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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

亘理に引き継がれた祝い唄:2012年1月25日の記録

2017-10-22 17:17:22 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

名取市から南へ行くと、阿武隈川を挟んで北が岩沼市、南は亘理町になる。

鳥の海という湾があって、ぐるりと湾を廻ると、北側にも南側にも湾を望む公園があった。

(↓2010年6月撮影)    



南側の公園は少し小高い所があり、そこから湾を眺めると、実に爽快な景観で、穏やかな青い海に草木の茂る陸も見えていた。

 

 

湾の入り口の北側は、漁港になっていた。

その港の縁に荒浜漁港公園があって、亘理「えんころ節」が聴ける歌碑があった。

3・11の津波で、この景観も変わってしまったが。

 

 

「えんころ節」は、亘理発祥と言われている祝い唄だ。

しみじみとした響きの中に、どこか軽快な高揚感のある唄である。

毎年1月には、亘理町で「えんころ節大会」が開催されていた。


今年はどうだろうと、気になっていたが、先日亘理町へ行った時、大会の開催を知らせる貼り紙を見かけたのだった。

 

 

今年も途絶えなかったことに、亘理の人々の思いが伝わってくる。

古くからの唄も食も、荒浜の町にはあった。

これを引継ぐことは、ふるさと再生の礎かもしれない。


亘理の人々は、大切なふるさとの宝を励みにして、一歩一歩進んでいるのだと思った。


亘理のえんころ:2011年11月の記録

2017-10-22 16:27:07 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

津波に消えた町の思い出がある。

町はまた、人々によって作られる、その道を進む中で、思い出も大事にしたい。

かつて、そこにあって輝いていたことを、書き残しておきたい。


2008のことだ。

仙台から南方へと進むと、阿武隈川にぶつかる。

橋を渡って亘理に入り、阿武隈川沿いに荒浜方面へと向かう途中だった。


「あれ、お菓子屋さんの看板があった。」と我輩が騒ぐと、
「また見つけたか。どうする、戻ってみる?」と連れ合いが言う。

少し先から、ちょいと戻ってみると、やはりお店があって、看板には「作間屋支店」と書かれている。

そこには、明るく気さくな女将さんがいた。


この店で、「えんころ餅」を買った。

 

「えんころ餅」は、冷凍保存されているのだが、地場産品を活かしたお団子だと聞き、これは買わずにいられないと思った素敵な品だ。


買うときに、女将さんが苦笑いしながら

「うちでも食べようと、直ぐ食べたくてレンジに入れたことがあるんだけど、爆発しちゃって」と話してくれ、

「我慢して自然解凍しなくちゃね」と笑った。


帰宅して、丁度「えんころ餅」が溶けた頃合いだ。さっそく味わおうと包みを開けると、

「あ!」


小さな熨斗袋が出てきてびっくりした。袋の中には5円が入っていた。


「ご縁がありますように」ということだろう。

中身にたどり着く前に、すでに楽しい気持ちでいっぱいになる。

あったかい心遣いを喜びながら、箱の蓋を開けた。

 


亘理のもち米を使い、まあるく一口大のお団子にしてある。

団子の中に、醤油たれが入っていて、団子の上には、荒浜の海苔が乗せてあった。

 

甘しょっぱいたれに、ほんのりと唐辛子の辛味がある。 

海苔の香りがとても良く合い、亘理の海を思い起こさせる、素敵なお菓子だった。


粋で旨い、亘理荒浜の「えんころ餅」は、客の喜ぶ顔を思い浮かべながら作っているのだろうと、作り手の気持ちが感じられる。

喜びと香りと味と、たくさん思い出に残る一品だった。

 

                

そして、震災後。


この作間屋さんも、津波の被害を受けた。


阿武隈川では、強い力で川を水が遡り、蛇行する川の曲がり角で激しくぶつかり、大きくゆとりを持って作られた土手を越えて、付近の住宅を損壊していったようだ。


河口から少し入った所は、比較的まっすぐな流れに沿った地区で建物が残っているのに対し、丁度曲がり角の所に当たる地域は、損壊が激しかった。
あの大きな土手まで越えるとは、何という凄さだったのかと、津波の酷さを思い知らされた。

    
3月に、連れ合いがあの辺りに片付けの手伝いに行った時、作間屋さんの所は1階は浸水した様だが、建物は残っていたというので、店の方々も無事と思われた。

  

そして先日、亘理へ行き、作間屋さんの様子も見てきた。

損壊した店の奥に、灯りが見えた。

片付けだろうか、何か作業をしているようだった。

 

 

大変だろうと思うが、やはり店の再開を願い、「えんころ餅」の復活も願っている。


その「えんころ」だが、宮城に「えんころ節」という祝い唄がある。

この唄の発祥の地が、亘理だと言われている。


藩政時代から歌い継がれ、近年も、亘理町では「えんころ節大会」が行われてきたのだった。

再び、この祝い唄が響く町にし、亘理の米と共に、荒浜の海苔も味わえるようにと心から願っている。             


 

