goo blog サービス終了のお知らせ 

那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

写真に関する逸話

2012年09月14日 | 雑談
カテゴリーに迷い、禅、にしようかと思ったのですが、日記を掲示板からブログに最近変えたところ、結構真面目な話が多くなり時間を取るので、気楽な雑談にさせてもらいました。

私はこれまでに講師派遣関係の会社3社から講演依頼を受けました(売込みじゃないですよ)。そのうち2社は私のHP「ロータス人づくり企画」の下のほうにリンクを付けています。

大半が禅に関する講演なので、一つの会社のほうへの写真は、甚平姿でバーでウィスキーかバーボンのロックを飲んでほろ酔い姿ものを送りました。何の問題もありませんでした。

次に依頼があった会社にも同じ写真を添付したところ、窓口の青年が「上司が、これはまるで酒を飲んでいるように見えるから、違うのがないかと言っています」と連絡してきたので、「だからいいんだよ。禅で一定のレベルに心境が上がれば酒を飲もうが煙草を吸おうが、裸で逆立ちしようが、世間体に囚われず自由自在だから、わざとこの写真を送った。実際僕はネクタイを締めたことは50年の人生で30回もないよ」と言ったら賢そうな青年で「はい、どうにか説得します」と言って電話を切りました。数日後「申し訳ありません。私の力不足で説得できませんでした」というので、「いい、いい。バカな上司を持って大変だね。ご苦労様」と言ってその会社と縁を切りました。

なぜシュルレアリストが「労働は悪」と言ったのか分かりますよね。たった一度の人生をこの程度の上司にペコペコ頭をさげて費やし、星雲の志が消えるからです。3度目の会社は最近依頼があったのですが、これはなるべくサイズの大きいものを、という注文だったのでネットで自分の画像を探し、サイズの一番大きい別の写真を送りました。

大抵の組織は上に行くほど魂が腐っていますね。そういう所に40年も勤めると普通の人は価値観が崩れ拝金主義と自己保身だけになります。もっとも働かないと食べていけないのも現実。大学をネームバリューで選ぶのでなく尊敬できる教師で選ぶように、会社も賃金や待遇だけでなく故松下幸之助のような社長の人格で選べばこういう目には会わないで済むでしょう。あるいは自営業を選んで創業もいいですよ。いずれにしても初心を忘れないことですね。

生まれ子の 次第次第に知恵つきて 仏に遠くなるぞ悲しき




ひとこと豆知識

2012年09月07日 | 雑談
しかし、使いにくいですね。案の定、編集画面のフォントが9ぐらいなので、ブラウザ上で拡大して書き込んでいます。

この時期は昼間暑いけど、夜から朝にかけて一気に冷え込んだり、風邪を引きやすい季節です。それで豆知識を。

整体の先生に教わったのですが、一年中靴下を履いて、レッグウォーマーまでしておくといいとのこと。確かに以前は冷房をつけたまま寝たりすると朝起きたときにクシャミを連発していましたが、こうして寝るとそれがなくなりました。試してみてください。

なお、雑談は適度に削除していきますのでよろしくご了解下さい。
それにしても、カウンターが面白いですね。この前アクセスがゼロでしたが、その後は計ったように25程度です。mixiにコピペや、同じく色んなコミュニティなどに重要情報を流しているのだから、もっと増減があってしかるべきです。

色んな実験をして見ましょう。

公約の通りブログにしました

2012年09月07日 | 雑談
雑談は掲示板に書いて、まとまったエッセー類はブログで、と使い分ける予定でしたが、今のスケジュールだと、そんな時間的な余裕はありません。
 久々のブログ更新なので使い方を思い出せないのですが、瀬戸弘幸さんのようにmixiの日記と連携できるはずですから、手間が省けます。
今日はとりあえずテストをしていますが、書く方としてはやり辛いですね。画面のフォントが小さいので、大きくしても、編集画面だけは変わらないようです。本来私はブログは嫌いで、掲示板のほうが管理人と投稿者が同等に話し合えるという点で望ましいのですが、投稿がほとんどない状態なのでこっちに切り替えました。
 そうそうお奨めリンクを追加しました。

新しい機能も付いたようだし、いろいろ試してみますが、編集画面のフォントが大きくならないのなら、また掲示板に戻る可能性も高いです。



中村天風

2011年02月03日 | 雑談
中村天風が何時死ぬか分からない結核になり、世界中を巡って、当時の医学では治せないと分かり、日本に帰って死のうと帰国しかけたときに、ある行者と出会ってヒマラヤで修行をします。

それで、空の声を聞け、などなど、対機説法の果てに「なにが辛いんだ。生きているだけで幸せじゃないか」と言われ、悟ります。あとの業績は調べてください。皇族から東郷平八郎まで弟子になります。

で、逆に言えばこれは「生きていることの馬鹿らしさ」でもあるんです。これは同じことです。

四苦八苦と言いますね。生、老、病、死です。
 最初の苦痛は生まれてしまったことです。
物心付いて自我が芽生えるとき、なんて寂しい暗闇に放り出されたのか辛くて堪らなかった。だから赤ちゃんは泣くんです。

私は母におんぶしてもらったり、オムツを代えて貰ったとき、寂しくて寂しくて仕方なかった。

生まれてしまった苦痛。生きている喜び。
私の場合は前者のほうが強い。涅槃の中でゆっくりと休みたいものですね。

しかし、この悲しさに耐えて、菩薩行いたしましょう。生きている限りは。

阿佐ヶ谷ロフトA出演決定

2011年01月23日 | 雑談
阿佐ヶ谷ロフトAに出演決定
投稿者:那田尚史 投稿日:2011年 1月23日(日)17時39分25秒 返信・引用
以下のように載っています。http://www.loft-prj.co.jp/lofta/
知り合いの人、興味のある人、ぜひ遊びに来て下さい。なお、山崎氏のプロフィールは変更する可能性もあります。
______________________________


