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monologue
夜明けに向けて
 

回避  


予言の民ホピインデイアンが石板(テイポニ)に第一次世界大戦と第二次世界大戦を小さく書き、そこから少し離れた左下に第三次世界大戦を大きく丸く描いて、それでアメリカ合衆国が絶滅するというが現代を生きる人たちが第三次世界大戦を回避してしまわないとホピ族の予言が当たり終わりは突然くる。それは宇宙の仲間たちにとっても大問題なのだ。
fumio

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予言の民ホピインデイアンの聖なる二つのTiponi(石板)を並べてその意味を解くと
一次世界大戦第二次世界大戦を二つの円で描き少し離れた左下に十字を描きその左に第三次世界大戦を円で描いている。
「Hopi prophecy states that World War III will be started by the people who first received the Light -- China, Palestine, India and Africa. When the war comes, the United States will be destroyed by "gourds of ashes" which will fall to the ground, boiling the rivers and burning the earth, where no grass will grow for many years, and causing a disease that no medicine can cure. This can only mean nuclear or atomic bombs; no other weapon causes such effects. Bomb shelters will be useless,」

第三次世界大戦は初めに光を受けた人々「中国、パレスチナ、インド、アフリカ」によって始まる。戦争が起きれば、合衆国は大地に落ちる「灰の瓢箪」によって壊滅する。河は沸騰し地球は焼け、草は何年も生えない。そして薬では治癒しえない病を引き起こす。これは核あるいは原子爆弾を意味する。他の兵器はこのような影響を及ぼさない。防空壕は役に立たない」ということである。ホピ族はこのように予言していた。
そして赤い石板は第三次世界大戦後のスパスシフィカを描いているのだ。
アリオンはスパスシフィカに関して以下のようなメッセージを発している。

スパスシフィカは大洋にありて真珠の光。
スパスシフィカは太古よりの言い伝え。
スパスシフィカは炎と炎の円還運動。

そして大なる十字の下に、小なる十字の回転を始めた。
スパスシフィカは既存の円鎖を絶ち、
全く新しい愛の化身としての円還を起こすだろう。」



「あなたがたよ、よく見なさい。
あなたがたの足の下には、何があるのか?
あなたがたの頭の上には何があるのか?
あなたがたの手は、何を掴もうとしているのか?

あなたがたの目は、何を見るのか?
あなたがたの口は、何を語るのか?
あなたがたの耳は、何を聞くのか?

スパスシフィカはSPASCIFICAで綴り、
一つ一つの言葉を3つずつ揃え、
更に、それをバラバラにして言葉を形成すると
あなたがたにも見えるものがあるだろう。」
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 アナグラムをしてみるとそれらしいものは「CAI FICS APSIS」。
CAI はカイ、海、回、交い、界、など。 FICSは固定する、修復する、化する、など。
APSISはギリシャ語 hapsis からきてアーチ形大空やループを示唆。車輪。天文学では楕円的軌道。円還。
 どうもスパスシフィカは「八咫の原理」(ヤタノゲンリ)に関係するらしい。
「八咫の原理」を説明すると「咫(アタ)」は上代の長さの単位で親指から人差し指と中指を開いた程度の長さのこと。「八咫」と八がつけば非常に大きいことであるが八つの頭のことともいわれる。三種の神器のひとつ、「八咫鏡(ヤタノカガミ)」や、「八咫烏(ヤタガラス)」にも使われる。「八咫の原理」(ヤタノゲンリ)というときは大きいと言う意味ではない。「八田の原理」と書けば見えるように八方に開いた「米」形の蓮華が「田」の回「をすることである。「田」の中心に棒(天御柱)を立てて卍(スワスチカ)と逆卍(サヴァスティカ)の回転することである。「田」の字は底辺を接した二つのピラミッド(正八面体)を真上から見た字なのだ。「田子の浦」のことばに隠されているように「田」の裏にも同じ「田」がある。われわれの眼に見える地上の山の三角形は隔り世ではまったく逆の三角形と底辺を接している。現界のピラミッドが卍(スワスチカ)回転をし、隔り世のピラミッドが逆卍(サヴァスティカ)の回転をするのだ。
fumio



