コミュ力低し数百社不採用の僕でも異社会召喚で有能だと期待された件
十月も終わりに近づいたある日の夕方、就職活動中の霜鳥修(しもとり おさむ)は神戸市内にあるウェブシステム開発会社の入社面接を受けた帰り、JR三ノ宮駅へ戻る途中に早々とその会社から不採用の連絡を携帯メールで受け取る。修はそのショックから癒しを求め、家に帰る途中に王子動物園へ立ち寄った。動物達を眺めながら園内をとぼとぼ歩いていたところ、望月数歩(もちづき かずほ)という女子中学生にいきなり話しかけられ唐突に告白までされた。そのあと修は数歩に手を引かれ阪急電車に乗せられ、芦屋にある彼女の自宅まで連れて行かれ……
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「修くん、私、あなたに一目惚れしちゃったの。真面目そうだし誠実そうだし、賢そうだし心優しそう。そんなところに、すごく好感が持てました。あのっ、これから私をご指導して下さい!」
「えっ!?」
十月も終わりに近づいたある日の夕方。
無職の青年、霜鳥修(27歳)は動物園のカピバラの檻の前で、おさげ髪のかわいらしい女子中学生、望月数歩(14歳)から唐突にそんなことをお願いされた。
どうしてこんなことになってしまったのか?
事の発端は、一時間ほど前まで遡る。
第一話 国立大学は出たけれど
「それではまず、霜鳥さんの自己PRをして下さい」
「僕、わたくしは……その、けっこう、几帳面な、性格でして……地道な努力家で、継続力があり、挑戦意欲が高く、慈悲深く…………あの……えっと…………」
神戸市の中心地、三宮のオフィス街に佇む、とあるウェブシステム開発会社の会議室。
ここで今、入社面接が行われている。
室内中央付近にぽつんと置かれた折り畳み式パイプ椅子に座る修と、長机備えの木製椅子に座る三人の面接官とが向かい合う座席配置。
面接官は修から見て右前方に三〇代後半くらいの女性、真正面に五〇代前半くらいのがっちりとした薄毛の男性、左前方に二〇代後半くらいの眼鏡をかけた若々しい男性であった。
「……えー、では問い方を変えますね。霜鳥さんが今までで最も一生懸命取り組んで来たこと、これだけは誰にも負けないということをお聞かせ下さい」
「えっと、わたくしはですね、その、地理とか、数学の、勉強などを……大学では、数理科学を専攻し……卒業研究では、ある社会現象に対して、連立微分方程式を、組み立てて、数理モデル化し、ヤコビアンの固有値や、平衡点の安定性を調べて、解の挙動を、Mathematicaという、数式処理システムを利用して、その、解析を……高校時代、地理だけは、定期テストや、全統模試で、学年トップに、輝いた、こともあり……その……」
「それらの経験を通じて、具体的には、どのような能力が身に付きましたか?」
「えっと……その、えーまあ、強いて言うなら、粘り強さ、でしょうか…………」
面接開始当初から女性面接官がやや困惑顔で、次々と質問を投げかけてくる。修が緊張気味に答えていくと、面接官三人とも何かメモをとるしぐさをし始めた。おそらくは採点をしているのであろう。
「ワタシの方からも二、三尋ねさせていただきます。うちの会社を志望した動機は?」
真正面にいる、重役と思われる面接官からも質問が来た。
「えー、その、御社では、メインの、ホームページ製作業務のみならず、地図作成ソフトという、ソフトウェアも、開発されておられるという点に、わたくし、特に興味を惹かれまして……その、他社にはあまり無い、独自性というか、社員数五〇名ほどしかいない、中小IT企業なのに、業務が、多岐に渡っているというか……加えて、わたくしが、大学時代に学んで来た知識も、大いに、活かせるのではないかと……えーまあ、そういうことです」
修は時折、言葉を詰まらせながらも何とか必死に伝えようとする。
「何か、スポーツ経験は?」
「……特には……ないです」
次の質問に対し、修はその面接官と目を合わせながらも、自信無さそうに答えた。
そのあと数秒間、沈黙が続く。
この面接官は終始、険しい表情であった。
「大学をご卒業されてからは、どのように過ごされて来たのでしょうか?」
そして左前方にいる若手面接官からの質問。彼はにこやかな表情であった。修が事前に送付していた履歴書の学歴・職歴欄を確認する。
この質問は、修にとって非常に痛い所を突かれるものだ。
「えー、その、食品メーカーや、電機メーカーや、農協、老人ホームなど、いろいろな企業を受けつつ、資格試験や、公務員試験にも、チャレンジを……」
修は硬い表情のまま、ぼそぼそした声で正直に答えた。
「資格について、少しお尋ねします。弊社でも取得を推奨している基本情報技術者につきまして、来月取得見込みと記載されてあるのですが、これは、つい先日行われた分を受験されたということですね?」
若手面接官は続けて、履歴書の資格欄に目を移して質問をする。
「はい」
「その分の試験について、自信の程はいかがですか?」
「それが、その……ちょっと、あの、午後の試験の方が……その、春に受けた、ITパスポートは、楽に取得出来たのですが、こちらは、けっこう、難しかった、ですね……」
このようにたどたどしく答えた修に対し、
「そうですか。分かりました」
若手面接官はちょっとだけ顔を顰めた。
「霜鳥さんは、今何かアルバイトはされていますか?」
再び女性面接官から質問が来る。
「いえ、それすらも、ずっと落とされまくってる、状況で、ありまして……」
修が俯き加減でこう答えると、
「えっ! ……アルバイトもですか?」
女性面接官に驚かれ、くすっと笑われてしまった。
「はい。そうなんですよ、事実」
修は顔を真正面に向けて、開き直ったように言う。
「「……」」
他の二人の面接官からも苦笑いされてしまった。
「では本日の面接はこれにて終了致します。採否結果は一週間以内にお知らせします。お気をつけてお帰り下さい」
その数秒後、真正面にいる面接官がやや早口調で告げる。
「……ありがとう、ござい、ました」
修はかくんと頭を下げてお辞儀をしてから、おもむろに立ち上がった。ぎこちなく体の向きを変えて、ロボットのようにカタカタとした動きで出入口扉の前へと向かう。
「失礼、致します」
辿り着くと面接官の方を向いて再度お辞儀。その所作もどこかぎこちなかった。
修はまた扉の方を向くとドアノブに手を掛け、そぉっと開ける。廊下へ出たのちゆっくりと閉めて、会議室をあとにした。
(あぁ……今回も絶対、不採用だろうなぁ。試験案内には〝面接は一時間程度を予定しております〟と書かれてあったけど、五分くらいで終わったし――今までにも何度もあったことだけど。今回に限っては最後に何かご質問はありますか? とも訊かれなかったな)
先ほど受けた会社が入居してあるオフィスビルから外へ出た修は、沈んだ気分でJR三ノ宮駅へと向かって歩き進む。その姿は傍から見ると、紺色のリクルートスーツがマッチ棒みたいな形をして路上を舞っているようだった。
修の身長は一六五センチ。体重は五〇キロにも満たない。標準的な成人男性と比較すれば、かなりみすぼらしい体格といえよう。そのうえどんよりとした目つきで大抵いつも暗い表情、鈍重な立ち居振る舞い、声が小さく話すペースも遅い。いかにも頼りなさそうな風貌なのだ。そんなただでさえこの人とはお付き合いしたくないなぁと、第一印象で思われ嫌厭されやすい特徴であることに加え、修は先ほどのやり取りを見ても明らかな通り、面接を大の苦手としている。
集団面接、集団討論(グループディスカッション)の場において修は毎回、同じグループになった他のメンバーと比べて最も発言量が少なかった。しかもその発言内容も場をしらけさせてしまうような、あまりに突飛で的外れなものであることが多かった。他のメンバーや面接官を苛立たせたり、唖然とさせたりして来たことは枚挙に暇が無い。入室してから着席するまでと退出する際の動作も、他のメンバーと見比べて悪い意味で一番よく目立ってしまうことが常であった。
今回受けたような個人面接の場においても、訊かれた質問に対して返答するまでに、かなり時間がかかってしまうことがこれまでにも度々あった。そして答える時は大抵しどろもどろになってしまう。
ようするに修は、コミュニケーション能力が著しく低いのだ。
面接結果は言わずもがな、いつも不採用となっている。
就職活動を始めた当初、二一歳の大学三年生だった修も、いつの間にか二七歳になってしまった。もう六年以上もの歳月、就職活動を続けていることになる。けれども未だ、どこからも雇ってもらえない状況が継続中というわけである。
修がこれまで不採用となった企業の数は聞いて驚く無かれ、なんと延べ五百社以上にまで達している。正社員はもちろんのこと契約・派遣社員、アルバイトですらも断られ続ける日々。公務員試験も、筆記は高確率で通過出来るのだがやはり面接で撃沈。
就職活動をしていく上で、ごく普通の人であれば十社も受ければ少なくとも一、二社は採用に至るものだ。修がいかに社会から必要とされていないのかがよくお分かりだろう。
それでもこんな惨めな修にでも、接して来てくれるものがあるにはあった。
「こんにちはー、大学生ですかぁ? 今、就活に関する意識調査を実施……」
「…………」
修は目を合わせないようにして先を急ぐ。駅へ戻る途中、彼に接して来たのは黒のレディーススーツを身に纏い、ボールペンとアンケート用紙を手に持った三〇歳くらいの女性だった。
(僕はもう大学生ではないし。まあ、浪人留年休学しまくって、僕よりも年上の大学生もけっこういるみたいだけどな。これって、喫茶店や営業所に連れ込んで、英会話教室とか資格講座とかの契約をしつこく強引に迫ってくるアレだろ?)
修は表情を曇らせる。その女性は彼の推測通り、就職試験会場周辺や駅前、繁華街の信号機横などに現れ、アンケートと称して近寄ってくるキャッチセールス集団の一人であった。
「すみませーん、きみ、学生さんだよね? ちょっとだけお時間を……」
修がここを振り切っても、しばらく歩き進めば同集団に属する別の人物が近寄ってくる。見るからに弱々しい風貌の修は、彼女らにとって格好のターゲットなのだ。
(磁石かよ、僕は――)
かわすことは容易だが、接して来る度なんとも胸糞悪い気分になってしまう。
(僕は簡単に入れる冴えない地方国立大卒。旧帝大に入れていれば、状況が少しは違っていたのかもしれないな)
ふと予備校の広告を見つけ、修は己の学歴の低さに改めて失望感を抱く。彼は学業面においても落ちこぼれだったのだ。
駅へ近づくにつれ、人通りもかなり増えてくる。
修のように一人で歩いている者よりは、複数で行動している者の方がずっと多かった。
そんな中、
「今日の懇親会におった阪大とか神大のやつら、マージうざかったよなぁ」
「あぁ。なんであいつらが俺らと同期なん? って思ったで。ていうか俺らみたいなFラン大の内定者、他にほとんどおらんかったな」
とあるコンビニエンスストアの出入口から、修と同じようなリクルートスーツ姿の男性二人組が現れた。
「周り高学歴ばっかやのにオレらが内定もらえたんも、筆記が替え玉してもバレんWebテストやったからこそやな」
「ほんっまそれやー。甲南大の高嶋さんに感謝せなな。俺らの頭じゃ普通に受けたら絶対その時点で足切り食らって面接へ進めんかったで」
会話内容から察するに、おそらく就職活動をめでたく終えた、来春卒業を迎える大学生なのであろう。彼らは修の前方を遮るように並んで歩き進む。二人とも背丈は一八〇センチ近くあった。
「面接まで行きゃぁあとは楽勝やもんなー。高嶋のやつも公務員受かりやがってマジむかつくわー、二度と合コン誘いたくねー。そういやオレと同じゼミに横山さんってのがおるねんけど、あいつまだ内定一社も出んから就活続けとるらしいで。もう一年近くになるとか、五〇社以上連続で落ちた言うてはったし」
「マージで!? ちょっと引くでそれ。そんだけ受けて決まらんとかあり得んやろ、そいつどんだけ無能なんよ。俺なんか一社目で即効決まったで」
「やるなあ。オレは一社目最終面接落ちで、二社目で初めて内々定もらった。不況や言うてるけど楽勝やったよな。オレの武庫女の彼女も三社目で地銀に決まっとったわー」
男子大学生二人組は缶コーヒーを飲みつつ生き生きとした表情で、楽しそうに会話を弾ませる。次の瞬間、彼らはとんでもない行動をとった。飲み終えた缶コーヒーを道路脇に平然とポイ捨てしていったのだ。罪悪感に全く駆られてないのだろう、彼らはスマートフォンを取り出しいじり始める。
(僕なんか、その横山さんとか言うやつよりさらに五年以上余分に長く就活続けてるんだぜ。不採用は彼の十倍以上だ。世の中には、リア充高身長なきみたちの想像を遥かに絶する社会的無能人間が存在するものなのだよ……口が上手くて要領良くて、社交性のあるやつらは大学のレベルに関係なく、あっさり内定取ってくるよな……採用担当者共はあんなろくでもないやつらに内定を与えてるのかよ。あいつら入社試験会場内では礼儀正しくマナー良く振る舞ってるんだろうけど、外へ出ればあんな態度だ……皮肉なことに、ああいうタイプの人間って、他人に媚びへつらうのも上手いんだよな)
彼らの発した言葉や行動に、修は強い憤りを感じた。思わず路肩に落ちていた小石をぶつけてやろうかと思ったほどだ。
(僕の方が、あいつらなんかよりもずっとずっとモラルの高い人間だってことを教えてあげよう。これは、スチールだな)
修はU字磁石のような形に腰を曲げ、彼らの投げ捨てた二本の缶コーヒーを拾い上げて、そこから三〇メートルほど先にあった自販機横の空き缶入れにきちんと分別して捨ててあげた。
(……学生の身分の内に易々と仕事にありつけてしまうやつらって、仕事をさせてもらえるということが、いかにありがたいことであるのかが一切理解出来ない人間になっていくんだろうな。仕事はもらえて当然、適当に仕事してても給料いっぱい貰えるんだって舐めた考えになるんだよ、絶対。特に一流企業勤めや公務員の方々はその傾向が顕著だろう。何でも自分の思い通りになるという、我侭で横柄な人格も形成されていくに違いないぞ。実際、仕事に就いてるやつらって、短気で傲慢でモラル低いのばかりだからな。さっき商社マンっぽい三人組が平気な顔で信号無視して横断歩道渡ってるのを見たし。道いっぱいに広がって、のろのろ歩いてるサラリーマン・OL連中はけっこう見かけるなぁ。他の歩行者の邪魔になってるってことを何とも思わない自己中なやつらなんだよ、きっと。だいたい悪徳業者の存在。パワハラ、不当解雇、給料未払いといった職場いじめっていうのは、冷酷で悪辣でモラルの低いやつらばかりが仕事にありつけてしまっているからこそ、社会問題化してるんだろ)
修は俯き加減で歩きながら、心の中で持論を呟く。長きに渡る不採用経験から人間的にも歪んでしまった彼は、そんな心情が芽生えてしまっていた。
「ん?」
JR三ノ宮駅構内、中央口改札を抜けたちょうどその時、修所有の携帯電話がブーッと震えた。
(メールか)
修はホームへ通じる階段を上りながら、携帯電話をズボンのポケットから取り出し、折り畳まれてあるのをパカリと開ける。
「採否結果のご案内かよ……」
件名を見ると沈んだ声で呟いて、メールの中身を開いてみると、
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
霜鳥 修様
株式会社一迅ソフト
総務部人事課採用担当 三木田 一哲
採否結果のご案内
清秋の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
この度は、弊社求人へご応募いただき、誠にありがとうございました。
さて、今般の選考に当たりまして慎重に検討いたしました結果、今回は貴意に添えないとの結論に至りました。何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
末筆ながら、貴殿の今後ますますのご健勝をお祈り申し上げます。
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このような不採用通知の定型文ともいえる文面が、横書きで彼の目に飛び込んで来た。
(……またかよ。日常的にもらい慣れているとはいえ、やはりきつい、精神的に。ていうかさっき受けたばかりの会社じゃないか。来るのが早過ぎだろ、一週間どころか一時間も経ってないぞ。それに、書面ではなく携帯メールって失礼だろ。いつも思うが何が〝慎重に〟だよ。どうせ即、不採用って決めたんだろ……まあ、通知が来るだけでも良心的だな。応募してもそれ以降全く音沙汰ない場合も多々あるから)
修は心の中で嘆き、肩をすぼめる。
(僕に、いつまで就活させる気だよ? どこまで僕を追い込むのか――)
修の社会に対する恨みは日に日に増すばかりだ。彼が長年の就活経験で失った履歴書代、証明写真代、交通費、履歴書などを送付するための封筒代や郵便料金……それらの額は莫大なものになっていた。
経歴にも、救いようのないくらい致命的欠陥を抱えてしまった。学生の身分の内に就職先を決め、最終学歴後すぐに勤務し始めるのが一般的な日本社会。修のようにそのレールから外れた者は就職がますます困難な状況に追い込まれてしまうのだ。
事実、修も大学を卒業して無職となって以降は書類選考の段階で撥ねられ、面接にすら辿り着けないケースが顕著に増えていた。
(内定通知って、本当に実在するのかよ? 伝説上の幻のアイテムなんじゃないのか? ここまで不採用が続くと、その存在すら疑わしいぞ……)
修にとって内定通知なんてものは、もはや空飛ぶ絨毯やランプの魔人、河童、ヤマタノオロチ、ペガサス、ケンタウロスといった空想上の存在物と化しているのである。
(……なんか、就職活動をすればするほど、ますます内定からは遠ざかっているような錯覚さえしてくる。僕の履歴情報がいろんな企業や役所に行き渡って、採用しないように仕向けられているんじゃないのか――これだけたくさん受けまくっていればな)
修は不採用通知を受け取ったショックからか、ホームのベンチに座り込んでしまった。そして根も葉もないことを頭に浮かべてしまう。
(癒しが欲しい。面接、予定より随分早く終わっちゃったし、あそこにでも、寄るか)
ふと、そう思い立った修は、ほどなくして同じホームにやって来た松井山手行き各駅停車に乗り込み、次の灘駅で途中下車した。そして構内を出て北方向へ五分ほど歩いた所にある、王子動物園に入園する。閉園時刻の午後五時まで、まだ一時間以上あった。修はとぼとぼ歩きながら、園内の動物達を観察する。
(動物園の動物達は幸せか否か、っていうのも、集団討論のテーマになったなぁ。競争せずにエサにありつけるし、怪我をしたり病気になったりしたら獣医に診てもらえるし、どう考えても幸せだろ……あの時は、言いたい事がほとんど伝えられなかったな)
ここにいても、どうしても就職試験のことが頭に浮かんでしまう。
(……あのエミューの顔が、さっきのおばさん面接官の顔に見えてくる)
いらいら気分も湧き上がってくる。
(いっ、てえぇぇーっ!)
よそ見しながら歩いていたら、園内に植えられてある木の幹にゴツンッと激突してしまった。修のつま先と鼻頭にジンジン激痛が走る。
(あいたぁーっ)
さらに振動からか、この木の上から実が落下し、彼の脳天をコツンッと直撃した。
(……泣きっ面に蜂かよ、僕は)
じつに無様である。
(ここにいてもろくなことが無いし、そろそろ出るか)
修が正面ゲートへ戻ろうとした。
その直後、予期せぬことが起きた。
「レッサーパンダさんは、すごくかわいいですよね、お兄さん」
いきなり背後から一人の女の子に、ほんわかした口調で話しかけられたのだ。
「へっ!?」
修は恐る恐る後ろを振り向く。
そこにいた子は、面長ぱっちり垂れ目に細長八の字眉、丸っこい小さなおでこが特徴的で、ほんのり栗色な髪を真っ白な花柄シュシュで二つ結びにしていた。少し痩せ型。服装は三つボタンのついたえんじ色のブレザーに、萌黄色チェック柄スカート。学校の制服姿と思われる。
「こんにちはーっ、はじめまして。私、山手西中学三年の望月数歩って言います。あのっ、藪から棒ですが、もしよろしければ、お兄さんのお名前も聞かせてくれませんか?」
その数歩と名乗った女の子は修に顔を近づけ、にこやかな表情で問いかけてくる。修は緊張からか、額から冷や汗がつーっと流れ出た。ドクドクドクドク心拍数も一気に上がる。
「ぼっ、僕ぅ!? ぼっ、僕の、名前は、しっ、霜鳥、修、です、けど……」
修は面接時のように言葉を詰まらせながら、思わず答えてしまった。
「霜鳥修くんっていうんですね。何年か前にオワンクラゲの研究でノーベル化学賞を取ったあのお爺ちゃんと、お名前が良く似ていますね」
数歩は舌をぺろりと出した。
「あっ、どっ、どうも、たまに、面接官からも、言われます……」
なっ、なんだ、この子は?
修はどう反応すればいいのか分からず戸惑う。
「修くんは、王子動物園へはよく来られるんですか?」
数歩はさらに質問して来た。
「いえ、あの、その、今日は、たまたま、帰りに、ふらっと」
修は慌て気味に答える。
「奇遇ですね。私もなんですよ。今日、校外学習で『人と防災未来センター』へ行ったんですけど、解散した後、おウチへ帰る途中に久しぶりに寄ってみたんです。私、動物さん大好きなので」
数歩はとても幸せそうな表情を浮かべていた。
「あっ、そ、そうなんですか」
修の表情は緊張でさらにこわばる。
「レッサーパンダちゃーん、こっち向いてーっ」
数歩はその動物がいる檻に向かって大声で叫びかけ、手をぶんぶん振る。
(……この子とは、関わらない方がいいな)
修はそう感じ、数歩から遠ざかるようにスタスタと歩いていく。
しかし、
「あっ、待って下さい修くん」
ほどなくして数歩に追いつかれてしまった。
「あの、僕は、今忙し……」
修は行く手を阻まれる。
「あのねっ、修くん。私から、ちょっとお願いしたいことがあるの……」
数歩は急に真剣な眼差しになり、修の目をじっと見つめる。そして頬をほんのり赤らめて、すぅと息を大きく吸い込んだ。
「なっ、なっ、何かな?」
修の心拍数はますます上がった。
こんなちょっと変わった出会い方をして、数歩は修にあんなことを告げたのだ。
「ごっ、ごっ、ご指導してって…………」
修は動揺の色を隠せなかった。
「今から修くんを、私のおウチへご案内しまーっす!」
「うわっ!」
数歩に右手をぎゅっと握り締められた。
マシュマロのようにふわふわやわらかい感触が、修の手のひらにじかに伝わる。
「こっちです、こっちです」
「わっ、わわわわわ、ちょっ、ちょっと…………」
修は数歩にグイグイ引っ張られていく。
数歩の背丈は一五〇センチ台後半くらい。修よりも小柄だが、修は完全に力負けしてしまっていた。
あれよ、あれよという間に、園内出てすぐ東側にある阪急王子公園駅の構内へ。
「私、二人分持ってるんです」
数歩は自動改札機に切符を二枚同時に入れ、修も一緒に通す。
修はこうして改札を抜けさせられホームへ上がらされ、梅田行き各駅停車に乗せられた。
まもなく扉が閉まり、阪急電鉄特有のマルーンに彩られた車体がゆっくりと動き出す。まだ夕方の帰宅ラッシュ時前ということもあり、車内はけっこう空いていた。数歩は修を、抹茶色に塗られた横向きの座席に腰掛けさせ、自身も修とぴったり引っ付くように座った。
「あの、そろそろ、手を、離して、いただけ、ないで、しょうか?」
「嫌です。せっかく出会えたのに。絶対離しません!」
数歩はきらきらした目つきで修にそう囁いて、修の手をさらに強く握り締めた。
「そっ、そんな……」
下手に抵抗して痴漢とかって叫ばれでもしたら困る、と危機感を持った修は、数歩にされるがままにされるしかなかった。
阪急王子公園駅を出発してから約十分後、
《芦屋川、芦屋川》
この到着アナウンスが流れると、
「ここが私のおウチの最寄り私鉄駅です」
「わわわ」
修はまた数歩に手をぐいっと強く引っぱられて電車から降ろされる。
阪急芦屋川駅の構内を抜けると、北東の方角へ。急な坂道を駆け上がりつつ閑静な住宅街を走り抜け、とある一軒家の門の中まで連れて行かれた。
「ここなんです、私のおウチ」
数歩はようやく手を離してくれた。
「……つっ、疲れ、ました、かなり」
修はゼェゼェ息を切らしながら、彼のすぐ目の前に聳え立つ二階建ての建物を見上げる。
ベージュの外壁に黒色の屋根、こげ茶色の玄関扉。外観はごく普通であるが、ちょっぴり高級感の漂うおウチという感じだった。
「さあ、修くん。どうぞこちらへ」
「わわわ」
修は再び数歩に右手を握り締められ、ズズズッと引っ張られていく。
「ただいまーっ」
数歩は玄関扉を開けると、元気よく帰宅後の挨拶をした。
「おかえり、数歩」
少し待つと、奥の部屋から一人の女性が現れた。
「お母さん、このお兄さんを、新しい先生にしよう!」
数歩は修の右手を握り締めたまま、元気な声で伝える。
「へっ、へっ!?」
修は目を大きく見開いた。
「数歩、そちらのお兄さん、かなり戸惑ってるわよ。事情をちゃんと説明してあげたのかな?」
数歩のお母さんはにこにこしながら廊下を歩き、二人の方へ近寄ってくる。
「あっ、いっけなーい私ったら。ごめんね修くん」
数歩はてへっと笑った。
「あっ、あの、ですね……」
修は棒立ちのまま、口をパクパクさせていた。
「お兄さん、修ちゃんって名前なのね。汗たくさんかいてるわね。急な坂上らされて疲れたでしょう? ちょっと休憩していきなさい」
お母さんに手招かれる。
「いっ、いえ。そっ、その、僕は……」
修は慌て気味に断ろうとした。
「修くん、上がって、上がってーっ」
「わわわわわ」
しかし数歩にまたも右手を引っ張られ、無理やり上がらされてしまった。
「修ちゃん、ここへ座って」
お母さんに案内されたのは、リビング中央付近にある、小さなローテーブルをコの字型に囲むようにソファーが並べられてある場所。ローテーブルのすぐ横には、三二型のプラズマテレビが置かれていた。
すぐ隣のお部屋はダイニングキッチンとなっており、わりと大きめのテーブルと、それを囲むように木製椅子が八つ並べられてあった。
リビングのソファーに、修と向かい合うようにお母さんが座る。
「はじめまして。ワタクシ、数歩の母、望月満由実と申します」
満由実さんは修に優しく微笑みかけた。
「はっ、はじめ、まして」
なんだよ、これ。新手のキャッチセールスか? だったら早く逃げないと……。
修はおどおどしながらも、ぺこりと頭を下げた。
「ちなみに年齢は四三歳だよ」
「これこれ、数歩」
満由実さんは照れ笑いする。このお方は、ほんのり茶色みがかったセミロングのヘアスタイル、顔に皺は目立たず体型も数歩と似て痩せ型、とても四〇過ぎとは思えない若々しい風貌だった。声もハキハキとしており、二〇歳近くも若い修の方が老け込んでいるようにさえ感じられたほどだ。
「お客様さん?」
二階からもう一人、中学生くらいの男の子が下りて来た。三人のいる方へ歩み寄ってくる。
「そうだよ、修くんっていうの。あの子は私の弟の数雄くんだよ。中学二年生なの」
数歩は嬉しそうに伝えた。
「どうも、こんにちは、修お兄さん」
「あっ、どっ、どうも」
その子に挨拶され、修は頭を少し下げて会釈した。
数雄はまた二階の自室へと戻っていく。姉の数歩と顔立ちがよく似ており坊ちゃん刈りで、背丈は一六〇センチくらいであることが確認出来た。
「修ちゃん、礼儀正しいわね」
満由実さんは感心する。
「いえいえ、僕決してそのようなことは……」
修はすぐに謙遜した。
「修ちゃん、背広はまだまだ暑いでしょ? 今日なんか特に。脱いでお掛けになってね」
満由実さんは笑顔で勧めてくる。
「いっ、いえ。僕、これで、ちょうどくらいですから」
本当は暑いけど、いざという時に逃げにくくなるからな。
修は警戒して、身に着けていた背広とグレイのネクタイを外そうとはしなかった。ビジネスバッグも左手に持ったままだった。
「どうぞ、修くん。お代わりも自由にしてね」
数歩がハーブティーとウエハースをローテーブルに運んで来てくれた。
修の目の前にコトンと置く。
「あっ、ありがとう、ございます」
あとで高額請求されたりしないだろうな。
修は礼を言うもそんな不安がよぎり、手をつけようとはしなかった。
「修ちゃん」
「はい。なっ、何でしょうか?」
満由実さんに話しかけられ、修はやや慌てる。
「ちょっと、この問題解いてくれるかしら」
いきなり数枚のプリントの束と、シャープペンシルと消しゴムを渡された。
「分かり、ました」
修はシャープペンシルを手に取ると、言われるままに解いていく。
「修くん、頑張ってね♪」
数歩も満由実さんの隣に腰掛け、その様子を見守る。
プリントには国語、数学、英語、社会、理科。学校教育における主要五教科の問題が満遍なく散りばめられていた。
(一般常識テスト? その割には、簡単過ぎるような。小中学生レベルだし。数学は、高校レベルのもいくつか交じってるな)
公務員試験用の対策もして来た修にとって、小中高生レベルの教養は当然のように身に付いており、楽勝だった。
問題数は全部で三百問もあったものの、一時間足らずで全ての空欄を埋めてしまった。
「出来ましたけど」
修はシャープペンシルを置くと、プリントの束を恐る恐る満由実さんに手渡す。
「ありがとう。二時間くらいが目安なんだけど、ずいぶん速いわね」
満由実さんはそう言うと、解答欄が朱色で印字された模範解答用紙と赤ボールペンを取り出し、修の解答と照らし合わせながら採点を始めた。
シャカッ、シャカッ、シャカッ、と丸をつける音が修の耳に飛び込んでくる。時折ピュンッと×を付けているであろう音も。
(なんで、こんなことを、させたんだろう?)