2.11(金)【DAYTIME】
建国記念日を考える~知る人ぞ知る、不思議おじさんのトンデモ授業~

【出演】
★那田尚史(「ロータス人づくり企画」主催)
評論家。早稲田大学第一文学部文芸科卒業後、同大学院修士課程修了。専攻は映像研究で、主な活動は実験映画、個人映画、小型映画に関する批評・研究。 2001年から早稲田大学や東京工芸大学非常勤講師を勤めた後、2009年度から大学教員を自主退職し「ロータス人づくり企画」を創設。

★鈴木正道(「微笑禅の会」代表)
1950年東京の片隅で誕生。
70年代に護身法、四度加行満行。
スカイヨーガマスターの認定を受ける。
愚妹にて記すほどの学歴無し。
法の一端を垣間見現在発狂の悟りに住す。

★山崎幹夫(映像作家)
1959 年東京都生まれ。1978年北海道大学入学、文化人類学専攻。82年映像通り魔を旗揚げし北海道を巡回上映。83年「海辺の記憶」PFF入選、84年「ゴーストタウンの朝」PFF入選、山本政志監督「ロビンソンの庭」脚本、94年初の劇場用映画「プ」公開。97年山形国際ドキュメンタリー映画祭で「虚港」が特別賞を受賞。2009年度まで早稲田大学第二文学部で講師として学生に映画製作について教授。現在、下北沢のラ・カメラを拠点に、映像作家の山田勇男氏らとともに8ミリ作品を中心に上映活動中。

▼詳細

CLOSE▼
建国記念日にちなんで、日本人の起源から、近代の日清、日露戦争や日韓併合、
第二次世界大戦で一体、日本人は正しいことをしたのか、それとも悪いことをしたのか???

現在マスコミで話題になっている領土問題等々を踏まえて、映画、宗教、歴史のスペシャリストたちが熱く語ります。

今の大学の授業では知りえないトンデモ授業です。
トークディスカッションもやります!
どんどん質問してね。

自然薯掘りの秘訣

2011年01月09日 | 雑談
自然薯掘りの秘訣


私は大学院修了後、10年ほど故郷愛媛で暮らした。
重いアルコール性肝炎と第七頚骨ヘルニアに罹り、静養生活を余儀なくされたのだが、その間に堤防釣りや山菜採集に熱中した。
 簡単に「熱中」という言葉を使っているが、私は少し異常なところがあり、例えば釣りなら釣りで、台風、大風の日以外は「毎日」堤防に「何年」も通う、という癖がある。今日は家にいよう、と決心して眠っていても、夢の中で釣りをして当たりがあり引き上げる、その感触に自分で驚き(実際に釣り上げる動作をしている)、眼が覚めて夜中から車を飛ばして海に向かう、といった具合で、何事にでも極めるまで熱中する癖があるのだ。

ここでは自然薯掘りのコツを記録するが、私の山菜採集は、ヨモギ、フキ、ノビル、ヨメナ、ワラビ、イタドリ、ユキノシタ、セリ、クレソン、ツクシ、クサギ(故郷ではクジュナという)、フキノトウ、タラの芽、そして自然薯の体験がある。
 ヨモギなどと馬鹿にしてはいけない。これは天然のハーブであり、若菜を摘んでヨモギ餅にして食べると最高の香がする。さらに薬草でもある。私は時々、味噌汁にヨモギを入れて飲んだが、確かにアクが強いものの、体調が良くなり、便がウソみたいにスルッと排泄される。便秘の人はぜひ試して欲しい。こんな素晴らしいものが自然にあるというのはなんて素敵な恵なのだろうと思う。(実際に採集してみれば分かるが、いいヨモギを見つけるのは難しい。ヨモギは山地には生えず、田畑の周辺に多く繁茂する。しかし除草剤のせいで最近は見かけなくなった。アスファルトの隙間から立派なヨモギが生えていることがよくあるが、そういうものは全く香がしない。たかがヨモギとはいえ、いいものを見つけるのは結構難しい)
 またノビルは私の大好物で、なんであんなに美味しい野菜を八百屋で売っていないのか不思議で仕方ない。東京では根の部分に味噌をつけて生で食べるようだが、これは塩漬けで食べるのが最高に美味しい。お茶漬けにしたら何杯でもご飯が食べれるし、酒のツマミにも最適だ。また、葱の代わりにウドンの具にして食べると、葱よりずっと香が強く、絶品になる。
 フキもそうだ。愛媛のフキは日本一、と聞いたことがある。私はフキノトウを採取したついでに、見事なフキの株を一つ掘り起こして自宅の庭に移植したところ、数年のうちに庭中フキだらけになり、毎年香の強いフキを頂いたものだ。

さて、自然薯掘りのコツである。
まず、「斜面を狙う」ことである。平野部の山林での自然薯掘りは、垂直に掘らねばならないのでかなりの肉体労働になる上に、特殊なスコップ(筒状の部分の長いもの)が必要だ。
 その点、山林の斜面を掘れば労力は遥かに軽くなる。
私の故郷は山岳地帯なので、片側に谷がある雑木林を狙った。杉や桧の植林された山には自然薯はない。雑木林や、道路沿いの崖などを狙うのである。