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高校時代のクラスメイト、大島純男から
(戦後版}「永瀬清子とキリスト教」が仕上がったからと届く。
かれは生涯をキリスト教に捧げてこのような仕事をつづけている。すごいと思う。
サンクス・ ア・ロット・オオシマ君
fumio




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うちに来る若者が、映画「バックツウザフューチャー」で聴いて衝撃的に良かった、というチャックベリーのジョニービーグッドをエルヴィスやビートルズのヴァージョンと聴き比べるとやはりチャックベリーのオリジナルが素朴でいいと感じた。
fumio


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飛騨  



1990年11月7日に、わたしは「日玉の国音楽祭」という飛騨高山で行われるコンサートに
ゲスト出演してNever give up!、まことの光
、わかりあえる日までのパフォーマンスを行ったことがあった。
翌日、誘われて案内されるままに位山の「飛騨一宮水無(みなし)神社」に参った。本殿に通されて祀られている御祭神にご挨拶した。
その時は知らなかったが今にして思えばその祭神が御歳(みとし)神で伊須気依姫、あるいは高照姫と呼ばれ、
『記紀』では比売多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)、 媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)、などと表記される日本の初代皇后なのだった。
そして近くの双龍の瀧に連れられて行きしばらく瀧を拝した。それは魁のメシアから実践のメシアへの引継ぎ儀式だった。
fumio

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わたしたち一行はシンガポールから帰国すると地球人類救済プロジェクトに入った。
奈良、新宿東京首都圏、八王子、飛騨地方、などなどあちらこちら様々な音楽祭でお呼びがかかりゲストとしてライヴパフォーマンスしたのであった。
ライヴパフォーマンス集
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第15回わたぼうし音楽祭優勝曲わかりあえる日までライヴパフォーマンス5:00
わかりあえる日まで飛騨ライヴ5:24
By the day we see eye to eye7:38
シンガポールで開催された第1回アジア太平洋わたぼうし楽祭 日本代表としてのパフォーマンス
ネヴァーギヴアップ! 5:31
a song called " Never give up!" performed on a stage日玉の国音楽祭にてのライヴパフォーマンス
まことの光4:15
                   飛騨地方での日玉の国音楽祭にて
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fumio


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そしてわたしは歌による地球人類救済運動世直しプロジェクトに入った。
新型核爆弾炸裂後の世界を描く、そしてなにが残った
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 ♪そしてなにが残った♪fumio yamashita

 1.あれからどれほどたったのか 知っているのは大地だけ
雨が降ろうと降るまいと風が吹こうと吹くまいと
ミミズ一匹哭きません 
みんなみんながおねんねで 早い話がこのわたし
カラス一羽もとまりません オーノーなにもない なにもない
ノーノーノー

2.みえない糸にあやつられ踊り続けるマリオネット
 だれが泣こうと泣くまいと だれが笑おと笑うまいと
オケラ一匹哭きません
みんなみんながおねんねで 早い話がこのわたし
涙一粒こぼせません オーノー なにもない なにもない
ノーノーノー


3.みえない扉に阻(はば)まれて愛し合えない大人たち
 花が咲こうと咲くまいと 夢を持とうと持つまいと
ヤモリ一匹哭きません
みんなみんながおねんねで 早い話がこのわたし
いつのまにやら闇の中 オーノー なにもない なにもない
ノーノーノー


4. あれからどれほどたったのか 知っているのは大地だけ
雨が降ろうと降るまいと風が吹こうと吹くまいと
ナマズ一匹哭きません 
みんなみんながおねんねで 早い話がこのわたし
カラス一羽もとまりません オーノーなにもない なにもない
ノーノーノー
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fumio



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わたしは1989年に奈良で開催された「第15回わたぼうし音楽祭」で応募曲「わかりあえる日まで」が優勝して2年後の1991年8月にシンガポール国立劇場「カランシアター」で開催された第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭というフェスティバル」に日本代表として出場したのだった。
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ヴォーカル、鈴木美由紀
コーラス、山下フミオ&ロミオ
わかりあえる日まで(by the day we see eye to eye)
                         詞、曲、山下富美雄
   「この広い宇宙の片隅に ポツンとひとつ星がある。
    青く輝くその星に 命に輝くその星に
    ぼくらはみんな住んでいる。 ひしめきあって生きている」

   1.膚が違う 顔が違う 瞳が違う 国が違う 夢が違う 言葉が違う
     ライララララ ライララララ ライララララ
     ライララララ ライララララ ライララララ

      もしも世界の 果てに住もうと
      人を愛する 心は変わらない

      もしもあなたに いつか会えたら
      こんな気持ちで 包んで歌おうか この歌
     
      世代を超えて 人種を超えて すべてを超えて
      わかりあえる日まで
 Every time we share sad tears, our pains melt like the ice,
We become full of joy for living life in this world.