修は当然のように疑問に思った。
「修ちゃん、三〇〇点満点中、二九二点よ。見込んだ通りね。上出来、上出来」
「おめでとう! 修くん」
満由実さんと数歩は、とても嬉しそうに微笑んだ。
「あっ、どうも」
八問もミスったか。理科の天体の分野、連続で間違ってるし。
修はあまり嬉しくは感じなかった。
「ところで修ちゃんは、今どんなお仕事しているのかな? 見たところ、普通のサラリーマンっぽいけど」
「……いえ、その、僕は、スーツを着ていますが……無職です。大学を卒業して以来、ずっと」
満由実さんから突然された質問に、修はびくっと反応したあと重々しく口を開き、俯き加減に打ち明けた。
「あらぁ、そうだったの。なら一層好都合ね。修ちゃんは、どこに住んでいるのかしら?」
一瞬沈黙があった後、満由実さんは興味深そうに尋ねてくる。
「西宮市です」
「ここから近いのね。おタバコは吸う?」
「いえ、全く」
「パチンコや競馬、競艇などの賭け事、風俗店の利用は?」
「それらも、一切手を出したことはないです」
修は訊かれたことに無表情で淡々と答えていった。
「まあ、とても品行方正な子ね。それじゃ、喜んで採用するわ。まさに探していた人材ぴったりだわ」
満由実さんは満面の笑みを浮かべながらおっしゃった。
「えっ…………えええええええええええええええっ!!」
すると修は目を白黒させたのち、驚愕の声を上げた。
「とりあえず、最初の二ヶ月くらいは試用期間ってことになるけど、他に仕事無いならやってみない?」
満由実さんはとても親しげに誘いかけ、修の肩をポンッと叩く。
「あの、それって、つまり、僕を、雇って、いただける、ということ、なんです、か?」
修は唇を震わせながら、言葉を詰まらせながら質問する。
「その通りよ」
満由実さんはにこやかな表情で告げた。
「あっ、そういえば、どういった、職業で?」
修は少し冷静さを取り戻し、肝心なことに気付いた。
「学習塾講師よ。先に説明しなくてごめんね」
「私のお母さん、ここで塾の先生してるんだ。私もお母さんの塾の生徒なの」
数歩は嬉しそうに伝える。
「小中学生は主要五教科、高校生は国数英を受け持ってるんだけど、一人で教えるのがちょっときつく感じて来てね。特に、数学の出来る賢い子を探してたのよ」
満由実さんは淡々と説明する。
「お母さんは、二〇歳以上から四〇歳くらいまでの人を募集してたんだよ」
数歩は説明を加えた。
「新聞に、求人広告を出そうかと考えていたところなの」
満由実さんはさらにこう伝えた。
「そうなん、ですか……学習塾講師……僕は、教員免許、持って、ないん、ですが……」
「塾の先生に教員免許はいらないわよ」
戸惑う修に、満由実さんはにこにこ顔で伝えた。
「あっ、そうでしたか。大学教授は、いらないとは知っていたのですが。あの、僕は、筋金入りの口下手でして。家庭教師をした経験も、全くございませんし、こんな僕が、塾講師として、務まるので、しょうか?」
「うちの塾では、黒板の前に立って授業を進めていくというのではなく、自習形式なの。異学年の子を同じ教室に集めて、各自別々のテキストやプリントをやって、それを講師が採点、質問されたら解説していくというスタイルよ。だから全然問題ないわよ」
「僕が、イメージしていたのと違いますね。それでも、やはり、僕なんかに、務まるのでしょうか?」
修はなおも不安が残り、再度尋ねてみる。
「修ちゃんなら、きっとやっていけるわっ!」
満由実さんは彼を勇気付けるように言い張った。
「そうで、しょうか? あの、本当に、僕なんかを、採用して、いただけるんですよね?」
修は怪訝な表情を浮かべ、冗談ではないのか確認してみる。
「もちろんよ」
満由実さんは優しく微笑みかけた。
「修くん、望月舎の新しい先生になって、なってーっ。私、修くんなら大歓迎だよ」
数歩は強く望むようなしぐさを見せる。
「今日は木曜日ね。うちの塾の開塾日は火曜と金曜なの。修ちゃん、来週火曜からさっそく来てくれない?」
「えっ、あっ……もちろん、いいですけど」
「採用に当たって、履歴書と健康診断書を提出してね」
「分かり、ました」
満由実さんからの要求を、修はやや戸惑いながらも引き受けた。
「母さん、新しい講師を雇うんだね」
数雄がまたリビングにひょっこり現れた。
「あのう、きみも、ここの、塾に、通ってるのかな?」
「ボクは違うとこ。だって、母さんがやってる塾……女しかいないもん」
修の質問に、数雄は少し間を置いて、不満そうに答えた。
「この子、照れ屋さんなのよ。一緒に勉強すればいいのに」
数歩はにっこり微笑む。
「おっ、女の子、だけ、なん、ですか?」
修は驚き顔で尋ねる。
「うん。うちの塾は今、かわいい女の子満載よ。半年ほど前までは数歩と同学年の男の子もいたんだけどね。その子も、女の子がいっぱいで居辛いからって理由でやめちゃったのよ」
満由実さんは微笑みながら答える。
(周りに女の子しかいなかったら、そりゃあ居辛いよな。特に中学生男子にとっては)
修には彼や数雄の気持ちがよく分かったようだ。
「あの、どれくらいの、規模の塾なのでしょうか?」
修は続けて質問する。
「少人数制で、今は数歩を含めて五人受け持ってるの。下は小六から、上は高一までいるわよ」
「そっ、そうですか……」
いろいろお話ししている最中、
「ただいまー」
玄関から男性の声がした。
「お父さんだ! おかえりーっ」
数歩は大きな声で叫ぶ。
「望月先生、たった今新しい塾講師が決まったわよ」
満由実さんは、リビングへやって来た彼に嬉しそうに伝えた。
「ほう、そうか」
「こちらの子よ」
満由実さんは修の方を指し示す。
お父さんは修の方へ目を向けた。
「あっ、どっ、どうも」
修は慌ててぺこりと一礼した。
数歩・数雄のお父さんは痩せ型で背もそれほど高くなく、修と同じくらい。白髪が目立ち、面長なお顔でおっとりとした感じのお方だった。
「この修ちゃんって男の子、主要五教科のペーパーテスト、三〇〇点満点中二九二点も取ったの」
満由実さんは嬉しそうに伝える。
「それはすごいね。いかにも真面目そうな子だし……会社員としては頼りなさそうだけど、満由実がやってる塾の講師としてならやっていけそう。数歩のこともよろしくね」
お父さんは感心しながら修の身なりを見て、柔和な笑顔でのんびりとした口調で言う。
「えっ、そっ、その……」
期待された修は動揺していた。
望月先生。満由実さんが夫を呼ぶ時は、いつもこう呼んでいるらしい。彼は小学校の先生をしているからとのこと。
「ここのお部屋を教室に使ってるの」
満由実さんは、玄関入ってすぐの所にある応接間へ修を案内した。
「けっこう、広いですね」
修はそのお部屋全体をぐるりと見渡す。
広さ十二畳ほどの和室だった。部屋中央付近に木目調の長机が縦三列に並べられており、一脚当たり二人ずつ座れるように配置されている。床が畳になっているため、イスではなく座布団が敷かれていた。長机の前には、学校にあるものと同じような教卓とホワイトボートも置かれてある。
「落ち着いた雰囲気の教室でしょ?」
「はい。茶道教室っぽくも見えます。あの、おばさん、僕のような、今まで六年以上も就職活動をして来て、企業から何百社も不採用にされ続け、公務員試験にも落とされ続け、どこからも雇ってもらえなかった、前代未聞の無能人間を、採用して下さり、誠に、誠にありがとうございます」
修は満由実さんに向かって深々と頭を下げる。修の目には、ちょっぴり嬉し涙が浮かんでいた。
「いえいえ、何をおっしゃいます。こちらこそ大歓迎よ」
満由実さんはにこっと微笑み、修の頭を優しくなでてあげた。
「それでは、失礼致します」
修は満由実さんからこのおウチへのアクセスマップ、塾概要、仕事内容の説明などが記載された書類を受け取って、ここをあとにした。
(ついに……ついに、採用されたんだな、僕。学校の勉強さえある程度出来れば、コミュニケーション能力が低くても採用してもらえる世界もあったんだ)
修はこれまで二七年間の人生で一度も味わったことの無い高揚感に包まれながら、JR芦屋駅へと向かって歩いていく。
(……待てよ、採用してくれると聞かされて、つい我を忘れてよく考えないまま了承の返事をしてしまったけど、これって……採用詐欺なんじゃないのか? 冷静に考えると、僕を、あっさり採用してくれるなんて、あり得ないことだよな?)
帰りの快速電車の中で、修は急に不安がよぎって来た。
☆
「おふくろ、親父。僕の、就職先が、決まったんだけど……」
修は芦屋市のすぐお隣、西宮市内にある自宅に帰り着くとすぐさま還暦を迎えた母と、定年退職間近に迫った父に報告した。
「えーっ!! 嘘ぅ!?」
母は目を丸くする。修の就職先が決まることは、もはや宝くじの一等を当選する以上にあり得ないことだと思っていたからだ。
「本当に……決まったのか?」
父も同じような反応をした。
「うん。一応……」
彼からの問いかけに、修はこくりと頷く。
「何という名前の会社?」「初任給はいくらくらい?」「いつ創立されたん?」「資本金は?」「社員一人当たりの売上高は?」「社員数は?」「どういった事業を展開してるん?」
父は次々と質問してくる。
「その、なんというか、普通の民間企業のように、他社と競い合いながら利益を上げるとかそういう感じのところではなくて、教育施設で……その、今日受けに行った会社は即不採用にされたんだけど、その、帰る途中に、女子中学生にここに誘われて、それで、簡単な筆記試験と面接を受けたら、あっさり採用されて…………」
修はそう伝え、父に満由実さんからいただいた書類を手渡した。
「学習塾の、講師をするのか!?」
父は少し驚いていた。
「そうなんだけど、この望月舎っていう学習塾、小中高生対象の、少人数制で、自習形式の塾みたい」
修がこう伝えると、
「それは良かったじゃないか。若い子ぉらに教養を教えるのは、なかなかやりがいのある仕事やぞ」
父の表情に笑みが浮かんだ。彼は私立中高一貫校に理科教員として勤めている。そのためか学習塾講師という職業にも親近感が持てるようなのだ。
「学習塾講師って……黒板の前に立って人前で話さんといかんし、指導力とか、コミュニケーション能力がけっこういるでしょ? 修ちゃん、そこで本当にやっていけるのかしら」
母は少し心配になったようだ。
「まあ母さん、ここを見ると、修にとってぴったりの職業かもしれないじゃないか」
父は笑顔で言う。
仕事内容が説明されてある書類には、求める人物像:品行方正、素直で正直者、誠実、真面目で心優しい人と書かれてあった。
まさに修のことだ、父は感じたのだ。彼が勤めている学校の生徒の中にも、この塾へ通っていた子がいるらしい。
そう聞かされた修は、今回の件は採用詐欺ではなさそうだと確信した。
(さてと、提出用の履歴書を書かなきゃ……これが、最後になればいいな)
修は自室へ入るとすぐさま新品の履歴書用紙を取り出し、万年筆を右手に持った。丁寧な字で履歴書の各項目を埋めていく。
始めに日付、氏名、生年月日、満年齢、郵便番号、住所、電話番号を書き、性別欄の男に○を付ける。
次に学歴欄。修は小中高とも公立で、一浪後に国立大学へ入学した。そして講義にはいつも真面目に出席し、レポート課題も提出期限をきちんと守り、留年も休学もすることなく、きっちり四年で卒業。
職歴欄には〝なし〟と記入。一行空けて右詰めに〝以上〟と書く。
これまで書き直しを含め、何百枚も書いて来た修の筆遣いは馴れたものだった。
志望動機欄も記入していく。
(……どうしよう、思いがけず採用されたし、おばさんは空欄のままでいいって言ってたけど)
ここは空欄のままにしておいた。
資格欄他の項目も全て記入したあと、最後に証明写真を貼り付け履歴書は仕上がる。
(健康診断書、一応問題無いけど……)
痩せてはいるが持病は一切無く至って健康。ただ、視力はかなり悪かった。裸眼視力は両目とも0.1未満だ。そのため彼は、度の強い眼鏡を愛用している。
(きっちりとは決まって無いんだな)
修は塾概要を確認する。この塾は数歩が学校から帰ってくる夕方四時頃から夜八時頃まで教室を開放している。入室退室時刻、休憩時間は各自自由に設定して良いことにされていた。
他の項目も確認する。望月舎は受験対策に特化した進学塾ではなく、学校の授業における苦手教科の弱点補強を主眼としている。けれどもここへ通ったことで、結果的に身の丈以上の志望校に合格を果たした子も数名いるらしい。
教材は満由実さん手作りのオリジナルテキストやプリント、または市販のものを使用する。加えて、学校の宿題もやって良いことにされていた。
設立は八年半ほど前。数歩が小学校へ入学したことを機に、満由実さんは経営を始めたらしい。これまで今のメンバーを含めて、二〇名近くご指導されたようである。
午後八時半頃、望月宅ダイニングキッチンでは数歩、数雄、満由実さん、お父さん、家族四人全員揃って夕飯の団欒中。
「修くん、早く来ないかなぁ。楽しみだなぁ」
「とても信頼が持てる子だったね。僕も一目でこの子なら絶対任せられると感じたよ。あの霜鳥修君っていう子、僕の若い頃に似てるなぁ」
「数歩、なかなかの逸材を見つけて来たわね。いまどき滅多にいないわよ、あそこまで良い子」
満由実さんは柔和な笑顔を浮かべる。とても嬉しそうだった。
「私、一目見て不思議な魅力を感じたの。修くんは普通の人とはオーラが違うなぁって」
数歩はてへりと笑った。
「でも、どうしてあんなにすごく真面目で良い人そうなのに、今までどこからも雇ってもらえなかったんだろう?」
「私も不思議に思ったよ」
数雄と数歩は、ふと疑問を浮かべた。
「修ちゃんは誠実で謙虚で素直で正直者、品行方正な心優しい善良な子だと思うけど、不器用で自己主張が苦手で、お友達が少なくて他人と話すのが苦手な感じもしたわ。社会ではお友達がいっぱいいて体力があって、明るく活発で饒舌な子達の方が、多少性格が悪くても好まれるから、修ちゃんみたいなタイプの子達はなかなか仕事にあり付くことが出来ないのよ。無職の中で若い子は、ニートとか引き篭もりとかって世間では悪く言われてるみたいだけど、そんな子達でも仕事にすごくやる気のある子、仕事さえ与えられれば真面目に働く子はたくさんいると思うの。無職の若者には修ちゃんみたいな善良タイプの子もけっこうたくさんいると思うわ。世の中には人の悪口を言ったり、騙したり、暴力をふるったりお金を盗んだりが平気で出来るような、奸悪な一面がある子達もたくさんいるけど、そういう子達の方がリーダーシップやコミュニケーション能力、協調性、社交性が優れているとかって社会から高評価されて、就職もその後の出世も上手くいくケースも大人の社会ではよくあるものなのよ」
満由実さんはため息交じりに長々と伝える。
「確かにそうだよね。特に他社との競争が激しい民間企業では、素直で真面目一筋より、他人を見下したり騙したりを平気で出来るような人じゃなきゃ、生き抜いていけないからね。僕も民間企業じゃ絶対すぐにクビになってたよ。学校社会でも似たようなことが言えるかもね。真面目で大人しい子より、ちょっと素行が悪くても明るく元気な子の方が、クラスの人気者になれるからね」
お父さんも苦い表情で呟いた。
「お父さんの言うこと、私にも思い当たる節があるよ。私達が就職する頃には、修くんみたいな素敵な人が、もっともっと働きやすい世の中になればいいのにな」
「そうだね、お姉ちゃん。今の世の中は厳し過ぎるよ。みんな平等が一番だよね」
数歩と数雄はこう強く願っている。
第二話 祝! 修くん学習塾講師仮就任
翌週、火曜日の夕方四時頃、修は自転車で望月宅へとやって来た。彼の自宅から望月宅までの所要時間は二〇分ほど。電車を使うまでもなかったのだ。
服装はいつもの就職活動スタイル、つまり紺色のリクルートスーツとグレイのネクタイを身に着けて、黒一色のビジネスバッグを手に持った姿だ。
(いよいよ今日から、僕も就業者になるのか)
修はわくわくしながらも恐る恐る、玄関入口横のチャイムボタンを押した。修の心拍数は高まる。
数秒後、住民の誰かによって扉がガチャッと開かれた。
修の心拍数はさらに高まる。
「修ちゃん、いらっしゃい」
出て来たのは、満由実さんであった。
「いらっしゃーい、修くん。私、キリンさんみたいに首を長ぁくして待ってたよ」
数歩もすぐ後ろ側にいた。修を温かく迎え入れる。
「あっ、今日から、お世話になります、しっ、霜鳥修です。よろしく、お願い致します」
修が緊張気味に挨拶すると、
「修ちゃん、そんなに畏まらなくても」
「修くん、もっとリラックス、リラックス。こちらこそよろしくお願いしますね」
満由実さん、数歩は優しく微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます。あの、おばさん。こちらを……」
修は満由実さんから提出を求められていた履歴書と健康診断書に加え、大学の卒業証明書と成績証明書もビジネスバッグから取り出し手渡した。
「あら、助かるわ。じゃ、これも合わせて頂いておくね」
満由実さんはありがたく受け取った。
「優をたくさん取ってますね。すごいです修くん」
成績証明書を覗き見た数歩が褒めてくる。
「いえ、それほど、たいしたことでは……」
修は自分を卑下するものの、
(僕、優の評価もわりと多く取得しているけど、大学の成績は講義毎の担当教官が独自の判断で決めているからな。講義に参加した人全員に優を与えてくれる教官もけっこういるし。中高の通知表における5段階評価の5、10段階評価の9、10を取得するよりも遥かに簡単なことなんだよ)
このことは黙っておいた。
「修ちゃん、べつにスーツじゃなくてもいいのよ」
「いやまあ、これが、僕の、普段着のような、ものですから」
満由実さんの指摘に、修は照れくさそうに答える。
「ふふふ、とっても似合ってるわ。修ちゃんにメンバー表を渡しておくわね」
満由実さんはA4サイズの用紙を一枚手渡す。
「ありがとうございます」
……かなり変わった苗字の子もいるな。僕の苗字以上に。
修は数歩以外の塾生達四人の氏名も確認した。彼は塾生達が来るまで、リビングで待機させてもらう。
「どんな、子達なんだろう?」
修の不安がますます高まってくる。出されていた紅茶とクッキーにも手をつけられなかった。
「修くん、心配しないで。みんなすごくいい子達だから」
「とっても真面目な子よ。それじゃあ、みんな来るまでしばらく待っててね」
数歩と満由実さんからなだめられる。その二人は一足先に教室へ入り、一緒に自習学習をし始めた。
午後四時半頃、
「こんにちはーっ! 満由実おばちゃん、数歩お姉ちゃん」
「「いらっしゃい」」
数歩を除く最初の塾生がやって来る。玄関は通らず、教室と繋がる庭から直接だった。
それから十数分おきに、他の三人の塾生達も同じようにして教室へ続々入って来た。
「修ちゃん、みんな揃ったわよ」
満由実さんがリビングへ戻って来て伝えると、
「はっ、はい」
修はびくっと反応し、すっくと立ち上がった。彼は満由実さんの背中を眺めながら、緊張気味に廊下を歩き進む。
「修ちゃん、ここで止まってね」
教室出入口扉一メートルほど手前で、満由実さんから小声で指示された。
修はぴたっと立ち止まる。
満由実さんは扉を引き、中へ入ると、
「皆さん、前回の授業でお伝えしたように、今日から新しい塾講師さんが来ますよ。若い男の方です。温かく迎えてあげてね」
塾生達にこう伝えた。
「どんな感じの奴かな?」
「楽しみ♪」
塾生達の騒ぎ声が扉越しに修の耳に飛び込んでくる。
(おっ、おばさん。プレッシャーかけないで下さぁーい)
修はカタカタ震えながら、ロボットのような歩みで扉の前へと向かう。
コンコンコンッと三回ノックした。
「どうぞ入ってね」
満由実さんから告げられると、修は取っ手に指を掛け、そぉーっと引く。
そして教室へ足を踏み入れた。
すると、
パチパチパチパチパチ。
塾生達から盛大な拍手で迎えられた。
修は塾生達と目を合わせないまま満由実さんの側へ歩み寄り、隣に立つ。
「あの、僕は、本日から、ここの塾の、講師を、務めさせていただく、霜鳥、修、と、いい、ます」
修は緊張のあまり、言葉が詰まってしまった。
修の目の前に広がる、五人の塾生達。
(視線を、感じる)
「えっと、おばさん。僕は、まず、何から?」
「自己紹介するように言ってあげて」
戸惑う修に、満由実さんは耳元で囁く。
「では、とりあえず、その、皆さんからも、自己紹介。その、えっと、まず、こやまうちさん、から」
「おさないです。読み方よく間違えられるんですけどね。わたしが、小山内藍子です」
その子はてへっと笑いながら立ち上がってぺこりと一礼する。背丈は一四〇センチ代半ばくらい。くりくりした丸っこい目。ほんのり茶色な髪を水玉模様のリボンでお団子結びにしていることで幼さがより一層引き出されていた。修のすぐ側、つまり一番前の席に座っていた。
「きみが、小学六年生の……」
「高一です。こう見えても今の塾生の中で一番年上なんです」
藍子はすぐに訂正した。
「えっ、あっ、そっ、それは、失礼」
修はとても気まずい気分になった。
「オサムっち、この一番年上っぽい子が、一番年下の小学六年生だぜ」
一番後ろの列に座っている塾生の一人が伝え、対象の子をビッと指差した。
「はじめまして。あたしの名前は菓子紗奈でーす」
その紗奈と名乗った子はゆっくり立ち上がって修に向かってぺこりと一礼した後、照れくさそうに自己紹介した。真ん中の列にいた。その子の隣に数歩がいる。
紗奈の背丈は、一七〇センチ近くはあるように見えた。しかしながら、みかんのチャーム付きシュシュで二つ結びにしているほんのり紫がかった髪と、丸っこくぱっちりした目、丸っこい顔つきには小学生らしいあどけなさが感じられた。
「カッシー、オサムっちと並んでみて」
さっきの子が指示を出す。ぱっちりとした鳶色の瞳にちょっぴり広めなおでこ、四角っこいお顔が特徴的で、ほんのり栗色な髪をポニーテールに束ねている子だ。
「はーい」
紗奈は修の横にぴょこぴょこ歩み寄り、並んでみた。
「おう! やっぱカッシーの方が高い。ちなみにアタシは一五三」
「本当に、高いね」
修は目を少し上に向ける。彼はほんの少しだけショックを受けた。
「あたしのママ、一七三センチあるから。遺伝したのかも」
紗奈は俯き加減でもじもじしながら打ち明けた。
「バレーとか、バスケをやってるの?」
「やってないよ。あたし、体育は一番の苦手科目だから。得意科目は音楽」
修の質問に、紗奈はしゅんとした表情で打ち明けた。
「修先生、先入観を持っちゃダメですよ。洞窟のイドラです」
藍子は爽やかな表情で哲学用語を用いて指摘する。
「すっ、すみません」
修はすぐに謝罪した。
「カッシーの姿見たら、普通はそうイメージするよな。アタシも最初見た時そう思ったし。アタシは樋口絵梨佳って言います。中学二年生!」
「あっ、きっ、きみが……あと、望月さんで、もう一人が、花屋晴恵さんという子だね」
「……」
修が問いかけると、その紗奈の隣に座っている子は何も言わずこくりと頷いた。ごく普通の形のまん丸な眼鏡をかけて、濡れ羽色の髪を黄色いりぼんで三つ編み一つ結びにしていた。とても真面目そう、加えてお淑やかで大人しそうな感じの子だった。
「では修ちゃん、あとは一人でやってね」
満由実さんは笑顔で告げて、教室から出て行ってしまった。
「えっ、あっ、あのですね、僕は、新人なので……」
修はかなり焦る。
「修くん、頑張れー」
数歩からエールが送られた。
「でっ、では、じゅっ、授業を、進めて、いきます」
修の緊張感はさらに増す。
「修先生、さっそく質問があります」
藍子から呼ばれた。
「あっ、はい、今、行きます」
修はすぐさま藍子の隣に駆け寄る。
「学校の宿題なんですけど、これの解き方についてなのですが……」
藍子は数学ⅠAの問題集の該当箇所を指で押さえた。
「絶対値記号のついた、二次関数の問題か。けっこうハイレベルな問題を、やってるんだね」
「はい。この問題は飛ばしても良いと先生はおっしゃっていたのですが、わたし、二年から理系クラスに進むつもりなので、これくらいのは解けるようになっておきたいのです」
「そっ、そうですか。僕は、高校時代理系クラスでした。これは、こうやって、場合分けをして……」
「ありがとうございます。これ、満由実先生に訊いても答えられなかったんですよ」
修がヒントを与えると、藍子はとても喜んでくれた。大学でも数学を学んで来た修にとって高校数学の問題を解くことはたやすいことだった。
「どっ、どういたし、まして」
修は少し照れてしまう。
「ねえ、オサムっちぃー」
絵梨佳は手をピンッとまっすぐに上げた。
「どっ、どんな、質問、でしょうか?」
修はその子の方を振り向く。
「ナプキン、変えて来てもいいですか? アタシ、今、アレが来てる最中なので」
絵梨佳はほんのり頬を赤らめて、照れくさそうに問いかける。
「どっ、どうぞ」
修は少し戸惑いつつ、許可した。
「ありがとうございまーす」
絵梨佳はすっくと立ち上がって、扉の方へ。
「絵梨佳さん、普通にトイレに行ってきますって言いなさい。修先生困ってるでしょ」
藍子は困惑顔で注意した。
「はーぃ。次から気をつけまーす」
絵梨佳はてへっと笑い、教室から出て行った。
「……」
修はなんとも言えない気持ちになった。
「修くん、この理科の問題なんだけど、どうやって解けばいいのかな?」
今度は数歩に呼ばれた。
「えっと、こっ、これは……」
修は気にせず学習指導を続けていく。
「ありがとう修くん。あっという間に解けちゃった。修くんは〝筆記の達人さん〟だね」
数歩はにっこり微笑む。
「えっ、あっ、それは、どういたし、まして。あの、花屋さんは、何か、質問は、ないかな?」
修は気まずい面持ちのまま、晴恵の側へ近寄った。
こくりと頷いて、晴恵は黙々と問題を解いていく。
(この子、僕の、学生時代とよく似てるかも)
修は晴恵に親近感が湧いたようだ。
「修お兄ちゃん、〝きんろう〟と〝のうぜい〟って、どうやって書くの?」
紗奈からも呼ばれる。
「こっ、これは……」
修は紗奈の持っていた可愛らしい動物柄のHB鉛筆を借り、苦虫を噛み潰したような顔をしてプリントの該当解答欄に『勤労』、『納税』と書いてあげた。
(無職期間が長かった僕には、何とも痛く突き刺さる言葉だな)
下線部を漢字に直せという問題で、【きんろう、教育、のうぜいは、日本国民の三大義務である】と書かれてあったのだ。
「うーん、難しいやぁ。修お兄ちゃんも難しい問題を一生懸命考えてるようなお顔してたし。あたしも真似ぇーっ」
紗奈は眉間にしわを寄せた。
「紗奈さん、漢字は反復練習が大事よ」
「分かってる。担任の先生も同じ漢字を最低十回は書きなさいって言ってるから」
藍子が助言し紗奈が返事したちょうどその時、
「ただいまーっ、すっきりしたよ。自習に集中出来そうだ」
絵梨佳が戻って来て、
「オサムっち、また質問があります。円周率のπについてですが、オサムっちはこの言葉にどういった印象をお持ちで?」
修に嬉しそうに尋ねる。
「絵梨佳さん、くだらない質問はしない!」
「あいたっ」
藍子は絵梨佳の後頭部を、数学Aの教科書でベシンと叩いた。
(ご指導ありがとうございます。小山内さん)
修は心の中で礼を言っておいた。彼はその後も、塾生達から質問が来ると順次対応していく。
「皆さん、少し休憩取りましょう」
午後六時半頃、満由実さんが教室へ戻ってくる。
(やっと戻って来てくれた)
修はホッと一息ついた。
「修ちゃん、今から塾生のみんなと一緒に記念撮影するわよ」
満由実さんはデジカメを手に持っていた。
「ぼっ、僕、写真はあまり……」
「まあまあ修ちゃん、そんなこと言わないで」
やや顔をしかませた修に、満由実さんは爽やかな表情で説得する。
塾生達はホワイトボードの前に並んでいく。
「修くん、ここに並んでーっ」
「わわわ」
数歩に腕を引っ張られ、無理やり並ばされた。
教室後ろ側窓際でデジカメを構える満由実さんから見て、修の右隣に数歩。左隣に絵梨花。その隣に晴恵。数歩の隣に紗奈、藍子という構図だ。
晴恵の背丈は一五〇センチあるかないかくらいで、藍子の次に小柄であることが分かった。
「それじゃ、撮るわね。はいチーズ」
満由実さんはそう告げてから約三秒後に、シャッターを押した。これにて撮影完了。
「きれいに撮れてるね。さすがお母さん」
「マユミン、すげえ」
数歩と絵梨佳はすぐさま満由実さんの側へ駆け寄り、保存された画像を見て感心する。
数歩、絵梨佳、藍子、紗奈はにこやかな笑顔。
修と晴恵は普段通りのすまし顔であった。
「さて、これから修ちゃんの歓迎会をするね」
「……あっ、ありがとう、ございます。僕なんかのために」
満由実さんの計らいに、修は深く感謝した。
ともあれみんなはダイニングキッチンへと向かっていく。
すでにテーブルの上に夕食が並べられてあった。
満由実さんはさっきの間、これの準備をしていたのだ。
大皿に乗せられた鯛やマグロ、イカ、ウニ、貝柱などの刺身盛り合わせ。
他に、中華料理なども用意されていた。
七人は椅子に座る。
時計回りに修、数歩、絵梨佳、晴恵、藍子、紗奈、満由実さんという座席配置。
修は晴恵と向かい合うような形となった。
「それでは手を合わせて」
満由実さんがそう告げると、塾生の五人はすぐに両手を合わせた。
「あっ……」
修はワンテンポ遅れてしまった。
「修ちゃん、そんなに慌てなくていいのよ」
満由実さんは優しく微笑む。
「おあがりなさい」
「「「「「いただきます」」」」」
こう告げると塾生五人、
「いただき、ます」
そして修と満由実さんも食事に手をつけ始める。
「修ちゃん、遠慮せずにどんどん食べてね」
「はっ、はい」
修は当然のように緊張していた。女の子達に囲まれて食事をするのは、彼の人生初めての体験だからという理由が一番大きい。
「修先生、これどうぞ」
藍子は修の前の並べられていた小皿に餃子とシューマイを入れてあげた。
「あっ、どっ、どうも」
修は軽く頭を下げてから受け取る。
「オサムっち、これ食べて。めっちゃ美味いぜ」
「どっ、どうも」(わさび塗れなのですが……)
絵梨佳の厚意に、修は困惑する。
「修お兄ちゃん、ゴマ団子どうぞ」
「修くん、大トロだよ。すごく美味しいよ」
紗奈と数歩もよそってくれた。
「あっ、ありがとう」
(えっと、刺身醤油。あっ、すぐ前にあった)
修は手を伸ばし、刺身醤油の瓶を取ろうとした。
「あっ、ごめんね」
その際、同じく取ろうとしていた晴恵の手の甲に触れてしまった。慌てて謝る。
「!!」
晴恵はびくーっとなって、反射的に手を引っ込めた。さらにその子は下を俯いてしまった。
(どうしよう。嫌われちゃったかな?)