自然薯の大きさは、葉っぱの生い茂り方に比例している。自然薯は蔓草で、特徴のあるハート形を尖がらせたような葉っぱをつけている。秋になると黄色く紅葉するのですぐに分かる。それで、多くの人は、その時期に葉っぱを手繰り、その付け根にある茎に目印を置く。飲料水の空きカンを置く人もいれば、割り箸を突き刺す人もいる。
 私はそうしなかった。そんなことをすれば、「ここに自然薯がありますよ」と教えるのと同じである。私は秋のうちに大きな自然薯の蔓草が生い茂るところを覚えておいて、冬になり蔓草が枯れたごろに山に入り、枯れた蔓(つる)の色合いで見定めた。自然薯の蔓は「マムシ色」をしている。つまり、黒っぽい枯葉色の上に小豆色の斑点が散らばっているのだ。このような蔓は他に無いので、慣れてくるとすぐ分かる。

そこで掘り出すのだが、私は山菜採集で山道を歩いていたときに、特殊な「掘り具」を拾ったので、それ一本で済ませた。その道具は特注したものらしく、鋼鉄製の40センチほどの長さで、先端はナイフのような形になっている。これは実に便利だった。
 自然薯というのは意外なことに荒れた土地に生える。表面は小石で、掘ると砂の混じった赤土や黒土に変わって行く。

商売用の自然薯は「絶対に折ってはいけない」ことはご存知だろう。途中で折れてしまえば二束三文になる。私の故郷の僻地ですら、折れていなければ一本3千円以上はする。
しかし、自分で食べる場合には、途中で折れてもいい。むしろ折れると自然薯の白い中身が目だって掘りやすくなるぐらいである。
 大きさも気にすることは無い。私は小さなものは親指程度のものに当たったことがあるが、塵も積もれば山となる、である。10センチ20センチ程度のものを数多く掘りまくることだ。
(私の故郷のある地域で、なんと28キロの自然薯が採れて、新聞に載ったことがある。その場所は、道路の片側が小川で、その川を渡った向こうに捨てられた雑木林の山がある、という地形だった。川には橋が架かっていないのでこういう大物が採れたのだろう)

そういう具合にして、私は軍手とナイフだけを用意して、車で山道を走り自然薯を採取した。まる3年の間、秋から冬になると車を走らせて、大げさに言えば、故郷の車で行ける範囲の自然薯を全部掘ってしまった。
 ここで注意。自然薯はあんな姿をしているが、実に腐るのが早いのである。3日も放って置けばもうダメになっている。それを知らなかったために、私はかなりの獲物を腐らせてしまった。なるべく早く調理することをお薦めする。

蛇足だが、自然薯の食べ方を簡単に解説する。皮をむいてオロシガネで擦る。すり鉢に一定量が溜まったらカツオダシを入れるのだが、ここで注意。絶対に熱いダシを入れてはいけない。自然薯は所詮イモだから、熱いダシに触れると焼き芋のように固まってしまい台無しになるのだ。充分にダシを冷ませて、冷たくなってから、少しずつ入れる。二人でやるのが良いだろう。一人がダシを入れて、一人がスリコギで混ぜていく。さらにそこに生卵を加える。それでまだ味が薄いようなら、ダシか醤油を加えて調節する。ある瞬間に抜群に風味が出てくるので、何度も味見して工夫することである。

以上で自然薯掘りのコツは終わった。最後にマナーを。
まず、自然薯掘りは全て「泥棒」だということを自覚すること。山林は全て誰かの持ち物であり、その人に隠れて山の幸を「盗む」のだから、これははっきりいって泥棒である。海や川には持ち主はいないから堂々と魚釣りを楽しめばいいのだが、全ての土地には所有者がいる。あるいは町の共有林だったり国有林だったりする。
 そういう意味では、余りお薦めできない趣味ではある。私は自然薯を掘っているときは、いつも「持ち主が現れたらどうしよう」と不安で仕方なかった。だから、せめて掘り残した後の穴ぐらいは丁寧に埋め戻しておこう。
 それから、他人の家に行ってご馳走になるときに、自然薯と刺身だけは「遠慮して食べる」のがマナーである。
 私の故郷には11月の終わりに祭りがあり、その際に自然薯粥とハマチの刺身が出るのが定番になっている。一番美味しいのがこの二品なのだから、後から来る客のために、遠慮していただくのがマナーである。
 私が高校のときに、友人の家にお呼ばれしたことがある。そこで出た自然薯粥を、私の、少し頭の悪い連れ合いが、「美味い、美味い」と言って、何度も自分でおかわりして全部食べてしまった。私は見ていて、なんて下品な男だ、とウンザリした。またその自然薯を自ら掘ってきた友人は、カンカンになって怒り、「もうお前は来るな」と言い捨てた。
 私は「チビまるこちゃん」に出てくる大食いの小杉を見ていても腹が立つ。また、私は二匹の猫を飼っているが、そのうちの一匹はオヤツ好きで、私が晩酌に笹かまなどを食べていると、私の膝の上に乗ってニャンニャン鳴いてツマミを欲しがる。やっても膝の上から離れず、次の一切れを欲しがる。もう一匹は近くに座っていて、私が笹かまを千切ってやると食べるが、食べたら元の場所に帰り、静かに待っている。それで私は前者の猫を「乞食」と呼び、後者の猫を「貴族」と呼んでいる。
 稲垣足穂は「男はオカズに文句を言うな」と記している。「武士は食わねど高楊枝」という諺もある。美味しいものはホドホドに、というのが人間の気品というものだろう。

では、田舎に住んでいる皆さん。自然薯掘りという「泥棒」を楽しんでください。くれぐれもバレないように。それから、雑木林にはマムシがいますから咬まれないよう気をつけてくださいね。







自動車事故教習所を作ってみたら

2010年12月23日 | 雑談
私は凝り性だ。何かに懲りだすと、最低3ヶ月、大抵は3年間夢中になる。
山菜採集も、釣りも、日曜大工も、3年間は熱病患者のように集中した。
 
