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monologue
夜明けに向けて
 



わたしは米国から帰国すると地球人類救済プロジェクトに入った。ホピ族のいうTrue white brother{まことの白き兄弟}としてアメリカから帰ってきたのだった。
歌による地球救済世直し活動が始まった。奈良文化会館の第15回わたぼうし音楽祭で優勝してから
奈良、新宿東京首都圏、八王子、飛騨地方、シンガポールなどなどあちらこちら様々な音楽祭でお呼びがかかりゲストとしてライヴパフォーマンスしたのだった。
ライヴパフォーマンス集
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第15回わたぼうし音楽祭優勝曲わかりあえる日までライヴパフォーマンス5:00
わかりあえる日まで飛騨ライヴ5:24
By the day we see eye to eye7:38
シンガポールで開催された第1回アジア太平洋わたぼうし楽祭 日本代表としてのパフォーマンス
ネヴァーギヴアップ! 5:31
a song called " Never give up!" performed on a stage日玉の国音楽祭にてのライヴパフォーマンス
まことの光4:15
                   飛騨地方での日玉の国音楽祭にて収録
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fumio

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ウエイトをリンゴ・スターが多くのミュージシャン仲間と演奏しているヴィデオを見て素晴らしいと感動した。以前、ラストワルツというザ・バンドの映画で聴いたことがあったけれどその時は意味がよくわからなかったのだ。ユーチューブの時代になって世界のだれでも歌詞がわかるようになっってうれしい。
fumio


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残念  



わたしの次に出演したガールフォークグループが聴いたことのないカントリーフオークソングを歌った。コーラスがぴったり合っていてすごくうまかった。
審査員たちは感心してそれぞれ10点と採点カードに書き込んだ。わたしはただ500ドルの優勝賞金をもらいたくて出場したのだが彼女たちの方が合計得点が高いので優勝できなくて賞金を逃して残念だった。司会のチャック・バリスは楽しいおじさんでワイワイ盛り上げるのがうまかった。その週の優勝はできなかったけれどそれでも一応アメリカでテレビに出ることは出られたのだ。その時はそのぐらいの実力だった。
fumio


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出演  



幸い「ゴングショー」のオーディションに受かって番組に出演できて「FumioYamashita from Tokyo」と紹介された時、頭の中では「キョートなのに」と思いながら「ジョージア・オン・マイマインド」をギター弾き語りで精一杯歌ったが視聴者は日本から来た男がどうしてジョージア州の歌を歌うのかと変に思っただろう。
歌っている途中では失格のゴングは鳴らされなかったので最後まで歌いきれた。審査員は「ナイスバラード」とコメントした。そして4人の審査員全員が8点の札を上げたのだった。
fumio

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誓約  


それから数日後に第2次選考があった。
スタジオにいたキーボード奏者が音合わせをした。
どういうふうにギターを弾くかこまかく訊かれて「ジョージア・オン・マイ・マインド」をギターの弾き語りで一度歌ってみせた。
それでやっとなんとかOKが出たのだった。
最後に誓約書を渡されて読むと、本番の時に、オーディションと同じ服装をして出ることなど、こまごまと書いてあった。
バラエティー番組なのであまり羽目を外し過ぎてショーをぶちこわさないように誓約させるらしかった。
 英語学校の人気教師ミスター・イェーツが
 「放送には7秒ルールというものがあってライヴ放送でも7秒間遅らせて放送するのだ」と教えてくれた。それで突然の放送禁止用語にも対処できるし電波ジャックにもその7秒で対処するということだった。そんなことが本当にできるのか、不思議な気がした。放送業界は表面上楽しそうでも、いつも神経をとがらせているのだなあと感心したものだった。
fumio


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オルガはのちに米国永住権を得るために中国系アメリカ人と結婚したのだった。
「ザ・ゴング・ショー」の優勝賞金は500ドルだった。クラスメイトたちはみんな海外からの貧乏留学生なので「ザ・ゴング・ショー」の優勝賞金は魅力的だった。歌でもダンスでも漫談でも物まねでもなんでも芸能的才能があればトライする価値があった。
わたしもその賞金が欲しくてクラスメイトの応援によってオーディションを受けてみる気になった。歌をギターで弾き語りしてみようかを思って応募した。サンセット通りのオーディション会場に夥しい応募者がやってくる。ごった返した控え室では殺気だった雰囲気の出場者が真剣に踊りの稽古していたりした。順番にパフォーマンスしてゆき、わたしはギターを抱えて「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌ったのである。
fumio


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結果  


翌日、家具屋の二階にあるLosAngelesHigh schoolの英語教室にやってきたオルガに「ザ・ゴング・ショー」のオーディションの結果をクラスメイトみんなで訊いた。
ダメだったという。海外から来て英語を習っている途中の生徒が歌がうまいからといってオーデションに受かってテレビのコンテスト番組に出るのはむづかしいようだった。
fumio


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ロサンジェルスの公立高校LosAngelesHigh schoolのクラスメイト、オルガ・ゴメスは歌がとてもうまいので、スターを目指す新人芸能人のコンテスト番組「ザ・ゴング・ショー」に応募した。オーデションについていっギターで伴奏してほしいという。わたしはいやがった。留学先でたまたまクラスメイトになった女性が歌手を目指すからといって一緒にオーデションを受けたくなかったのだ。伴奏してもいいかどうかわからないしアメリカのテレビのシステムについてなにも知らないのでびびってしまったのである。
オルガはハリウッドのNBCテレビのオーディションに勇気をもって臨んだ。わたしのギター伴奏のサポートがないままひとり「We are all alone」を歌ったのだ。
fumio

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その頃、NBCネットワークのバラエテイテレビ番組「ザ・ゴング・ショー」が人気だった。
ゴングという銅鑼を鳴らされるまで、パフォーマンスして優勝を争う。優勝者から大手レコード会社からレコードデヴューする新人歌手が出たりして学校でもよく話題になっていた。
なんと、その番組にオルガが出場したいと言い出したのである。
fumio

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伴奏  



クラスの休み時間にアコースティックギターを色々練習しているとオルガがその頃のヒット曲We are all aloneを弾いてという。それでなんとか弾いてみるとオルガが歌いだした。すごくうまくてびっくりした。
fumio