修はとても気まずい気分になった。
「修ちゃん、お飲み物どれでも好きなのを選んでね」
「あっ、はい」
テーブルの上には烏龍茶、オレンジジュース、メロンソーダ、レモンサイダー、コカコーラのペットボトルも置かれてあった。
修は慎重な動作で烏龍茶のペットボトルを手に取り、コップに注ぎ入れる。
「ねえ、修くん、塾講師になる前は無職だったんでしょ?」
「えっ、まあ、お恥ずかしながら」
数歩からの突然の質問に、修はびくりと反応する。思わず烏龍茶をこぼしそうになった。
「私、そのおかげで今日は助かったよ」
「へっ!? どういうことで、しょうか?」
修はぽかんとなった。
「五時限目の理科の授業中、フェノールフタレイン液を加えた水酸化ナトリウム水溶液に、塩酸を少しずつ加えていくと、水溶液の色は赤紫から何色に変化するのか答えなさいって当てられたんだけど、私、居眠りしてて寝惚けてて、修くんのことが頭に浮かんじゃって、思わず無色って答えちゃったの。そしたら当たってて。先生に褒められちゃった」
数歩は満面の笑みを浮かべながら伝えた。
「それは、どうも……」
数歩はどう突っ込めばいいのか分からなくなった。
「オサムっちは肉食系でも草食系でもない、無職系なんだね」
絵梨佳はくすくす笑う。
「絵梨佳お姉ちゃん、そんなこと言ったら失礼だよ」
紗奈は注意する。
「いいんですよ。僕にとっては、無職は称号のようなものですから」
修はむしろ喜んでいた。
「私、青色だと思ってたんだけどなぁー。それでもっと加えると黄色になって、また赤紫に戻るの」
「信号機じゃないんだから。期末テストでも出題されると思うから、しっかり覚えておくようにね」
藍子は爽やかな表情で忠告する。
「はーぃ」
数歩はてへっと笑い、舌をぺろりと出した。
修はこの後も、満由実さんや塾生達と少しだけ会話しながら食事を進めていく。
数雄とお父さんは、今日はみんなに気を遣って外食するとのことだった。
「皆さんもう食べ終わったね。では手を合わせて」
夕食後、満由実さんからの合図で塾生達はすぐに手を合わせる。
「あっと……」
修はまたもワンテンポ遅れてしまった。
「修ちゃん、慌てなくていいよ。ごちそうさま」
満由実さんは優しく気遣ってくれる。
「「「「ごちそうさまでした」」」」
「ごちそうさまでした」
「ごちそう、さま、でした」
満由実さんの合図に続いて合わせるように塾生達、晴恵と修もワンテンポ遅れて手を合わせて食後の挨拶をした。
「オサムっち、カズポンが言ってた通り、見るからにすごくいい人そうだね。ねえ、オサムっち、似顔絵描いてもいい?」
絵梨佳は通学カバンからスケッチブックを取り出し、お願いしてくる。
「べっ、べつに、かまわないですけど……」
「やったぁ!」
修が承諾すると絵梨佳は大喜びし、筆箱から4B鉛筆も取り出した。スケッチブックを開き、4B鉛筆をシャカシャカ走らせる。
三〇秒ほどのち、
「はい、完成。どうぞオサムっち」
絵梨佳は描いていたページを千切り取り、修に手渡した。
「えっ、もう出来たの!? ……しかも、かなり、上手い」
修は自分の似顔絵を見て、驚き顔になった。
「絵梨佳ちゃんは、美術部に入ってるの」
数歩は説明する。絵梨佳は同じ中学の後輩なのだ。
「あっ、どうりで」
修はすぐに腑に落ちた。
数歩以外の塾生達が全員帰った後、
「修ちゃん、今日はどうだった?」
満由実さんから早速感想を訊かれる。
「僕、非常に、緊張致しました。その、人に、教えると、いう経験は、生まれて、初めてでしたから」
「そっか。でもよく頑張ってたよ、修ちゃん」
満由実さんはにこりと笑い、修の頭をなでてあげた。
「あっ、あの、ですね」
「何かしら?」
「花屋晴恵さん、という子なんですけど」
「あの子ね。けっこう人見知り激しいのよ。中一の頃一時期、不登校になってたこともあって。その時に、この塾の方へ通うようになったの」
「あっ、そっ、そうなんですか」
修は晴恵に憐憫の気持ちが芽生えた。
「絵梨佳ちゃんと小学校時代からすごく仲が良いみたいだよ。中学二年生で初めて同じクラスになって、また学校へ行けるようになったんだって」
数歩は嬉しそうに教える。
「いい話ですね。あの、樋口さんは、花屋さんの勧めで、この塾へ通うようになったのでしょうか?」
「いやいや、違うのよ。絵梨ちゃんは今年の七月に入塾したばかりで、今いる子達の中では一番最近に入って来た子なんだけど、絵梨ちゃんの意思で入ったわけじゃないのよ。絵梨ちゃんのママから、絵梨ちゃんをここの塾に通わせてあげてって頼まれたのよ。絵梨ちゃんは、定期テストの成績がいつも悪いからって理由でママに無理やり入れさせられたんだって嘆いてたけどね」
満由実さんは笑顔で伝える。
「学習塾に通う子って、親に言われて仕方なくって子も多いらしいですからね」
修は共感した。
「私はお母さんの授業大好きだけどなぁ」
数歩はにっこり微笑んだ。
「ありがとう数歩」
「樋口さんは、僕には、ちょっと苦手なタイプです。真面目そうな感じではないですし」
修は苦い表情で伝えた。
「ふふふ、じつはワタクシ、絵梨ちゃんのママと幼馴染なの。ワタクシより、三学年年下よ。あの子、今でもワタクシのこと満由実姉ちゃんって呼んでくれてるの。そんな人懐っこいところ、絵梨ちゃんにそっくりなのよ」
満由実さんは笑顔で語る。
「遺伝、してるんですね、性格が」
修は苦笑する。
「そんな絵梨ちゃんも、藍ちゃんには逆らえないみたいよ。藍ちゃんは、小学二年生の頃から数歩とずっと通ってるの」
「そうなんですか」
「藍子ちゃんは、私のお姉ちゃんみたいな存在だよ。妹にしたいけどね」
数歩は嬉しそうに伝えた。
「修ちゃん、塾講師の務めは授業をするだけじゃないわよ。ちょっとお部屋に来てね」
「はい」
修は満由実さんのお部屋に招かれる。
数歩も付いていった。
満由実さんのお部屋には幅一メートル奥行き五〇センチ、高さ二メートル近くはある大きな本棚が三つあった。膨大な数の教科書・参考書類やプリント類が教科ごと学年ごとに、きれいに整理整頓されて並べられてある。
机の上には、デスクトップパソコンも置かれてあった。オリジナルテキストや自習プリント作りに重宝しているらしい。
八畳ほどの広さがある洋室だが、かなり狭く感じられた。
「修ちゃんに、学習塾講師としての適性能力を測るために、一つ重大な任務を与えるね」
満由実さんから突然告げられる。
「どういった、任務なのでしょうか?」
修はつばをごくりと飲み込んだ。心拍数も急激に高まる。
「修ちゃんにも、塾生一人一人の学力に合った自習プリントを作るのを手伝ってほしいの」
「そりゃもちろんいいですよ。仕事が頂けることは大変光栄なことです」
満由実さんの依頼を、修は快く引き受けた。
「あっ、でも、どのように、作成すれば……」
しかしすぐに困ったことが出て来た。
「最初は分からなくても無理ないわ。今回はワタクシがサンプルで作ったものを参考にしてみてね」
「はい」
満由実さんは塾生達の苦手分野を表にまとめたプリントも合わせて修に手渡した。
「修ちゃん、パソコンに詳しいみたいね。大学でプログラミング演習とか、データベース基礎論とかいうのを履修しているし」
「いえいえ。僕、それらの講義ほとんど理解出来ませんでしたから」
「修ちゃんったら、控えめね、良の評価取ってるのに。修ちゃんはとても優秀な子なんだから、もっと自分に自信を持ちなさい」
「はい。分かり、ました」
満由実さんに優しく諭され、修は照れくさそうに返事する。
「塾生のみんなの成績は、これを見れば分かるわ」
満由実さんは続いて、とある資料が綴じられたファイルの束を机の引出から取り出した。彼女は学校のテスト用紙とその個人成績表、通知表のコピーを、結果が出るたび塾生達に提出させている。満由実さんは塾生達の苦手教科の成績をどうすれば効率的にアップさせられるか、日夜研究に努めているのだ。
「えっ、いいんですか? こんなプライバシー的なもの、僕なんかが覗いて」
「もちろんよ。というか、見なきゃダメよ。修ちゃんも、もうここの塾講師なんだから」
罪悪感に駆られる修に、満由実さんは優しくそう告げた。
「分かり、ました」
修は恐る恐る、一番上に置かれてあるファイルから手に取り確認していく。
各ファイルに、塾生達の名前が書かれてある。分かりやすいよう一人一人別々にまとめてあるのだ。
「私のも見られるから、ちょっと恥ずかしいな」
数歩はほんのり頬を赤らめた。
「小山内さんは、けっこう成績良いんですね。通知表もほとんど8以上取っていますし」
藍子の今年度二学期中間テスト総合得点は、八〇〇点満点中六九八点。学年順位は三〇五人中一八位だった。
「藍ちゃん用のは、基礎レベルの問題は大方マスター出来てるから、得意分野をさらに伸ばせるように、応用から発展レベルの問題を多めに取り入れてるの。さすがに高校レベルともなるとオリジナル教材を作りにくいから、市販の教材を使わせていただく場合がほとんどよ」
「そうでしたか。菓子さんの分は、たくさん、ありますね」
小学生の紗奈については定期テストは無いため、頻繁に行われる単元別のテストを提出させていた。算数と理科は六〇点前後、その他は八〇点前後であった。小学校のテストは満点が当たり前なので、普通よりちょっと悪いと修は判断した。通知表も3段階評価で音楽が3、体育が1という以外は全て2であった。
「紗奈ちゃんは、小学四年生の頃から通い始めたの。あの頃でもワタクシと背が同じくらいあったわ。性格は幼いけどね」
「確かに、背は僕より高くても、やはりしぐさを見ると小学生だなと感じました。花屋さんは、わりと優秀ですね……あの、樋口さん、確かに良くないですね。全部平均点以下なので。総合得点も二百点台半ばですし。通知表も2が多く……美術だけはしっかり5取ってる」
修は困惑顔で、絵梨佳の成績表を眺める。
「絵梨ちゃん、主要五教科はどれも苦手みたい。ワタクシの教え方では、成績をあまり上げられなかったわ」
満由実さんは苦笑した。気にしているようだった。
修は続いて、数歩の分を確認した。
「修くん、私は数学と、理科の特に一分野が大の苦手なの。私、この間の中間テスト、数学と理科でかなり悪い点採ってるでしょ」
数歩は照れくさそうに打ち明けた。
「理科が平均61点の45点。数学が平均67点の48点だね。公立中学で、それも、学内の定期テストで、これでは、ちょっと……」
修は数歩の中間テスト結果表を眺め、難しい表情を浮かべた。
「やっぱり悪いんだよね。テスト前は、すごく頑張って勉強したんだけど、暗記が利かないからね。私、藍子ちゃんが行ってる高校狙ってるの。でも、中間の後の面談で、担任からはもう一ランク下げるように言われちゃって」
数歩は落ち込む。
「いや、まあ、中学レベルでしたら、じゅうぶん挽回は可能かと。それに、国社英は全部平均点を二〇点近く上回っているので」
修は勇気付けようとした。
「他の教科は特に問題ないみたいだから、修ちゃん、数歩には、数学と理科を重点的に教えてあげてね」
満由実さんは修にエールを送る。
「はい。僕、その科目は、一応得意ですので」
「修くん、よろしく頼むよう」
「あっ、あの……」
数歩に背後からいきなり抱きつかれ、修は焦った。
「塾生のみんなの成績アップ、特に絵梨ちゃんが期末テストで中間よりも良い点取ることが出来るように、修ちゃんも勉強の手助けをしてあげてね」
「分かり、ました」
満由実さんの要求を修は引き受けるも、
(僕なんかに、あの樋口さんの成績を上げることなんて出来るのかな?)
脳裏に一抹の不安がよぎった。
「修くん、涙が出てる?」
数歩は指摘した。
「僕、今、とても嬉しいんですよ」
修は目に涙を浮かべながらこう説明する。彼は仕事を与えてもらえることのありがたみを、今までどこからも雇ってもらえなかったこともあって人一倍強く感じているのだ。
「喜んでもらえて、ワタクシもとても嬉しいわ。修ちゃん、次は金曜日ね」
「はい」
修は満由実さんから教科書・参考書類も何冊か受け取り、望月宅をあとにする。
(塾生みんなの、さらなる成績アップに努めるぞ)
家に帰ったあと、修はさっそく教科書・参考書、満由実さんからいただいたプリント類を机に上に並べ、ノートパソコンも立ち上げた。ノートパソコンは大学時代の講義レポートや卒論の作成、そして就職活動などで大変重宝したものだ。
(メールが何件か入ってるな)
修はお知らせアイコンをクリックし、メールの中身を開いてみた。
(一週間くらい前にネットの応募フォームからエントリーした、鉄道車両部品の製造工場と、食品メーカーと、広告代理店と、老人ホーム。四社からの不採用通知か。僕の就職活動は、もう一応終わったんだ)
修はそのメールを得意げな気分で削除した。
今までは不採用通知を眺めるたび沈んだ気分になっていたが、今回はとても清清しい気分であった。すでに就職先を決めているからだ。
修はとても楽しそうに、自習プリントの作成作業を進めていったのであった。
第三話 ハッピーハロウィン
三日後の金曜日。修は前回と同じく夕方四時頃に望月宅へやって来て、塾生みんなが揃うまでリビングで待機させてもらう。
「あの、おばさん。自習プリント、こんな感じで、よろしいのでしょうか?」
修はビジネスバッグから取り出すと、恐る恐る手渡した。
「じゅうぶんオッケイよ。さっそく今日から使わせてもらうね」
パラパラと捲った後、満由実さんはにこっと微笑む。
「ありがとう、ございます。あの、おばさん、今日は、お菓子をたくさん用意してるんですね」
修はダイニングテーブルの上に、透明な袋に入れられたお菓子の詰め合わせがたくさん置かれてあるのに気付いた。
「今日はハロウィンだからね。塾生のみんなにプレゼントするのよ」
「……あっ、そういえば、今日は十月三十一日でしたね」
「うちの塾では毎年ハロウィンのイベントをやってるの。七年ほど前、塾生にアメリカ人の子がいて、その子に勧められて始めてから恒例行事になったのよ」
「そうでしたか」
「修くーん、いらっしゃーい」
リビングに数歩が現れた。
「ハロウィンらしい、格好だね」
修は数歩の身なりを見るやこうコメントする。
ハロウィンでお馴染みの、ジャックランタンのお面を被っていたのだ。
「このかぼちゃ、晴恵ちゃんからいただいたの。あの子のおウチ、お花屋さんだからね」
数歩は嬉しそうに伝える。
「名前の、通りなんだね」
修は素の表情で突っ込んだ。
前回と同じように、数歩と満由実さんは先に教室へ。
夕方四時半頃から、他の塾生達も続々やって来る。
全員揃うと、満由実さんが呼びに来て、修も教室へと入る。修は、今回はそれほど緊張しなかった。
「……みんな、ハロウィン、らしいね」
修は塾生達の姿を見て、苦笑顔で突っ込む。
絵梨佳は狼男、紗奈と藍子は魔女のコスプレをしていた。晴恵はコスプレはしていないものの、黒地に橙色のジャックランタンの刺繍が施されたセーターを身に着けていた。
「似合ってるでしょ? マユミン、オサムっち、お菓子頂戴」
「修お兄ちゃん、満由実おばちゃん、あたし、菓子紗奈にお菓子を」
絵梨佳と紗奈は両手を差し出す。
「あの言葉を言ってからよ」
満由実さんは優しく注意した。
「「「「トリック・オア・トリート!」」」」」
明るく叫んだ四人に対し、
「トリック、オア、トリート」
晴恵は俯き加減で、恥ずかしそうに言った。
「では、こちらを」
こうして修は一人一人にお菓子の詰め合わせを手渡していく。
塾生全員に渡し終えてから三分ほどのち、
「それでは、授業始めますよ。絵梨ちゃん、紗奈ちゃん。そろそろお菓子を片付けましょうね」
満由実さんは笑顔で告げた。
「えええ、今日はハロウィンらしくパーティしようぜ」
「満由実おばちゃん、今日は授業止めよう」
絵梨佳と紗奈はコスプレ姿のまま、さっきもらったお菓子を食べながら不満を呟く。
「ダーメ! きちんとけじめを付けましょうね」
「あいたぁっ」
「あーん、満由実おばちゃぁん」
満由実さんは、わがままを言うこの二人が手に持っていたお菓子を力ずくで奪い取り、頭を英語のテキストで軽く叩いておいた。
こうして今日も通常通りの授業が始まり、質問が来ると修は対応していく。
今回は満由実さんもずっと付いていてくれた。修の負担も半減以下だ。
授業が始まってから一時間ほど経った頃、
「私、今からは学校の宿題やるよ。修くん、今日ね、明日までに提出のがいっぱい出たの。手伝ってーっ」
数歩は修の側に近づいて来て、要求してくる。
「それは、かまわないけど」
修は快く引き受けた。
「私、数学の問題全然分からなくて。64ページの問い六から八までが宿題なの」
数歩は中学3年生用数学の問題集の該当箇所付近を指で押さえる。
(それほど難しい問題ではないな)
修はそこを眺めてみて、出来ると感じた。
数学の、三平方の定理に関する問題であった。
修はシャープペンシルを手に取ると、問題をすらすらと解いていく。
「すごーい、あっという間だ。さすが、筆記の達人さんだね」
「いやあ、そのう……」
修はなんとも言えない気分に陥った。
「問題集とかワーク、先生に答え回収されるのが困ったところだよな。最初から除けてる場合もあるし」
「分かる、分かる。あったら答え丸写し出来て楽なのになぁ」
「あたしのクラスも計算ドリルと漢字ドリル、答え回収されちゃってるよ。先生はひどいことするよね」
「答え丸写ししたら、自分のためにならないでしょ」
絵梨佳の問いかけに同情する数歩と紗奈に、藍子は一喝した。
「藍子ちゃん、先生と全く同じこと言ってるよ」
「あたしの担任と一字一句同じだぁーっ」
数歩と紗奈は即、突っ込んだ。
「アイコンの言うことは放っておいて、オサムっち、アタシの宿題も頼むよ。数学の小テスト、間違えた問題を全部直して提出になってるんだ。アタシ三問しか合ってなかったから大変なんだ」
絵梨佳はそのプリントと数学用ノートを取り出し、修に手渡す。
小テストは一問一点の十点満点。つまり絵梨佳の取得した点数は、わずか三点だ。
(これは、さっきよりも簡単だな)
修は絵梨佳の使っている数学用ノートに、間違えた七問の途中式と答えをすらすらと記述していく。
「あのう、修先生、あまり絵梨佳さんを甘やかさない方が……」
藍子は口を挟んだ。
「それも、そうですね」
修はハッと気付き、手の動きがぴたりと止まる。
「あーん、アイコン、余計なこと言わないでーっ。オサムっち、お願ぁーい」
「わっ、分かった」
絵梨佳にせがまれ、修は問題の続きを解いていく。
「もう、修先生ったら」
藍子は少し呆れていた。
(修ちゃんのこのやり方は、ちょっと感心しないわね)
この時、晴恵に英語の指導をしていた満由実さんはこの光景を見て、眉を顰めてしまった。修にマイナス評価を下したのだ。ヒントは与えても、代わりに解いてあげるのはダメだというわけである。
「サンキュー、オサムっち。助かったぜ」
数学の宿題を完成させたのを確認すると絵梨佳は礼を言って、修の手を握り締める。
「いっ、いやぁ、これくらいは……」
修は頬を少し赤く染めた。
「絵梨佳さん、数歩さん、数学が出来ないと後々本当に困るよ」
藍子は忠告する。
「大丈夫だよ。私、高校入ったら文系クラス行くもん」
数歩は強く主張する。
「アタシもーっ。数学なんてやってられないよ」
「あの、文系に進むとしても、高校数学ⅡBの範囲までは、しっかりと学んでおいた方がいいかと僕は思います。集合や数列、確率、順列と組み合わせなどは、就職試験で使われるSPIや、数的推理にわりと多く出題されているので」
修は率直に意見した。
「じゃあ私、数学も頑張る!」
「オサムっちがそう言うなら、頑張ってもいいかも」
数歩と絵梨佳は強く言い張った。
(修ちゃん、ナイス発言ね)
この瞬間、満由実さんの修に対する評価はプラスに転じた。
「修先生のご意見は説得力がありますね。あの、わたしも、古文の宿題について、徒然草を現代語訳で、分からない箇所が。その、べつに、やってもらわなくてもいいので」
藍子は申し訳なさそうに。国語総合の教科書と、古文用のノートを修の目の前にかざした。
「あっ、あのですね、古文は、ちょっと……僕、国語は苦手科目でして。マーク模試ですら、いつも二〇〇点満点中五〇点くらいしか取ってなかったので。古文漢文に至っては、記号のまぐれ当たりを狙っていたものですから。僕も高校時代、こういった宿題が出た時は、進○ゼミに付いてる教材を、自分で考えずに丸写していたものでした。申し訳ございません。お役に立て無くて」
藍子のこの要求には、修は表情を曇らせた。
「修先生、謝る必要は無いですよ。わたしの実力不足ですから」
藍子も反省の気持ちを示していた。
「修ちゃん、ワタクシも高校の数学を教えるのは苦手だから、気にしちゃダメよ」
満由実さんは慰めてくれる。修に対する評価は先ほどと変わらず。
「古文はアタシもめっちゃ苦手だ。漢文はもっとだぜ。担当の先生は面白いけどね。オサムっち、マユミン。おトイレ行ってきまーす」
絵梨佳は許可を取ってから立ち上がり教室を出、おトイレへ走る。
それから三分ほど後、
「ただいまーっ」
絵梨佳は頬を赤らめて戻って来た。
「どうしたの? 絵梨佳ちゃん。茹蛸さんみたいになって」
数歩は尋ねる。
「いやあ、カズポンの弟の、カズオっちにばっちり覗かれたよ。アタシがナプキン交換してる最中に。めっちゃ恥ずかしぃ」
絵梨佳はくすくす笑いながら伝え、両手で顔を覆う。
「鍵かけ忘れたんだね」
「あったりーっ。カズオっち、かなりビビッてたよ。狼男のお面被ったままだったからね。あの子、ごめんなさいって頭を下げて謝って、すぐにドア閉めて逃げてっちゃったよ、かわいかったなぁ」
「数くん、ショック受けちゃったかも」
数歩はにこっと微笑む。
午後六時半を過ぎた頃、
「満由実おばちゃん、修お兄ちゃん、ばいばーい」
「それでは、お先に失礼しますね」
紗奈と藍子は見たいテレビ番組があるという理由でおウチへ帰っていった。残るは絵梨佳と晴恵だ。
「あのう、霜鳥先生」
「なっ、なっ、何かな?」
ホワイトボードの前で待機していた最中、晴恵に突然話しかけられた修はびくっとする。
「オサムっち、ハルエが質問したいことがあるんだって」
絵梨佳は大きな声で伝えた。
「なっ、何で、しょうか? 花屋さん」
「あっ、あのう、霜鳥先生は、ひょっとして、趣味で、文筆活動をされていますか?」
晴恵は俯き加減で、ぼそぼそとした声で尋ねた。
「かっ、書いて、ます、けど」
修は緊張気味に答えた。
「文学新人賞に、応募されたことはありますか?」
晴恵はもう一つ尋ねて来た。
「はい。僕は頻繁に、応募しております」
修は緊張したまま答えた。
「やっぱり。そんな感じがしたんです。じつは、ワタシもなんです。ワタシ、ちっちゃい頃から物語を作るのが大好きで、童話賞や児童文学賞によく応募してるんです」
「アタシも一応書くぜ、小説。賞に応募したことは無いけどな」
晴恵は照れくさそうに、絵梨佳は堂々と打ち明けた。
「そっ、そうだったんだ」
(かわいい)
と、修は感じてしまった。晴恵から感じられる初々しさに惚れてしまったのだ。
「オサムっち、太宰治と下の名前同じだし、それに、なんとなくそいつに雰囲気似てる」
「そうで、しょうか?」
絵梨佳の指摘に、修は疑問視する。
「走れメロスって、二年生用の国語の教科書に載ってたね。けっこう面白かったよ」
数歩は呟いた。
「僕も、中学二年生の頃、国語の授業で、習った記憶があります。あっ、あの、樋口さんも花屋さんも、読書も好きなのかな?」
修は気になり、尋ねてみた。
「はい。もちろん大好きです。特に児童文学と童話と絵本が」
晴恵は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに答えた。
「アタシはラノベと少年漫画が特に大好き。ねえオサムっち、選評シートは貰ったことある? ラノベ系の新人賞に投稿すると送られてくるんでしょ?」
絵梨佳は興味津々に尋ねる。
「何度もあるよ。もう十枚以上は貰ってるかな」
そう答え、修は苦い表情を浮かべた。
「いいなあオサムっち、編集や下読みさんからのコメントが書いてあるんでしょ。アタシもいっぱい欲しいなあ」
絵梨佳は羨ましがる。
「いやあ、これをたくさん貰うということは……」
修は気まずそうに呟いた。
選評シートも不採用通知の一種ではある。だが、素っ気ない定型文で書かれた企業等からのそれとは違い、書かれてあるコメントが一人一人異なる。文字一字一字にありがたみが感じられるのだ。また、選評シートはどこからも雇ってもらえず、社会から冷たくあしらわれ続けて来た修にとって唯一無二の親友であり、社会との接点であり、心の支えであり、かけがえのない宝物であった。
「ワタシの書いた童話、ちょっとだけ見て下さい。これは、半年くらい前に童話賞に投稿した作品のコピーなの。人間の言葉が分かるヒヤシンスさんと、人間の女の子とのお話でして、落選しちゃったけど、素敵な記念品をもらえたので大満足です」
晴恵は満面の笑みを浮かべながら、四〇〇字詰め原稿用紙を五枚ほど通学カバンから取り出し、修に手渡した。
丸っこくかわいらしい字で書かれていた。
「素敵なお話だね。登場人物の心情が伝わって来て、とても面白いよ」
修は全部読んでみて、率直な感想を述べる。
「ほっ、本当? お世辞じゃない?」
晴恵は上目遣いで問い詰めてくる。
「うん、僕も時たま、童話賞に応募してるけど、こんなに優れた作品は書けないから。花屋さんは、すごい文才があるよ」
「ありがとう、霜鳥先生。ワタシが小説書いてること、褒めてくれて嬉しい。学校ではバカにしてくる子も多かったから。霜鳥先生は、ワタシの書いた小説を褒めてくれた小学校の時の先生にも似てるの」
晴恵は照れくさそうに伝えた。
「そっ、そうなんですか」
修はちょっぴり驚く。
「ワタシもえりかちゃんと同じく、絵を描くことも大好きなんです」
晴恵は続けて、B4サイズのスケッチブックを取り出し修に手渡す。
「とっても上手だね。中学時代、美術は5段階の2か3しか取ったことのない、僕なんかには、とても描けないよ」
ページを捲りながら、修は褒めてあげる。
キリン、ゾウ、リスといった動物の絵を中心に、メルヘンチックに描かれていた。
「ありがとう、霜鳥先生」
晴恵は頬をほんのり赤く染めた。
「晴ちゃんらしさが伝わってくるわ」
「晴恵ちゃんの絵、素敵。私、この中に入り込みたいよ」
「ハルエの絵、アタシよりずっと上手いよ」
満由実さん、数歩、絵梨佳も褒める。
「そっ、そんなことないよ」
晴恵の頬の赤みはさらに増した。
「ハルエ、照れ屋さんだね。アタシ、ラノベの新人賞に初挑戦してみようかな。まだ四百字詰め原稿用紙換算で三百枚以上も書ける自信は無いけどね。オサムっち、何かいいアイディアない?」
絵梨佳はやや興奮気味に問いかけた。
「うーん、ライトノベルにおいて、学園物やファンタジー物、異世界召喚物はありふれ過ぎてるし、吸血鬼、妖精、魔王、魔女、勇者、生徒会、執事、メイド、アンドロイド、異星人美少女キャラが登場するというのもまた、使い古されているかと……主人公の設定も、平凡な男子中高生で、ツンデレ風の幼馴染ヒロインと、やたらからんでくる男友達がいるっていうのは、定番過ぎると思うし」
「確かにそうだよな。そういう設定は使わない方が無難だよな」
「いやあ、そういうのがダメってことはないと思うけど、既存の作品に負けないほど相当面白くしないといけないと思います。僕は、独自性を強く出すことが重要だと思うなぁ。今までのライトノベルには見られなかったような、新しいタイプの作品を生み出すことが、新人賞では求められているのではないかと……主人公に関しても、中高生向けだからといって、中高生を主人公にしなきゃいけないっていう、決まりはないと思うよ。まあ、その場合も読者が感情移入しやすい、共感を持てる、憧れを抱けるキャラクターであることが大切だろうけど」
修は自信無さそうにアドバイスしてあげた。
「つまり、斬新なアイディアを出して、今までに無いようなタイプの作品を書くことが、受賞への近道なんだね。十二月末締切りのやつを目指して頑張るぞーっ!」
絵梨佳は構想を練り始める。
「でも学校の勉強をおろそかにしちゃダメよ」
「はーぃ」
満由実さんは笑顔で忠告しておいた。
(僕も中高生の頃、遅くても大学生の頃から執筆投稿活動を始めていれば良かったな。そうしていれば今頃、もっと文章力が身に付いていたかもしれないな。就職活動をして、不採用通知をたくさん受け取って来て、やり切れない思いになって、ある日突然執筆活動に目覚めて、新人賞へ毎月のように投稿し始めたんだよな、僕。何一つとして褒められるべき点がない自分にとっての免罪符というか、自分を高く評価してくれる居場所を見つけるためというか……僕が学生だった頃は、まさか自分が文学新人賞に投稿するようになるなんて、全く思いもしなかったよ。ライトノベルを初めて読んだのも、大学を卒業してからだし)
闘志に燃え生き生きとした表情の絵梨佳を見て、修はちょっぴり後悔の念を抱きながら思いを巡らす。
「修ちゃん」
「……あっ、はい」
満由実さんから急に話しかけられると、すぐに我に帰った。
「来週の土曜、八日から泊りがけで合宿に行くわよ」
「がっ、合宿があるんですか!?」
突然知らされ、修は驚く。
「うん。今年は一日目に長島スパーキングランドでゆっくり過ごして、二日目が京都で紅葉見物の予定よ」
「去年の秋合宿は鳥取砂丘と出雲大社と石見銀山へ行ったんだよ」
数歩は加えて報告した。
「ここの塾、泊りがけ合宿があるのがいい点だな。アタシは初参加なんだ」
「ワタシは二回目です」
絵梨佳と晴恵はとても楽しみにしているようだった。
第四話 紅葉シーズン到来、一泊二日の塾合宿スタート
十一月八日、土曜日。
朝七時頃、JR芦屋駅前。
「それでは点呼を取ります。小山内さん」
「はい」
「菓子さん」
「はーっい!」
「樋口さん」
「はい!」
「花屋さん」
「はい」
「数歩」
「はーい」
満由実さんは塾生達の名前を呼んでいく。
「修ちゃん」
「はっ、はい」
最後に修。
「全員揃ってるわね。では出発」
こうして塾生達&修&満由実さん一同は改札を抜けて、少ししてやって来た新快速電車に乗り込む。
修はビジネスバッグを肩に掛け、満由実さんと塾生達はリュックサックを背負っていた。
「私、遊園地行くの、久しぶりだーっ」
「楽しみだね、数歩お姉ちゃん」
「わたし、今日はいっぱい楽しむよ!」
「泊まるホテル、高級なとこみたいだからめっちゃ期待してるぜ」
「ワタシは、二日目の京都巡りが一番楽しみ」
塾生達はわくわく気分で修のそばに寄り添う。
混んでいるため、みんな立っていたのだ。
(何か、ものすごーく気まずい。僕、女の子を連れて歩くの、生まれて初めてだよ)
修はかなり居心地悪く感じていた。冴えない二七歳の男が、五人の女子小中高生を連れているという図。親子にも兄妹にも見えない関係だ。
周囲の人から不審に思われるに違いない。
修はそう危惧していた。
満由実さんは少し離れた所で、ちゃっかり座ってくつろいでいた。
《まもなく新大阪、新大阪》
そのアナウンスが流れると、
「皆さん、これから新幹線に乗り換えます。迷子にならないようにね」
満由実さんは塾生達に注意を呼びかける。
「オサムっちの手を繋いでれば大丈夫だね」
「修お兄ちゃん、一緒に動こう」
塾生達は全員、修の側にぴたりと引っ付いた。
「あの、歩きにくいので……」
修は少し迷惑がる。
「修先生、すみません」
「ごめんね修くん。頼りにし過ぎちゃって」
そんなわけで藍子と数歩は、満由実さんの側へ付くことにしたのであった。
☆
新幹線ホームへ無事辿り着いたみんなは、東京行きのぞみ号に乗り込む。
「次の次で降りるからね」
と、満由実さんは最初に伝えた。
今度は指定席だ。進行方向左側の窓際席に修と紗奈、通路側に晴恵と絵梨佳、向かい合う形で座り、右側の三列席では通路側から数えて藍子、数歩、満由実さんの順に座った。
「名古屋で降りるから富士山見られないのが残念だけど、今日行く遊園地は楽しみだなあ。お菓子食べよっと」
紗奈はそう呟いて、リュックから菓子袋を取り出した。
「紗奈さん、お菓子持って来すぎ」
藍子はやや驚いた様子で、視線を横に向けて紗奈のリュックを覗き込む。スナック菓子やキャンディー、グミなどが十数種類入ってあった。
「カッシー、苗字が菓子だから菓子が好きなんだね?」
絵梨佳は笑顔で話しかける。
「うん! ハロウィンで貰ったお菓子は、もう全部食べちゃったよ」
紗奈は満面の笑みを浮かべて答えた。
「速え。アタシももう少ししか残ってないけど。アイコンも、ビ○コ持って来るなんて幼稚園児みたーい」
絵梨佳はくすっと笑った。
「わたしこれ、昔から大好物なの」
藍子は美味しそうに齧りながら、照れくさそうに主張する。
「わたしもだよ。クリームの部分がたまらないよね」
数歩は嬉しそうに同調した。
「数歩さん、晴恵さん、紗奈さん、修先生、満由実先生、お一つどうぞ」
藍子は座席から立ち上がり、一枚ずつ分けてくれる。
(気の利く子だな)
食べながら、修はとても感心していた。
「アイコン、アタシも欲しいなぁ」
絵梨佳はにっこり笑顔位で訴え、藍子の眼前に手を差し出した。
「えー、やだなー。だってバカにしたでしょ」
藍子はニカッと笑う。
「ごめんねアイコン、なんかみんな美味しそうに食べてるのを見て、アタシも食べたくなっちゃって」
絵梨佳はてへりと笑った。
「しょうがないな、はいどうぞ」
藍子は結局、絵梨佳にも快く一粒手渡してあげた。
塾生達は楽しそうに会話を弾ませながら、楽しい時間を過ごしていく。
名古屋駅で降りたみんなは近鉄に乗り換えさらにバスを乗り継ぎ、三重県某所にある大型遊園地『長島スパーキングランド』にやって来た。
「家族連れですか?」
入園ゲートの受付をしていたお姉さんに尋ねられる。
「いっ、いえ」
修は慌てて答えた。次の瞬間、
家族連れに見えるのか?