自動車の運転もそうだ。免許を取って、最初の一年間は「毎日100キロ走る」ことを実践した。
だから、愛媛県の西南部では、大げさに言えば、「走らなかった道はない」といっていいほど走りまくった。遠くの町のブラインドカーブの角度まで全て覚えていたものである。

ところで、自動車教習所では、法定速度をきちんと守り、絶対に事故が起こらない状況で実技運転をする。だが、実際の道路に出てみると、法定速度で走っていたら、あおられ、追い抜かれ、逆に危険だ。教習所で習っていない状況に晒されるのである。「ウソ、そんなことあり?」と悲鳴を上げる現場ばかりなのである。

だから、私は最初の愛車は「車検2年付き、20万円」のスプリンターを買って、最初の3年間は徹底的に危険な運転を試した。例えば、山岳地帯で、ガードレールの外は谷底の道で、「どこまで左に寄ったらガードレールにぶつかるか」を何度も試した。
 狭い道で対向車と出会い離合するときに、どこまで左に寄ればガードレールにぶつかるか、などという訓練は、教習所では教えない。だから、私は、ガードレールを擦っては離れ、擦っては離れる練習をつんで、車体の左側面の車幅感覚を鍛えたのだ。なかなか擦れないものだ。勇気が必要だよ。
 そうだ。小学校のグランドに女房を立たせて、手を横に伸ばさせ、その手の先にフェンダーミラーを擦らせる、という練習も繰り返し行った。
 自分の身体の延長として車が運転できるようになるための訓練である。

あと、きついカーブの連続する山岳地帯を「左手一本で運転する」練習にも熱中した。これは突然右手が使えなくなったときのための練習である。また、右でも左でも自在に車を動かせるようにするための訓練でもあった。
 おかげで愛媛県の小京都と言われる「内子町」の路地を走るときに大いに役立った。内子の路地は非常に狭く、おまけに車や自転車や人でごった返しているのだ。そういう狭隘な道を右に左にハンドルを切って走る抜けるには、両手で運転するよりも、むしろハンドルの真上を片手で握って走るほうが、とっさの対応に対処できる。ついでにギアはセカンドに入れておくのがいい。急ブレーキや急アクセルが利きやすいからだ。所謂、ドラバビリティーが高くなるんだね。同乗した親戚のおばちゃんが、「お前、運転うまいね。うちの息子はこの道は怖くて入らないよ」と言ってくれたときは嬉しかった。

さて、頭の中で四角い枠組みをイメージして欲しい。その枠組みの中に丸い円がある。その丸い円は四角い枠に接していない。四角い枠の線の上は、事故死に出会う可能性の高い線である。
 丸い円の外と四角い枠組みの間が、危険ゾーンで、丸い枠組みが安全ゾーンだ。自動車教習所では、この丸い円の中だけの運転しか教えていないんだね。だから、丸い円の外側のグレーゾーンを教える「自動車事故教習所」を作るべきだと思っているんだよ。

例えば、ガードレールを擦る練習。それから、オカマを掘る練習。どれぐらいの車間距離をとっていないと危険か、これで教えるわけだ。それから壁に激突する練習。何キロで激突すればどれぐらいの衝撃が襲ってくるのか、体で覚えさせるわけ。
 それから、あえて危険な状況を作ってわざと事故を体験させる練習。例えば「サンキュウ事故」のシチュエーションを生徒には秘密で作っておく。まず100%事故を起こすだろう。そういうありとあらゆる危険な設定を体感させてやれば、普通の教習所を出た人間より、何倍も「安全運転」が身に付くに違いない。
 冗談じゃないんだよ。本気でそういう「自動車事故教習所」があったら、どれだけ事故の数が減ることだろうと思ってる。

こんな発想を抱いたのは、私が実験映画ファンだから、ということと大いに関係している。
実験映画というのは、普通の撮影マニュアルや編集方法からみたら、「事故」みたいなNGカットをいかに修辞法の一つとして応用するか、という世界なんだ。
 例えば、普通は適正露出を決めて、被写体をラチチュードの幅の間において明暗のグラデーションを生み出す。でも実験映画だと、わざと露出オーバーにしたりアンダーにして、目に「交通事故」を味あわせる。
 パンニングだってそうだね。ある一定の速さを超えると人間の目にはチカチカして不快なんだが、実験映像作家はわざとスラッシュパンを多用して、「スピード違反」を繰り返すからね。
 安全な丸い円の外側にあるグレーゾーンの中に表現の可能性を見つけるのが実験映画だ。
自動車事故教習所も同じだね。交通事故ゾーンぎりぎりの運転を知っている運転者は、普通の運転者より遥かにテクニシャンだ。実験映像作家もテクニシャンが揃っているからね

それにしても、日本の交通死亡事故を「一発で半分に減らす方法」があるのに、政府はなぜかそれをやらない。ご存知かな?
 簡単ですよ。「100キロ以上のスピードが出ないようにリミッターをつける」。これだけで死亡事故は半分以上減ります。
 みんなそれを分かっているのに、なぜか実行しない。噂では、政権与党が自動車産業から莫大な寄付をもらっているかららしい。また一説には、「事故回避」のために100キロ以上のスピードがでるように車を作っている、という自動車産業の主張に沿っている、と言われているが、こんなのは嘘っぱちだよ。私は以前毎日のように中央高速を走っていたが、ブレーキを踏んで事故を回避する場面はあっても、アクセルを踏んで事故を回避する場面なんて絶対にないからね。万一あるとすれば、元々スピードオーバーで二台の車が走りあっている時だ。