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ロコ  



 クラスの構成はイラン50パーセント、ラテン系30パーセント、日本10パーセント、その他10パーセントといったところだった。雑多な人種が混じり合いそれぞれの目的のために英語を学んでいた。一大勢力のイラン人が常にワイワイ発言し日本人はおとなしかった。ラテン系は冗談好きでわたしに「ジョソイ・ロコ」と言えという。わたしがそういうと大喜びした。ロコとは暴れ狼のことで人の手に負えないのでそれは「ぼくは頭がおかしい」という意味だった。そんなことを言わせて喜ぶのは不思議だった。
あるとき隣の席のアルゼンチン娘オルガ・ゴメスが「男のものは日本語でどう言うの」と訊く。わたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので虚を衝かれて外国人にどう教えたらいいのか、少し迷ってノートにchin chinと書いた。すると、そうチンチン、わたしの国では女のほうはこういうのとラテン語らしいスペルをノートに書く。わたしは確かめるためにその言葉を発音してみた。すると突然態度が変わり「声にだして読まないで」と眉をしかめて怒りだした。自分が先に訊いておいて勝手に怒るな、と思ったがまわりのラテン系の人には意味がわかるから戒めたのだろう。
fumio

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留学  


1970年代のある時、弟がフランスに留学すると言い出した。そしてポップスソング好きのわたしにはアメリカへの留学を勧めた。
それで弟はフランスに留学したのだが、わたしはどうしたらいいのかわからないままアソシエイテッドテクニカルカレッジというロサンジェルスの学校で英語を習うことにしたのだった。
わけもわからないままに留学したアソシエイテッドテクニカルカレッジは私立校なので学費が問題だった。早晩貯金が尽きてしまいそうで不安だった。そこで政府が援助して授業料がタダの学校があると聞いて転校することにした。それは大人を対象にしたアダルトスクールだった。英語を第二国語とする人を育成することが目的のプログラムを実行していた。そのアダルト・スクールを訪ねると、そこは学校とはいうもののそれらしくなく家具屋の二階だった。授業料はまったくのタダではなく半年に50セントだという。一応払っているという形をとっているのだ。クラスメイトは前の学校とは大違いでイラン人が多かった。米国政府の対外政策は毎年変わりその年はイラン人留学生を大量に受け入れていたのだ。パーレビ政権下で苦しむイラン民衆をそんなふうに応援していたのだ。かれらは自国で王を批判すると危ないがここでは毎日政治の話題に熱中していた。授業中も休み時間も男子女子を問わずとにかくうるさかった。
fumio

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 カリフォルニア・サンシャイン序章

 わたしは幼い頃から音楽が好きでおどけものだった。小学校のクラスのお別れ会で三船浩の歌う連続テレビ映画「月光仮面」の挿入主題歌「月光仮面の歌」を英語版といって「ムーンのライトをバックに受けて」と踊りながら歌ったりした。長じてはリズムアンドブルースやイギリスのバンドに傾倒しアメリカで音楽をやると吹聴した。毎朝犬をひっぱって走り人気のない校庭や畑で大声を張り上げ声を鍛えロック歌手としての基本訓練をした。松下電子工業で七年間働いて貯金が留学に必要とされる額にやっと達したのでついに計画を実行に移すに至った。
1976年11月2日、早起きして京都の家を出た。胸躍る新たなる門出。
空港でタイ エア・サイアム航空のロサンジェジェルス便に搭乗しいざ出発した。
途中ハワイで給油中、食堂で食事しているとまわりが慌ただしくなった。英語がわからないのでわかりそうな日本女性のそばで話しを聞いた、今まで乗ってきたこの飛行機はロサンジェルスには行かないという。会社がつぶれたらしい。1965年に発足した格安料金航空会社が格安の看板に負けてこの日突然終焉を迎えたのだ。ギャグではなかった。なにもわたしの門出の日を狙ってつぶれなくとも、もう一日でも長く持ちこたえてくれれば良かった。乗客たちはみんな必死で電話したり対策を立てている。どうしていいかわからない。英語もわからないし公衆電話のかけ方も知らないしただおろおろして人の行き来を見守り途方に暮れて前途に拡がる虚空を見つめた。

 どのぐらい時間が経ったのか。なにか動きがあったらしい。航空会社同士で話しがついたようだった。あちらの飛行機に乗り込めと指示が出た。乗客をハワイに置き去りにするわけにはゆかないのでノース・ウエスト航空がロサンジェルスまでの航行の肩代わりすることになったのだ。あわてて乗り込む人々のあとについてこれまでと違う会社の飛行機に乗り換えた。無事ロサンジェルスに着くことを祈って…。
 前のスクリーンの映画に集中できるわけもなくこれからどうなるのかと思った。やがて飛行機はアメリカ本土上空にさしかかる。初めて見る希望の地が眼下にあったが飛行機が違うから予定している留学先の英語学校の迎えはきっと来ないだろうと感じて不安だった。連絡をとる方法も知らない。そうこうするうちにロサンジェルス空港(LAX)に到着してトランクを受け取り迎えを待ったがやはりだれも迎えに来ない。到着時間も大幅に変わりまだ夜中で空港のまわりは真っ暗。公衆電話を見つけて小銭を入れて学校に電話しょうとしたがオペレーターが出てきてことばが通じない。何度も何度も試した。空港の外に出るとバスが何台か停まっている。日本と同じ方式で乗れるのか、尋ねるにしても運転手はいない。どれに乗ればいいのだろうと行き先の表示を繰り返し見て迷いに迷って逡巡した。
なんとかロサンジェルスに着いたもののやっぱり前途にはまだ闇が拡がっていた。
真夜中の空港で重いトランクをさげてあちこちうろうろとしていると車が何台かやってきて人を乗降させてゆく。そのうちにタクシーらしき車が見えたのでそこで待つことにした。つぎにやってきたタクシーに乗り込むと黒人運転手が行き先を訊く。学校の名前、を言っても当然ながら知らないらしい。タクシー運転手が知っていそうな目印の場所としてなんとか記憶をたぐってヒルトンホテルの近くということを思い出した、とにかくヒルトンホテルまで行けば探しながら歩いてでも行けるだろうと思った。
それで「ヒルトンホテル」と答えた。すると「ビバリー・オア・ダウンタウン」とまだ尋ねてくる。ヒルトンホテルがふたつあるとは知らない。どっちなのか。クイズの司会者でもない運転手が二者択一を迫る。間違うと知らない所に置き去りにされる。どうしても当てなければこのスゴロクは上がれない。運転手が困っているわたしを振り向いてふたたび「ビバリー・オア・ダウンタウン」と決心を迫る。
追いつめられたわたしは「ええい、」とばかりに「ダウンタウン」と答えた。
 タクシーはすべるように真夜中を走りだした。フリーウエイ、文字通りのフリーで只なので料金所も信号もなく何車線もあるだだっ広い道をまっしぐらに走る。初めて見るアメリカの町の夜景を横目に時計をみるとまだ朝の1時前、こんな時間にホテルに着いてから知らない町をトランクを提げて学校を探して歩くのは不可能のように思えた。どうしたらいいのだろう。あれこれ考えるうちにHarbor フリーウエイからスピードを落としてダウンタウンに入る。運転手にとっては来慣れた場所らしくGrand Ave.(グランドアヴェニュー)上で5th と6th st. の間に位置するホテルの前に停車した。それがヒルトンホテルだった。べつに泊まるわけではないからフロントに行っても仕方ない。スーツにネクタイ姿で良かった。ホームレスと思われたら追い出される。従業員たちの視線に身を固くして入り口付近の待ち合わせロビーに人待ち顔を装って座る。とにかくここで夜が明けるのを待とうと決めた。しかし、しばらくすると疲れが出てうとうとして姿勢が崩れる。そこで寝るな、部屋をとって眠れ,と言われるのがこわかった。何度も姿勢を戻して元気そうにあたりを見回して長い長い夜を過ごした。それがそれから十年暮らすことになるこの国でのホテルで泊まったといえる唯一の経験となった。その後ホテルには泊まったことがないのだから。あれでも泊まったといえるのなら…。


