丘陵に、「田束山(たつがねさん)こちら」と掲げられた道案内が、歌津の目印。
丘陵は、伊里前川の脇にあり、向かって左が田束山方面、右が伊里前の町。
表示どおりに田束山へと行くが、少々戸惑いつつも、枝道に入らず道なりに行く。
震災の傷跡を過ぎ、棚田や緑が光る、里山の美しい風景に取り囲まれていた。
やがて、緑いっぱいの中に線を引いたように整備された道が見え、上り坂になっていく。
しばらく行くと、新しい施設が目に付いた。
出来たばかりの「払川(はらいかわ)ダム」だ。
素晴らしい。
でも高くて怖い。
足に力が入らず、前に出難いのを何とか進みながら、田束湖を眺めた。
直ぐ近くに右へと曲がる道があり、田束山への登り口となっている。
いよいよ田束山の山頂に近づく。
今年(2013年)は春に寒さがぶり返したので、ツツジの咲くのが遅いようだ。
(5/22は、まだ咲き始めで蕾多し。この年は6月上旬が見頃か。)
躑躅に囲まれた細道を行くと、先人が心を込めて納めた経塚があった。
そして山頂に着く。
山頂手前の「展望案内図」の近くへ戻る。
そこからの見晴らしといったら、何と見事なことか。
空と海と岬が一望できるではないか。
ツツジの紅色の向こうは、若葉茂る岬と海と空の青、青、青。
田束山から、里を越えて川を通ってあの海へ、自然の恵みは流れていく。
自然の巡りを大切にし、共に暮らすことを、ここは教えてくれる。
小満の翌日だった。
若葉はきらめき、森では木々が、衣みたいに藤の花を羽織っている。
志津川湾を正面に見て左に曲がり、うねる坂道を進んで歌津へと向かう。
伊里前川には、ぎざぎざに折れ曲がる形に、石が積まれていた。
「ざわ」と呼ばれる、漁の仕掛けだという。
この仕掛けで、シロウオを獲っている。
歌津のシロウオは、ハゼの仲間で、産卵のために遡上するもの。
海でも獲れるが、伊里前川に遡上したのを「ざわ」で捕まえるのが、いわば名物。
「ざわ」では、キアシシギも並んで待っていた。
いただきます。
そして命は廻る。
川で獲るシロウオは、少し飴色ががり、ぬめりもある。
朝に獲ったシロウオが、福幸商店のマルアラさんで売られていた。
何と、昼過ぎでもまだ生きているではないか。
買って仙台まで帰り、台所で思わず叫びながら飛び上がった。
夕餉にする段になっても、まだ数匹生きていたからびっくりだ。
思えば、海へ出て川へ戻るのだから、小さくもなかなか強い。
歌津で教わった通り、塩を振ってざっと洗ってぬめりを取り、韮も入れて卵とじにした。
かき揚げや、熱いご飯に乗せたシロウオ丼もこしらえた。
淡白だが、だしが出て美味しい。
伊里前川でのシロウオ漁は、4月5月6月と、春から初夏にかけて行われる。
自然の廻りは、恩恵でもある。
巧く付き合えば、小さくも、生きる強さを見せるシロウオも来て、元気をくれる。
シロウオの 力賜る 伊里前
今、女川湾の周辺は、被災した建物の解体が進んで更地が増え、山となっていた町の破片も消えている。
そして、新たな町を思わせる国道計画の高さ表示や、盛土などが所々にあった。
(↓解体済みの場所に盛土・旧七十七銀行・マリンパル跡地辺り)
(↓左端に国道計画高さ表示)
(↓女川湾周辺)
かつては、湾に沿ってたくさんの建物が立ち並んでいた。
女川町観光協会が作った小冊子には、かつての町の写真も載っていて、どれほど多くを失ったかが分る。
震災当時のことを見聞きし、現地を巡って歩くと、いろいろな事を再認識する。
どこへ逃げるべきか、迷っているうちに津波に飲まれてしまう。
避難場所の選定も、避難路の整備も、日頃から良く考えて用意しておかねばならない。
津波は、その時の条件や、地形によっても微妙に違う形で現れる。
一律の構造物で防げるものではなく、地域に応じた対策が必要になるのだ。
また、構造物だけではなく、人々の適切な避難意識や行動と合わさって、大切な命が守られることを忘れてはいけない。
少しずつ動きを見せる女川。
女川湾には漁船があり、製氷施設も出来た。
(↓女川湾と漁船)
(↓製氷施設)
でも、あの日から一変した暮らしはいつまで続くだろう。
困惑することも多いだろうに、そこには、出来ることから懸命に一つずつやっていく人々がいる。
現地の人々は、今日も仮の暮らしで辛抱している。
新たな町を作るべく、再び生業も住まいも取り戻すよう願って。
やがて花が咲くように、空き地に公園や店や工場が戻るだろう。
高台に家が作られ、人々が行き交うだろう。
だって、私らは生きているのだから。
きっとまた、町は作られ、ふるさとが生まれるはずだ。
女川湾に沿った道の脇に、櫓が組まれて看板が掲げられていた。
良く見ると「国道計画高さ」とある。
2階建ての高さほどもあろうか。新たな国道が、この高さに作られる計画だ。
実は、海側に津波防波堤を設け、さらに湾岸に嵩上げした国道を作る大規模な計画がある。
これほどの計画が提示されるには理由がある。
もしも、国道の嵩上げだけならば、この高さでも決して高くはないのだ。
万石浦の東端の「浦宿」辺りで、海から少し離れた所に蒲鉾工場の「高政」がある。
ここでは、各地から訪れる人々に、あの日の震災と津波のことを語り継いでいる。
当方が立ち寄った時は偶然に団体客がいて、語り部が映像を交えて淡々と、あの日のことを伝えている所だった。
語り部の伝える津波の様子から、女川では初めは静かに水が侵入したかと思うと、見る間に増水していき、建物を飲み込んでいったのが分る。
記録映像には、渦を巻いて町を飲み込む津波が映っていた。
その水の量は、熊の神社手前で高台にあった女川病院まで達したという。
病院も1階部分が浸水し、諸々流され壊された。
(↓女川病院:現・地域医療センター2012年2月撮影)
これほどの高さまで増水し、渦を巻いた津波。
女川で、これを目の当たりにして耐えた人々は、どれほど切なかったろう。
だからこそ考えるのだ。
同じ轍を踏まぬため、大切な命を守るために出来ることは何か。
語り部は、共に考える機会を、人々に分け与えてくれている。