父の思い出

2010年12月21日 | 雑談
明治元年、紀州和歌山から有馬福三郎(もとは八三郎との説あり)という武士が愛媛県と高知県の県境に妻子を連れて逃げてきた。戊辰戦争において戦略上の諍いから命を狙われ、四国の寺寺を転々と飛び石伝いに渡り、現在の愛媛県東宇和郡野村町惣川小松、という地に居を構えた。寺寺を伝わってやってきたということは、そこは寺社奉行の管轄だから役人が手が出せないことを意味する。明治維新の激動の時代にはそういう危急の事態があちこちでおこったのだろう。ちなみに有馬は森家の長男だったが事情があって有馬家の養子となった。森家は南朝の後村上天皇に使えた地頭(守護大名)で、本能寺の変を起こした明智光秀の最期の書簡を有しており(無敵の鉄砲隊雑賀衆を貸してくれというもの)、徳川家康の小牧の戦いの36人衆に名を連ね、江戸時代になってからは代官を勤めた。これは全て海南市が発行している歴史書の中に記されており、私はそのコピーを手元に持っている。徳川御三家の旗本などと言うものは、勝小吉の手記を読めばわかるが、酒と武道と博打が仕事だったといって過言ではない。
ともかく、有馬は妻と娘を連れていた。娘の名前をお梅という。

福三郎は学問も才覚もあったために地元の有力者に気に入られ、今で言う行政書士のような仕事に就いた。平民に苗字がついたのが明治3年だから、当時有馬という姓を名乗るだけで珍しい存在だった。地元の郷土史を読むと、当時姓を持っていたのは庄屋と神官ら5名のみで、有馬福三郎の記述は漏れている。
 また、それが紀州武士(旗本)の癖というものだろう、夜になると自宅を博打場にして地元の人間相手にさいころ賭博をしていたらしい。役人に見つからないように、福三郎の妻は庭の生垣に糸を張り巡らせて、その端を片手でつまんで、糸がピンと張られると、役人が来た、と告げるのである。すると、福三郎はさいころと壷を家の前の川に放り投げ、突然演説をし始める。まるで地元民を前に学問の講義している振りをしてごまかした、という逸話が残っている。不思議な話ではない。江戸時代の公家たちも賭場を開いてそれを副業としていたものだ。それに加えて、旧幕臣にとって明治の役人は敵である。新参の役人が、何を生意気に、という反発もあったのだろう。勘の鋭い人だったので、博打がばれたことは一度もなく、昼間は名士として村で尊敬されていた。
 いかさまをやっていたのかどうか知らないが、福三郎は非常に博打が強く、ある意味伝説的な人物となった。彼の墓石は博打好きの人々によって削り取られ縁が丸くなっているのを私は実際に見ている。

娘お梅は長じて、山本覚治という男と結婚した。不思議なことに、有馬と山本とが結婚して「那田」という姓を名乗ることになった。その理由について私はかなり調べたが未だに謎である。

お梅は4人の男の子を産んだ。その3番目が私の父親、那田和三郎である。父は兄弟の中で飛びぬけて頭が良かったらしい。当時、「人買い」という者が存在しており、その人買いがやってきて、この子は神童だ、ぜひ売って欲しいとせがんだという。

夫は何でも妻に従う鷹揚な人柄で金には無頓着の人だったらしいが、お梅は一頭の牛を飼い、それを徐々に増やして財を成し、4人の子供全てに家と山を与えてしすえた。他の兄弟は主に農民になったが、父親は教員になることを目指して、高知の旧制中学に進んだ。当時、校長になるには師範学校出身者でなければいけなかったが、もう一つの稀な方法として、検定試験制度というのがあった。学費が足りなかった父は後者を選び、八度連続して合格した。最後まで合格して残ったのは愛媛県で3人だけだったという。

父は30そこそこで小学校校長となった。
 初めて校長として赴任するとき、学校への行き道を通りすがりの老人に尋ねた。学校にたどり着くと、その老人がいて「さっきの坊よ、何しにきた」と声をかけた。老人は学校の用務員であった。それほど若くして校長になった。
 父は毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に登校するので、村人は父が家の前を通る時間に合わせて時計の針を合わせたらしい。これと同じ話はカントの自伝にでてくるが、私はある農婦から直接聞いたので嘘ではない。
 また、こんな逸話も残っている。父が登校したとき、背広の襟元から値段の付いたタグが飛び出ていた。そこで女教師がそのことを告げて切り取ろうとすると、「わざと出しているんだから、切らずにいてくれ」と言った。実は、その背広は非常な安物で、ひらの教師たちは大概父より10倍も高い背広を着ていた。そこで父が安物をこれ見よがしに着て見せるものだから、校長より高い背広は着れない、ということで校内の華美な風潮が治まった、という。
 また、あるとき大きな地震があった。父以外の家中の者は驚いて家の外に飛び出し、地震が収まったのを見て戻ってくると、父は笑いながら「外に出たら揺れない場所があったか?」と尋ねたという。父は胆力の座ったユーモリストであった。

父は大病に何度もかかった。一度は胃潰瘍で、洗面器一杯の血を吐いた。しかし医者にいかず、というよりも非常な山岳地帯であったため、近くに医者がなかったのだが、絶食療法を選んで自力で潰瘍を治した。
 また肺水腫にも罹った。これは自然呼吸が出来なくなる難病だが、これも何日も眠らず自力呼吸することで医者にかからず治した。
 父は、のちに私に「多少の病気は腹式呼吸をすれば治る」と教えた。

このころ、一人の乞食坊主が家を訪ねてきた。家人が嫌がるにもかかわらず、父は家に上げ、風呂に入れて食事をもてなし、一晩泊まらせている。これは父の最初の妻の日記に書かれている事実である。父は、このお坊さんは立派な人だから丁寧に扱うように、と妻に告げた。私の推測ではその乞食坊主は、四国を旅していた山頭火ではないか、と思うのだが、確証はない。