かつての、荒浜から内に続く湾、鳥の海。

震災前は湾を周遊でき、南側からも、葦原や緑の豊かな景色が眺められた。



今日はあかりの日

2017-10-21 16:56:20 | 今昔あれこれ

6年前の3月11日、異常な大揺れの後も余震が続く中、先行きの不安を抱きながら、ろうそくの灯りだけで過ごした夜。

 

後日、停電から復旧して照明が点いた時、思わず

「万歳」と声を上げて喜んだっけ。

 

灯りが、これほど人をほっとさせるものだとは。

ありがたみを実感した瞬間だった。

 


1879年の10月21日、白熱電球の40時間点灯に成功。

それは、エジソンによって開発された電球だ。

以来、日本でもその技術が取り入れられ、国産の電球が製造された。

 

これを称えて、「あかりの日」という記念日が制定された。

(参考資料:一般社団法人照明学会「あかりの日」)



東京都池之端にある旧岩崎邸には、「マツダの電球」が展示されている。

この「マツダの電球」は、明治の文明開化によって西洋から取り入れた技術が、日本で改良や発明が加えられて発展し、製造された電球だ。


まず、1890年に、白熱舎という電球製造会社が設立された。

後に「東京電気」と改名し、1939年(昭和14年)に芝浦製作所と東京電気が合併して「東京芝浦電気」となる。これが1984年に「東芝」と改称したのである。


「マツダ」の商標を初めて使ったのは、白熱舎の頃、1913年のタングステン電球の発売からだという。

戦時中に使用が控えられたが、終戦して復活したものの、1960年代には東芝ランプに改称された。


(参考:東芝ライテック株式会社「近代あかりの歴史と共に」/東芝「東芝の標章の歴史」)



旧岩崎邸にあったものは、1913年以降、1960年代に改称されるまでの間に生産されたものということになる。

長い間、発見されるまで屋根裏に眠っていた「マツダの電球」は、まさに「近代あかりの歴史」の象徴だ。

 

その後、電球に代わって蛍光灯が主流になり、現在は、急速にLEDが普及してきている。

ちなみに、我が家の照明もLEDだ。


こうして「あかり」は、発達しながら歴史を刻むのであった。


今日は頭髪の日

2017-10-20 19:58:12 | 今昔あれこれ
昔、うさぎを飼っていたが、うさぎは毛の生え変わりが実に顕著な動物だ。
生え変わりの時に、ごっそり筆のように抜けるのにはびっくりした。
 
季節によって抜け毛が増えるのは、なんと、人も同じだという。
人も、秋には抜け毛が増えるのだそう。
 
(参考資料:公益社団法人日本毛髪科学協会)
 

10月は「毛髪衛生月間」で、10月20日は「頭髪の日」とのこと。
日本毛髪科学協会が1977年に制定。
日本毛髪科学協会は1966年に設立され、50年の歴史を持つ。


 
ところで、震災時に「リンスインシャンプー」は重宝した。

 
「リンスインシャンプー」(造語:英語では「two-in-one shampoo」と言う)は、1988年頃から発売されているが、日本で最初の開発は資生堂の「リンプー」だという。

(参考資料:資生堂グループ「化粧品技術の歩み」)

 
洗浄成分と保湿保護成分と、性質の違う成分が配合されており、先に洗浄して時間差で保護成分が作用するようにする技術は素晴らしいと思う。
 


震災で止まった都市ガスの復旧には、他所からの応援が総力を挙げても1月近くかかった。
また、排水処理施設も簡易復旧の状態がしばらく続くので、市民は節水を心掛ける必要があった。
 
そうした中、手早く洗髪できるリンスインシャンプーは、本当に便利で役に立ったのである。
今後は一層、頭皮や毛髪にも、環境にも良いリンスインシャンプーが出来たら、嬉しく思う。

閖上たこやき:2017年7月13日の記録

2017-10-16 19:35:09 | 東北被災地の歩み:名取・岩沼

穏やかな閖上の港町

そこで生まれた一風変わったたこやき

大きな団子みたいなたこやき

(本来はソースのみだが、この日は当世風にマヨネーズつき。

大粒を3つ串にさし、特製ソースの中に入れて絡めるのが特徴。

甘辛いソースと柔らかくも弾力のある食感、具材の味が調和し、一見素朴だが巧みな品。)

 


長らく作られてきたけれど

あの日波にもっていかれて

思い出だけが残った

 

波に消えてもう戻らないけれど

人々が慣れ親しんだ店

人々が好きだった味

 

だからみんなで思い出辿って

もう一度作り上げた

新しいけれど昔の味

 

閖上たこやきは、日和山(湊神社)向かい側にあった店で、橋浦きよさんが作っていた。

津波の犠牲になり、その味も途絶えた。

 

だが、人々の思い出のたこやきを、もう一度みんなで食べよう、閖上のことを様々な人々に知ってもらおうと、有志が閖上たこやきの再現へと動き出した。

 

きよさんの作った味を知る人々が、味の記憶を出し合って、あれこれ試しては作り直し、ようやくあの味に近づいた。

 

閖上たこやきの復活が素晴らしいのは、不安や悲しみの中で、みんなが力を出し合って何かを成し遂げたからである。

 

きっといつか、こうした経験が励みになったことに、様々な人が気づくだろう。