 アメリカでの記念すべき第一夜はこうして想わぬ形で睡魔との戦いのうちに明けた。やがて従業員以外の人々の動きがでてくる。わたしは相変わらず従業員がこちらを見ると知った人の顔を探すフリして伸びしたり首を廻したりして視線を外す。すると黒人のグループが笑いながら二階から降りてきて「ヒア・ウイ・ゴー」と言ってホテルを出発していった。それがその国の人々が話す会話を初めて聞き取ったことばになった。そうなんだ、さあ、行こう、は「ヒア・ウイ・ゴー」と言うんだ、となんだか感動した・今でもそのことばの響きは耳の奥に残っている、きっと死ぬまで残るのだろう。三々五々ロビーに人が集まり会話が聞こえる。ホテルの朝が始まった。わたしもその中に交じって泊まり客であったかのようにふるまう。トランクを提げてトイレに行ったり身仕舞いをして学校の事務所に人が来そうな時間まで過ごした。公衆電話はたくさんあったけれどオペレーターが出てくるとこわいのでフロントで学校の電話番号を見せて電話してもらった。
すると日本語が通じる人がいて近いのですぐに車で迎えにきた。その学校
アソシエイテッドテクニカルカレッジは7thストリートにあって歩いても行ける距離だった。
その学校のスーパーバイザーは日本人女性で、昨日空港に迎えに行ったらだれも待っていなかったから仕方なく帰ってきたの、と無駄足を踏んだことの恨み言を口にして怒っていた。わたしはなにか申し訳ない気持で聞いていた。なにはともあれやっとこの双六の上がりである学校にたどり着くことができたのだ。
行く手は擦った揉んだの末にやっと真っ暗闇ではなくなった。

 日本人女性スーパーバイザーは「それでは、クラス決めのテストをしますから副校長の部屋に行ってください」という。
副校長室に入ると黒髪でラテン系の威厳のある中年女性が口頭試験を始めた。当然とはいえ質問もすべて英語だったのでなにもわからない。答えようがなかった。なるべくゆっくり発音してくれているのだが聞き取れない、ハクチと思われたかもしれないと思いながら副校長に付き添われて事務室に帰った。副校長はスーパーバイザーに結果を告げて、バイ、と出て行く。「あなたはABCのクラスの段階のCクラスです。じっくり勉強してがんばって上がっていってください」スーパーバイザーはそういって微笑みかけた。もっと下のクラスがあればそのクラスに振り分けられたことだろう。とにかくクラスが決まった。「アパートを一緒に探してくれる卒業生を喚んでありますから決まったら30ドルあげてください」と卒業生に紹介してくれた。そんなバイトをしているかれの車でバスで通学できる範囲のアパートをしらみつぶしに当たって探す。青空にパームツリー並木が似合う町並み。11月というのに30度を超す暑さで驚いた。相場を知らないので家賃(レント)は高かったけれどどうせしばらくして慣れたら引っ越すつもりで学校の近くに決めた。トランクその他を運び込んでやっとひと心地ついた。
夜、アパートの屋上に登って驚いた。空が広いのだ。日本で見慣れた夜空と違う。なぜかわからない。ずーっと見上げて飽きなかった。前途にやっと光が差し込むように感じた。


 翌朝、Cのクラスに出席して驚いたのは先生が若くて可愛かったことだ。
クラスメイトはほとんど日本人だった。日本で英語の先生をやっていて本場の英語を習いに来たとかアメリカの大学に入るために必要な英語力を身につけるためとか学会でスピーチするためとかそれぞれに動機は違う。年代も19才から50才ぐらいまでまちまち。その生徒たちが美人先生が点呼するたびに日本式に「ハイ」と返事する。すると先生もすかさず「ハイ」と返す。アメリカ人にはそれが習性になっているのだ。挨拶は「ハロー「より「ハイ」の方が親しみ深くてハイといわれると必ず返す。上のクラスならアメリカ式に名前を呼ばれたら「ヒア」とか「イエス」と手を挙げる。Cクラスはみんな新入生でそんなことは知らない。20人ほどのクラス全員が順番に「ハイ」というたびに律儀に「ハイ」と先生も挨拶を返すのがなんともいえずおかしかった。
わたしは初めての授業が終わるとまずステレオを買いに行った。そして安物ギターをサンセット通りの古道具屋で買った。それだけはどうしても必要だった。
そして夜、眠りに就くと強烈な金縛りにあった。まったく動けない。日本で経験した金縛りと性質が違った。この部屋にはなにか憑いているのかと不安になった。新たな住人への挨拶かも知れない。昨夜は大丈夫だったのにと不思議だった、。やっぱり早めに引っ越そうと思いながら薄目を開けてまわりを見ているうちに眠りに落ちていった。