父は小学校校長を務めた後、農協長、村会議長、収入役、助役など、町の要職は全て勤めた。村議立候補は自ら望んだことでなく、村民の要請に答えたものだった。父は一円も使わず、全て村民が手弁当でトップ当選した。現在は対抗馬がなくても飲み食いのために、町議レベルで2000万はかかるらしい。父の理想的な選挙の様子は神代の昔の物語のようで、なるほど明治の人はそういう気風であったから、世界中から日本人は尊敬されていたのだろう。

第二次大戦のときは「大尉相当官」として村民に軍事訓話をし、敗戦後も父親はしばらく陸軍の軍服を着ることを好んだ。明治生まれの人間らしく父は天皇を敬愛していた。「小豆色の車に乗った陛下の姿が見えると、思わず涙がこぼれるのが日本人だ」と言っていた。が、私は面白い父の文章を読んだことがある。父が70代に退職公務員用の文集に書いた文章だ。父が天皇を当地にお迎えしたときの思い出話をしているのだが、夏目漱石のような簡潔な文体で、父の目の前を天皇が通り過ぎるとき、一発放屁された、と書いているのである。この辺り、父はやはりユーモリストであって、盲目的なロイヤリストとは一線を画している。

戦後は楽隠居の身分で、同じく再婚の母と結ばれ、私が生まれた。このとき父親は63歳である。私が生まれる前後に二人流産している。私と違って精は強かったようだ。

母は事業家肌で、戦後は料亭と芸者置屋を経営し相当に儲けていたが、私の将来の教育のためにならないと父親が意見して、一時期質屋を営んだのちに、衣料店に落ち着いた。
 父は資金を出しただけで経営には一切タッチしなかったが、母が不在のときに留守番ぐらいはした。たまたまそのときに客が来た。客の女性は上着を欲しがった。ところが父親は「その上着はまだまだ着られます。着られなくなってから買えばいいのでは」と言って、その女を追い返してしまった。嘘ではない。母はその客から事実を聞かされて、ものすごい剣幕で父親をなじった。全く商売には向かない人間であった。

私は完全な父親っ子で、子供のころから、なんと、高校2年生まで父の布団に一緒に寝ていた。小学生のころ、私は寝物語に、俳句や短歌の作り方を父から習ったものである。
 小学4年のとき盲腸で一週間余り学校を休んだとき、学習の遅れたぶんを父親が教えてくれた。その指導法は独特のもので、学校で習っていた方法と全く違っていた。数字で計算するところを図形を使って理解するやりかたで、父に習うと難しい内容がゲームのように楽しくなるのである。久々に学校に行くとちょうどテストだったが私一人だけが満点を取ることが出来た。教師が、「習ってないところなのによく解けたね」と褒めてくれた。私は誇らしく、父が教えてくれたことを告げた。
 高校1、2年のころ喫煙が父にばれたとき、「そういえばどうも最近一緒に寝ているとタバコ臭いと思っていた」と言われた記憶がある。そんな不良高校生になってまで父親と寝ていたのである。それほど父が好きだった。
 高校時代の私は勉強は出来るが問題児童であり、教師をつるし上げてその教師を登校拒否にしたことがあるぐらいの、教員にとっては実に扱いにくいワルだった。当時、私の通っていた高校では、男子生徒は後ろの髪の毛を制服のカラー以上に伸ばしてはいけない、という規則があった。私は教員たちに「生徒は自分の肉体まで教員に預けているのではない。他人の髪の毛を切る権利など教員にはない。お前らは勉強だけ教えておけばいい」と言い放って問題になった。担任が困り果て、自宅に訪れて父親に私の言動を伝えたところ、父は「それは息子の言い分が正しい」と答えた。教員は二の句が継げなかったという。この逸話は、父が死んでから母から聞いた。そんな父親だったから、私は高校二年まで父の布団で寝たのである。

私は文学者になりたかったが、人間の資質を見抜くスペシャリストである父は、しばしば「お前は弁護士に向いているから、法学部を受けなさい」とアドバイスした。当時は馬耳東風で気にも留めなかったものの、さすがに父は良く見ていたものだと、後々分かった。私は普段理屈を言うのはキライだが、言い出すと鬼のようなところがあり、ギリギリと錐で揉みこむような議論が好きだ。もしそちらのほうへ進んでいたら名弁護士になっていたに違いない。

私が早稲田大学一年生の夏、父は83歳で大往生を遂げた。日蓮の遺文に成仏の相として「色白く、身は鳥の羽毛のように軽く、柔らかになる」とあるが、まさに父は成仏の相だった。顔は上品に白く、死後2日立っても手足は柔らかく動き、大柄の人間だったにもかかわらず、四人で遺体の入った棺桶を持ち上げるとふわっと頭の上まで持ち上がった。まるで超常現象のようだった。
 火葬場で骨を拾うときに、喉仏が綺麗に残り、その姿がまるで僧が合掌している姿に見え(だから喉仏というのだが)、参列者全員も思わず合掌した。おんぼやき(火葬場職員)も、こんな綺麗な骨は見たことがありません、と褒めてくれた。もっともオンボヤキというものは誰に対してでも骨を褒めるのが仕事である。それにしても美しい喉仏だった。

