長官からも「そのようなことはない」声明が出て
何となく立ち消えのようになりました。(2013年6月)
・皇太子不在の問題視、皇位継承権第一位を皇太子(儲君)にできるようにとの皇室典範改定(今回)
徳仁親王即位と同時に、その次の秋篠宮の即位の確定=秋篠宮家に皇統を移すことの確定を狙っていることは明らかです。
現状の皇室典範のままでは、いずれ皇太子徳仁親王が亡くなられた時点で、秋篠宮家が皇統を継ぐことは決まっています。
にも関わらず、断続的に現時点での皇室典範の改定をめぐるアドバルーンが上がるのは
逆に、徳仁親王が天皇となられたのちには女性天皇女系天皇容認という形に皇室典範改正が行われ
敬宮さま立太子の運びになるのではないかという、根強い不安があるのだろうと思います。
2004年以降、雅子妃へのバッシングとともに、敬宮さまを自閉症だとほのめかす報道が相次いだのは
当時政治日程に上りつつあった、敬宮さま立太子を念頭に置いた、女性天皇女系天皇容認に向けての皇室典範改正の勢いを削ごうとのもくろみだったのではないでしょうか。
結局2006年の秋篠宮妃懐妊報道(妊娠わずか6週目)、悠仁親王の誕生で、皇室典範改正の機運は完全に削がれましたが。
一代限り女性宮家創設論が、敬宮さまの登校問題が完全に解決した2011年秋から、陛下の内意という形で政治日程にのぼったこと
一代限り女性宮家が頓挫、皇太子退位論も内閣から一蹴されたあとから、
「敬宮さまが学校を嫌いと言った」だの「不規則登校」だのといった報道が出始めたことも、一連の流れを感じさせます。
宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-kako.html
★過去の週刊誌報道への抗議を確認できます
「笑わない」「お辞儀しない」「自閉症?」
報道は、薄紙を剥ぐように、少しずつ消えてゆき、敬宮さまの健やかなご成長が明らかになっていきました。
敬宮さま8歳、2009年の誕生日映像では、鉛筆で書写に勤しむ敬宮さまの写真が配信され、
「将来の、御名御璽のお姿を彷彿とさせる」
と話題になりました。立派な書写の作品、理科の観察日記も学習院の文化祭だかで展示され、話題になりました。
敬宮さまの登校問題が起きたのは、その直後、2010年の3月です。
この件についてはAERAのすっぱ抜き報道のせいで東宮大夫が自ら会見で問題があると明らかにせざるを得なくなり
その後、マスコミが登校の一挙手一投足まで追いかけ回して報じたために騒ぎが大きくなり
結果として穏便に迅速に解決に向かう機会を逸したのは、ご存じの通りです。
実に、1年半ほどの間、マスコミは敬宮さまの登校問題を追いかけ回し、敬宮さまと雅子妃殿下に大きな問題があるかのように過大に報じ続けました。
しかし、敬宮さまは2011年の秋には完全にもとの姿に戻られました。
(東宮職からの抗議を見ると、それ以前から妃殿下のお付き添い等はなくなり、かなり日常に戻っていたのにもかかわらず、週刊誌が過大に報じていたことがわかります。
また、敬宮さまの登校問題では、最後に社会科見学に妃殿下の遠くからのお付き添いによって参加されるということがあり、この成功体験をきっかけに、すべての行事・日常生活が、完全にもとに戻ったのですが
この最後の社会科見学お付き添いについては、週刊誌が大々的にバッシングし、宮内庁長官も苦言を呈したという顛末も記憶に残るところです。
何とかこの登校問題を長引かせたかったようですね。宮内庁長官も含めて)
そして、この登校問題解決の直後、敬宮さまの健やかな成長ぶりがやはりはっきりしてきたころから
(敬宮さまは学習院でもトップクラスであり、東大にいらっしゃるのではないかと内部で噂になっていると報じられました。
同じころ、中学受験のための塾などで学習院初等科の生徒と交流があるご家庭から? 敬宮さまの優秀さが口コミで流れ、2ch等にも書き込まれるようになってきました)
上記のように、皇室典範改定(一代限り女性宮家創設、皇太子退位規定、皇位継承権第一位を儲君に)アドバルーンが断続的に上がっているのは周知の通りです。
The White Roseさまのコラムに余計な話ばかりくっつけてすみません。
男系男子が明治政府の、しかも特定のある勢力の思惑によって明文化されたものに過ぎず
すでに明治のころから女系承継が検討されていたというお話し、ぜひ続きが連載されることを願っております。
秋篠宮家に皇統を、のおかしな動きが完全に潰えるよう、女性天皇、女系承継論議が、一日も早く活発になることを祈りつつ。
明治初期の自由民権の政治結社のひとつの嚶鳴社が「女帝ヲ立ルノ可否」という討論会を主催しています。
(同年3月14日から4月4日まで9回にわたり、東京横浜毎日新聞に掲載される。)
島田三郎、益田克徳、沼間守一ら三人は女帝即位を認めぬ論を主張。
肥塚竜、草間時福、丸山名政、青木匡、波多野伝三郎ら五人は女帝即位を認める論を主張。
島田三郎の女帝即位反対の見解は、その後の皇室典範(明治22年制定)をつくるにあたり、井上毅らに影響を与えました。
井上毅は「政治法律百般の事は尽く欧羅巴に模擬すること可なり。皇室継統の事は祖宗の大憲の在るあり。決して欧羅巴に模擬すべきに非ず。」と主張し、女帝即位に強硬に反対しました。