 授業はもちろん英語だけだったけれどその環境にいるとなぜか意味が通じた。わたしはまったくのハクチというわけではないようだった。アパートで、その頃のヒット曲を日本からトランクに入れてきたカセットテープレコーダーに録音してその歌詞を聴き取って歌う練習をした。わからない部分は学校で休み時間に先生に聞き取ってもらったりした。わたしのわからない部分は先生も聞き取れないことがあった。そんな時は音楽店で売っている新曲の楽譜を見てノートに書き写した。1曲2ドル50セントなのでおいそれとは買えなかったのだ。すると他のクラスの生徒が噂を聞きつけてやってくる。「このごろ、八戒、八戒、八戒、八戒、と繰り返す歌が流行っているけどあの歌、何の歌…」べつにそれは西遊記の八戒の歌ではなかった。それはシルバーズの最新ヒット「ホットライン」 だった。日本人にはそれが八戒と聞こえてしまうのだった。そしてやっと授業に慣れてきた頃、先輩のひとりが「アメリカで暮らすには運転免許がいるぞ、身分証明書としても酒を買うときに必要だし、明日みんなで取りに行こう」と言い出した。わたしは車に興味がなかったので日本で運転したこともなかった。「この国は広いのでどうしても車がいる。ロサンジェルスは地下鉄もないし、仕事もできないぞ、フミオも一緒に来いよ」と強く勧めるので見学するつもりでついてゆくことにした。

ダウンタウンの試験場は近いけれど人が多いのでハリウッドに行くことになった。車好きの先輩が手はずを教える。試験場で筆記テスト用紙をもらったらこの車まで来い。この問題集の答えを写せ、でも全問正解せずに二三問間違えておけ。最後に口頭でも試験があるから英語がよくわかるフリすること、すこしぐらい間違えても大丈夫。通すことが試験の目的だから。通ったら実地の運転試験は即日ではなく練習して別の日にすることにしろ、と指示されてみんな試験場に入る。おまえも行けと言われて迷う。なんだか置き去りになったようで決心してみんなのあとについてゆくとやはり全員筆記テストに通った。「これから試験用の車をレンタルしに行こう。試験は慣れている自分の車でも試験場の車でもOKなんだ、オートマチック車だったらゴーカートみたいなものだから借りに行こう…。」という。その頃はシフト車とオート車の違いも知らず なにがなんだかわからなかったけれど近くのレンタカー会社で筆記試験に受かった仲間同士でオートマチック車を借りた。

 昼間は危ないので夜になるのを待って稽古を始めた。人の少ないビバリーヒルズあたりの駐車場で教官然とした先輩の横で初めて自動車のハンドルを握った。生まれて初めてなのでまっすぐ走れない。慣れてくると右折(ターンライト)左折(ターンレフト)と英語で言ってもらって指示通りに進む。とにかく安全確認、目だけではなく首を大きく動かして試験官に確認していることをアピールすること。教えられるとおりに必死で運転した。「最後のほうで試験場に帰ってくる頃、縦列駐車ができるかどうかみられるから練習しよう」という。たしかに初心者にはむづかしい。コツを教えてもらってもなかなか満足に停車できなかったが信号での左折が課題 として残っているので路上に出ることになった。アメリカは車は右側通行なので左折が問題なのだ。真夜中でまったく車影はない。安全だけど駐車場から出たのがこわかった。大きくまわって車の流れに入れといわれても一台も車はこないので流れに入るという感覚がつかめなかった。とはいえ明日はいよいよ路上運転試験、ハリウッドの町を横に試験官を乗せて走るのだ。
生まれて初めてハンドルを握った次の日に…。

 前日、筆記試験に受かった仲間で試験場にやってきた。
まず日本で運転免許を持っている生徒が実地試験を受けた。日本でも運転経験があるからきっと大丈夫と幸先良い報せを期待して待つ。試験場から街路に出て行くのをみんなで見守っていると途端に停まった。どうしたのかと思っていると、それでテストは終わりらしかった。みんなのところへ帰ってきて落ちた、という。反対車線に入ってしまったのだ。日本で運転に慣れていたのが徒(あだ)になった。車は右側通行なのに左に入ると対向車と正面衝突してしまう。その時点でテストはうち切られるのだ。どうなることかと思う。次の生徒は無事に進行していった。帰ってくるまでどきどきして待つ。しばらくして帰ってくると試験場の横に静かに停まった。採点表をもらって見せてくれた。手書きでfと書かれ落ちていた。安全確認でかなり減点されていた。わたし以外はそれぞれ運転経験がある男達だったのにと不安が大きくなる。もう一人がテストを受けているときわたしの番がきた。昨日稽古した車で待っていると横に試験官が乗り込んできた。東洋系のアメリカ人だった。タイかな、と思った。日本人に対して好感情をもっているようで態度が丁寧だった。とにかくこれから初めて街に出るのだ。おそるおそる進行して行くと当たり前だけど他の車が走っていた。なにも知らないということは強いもので試験官は平気でわたしに指図する。わたしはとにかく安全確認の動作をこれでもかと大きくアピールした。なににもぶつからず試験官のいうままに進んでいると大きな信号にやってきた。多くの車が停車している。汗が吹き出る。命知らずの試験官は「ターーン・レフト」と命ずる。ここを大きく廻って車の流れに入るのだ。わかっていてもあせった。小さく廻りすぎて後ろのトラックにあおられてびびったけれど試験官は「オーケー・オーケー、ゴー・ストレイト」とあまり気にしてないようで機嫌よさそうだった。縦列駐車もなんとかこなし試験場にたどり着くと試験官はその場で採点してくれる。「76点、あまりうまくないけれど、ぎりぎり合格。事故を起こさないように運転してね。わたし日本大好き、Have a nice day!」。
おかげで車に乗れることになった。たった数ドルの費用で運転免許証が手に入ったのだ。
待っていた先輩はわたしが受かったことに驚いて「半年ぐらい運転するなよ」と言った。
 わたしはアパートを早く出よう、と思っていた。家賃が高いので貯金があまり長くもちそうもなかったのだ。
そんなとき、上のクラスの生徒がふたりやってきて一緒にホームステイ先求むの新聞広告を出そうか、と誘う。そのうちのひとりが 上田好久だった。
わたしたちはどんな文面が良いか考えながら ロサンジェルス・タイムス社に向かった。社に着いて広告部で説明すると文面を簡単に作成してくれる。費用は三人で出し合って翌日の紙面を待った。