どう思い出しても、私は父親が胡坐をかいているのを見たことがなかった。常に古武士らしいたたずまいで正座していた。80を過ぎて膝を悪くした後も、一人椅子に座って背筋をまっすぐに伸ばしている姿しか記憶にない。母に聞いたところ、母も父が胡坐をかいている姿は見たことがないという。20年の結婚生活の間に一度も胡坐をかかなかったというのは、かなり異常なことである。武士の娘に育てられた明治男の、それが美学というものなのだろうか。この逸話ひとつだけでも父の異様な、しかし自然体の気迫というものが伺われる。

時々母と死んだ父の話をする。私は幽霊でもいいから父と再会したいと思うのだが、夢にさえ出てこない。母の夢にも出ないという。一生を自分の意思のままに生きた父のような人間は、もうこの世に未練はないのであろう。
 もし霊というものがあるとすれば、父は今の私をどう思っているだろう。不甲斐ない息子と思っているだろうか。笑って許してくれるだろうか。それがいつも気にかかる。仏教では輪廻転生を説く。私がもう一度生まれ変わるとしたら、私は同じ父母の元に生まれたい。そして今度は高校2年生でやめず、父が亡くなるまで一生父の布団で一緒に眠りたいと思う。


パイプ煙草の勧め

2010年11月16日 | 雑談
煙草の路上喫煙を禁止して、その上に値上げしたバカ政府。ま、それはともかく、愛煙家にとって煙草代は痛い。
そこで微笑禅の会理事長の鈴木正道さんが、いいことを教えてくれた。


別に専用のパイプ用の葉っぱを買わなくても、シケモクをほぐして、好きな香りをつけ(タッパーに入れてミカンの皮でも入れておく)オリジナルの葉っぱを作ればいいんです。
 この前逢ったときに、このコーンパイプだと20分しかもたないんだよね、と言ったら
鈴木さんが「それで20分持ったら上等ですよ。キャパが小さいから。もっと大きなのなら1時間は軽く持ちます」とブローの仕方を教えてくれました。禅の呼吸方法の逆だから苦労したけど、さっそく今日届いたパイプで試したら45分は持ちました。安いのを買ったからまだ容量は小さいです。鈴木理事長は何でも知っていて頼れる兄貴です。

注釈:禅の呼吸法はスッと短く息を吸って丹田に溜め、なるべく長く細い息を吐く(僕は密息が出来るので一時間でも二時間でも息が止まった状態になれます)。パイプは逆。スっと短く吐いて、ユックリと吸う。吐くのが8で、吸うのが2ぐらいの割合かな。だからパイプの場合「くゆらせる」というんです。

今日届いたパイプと備品の写真を載せておきますね。

偉いぞ、後輩

2010年11月04日 | 雑談
僕はテレビは「間抜け箱」と名づけてメッタに見ないが、天気予報とニュースは見る。

なんとハンカチ王子が連投して早稲田の優勝。ハンカチ王子のスピーチの立派なこと。頭が下がります。今、少しずつ維新が進んでいますが、こういう若者が残っているから大丈夫。久しぶりに嬉し泣きしました。

酒は百薬の長

2010年11月01日 | 雑談
ああ疲れる。結局本気で飲みだしたのは午後8時。

とにかく動き回ってパソコンしまくって、熱中するから、あ、ヤバイ、酒でも飲もうと思ったら8時。
異常な集中力、稽古オタクなんだよね。

以前雇っていたバイトの子が、タイマーを買ってきて一時間おきになるようにすればいいですよ、というので買ったが、
聞こえない。または煩いのでストップボタンを押して仕事を続けてしまう。

で、一杯飲むと脱力するわけです。黒糖焼酎のおかげでイイカゲンなバカになる。酒こそ私にとっては最も効能のいい薬です。

エスパーは存在します

2010年01月09日 | 雑談
私は超能力者を二人知っている。

一人は新宿のホームレス占い師。
もう一人は立川南口で出会った路上販売の青年。

青年の話からしよう。


立川家裁は多摩モノレールでJR立川駅から一駅の高松という場所にあるので、私は立川に戻ってきた。

すると、南口に20~30人の人だかりが出来ていた。
見ると、20歳ぐらいの青年が沢山の色紙を並べ、「私はインスピレーションだけで、あなたに重要なアドバイスをします」と書いた紙を目の前に置いている。

私は色紙の文字と絵を見て、青年の顔を見て、只者ではない、と分かったので、千円を出して「やってくれる?」というと、青年は私の名前を書いてくれと紙を渡したから、それに「尚史」と書くと、「僕の目を見てください」とだけ言った。

仏様だな、と思った。水晶のように澄んでいて、全く濁りがない。私は思わず彼の顔を見て微笑した。

そしてスラスラと書いてくれたのがこの色紙だ。

私は大勢の観客に向かって「凄い、100%当たってる。でもね、僕は君が当てることが先に分かっていたんだよ」と言って、その場を立ち去り、缶チュウハイを飲みながら立川から八王子までの電車に乗った。

皆さんは、信じられるかな?

便秘の話 時にはやわらかい(硬いかも)話をしよう

2010年01月07日 | 雑談
私は便秘をしたことがない。

私は母が35(大正9年生まれ)、父が63(明治7年生まれ)で、両親とも再婚して生まれた一人っ子で、特に父親は先妻が病弱で子供がいなかったので、63にして初めて生まれた子供だから、溺愛されて育った。

ちなみに私が生まれる前後に流産している。父よ、あなたは強かった!!!