こう不思議に思う。
「ワタクシ、学習塾講師をしておりまして。この子は新人さん、こちらの子達は生徒達です」
満由実さんは冷静に説明した。
(ありがとう、おばさん。上手く説明してくれて)
修は心の中で感謝の意を示した。
「とても仲良さそうね。では、いっぱい楽しんでね」
お姉さんは雲一つ無い秋空のような爽やかスマイルで見送ってくれる。
こうしてみんなは入園ゲートを抜け、園内に入った。
「それでは修ちゃん、この子達の引率よろしくね。ワタクシは、あそこの喫茶店で待っていますので」
「えっ!」
それからすぐにされた満由実さんの突然の報告に、修はたじろぐ。満由実さんはあっという間に塾生達と修のいるこの場所から遠ざかってしまった。
「修お兄ちゃん、一緒に楽しもうね」
「はっ、はい」
紗奈に背中から抱き付かれてしまった修の頬っぺたは、みるみるうちに赤らむ。
「休みの日だから人いっぱいだね。藍子ちゃん、迷子にならないように私と手つなごう」
「わたしなら大丈夫よ。それより、紗奈さんの方が」
入園ゲートから十数メートル進んだ所で、数歩は藍子に手を差し出す。
「おさないお姉ちゃん、あたしは絶対大丈夫だよ」
紗奈は自信満々に言い張った。
「オサムっち、アタシと手、繋ごうぜ」
「うわっ」
絵梨佳に左腕をつかまれ、修は慌ててしまう。
「修くん、最初はどれに乗りたい?」
「僕は、べつに、どれでもいいけど」
数歩の問いかけに、修はすぐに答えた。
「じゃ、ジェットコースターから乗ろう。一番近くにあるし」
数歩は提案する。
「いいわね。わたしもこの乗り物大好き」
「あたしもーっ」
藍子と紗奈も大喜びで賛成した。
「なっ、なあ、遊園地へ来たからと言って、必ずしもジェットコースターに乗らなければならないということは無いと思わない?」
「そうだよ。他に、もっと面白い乗り物がたくさんあるし。なんかあれ、木で出来てるよ」
絵梨佳と晴恵はジェットコースターのレールを見上げ、びくびくしながら言う。
「絵梨佳ちゃん、晴恵ちゃん、ジェットコースターはすごく楽しいよ」
数歩は笑顔で勧める。
「絵梨佳さん、意外にジェットコースター苦手だったのね」
藍子はくすっと笑う。
「大嫌いだよ。オサムっちも嫌だよね?」
「僕は、べつに、構わないのですけど……」
絵梨佳に上目遣いで見つめられ、修はやや緊張する。
「どうしても乗りたいんだったら、五人だけで乗って来たら? ワタシ、この辺で一人で待ってる」
晴恵は強く主張した。
「まあまあ、そんなこと言わずに。せっかく来たのに」
「晴恵お姉ちゃん、そんなことしたら絶対迷子になっちゃうよ」
数歩と紗奈はにこっと微笑みかけ、晴恵の肩をポンッと叩く。
「でもぅ」
「修先生が付いてるよ」
藍子は安心させるように言う。
「それは、嬉しいけど」
晴恵は困惑顔だ。
「絵梨佳お姉ちゃんも晴恵お姉ちゃんも乗ろう、乗ろう!」
紗奈はその二人の手をつかんで誘う。
「……しょうがねえな」
「仕方ないですね」
結局、絵梨佳と晴恵もしぶしぶついていくことに。
(僕は、この子達がその辺の偏差値の低い私立大学か専門学校に通ってそうな男連中にナンパされてしまわないかが心配だな)
修はこう思っていた。
今日は休日ということもあり、園内はかなり混み合っていた。
家族連れや若いカップル、中高大学生くらいの男または女同士のグループなどが園内を行き交う。塾生達&修のような、二〇代半ばの男性一人に女子小中高生五人という組み合わせは、当然のように他に見られなかったこともあってか、
(この場から、早く抜け出したいものだ)
修は周囲からの視線を非常に気にしていた。
塾生達&修は乗車待ちの列に並ぶ。
この六人の前に、すでに大勢の客が二列になって並んでいた。修と数歩、紗奈と絵梨佳、その後ろに藍子と晴恵が隣り合う。
今現在、三〇分待ちとなっていた。
「ねえ、まだぁ?」
それから一〇分くらいすると、最初は大人しく待っていた紗奈は機嫌を損ねてくる。
「カッシー気に入らないみたいだし、他んとこ行こうぜ」
絵梨佳がそう提案してみると、
「ダメ。あたし待つぅ!」
紗奈はむすっとした表情で強くこう主張した。
「そっ、そんなぁ」
絵梨佳はげんなりとした。
「紗奈さん、これ貸してあげるから大人しく待っててね」
藍子はそう言うと、リュックから児童文学の文庫本を取り出し紗奈に手渡した。
「ありがとう、藍子お姉ちゃん。これで時間を潰せそう」
紗奈は嬉しそうに本を捲る。すっかり機嫌が直ったようだ。
絵梨佳は携帯ゲームをいじりながら、修と晴恵はぼーっと、藍子と数歩はおしゃべりしながら待ち続け、ようやく乗れることになり、
「よかった。運よく一番前の席とれた」
「こんなにラッキーなのは、修お兄ちゃんのおかげだね」
「修先生は幸運を呼ぶ神様ですね」
数歩、紗奈、藍子は満面の笑みを浮かべる。
「なっ、なんで、こういう時だけ……」
「……」
一方、絵梨佳と晴恵は暗い表情だった。
「アタシ、オサムっちのお隣がいいな」
絵梨佳は修の右手をがっちり握り締めた。
「あの、ワタシも、霜鳥先生の隣がいいです!」
晴恵は恐る恐る、修の左手を握り締めた。
「あの、ですね。二列ずつなので」
修は戸惑う。
「じゃあ、じゃんけんで決めたら?」
数歩は提案する。
「やだやだ、アタシ、絶対オサムっちのお隣がいい!」
絵梨佳は困惑した表情を浮かべながら駄々をこねる。
「じゃ、一番前の席譲ってあげるよ」
「アッ、アタシ、二列目以降でオサムっちの隣が……」
「絵梨佳ちゃん、遠慮しなくても。せっかく譲ってあげたのに。こっちおいで」
数歩は、つかまれていた絵梨佳の右手をグイッと引っ張り、最前列左側の席に追いやる。
「……しっ、失礼、致します」
修はぎこちない動作で、絵梨佳の右側に座った。
「霜鳥先生、こっ、怖いです」
晴恵はびくびく震え上がる。彼女は修のすぐ後ろに座った。その隣は紗奈だ。
それをよそに、座席の安全バーが下ろされた。
もう引き返すことは出来ない。
「オサムっち、怖い、怖い」
「怖いです、怖いです。たっ、助けて」
絵梨佳と晴恵は蒼ざめた表情で、安全バーを必要以上の力でしっかりと握り締めた。
〈発車いたします〉
この合図で、ジェットコースターはカタン、カタンとゆっくり動き出した。
「アタシ、この速くなるまでの時間が一番怖いんだ」
「ワタシもだよ、えりかちゃん」
絵梨佳と晴恵は周りの風景を見ないよう、目を閉じていた。
ジェットコースターが坂道を登り切り、レールの最高地点に達した直後、一瞬だけ動きが止まる。
「きゃあああああああーっ!」
「んぎゃあああああああーっ!」
そのあと一気に急落下。と同時に、晴恵と絵梨佳は、一〇〇デシベルは越えていそうなかわいい叫び声を上げる。もちろん楽しんでいるからではない。恐怖心を強く感じていたのだ。
「わあああぁぁぁぁぁっ!」
数歩、
「おううううううう!」
藍子、
「きゃあああああああーんっ♪」
紗奈は喜びと興奮の叫び声を上げる。さらに両手を挙げる余裕も見せた。
「……」
修は走行中、平静を保ち終始無言無表情であった。
☆
ジェットコースターから降りた直後、
「あー、すごく気持ちよかった」
「無重力疑似体験、最高っ!」
「宇宙飛行士気分が味わえたね、数歩お姉ちゃん」
数歩、藍子、紗奈の三人は幸せいっぱいな表情を浮かべていた。
「めちゃめちゃ怖かった。おしっこ漏らしそうになった」
「気を失いかけたよ」
絵梨佳と晴恵は安堵の表情だ。
「ねえ、絵梨佳ちゃん、お写真が出来てるよ。絵梨佳ちゃんすごい表情してる。ムンクの『叫び』みたい。記念に買おう」
降車口を抜けた所に貼られていた写真を眺め、数歩はくすくす笑う。
遊園地の絶叫マシンにはありがちだが、急降下する際に写真を撮られていたのだ。
「そんなのいらなーい」
絵梨佳はむすっとした表情で、不機嫌そうに言う。
「修お兄ちゃんは表情が全然変わらないね」
紗奈は微笑み顔で写真を眺める。
「それはまあ、模擬面接で担当者からキミは無表情だとよく指摘されたものですから」
修は照れくさそうに打ち明けた。
「いつでも冷静沈着ってことの表れだね」
数歩はこう解釈する。
「絶叫マシンにも全く動じない修先生は、木鶏のようで素晴らしいです」
藍子はほんわかした表情で褒めてあげた。
「いやぁ、どうなのかな?」
修は反応に困ってしまった。
「ねえ、次は回転するやつに乗らない?」
「ダメダメ」
「カズポン、もうジェットコースターは勘弁してくれ」
晴恵と絵梨佳は数歩の誘いを当然のように嫌がる。
「回転するやつは、あたしもちょっと苦手だなぁ」
紗奈もこれについては乗り気ではなかった。
「わたしもです。ちなみにループコースターは理論上少なくともループ半径の2.5倍以上の高さから急降下しないと、一回転するまでにコースターがレールから外れて落っこちちゃうらしいです」
藍子は物理学的視点で述べた。
「その原理、僕も高校の時、物理で習ったような。どうやって導き出したのかは忘れたけど。確か、ループ軌道の最高地点でジェットコースターがレールから受ける抗力が、0以上になると、軌道から外れることなく、一回転することが出来たはず」
修は考察してみる。
「ジェットコースターの質量をm、ループ軌道の最高地点に達した時の速度をv、急降下する直前の高さをh、軌道半径をR、重力加速度をgとする。ジェットコースターがループ軌道の最高地点に達した時、高さhにある時の位置エネルギーが、運動エネルギーと最高地点の高さ2Rにある時の位置エネルギーとの和に変換されるので、mghイコール二分の一mv2乗プラス2mgR。この式からv二乗を求めると2g(hマイナス2R)。これを、最高地点での抗力を表す式R分のmv2乗、マイナスmgに代入して、抗力が0以上となるhを求めると、h大なりイコール2分の5Rになるわね」
藍子は頭の中で計算式を組み立て、どのようにして導かれたのかを口頭で説明する。
「……すごいね、まだ高一なのに」
修はほとほと感心する。
「藍子ちゃんの言ってること、私全然分からないや」
「あたしもさっぱり」
「アタシもー」
数歩、紗奈、絵梨佳の三人はぽかんとしていた。
「わたしも教科書で少し読んだだけだから、正しいかどうかは自信ないよ」
藍子は謙遜する。
「それじゃ、ジャンボバイキングに乗ろう」
数歩はパンフレットを見ながらみんなを誘う。
「いいねえ、すごく楽しそう」
「わたしももちろんいいわよ。この乗り物は振り子運動の原理ね」
紗奈と藍子も大賛成した。
「もっ、もう止めて」
「ここの遊園地、絶叫マシン多過ぎ。ジェットコースターだけでも五種類以上あるよ」
晴恵と絵梨佳は落胆した声で言う。
「絵梨佳お姉ちゃん、晴恵お姉ちゃん、絶叫マシン、あと一回だけぇ」
紗奈にうるうるとした瞳で要求され、
「わっ、分かったよカッシー」
「本当に、あと一回だけよ」
絵梨佳と晴恵は仕方なく付き合ってあげた。
このアトラクションは、海賊船に乗るようになっていた。
塾生達&修は隣り合うようにしてまとまって座席に座っている。
「すごーい、本当に大航海してるみたぁーい!」
「なんかRPGの冒険者になった気分ね」
「絵梨佳お姉ちゃん、晴恵お姉ちゃん、楽しいでしょ?」
大満足している数歩、藍子、紗奈とは対照的に、
「ぎょわあああああっ、ジェットコースターよりはマシだけど、やっぱダメーッ!」
「ワッ、ワタシもーっ。早く、止まってーっ」
絵梨佳と晴恵は早くこの場から逃げ出したいと強く思っていた。
「……」
修は揺られながらもまたも平静を保ち、無言無表情であった。
海賊船から降りた後の、
「なあ、次は、おばけ屋敷へ行こうぜ」
「えっ!? あっ、あたし、そこは絶対入りたくないよ!」
絵梨佳からの提案を紗奈は即反対する。
「へぇ、カッシーって、おばけ屋敷が苦手なのかぁ」
絵梨佳はにやけ顔で訊く。
「いや、べつに、そんなことはないんだけどね。今は、行く気がしないの」
紗奈は俯き加減で否定した。
「それじゃ、カッシー一人で、外で待っとく?」
「それも嫌。迷子の子に間違われちゃいそう」
「そうでしょ」
絵梨佳はくすっと笑う。
「紗奈ちゃん、私が隣についてあげるから安心してね」
「嫌だ、嫌だ。数歩お姉ちゃん、別のとこ行こう」
紗奈は数歩の袖をぐいぐい引っ張る。
「紗奈ちゃん、修くんもいるんだよ」
数歩はさらに安心させようと試みる。
「それは、すごく嬉しいけど、でも、でもぉぉぉ」
紗奈は顔を引き攣らせていた。
「アイコンも、怖いんじゃねえの? びくびくしてるよ」
絵梨佳はにやりと笑う。
「そっ、そんなわけないでしょ! わたしは、大好きよ、おばけ屋敷」
藍子は俯き加減に主張した。
「ワタシも、怖いので、えりかちゃんの、そばに、ついています」
晴恵はぽつりと呟く。
「じゃあ行こう!」
「やだやだやだぁーっ」
数歩は紗奈の手を握り締め、有無を言わさず手を引いて連れてゆく。
おばけ屋敷は、和の雰囲気が醸し出される合掌造り風の外観。
建物の外から、大入道や雪女などのカラクリおばけも見上げることも出来た。
「やっ、やっぱり、やめようよぅぅぅぅぅ」
紗奈はこの場から逃げようとする。
「カッシー、ここのおばけ屋敷は全然怖くないよ。初心者向けでホラーというよりむしろ和風ファンタジックな雰囲気なんだぜ」
「そっ、そうなの?」
絵梨佳は紗奈を口説く。紗奈はほんの少しだけホッとした。
塾生達&修は入口を通り、数歩が代表して受付で入場料金を全員分支払い、いよいよ屋敷内へ。
一歩踏み入った瞬間、
「きゃあああああああっ! おっ、修お兄ちゃあああああっんっ!」
紗奈はおばけもびっくりするような大声で叫び、修の背中にぎゅぅーっとしがみ付く。紗奈の目の前に、ろくろ首(のマネキン)が現れたのだ。
「あっ、あの、菓子さん。ここにいるおばけは、全て作り物なので……」
修は苦しそうな表情で説明する。
「出口、まだなのぅ?」
「あわてない、あわてない」
カタカタ震える紗奈を、数歩は笑顔でなだめる。
「あのう、菓子さん、服が伸びてしまうので、あんまり引っ張らないでね」
修はちょっぴり迷惑がった。
「ごめんなさい、修お兄ちゃん」
紗奈は今にも泣き出しそうな表情で謝る。
「カッシーって、本当に怖がりなんだな」
「紗奈さんのしぐさ、とってもかわいい」
絵梨佳と藍子はにこにこ微笑みながら眺める。
「あっ、あたし、おばけとか大嫌いで、今でも真夜中は一人でおトイレに行けないの。だって花子さんが出て来そうなんだもん」
「紗奈さんは小学校時代によく聞かされる噂話のトラウマ、まだ引きずってるのね」
「藍子お姉ちゃんは、おばけ屋敷は怖くないの?」
紗奈は、今にも泣き出しそうになりながら藍子に質問する。
「うん。だって全てニセモノだと分かっているもの。幽霊なんて、この世に存在するわけはないよ」
と言いつつも、藍子もカタカタ震えながら数歩の手をちゃっかり握っていた。
「藍子ちゃん、それは紛れもない事実だけど、雰囲気を楽しまないと損だよ」
数歩はにこにこ笑いながら、幽霊のマネキンに向かって呟いた。
「ぎゃぁっ、のっぺらぼうだ。火の玉だぁ」
墓場エリアに突入すると、紗奈はますます怖がってしまう。
その後も提灯おばけ、からかさ小僧、砂かけ婆、ぬりかべ、山姥などの和風おばけ達のマネキンがおどろおどろしい効果音と共に出迎えてくれた。
出口に辿り着いた頃には、
「やっと出れたぁーっ。ものすごーく長かったぁー」
紗奈は涙をポロポロこぼしていた。滞在時間は七分ほどだったが、彼女にとっては体感的に一時間以上にも感じられたようだ。
「なんだ。もう終わりなのか。もう少し歩きたかったなぁ」
「二百メートルあるらしいけど、かなり短かったな」
数歩と絵梨佳はやや不満げな様子。
「僕は、非常に、疲れました」
修は疲労していた。
「おんぶしてもらってごめんなさい、修お兄ちゃん」
紗奈は泣きながら謝った。
「カッシー、泣かないで。ぺろぺろキャンディー奢ってあげるから」
絵梨佳は微笑み顔で、紗奈の頭をなでてあげた。
「絵梨佳お姉ちゃん!」
「あいたたたっ、カッシーやめて」
紗奈に頭をペシペシ叩かれてしまった。
「おばけ屋敷なんて、行かなきゃよかったのにぃーっ」
今度は睨みつけられる。
「ごめん、ごめん……あっ! カッシー、ちょっとあそこ見て」
絵梨佳はあるものに気付き、対象物を指し示した。
「あああーっ! ヒッターラビット君だぁーっ。あたし、一緒に写りたぁーい」
紗奈は目をきらきら輝かせ、大きな声で叫ぶ。
いつもいるとは限らない、園内のマスコットキャラに出会えたのだ。
「私もーっ」
「わたしも写りたいなぁ」
数歩と藍子もそのキャラのしぐさ、容姿に惚れてしまったのか、ウサギのようにピョンピョン飛び跳ねる。
「ワタシも写りたいです。霜鳥先生も一緒に写りましょう」
「オサムっち、写ろうぜ」
「分かり、ました」(僕、こういうのは苦手なんだよな)
修は、本当は撮りたくなかったのだが、塾生達に強くせがまれ断り切れなかった。
こうして塾生達&修は白、茶、ココア色のマスコットキャラ達の横に並ぶ。
「はい、チーズ」
お姉さんスタッフからの声で、修と晴恵以外は決めポーズを取った。
撮影のあと塾生達はマスコットキャラ達に、握手をしてもらった。
「きゃあっ、嬉しいーっ」
「私、すごく幸せだよーっ」
「最高です」
「ヒッターラビット君、ありがとう」
「サンキュー、ヒラビー。いい思い出が出来たぜ」
塾生達の表情がさらにほころぶ。
「いえ、僕は……」
マスコットキャラ達は修にも握手を求めて来たが、修は照れくさいのか応じなかった。
(中の人、今の時季でも相当暑そうだよな。時給、どれくらい貰ってるんだろう?)