連絡先を学校の電話番号にしておいたのでロサンジェルス・タイムスの広告に反応して翌日から学校の事務所に電話が入るようになった。そのたびに三人で面接にでかけた。ビバリーヒルズの大邸宅だったりダウンタウンの普通の家庭だったりいろいろだったがみんな断られた。なかなか決まらないものだと感じたが、そのうちにハリウッドヒルをかなり登ったハリウッドサインのそばあたりの大きな家に面接に行った。「この家のペンキを塗ってほしいの」と奥さんがいう。三人のうちだれがいいか、と訊くとわたしを選んだ。それでその家のペンキ塗りとしてホームステイすることになった。
とにかくこれで家賃から解放される、この国にすこしは長く滞在できそうになった、と思った。

 授業で自己紹介の時自分の星座を言わなければならないのでアクエリアス と言った。蟹座はキャンサーと教わった。ホームステイの話題が出た時、ユダヤの家庭だけには入りたくないという人が多かった。ユダヤの家に入るとこき使われるぞ、という。ユダヤについての知識はそういえばシェークスピアの「ベニスの商人」の強欲な商人がユダヤ人だったな、とか「アンネの日記」に代表される第二次世界大戦中のホロコーストの被害者ということぐらいだった。入りたくないといってもだれがユダヤ人かという見分け方も知らないし、わたしは漠然とそんなものかと思っていた。

 毎朝、6時頃起きて、裏のハリウッドサインを見上げると、たまになにか飛行機のようでそうでないような飛行体が上昇していった。この裏あたりがUFOの基地になっているのかも…、と思ったりした。黒かった壁に白いペンキを塗っていると奥さんがハズバンドはキャンサーという。初めは授業で習った蟹座のことかと思った。しかしそれは癌のことだった。かかっているのではなくUCLAの癌科の医師だったのだ。大変な職業だと思った。
可愛い息子がふたりいて食事中、叫び声が絶えなかった。夜、わたしが疲れて椅子にもたれて眠っていると足に小便してゆく。それに気づいた奥さんが「オー・マイ・ロード」と嘆声をあげる。いつもなにかあると「オー・マイ・ロード」だった。テレビや街では「オー・マイ・ゴッド」を聞くことが多かったので不思議だった。訊いてみると「うちはジューイッシュなので、『オー・マイ・ロード』というのよ」という。それでこの家はユダヤ人家庭なのだ、と初めてわかった。
  医師夫婦は仲が良くて子供達との喧噪の夕食後、わたしにギターの弾き語りを所望する。最近の曲がいいか、と訊くと「ラヴ・ミー・テンダー」がいい、という。それでギターを抱えて歌い始めると、抱き合って踊りだした。西洋人の年はわかりにくいがまだ30代前半で恋人気分が残っているらしかった。そしてある日奥さんが日本の歌も聴かせてよ、という。それで日本のカラオケのレコードをバックにしてわたしが歌ったカセットテープをかけた。ふーん、これが日本の音楽、とやはりあまり反応はかんばしくなかったが「カスバの女 」に大きく反応した。「これはジューイッシュ・メロデイよ。聴いたことがあるわ、どうして日本にユダヤの歌があるの」と訊く。わたしは返事のしようがなかった。ただなぜか最後の「外人部隊の白い服」という歌詞で映像が浮かんできて胸が迫る思いがするので選んで歌ってみただけだったから。この曲のもつ切ないともエキゾチックともやるせないともなんとも表現のしにくい雰囲気はジューイッシュ・メロデイだからなのか、と思った。
 
 わたしはアメリカのクリスマスに興味があった。盛大に祝うのだろうと期待していた。家庭では七面鳥を焼いて食べるのだろう。日本とどんなふうに違うのだろうと。
12月に入ってしばらくすると学校でクリスマスパーテイがあった。
アルコール類はなかったがダンスしたりパンチを飲んだり談笑していると先生たちがみんな若いことに気づいた。20代後半から30代の女性が主で校長と副校長ぐらいが50代だった。パーテイの最後あたりにしつらえられたにわかステージに登ってギターを抱えて、リクエストに応えて当時のヒット曲を歌った。一番受けたのはヒットチャート1位を走るロッド・スチュワートのトゥナイツ・ザ・ナイト「だった。若い先生達も一緒に手拍子して首をふりコーラスする。うれしかった。文化はすべての壁を破る。パーテイが終わると女の先生達が一斉にやってくる。「あなたレベルCクラスの生徒でしょ。どうしてレベルCなの。Aでしょ」ワイワイがやがやうるさく質問してくる。歌は発音をコピーして何度も稽古するのでほとんどそのまま歌える。その歌手が南部訛ならその発音のまま歌う。ビートルズも自分たちで喋るときは英国リヴァプール訛だったが歌うときは米国南部訛が多かった。先生達に答えようとすると言葉がうまく繋がらず、やっぱりレベルCであることが判明した。めでたしめでたし。



 そろそろ世間の家庭でクリスマスツリーが飾られだしたことが報じられだした。みんな、この季節になるとマーケットの庭に並べられる樅の木を買って帰って居間に飾るらしい。もうすぐわたしのホームステイ家庭でも樅の木を買ってクリスマスツリーを飾るのかとアメリカの家庭で経験する初めてのクリスマスを楽しみにしていた。子供がふたりいるのでデコレーションに凝るだろうし手伝おうと思って待っていた。しかしいつになってもそれらしい気配はない。「うちはジューイッシュなので、クリスマスは祝わないの。」とある日奥さんが言う。それでユダヤ家庭にはクリスマスが無関係なことを知った。「そうかといって、わたしたちの世代はユダヤ教の儀式もしないの」そういえばこの家には宗教的なものがなにもないことに気づいた。人種としてはユダヤ人であっても無宗教で暮らしているらしかった。実際に一緒に生活すると映画や本でみるユダヤのイメージでは測れないものがあった。こうしてこの年のわたしの米国生活初のクリスマスは期待に反したものになった。
「でも、そのかわり、よく働いてくれるからプレゼントを買ってあげるわ」と車で丘を下りてZODYSと称する雑貨マーケットに連れて行ってくれた。そのとき白いコットンパンツとイーグルスのアルバム「ホテル・カリフォルニア」を買って帰った。コットンパンツの裾上げを自分でして縫っていると「ミシンがないからどうしようかと思ってたの、そうなの自分でできるの」と奥さんが驚く。日本で小学校の家庭科の時間に針と糸の使い方ぐらいは習ったから当たり前だった。アメリカではミシンがなければ裾も上げられないらしいことにこちらのほうが驚いた。このとき、手に入れた「ホテル・カリフォルニア」 はこの日から計り知れない夢を与え続けてくれた。ドン・フェルダーがマリブの海に沈む夕陽を眺めながら紡ぎだした永久の回転を思わせるあのギター進行。理解できそうでできない歌詞、それらがわたしをとりこにした。わたしは文字通り「ホテル・カリフォルニア」の囚われ人となろうとしていたのだ。