で、母がおかずを5品も6品も作り、食べろ食べろ、と言って皿を押し付けてくるから、なんというのか逆切れして小食になった。

私が好きなのは、お茶漬けと梅干、塩さばかメザシ、後は味噌汁。好物はパセリで
ご飯にパセリを載せて少し醤油をかけてお茶漬けで食べるのが好きだった。

高校になっても運動部に所属していたのに、しかもバスケも1年やり、私の高校のバスケ部は最も練習がきついので有名だったが、夜ご飯も基本的にはご飯一膳だけで、オカワリなどまずしたことがない。

修学旅行のときに、他の男たちがどんぶり飯を3回ぐらいはオカワリするのを見て、こいつらはキチガイか、と驚いたほどである。

で、便秘の経験など一度もなかったのだが、40代の半ばから、つまり八王寺に住まいを買って八王子の住人になるようになって、子供たちが焼肉が好きなのでたまに焼肉を食べると、決まって便秘をするようになった。

これはつらい。糞詰まりになって苦しいので、トイレットペーパーで肛門を探ってみたら直径3センチぐらいの石のような糞が肛門から半分ぐらい出ている。それをトイレットペーパーでつまみ出す、という行為を繰り返さねばならない。

だから、私はそれ以来、一切焼肉は食べないようにしている。あ、これは牛肉のことで、鳥やラム、豚肉などを食べてもそういう症状にはなりません。

ところが、また最近便秘になった。
物凄いストレスの中で、掃除から本人訴訟までなにもかも一人でやらざるを得なくなり、当然ご飯が食べれなくなった。

今でも基本的にはそうだが、私は朝、冷たい緑茶と牛乳を飲み、一気に5~6時間働いて、気づくと5時ぐらいになっているので、もう仕事は止め、と言って晩酌になる。飲むとリラックスして腹が減るので、蒲鉾や梅干や豆腐といった軽いツマミを食べ、せいぜい好物の「ペヤングソース焼きそば」を食べて寝る。

ところが、これほど水分ばかり摂って、固形物をほとんど食べていないのに、逆に強烈な便秘になってしまった。

便意を催すのに肛門が痛むだけで排便できない。痛くて仕方ないから中指を肛門に入れるとまさに石のような糞が詰まっている。それを無理やりかき出す。まだ詰まっている、またかき出す。その痛みたるや、実際血が出たこともあるが、それを毎日繰り返していた。もちろん、その後はしっかり石鹸で手を消毒する。

それで、私は郷里愛媛にいたときに山菜採集と薬草に凝ったことがあるので、ドラッグストアでセンナの粉末を買い、これは寝る前に一包飲むのが適量だが、それでは利かないと思ったので、3包飲んだら、やっと普通に排便ができるようになった。

私が大学院を出て10年近く郷里に住んでいたときは、ドクダミ(十薬草)やイチョウの葉やカキドオシなど、さまざまな薬草を陰干しにして、それを煎じて毎日飲んでいたものだ。

八王子でも昭島や恩方のほうには野草が一杯あるらしいから、今度採集してみよう。日当たりのいいところなら、真冬でもヨモギが青々としています。

以上、柔らかくて硬い、尾篭なお話でした。

今年の運勢は大吉だった

2010年01月05日 | 雑談
面白い、面白い。「大吉」です。画像が大きいので青いバーを動かして見やすくしてくださいね。

上から解説します。

いそしみししるしはみえてゆたかにも 黄金なみよる小山田のさと

現代語訳(世のため人のために戦ってきた霊験が現れ、物凄いお金が入ってきますよ)

それから「色や酒に溺れるな」とありますが、酒は私の万能薬です。溺れはしませんがたしなみます。

「願事」の欄に、人の言葉に迷うな、とあります。自分の判断力を信じなさい、とは以前書いた新宿の乞食占い師もいいました。「あなたは完全に出来上がっているので、あまりにも考えすぎているから、他人に理解できない。いい加減に直感で話したぐらいが普通の人にはちょうどわかり易い」とね。

「恋愛」この人より他になし。とありますが、私は美人で頭がよくて性格がいいお姉さんが何人もいます。でも現実にお付き合いできるのはあの人かな・・・・・

「縁談」多くて困ることあり 静かに心を定めなさい。

これもすごいですね。本当にプロポーズしたら絶対にOKする女性が7人はいます。

ね、明るい顔の人たち。悔しいでしょうね。ハンカチでも噛んで耐え忍びなさい。 某カルトは今年の春には実質的にオウム真理教のように崩壊するでしょう。

言うまでもなく児玉神社は児玉源太郎(乃木から指揮権を取り203高地を制圧して日露戦争に勝利した陰の英雄)を祀ってあり、NHKが「坂の上の雲」で取り上げているから、相当参詣者がいるかと思ったら、僕と友人のほかは年寄りが3人しかいなかった。

一方、江ノ島神社は4日というのに物凄い人。江ノ島神社は「金儲け」のご利益で有名だそうです。

ああ、日本人はどこへ行く。

あけましておめでとうございます

2010年01月01日 | 雑談
平成22年1月1日です。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしく。

下にスキャンした「RJP基金」の手書きの部分。何しろ受付が4時だったのに、3時59分に行ったものだから、あわてて書いたのでへたくそな字になりました。
私は小学生の時に書道4段だったのですが・・・・・

隣の部屋の創価のスパイらしきカップルも消え、今日は晴天。

僕は、妻はともかく、天才赤ちゃんと言われた長女と長男が拉致監禁されているので、子供たちの夢を見て夜中に目が覚め、睡眠不足が続いています。

でも「痛み慣れ」になりました。

今日から3日間は昼から、いや、朝から酒を飲んでもいいですよね。

私は酒と友人と丹田呼吸で自殺したいところを乗り越えてきました。

もちろん医者は昼酒はダメだといいます。が、53年間私を育てた母が「お前は昼から少し飲め。ほろ酔いぐらいが普通の人と話すのにちょうどいい。シラフだと鋭すぎて、自分も疲れる、人も理解してくれない」と言います。

というわけで、テレビでも見ながらこれから飲みます。
朝の11時10分です。

皆さま今年も楽しく生きましょう。