ついついこんな夢のないことが脳裏に浮かんでしまった。
「次行くとこは、あたしが決めるね。これがいいな」
すっかり機嫌を取り戻した紗奈は園内設置の案内図を指差す。ティーカップという遊園地ではお馴染みの乗り物だった。
「よぉーし、いっぱい回すよう」
藍子はこの乗り物中央付近に設置されているハンドルに手をかけ、力いっぱい回してみた。回転速度がどんどん増す。
「あっ、藍子ちゃん、回し過ぎだって。私、外に飛ばされそう」
「飛ばされちゃうよううううう」
「おさないお姉ちゃーん、世界が回ってるぅ」
数歩、晴恵、紗奈は喜びとも恐怖とも取れる悲鳴を上げる。
「もっと速く出来るんだけど。わたしは、まだ物足りないよ」
「アタシもまだ大丈夫だぜ!」
「ぼっ、僕も平気なのですけど、もう、やめてあげた方が……」
修は自身も吹き飛ばされそうになりながら、気分がハイになっている藍子と絵梨佳を言い聞かせた。
「わっ、私、まだ目がペロペロキャンディーみたいになってるよ」
「あたしもー」
「地面がゆらゆらしてる。気分悪い」
下りた後、ふらふらしながら歩く数歩と紗奈と晴恵。
「僕も、現在目が回っております」
修も少しふらついていた。
「ごめんなさい。ついつい調子に乗りすぎてしまいました」
「ごめんなちゃい」
藍子と絵梨佳は頭を下げて、謝罪の言葉を述べておく。
「まさに遠心力を実感したね」
「遠心力Fは質量mかける速度vの二乗、割る半径r。つまり、回転速度が速ければ速いほど、この遊園地のティーカップみたいに半径が小さいものほど、遠心力は強くなっていくの。ジェットコースターが回転する時も遠心力がかかってるよ。地球みたいに相当大きな物が自転する際も、もちろん遠心力は働いてるけど、とても小さいから、高校物理の範囲内では0として考えてるわね」
紗奈が呟くと、藍子は物理学的視点で語り出した。
「藍子ちゃんの解説、難し過ぎてよく分からないよ。今十一時半過ぎだね。少し早いけど、お昼ごはんにしない?」
数歩は、園内にあった日時計を眺めながら提案した。
「賛成。あたしもおなか空いて来た」
「アタシもペコペコだぁーっ」
「わたしも賛成。正午過ぎになると混んでくると思うし。このファミレスで食べましょう」
藍子はパンフレットを指差す。
塾生達&修は該当する場所へ向かって歩いていった。
「六名様ですね。こちらへどうぞ」
お目当てのファミレスに入ると、ウェイトレスに六人掛けテーブル席へと案内される。
みんな座って一息ついたところで、藍子はメニュー表を手に取った。
「満由実先生が昼食代は一万円まで使っていいっておっしゃってたから、少し高級な物にしよう。わたしは天丼にするよ」
「僕は、ざる蕎麦で」
「藍子ちゃんも修くんも渋いねえ、私は、奮発して松阪牛ステーキ定食!」
「アタシもそれーっ。ドリンクはメロンソーダ」
「ワタシは、ミートスパゲティーで」
こうして五人のメニューが決まる。
「紗奈さんは何にする?」
藍子は笑顔で問いかけた。
「あのね、あたし、お子様ランチが食べたいの。お飲み物はミックスジュースで」
紗奈は顔をやや下に向けて、照れくさそうに小声でポツリとつぶやいた。
「カッシー、今でもお子様ランチ食べたがるなんてかっわいい」
絵梨佳はにっこり微笑みかけた。
「さすがに六年生ともなると、ちょっと恥ずかしいんだけどね。同じクラスの子、お子様ランチは三年生までだよねって言ってたし。でも、どうしても食べたくて……」
紗奈のお顔はさらに下へ向いた。
「紗奈ちゃん、私も中学二年生の頃までは頼んでいたから、全然恥ずかしがることはないよ」
「そうそう、きっと後悔するよ。ここでは年齢制限ないみたいだし」
「僕も、気兼ねすることなく食べた方がいいと思います」
数歩、藍子、修がこうアドバイスすると、
「じゃああたし、これに決めたーっ!」
紗奈は顔をクイッと上げて、意志を固めた。
「あっ、あのう、僕が注文すると、しょっちゅう聞き返されるので、申し訳ございませんが、誰か注文していただけないでしょうか?」
「まかせてオサムっち」
修が照れくさそうにお願いすると、絵梨佳が快くコードレスボタンを押してウェイトレスを呼び、六人のメニューを注文してくれた。
それから五分ほどして、
「お待たせしました。お子様ランチでございます。それとお飲み物のミックスジュースでございます。はい、お嬢ちゃん。ではごゆっくりどうぞ」
紗奈の分が最初にご到着。新幹線の形をしたお皿に、旗の立ったチャーハン、プリン、タルタルソースのたっぷりかかったエビフライなど定番のものがたくさん盛られている。さらにはおまけにシャボン玉セットも付いて来た。
「……わたしのじゃ、ないんだけど……」
藍子の前に置かれてしまった。藍子は苦笑する。
「アイコンが頼んだように思われちゃったね」
「藍子ちゃん、若手に見られてるってことだから、気にしちゃダメだよ」
絵梨佳と数歩はくすくす笑う。
「間違われちゃったね、おさないお姉ちゃん」
紗奈はにっこり微笑みながら、お子様ランチを自分の前に引っ張った。
「……」
藍子は内心ちょっぴり落ち込んでしまった。
さらに一分ほど後、他の五人の分も続々運ばれて来た。
こうして六人のランチタイムが始まる。
「エビフライは、あたしの大好物なんだ」
紗奈はしっぽの部分を手でつかんで持ち、豪快にパクリとかじりつく。
「美味しいーっ!」
その瞬間、とっても幸せそうな表情へと変わった。
「紗奈ちゃん、あんまり一気に入れすぎたら喉に詰まらせちゃうかもしれないよ」
「モグモグ食べてる紗奈さんって、なんかアオムシさんみたいですごくかわいいね」
数歩と藍子はその様子を微笑ましく眺める。
「カッシー、食べさせてあげるよ。はい、あーんして」
絵梨佳はお子様ランチにもう一匹あったエビフライをフォークで突き刺し、紗奈の口元へ近づけた。
「ありがとう、絵梨佳お姉ちゃん。でも、食べさせてもらうのはちょっと恥ずかしいな」
紗奈はそう言いつつも、結局食べさせてもらった。
「修くん、ざる蕎麦だけじゃ足りないでしょ。私のもあげる。はいあーん」
数歩はステーキの一片をフォークで突き刺し、今度は修の口元へ近づけた。
「いえ、いっ、いいです」
修は手を振りかざし、拒否した。
「修くん、恥かしがりやさんだね」
「オサムっち、かわいい」
数歩と絵梨佳はにこっと微笑む。
「……」
修は照れ隠しをするように無言で麺をすすった。
みんな昼食を取り終えレストランから外に出てほどなく、
「ねえ、今度はあそこでプリクラ撮ろうよ」
数歩はレストラン出入口から数十メートル先にある、西洋風の建物を指差す。
「いいわね」
「修お兄ちゃん、行こう!」
アーケードゲームコーナーであった。
「プリクラ、ですか……その、皆さんだけで……」
修は乗り気ではなかったが、
「修くん、来て、来てーっ」
数歩に無理やり手を引かれドーム状の建物内に連れ込まれ、プリクラ専用機の前へ連れて行かれてしまった。
専用機に入った六人のうち修、絵梨佳、晴恵が前側に並んだ。
「一回、五百円か。これって、安いのかな?」
修が気前よくお金を出してあげ、
「このパンダさんと写れるやつがいいっ!」
一番年下の紗奈に好きなフレームを選ばせてあげた。
撮影&落書き終了後。
「よく撮れてるぜ」
取出口から出て来たプリクラをじっと眺める絵梨佳。自分が見たあと他の五人にも見せる。
「絵梨佳ちゃん、私の顔に落書きし過ぎだよ」
数歩は唇を尖らせた。
「ごめんねー、カズポン。ついつい遊びたくなって」
絵梨佳はてへっと笑った。
「わたし、半分隠れてるよ。前に並んだ方が良かったかな」
藍子は苦笑いした。
「僕は、プリクラなんて生まれて初めて撮りました」
修は打ち明ける。
「そうだったんだ。それじゃいい思い出出来たでしょ。オサムっちとハルエは表情が硬すぎだね。もう少し笑ったらよりかわいいのに」
絵梨佳はにこにこ笑いながらアドバイスする。
「だって、なんか恥ずかしいもん」
晴恵は照れくさそうに言った。
「わたしも生徒証の写真はそんな感じよ」
藍子がさらりと打ち明けると、
「あいこちゃんも同じなんだね、よかった」
晴恵に笑みが戻る。
「あの、あたし、次はこれがやりたぁーい」
紗奈は、プリクラ専用機すぐ隣に設置されていた筐体を指差した。
「紗奈ちゃん、ぬいぐるみが欲しいんだね?」
「うん!」
数歩からの問いかけに、紗奈は嬉しそうに答える。紗奈が指差したのはクレーンゲームであった。
「あっ、あのアデリーペンギンさんのぬいぐるみさんとってもかわいい!」
紗奈は透明ケースに手の平を張り付けて叫ぶ。
「紗奈さん、あれは隅の方にあるし、他のぬいぐるみの間に少し埋もれてるよ。物理学的視点で考えても難易度は相当高いよ」
「大丈夫!」
藍子のアドバイスに対し、紗奈はきりっとした表情で自信満々に答えた。コイン投入口に百円硬貨を入れ、押しボタンに両手を添える。
「紗奈ちゃん、頑張ってね」
「一発で取りなよ」
「さなちゃん、頑張って下さい」
「落ち着いてやれば、きっと、取れるんじゃ、ないかな」
「紗奈さん、ファイト!」
五人はすぐ横で応援する。
「絶対とるよーっ!」
紗奈は慎重にボタンを操作してクレーンを動かし、お目当てのぬいぐるみの真上まで持ってゆくことが出来た。
続いてクレーンを下げて、アームを広げる操作。
「あっ、失敗しちゃった。もう一度」
ぬいぐるみはアームの左側に触れたものの、つかみ上げることは出来なかった。再度クレーンを下げようとしたところ、制限時間いっぱいとなってしまった。クレーンは最初の位置へと戻っていく。
「もう一回やるぅ!」
紗奈はとっても悔しがる。お金を入れて、再チャレンジ。しかし今回も失敗。
「今度こそ絶対とるよ!」
この作業をさらに繰り返す。紗奈は、一度や二度の失敗じゃへこたれない頑張り屋さんらしい。けれども会を得るごとに、
「……全然取れなぁい。なんでー?」
徐々に泣き出しそうな表情へ変わっていく。
「わたし、クレーンゲームけっこう得意な方だけど、あれはちょっと無理かな」
藍子は困った表情で呟いた。
「私にも無理だぁっ」
「アタシも、ちょっとな」
「ワタシも、クレーンゲームはかなり苦手なの。さなちゃんが上手に思えます」
数歩、絵梨佳、晴恵もさじを投げる。
「紗奈さん、他のお客さんも利用するので、そろそろ諦めた方がいいかもです」
藍子は慰めるように忠告したが、
「嫌だぁ!」
紗奈は諦め切れない様子。ぷくーっと膨れる。
「気持ちは分かるけど……わたしだって、一度やると決めたことは最後までやり遂げたいから」
藍子は同情心を示した。
「このままだと紗奈ちゃんかわいそう」
数歩も同情するようにそう呟くと、
「あの、僕が、やって、あげましょうか?」
修は自信無さそうに申し出た。
「修お兄ちゃん、お願ぁいっ!」
「わっ、分かった」
紗奈にうるうるとした瞳で見つめられ、修のやる気が少し高まった。
「ありがとう、修お兄ちゃん。大好きっ♪」
するとたちまち紗奈のお顔に、笑みがこぼれた。
「オサムっち、さっすが!」
「修くん、心優しい」
「霜鳥先生、良いお人です」
「紗奈さんもよく健闘してたよ」
その様子を、他の塾生四人は微笑ましく眺めていた。
(まずい、全く取れる気がしないよ)
修の一回目、紗奈お目当てのぬいぐるみがアームにすら触れず失敗。
「修お兄ちゃんなら、絶対取れるはず」
背後から紗奈に、期待の眼差しで見つめられる。
(どうしよう)
修、窮地に立たされる。なにせ彼は今までクレーンゲームというもので遊んだことが一度もなかったのだ。
「霜鳥先生、頑張って下さい!」
「修先生、もう少しアームを右まで動かしたら取れますよ」
「オサムっちなら、きっとやれるぜ」
「修くん、先生らしさを見せてあげて」
「修お兄ちゃん、頑張れ、頑張れ!」
塾生達から熱く応援され、
(僕なんかを、応援して下さるなんて、なんともありがたい)
修はやる気がますます漲って来た。彼はお金を投入し、スタートボタンを押す。声援を糧に精神を研ぎ澄まし、ずば抜けた集中力でアームを操作していく。
しかしまた失敗した。アームには触れたものの。
けれども修はめげない。上手くいかないことだらけの人生を送って来た彼は、この程度のことではやはりへこたれないのだ。
「修お兄ちゃん、頑張ってーっ。さっきよりは惜しいところまでいったよ」
紗奈からもう一度熱いエールが送られ、
「任せて菓子さん。次こそは取るから」
修のやる気がより一層高まった。
三度目の挑戦後、
「……まさか、こんなにあっさりいけるとは、思わなかった」
取出口に、ポトリと落ちたアデリーペンギンのぬいぐるみ。
修はついに紗奈お目当ての景品をゲットすることが出来たわけだ。
「修くん、お見事!」
「おめでとう、修先生」
「やるじゃん、オサムっち」
「おめでとうございます、霜鳥先生。三度目の正直でしたね」
四人はパチパチ大きく拍手した。
「ありがとうーっ、修お兄ちゃあああああああん」
紗奈はぎゅぅっと抱きついて来た。
「わわわ、ちょっ、ちょっと、菓子さん。僕、たまたま取れただけだよ。先に、菓子さんが、少しだけ取り易いところに動かしてくれたおかげでもあるよ。はい、菓子さん」
よろけてしまいそうになった修は照れくさそうに語り、紗奈に手渡す。
「ありがとう、修お兄ちゃん。ペンちゃん、こんにちは」
紗奈はさっそくお名前をつけた。受け取った時の彼女の瞳は、ステンドグラスのようにキラキラ光り輝いていた。このぬいぐるみを抱きしめて、頬ずりをし始める。
「嬉しい……」
修はふいに涙がこぼれ出て来た。
「修お兄ちゃん、泣いてるの?」
紗奈は修の目を見つめる。
「僕、こんなに喜びを感じたことは、初めてでして……」
修が流した涙は、今までの人生の中で味わったことのないような嬉しさからであった。こんなに多くの女の子から期待され、そして自身もなし遂げることが出来たのは、生まれて初めてのことだった。
「修くん、これ使って」
数歩は修の側へ歩み寄り、ハンカチを手渡す。
「ありがとう、望月さん。僕なんかの、ために」
修は鈍重な動作でハンカチを受け取り、涙を拭いた。
☆
塾生達&修は最後の締めくくりとして、巨大観覧車に乗ることにした。最高地点では地上からの高さが八〇メートル以上にまで達する、この遊園地一番の目玉アトラクションだ。
六人乗りのゴンドラは係員に鍵をかけられ、ゆっくりと上昇していく。
「わぁーい。いい眺め。夕日きれい」
「絵になる光景だね。絵葉書に最適だよ」
紗奈と数歩は大はしゃぎで下を見下ろす。
「これは等速円運動ね。観覧車って最高」
藍子は満面の笑みを浮かべる。彼女が一番乗りたがっていたアトラクションでもあった。
(気まずいなぁ)
修は目のやり場に困っていた。狭い空間で、女子小中高生五人と一緒という状況なのだから、無理はないだろう。
「……」
絵梨佳の顔は、やや青ざめていた。
「あれ? どうしたの? 絵梨佳ちゃん」
「乗り物酔いでもしたの?」
数歩と藍子は心配そうに尋ねた。
「アッ、アタシさ、高い所はものすごい苦手なんだよな」
絵梨佳は唇を震わせながら答えた。
「そうだったんだ」
「絵梨佳さん、かわいい」
「絵梨佳お姉ちゃん、観覧車も苦手だったんだね? 観覧車はのんびりしてて、乗り心地すごくいいのに」
数歩、藍子、紗奈はにんまり微笑む。
「えりかちゃん、絶対落ちないから大丈夫よ」
晴恵はやや緊張しながら絵梨佳を慰めてあげる。晴恵も、この乗り物は若干苦手なのだ。
「わっ、分かってるけど、なんか怖いよな」
絵梨佳の新たな一面が見ることが出来た他の塾生達は、とても幸せそうだった。
塾生達&修は観覧車から降りたあと、出口ゲートの方へと向かっていく。ゲート近くの喫茶店で満由実さんと再会し、みんなは長島スパーキングランドをあとにした。
そしてそこのすぐ近くにある、今夜宿泊する大型リゾートホテルへチェックイン。
満由実さんは507号室を予約していた。十五畳ほどの広い和室だ。
「では皆さん、修ちゃんの指示に従ってね」
満由実さんはそう告げて、507号室を出て行こうとする。
「えっ、あっ、あの」
戸惑う修に、
「ワタクシは、別のお部屋よ」
満由実さんはにこっと微笑みかけた。
「えっ、あの、それは、ないでしょう」
修の表情は少し引き攣った。
「みんな修ちゃんと同じお部屋がいいって言ってたので」
満由実さんは爽やか笑顔でおっしゃる。彼女は別に、シングルルームとなっている314号室も予約していたのだ。
「オサムっちと同じお部屋でお泊り、楽しみだなぁ」
絵梨佳はとてもわくわくしていた。
「僕は、非常に不安でございます」
修は沈んだ声で呟いた。
「見て、見て。海が一望出来るよ」
数歩は窓際に近寄った。
ホテルは海岸沿いに位置し、夕日に映える海辺を眺めることが出来た。
「夜景はもっときれいなんだろうな。夜が楽しみーっ!」
紗奈も景色を眺め、大興奮する。
「わあーっ、すっげえ! 見て。中に羊羹とか、赤福餅とか、ゼリーとか、ジュースがいっぱいあるぜ」
絵梨佳は冷蔵庫を開けてみた。
「あのう、それは、おばさんに、許可を取った方が……」
「絵梨佳さん、これって別料金取られるんじゃなかったっけ?」
「ワタシ、家族旅行で旅館とかホテルに泊まった時、ママにお金かかるから食べちゃダメって言われたよ」
「私もそのままにしておいた方がいいと思うな。でも食べたい」
修、藍子、晴恵、数歩がそう意見したその時、
「皆さん、冷蔵庫に入っているものの代金も、合宿費に含まれていますのでご自由にお食べ下さいね」
満由実さんが出入口扉の外から、こう伝えた。
「なぁんだ、それじゃ食べ放題だね。でも太るといけないから数控えとこ……」
紗奈は大喜びした。
「わたしも赤福餅食べよ……その前に、ちょっとおトイレ行って来るね」
そう言うと藍子は、早足に室内のトイレに向かった。
扉を開くと、洋式トイレが目の前に現れる。
「あっ、ここウォシュレットも付いてる。設備充実してるわね」
藍子は嬉しそうに呟いて便器に背を向けた。スカートの中に手を入れ、ショーツを膝の辺りまで脱ぎ下ろす。
「んっしょ」
そして便座にちょこんと腰掛けた。
それから約三分後。
「おさないお姉ちゃん、まだ出てこないね。あたしもおしっこしたいのに。う○ちしてるの?」
紗奈はいちご味のゼリーを頬張りながら、扉の外から問いかけてみた。
「うん、待たせちゃってごめんね紗奈さん。わたし、三日振りにお通じが来たの。やっぱいっぱい歩くと効果あるよ。まだ出そう」
藍子はすぐさま返答する。
その直後、
「皆さん、そろそろお食事場所へ移動しますので」
満由実さんは、この部屋の出入口扉を開けて呼びかけた。オートロックとなっているが、満由実さんはここの部屋の鍵も受付の人に事情を話し、持たせてもらっていたのだ。
「マユミン、アイコンは今、大きい方をう~んって頑張っているので、少し遅れるそうでーす♪」
絵梨佳は満由実さんの側へ駆け寄り、トイレの扉を手で指し示しながら大きな声で伝えた。
「分かったわ。小山内さん、焦らなくていいからごゆっくり」
満由実さんは爽やかな表情で叫びかける。
(えっ、絵梨佳さぁーん。普通にトイレ行ってるって言ってくれればいいのにぃ。修先生にも絶対知られて恥ずかしいよぅ)
藍子は便座に腰掛けたまま、歯をぐっと食いしばり、両拳をぎゅっと握り締めつつ目をかたく閉じて赤面していた。
こうして藍子を残し、他のみんなは夕食場所となっている宴会場へと移動していった。
「ご予約の望月御一行様ですね。ごゆっくりどうぞ」
従業員さんに席へ案内される。
宴会場は二〇畳ほどの純和室となっており、一脚の長机を取り囲むように座布団が七つ敷かれてあった。
テーブルの上にはお船型の大きなお皿、そこに伊勢湾近海で今日昼過ぎに水揚げされたばかりの、新鮮な鯛や伊勢海老、ウニの刺身などが多数並べられていた。
他に副菜、デザートもたくさん。
「わぁー、すっげえ。めっちゃ豪華だーっ!」
絵梨佳は並べられている料理の数々に目を奪われる。
「えーりーかーさーん」
そんな時、絵梨佳は藍子に背後から肩をガシッとつかまれた。
「あっ、アイコン、便秘治ってよかったね」
絵梨佳はくるりと振り向き、爽やかな表情で話しかけた。
「もう、絵梨佳さん。声でかーい!」
藍子はニカッと笑い、絵梨佳のこめかみを両手でぐりぐりする。
「いたたたたた、ごっ、ごめんアイコン」
「まあまあ、おさないお姉ちゃん。すっきりしてよかったでしょ?」
「藍子ちゃん。健康のためには重要なことだから」
紗奈と数歩も説得してくる。
「お腹すっきりして、いっぱい食べられるじゃん」
絵梨佳は笑いながら言う。
「そうだけどね」
藍子はむすっとなる。
「どれくらいの大きさのが出た? ちっちゃいから三日溜まっててもやっぱバナナサイズ?」
「う○ちはバナナサイズが最適って、保健だよりに書いてあったよ」
「絵梨ちゃん、紗奈ちゃん。お食事中にそういう下品な話はやめましょうね」
「「はーぃ」」
満由実さんに優しく注意され、絵梨佳と紗奈はぴたりとその話をやめた。
ともあれ、食事タイムが始まる。
満由実さんから「おあがりなさい」という食前の挨拶があったあと、塾生達と修は食事に手をつける。
「絵梨佳さん、またあぐらかいてる、パンツも丸見えよ」
「せめて私みたいに体育座りにしようね」
藍子と数歩は呆れ顔で指摘する。
「べつにいいじゃん、この方が楽だし」
絵梨佳は聞く耳持たず。
「藍ちゃん、晴ちゃん、修ちゃん、正座では足が痺れるわよ。足崩して楽な格好にしていいからね」
満由実さんは優しくおっしゃった。
一瞬間を置いて、
「けど、女の子があぐらかくのは、ちょっとはしたないな」
こう付け加える。
「ねっ!」
藍子は絵梨佳に視線を送った。
「なんか、やり辛い」
絵梨佳は結局、体育座りに戻した。
「鯨の竜田揚げ、美味そう。アタシ鯨食べるの、初めてだ。梅ゼリーも美味しそう」
絵梨佳は最初にデザートの方をスプーンで掬い、お口に運ぼうとしたところ、
「もーらった」
藍子が横からぱくりと齧り付いて来た。
「美味しい!」
藍子はとっても美味しそうに頬張る。
「あああああああーっ! ちょっと、アイコン、何するんだよ!」
絵梨佳は大声を張り上げて、藍子をキッと睨み付ける。
「えへへ、さっきわたしに恥ずかしい思いさせてくれたお返しーっ」
藍子はあっかんべーのポーズをとった。
「ひどーい」
絵梨佳は藍子の両方の頬っぺたをぎゅーっとつねる。
「いったーい」
藍子は、絵梨佳の髪の毛を引っ張った。
「アイコン、いきなり取るなんてひどいよ。そんなに卑しいことしてたら、ぶくぶく太って豚さんになっちゃうよ」
今度は絵梨佳、藍子に馬乗りになった。
「失礼よ。身体測定の数値、絵梨佳さんの方が体重多かったくせに」
「そりゃアタシの方が背、高いもん」
「絵梨佳さんだってお菓子大好きなくせに。絵梨佳さんこそ太るよ」
藍子は対抗しようと、両手で押し返す。
「アタシは太らない体質だもんねーっ!」
絵梨佳は自信満々に言う。
「ああーっ、ムカついて来たーっ」
藍子は絵梨佳の足をグーで叩いた。
「いたいよ、アイコン」
絵梨佳はパーで叩き返す。
両者、叩き合いが始まってしまった。
「ねえ、二人ともケンカはやめて」
晴恵は心配そうに見守る。
「カンガルーさんのケンカみたい。二人とも互角だね。いやちょっと絵梨佳ちゃん優勢かな」
数歩は微笑ましく観察する。
(そのうち、収まるでしょう)
修は食事を進めながら座視していた。
「絵梨佳お姉ちゃん、おさないお姉ちゃん、後ろ、後ろーっ」
紗奈は笑いながら注意を促す。
「アイコン、返してーっ」
「無茶なこと言わない!」
絵梨佳と藍子は聞く耳持たず。そんな二人の背後に、黒い影がゆっくりと忍び寄る。
「これこれ、女の子同士が取っ組み合いの喧嘩とは何事ですか!」
満由実さんだった。二人に呆れ顔で注意する。
「だってだって、マユミン」
絵梨佳は藍子の頬っぺたをつねりながら言い訳する。
「元はといえば、絵梨佳さんが悪いんです」
藍子も絵梨佳の髪の毛を引っ張りながら言い訳する。
二人はまだ、ケンカを止めようとはしなかった。
「あっ、あのですね」
修も恐る恐るこの場を収めようとする。
「直ちに止めなかったら、このあと補習授業するわよ」
満由実さんはさらっとおっしゃった。
「「ごめんなさーい」」
すると二人は即、土下座して反省の態度を示した。
「早く食事に戻りなさい」
満由実さんは笑顔で告げて、元の席へ戻る。
「さっきはごめんね、アイコン」
「ううん、わたし、もう気にしてないよ」
絵梨佳と藍子はすぐに仲直り。その後は仲良く夕食タイムを過ごしたのであった。
「それでは皆さん、次はお風呂へ入ってね」
お部屋へ戻る前に、満由実さんは塾生達と修にこう指示を出した。
「マユミン、アタシ、オサムっちと混浴がいいな」
絵梨佳は修の腕をぎゅっとつかむ。
「あっ、あのね、樋口さん」
「こらこら絵梨佳さん。修先生困らせちゃダメでしょ」
藍子は絵梨佳の腕を引っ張ってを無理やり引き離した。
「修ちゃんなら女湯入っても問題ないけど、他のお客様から顰蹙買われちゃうからね」
満由実さんは笑顔でおっしゃる。
「それだけでは、済まないと思うのですが……」
修はしかめっ面で突っ込む。
このあと当然のように修は男湯、塾生達は女湯へ。
☆
「カッシー、体はお子様だな。胸ペッタンコだし、アンダーヘアーも無くつるつるだし」
女湯脱衣場で、絵梨佳にすっぽんぽん姿をじーっと眺められ、
「恥ずかしいよ」
紗奈はてへりと笑う。
「アイコン、案外大人の体してるね。おっぱいもふくらんでるし、アンダーヘアー、アタシより濃いかも」
「こらこら、覗かない!」
「アレはもう来た?」
「とっくの昔に来てるよぅ」
絵梨佳の質問に、藍子は照れ笑いしながら打ち明ける。
「あたし、まだ。クラスの女の子、半分くらいは来てるみたいなんだけど」
紗奈は小声で呟いた。
「おう、どうりでまだお子様体型なわけだ。おっぱいのでかさでは、カズポンが一番だな」
「そんなに大きいかな?」
数歩は目を下に向けて自分の乳房を眺めてみる。
「Cある?」
紗奈は羨望の眼差しで数歩の胸元をじーっと見つめる。
「そんなにはないよ。ブラジャーはBカップのを使ってるの」
数歩は淡々と答えた。
「いいなあ、数歩お姉ちゃん」
紗奈は前から抱きつき、おっぱいを鷲掴みした。
「あんっ! もう紗奈ちゃんたら、くすぐったいからやめてー」
「スキンシップ、スキンシップーッ」
容赦なく数歩のおっぱいを揉みまくる。
「カズポン、おしりもいい形してるね。触らせてーっ」
絵梨佳も便乗してくる。
「もっ、もう。やめてぇ~」
前からも後ろからも揉まれ、数歩は頬をほんのり赤らめて笑う。嫌がりつつも、とても気持ち良さそうな表情を浮かべていた。
(裸見せるの、恥ずかしい)
晴恵は他の塾生達やお客さん達から視線を逸らそうとしながら、照れくさそうに服を脱いでいく。下着を外す前に、バスタオルをしっかり全身に巻いた。
(紗奈さんや絵梨佳さんに触られないようにガード、ガード)
藍子も同じようにした。
他の塾生三人は堂々と裸体をさらけ出し、バスタオルは手に持っていた。
浴室へ入ると、塾生達は隣り合うようにして洗い場シャワー手前の風呂イスに腰掛ける。出入口に近い側から数歩、紗奈、絵梨佳、晴恵、藍子という並びだ。
「カッシー、それまだ使ってるのかぁ」
「うん、あたし、これがないとシャンプー出来ないの」
紗奈は照れくさそうに呟きながら、シャンプーハットを被った。
「カッシー、幼稚園児みたいだな」
絵梨佳はくすくす笑う。
「ワタシも、今はさすがに使ってないな」
晴恵は、紗奈をちらりと眺めた。
「べつにいいでしょ。シャンプーが目に入らないように安全のためだもん」
紗奈は照れ笑いしながら言い張る。
「紗奈ちゃん、かっわいい!」
「妹に欲しいわ。紗奈さん、髪の毛洗うの手伝ってあげよっか?」
数歩と藍子は横目で見ながら、きゅんっと反応した。
「それはいい、自分でやるから」
紗奈は頬をポッと赤らめた。
「タオルで隠してる子、ワタシと、あいこちゃんくらいしかいないね」
晴恵は辺りを見渡しながら藍子に話しかける。
「そうね」
藍子も周囲をちらりと見た。
「ワタシ、家で入る時はスッポンポンなんだけど、ここではちょっとね」
「わたしも。みんなが見てる前では恥ずかし過ぎて無理。あの、晴恵さん。眼鏡外したお顔もかわいいね」
「あっ、ありがとう」
晴恵と藍子が小声でおしゃべりしながら体を洗い流している最中、
「わぁーい!」
紗奈のはしゃぎ声と共に、ザブーッンと飛沫が上がる。湯船に足から勢いよく飛び込んだのだ。休まず犬掻きのような泳ぎをし始めた。
「紗奈さん、はしゃぎ過ぎ。低学年の子みたいよ」
藍子は後ろを振り返り、微笑みながら注意する。
「カッシーのはしゃぎたい気持ちは良く分かるぜ」
そう言い、絵梨佳も飛び込んで平泳ぎを始めた。
「周りのお客様に迷惑かけないようにね」
藍子は再び注意する。彼女を含め他の塾生達はみんな、足を片方ずつそっと浸けて静かに入った。
「広くて最高♪ ワタシ、お風呂大好きなの。夏は一日三回入ってる」
晴恵は湯船に足を伸ばしてゆったりくつろぎながら、嬉しそうに呟いた。
「晴恵ちゃん、し○かちゃん並だね。あんまり入り過ぎるとお肌かえって荒れちゃうよ」
数歩はにっこり微笑む。
「ねえカズポン、ひょっとして、今もカズオっちとお風呂一緒に入ってる?」
絵梨佳は興味津々に質問してくる。
「最近は入ってないなぁ。数くん、小学五年生頃から急に嫌がるようになっちゃって。塾の合宿もその頃からついて来なくなっちゃったよ」
数歩は残念そうに語る。
「そっか。きっとお○ん○んに毛が生えて来たからだね。カズオっち、エッチな本は一冊も持ってないんでしょ、えらいよね。純粋だよあの子は」
絵梨佳は感心していた。
「いやぁ、数くんのお部屋に週刊少年マ○ジンが置いてあったんだけど。それのグラビアけっこうエッチだったよ」
数歩は困惑顔で伝える。
「それはべつにエッチでもないよ、カズポン。保健の教科書の方がずっとエッチだぜ」
絵梨佳はにこにこ顔で言う。
「そうかなぁ?」
数歩はきょとんとした。
「ねえ、アイコンにハルエ、湯船にタオル入れたらダメだぜ」