そして1889年(明治22年2月11日)に発布された大日本国憲法において「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」となりました。
それから時は下り、1946年(昭和21年)に戦後初の総選挙が実施され、明治以来初めての女性議員が39名当選しました。
その時に当選した女性議員の新妻イトは、女性皇族に皇位継承権を認めていないことを取り上げて「今度の新憲法によりまして、女もどうやら人間並みになったのでございますから、この男系の男子ということを取っていただくことはできないかしら。」と国会で質問しています。
しかし昭和22年に制定された現在の皇室典範でも、継承は男系男子のままでした。
明治維新を迎え開国し日本国すべてが西洋化に走ったけれども、女帝の存在や、母帝から娘への帝位の譲位すら無視し、天皇は男系男子の継承にしてしまいました。
そして敗戦となりGHQから押しつけられた憲法と言いつつも庶民は男女平等となったのに(現実は、まだまだ不平等ですが)国民統合の象徴である天皇だけは男尊女卑のままで現在に至っています。
そして小泉総理(当時)が、民主主義の証明でもある国会審議をして、愛子天皇の道筋を立てようとしていたところに妊娠6週の報。以降、さらなる皇太子ご一家バッシング………。
こうしてみると、女帝即位を可能にするのに、三回はチャンスがあったと思われますが、それをことごとく排除してきたと考えられます。
そして三回目以降は、男系男子で継承してゆくというだけではなく、男系男子を生んだ秋篠宮家だけを皇室に残したいという話が途絶える事なく出続けており、それが今上の本音かと思うと、天皇は無私でも高潔でも何でもなく平民よりも下卑であったというのが分かります。
日本においては、母親(母系)が非常に重視されます。
過去、傍系から入った天皇は継体天皇(皇后は前帝の姉妹・これは前帝にお子がなかったため)、光仁天皇(皇后は最後の天武天皇系の内親王)、光格天皇(皇后は前帝の唯一残された内親王)と、みな入り婿です。光格天皇は他の候補者がすでに妃がいるだので篩い落とされ、欣子内親王の婿としての適格性で選ばれています。また、光仁天皇の側室腹(朝鮮渡来人系)の子が藤原氏と結託して皇位を奪って即位したものの(桓武天皇)、怨霊や天変地異に悩まされ、ついには都を捨てざるを得なくなりました。
八木氏が近頃、今の皇統が繋がっている光格天皇が傍系だから傍系の悠仁親王が直系の愛子内親王を差し置いて即位して構わないかのようなことを言っていますが、光格天皇は直系の欣子内親王の入り婿だということ、もし、欣子内親王腹の親王が夭折しなければ、その後の皇統は天皇の直系の内親王の子孫だったのだということを無視した妄言だと思います。
日本においては母系(入り婿)を挟んでの直系優先で皇位を継承するのが自然であり、それを破って皇位を動かすのは悪である、と考えられてきたのではないでしょうか? もし、直系の愛子様を差し置いて皇統を他に動かしたら、また祟りだの天変地異だのの騒ぎとなり、天皇に正統性がないからだ、徳がないからだと人心が安定しないのではないでしょうか? かくいう私も直系の愛子さまを排斥しての傍系継承には違和感しかなく、もしそういう事態になったら一気に天皇制廃止論に傾きかねない危機感があります。
今の動きには自分の直系の孫に皇位を継承させたくて、結局天武系を滅ぼした持統天皇が重なってしまいます。孫の草壁の皇子に皇位を継がせるために、たくさんいた天武天皇の皇子を次々抹殺して皇統を細らせ、最後に残った井上内親王の系統は朝鮮渡来人を生母に持つ下賤な出自の王子に乗っ取られるとはなんと暗示的なのでしょう。
もう手遅れなのでしょうか?
この人はあたかも皇族のようにテレビに出てきますが、単に戦前まで存在していた伏見宮一族の末裔です。
最近はスキャンダルまみれですが、それでもテレビ出演は止まりませんね。
わたしに言わせればこんな人がテレビしゃしゃり出てくること自体、皇室のイメージダウンでしかないと思います。
知性に関しては穴だらけで、発言の幼稚さには驚かされます。おまけに霊感商法にも手を出していますし。
何故宮内庁サイドから批判が出ないのでしょうか。(出ていますか?)
わたしが知る限り、竹田恒泰と皇族の繋がりはあまり聞きません。寛仁親王とは交流があったのでしょうか。
少なくとも皇太子ご一家とは交流がないですね。
秋篠宮殿下とは、幼い頃遊んだという話も聞いたことがあります。
そちらサイドが後ろに控えてる可能性はないのでしょうか。
悠仁親王ご誕生の折りには、ネトウヨが歓喜していましたね。
彼の父は3男。
そのまま行けば華族になります。
皇籍離脱のおかげで今でも彼は「旧皇族」という肩書を、彼が表向き否定していても、名乗ることができています。
テレビや週刊誌、著作等にも「旧皇族」と書かれています。
本人が「いえ、違います」と断れば「旧皇族」という肩書は消えると思うのですが、そうなっていないということは他人が勝手に言っているという形で自ら認めているようなものです。
竹田くんは旧皇族の集まりに行ったことがある程度で交流があったのは寛仁親王だけみたいです。
本人がそんなことを言っていました。
しかも娘を持っていけ、と言われたけど彬子女王が嫌がったという落ちがついています。
彼についていつも思うのは、男系男子派を主張するなら「明治天皇の玄孫」で商売するなっていうこと。
あなたが大嫌いで価値を認めてない女系でしょ。