アルバム「ホテル・カリフォルニア」からは先行シングルとしてまず「ニュー・キッド・イン・タウン」 がリリースされてヒットしていた。「ニュー・キッド・イン・タウン」はフミオのことね、とこの曲は奥さんのお気に入りだった。翌年にはヒットチャートのトップグループに入るほどになった。ところが第二弾シングルとして「ホテル・カリフォルニア」がラジオから流れ始めると奥さんの表情が曇るようになった。聴くのをいやがるのだ。なぜかわからなかった。「わたしは、こんなところ来たくなかった。ニュー・ヨークは良かった。窓から外を見てるだけでも毎日なにかがあって楽しかった。ここにはなにもない」と嘆き出す。こんなに素敵な所、という歌詞の内容に反発を感じているらしい。そういえば近所づき合いはないし、ゴミを外に出すときにも人に見られるのを嫌がる。「カリフォルニアは嫌いなの。ニュー・ヨークに帰りたい」と訴える。それを毎日ベッドルームで夫に言い続けているらしかった。「今度、ワシントンにハズバンドが仕事見つけに行くの。ここ以外で暮らしたいから頼んだの。あなたに壁を塗ってもらうのはこの家をきれいにして高く売るためなのよ。親に援助してもらって25万ドルで買ったの」。意外だった。カリフォルニアが嫌いとは…。そのうちに本当に夫は車でワシントンに仕事探しに出かけていった。病院巡りをしているらしくなかなか帰ってこない。この家には長くいられないらしいと感じた。

 「昨夜、ワシントンから電話があったの。ハズバンドが働く病院がみつかったのよ。あなたも一緒に来てくれる」と奥さんが訊く。家族でもないのについて行くのはおかしい。学校で友達に相談する。すると一緒にホームスティ先探ししたひとり、エイブが日本人学生数人で一軒家をシェアしているので来い、という。なんだか一家に悪い気がしたがワシントンに行きたくないので医師が帰って来る前に慌ただしく奥さんに別れを告げた。壁はまだ全部は塗り終えてはいなかったがかなりきれいになっていた。すこしは値段が上がるかもしれなかった。逃げるようにしてハリウッドヒルをあとにして落ち着いたのは西南区の黒人が多い地区だった。夜、5人ほどの同居仲間に挨拶してステレオをセットしてラジオをつけた。するとラジオの音をかき消すようにヘリコプターの音が聞こえる。みんなで飛び出して探照灯が照らし人が集まっている方へ走る。すると発砲音がして通りの黒人が倒れた。パトカーが集まってきて警官が倒れた黒人の死を確かめていた。夜の捜査線のひとつの結末らしかった。
路上に溢れた血液を見て、このあたりでは夜飛び出すと危ないことに気づいた。

 翌日には路上の血液はもうきれいに洗い浄められて事件を思わせるものはなくなっていた。噂では昨夜の事件は麻薬がらみのトラブルの後始末のようだった。その地域は西南区クレンショー地区10thアベニューなのでなんでも音楽に関連づけるわたしの脳裏にベンチヤーズの「十番街の殺人」 (Slaughter On Tenth Avenue)が繰り返し鳴り響いた。しかし、幸いその後の米国生活で人が殺されるのを目にすることはなくこの国は危険という感覚はうすれていった。
 それよりもそのときのわたしの課題は如何に所持金を長持ちさせるかということだった。住むところはみんなで家賃食費を出し合う形で最低限で済むようになった。しかし、とにかく今の学校は私立校なので学費が問題だった。早晩貯金が尽きてしまう。そこで政府が援助して授業料がタダの学校があると聞いて転校することにした。それはアダルト・スクールで大人を対象にしてENGLISH AS A SECOND LANGUAGE (ESL) PROGRAM、すなわち英語を第二国語とする人を育成することが目的のプログラムを実行していた。それまで面識もなく住ませてもらう挨拶もしていなかった10thアベニューの家の日系人大家さんに訳を説明して保証人のサインを無理矢理のようにもらってそのアダルト・スクールを訪ねた。そこは学校とはいうもののそれらしくなく家具屋の二階だった。授業料はまったくのタダではなく半年に50セントだという。一応払っているという形をとっているのだ。それならわたしにぴったりだった。クラスメイトは前の学校とは大違いでイラン人が多かった。米国政府の対外政策は毎年変わりその年はイラン人留学生を大量に受け入れていたのだ。パーレビ政権下で苦しむイラン民衆をそんなふうに応援していたのだ。かれらは自国で王を批判すると危ないがここでは毎日政治の話題に熱中していた。授業中も休み時間も男子女子を問わずとにかくうるさかった。

 クラスの構成はイラン50パーセント、ラテン系30パーセント、日本10パーセント、その他10パーセントといったところだった。雑多な人種が混じり合いそれぞれの目的のために英語を学んでいた。一大勢力のイラン人が常にワイワイ発言し日本人はおとなしかった。ラテン系は冗談好きでわたしに「ジョソイ・ロコ」と言えという。わたしがそういうと大喜びした。それは「ぼくは頭がおかしい」という意味だった。当たってはいるけれど言え、といっておいて言ったからといって、バカにして囃すのは子供みたいだった。それぞれに民族性が違うことを知ることができて良かった。あるとき隣の席のアルゼンチン娘が「男のものは日本語でどう言うの」と訊く。わたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので虚を衝かれて外国人にどう教えたらいいのか、あなたもきっと迷うように少し迷ってノートにchin chinと書いた。すると、そうチンチン、わたしの国では女のほうはこういうのとラテン語らしいスペルをノートに書く。わたしは確かめるためにその言葉を発音してみた。すると突然態度が変わり「声にだして読まないで」と眉をしかめて怒りだした。自分が先に訊いておいて勝手に怒るな、と思ったがまわりのラテン系の人には意味がわかるから戒めたのだろう。おかげで一瞬見たその言葉は覚えることができなかった。残念なようなそうでもないような気がした。かの女はのちに米国永住権を得るために日系人ではなく中国系アメリカ人と結婚したからあの日本語はかの女の語彙に入らず忘れ去られてしまったことだろう。残念なようなそうでもないような、どうでもいいような…。