絵梨佳は藍子のバスタオルをぐいっと引っ張った。
「やめてーっ、絵梨佳さーん」
藍子は腕を前に組んで必死に抵抗する。
「晴恵ちゃんも、他のみんなみたいにすっぽんぽんになろうよ」
数歩も晴恵のバスタオルを引っ張る。
「やーん。ダメよ」
晴恵は足をバタバタさせ懸命にタオルを守る。
「皆さーん、湯加減はいかがですか?」
ちょうどその時、満由実さんも浴室に入って来た。タオルは巻いてなく、スッポンポンだった。風呂イスにゆっくりと腰掛け、シャンプーを出して髪の毛をこすり始める。
「満由実おばちゃん、お肌白くてきれいなお体だね。とても四十過ぎとは思えないよ」
「まだ男子中高生のおかずとしていけるね。デッサンしたい」
「私もお母さんみたいになりたーい」
紗奈、絵梨佳、数歩は湯船から上がり、満由実さんの側に駆け寄った。まじまじと満由実の裸体を眺める。
「もう、恥ずかしいな」
満由実さんは優しく微笑んだ。
(望月先生、素敵です)
(わたしの二倍くらい膨らんでるかな、胸)
晴恵と藍子は、湯船の中からこっそり眺めていた。
「今何キロあるかなあ?」
浴室から出て、脱衣所へ移動した絵梨佳は、すっぽんぽんのまんまそこに置かれてある体重計にぴょこんと飛び乗ってみた。
「……よかったぁ、一学期最初の身体測定の時と全く同じだ」
目盛を見て、満面の笑みを浮かべる。
「絵梨佳さん、身体測定は服の重さが数百グラムあるから、実際は増えてるってことよ」
藍子はにやにや微笑みながら、耳元で囁く。
「あっ、言われてみれば……」
絵梨佳はハッと気付いた後、がっくり肩を落とした。
「あたしはきっと痩せてるぅ」
自信満々に言い、紗奈も体重計に飛び乗った。同じくすっぽんぽんのままで。
「……えええええええっ!? ごっ、五キロも増えてるぅ。なっ、なんでなんでぇ!?」
目盛を眺め、紗奈は目を見開き大きな叫び声を上げた。
「紗奈さん、下を見て」
「えっ……」
紗奈は、藍子に言われたようにしてみる。
「あああああーっ!」
瞬間、大声を張り上げた。
「えへへ、タネ明かしだよ」
数歩はにこっと笑う。数歩が体重計の上にこっそり手を置いていたのだ。
「もう、数歩お姉ちゃん」
「体重気にした時の表情、子どもっぽくってかわいかったよ」
「ひっどーい。罰として数歩お姉ちゃんも乗って!」
「あーん、やだぁ」
紗奈に追われ、数歩はスッポンポンで逃げ惑う。
「皆さん、修ちゃんが待ちくたびれていると思うので、速やかに出ましょうね」
脱衣所ではしゃいだり、ジュースを飲みながらのんびり過ごしたりしていた塾生達に、満由実さんは優しく注意しておいた。
「修くーん、お待たせーっ」
「あっ、どっ、どうも」
満由実さんの推測通り、修はすでに上がって大浴場横休憩所の椅子に座って待っていた。
「お風呂上りのオサムっち、ますます文豪っぽさが醸し出されてるね」
「霜鳥先生、すごく格好いいです」
絵梨佳と晴恵は、修の姿をじーっと見つめる。
「そっ、そうでしょうか?」
(なんか、女の子特有の匂いが……)
塾生達と満由実さんの体から漂ってくる、ラベンダーやオレンジ、オリーブ、ミントのシャンプーや石鹸の香りが、修の鼻腔をくすぐっていた。
「そうだ! 数くんにお電話しておこう」
数歩はふと思い付き、お母さんに十円を借りてすぐ近くにある公衆電話から、数雄の携帯に電話した。
『もしもし』
三回くらいベルを鳴らしたところで数雄は出てくれた。
「数くん、やっほー」
『あっ、お姉ちゃん』
「合宿、数くんも付いて行きたかったんじゃないの?」
『そんなことないよ。女ばっかりだし』
「本当かな? ちゃんとご飯食べた?」
『うん』
「お風呂入った?」
『うん』
「電気、火の元、戸締りちゃんと確認した?」
『うん』
「お父さんと二人っきりで、寂しくない? 夜、ちゃんと寝れる?」
『うん、心配しなくても大丈夫だよ、お姉ちゃん』
「そっか、数くんも大人になったね。私達も、今お風呂入ったところだよ、お母さんに代わろうか?」
『いっ、いいよ。べつに』
「それじゃあ数くん、お土産楽しみにしててね。そろそろ切るよ」
「優しいお姉ちゃんだね。カズポン、アタシに変わってーっ」
絵梨佳は数歩の背後から叫ぶ。
「分かった、はいどうぞ」
数歩はすぐさま受話器を絵梨佳に手渡した。
「カズオっち、アタシだよ」
『なっ、なんか、用?』
数雄は慌てた様子で応答する。
「カズオっち、お風呂入る時、ちゃんとお○ん○んも洗ったかな?」
『……』
絵梨佳がこう問いかけて約三秒後、プープープーという音が絵梨佳の耳に飛び込んでくる。
「ありゃりゃ、切られちゃったかぁ」
絵梨佳は残念そうに嘆きの声を漏らした。
(そりゃあ切るだろうな、いきなりあんなこと訊かれたら)
修は心の中で突っ込んでおいた。
「ふふふ、数雄ったら、絵梨ちゃんのこと好きなのね」
満由実さんはくすくす笑っていた。
ともあれ、満由実さんは314号室へ。
塾生達&修も507号室へと戻っていく。すでにお布団が敷かれてあった。このホテルのサービスだ。縦二列、横三列。曲の字型であった。
「皆さん、どこに寝る?」
藍子は他のみんなに尋ねる。
「僕は、一番端っこで」
「ダメだよ、修くん。修くんはここ!」
数歩は強制的に、上側真ん中の布団を指定する。
「数歩お姉ちゃん、あたし、ここーっ!」
「修くんのお隣がいいんだね」
「うん!」
数歩が確認すると、紗奈はこくりと頷いた。紗奈は上側、出入口に近い方の布団を指差したのだ。
「……」
修はどう反応すればいいのか分からなかった。
「じゃあ私はここ」
「アタシも窓際でオサムっちのお隣がいい!」
「わたしも窓際ね」
数歩の希望に、絵梨佳と藍子も譲らず。
「ねえ、カッシー。その場所譲ってくれない?」
「嫌! あたし、絶対修お兄ちゃんのお隣」
紗奈は該当する布団にごろんと大の字に寝転がった。
「絵梨佳さん、譲ってあげなさい。紗奈さんは一番年下でしょ」
「それが通るなら、アタシ、この三人の中で、一番年下だから……」
絵梨佳は上目遣いで藍子を見つめる。
「それは……また全く別問題です」
藍子はやや間を置いて言った。
「そんな理不尽なぁー」
絵梨佳は嘆く。
「修先生、わたしと数歩さんと絵梨佳さん、どなたにお隣になって欲しいですか?」
「……えっ、えっと……」
藍子から真剣な眼差しで問われ、修は返答に困ってしまう。
「修くん、私だよね?」
「わたしですよね」
「アタシ、アタシ、オサムっちと同じ名前の太宰治にも傾倒してるアタシだよな?」
三人に詰め寄られる。
「三人とも頑張れ!」
紗奈は寝転がったまま、嬉しそうに応援する。
「あのっ、霜鳥先生。えりかちゃんは、寝相がかなり悪いです」
晴恵は突然叫んだ。
「それじゃ、絵梨佳お姉ちゃんは下の入口側一番隅っこだね」
紗奈はさらっと言う。
「あーん、ハルエ。余計なこと教えないでー」
絵梨佳は苦笑した。
「絵梨佳ちゃんのお隣で寝るのは危険なようだね。絵梨佳ちゃんのお隣になる人、誰にするか、じゃんけんで決める?」
数歩の提案を、
「じゃんけんは、ありきたり過ぎるよ。トランプで決めましょう。最初に上がった人が修先生のお隣で、ビリが絵梨佳さんのお隣ね」
藍子はこう切り返す。
少し話し合って、数歩、晴恵、藍子の三人で、ババ抜きをすることになった。
藍子は家から持って来ていたトランプをシャッフルし、裏向けにして晴恵と数歩に配っていく。
配られたカードのうち、同じ数字のカードは捨てた。
「なんかアタシ、危険人物扱いされてるみたいなんだけど……」
絵梨佳はムスッとしながら三人の方を眺めていた。
「まあまあ、えりかちゃん」
晴恵はなだめる。
「わたし、今の所一番枚数少ないよ」
手持ち枚数を見て、藍子はにっこり微笑んだ。藍子は配るさい、自分有利になるように意図的にジョーカーを外し、同じ数字の札が多くなるようにしていたのだ。他のみんなは藍子の不審な動きに当然のように気付いていた。しかし藍子のかわいさに免じてか、スルーしてあげた。
(就職試験においては、これくらいのずる賢さがあった方が、いいんだよなぁ)
修は心の中でこうコメントした。
ともあれゲームがスタートする。
数分後、
「良かった」
二番目に、手持ちの札が無くなった数歩は嬉しそうに微笑む。
「えーっ、なんでぇーっ?」
結局、最後までジョーカーを持っていたのは、最も有利な状態から始めた藍子であった。
「藍子ちゃん、晴恵ちゃんが持ってたババ、引いたでしょ。表情に出て、ものすごく分かりやすかったよ」
「おさないお姉ちゃん、持ち方ももう少し工夫した方がいいよ」
数歩と紗奈はくすくす笑う。
「すみませんあいこちゃん、最初に上がってしまって」
晴恵は申し訳なさそうに謝ったものの、内心とても嬉しがっていた。
「あーん、納得いかなかなぁーい。もう一回だけやりましょう」
藍子は口惜しそうな表情を浮かべて駄々をこねる。
「えーっ」
「ワタシも、もうやりたくないです」
数歩と晴恵は当然のごとく嫌そうにする。
「おさないお姉ちゃん、諦めも肝心だよ」
紗奈はくすくす笑う。
「そんなことすると、アイコン勝つまで絶対やめなさそうだから。さあ、アイコン。今夜はアタシの側でおねんねしましょうね」
絵梨佳はニカッと微笑みかけ、藍子の肩をガシっとつかんだ。
「すごく不安だなあ」
藍子は困惑する。
これにて、全員の布団の位置が決まった。
「せっかくの合宿だし、目一杯盛り上がらなきゃね。今からアタシがカッシーのために、こわーいお話でもしようかなー」
絵梨佳は両手をうらめしやポーズにしてゆっくりとした口調でそう告げた。
「あっ、あたし、聴きたくないよううううううう」
紗奈はとっさに耳を塞ぎ、カタカタ震え出す。
「カッシー怖がりだなぁ」
絵梨佳はくすっと笑う。
「絵梨佳お姉ちゃん、やめてやめてやめてぇぇぇーっ」
紗奈は顔を真っ青にさせながら枕を手に取り、絵梨佳に向けて投げた。見事顔面にヒットする。
「カッシー、ナイスコントロールだ。ごめんね」
「あたし、そういうの、ちっとも怖くないもん」
紗奈はややムスッとしながら言い張る。
「本当かな?」
絵梨佳はアハハと笑う。
「絵梨佳さん、いじめたらかわいそうよ」
「あいたたたっ」
藍子は絵梨佳の頭をグーでゴチンッと叩いておいた。
「合宿の夜の楽しみ方といえば、やはりこれよ。わたし、いいもの持って来たの」
藍子がリュックの中から何かを取り出そうとした。次の瞬間、
「皆さん。ちょっとお邪魔するわね」
満由実さんがこのお部屋に入って来る。
「あっ、満由実先生」(学校の合宿じゃないし、見つかっても問題ないか)
藍子は反射的に後ろを振り向く。少しドキッとしたらしい。
「あのう、あのあとお風呂場点検したんですけど、とってもかわいらしいキリンさん柄パンツの落とし物がありました。ご丁寧にお名前も書いてありましたよ。お心当たりのある方は、後でいいからこっそり取りに来てね」
満由実さんはそのパンツをバッグから取り出し手に掲げ、塾生達に向けてにこにこしながら伝えた。
その約二秒後、
「あああああああああああーっ、わたしが今日穿いて来たやつだーっ」
藍子は大声で叫んだ。その行為によって、みんなにバレてしまった。全速力で満由実さんの下へダッシュする。
「藍ちゃんのパンツだったのね、次からは気をつけましょうね」
満由実さんはくすくす笑いながら手渡した。
「ああ、恥ずかしい。ママったら、わたしもう子どもじゃないのに余計なことしてくれちゃって」
藍子は受け取ったパンツを上着の中に隠し、ぶつぶつ呟きながら自分のリュックの前へ向かう。
「アイコン、かわいいの穿いてるね」
絵梨佳はにやにやする。
「おさないお姉ちゃん、あたしもその柄のやつ持ってるよ」
紗奈はとても嬉しそうにしていた。
「あーん、今日は恥ずかしい思い続きだよぅ」
藍子は涙目になってしまった。
「藍子ちゃん、私も動物さん柄のパンツ、体育無い日は穿いていくことあるよ」
数歩は慰めようとした。
「それなら……まあ、おかしくはないよね」
藍子はなんとか立ち直ったようである。
「……」
修は満由実さんがあのパンツをかざした瞬間からテレビの方に目を向け、この状況から目を逸らしていた。
「では皆さん、明日の朝は早いので、夜更かしはしないようにしましょうね」
満由実さんはまだ笑ったままこう忠告し、この部屋から出て行った。
「「「はーい」」」
数歩、晴恵、紗奈は素直に返事をした。
「まあ気にするなアイコン、そういや、いいもの持って来たんだよね?」
「うん。わたし、テレビゲーム機も持って来たんです」
藍子は嬉しそうに言い、リュックの中からようやく取り出せた。
「小山内さんは、テレビゲームが好きなのでしょうか?」
「はい。特にアクションゲームとRPGが大好きです。満由実さんも時たまテレビゲームをプレイされますよ」
「へぇ。意外だ。あのお齢で」
修は少し驚いたようだ。
「頭の体操になるからだって」
数歩は伝える。
「アタシが準備するよ」
絵梨佳が、テレビとゲーム機本体にケーブルを繋いであげた。
「修先生、これやってみて下さい。先週発売されたばかりなんです」
藍子が取り出したゲームソフトのジャンルは、アクションだった。
「いいけど」
修はあまり乗り気ではなかったが、引き受けてあげた。テレビゲーム機にセットし、電源を入れ、コントローラを握る。
一人プレイを選択し、ゲームスタート。
「難しいな、最初の面なのに」
1‐1面の半分くらい進んだ所で落とし穴に落ち、ミスしてしまった。
「わたしもこの面、全然クリア出来なかったんですよ。でもそれが魅力的です。晴恵さんも、やってみませんか?」
藍子は笑顔で勧める。
「ワタシ、ゲームはほとんど……」
晴恵は手をパタパタさせ、躊躇うしぐさを取る。
「ハルエ、このゲームアタシもちょっとやったけど面白いよ。やってみて」
「うっ、うん」
絵梨佳に勧められると、晴恵はコントローラを握り締めた。
ぎこちなく指を動かし、ボタンを操作していく。
「晴恵ちゃん、上手いねぇ」
「そっ、そうかな? あっ……」
数歩に褒められたことで、晴恵はミスをしてしまった。
「ごっ、ごめん晴恵ちゃん。邪魔しちゃって」
数歩は慌てて謝る。
「いいよ、いいよ。気にしてないから」
晴恵は機嫌良さそうになだめてあげた。
「次、あたしがやるぅーっ」
「次は私ねーっ」
ワンミス毎にみんなで交代しながらそのゲームを一時間ほどやった後、
「あたし、眠いからもう寝る。おやすみなさーい」
「私もー。おやすみー」
「ワタシも先に寝るね」
紗奈、数歩、晴恵は眠たそうに告げて、各自で決めたお布団に潜り込む。紗奈は、修に遊園地のゲームコーナーでとってもらった、あのアデリーペンギンのぬいぐるみをしっかり抱きしめていた。
「お子様はおねむの時間だね。これからが本当の夜なのに」
絵梨佳はにこにこ顔で呟く。
「修先生、次はこれで遊びましょう」
藍子は別のソフトに取り替えた。
セーブデータを選択すると、宿の画面が出て来た。
「これは、RPG?」
「はい。修先生、RPGは面白いですよね? 村人達と会話し、旅のヒントを得て進めていくのが魅力的なんです。頭を使いますし」
「そっ、そうだね。就職活動も、RPGみたいなものだよ。『内定通知』という伝説の宝を求めて冒険の旅に出る、《スーツと履歴書のファンタジー系RPG》という感じかな」
「剣と魔法という、ファンタジー世界においてありきたり過ぎる物は一切出てこない斬新かつ異色な設定ですね」
「モンスターは、面接官になるかな。そしてお城イコール会社」
「アハハハッ、言えてますね」
修と藍子は楽しそうに会話を弾ませる。
「オサムっちが主人公のRPG、あったら欲しいなぁ」
絵梨佳がこう呟いたあと、
「あのう、僕も、今日は、疲れましたので、そろそろ……」
修は躊躇うように伝える。
「あーん、オサムっち。もう少し付き合ってよう」
絵梨佳は修の体を揺さぶり、駄々をこねる。
「あっ、あのう……」
修は当然のように迷惑がった。
「無理させちゃダメよ。修先生はわたし達の引率で疲れてるんだから」
藍子は困惑顔で注意する。
「分かった。今日はオサムっちに迷惑かけちゃったからね。ごめんねオサムっち」
「いえいえ」
ともあれ修は布団へ潜り込んだ。
絵梨佳と藍子は、引き続きこのテレビゲームで遊ぶ。
「ねーえ、ピコピコうるさいよう」
「起きてるんだったら、電気消してもう少し静かにやってねー」
五分くらい続けていると、紗奈と数歩は目を覚ましてしまった。とろーんとした声で二人に注意する。
「はーぃ。ごめんね、紗奈さん、数歩さん」
「すまんね、起こしちゃって」
藍子と絵梨佳は申し訳なさそうに小声で謝る。この二人はそのあとは音の出るテレビゲームはすぐにやめて電気を消し、部屋備え付けのライトスタンドの小さな明かりで家から持って来たマンガやラノベを読んで静かに過ごしていた。
「アイコン、もうすぐ十二時半だし、そろそろ寝よっか?」
「そうね。他にやることないし、あんまり睡眠時間短すぎると明日バテちゃうから」
藍子が本をリュックにしまってこう呟いた次の瞬間、
「ちょっとアイコン、何しようとしてるのかな?」
絵梨佳は藍子の肩をポンッと叩き、ニカッと微笑んだ。
「だって、寝相悪いんでしょ」
藍子はきっぱりと言い張った。彼女は暗闇の中、絵梨佳のお布団をそーっと引っ張っていたのだ。
「大丈夫。気をつける!」
絵梨佳は自信満々に言い張る。
「いやあ、気をつけても無意識に動いちゃうと思うから……」
藍子は嫌がる素振りを見せた。
「アイコン、アタシを信じて。トラストミー」
絵梨佳はうるうるとした目で、藍子の目をじっと見つめる。
「わっ、分かったよ」
藍子はしぶしぶ引き受け、再びお布団を引っ付けた。彼女はお布団に潜り込むと、疲れていたためかほどなくしてすやすや眠りに付いた。
絵梨佳も同じく。
真夜中、三時頃。
「いたっ!」
藍子は目を覚まし、声を漏らす。絵梨佳に背中をボカッと蹴られたのだ。
「……」
絵梨佳はそんなことには一切気付かずぐっすり眠っていた。
「もう、絵梨佳さんったら。おっ、重ぉい」
藍子はなんとか絵梨佳のお布団を一メートルほど引っ張り隅へ追いやって、再び自分のお布団に潜り込んだ。
☆
合宿二日目の早朝、六時半頃。
「皆さーん、起床時刻ですよう。用意を済ませて、速やかに昨日の宴会場へ移動してね」
満由実さんが507号室へ入って来て、大声で叫ぶ。
「あっ、おっ、おはよう、ございます。おばさん」
修はすぐに目を覚まし、むくりと起き上がった。
晴恵と藍子、数歩もそれからほとんど間を置かずに目を覚ました。
「よく眠れましたか?」
満由実さんはその三人に質問する。
「まあ、一応は」
修は素の表情で答えた。
「わたしは、あまり眠れませんでした。絵梨佳さんに何度も蹴られて。お布団移動させたんですけどね」
藍子は苦笑した。
「ああ、やっぱり。ワタシ、野外活動でえりかちゃんと同じ班だったんだけど、お隣のお布団で寝たら何回か蹴られてたよ。えりかちゃーん。起きてー」
晴恵は爽やかな表情を浮かべて、絵梨佳の頬っぺたをペチペチと叩く。
「んうん。まだ眠い」
絵梨佳はぴくりと反応し、お布団に包まった。
「絵梨佳さん、おしりが半分に出てるよ。本当に寝相悪いのね。よぉーし」
藍子はにやりと笑った。
「あいこちゃん、もしかして」
晴恵は心配顔になった。
藍子は手のひらにハァッと息を吹きかけた。
「絵梨佳さん、起きなさい!」
パチーンッと乾いた音が響く。
その瞬間。
「きゃぅっ!」
絵梨佳は飛び起きた。
「なっ、何が起きたの?」
紗奈もパチッと目を覚まし起き上がった。
「大成功ね」
藍子はにっこり微笑んだ。
「もう、ひどいなアイコン」
絵梨佳はムスッとふくれる。
「真夜中の仕返しよ。わたしも痛かったんだから」
藍子はにかっと笑い、舌をぺろりと出す。
「さて皆さん、早くお着替えして移動してね」
満由実さんは指示を出す。
「はーい」
紗奈はパジャマの上着を脱いだ。
「うわっ」
修は咄嗟に目を手で覆う。
「さっ、紗奈さん。ダメでしょ。もう六年生なんだから、修先生の人目を気遣わなくちゃ」
藍子は慌てて注意する。
「ごめんなさーい」
紗奈はぺこんと頭を下げて謝った。
「僕は、あちらで、着替えて参ります」
結局、修だけは洗面所兼トイレで着替えることにした。
「オサムっちは紳士だな」
絵梨佳はパジャマを脱ぎながら楽しそうに笑う。
このあとみんな揃って、昨日の夕食時と同じ宴会場へ。
朝食を取り終えてそれぞれのお部屋へ戻ったあとは、各自荷物をまとめ、出発の準備を進めていく。
「皆さん、そろそろ出発しましょうか?」
もうまもなく七時半になろうという頃、満由実さんは再び507号室に足を踏み入れた。
「満由実おばちゃん、今から始まるやつ見終わってからーっ」
紗奈は駄々をこねる。
付けられていたテレビ画面左上には、7:29という時刻表示。何かの番組のEDが流れている最中だった。それが終わり七時半になると、今度は乳幼児向けの教育系テレビ番組が始まった。
「菓子さんは、こういう番組が好きなのでしょうか?」
「うん!」
修が話しかけると、紗奈は満面の笑みを浮かべて勢いよく頷いた。
「ワタシも大好きです」
「わたしも毎週欠かさず見ていますよ」
「私はたまにー」
晴恵、藍子、数歩もこの番組がお気に入りのようだった。
「そうでしたか。僕、こういう系の番組見たの、二〇年振りくらいかも」
修も視聴してみる。
紗奈は瞬きもほとんどせず、熱心に見入っていた。
数歩、晴恵、藍子、そして満由実さんも同じく。
「そんなに面白いかな?」
絵梨佳だけはあまり興味を示さず、番組の途中から携帯ゲームで遊び始めた。
(何だかなぁ……)
一五分ほどの番組を見終えて、修は何とも言えない心境に陥った。
先ほどやっていた番組は、『羊飼いと狼』という有名なイソップ寓話のアニメ版だった。「狼が来たぞ」と嘘をついて周囲の大人達を惑わせた羊飼いの少年のお話で、物語の最後に本当に狼が襲ってくるが大人達に信じてもらえず、少年(羊とされている場合もある)はオオカミに食べられてしまう。幼い頃誰もが一度は聞かせてもらったことがあるだろう。
嘘をつき続けると、いつかは信じてもらえなくなるよ。だからいつも正直に生きることが大切ですよ。という教訓を幼い子供達に伝えるのがこの物語の趣旨だ。
ところが就職活動においては、正直者はバカを見ることが多いのだ。
修は、〝嘘つきは内定の始まり〟といってもあながち間違いではないとも思っている。
(来週のお話は、『金の斧』なんだよな……面接では本音をバカ正直に答えるやつより、バレないように上手く嘘をついて、面接官に気に入られるよう自分を偽ることが出来るやつの方が、あっさり内定を取れるからな。テニスサークルの部長を務めていて部員達を優勝に導きましたとか、飲み会の幹事をやっていたとか、アルバイト先の店の売り上げアップに貢献したとか、御社が第一志望ですっていうのは嘘の典型例だよ。もちろん本当のやつもいるけど、それは少数だろう。そういやドラ○ンボールの昔の映画で、○飯を塾に入れるための父兄面接の待ち時間に、本当は強いやつと戦うことが趣味なのに、チ○から読書とスポーツだって答えろって命令された悟○が、「面接ってのは嘘つき大会なのかよ」って不満を呟いていたシーンがあったような覚えが……確かにこう答えた方が当然、面接官に好印象を与えられるからな)
「ねえ、修くん、そろそろ行くよーっ!」
「……あっ、わっ、分かり、ました」
物思いに耽っていたところをいきなり数歩に話しかけられ、修は少し動揺した。
他の塾生達はすでに、お部屋から出ていた。
※
みんなは桑名から名古屋へ戻り、新幹線で京都駅へ。
JR京都駅構内を少しうろうろしたあと、清水寺へと向かった。
「あたしここに来たの、小四の遠足以来だーっ」
「京都市内が一望ね」
「絶景だぁーっ。この風景は何度見ても飽きないよ」
紗奈、藍子、数歩はとても楽しそうに、かの有名な清水の舞台の上から欄干にもたれるようにして街を見下ろす。
他の四人はそのすぐ後ろ側から眺めていた。
「ちょっと怖いです。斜めになってるし」
晴恵はその中でも一番後ろ側から眺めていた。
「ねえ絵梨佳ちゃん。ジェットコースターや観覧車は怖いけど、ここは平気なんだね」
「そりゃまあ、動いてないからな」
数歩の質問に、絵梨佳は真顔で堂々と答える。
「じゃあ、こうすればどうかな?」
数歩はにこっと笑う。
「きゃっ、きゃあああああっ。カズポン、下ろせ、下ろしてぇぇぇ」
絵梨佳は数歩に背後からつかまれ、ふわりと持ち上げられた。足をバタバタさせて必死に抵抗する。
「これこれ、数歩。絵梨ちゃん怖がってるからやめなさい」
満由実さんは優しく注意する。
「ごめんね絵梨佳ちゃん」
数歩は謝罪の言葉を述べて、絵梨佳をそっと下ろしてあげた。
「ああ怖かったー」
絵梨佳はホッと胸をなでおろす。
「絵梨佳さん、情けないよ」
藍子は微笑み顔で言った。
「だって、怖いものは怖いんだもん」
絵梨佳はムスッとした表情で言い訳する。
みんなは続いて地主神社へ立ち寄った。ここには恋占いの石が二つ置かれてある。石から石へ目を閉じたまま辿り着くことが出来ると、恋の願いが叶うといわれている有名なパワースポットだ。
「私、やってみる!」
「アタシもやるぅーっ」
「あたしもーっ」
数歩、絵梨佳、紗奈が挑戦してみることにした。その三人は石の横に立ち、目を閉じて向かいにあるもう一方の石に向かって歩いていく。
「わっ、数歩さん成功してるし。すごーい」
藍子は目を見開いた。
「数歩やるわね」
満由実さんも喜ぶ。
「えりかちゃん、ズレ過ぎーっ」
晴恵は叫ぶ。
「きゃっ!」
絵梨佳は前にこてんとつんのめった。すぐ横を歩いていた紗奈が足を引っ掛けたのだ。
「あーん、カッシー。目を開けて歩いたら反則だよ」
「えへっ。絵梨佳お姉ちゃんの倒れ方かわいかったよ」
紗奈は舌をぺろりと出した。
「カッシー、今度アタシにイタズラしたら、おばけ屋敷に付き合ってもらうよ」
絵梨佳はてへっと笑って注意する。
「ごめんなさーい」
紗奈はぺこんと頭を下げて謝った。
「ねえ、オサムっちも好きな人いる?」
絵梨佳は彼のもとへ駆け寄り、興味津々に尋ねてみた。
「いないよ」
修はすぐに否定した。
「嘘だぁー。照れてるぜ、オサムっち」
絵梨佳はくすりと笑う。
「えりかちゃん、失礼だよ」
晴恵は困惑顔で注意した。
「お母さんはやらないの?」
数歩は尋ねてみる。
「うん。だってもう叶ってるから」
満由実さんは幸せそうな表情でおっしゃった。
みんなはここをあとにすると、音羽の滝へ。
「ご利益、ご利益」
「めっちゃ美味しそう」
紗奈と絵梨佳は三つに分かれて流れ落ちる水のうち、彼女達側から見て一番右端のものを柄杓に注いだ。ごくごく飲み干していく。続いて真ん中を流れるお水を注ごうとしたところ、
「欲張って全種類飲むとご利益が消えちゃうよ」
満由実さんはその二人の背後からさらりと伝える。
「そうなの? 危なかったー」
「マジで!?」
紗奈と絵梨佳はぴたりと動きを止め、柄杓を元置いてあった所へ戻した。
「それに、飲みすぎるとおなか壊しちゃうかもしれないわよ」
満由実さんは付け加える。
「ここのお水は、飲んでも特にご利益は無いそうよ」
藍子はさらっと伝えた。
「えっ!? 健康・学業・縁結びのご利益があるってママから聞いたよ」
「あたしもあると思ってた。違うの?」
「それ、観光用の宣伝文句よ」
目を丸める絵梨佳と紗奈を見て、藍子はくすっと笑う。
「そうなんだ……なんかママに騙された気分」
絵梨佳はちょっぴり落ち込んだ。
「この三つの流れは仏・法・僧への帰依、若しくは行動・言葉・心の三業の清浄を表していて、滝そのものが信仰の対象となってるの」
「へぇ。藍子お姉ちゃん物知りだね」
「アイコン博識だぁーっ」
紗奈と絵梨佳は、藍子から伝えられた豆知識に感心する。
「藍子ちゃんは小学校の時のあだ名、博士だったからね」
数歩は自慢げに伝えた。
「なんか恥ずかしくて嫌だったよ、そのあだ名」
藍子は照れくさそうに言う。
「僕もその言い伝え、聞いたことがあります」
修も話に加わった。
みんなはこのあと合宿最後の締めくくりとして、嵐山へ立ち寄った。
嵐山観光名物のトロッコ列車に乗り込む。
トロッコ列車は自転車と同じくらいのゆっくりのんびりとしたスピードで、線路を駆け抜けていく。
「ここの紅葉も、あんまりきれくないですね」
眼下にまみえる景色に、藍子はちょっぴり残念がっていた。
「まだちょっと早かったわね。一番の見頃は今月下旬みたいだけど、さすがに期末テスト直前に遊ぶわけにもいかないからね」
「マユミン、その否応無くやって来る現実を思い出させないでぇー」
絵梨佳は苦い表情を浮かべた。
「あたしには全然関係ないね」
紗奈はにこやかな表情で得意げに言う。
「落ち葉集めて、焼きイモしたいなぁ」
数歩は景色を眺めながら呟く。
「カズポン、食いしん坊だなぁ」
絵梨佳はにっこり微笑んだ。
「あたしはもみじを天ぷらにして食べたぁーいっ!」
「紗奈さん、ここのもみじは食べられないよ」
「でもおさないお姉ちゃん、箕面で売ってたよ、もみじの天ぷら」
「あれは、食用の紅葉を使用して一年以上塩漬けしているのよ」
藍子はにこやかな表情で教えてあげる。
「えーっ、そんなに時間かかるのぉ?」
紗奈はがっくり肩を落とした。
「あの、さなちゃん。下を見て。お船さんだよ」
晴恵は慰めるように話しかける。
「あっ、本当だぁーっ!」
紗奈は途端に元気を取り戻し、大きな声で叫ぶ。
車内からこれもまた嵐山の観光名物、保津川を下る遊覧船が見えて来たのだ。
「アタシは乗りたくないな。酔うし」
絵梨佳は苦い表情で伝えた。
「速度の合成と分解の図を思い出しちゃうな」
藍子はにこにこ顔で嬉しそうに呟く。
「僕は、SPIや、公務員試験の数的推理に出てくる、流水算の問題を思い出しました」
修はついつい就職試験のことを思い浮かべてしまった。
こんな風にみんなは紅葉狩りをじゅうぶん堪能し終え、阪急嵐山駅へ。あとはまっすぐ帰るだけとなった。
「修くん、じつは私、明日までの宿題まだ全然出来てないの。先生に叱られちゃう」
「アタシもだぁーっ。やっば」