 Can’t you see how we survived? can’t see how we revived?
Take my word see my way.
I’m gonna take you to my soul with this song.

 Sing across the centuries, jump across the countries,
Sing across the histries,by the day we  touch heart to heart.

 Winds no difference,  clouds no difference, lights no difference,
Skies no difference, seas no difference, lands no difference

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la


 Sing across the fires, jump across the wires ,
Sing across the desires,by the day we  walk hand in hand.

Sing across the whole earth, jump across the voyagers,
Sing across the universe.by the day we  see eye to eye.
By the day we  smile heart to heart.

 Brothers with you, sisters with you, my friends with you.
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fumio



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優勝  



わたしはその頸椎損傷によって障がい者になったことが奈良文化会館で開催される障がい者の作った詞にメロデイをつけて最優秀曲を選ぶ第15回わたぼうし音楽祭の出場資格を満たすことになったのである。わたしは「わかりあえる日まで」という曲で応募して幸いそのコンテストに優勝したのである。
fumio



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わたしは1986年に米国ロサンジェルスより日本に帰国した。関東地方に居を構えてしばらくアルバイトしながら暮らしていたがある時、毎日新聞に載った原宿竹下通の声優事務所(ホワイトエレガンス)の声優募集広告に応じて入り、分かれてできた国枝量平主宰の小劇団ケイエムシネマ企画
の劇団員となった。
そして、昭和63年(1988年)9月14日芝居稽古中頸椎損傷したのだった。
それがその後のわたしの人生の大きな試練としてプロットになっていたのである。
その1988年の頸椎損傷事故の模様を以下にコピー。
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1988年9月14日午後9時過ぎ、反原子力、窓からJRを臨む渋谷の稽古場で、原発ジプシーと呼ばれる役の若者たちが原子力博士役のわたしを何度も胴上げから放り投げた。
わたしは柔道の前方回転の要領で立ち上がり続けたのだが、それではなにか物足りなさを感じていたらしい舞台監督の演出家が、フィナーレの構想を練って、
わたしの身体が一番高く上がった時に電灯を消せば観客の目にその場面が焼き付いてフィナーレとしてふさわしいのではないかと思って試させたのである。
その劇は原発問題を扱った作品で演出家は、原発ジプシーと呼ばれる者たちに核シェルターを設計した博士が投げ捨てられる、というフィナーレの場面を構想して稽古によって煮詰めていた。
その瞬間、目の前にあるはずの床が見えなくなった。おそらくまわりにいたすべての人々も一時的に視覚を失っていたことだろう。
博士役のわたしを原発ジプシー役の若者たちは何度も胴上げから放り投げた。そのたびにわたしは回転受け身をして立ち上がった。演出家はもっと幕切れにふさわしい、観客の網膜に残像が焼き付く方法を思いついて試したのである。わたしが空中に舞っている頂点で、稽古場の電灯を消すように指示したのだ。猫なら突然、光を消してもうまく着地するかも知れないが私の場合は闇になった途端、さっきまでのまわりの景色が消え空中での位置感覚が失せた。残念ながら猫が空中で体を立て直すようにはゆかなかった。 額が床にぶつかったのだ。勢いよく落下した全体重を受けて平気なほど首の骨は強靭ではないらしい。灯かりをつけた人々が目にしたものは倒れたまま動かないわたしの姿だった。抱き起こされたとき気絶していなかったらしく。受け答えはできたが首から下が動かなかった.。
fumio


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経綸  


ホピ予言のいうTrueWhite Brother(まことの白き兄)とはわたしのことでアメリカから「大いなる聖めの日」をもたらすために日の本に戻ってくるという。
それでわたしは日本に戻ってきたのである。それがわたしの経綸だった。わたしはわたしの人生をそう理解している。
fumio