 日本人は大学に入るための英語力アップが目的の人が多く正しい英語を話そうとする。議論も考えてから喋るので口が重かった。他の民族は文法的に合っていようが合っていまいがお構いなしにとにかく喋りまくるので上達が早かった。イラン人たちはみんな大声で意見を述べ合うのだがその中にも思慮深げな人物はいて、みんなが騒いだあと静かに締めのようなことをいう。そして他民族の代表のようにわたしにも意見を訊く。わたしは部外者としての意見を述べた。かれらはチェスが好きで昼休みも休み時間も集まって楽しんでいた。チャンピオンらしいヒゲの男が脇を通ろうとするわたしを見とがめてチェスをしようと誘う。他民族代表としてわたしをチェスという知的競技に誘っているようだった。わたしは日本将棋は好きだったがチェスはあまりやったことがなくどうせ歯が立たないから断った。勝負するのなら勝てないにしてもいい勝負ぐらいにはしたかったから。
 そしてある日「ボビー・フィッシャーのチェス必勝法」という本を図書館で借りて帰った。何日か真剣に勉強してチェックメイト(詰み)のテクニックや基本定跡を覚えて、昼休みに集まって騒いでいるチェス好きのそばに素知らぬ顔で近づいた。やはり一通り対戦相手に勝ったクラスのチャンピオンが手持ち無沙汰になってわたしを誘うので仕方なさそうに受けて立った。油断していたらしく局面は覚えた定跡通り進み、チャンピオンは不思議そうに自分のキングを倒した。かれはボビー・フィッシャーに負けたようなものだった。申し訳ないような気がした。いくら強くても自信過剰で定跡にはまるといけない。
 やがてアダルトスクールの主要メンバーであったイランからの留学生達はいつのまにか姿を消し気が付くと本国イランでは親米強硬路線パーレビ政権が倒された。イランイスラム革命と呼ばれる革命が勃発したのだ。あの留学生達も新政権樹立に働いたのだろう。残念なのは革命後振り子の反動のようにあまりにもナショナリズムが強くなりすぎたことだった。あの思慮深げな人物のような指導者が中枢になってコントロールすることができなかったのかもしれない。

そろそろ、車を購入しようと思った。この街ロサンジェルスは世界で一番広いことで有名なので仕事をするには車が必要だった。日本語新聞「羅府新報」の売買欄で「中古車売りたし」を見て車に詳しい友達と何カ所か廻った。見かけは良くとも走るうちにハンドルがちょっとずれたりするものは事故車のようでやめて最終的にポンティアックGTOを450ドルで買った。なぜならロニーとディトナスのGTO という曲が好きだったから。それは以前サーフィンミュージックとともに流行したホット・ロッド音楽で、米国のバイク界を席巻した リトル・ホンダと並ぶ名曲だった。残念ながらリトル・ホンダのほうは社名が入っているのでNHKではあまり流れない。わたしには車の善し悪しは判断できないのでそんなことで決めたのだ。とにかくこれで車が手に入った。スピードは出さずよたよた、あるいはヨロヨロという感じで毎日稽古し慣れるとやっと学校まで走った。


 経済的にいよいよ逼迫して早くなんとかしなくてはならない。そんなとき、10thアベニューの学生寮のようになった家に転がり込んできた女子学生が夜、日本人街(リトル・トーキョー)の日本食レストランでアルバイトを始めてその店のピアノバーでエンターティナーを探しているという。早速、GTOにギター、譜面その他を積んでその店に向かった。店を探して夜のリトル・トーキョーをグルグル廻っていると不審車両と思われたらしくLAPD(ロサンジェルス警察)のオートバイに停められた。わけを言うとその店の場所を教えてくれた。店のオーナーは女性ピアニストを探していたのだがギターの弾き語りをしてみせると仕方ないと思われたのか採用された。夜9時から朝2時まで演奏すること。それが米国での初めての仕事だった。女性ピアニストが好みのオーナーの意向には反していたがバーテンダーやスシ職人など従業員には評判が良かった。

 「今度入った日本娘きれいだぞ、フミオ、」イスラエル軍のパイロットだった生徒がある日、ニヤニヤする。その娘はわたしの後ろの席に座った。それが一生の伴侶との邂逅の瞬間だった。今もそのとき覗いた瞳の輝きを鮮やかに覚えている。いろいろ学校のことや英語のことを尋ねてくる。わたしは隣に移動する。妹夫婦の結婚式に喚ばれて式に出席したのだがせっかくアメリカに来たのだからしばらく滞在して英語を覚えたいから入学したという。授業が終わるとサンタモニカのアパートへ車で送った。サンタモニカ方面の道はヘビー・トラフィックで慣れていないので運転初心者のわたしにはとてもこわかった。
 それから現在までかの女は毎日、わたしとともに過ごすことになった。 昼休みには車で食べに出た。一番頻繁に通ったのは学校に近かった<ラ・ブレア・タールピッツ にある美術館博物館群のひとつLAカウンテイ・ミュージアム のカフェテラスだった。その頃まだアメリカには余裕があってそれらの施設の入場料はタダだった。画学生たちが名作の前で何時間も模倣している。世界最高級の美術品をじっくりゆっくり堪能できた。そのカフェテラスのサラダは一人前をふたりで食べても食べきれないほどの量があった。やがて当然のようにマリポサ通りのアパートを借りてふたりで暮らし始めた。
 そのうち、ふたりが結婚することは学校中の衆知の事実のようになった。ある日、クラスにふたりで帰ってくると突然先生も生徒もみんなでサプライズ!コングラチュレーションズと叫ぶ。サプライズパーティが始まったのだ。贈り物やカンパの金を渡され、なにか歌えと所望される。それで「♪恋が計算通りにできるなら、こんな女(男)に惚れたりしなかった。あれこれ迷ってそろばん 弾き、それでもやっぱりこいつに決めた~」と日本語だったけれどふたりで自作の歌を披露した。。今にして思えばあのイスラエル軍パイロット出身の男はキューピッドだった。名前はもう忘れてしまったが今頃どこでどうしていることだろう。わたしたちの名前も忘れてしまっただろうか。そう、縁結びの神は海外出張して多くの糸の中からふたりを選り分けて結んでくれたのだ…。