帰りの阪急電車の中で、数歩と絵梨佳はふとその現実を思い出してしまった。
「では、僕が、やってあげましょうか?」
修は問いかける。
「わぁーい。嬉しい」
「オサムっち、任せた」
数歩と絵梨佳はバンザーイして喜ぶ。
「修先生、ダメですよ」
藍子は困った表情を浮かべた。
「修ちゃん、数歩と絵梨ちゃんのためにならないからね」
満由実さんからも注意される。
「やっぱ、よくないのかな?」
修は少し反省した。
「あーん、藍子ちゃーん、お母さーん」
「マユミン、アイコン、冷たいこと言わないでー」
「数歩さん、絵梨佳さん、そろそろ期末テストを意識した方がいいよ。それと、お菓子を買い過ぎ」
藍子は、大きな菓子袋を持っていた数歩に指摘する。
「だって私、お菓子大好きなんだもん」
数歩は遊園地内やホテル内の売店などで買ったお菓子を食べながら言い訳する。
「アタシも大好きーっ」
絵梨佳も同調する。絵梨佳も数歩に負けないくらいたくさんお菓子を購入していた。
「修くん、あーん」
数歩は修の口元に、スナック菓子を近づけた。
「あっ、どっ、どうも」
修は手で掴み取り、自分で口に入れた。
「アイコンもどうぞ」
絵梨佳は藍子の口元にポップコーンを近づけた。
「じゃ、一つだけね」
藍子はこう言って、お口に含んだ。
「そういやカッシー、さっきから大人しいね。どないしたん?」
絵梨佳は、普段とは様子が違う紗奈に疑問を抱く。
「あっ、紗奈ちゃん、なんかお顔が赤いよ」
「お熱、あるんじゃない?」
数歩と満由実さんは指摘した。
「大丈夫?」
晴恵は問いかける。
「なんかあたし、今、すごくしんどくって」
紗奈はゆっくりとした口調で答えた。
「紗奈さん、本当にお熱があるわよ」
藍子はおでこに手を当ててみた。
「あの、僕が菓子さんをおんぶして、おウチまで連れて帰りましょうか?」
「さすが修ちゃん、気が利くわね。僕が紗奈ちゃんちまで案内するわね」
満由実さんだけでなく、生徒達も修の気配りに感心していた。
阪急芦屋川駅で下りた後、
「修お兄ちゃん、おんぶぅ」
紗奈は修の肩に手を掛けた。
「いっ、いいよ」
修は快く従ってあげる。
ともあれみんなで、住宅地を歩き進んでいった。
「確かに家の場所、非常に分かりやすいですね」
菓子という表札を眺め、修はこんな印象を抱く。
もちろんヘンゼルとグレーテルに出てくるようなお菓子の家というわけはなく、極々普通のおウチだった。
満由実さんが代表して、門すぐ横にあるインターホンを押した。
数秒後、
『はーぃ』
お母さんが出たようだ。
「お母様でいらっしゃいますか。紗奈ちゃんが、お熱出しちゃったみたいで。送ってきました」
満由実さんはインターホン越しに伝える。
「あらま、それはどうも。ご迷惑お掛けしてすみません」
それから数秒後、紗奈のお母さんが玄関から出てくる。
「ママァ」
紗奈はかすれた声を上げた。
(高いな、背)
修は少し見上げる。
お母さんは紗奈の言っていた通り、一七三センチくらいだった。
「あの、僕、望月舎で、新しく、講師を務めされていただいております、霜鳥修と、申します」
「あらぁ、あなたが。紗奈の言ってたとおり、優しそうな人ね。紗奈をおぶって下さり、ありがとうございます」
紗奈のお母さんは深々と頭を下げ、丁重に礼を言った。
「いや、そんなことは……あの、娘さんの体調を崩させてしまい、申し訳ございません」
修は責任を感じ、頭を下げて謝罪する。
「いえいえ、この子、遠足とか野外活動とかの帰り、しょっちゅうお熱出すんですよ。遊び疲れちゃって」
お母さんは笑顔で、修に非は全く無いことを説明した。
「紗奈ちゃん、大丈夫?」
数歩は心配そうに問いかける。
「うん、まあ……なんとか」
そう答えるも、紗奈はぐったりしていた。
「菓子さん、もう少し、頑張ってね」
「うん。ありがとう、修お兄ちゃん」
修は紗奈をおぶったまま、二階にある紗奈のお部屋へ連れて行く。
辿り着くと、修は紗奈をベッドの上にそっと下ろしてあげた。
華奢な体格の修だが、紗奈も身長の割に体重は軽いため難なくこなすことが出来た。
(小学生らしさが出ているな)
修は紗奈のお部屋を見渡してみて、こんな印象を持った。
学習机の上は雑多としており、教科書やプリント類、ノートは散らかっていた。部屋一面に、女の子らしくかわいらしいぬいぐるみがたくさん飾られてある。
本棚には幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本、アニメ雑誌などが合わせて二百冊くらい並べられてある。普通の小学校高学年の女の子が好みそうな、ティーン向けファッション誌は一つも見当たらなかった。
「パジャマに着替えよっと」
「うわっ!」
修はとっさに目を覆う。
紗奈がいきなり立ち上がり、スカートを脱ぎ下ろしたのだ。リスさん柄の可愛らしいショーツが、一瞬目に映ってしまった。
「紗奈さん、修先生がいるのに、突然脱いじゃダメよ」
「ごめんなさい、おさないお姉ちゃん」
藍子に優しく注意され、紗奈はぺこりと謝る。
続いて紗奈はシャツ一枚姿となった。ブラジャーはまだ付けていない。
その間、修は壁の方を向いていた。
紗奈はパジャマに着替え終えると、お布団に潜り込んだ。
修に取ってもらった、アデリーペンギンのぬいぐるみを隣に置いて。
「紗奈、お熱計ろうね」
お母さんもお部屋に入って来て、紗奈に体温計を手渡す。
「うん」
紗奈はパジャマの胸ボタンをはずし、わきに挟んだ。
一分ほどして体温計がピピピっと鳴ると紗奈はそっと取り出し、お母さんに手渡した。
「38.4分もあるよ」
「そんなに、あるの?」
紗奈はしんどそうに、不安そうに呟く。
「あ、紗奈ちゃん、鼻水が垂れてるよ」
数歩は咄嗟に、学習机の上に置かれてあったボックスティッシュから何枚か取り出し、紗奈の鼻の下にそっと押し当ててあげた。
「ありがとう、数歩お姉ちゃん」
そして紗奈はしゅんっと鼻をかむ。
「お夕飯は、食べられそう?」
お母さんさんは問いかけた。
「ううん、食欲全然湧かなぁい。でも、あれは食べたいな。前にあたしが風邪引いた時に、作ってくれたやつ」
紗奈はとてもゆっくりとした口調で希望を伝えた。
「あれね。ママが丹精込めて作ってあげるわ」
お母さんはにこっと微笑みかけた。
「ありがとう、ママ」
紗奈はとても嬉しそうな表情を浮かべる。
「申し訳ございませんが、望月先生も手伝っていただけないでしょうか?」
「もちろんいいですよ」
紗奈のお母さんからの頼みを、満由実さんは快く引き受ける。
こうしてこの二人は、一階キッチンへと向かっていった。
それから十数分後、二人は戻ってくる。
あの間、晴恵は苦しむ紗奈のために、絵本を三冊読んであげた。
「お待たせ」
紗奈のお母さんが作ったのは、コーンスープだった。
「ありがとう。ママ特製の」
「食べさせてあげる。あーんして」
お母さんは小さじですくい取り、ふぅふぅして少し冷ましてから紗奈のお口に近づける。
「あー」
紗奈は口を小さく広げて、幸せそうに頬張っていく。
(風邪引いた菓子さん、とっても幼く見える)
修はそう思いながら眺めていた。
「風邪引いた時って、ママの手料理がいつも以上に美味しく感じられるよな」
絵梨佳はにこにこ顔で呟いた。
紗奈は全部平らげて、
「美味しかったぁ。ごちそうさまぁ」
満面の笑みを浮かべる。食べ終えた頃には、紗奈の全身から汗が大量に流れていた。
「汗べとべとだけど、お風呂入ってますますこじらせちゃうと大変だから、ママがタオルでお体拭いてあげるね」
「ありがとう、ママ」
「どういたしまして。ちょっと待っててね」
お母さんは機嫌良さそうにそう告げて、お部屋から出て行った。
数分のち、
「遅くなってごめんね」
お母さんはお湯を張った洗面器と、二枚のバスタオルを手に持って戻って来る。
そしてそのセットを、紗奈の枕元にそっと置いた。
「待ってましたー」
紗奈は寝転んだまま、小さく拍手した。
「そっ、それでは、僕は、これで」
修は慌ててこのお部屋から出て行った。
「修お兄ちゃん、いなくなっちゃった」
紗奈は残念そうに小さな声で呟いた。
「修さん、紗奈の裸を見るのに罪悪感に駆られたのね。あの、修さん、申し訳ございませんが、キッチンテーブルの上に置いてある風邪薬、お水に溶かして後で持って来ていただけないでしょうか? コップはその辺にあるのをどれでも使っていただいていいので」
お母さんは扉を開け廊下に出て、階段を下りようとしている修に叫びかける。
「わっ、分かり、ました」
修はもう帰ろうかと思っていたが緊張気味に承諾の返事をして、階段を下りキッチンへ向かっていった。
「紗奈、お体拭くからパジャマ脱いでね」
「うん」
お母さんに頼まれると、紗奈はゆっくりと上体を起こす。パジャマのボタンを外して上着を脱ぎ、次にシャツも脱いだ。きれいなピンク色をしたふくらみかけの小さな乳房が露になる。
「紗奈、お腹は痛くない?」
「うん、大丈夫」
「それじゃ、拭くね」
お母さんはお湯で絞ったタオルで紗奈のお顔、のどくび、うなじ、背中、腕、わき、お腹の順に丁寧に拭いていく。その後に乾いたタオルで二度拭きしてあげた。
「ありがとう、お母さん。汗が引いてすごく気持ちいい」
紗奈は恍惚の表情を浮かべた。
「どういたしまして。紗奈、パジャマ着せるからバンザーイしてね」
お母さんは嬉しそうに微笑む。
「はーい」
紗奈は素直に返事し、両腕をピッと上に伸ばした。
お母さんはシャツとパジャマの袖を通してあげ、ボタンも留めて着衣完了。
「次は下を拭くね」
続いてお母さんは紗奈のパジャマズボンとショーツを一緒に脱がし、下半身も拭いてあげる。
「んっ、気持ちいぃ」
おへその下からおしりにかけてなでるように拭かれた時、紗奈は思わず甘い声を漏らす。
「きゃはっ」
足の裏を拭いてあげた時にはくすぐったがってかわいい笑い声を出した。
「はい、拭き終わったよ。足上げてね」
お母さんは同じように乾いたタオルで二度拭きし、ズボンとショーツを穿かせてあげた。
「紗奈ちゃんのお母さん、すごく手際良いね」
「手馴れてるな」
数歩と絵梨佳は感心する。
「そりゃぁ、紗奈のおむつを交換してあげたことが数え切れないほどあるからね」
お母さんは使ったタオルを絞りながら微笑み顔で言う。
「あたしが赤ちゃんの頃の話でしょ。ママ、恥ずかしいよぅ」
紗奈は照れ笑いする。
他のみんなはくすっと微笑んだ。
「あのう、菓子さんの体は、拭き終わったのでしょうか?」
それから少しして、修はお部屋の外から問いかけた。
「うん、もう大丈夫よ」
お母さんが答えると、
「しっ、失礼、します」
修は恐る恐る、お部屋へ足を踏み入れた。そして右手に持っていた小児用風邪薬入りコップをお母さんに手渡す。
「お手数をかけて申し訳ございません。じゃあ紗奈、お薬飲みましょうね」
お母さんはそれを紗奈の口元へ近づけた。
「ママ、これ、あたしの好きなやつじゃなぁい」
紗奈はぷいっと顔を横に向ける。
「紗奈、わがまま言わないで。修さんが作ってくれたのよ」
お母さんは笑顔でなだめる。
「それは嬉しいんだけど、味が……ねえママ。メロン味のお薬は無いの?」
紗奈はお母さんの目を見つめながら訊く。
「ごめんね、切らしてるの」
お母さんは申し訳なさそうに言う。
「えーっ、じゃああたし飲まなーい」
紗奈は頬を火照らせながらぷくっと膨れた。
「お薬飲まないのなら、坐薬を使おうかしら」
「えっ! やっ、やだやだやだぁ。お薬、飲むよ、飲むよ」
お母さんがにこっと微笑みかけると、紗奈はびくっと反応し勢いよく上体を起こし、お薬をちびちび飲み干していく。
「紗奈ちゃん、坐薬が怖いんだね。気持ち分かるなあ。お尻に入れるの、私もちっちゃい頃風邪引いた時お母さんにしてもらったことがあるけど、逃げ回ってたよ」
「アタシも。嫌だよな、お尻にプチューってされる時のあの他に例えようのない感触」
数歩と絵梨佳は同調する。
「私は坐薬を使った方が良いと思うけどな。早く効いてくるし」
藍子は笑顔で意見する。
「坐薬、怖い怖ぁい。それじゃあたし、もうおねんねするよ。おやすみ。ケホンッ」
紗奈は苦虫を噛み潰したような表情でこう告げて、お布団に潜り込んだ。
「紗奈ちゃん、お大事に。火曜日の授業、もししんどかったら無理せず休んでね」
「紗奈ちゃん、ばいばーい。ぐっすり休んでね」
「カッシー。明日までに絶対治しなよ」
「紗奈さん、お大事に」
「さなちゃん、お熱下がってるといいね」
「では、菓子さん、お大事に。失礼、致します」
満由実さん&他の塾生達&修は優しく話しかけ、紗奈のお部屋から出て菓子宅をあとにした。
紗奈は翌朝にはすっかり元気になったそうだ。
第五話 文化祭&学習発表会
「あっ、もうクリスマスツリー飾ってるんですね」
次の次の火曜日、十一月十八日夕方四時頃。望月宅のリビングを訪れた修は少し驚いた。
「デパートとかでは十月の終わり頃から飾ってるからね。家でもそろそろ飾ろうかと思って」
満由実さんは機嫌良さそうに言う。
「確かに、早過ぎるということも、無いですね」
修はふと気付かされた。
「教室にも同じようなのを飾ってるわ」
「そうなんですか。そういえば、今日は、数歩さん、まだ帰って、ないんですね」
「うん。文化祭の準備で遅くなるって言ってたから」
「そうでしたか」
「文化祭は今週の木金よ」
「すぐですね。僕も、教室で待機しています」
こうして二人は教室内へ。
「修ちゃんの作った教材、みんなに大好評のようよ。修ちゃんも、学習塾講師としてだんだんさまになって来たわね」
「いえいえ、僕など、全然。まだ勤続一ヶ月も経ってないですし、僕なんかが作った教材で、皆さんが勉強したら、成績が下がってしまうのではないかと……」
「ふふふ、そんなことないわ。現に紗奈ちゃん、修ちゃんが来てから学校で行われた分のテストでは、90点以上を連続して取ってたでしょ。絵梨ちゃんもこの間、英語の小テストで10点満点中の8点、数歩も数学の小テストで7点取ってたじゃない。今までは0点とか1点、高くても4点とかだったのよ。徐々に成果が現れ始めてるわ」
「いやぁ、それは、まあ、小学校のテストや、中学校の小テストは、単元別なので、すぐに点数を上げられますし、僅差の違いでは……」
こんな風に修は緊張気味に、満由実さんと少し会話しながら待っていた。
「こんばんは、満由実先生」
五時前、ほぼ普段通りの時間に藍子がやって来る。
「いらっしゃい藍ちゃん、今日は一番乗りよ」
満由実さんはいつも通りにこやかに迎え入れた。
「やっぱり。わたしも去年まで、文化祭直前になると遅くまで練習したからね。クリスマスツリーも飾られて、今年も残り少なくなりましたね」
「そういえば、菓子さんも遅いですね。遅くても、五時までには来ていたのですが……」
「紗奈ちゃんも、学習発表会の準備だと思うわ。毎年この時期なのよ」
少し心配した修に、満由実さんは伝える。
「わたしの高校の文化祭は、六月に終わってます。秋に行うと、受験に影響してくるからという理由で」
藍子はちょっぴり残念そうに伝えた。
五時半頃、紗奈がやって来る。
「学習発表会の練習が長引いちゃったよ。あたしの学校、木曜に学習発表会があるの。修お兄ちゃんも、ぜひ見に来てね」
「あっ、うっ、うん。行けたら」
紗奈は笑顔でお願いし、修にプログラム進行表が載せられたパンフレットを手渡した。
六時過ぎくらいに、
「ただいまーっ。準備疲れたよぅ」
ようやく数歩が帰って来た。
「マユミン、今日は学校帰りにそのまま来ましたーっ」
「こんばんは、望月先生」
絵梨佳と晴恵も一緒に連れて。
「私のとこの文化祭、修くんも見に来てね。私のクラスは合唱だよ」
「アタシのクラスもだぜ。オサムっち、自由曲めっちゃ面白いから楽しみにしててね」
「歌うの恥ずかしいよ。霜鳥先生、これをどうぞ」
晴恵は笑顔でそう言い、プログラム進行表と招待状を手渡した。
「この合唱曲は……確かに、面白いね。小中同じ日だけど、なんとか両方見に行けそう」
修はプログラム進行表を見て、午前に中学校の文化祭、午後から小学校の学習発表会を見に行こうと考えた。
※※※
そして当日、十一月二十日。
(僕なんかが、入っていいのかな?)
修は不満をよぎらせながら、招待状を山手西中学校正門前にいた受付係にかざし、正門に飾られたゲートを通り抜けた。満由実さんもあとに続く。こうして二人は体育館へ。窓は黒色の遮光カーテンで覆われ、床一面に青緑色のフロアシートが敷かれてあった。来場者席は、生徒席の後ろ側に用意されてある。共に折り畳み式パイプ椅子だ。
「空席が目立ってますね。さすがに中学になると、親はあまり見に来ないですね」
「ワタクシは、毎年見に行ってるわよ」
満由実さんは笑顔で伝える。
修と満由実さん、隣り合うようにして前の方の席真ん中付近へ座った。
【プログラム四番、二年三組による合唱です。課題曲、モルダウの流れ。自由曲、寒ブリの歌。お聞き下さい】
放送部員の一人からアナウンスが告げられると、二年三組の生徒達はパート別にまとまって、舞台前に設置されたひな壇へと上がっていく。
「あっ、あの子は……同じクラス、だったんですね」
修はあることに気付いた。
数雄も絵梨佳、晴恵と同じクラスだったのだ。
「数雄はテノールよ。晴ちゃんはソプラノ、絵梨ちゃんはアルトだから、離れた場所にいるの」
満由実さんは舞台の方を手で指し示す。
「あっ、いっ、いますね」
修はすぐに確認出来た。
まずは課題曲のモルダウから。ピアノ伴奏のあと二年三組のクラスメイト達は歌い始める。
その曲のあと、ついに寒ブリの歌の演奏が始まった。
ぶんぶんぶんぶんブリブリ♪ という独特の歌詞メロディーでお馴染みの合唱曲。
他のクラスの生徒達、来場者の一部からは、笑い声も起こっていた。
「絵梨ちゃんはこの曲も楽しそうに歌ってるわね。晴ちゃんと数雄は、やっぱ恥ずかしそうね」
満由実さんはにこにこ微笑みながら、デジカメに三人の勇姿を収めていた。
「気持ちは良く分かります。なんか、モルダウとのギャップが……」
修は同情を示した。
曲の演奏が終わったあと、客席から盛大な拍手が送られた。
このプログラムのあと、数歩のクラスが出るまで少し時間があった。
「そういえば、樋口さんと花屋さん。展示部門も見て欲しいって言ってましたね」
「部活動のがあるのよ」
修と満由実さんは体育館を出て、文芸部と美術部の作品が展示されてある美術室へと向かっていった。
「これ、僕!?」
壁に張られた、樋口絵梨佳 作と書かれた絵を見て修は驚愕した。
「あらぁ、そっくりね。修ちゃんの自画像」
満由実さんは微笑む。
「たっ、確かに」
修は照れてしまった。
「これは晴ちゃんと絵梨ちゃん、共同で作った創作絵本ね」
満由実さんは机の上に展示されてあったそれを、嬉しそうに手に取った。
「なんか、見ちゃいけないような」
「見てあげて。晴ちゃんも絵梨ちゃんも、修ちゃんに見て欲しいって言ってたわよ」
「でっ、では」
修は、恐る恐るページを捲り、じっくり目を通す。
「普通に本屋さんで売られても、おかしくないような、出来ですね」
2、3ページ読んでみて、こう感想を抱いた。
「とっても素晴らしいわ。将来は絵本作家ね」
満由実さんも気に入ったらしい。
「あの、僕、会議室の展示も、見たいのですが……」
「トライやるウィークの活動記録ね、もちろんオーケイよ。ワタクシも見たいから」
そんなわけで、二人は会議室へ移動した。
トライやるウィークとは、一九九八年度から兵庫県教育委員会が実施している、県内の公立中学二年生を対象に一週間、学校から離れて職場体験活動をさせる取り組みのことだ。
「花屋さんと、望月さんは、図書館へ行ったんですね」
絵梨佳と晴恵でとても仲良さそうに楽しそうに、専門書を棚に並べたり、ポスター製作をしたり、受付をしたりして活動している写真が何枚かあった。
「トライやるウィークか。懐かしいものです」
眺めながら、修は思い出に浸る。
「修ちゃんもトライやるウィークを体験されたのね。どこへ行きましたか?」
満由実さんは興味深そうに尋ねてくる。
「農協でした。伊丹の食品加工所とか、神戸の卸売市場とか、ほとんど見学で楽でした。最終日はサ○テレビも取材しに来ており、僕も、少しだけ映っていました」
修は淡々と思い出を語る。
「いい思い出だったのね。数歩はお菓子屋さんだったのよ。ケーキ食べ放題ですごく楽しかったって、将来は絶対お菓子屋さんになりたいって言ってたわ」
満由実さんは笑顔で伝えた。
「でも、実際になるとその世界の厳しい現実を知ることになると思います。数雄くんのもありますね。お花屋さんか」
「ここ、晴ちゃんのおウチなの」
満由実さんは教える。
「そっ、そうなんですか。知り合いのおウチだと、いろいろ気を遣ってやりにくそう」
お花の手入れや接客などに奮闘している数雄の写真を眺め、修はこんな感想を抱いた。
時間が迫って来たため、二人は体育館へと戻っていく。
午前最後のプログラムが、数歩のクラスだった。
【続きましてプログラム十二番。三年一組による合唱、課題曲、大地讃頌。自由曲、流浪の民】
この開始のアナウンスされた後、
数歩は、満由実さんと修の姿に気付いたようで、にっこり笑って大きく手を振ってくれた。
「あとで、先生に、注意されてしまうのでは……」
「数歩ったら、嬉しいけど、本番中はダメよ」
修は心配顔で、満由実さんはにこにこ顔で見守った。
「姉ちゃん、恥ずかしいよ」
数歩も呆れ顔で生徒席から眺めていた。
この後は特に何も無く、無事数歩も出番を終えた。
そのあと、修と満由実さんは紗奈の通う小学校へ移動していく。
こちらは招待状無しで入ることが出来た。
正門を抜け、体育館へ。
床、座席、カーテン、舞台は中学校のと同じような感じにされてあった。
「小学校だと、大抵の親は見に来てるな。立ち見かな」
修は周囲を見渡す。来場者席はほぼ満席になっていた。
「大丈夫よ。あそこに席取ってあるから」
満由実さんはある座席へ修を誘導して行く。
「満由実先生、霜鳥先生。いつも紗奈がお世話になってます」
そこにいたのは、紗奈のお母さんだった。
「あっ、こっ、これは、どうも」
修は緊張気味に頭を下げ、ご挨拶する。
二人は紗奈のお母さんを挟むようにしてイスに腰掛けた。
【プログラム最後は、六年生による朗読劇『八郎』と、合唱曲『遠い日の歌』です。ぜひご覧下さい】
そのアナウンスの後あらすじが語られ、幕が上がった。
「紗奈は、この劇には出てないのよ」
紗奈のお母さんはちょっぴり残念そうに伝える。
三クラス一二〇人近い六年生の中で、朗読劇に参加しているのは三〇人ほどとのことだった。
三〇分ほどで、八郎の朗読劇は終わりを迎える。
幕が閉じられた後。
ぞろぞろぞろと、人が動く音が聞こえてくる。
隅の方で待機していた他の六年生達も、舞台前に設けられたひな壇に上がっていく音であった。これより六年生全員参加となる。
【合唱曲『遠い日の歌』。ピアノ伴奏は、六年二組、菓子紗奈さんです】
このアナウンスが告げられると、客席から大きな拍手が沸いた。
「紗奈ちゃん、ピアノ伴奏なんだ。すごいわね」
「一番重要な役割ですね」
満由実さんと修はけっこう驚いていた。
「去年は他の子にじゃんけんで負けて出来なかった分、嬉しく感じてるみたいよ」
お母さんも嬉しそうだった。
紗奈は隅の方からひな壇を上がり、舞台上にあるピアノの前へ。ゆっくりと椅子に座った。
「座ってても、背の高さが、目立ちますね」
「紗奈ちゃん、スタイルも抜群ね」
「紗奈は男の子含めても、クラスで一番高いみたいよ」
お母さんは微笑み顔で伝える。
紗奈は、指揮者(音楽の先生)の方へ視線を向けて、演奏を始めた。
「ミス無しで……すごいですね」
「素晴らしい演奏だったわ」
紗奈は見事演奏を終え、他の六年生達と一緒に退場していく。修と満由実さんはほとほと感心していた。
「紗奈、よく頑張ったわ。きっと小学校最後の良い思い出になったね」
紗奈のお母さんは娘の演奏する姿を、写真に何枚も収めていた。
第六話 期末テスト間近、満由実さんと藍子のスパルタ学習指導
翌日金曜日夕方。
「もうすぐだよぅ、科目数多すぎるよぅ。いきなり数学と理科があるよぅ。最終日にしてくれた方が勉強時間いっぱい取れるのにぃ」
修が望月宅リビングへ足を踏み入れた時、数歩はソファーの上で足をバタバタさせながら嘆いていた。今日学校で、期末テストの日程範囲表が配布されたらしい。
授業が始まった後、
「アタシの学年、初日は社会科と音楽と英語だ。めっちゃだるいぜ」
絵梨佳も嘆きの声を上げた。
「文化祭最終日終了後のホームルームで、期末テストの日程範囲表が配られるのは山手西中の伝統だからね。わたしの高校も今日配布されたよ」
一方、藍子はとても嬉しそうにしていた。
「藍子ちゃんは相変わらず余裕なようだね。私も藍子ちゃんの天才的頭脳が欲しいよぅ」
数歩はそう言い、藍子の頭を優しくなでた。
「アタシもー。これで勉強しなくても好成績ゲットだぜ」
絵梨佳も便乗してくる。
「わたしはちゃんと勉強してるよ。数歩さんと絵梨佳さんは勉強量がまだ足りてないと思うの」
「そっかなあ? アタシ一日一五分は机に向かってるよ」
「私もそれくらーい」
「少な過ぎ。自宅での勉強量は学年プラス三時間が基本よ」
藍子は困惑顔で再度指摘する。
「分かってるけど、そんなに出来っこないぜ」
絵梨佳はにこにこ笑いながら言った。
「私も無理だー。今回もめちゃくちゃ範囲広いよ。主要五教科は中学の総復習プリントが入ってるもん。もう忘れたよ」
「高校入試も近いですので、それは当然のことだと思うのですが……」
しょんぼりとした表情で嘆く数歩に、修は率直に意見する。
「数歩さん、受験生でしょ」
藍子も呆れ顔で言った。
「数歩、受験勉強も追い込みの時期なんだから、しっかり頑張りなさいね」
満由実さんは笑顔で優しく励ます。
「はーい」
数歩は苦笑いで返事した。
期末テスト。中学は十一月二十八日、土日を挟んで十二月一日と二日。高校は十二月一日から五日まで行われる予定となっていた。
「中高生は大変だね。あたしのクラスの子も、私立受験する子は毎日塾通って勉強漬けみたいだけど」
紗奈は笑顔で他の塾生四人を眺める。
「カッシーも来年から中学生なんだから、定期テスト地獄はもうすぐだぜ。カッシー校区的にアタシんとこの中学に来るんでしょ。その前に、入学したら即、新入生テストがあるよ」
絵梨佳はにやけ顔で言った。
「嫌だなぁ」
紗奈は眉をへの字に曲げる。
「わたしは、定期テストは学校行事の中で一番楽しみだけどね」
藍子はいつも以上に機嫌良さそうだった。
「僕も、そうでした。筆記試験は、コミュニケーション能力友人無しでも、良い点数さえ取れば高く評価してくれる最高のイベントですので。僕も、何か力になれることがありましたら、お助けします。社会科と理科と数学限定で」
修はみんなにこう伝えた。
「修くん、もちろんお願いするね」
数歩はすぐに頼ろうとする。
本日の閉塾時刻が過ぎ、みんなが帰ったあと、
「修ちゃん、この範囲表を分析して、期末テストの予想問題集を作ってくれない?」
満由実さんは、修を塾講師として仮採用して以来、最も重要な任務を与えた。
「はい」
修は緊張気味に了解の返事をする。彼は日程範囲表のコピーと教材を持ち帰り、自室のノートパソコンで作業を進めていった。
※
そして翌週火曜日、夕方四時頃。
「一応、出来ました」
いつも通りの時間に望月宅へやって来た修は、恐る恐る満由実さんに課題を手渡す。
「ちょっと確認するね」
満由実さんは数十枚重ねられたプリントの束をパラパラと捲っていく。
「ワークから、そのまま選んだのもたくさんあります」
修は申し訳なさそうに伝えた。
「ばっちりよ。上出来、上出来」
満由実さんはグッドジョブの指サインを取った。
「えっ、いっ、いいんですか? こんなので」
修は心配そうに尋ねた。
「重要ポイントは十分分析されてるわよ。修ちゃんは教育者としての才能がワタクシ以上にあるわ」
「いっ、いえ、そんな」
修は褒められると、いつものように謙遜した。
☆
その日の夜、七時半頃。
「いつもならそろそろ教室を閉める頃だけど、今日から期末テスト終了まで、十時まで開塾時刻を延長します。そして、毎日開塾しますよ」
満由実さんは塾生達にこう伝えた。
「さっ、さようなら。マユミン」
帰る準備を整えていた絵梨佳はすっくと立ち上がり、窓の方へスタスタと歩いていく。
「待ってね、絵梨ちゃん」
「あんっ」
しかし満由実さんに手首をガシッとつかまれ引き止められてしまった。
「絵梨ちゃん、今夜からは試験勉強しっかり頑張ってもらうわよ」
満由実さんは爽やかな表情で絵梨佳に忠告する。
「えーっ。アタシ、九時から見たいテレビが……」
絵梨佳は眉をへの字に曲げた。
「絵梨ちゃんのママから頼まれてるのよ、もっと厳しく指導してねって」
「そんなぁー」
「延長授業、わたしも付き合いますよ。修先生もテスト勉強に付き添ってくれるから楽しそう」
藍子は修の方をちらりと見る。
「樋口さんの成績をアップさせるのは、僕の任務ですから」
修は責任を強く感じていた。果たせなければ、試用期間中にでも解雇されるかもしれないと感じていたからだ。
「私ももちろん付き合うよ、受験勉強も兼ねて」
数歩もやる気満々だった。
「あら数歩、中間の時はなんか嫌そうに受けてたけど、今回は違うわね」
満由実さんはにっこり微笑みかける。
「だって、今回は修くんがいるんだもん」
数歩は満面の笑みを浮かべて理由を伝えた。
「ふふふ、修ちゃん効果抜群ね」
「いえ、その、僕なんか……」
満由実さんからそんな風に言われ、修は反応に困ってしまった。
「アタシもオサムっちとお勉強出来るのはすごく嬉しいんだけど、でも……」
絵梨佳はもじもじする。
「さあ、絵梨ちゃん、しっかりお勉強してもらわなきゃね」
「うひゃ」
満由実さんは絵梨佳の背中を押して、一番目の席、藍子の隣に座らせた。
二列目に数歩と修が座る。
「絵梨佳お姉ちゃん、お勉強頑張ってねーっ。ばいばーい」
「ワタシも、夜遅くなってしまうので、先に帰ります」
紗奈はとても嬉しそうに、晴恵は申し訳なさそうに告げて、教室をあとにした。