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その頃、わたしはアメリカでの夢をほとんど果たしていた。洋楽が好きでどうせステージでスタンダードやグループサウンズ、ソウルミュージックなどを英語で歌うのだったら本場アメリカで英語の歌を歌って暮らしたいという夢を抱いて渡米したのだった。
ナイトクラブでのエンターテイナーの仕事やゴングショーという人気テレビにもオーデションに通って出演したし、バンドでは大学その他の宗教施設でのライブなどをこなし、
そしてFRYというレーベルを立ち上げレコードやカセット制作など、ミュージシャンとしてやれることは一応やったがしかしながらなにかが足りない。そのままアメリカで生涯を過ごしてはいけなかった。そう、そうなのだ、なんとわたしは日の本へ戻ることになっていたのだ…。
fumio


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井上陽水がアルバムを作る時、いつもアレンジを担当するモップスの星勝がアレンジャーとしてロサンジェルスに来てアレンジをするのに必要な、中島に貸したギターを持ってきてくれというのでわたしがそのアレンジに使用するギターをホテルに持って行ったものだった。サンフランシスコから帰った後、中島茂男はロサンジェルス、リトル東京の旅行店キャラバンセライを手伝っていたが社長がその店を閉めるというので、フロリダに移ってキャラバンセライオーランド旅行社をやりだしたのだ。
そしてギターバンドWajindenを作って、
米国フロリダ州オーランドのEolaドライヴにある公園にやってくる動物たちの生態を捉えて音楽化したり2014年2月に奥さんのAkikoさんが喉頭癌で亡くなってからRecollection (在りし日)という曲を作ってコンサートで演奏しているということである。
fumio


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そして、ベースでヴォーカルのわたしと相棒ギタリスト、中島茂男はロサンジェルスのナイトクラブでのエンターテイナーとしての仕事をその後も継続していたのだが
芸術家集団のアーテイスト仲間の援助と要請をうけてジャズクラブ『処女航海(MAIDEN VOYAGE)』において1981年1月18日(日)午後9時、入場料5ドルでこのアルバムの収録曲をライヴ演奏するファイナルライヴを催した。ごく普通にまるでいつもの仕事のようにライブは始まり普段はジャズの演奏を聴きにくる聴衆の前でわたしたちは全く異質な音楽を淡々とくりひろげた。楽屋では仲間たちがドライアイスを買ってスモークマシーンに入れたり用意してわさわさしている。ライヴの後半、 の曲で宮下富実夫が中国銅鑼その他のパーカッションを打ち鳴らし舞う際、舞台機材店で借りだしたスモークマシーンでステージがドライアイスの煙に覆われて真っ白になった。そのあとエンディングの「HOME TOWN」 を歌うと、冷たいガスがのどに入ってむせそうになって危うかった。ライヴではなにが起こるかわからない。演奏の稽古は充分したけれどドライアイスの煙を吸わないように歌う稽古はしていなかった。はじめからアンコールを求められることなど考えていなかったのでアンコールの声が沸いた時、困った。応えられる曲数があまりなく知っている曲をやりつくしてファー・イースト・ファミリー・バンドの曲「セイ」まで演奏してごまかした。そしてすべてが終わると「You are different!」と聴衆が叫んでいた。
その「処女航海」でのSFライブコンサートの翌日、中島茂男はサンフランシスコに出発した。
わたしは餞別を50ドル手渡して見送ったのであった。
fumio


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 そのロサンジェルスの「ジャパンフェスティバル」での演奏がメンバー4人フミオ宮下、シゲ中島、ケン島、フミオ山下での最後の演奏であった。以来、それぞれの進む道が交わらなくなって、
宮下富実夫は、1981年、アメリカから日本に帰国。そして、環境音楽、ヒ-リングミュージック、アニメミュージック、映画音楽など様々な音楽活動に身を投じた。
そして203年2月6日午前2時26分にこの世を去ったのであった。
そして、ミヤシタにシマちゃんと呼ばれた島健はアメリカではジャズトランペット奏者アレン・ヴィズッティのバンドでピアノを弾いていたが1986年に日本に帰国してスタジオ・ミュージシャンとして活動するうち、、サザンオールスターズ、JUJU、森山良子、などの作曲・編曲に携わるプロデューサーとして活躍したのだった。
fumio

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