 わたしの妻となることになったこの女性は日本で教習所に通って自動車運転免許証を取得していた。運転免許はこの国では身分証明書として頻繁に必要になるから、わたしごときが人に教えるのはおこがましいけれど米国の運転免許取得のためにと、日本とのルールの違いの認識や安全確認の重要性を力説してしばらく稽古につき合った。すると78点で合格した。運転もうまいといわれたという。良かったことは良かったけれどなんだか気が抜けた。当たり前だけどわたしの場合ほど心配することはなかったらしい。
 わたしたちは結婚式場を探した。どこがいいかさっぱりわからなかった。日本人の牧師さんがやっている教会に頼んでみようかと相談してセントメアリーという教会を訪ねた。しかし信徒さんでなければだめです、と期待は虚しくあっさり断られた。それでイエローページを調べて日本の芸能人がよく結婚しにやってくるという ガラスの教会を見つけた。そこは寄付金(ドーネーション)を納めれば良いということだった。電話すると土日の寄付金が一番高くて金曜日が割安だったので1978年2月17日(金)に決めた。結婚記念日はそんな経済的理由で決まった。
 そのランチョー・パロス・ヴァーデス地区にある太平洋に面した丘の上のスエーデンボルグ系の教会、Wayfarer’s(徒歩旅行者)Chapelは帝国ホテルの建築家、フランク・ロイド・ライト(1869-1959) がなんと日光東照宮大猷院(たいゆういん)を模して設計したものだった。



そのころ、GTOのラジエターから水が漏れてオーバーヒートすることが多くなってしばらく走るとすぐ停まるようになったのでフォード社のピントーという中古コンパクトカーを手に入れた。
 1978年1月の小雨降る日、授業が終わってオリンピック通りを東に走ってウェスターン通りとの交差点の信号が黄色になって左にターンしているとき、信号が変わる前に渡ろうとスピードをあげて突っ込んできた車と衝突した。フォード・ピントーは数回回転して止まった。わたしたちは少しの間気絶していた。やはり左折が問題だったようだ。
 バス停で待っていた人々が一斉に集まってきて介抱してくれる。それはほとんどがアフリカ系アメリカ人(黒人)だった。身動きできずボーとしたまま、ただ親切な人たちだと感謝した。救急車がやってきて運び込まれたUSCジェネラルホスピタルで診察を受ける。わたしたちは額をフロントガラスにぶつけ,
わたしは額に入った割れたガラスの破片をとってもらい、妊娠4ヶ月目だった妻は目の上が膨れたが、他に異常がなく安心した。
 翌日、ジャンク・ヤードに車を見に行くと完全にクラッシュして使いものにならないことがわかった。トランクの中にあったギターその他の仕事道具を調べるとだれかがすでに持っていってしまっていた。日本語の譜面まで盗らなくても、と思った。妻は身につけていた財布をとられていた。車の中を何度探しても見つからなかった。だれかが介抱しているふりをしてとったらしい。そのころのわたしたちは気絶している間も気を抜けない、ということをまだ知らなかった。


とりあえず仕事に車がいるのでわたしは急いでドイツの大衆車メーカー、オペル社のアストラ・クーペの中古車を購入した。結局その車をこまめに修理したり手入れして日本に帰国するまで使用することになった。わたしは夜は弾き語り、昼は学校という生活を続けた。そのころふたりで居住したマリポサ通りのアパートにはそれほど長くは住まなかったのだがそれでもいろいろなことがあった。隣の若い黒人が麻薬でおかしくなって窓から飛び降りようと自殺しかけて取り押さえられたり、煙がどこからか流れてきて火事騒ぎで避難したり、駐車場に駐車しておいたGTOのイグニションキーホールのシリンダー部分が工具で外されていたり、そのあたりでは人が見ていないとなるとなんとか車を盗もうとするらしかった。
 そうこうするうちに結婚式が近づく。ブーケ・トスのためのブーケを注文して当日取りに行く約束した。事故でぶつけて腫れた妻の目の上のたんこぶは日を追ってだんだん小さくなって血が下りてきて目のまわりを黒くしてきた。濃いシャドウのようになった。
 当日は金曜ということで先生も生徒もほとんど出席できない。家族も親戚もいない、ただ数人の友達だけの前で執り行うシンプルな結婚式だった。意味がわからない神父さんの言葉をオウム返しに唱える。神父さんは苦笑いしながら祝福する。それでも神の前で永久を誓い正式に結ばれたのだ。なにもないただふたりの出発だった。
 あの日、わたしたちに降り注いだカリフォルニア・サンシャイン は今もふたりの心に輝き続けている。序章、了。
fumio




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Maiden Voyage jazz club, near MacArthur Park in Los Angeles, In January of 1981,
(SF Live At Maiden Voyage, Los Angeles, CA / January18, 1981)
ロサンジェルス市民の憩いの公園マッカーサーパークの近くにあったジャズクラブ処女航海(MAIDEN VOYAGE)に屯(たむろ)するアーティスト集団からプログレッシヴロックグループSFのライヴコンサートのオファーが入った。アーテイスト仲間の援助と要請をうけてジャズクラブ『処女航海』において1981年1月18日(日)午後9時、入場料5ドルでアルバム「プロセス」の収録曲を中心にライヴ演奏するファイナルライヴを催した。普段はジャズの演奏を聴きにくる聴衆の前でわたしたちは全く異質な音楽を淡々とくりひろげた。ライヴの後半、ストーム の曲で宮下が中国銅鑼その他のパーカッションを打ち鳴らし舞う際、舞台機材店で借りだしたスモークマシーンでステージがドライアイスの煙に覆われて真っ白になった。アンコールの声が沸いた時、応えられる曲数があまりなく知っている曲をやりつくしてファー・イースト・ファミリー・バンドの曲「セイ」まで演奏してそしてすべてが終わると「You are different!」と聴衆が叫んでいた。
その「処女航海」でのSFライブコンサートの翌日、中島茂男(シゲ)さんはサンフランシスコに出発したのである。
わたしは当座の昼飯代になる餞別を50ドル手渡して見送ったのだった。
fumio


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