「さあ絵梨佳さん、集中特訓よ」
藍子は絵梨佳の肩をパシーンと叩き、気合を入れた。
「あーん、勘弁してぇ。アイコン、テストが近づくといつも以上にアタシに厳しくなるんだよ」
絵梨佳は修の方を向いて不満を言う。絵梨佳は正座姿勢で座らされていた。
「あっ、あのう、中学の定期テストくらいで、夜遅くまで勉強する必要性は、その、ないのでは、ないかと。僕、大学受験の時ですら、ろくに勉強した経験がないので」
「修ちゃん、そんなこと言うと絵梨ちゃん安心し切っちゃうから」
満由実さんはきりっとした表情で言う。
「……」
修は何も言い返せなかった。
「絵梨佳さん、試験範囲になってるこの問題からやりなさい!」
藍子は中学二年生用の数学の問題集を開いて、該当箇所をパシーンと叩く。
「ひっ、オサムっち、助けてーっ」
絵梨佳はびくびくしながら助けを求めた。
「僕には、どうすることも……」
修は気まずそうにする。
「あのさ、アイコン、自分の勉強を、した方が、いいんじゃない……」
「つべこべ言わずにやりなさい! あっ、また足崩してる」
藍子はそう言い、絵梨佳の膝を三〇センチ直線定規でパチンッと叩いた。
「ひぃっ、いったぁ」
絵梨佳は従うしかなかった。藍子は学校にいる間にきちんと理解出来るまで勉強しているので、定期テストは毎回余裕なのだ。
(小山内さん、厳しい一面も持ってるんだな)
採点&解説係を任された修は気付かされた。
「ひどいよ、アイコン。カッシーやハルエやカズポンにはすごく優しいのに」
絵梨佳は唇を尖らせながら、不平を呟く。
「紗奈さんはとってもいい子だし、晴恵さんと数歩さんは、注意しなくてもしっかりお勉強してくれるから」
藍子はにこやかな表情で言う。
「それほどでもないかも」
数歩は謙遜した。
「修ちゃん、藍子ちゃん。絵梨ちゃんがどうしても勉強してくれないようだったら、この秘密兵器を使ってもいいわよ」
満由実さんは教室内のタンスから、“竹刀”を取り出し床にそっと置いた。
「こっ、これは、無理ですよ」
修は困惑した表情で言う。
「お借りします♪」
藍子はすぐに手に取った。
「私のお母さん、高校時代剣道部だったんだよ」
数歩から伝えられたことに、
「マジで!?」
「あれ? 満由実先生、高校時代は手芸部って言ってませんでしたっけ?」
「意外、ですね」
絵梨佳、藍子、修はかなり驚く。
「練習きついし、先輩もすごく厳しくて、入部して一週間足らずで辞めちゃったけどね。防具と竹刀買うのに使ったお金は無駄になっちゃったな」
満由実さんはてへっと笑った。
「黒歴史なんですね」
藍子は笑顔で突っ込む。
「アタシの学年、女子は今ちょうど体育の授業で剣道やってるんだけど、竹刀で叩かれたら防具付けてても痛いよ。地肌に叩かれたらと思うとぞっとするよ」
絵梨佳は苦い表情で呟いた。
「叩かれたくなかったら、真面目にお勉強しようね、絵梨佳さん」
「はっ、はい」
藍子から竹刀を突きつけられると、絵梨佳はしぶしぶシャーペンを持って問題に取り掛かり始めた。
それから一時間ほどのち、
「アイコン、アタシ、おしっこぉ」
絵梨佳はもじもじしながら、照れくさそうに伝えた。
「分かりました」
藍子はすぐに許可を出す。
「あっ、足が痺れて……」
絵梨佳はゆっくりと立ち上がろうとしたが、転びそうになった。
「大丈夫? わたしにつかまって」
藍子は手を貸してあげた。
「サンキュー、アイコン」
(やっぱり優しい子だな)
修は見直す。
「修先生、少しお待ち下さい」
藍子も竹刀を持って付いていった。絵梨佳のすぐ後ろにぴたりと引っ付くようにして歩く。
「アイコン、恥ずかしいよぅ。出て行って」
「わたしも絵梨佳さんがおしっこしてる所なんて見たくないよ。でも、見てないと絵梨佳さん後ろの窓から逃げるでしょ」
藍子は頬を少し赤らめながら呟く。トイレも絵梨佳と一緒に入ったのだ。もちろん竹刀は持ったままで。
「バレたか♪」
絵梨佳は舌をぺろりと出し、てへっと笑う。
「予想は出来てたよ。前の中間の時逃げ出したんだし。さあ、早く済ませて。時間が勿体ないよ。わたし、扉の方向いてるから」
藍子はそう言い、体の向きを一八〇度変える。
「でも出来れば、外へ出て欲しかったな」
絵梨佳は藍子の背中を眺めつつ照れくさそうに、ショーツとスカートを一緒に脱ぎ下ろした。
「んっしょ」
便座にちょこんと腰掛ける。そしてほんのり頬を赤らめながら、用を足し始めた。
絵梨佳の用を足す音は、藍子の耳にもしっかり届いていた。
「次はおててを洗って」
「分かったよ、アイコン」
藍子は絵梨佳が用を足し終えたのを確認すると、絵梨佳の袖を引っ張って洗面所まで連れて行き、石鹸でしっかりと洗わせた。
「さあ、教室へ戻ってお勉強の続き、続き」
「あーん、もう少しだけ休憩したーぁい」
「ダーメ!」
絵梨佳は藍子に手を強く握られ、教室へ引っ張られていく。
教室に戻ると、有無を言わさずすぐに勉強を再開させた。
午後十時過ぎ。
「はい、今日はここまでよ」
満由実さんは終了の合図をする。
「やっと終わったぁー」
絵梨佳は腕を上に伸ばし、小さくあくびをする。
「家に帰ってからも、今日やった内容をもう一度復習すること、それと、副教科もおろそかにしちゃダメよ。内申書に関わってくるから。頑張ってね」
藍子は絵梨佳を勇気付けるように忠告する。
「はーぃ。アタシ副教科は美術しか自信ないなぁ」
「期末テストが終わるまで土日も休まず毎晩続けるから、明日からも頑張ってね」
「えー」
満由実さんの伝言に、絵梨佳は愕然とした。
「私は今回は、毎晩続けれそうだよ」
数歩はにこにこ顔で嬉しそうに言う。
この絵梨佳にとっての地獄の学習プランは、予定通りそれから毎晩続けられた。
絵梨佳は嫌だとは思っていたのだが、修と一緒に勉強出来るので、楽しさもちょっぴり感じていたのだ。
※※※
あっという間にやって来た期末テスト前日。
「さあ、今夜は直前仕上げよ。修ちゃんに本番を想定して作ってもらった、期末テストの予想問題を解いてもらうからね」
夜八時頃、満由実さんはきりっとした表情で絵梨佳と数歩に指示を出した。
「はーい」
数歩は数学と理科、
「めんどいなぁ」
絵梨佳は社会科と英語の予想問題集を解かされる。
それを製作者である修が採点した。
「望月さんは数学75点、理科64点、樋口さんは社会科76点、英語67点か。本番の試験は、僕なんかが作った問題より、遥かに難しいと思うので、もう少し頑張ってね」
修はこう忠告した。
「もちろん頑張るよ!」
「任せてオサムっち」
数歩と絵梨佳は自信満々に宣言する。
※
当日夕方。修が望月宅を訪れると、
「修くーん、私、今日のテスト、ばっちりだったよーっ」
「アタシもだぜーっ」
数歩と絵梨佳は一目散に駆け寄って来た。
「えっ、あっ、それは、おめでとう」
修はとりあえず祝福してあげる。
「修くんの作った予想問題プリントから、同じ問題がたくさん出たの」
「社会科なんか九割くらい同じだったぜ」
数歩と絵梨佳は嬉しそうに伝える。
「そっ、それは、よかったね」
修も嬉しい気持ちが芽生えた。
「さすが修先生ですね」
「やるわね修ちゃん。ワタクシでもここまで的中させられないわ」
「いっ、いや、それは、偶然」
藍子と満由実さんからも絶賛されると、修はいつも通り謙遜する。
「私、月曜からの分も頑張るぞーっ」
「オサムっち、これからも指導よろしくね」
「わっ、分かり、ました」
今日は従来からの開塾日だが、試験期間中なので紗奈は邪魔にならないよう塾はお休みしている。晴恵も自宅で学習中である。
期末テスト残りの日程もあっという間に過ぎていく。
中学の期末テスト最終日となった十二月二日以降も受験生の数歩は抜けず、藍子と一緒に延長授業に参加した。数歩は高校入試に向けて主要五教科、中学三年分の総復習プリントを一生懸命こなしていく。
四日の夜、十時過ぎ。
「小山内さんも、いよいよ明日でテスト終わりですね。頑張って」
「はい! わたし、明日の世界史Aと保健、精一杯頑張ります!」
修にエールを送られ、藍子のやる気はさらにアップした。
「私も今回、修くんのおかげで勉強がすごく捗ったよ」
数歩も嬉しそうにしていた。
「あの、修先生、途中まで、一緒に帰りましょう」
「えっ……」
藍子に突然頼まれ、修は目を見開いた。
「修ちゃん、一緒に帰ってあげて。夜遅いし」
「夜中に女の子一人だと、危ないよ」
満由実さんと数歩からも頼まれる。
「お願いします。修先生」
藍子から再度頼まれた。
「わっ、分かり、ました」
これには修は断り切れず、引き受けることにした。
今日は雨が降っていたため、修は電車と徒歩でここへ来ていたのだ。
その雨は、もうすっかり上がっていた。
(修先生と差したかったよ)
藍子は心の中でこう思っていた。
(心配だなあ)
修は非常に気まずい心待ちで歩き進む。
二人の歩く姿は、傍から見ると二〇代半ばの男性が、小学生を連れて歩いているようであった。
未成年者略取の疑いを通行人や警察官からかけられてしまうかもしれない、と修は不安で仕方が無かった。
「あの、修先生は、面接が苦手なんですよね?」
藍子は唐突に尋ねてくる。
「はい。それは、もう。致命的に」
修は俯き加減で暗い表情で答えた。
「わたしも、面接はすごく苦手なんですよ。高校入試の時、極度の緊張で頭の中が真っ白になっちゃって、訊かれたことにほとんど何も答えられなくて、帰りに泣いちゃったよ。配点比重が低かったのでなんとか受かりましたけど」
「高校入試でも面接が課されるんだね……よく考えたら、僕が中学の時も、推薦で受ける子は面接の練習してたっけ。推薦やAOで、大学入試までに面接を経験して来た人もけっこう多いんだよな。幼稚園受験の時から面接を受けてる子もいるし。僕は一般入試しか受けたことがないので、就職活動の時が初めての面接でした」
「わたしも大学は一般入試で受けるつもりですよ。面接は絶対避けたいです。あとわたし、体育も大の苦手なんです」
「それは、僕も同じです。通知表、中学時代は5段階の2、高校時代は10段階の3か4しか取ったことがありませんから。大学でも必修の健康スポーツ科目について、演習は優だったのですが、実習はぎりぎりの可でしたし」
「わたしも中学時代、期末の保体のペーパーテストではいつも九割近く取っていましたけど、実技はどうしてもダメで評価は最高で3でした。気が合いますね」
藍子はにこにこ微笑む。
「そっ、そうだね」
修は少しだけ照れてしまった。
「あのう、修先生。わたし、二年生からの文理選択で、理系に進んでもいいと思いますか? 希望調査の提出期限が迫っててもうあまり悩む時間がないんです。修先生は理系出身なんですよね? その、満由実先生は文系出身なので、修先生に相談した方が良いと思い……」
藍子はもう一つ質問して来た。
「……迷っているようであれば、理系に進まれることをお勧めします。その、英語はどちらに進んでも重要科目ですし、その、理系は、習う科目数も、多いですし、理系から文系に変わることは、容易ですが、その逆は、厳しいので」
修はしばらく考えてから、自信は無さそうにアドバイスした。
「そうでしょうか? わたし、数学ついていける自信が無くて。定期テストではいつも90点以上取れるのですが、模試になると全然ダメで、六割くらいしか取れなくて。理系クラスは数学Ⅲまで必修なので、この先もっと難しくなるから不安で」
藍子はしょんぼりとしながら言う。
「大丈夫です。僕も高校時代、数学は今の小山内さんよりもずっとひどい成績を取っていましたから。記述模試では、二〇〇点満点中、二〇点くらいだったこともありますし。そんな僕でも、二次試験が数学だけの学部を受験して、なんとか合格しましたから」
修は、今度は自信を持ってアドバイスした。
「そうですか。わたし、理系に進む決心が付きました。相談に乗って下さり、ありがとうございます! 修先生、大好きです!」
藍子は満面の笑みを浮かべて礼を言い、修にぎゅっと抱きついた。
「あっ、あっ、あの、おっ、小山内、さん」
修は慌てて周囲をきょろきょろ見渡す。
人通りの多い、JR芦屋駅前までいつの間にか辿り着いていた。
「では、修先生。さようならーっ」
藍子は別れの挨拶を告げて、とても機嫌良さそうにトテトテ走りながら、自宅の方へと向かっていった。
(案外、大胆な、子だね)
修の心拍数はかなり上がっていた。
第七話 期末テスト終了記念 みんなで一緒にルミナリエ
「修くん、見て、見てーっ。すごく良い点取れたよーっ。先生にも褒められたぁーっ」
「オサムっち、アタシもめっちゃ上がってた。もう全教科返って来たぜ」
翌日金曜日夕方、修は望月宅に入るや否や、数歩と絵梨佳が玄関に駆け寄って来た。返却された答案用紙を自信満々に見せ付けてくる。今日は他の塾生達もすでに全員揃っていた。
「……本当に、ずいぶん上がったね。すごいよ」
修はかなり驚いていた。
「絵梨ちゃんも数歩も、今までの最高点よ」
満由実さんも少し驚いていた様子。
数歩の取得した数学の点数は84点、理科は79点だったのだ。その他の科目についても、中間テストの点数よりも少し上がっていた。
絵梨佳の取得した点数は国語82点、数学68点、理科71点、社会86点、そして英語は78点。全て平均点以上だった。副教科は美術以外、平均点を下回っていたが。
「わたしの予想した以上の出来でしたよ。わたしも、中間以上にばっちりでした。結果が楽しみです」
藍子はとても嬉しそうだった。
「ワタシも、今回はよく出来ました。五教科で、初めて四五〇点を超えられました」
晴恵も照れくさそうに、答案を見せに来た。
「おめでとう、ございます」
修は祝福の言葉を述べる。
「あたしも久しぶりに百点取れたよ、算数と国語で」
紗奈も、単元別テストを見せに来る。
「おめでとう、ございます」
再度、修から祝福の言葉。
「私がこんなに良い点取れたのも、修くんのおかげだよ」
「オサムっち、サンキュー」
数歩と絵梨佳が手を握り締めて来た。
「いや、僕の力では決して……二人とも頑張っていましたし、藍子さんや、満由実さんの指導の方が……」
修は照れくさそうに謙遜する。
「いえいえ、修先生が一緒だったことで、数歩さんや絵梨佳さんのやる気を引き出すことが出来たと思うので」
「そうよ修ちゃん。ワタクシだけの力では、絵梨ちゃんの成績を上げることは無理だったもの。絵梨ちゃんの成績アップに一番貢献したのは、修ちゃんよ」
藍子と満由実さんも謙遜した。
高校生の藍子も今日で期末試験を無事終えて、今からは、みんなで教室の大掃除。
掃除機をかけ、消しゴムのカスなどを取り除き、雑巾で机の上や窓を拭く。
そのあと期末試験終了記念に、みんなで今夜から神戸で始まるルミナリエを見に行くことになった。数雄はやはり参加を拒否。
JR元町駅の南側、旧居留地仲町通りから東遊園地にかけて、美しく光り輝くイルミネーション。
ここがルミナリエのメイン会場だ。みんなは順路を伝ってその中を通り抜けていく。
「僕は十数年振りに見に来ましたが、やっぱり、今でも相当混んでいますね」
「とってもきれいだけど、歩きにくーい」
「ここの人口密度、きっと昼間の渋谷以上ね」
「転ぶと大変。気をつけて歩かなきゃ」
「満員電車状態だな。コミケはもっと凄そうだけど」
修、紗奈、藍子、晴恵、絵梨佳は非常に窮屈そうにしていた。
「いつもの年より、ちょっと少ないかも」
「今年はマシだよね」
毎年見に行っている満由実さんと数歩は、混雑にも慣れているようだった。
「修お兄ちゃん、あたし迷子になっちゃうかもしれないから、手を繋いで」
「わっ、分かり、ました」
紗奈に頼まれると、修は緊張しながら引き受けてあげた。
「アタシとも繋ごうぜ、オサムっち」
絵梨佳からもう片方の手を握られる。
「あっ、あのう」
修のドキドキ感はさらに上昇した。
「あっ、ずるぅーい」
数歩は羨ましがる。
「これを見るたび、震災当時の神戸の姿を思い出すな」
メイン会場終着地、東遊園地内にある阪神淡路大震災慰霊と復興のモニュメントを眺め、満由実さんはしみじみと語り出した。
「あの当時、この辺り壊滅していましたね」
同じく経験者の修も思い出を巡らす。
「神戸のルミナリエは、震災犠牲者の鎮魂と、神戸の復興再生を願って始められたものだと、わたしは学校等で教わりました」
「震災のあった一九九五年一月十七日。アタシまだ生まれてないぜ」
「神戸だけじゃなく芦屋、西宮、伊丹、宝塚、明石、淡路島とかでも大きな被害が出たんだよね」
「あたしが五年生の時使ってた社会科の資料集に、潰れた阪急伊丹駅の写真が載ってたよ」
「ワタシもお母さんやお父さんから当時の話を何度も聞かされました」
塾生達は口々に呟く。
今の塾生達は全員、阪神・淡路大震災後に生まれた。震災直後の神戸の姿は、写真や映像でしか知らないのだ。
望月舎へ帰っていく途中、満由実さんはそんな塾生達に、当時の自分の体験を話してあげたのであった。
最終話 試用期間終了。なるか? 修くん学習塾講師正式採用
十二月二十四日、クリスマスイブ。塾生達が通う学校では今日が二学期終業式だ。
修は望月舎のクリスマス会に合わせて、夕方五時頃に望月宅へやって来た。
「いらっしゃい修くーん、これ見てーっ」
修が玄関先へ足を踏み入れると、サンタのコスプレをした数歩がすごい勢いで駆け寄ってくる。
さらに二学期の通知表を手渡し、
「数学、2から4に上がったの。理科も2から3だよ!」
満面の笑みを浮かべてとても嬉しそうに伝えた。
「おっ、おめでとうございます」
修は緊張気味に褒めてあげる。
他の塾生達と満由実さんも皆、サンタのコスプレをしていた。
「アタシも大体の科目、評価上がってたぜ。家庭科は3から2に下がったけどな。アイコンは、体育と保健と家庭科と書道と現社と古典と現国以外、全部10だぜ」
絵梨佳は自分のことのように喜ぶ。
「一学期より上がってとっても嬉しいです」
藍子は満面の笑みを浮かべていた。期末テスト学年順位も中間より上げて、七位だったのだ。
晴恵も紗奈も、通知表の評価が一学期よりは全体的に上がっていた。
「一昨日の三者面談でも、藍子ちゃんが通ってる高校、この調子で頑張れば合格間違いなしって言われたよ」
数歩は生き生きとした表情で修に伝えた。
「そっ、それは、よかったですね」
修もとても嬉しく思ったようだ。
「わたしとしても嬉しいです。後輩になるので」
藍子はにっこり微笑む。
「修ちゃんもこの二ヶ月間、教材作り、月謝の管理、この子達の学習指導と遊び相手、他いろいろよく頑張ってくれたね」
満由実さんに褒められ、
「いえいえおばさん、僕など全く。ご迷惑かけてばかりで」
修はいつも通り謙遜する。
「ふふふ。修ちゃん、たった今をもって、試用期間は終了よ」
「って、ことは…………」
満由実さんから唐突に告げられ、修の心拍数は急激に上がった。
「今からは、正式採用よ」
「……えっ、えええっ! いっ、いいんですか? 僕、何も、お役に立てていないのに」
あっさり告げられ、修はかなり驚いた。
「修ちゃんったら。この慎み深い性格も素敵ね。望月先生にもそっくり。別に良い結果を出せなくても、正式採用にするつもりだったの。修ちゃんはいつも真面目で、一生懸命で、正直者で、謙虚で、ワタクシが今まで出会ったことのないほど、本当にいい子だから。はいこれ、所得税とか雇用保険などの分が天引きされてるから本当にとても少ないけれど、修ちゃんがここへ来てから二ヶ月分のお給料よ」
満由実さんは修に、給与袋を手渡す。
「あっ、ありがとう、ございます」
修は深々とお辞儀してから、丁重に受け取った。
「中を見てみて。気になるでしょ?」
「はっ、はい。まあ、一応」
満由実さんに言われ、修は恐る恐る封を開け、お札を数えてみる。
中には、福沢諭吉の肖像が描かれたお札が一、二、三、四、五、六、七……十八枚も入っていた。つまり、一八万円だ。
これが、修が生まれて初めて手にしたお給料。
「ありがとう、ございます。こんなに、たくさん……ほとんど、働いて無いのに。僕には、じゅうぶん過ぎます。僕の、これまでの人生で最高の、クリスマスプレゼントです」
修は言葉を詰まらせながら、感謝の言葉を述べる。彼の目から、涙がぽろりと零れ落ちた。それだけ計り知れない喜びが押し寄せて来たのだ。
「修ちゃん、これからの時間給は倍にアップするわよ。さて、これから修ちゃんの学習塾講師正式就任記念祝賀クリスマスパーティを開催するわ。もう前々から計画してたの」
満由実さんはにこやかな表情で打ち明ける。
「修くん、正式採用おめでとう!」
「オサムっち、これからもご指導よろくしくな」
「修先生、正式採用おめでとうございます」
「霜鳥先生、引き続きよろしくお願いします」
「修お兄ちゃん、これからもずーっとあたしの先生でいてね」
塾生達も温かく祝福してくれた。
「みっ、みなさん、本当に、本当に、ありがとうございます」
修はやや驚いた様子でもう一度深々とお辞儀し、感謝の言葉を述べた。
「オサムっち、今日のクリスマスパーティ、アタシのママも来るぜ。アタシの成績上げてくれた、お礼がしたいからって」
「えっ……」
絵梨佳に突如伝えられ、修は少し戸惑った。見知らぬ人と会うのは、やはり未だに苦手なのだ。
「アタシのママ、パパの稼ぎが悪いからって半年くらい前からパートでウェブデザイナーのお仕事始めたんだけど、いつももう限界、辞めたいって嘆いてるよ」
「ウェブデザイナーは、女性に人気の職業といえども、かなりきつい仕事ですからね」
修は絵梨佳のママに同情を示した。修は長年の業界研究を通じて、この職業の実態をよく知っているのだ。
ダイニングテーブルの上には、シャンパンとクリスマスケーキはもちろんのこと、ローストチキン、ローストビーフ、スペアリブ、フルーツサラダ、きのこグラタン、スモークサーモンのマリネ、クラムチャウダーなどなど、クリスマスの定番料理がいっぱい並べられてあった。塾生達と満由実さんが、修のためにお昼前から準備に取り掛かってくれていたのだ。
ポインセチアのお花もたくさん飾られてあった。晴恵が持って来たらしい。
「数くんは、今日はお友達のおウチのパーティに呼ばれたんだって」
数歩は残念そうに伝える。
(そりゃまあ、そっちに行きたくなるだろうな)
修は数雄に深く同情出来た。
「マユミン、ママ、残業で少し遅くなるみたいだから、パーティ先に始めていいって言ってたよ」
「あの子がそう言うなら、始めちゃおっか」
満由実さんはケーキのローソクに火をともす。パーティの準備が整った。
「「「「「「「メリー・クリスマス!」」」」」」」
「メッ、メリー・クリスマス、でございます」
満由実さんがシャンパンを開け、その後みんなで祝いの言葉。修はワンテンポ遅れてしまった。
こうして、七人での賑やかなクリスマスパーティが始まる。
「オサムっちが火を消してーっ」
「ぼっ、僕が!?」
「そりゃそうだよ。修くんがパーティの主役なんだから」
数歩は強く勧める。
「でっ、では、お言葉に、甘えまして」
修は軽く息を吸い込み、ふぅと吹きかけた。
ケーキに立てられた七本の蝋燭。肺活量の少ない修は一発で全ての蝋燭の火を消すことは出来なかった。
もう一度吹いて、残った分を吹き消すことが出来ると、塾生達と満由実さんから盛大な拍手が送られた。
「あたし、サンタさんの部分が欲しいーっ!」
紗奈は、砂糖菓子で出来たサンタクロースを右手で掴み取った。
「アタシもーっ。カッシー、独り占めはダメだよ。首のとこでちょん切ってみんなで仲良く分けようぜ」
絵梨佳がこう提案すると、
「絵梨佳お姉ちゃん、サンタさんが生首になって怖いよぅ」
紗奈はむすーっとなる。
「私も欲しいなぁ」
「わたしもー。そこ、食べるのはもったいないけど、美味しいよね」
「ワタシも、食べたいです」
他の塾生三人も欲しがってしまったが、砂糖菓子のサンタは結局、一番年下の紗奈に全部譲ってあげた。
満由実さんはケーキを八等分ほぼ均等に切り分け、みんなのお皿によそってあげる。
こうして食事も開始。
「修お兄ちゃんはサンタさんにどんなプレゼントをお願いしたの?」
「えっと、特に、何もないなぁ」
「修お兄ちゃん、それはダメだよ。年一回のクリスマスなのにサンタさんが悲しむよ」
「カッシー、オサムっちは大人だからもうプレゼントはいらねえんだって」
「そうなの? 修お兄ちゃん」
「はい、樋口さんのおっしゃる通りです」
「それじゃ、修お兄ちゃんがサンタさんになって。赤い帽子と白髭つけてあげるぅ」
「あっ、あの、菓子さん」
「修くん、すごく似合ってるよ」
「修ちゃんサンタね」
「修先生サンタ、素敵です」
「霜鳥先生、さまになってますよ」
「めっちゃ似合ってるぜオサムっち」
「そっ、そうかな?」
「修お兄ちゃんサンタさん、お写真に収めとこうっと」
「菓子さん、それは、勘弁して欲しいな。恥ずかしいので」
みんなでクリスマス料理を味わいつつ、おしゃべりしながらパーティを楽しんでいる最中、
ピンポーン♪ と、チャイム音が鳴った。
「はーい」
満由実さんが玄関先へ向かい、応答する。
「こんばんはー、満由実姉ちゃん」
「あらぁ。いらっしゃい」
やって来たのは、三〇代後半くらいの女性。来ると言っていた絵梨佳のママであった。
「絵梨佳ぁ、イブの夜だけど、残念なお知らせがあるの。ママね、ウェブデザイナーのお仕事今日限りでクビになっちゃったよぅ。パート切り食らったよぅ」
そのお方はダイニングキッチンへ駆け寄ると、いきなり絵梨佳に抱きついた。
「マッ、ママ。パパの稼ぎもじゅうぶんあるでしょ」
絵梨佳は呆れ顔で慰めてあげる。
「絵梨佳さんのおば様、お久しぶりです。夏休み以来ですね」
「伊智子さん、こんばんはーっ」
「伊智子おばちゃん、お久しぶりだね。また老けた?」
「伊智子おばさん、ご無沙汰しています」
藍子、数歩、紗奈、晴恵はそのお方にご挨拶した。
「久しぶりーっ! みんなまた胸も含めて大きくなったね。サナっぺ一七〇超えた?」
伊智子さんも娘、絵梨佳以外の塾生達との再会を喜ぶ。
「修ちゃん、この子がワタクシと中高時代の三つ後輩の、いっちゃんよ」
満由実さんは伊智子さんを手で指し示し紹介する。
「あっ、どっ、どうも。はじめ、まして」
修は伊智子さんに向かってぺこりとお辞儀した。
「こちらが絵梨佳の成績をグゥーンと上げて下さった、新しい塾講師さんね。うち、絵梨佳のママの樋口伊智子と申します。『たけくらべ』の一葉さんと名前よく似てるでしょ。はじめまし…………あれ? きみ。どこかで、会ったような…………」
伊智子さんは修に顔を近づけ、じーっと見つめる。
「……こっ、このお方! よく見ると、僕が、ここへ連れてこられる前に受けた、会社の、面接官だった、人、なん、です、けど……」
修は声を震わせながら呟いた。
「あらまあ、二人とも知り合いだったのね」
満由実さんはにこにこ笑う。
「いや、知り合いでは、ないのですが……」
修はすぐに否定する。
「思い出したぁーっ! 面接でものすごーく頼りない発言してた、霜鳥さんだーっ」
伊智子さんは修を指差しながら叫ぶ。
「なんか、とても気まずい」
修はとっさに視線を床に向けた。
「絵梨佳がオサムっちって言ってたから、下の名前は、修なんだよね。霜鳥さん、いやもううちより年下だし、オサムンって愛称で呼んじゃおう。ねえ、オサムン。うち、きみが入室した瞬間に、不採用にしたろって決めたんよ。上司のミキテツも、長年面接官を担当して来たけど、ここまでパッと見で絶対雇いたくないなと思わせるようなタイプの人に出会ったのは初めてやってびっくり仰天してはったよ。面接の時うちの隣におった禿げのおっちゃんのことね。あのあと即効メールで送られて来たやろ? 不採用通知。そんなきみが、どういう経緯で満由実姉ちゃんがやってる学習塾の講師に? うち、めちゃめちゃ気になるねん」
「いや、その、話せば長くなるので……」
「ていうか、正式採用ってことは、就職先が決まったってことなんだよね?」
伊智子さんはローストチキンを齧りつつ、修に顔を近づけ早口調で次々と問い詰める。
「はっ、はい。僕、ここ望月舎の塾講師として、正式採用が決まりましたので……」
修は伊智子さんから目を逸らしながら答える。
「そっ、そんなぁー。あの時と立場逆転だよぅ。なんでなんでーっ?」
伊智子さんは肩をがっくり落とした。
「僕に、訊かれ、ましても……」
修は困惑する。
「あーっ、伊智子おばちゃん。お口と頬っぺたにソースがべっとり付いてるぅ」
紗奈はローストチキンを齧りながら、指差してくすくす笑う。
「ママ、アタシの方が食べるの上手だよ」
絵梨佳もにこにこ微笑んでいた。
「いっちゃん、紗奈ちゃんもお口の周り汚さないように、お行儀よくローストチキンを食べてるわよ。いっちゃん再来月には四〇になるんでしょ。もっと大人っぽくなりなさい」
満由実は優しく注意する。
「あぁーん、実年齢バラさないでよぅ。ねえ、満由実姉ちゃん、この子の内定取り消してえええええーっ」
伊智子さんは瞳を潤ませ、満由実さんの体を揺さぶりつつ、修の方も指差しながら懇願する。
「何言ってるのよ。ごめんなさいね修ちゃん。昔から我侭な子で」
「あいたぁーっ!」
満由実さんはにこにこ微笑みながら、泡だて器で伊智子さんの後頭部をカツーンッと叩いた。
「ママ、落ち着いて。ていうか、オサムっちと会ったことがあるんだね」
絵梨佳はやや驚き顔でなだめてあげる。
その様子を、他の塾生四人は微笑ましく眺めていた。
(まさか、あの時のおばさん面接官と、こんな再会の仕方をするとは思わなかったよ。ていうかあの会社、非正規のパート従業員に面接官をやらせていたのか)
修は苦笑した。
こうしてこのお方も交え、修の学習塾講師正式就任記念祝賀クリスマスパーティはさらに華やかに行われ、三〇分ほどで幕を閉じたのであった。
「修ちゃん、明日からは冬期講習がスタートよ。数歩の高校受験も近いし、しっかり指導してあげてね」
「はい!」
帰り際、満由実さんからの依頼を、修はとても嬉しそうに引き受ける。彼の目から、強いやる気が感じられた。
修の学習塾講師としての勤めは、これからが本格始動だ。
(おしまい)