マホメット(ムハンマド)
NEBIMUSA(モーゼの墓)に関しては...................
ニーベルンゲンの指輪 その7参照
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/30212703644aabe3e0496dcf8e4124fa
写真はNEBI MUSAの空中写真。聖職者が触れたがらないモーゼの墓(MUSA=MOSES)である。
(Nebi Musa - Arabic: Nebi=prophet, Musa - Moses. Also spelled: Nabi, Neby.)ムスリムとキリスト教の対立,あるいは,資本主義と共産主義の対立......何のことはない。そのa defact SYNTHESISは「テーブルの下で握手をしているお友だち」なのである。イスラム教とキリスト教も元を辿ればアブラハムに行き着く。テロ組織なんてのもお友だちさくら団体。
歴史的事件は、新世界秩序のアジェンダを進めさせるように人々を洗脳し操作するために作り出される。
(http://satehate.exblog.jp/)
代理人は,彼らの忠義を彼らの国ではなく,風の征するモレア=イルミナティに捧げるのである。彼らの狙いは彼らの愛すべき国を破壊して,その殺戮から利益を得ることである<ヘンリー・メイコウ>。
聖職者が触れたがらない理由として.....主はモーゼに言われた。「これがあなたの子孫に与えると私がアブラハム,イサク,ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし,そこに渡って行くことはできない」主の僕モーゼは主の命令によってモアブの地で死んだ。主は,モーゼをべト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが,今日に至るまで,だれも彼が葬られた場所を知らない。(申命記第34章1~6節)
モアブはルツの住んだ土地。聖書ものがたり~ルツ記
http://web.archive.org/web/20170502012052/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/133.html
Wikiによる「モアブ」解説
ムスリム(MOSLEMS)はここにモーゼが葬られていると信じている。写真はエリコ(Jericho)の近くにあるNEBI MUSA(モーゼの墓)の空中写真。西暦13世紀に建てられて以来イスラムの巡礼者たちはここを訪れている。一説にはエルサレムに対抗するためにアラブ人によって建てられたとする説もある。詳しいことは下のサイトを参照。
http://www.biblewalks.com/Sites/NebiMusa.html#Photos
Wikiによるエリコの解説
日本の仏典はサンスクリット語の音訳(漢訳)であり真の仏教徒は原語を学ばなければならない。(無量光と無量寿というサンスクリット語(梵語)でAMITABHA,AMITAYUSという共通部分が阿弥陀という念仏になった,つまり南無阿弥陀仏とはそういうこと)。イエスがアラム語を話していたのならアラム語で話さなければならない。中村元氏(故人)もそういうような事を言っていました。
仏教の本質・中村元
コーラン
コーランはイスラム教の聖典で、マホメットが神(アッラーフ)から直接啓示を受けたと信ずることばを記録したものである。 正統派イスラム教徒は、コーランを天使ガブリエルの仲介によってマホメットに伝達された「神ご自身のことば」と信じている。
神のことば
われらは、おまえたちが理解するようにと思ってこれをアラビア語のコーランとした(43章3節)。
これこそ疑う余地なき啓典である。これには畏れかしこむ人々のためのお導きがある(2章2節)。
すなわち、使徒にして民衆出の預言者に従う人々に。 この者のことについては、彼らの手もとにある律法や福音書にも記されているから、それを見れば分かるはずであるが、彼は正しい行いを勧め、醜い行いを禁じ、よいものを許し、悪いものを禁制し、みなに負わされた重荷と首枷(くびかせ)をとりはずす。 それゆえ、彼を信じ、彼を尊重し、彼を助け、下された光明に彼とともに従う人々こそ、栄える者である(7章157節)。
コーランによると、マホメットは預言者(使徒)であり、神の啓示を受けてそれをアラビア語で説いたことになる。 マホメットは自分のことばの一部を神のことばと主張した。 このような主張がどうして可能であるのか。 多くの箇所でマホメットは『旧約聖書』、『新約聖書』の解説をしている(10~12章、19章~21章、28章、29章、41章等)。 ユダヤ教徒やキリスト教徒が『旧約聖書』、『新約聖書』を神のことばと信じているのであれば、『旧約聖書』、『新約聖書』のアラビア語による解説を神のことばと言っても、ユダヤ教徒やキリスト教徒がそれを間違いであるとはいえないであろう。 マホメットはこのように考えたようである。 しかし、ユダヤ教やキリスト教の真似をしているだけであるといわれるおそれがある。 そこで、マホメットは、ユダヤ教徒やキリスト教徒の主張で『旧約聖書』、『新約聖書』に基づいていないと考えたことを指摘し、批判した。
ユダヤ人やキリスト教徒は言う、「われわれは神の子であり、その愛(いと)し児(ご)である」。 言ってやれ、「それでは、なぜおまえたちを罪のゆえに罰したもうか。 いな、おまえたちも人間であり、神の造りたもうたものである。 神は欲したもう者を赦し、欲したもう者を罰したもう。 天と地と、そのあいだにあるものすべてを統治したもうのは、神ご自身。 帰るところは神のみもとである」(5章18節)
ユダヤ教徒は、「神の子なるエズラ」と言い、キリスト教徒は、「神の子なるキリスト」と言う。 これは彼らの口先のことばであり、かつての背信者どものことばにならっているのである。 神が彼らを討伐したまえばいいのに。 なんと偽りをたどっている者どもであろうか(9章30節)。
同様に三位一体論を批判する。
「まことに神は三者のうちの一人」などと言う人々はすでに背信者である。 唯一なる神のほかにいかなる神もない。 そんなことを言うのをやめないと、信仰にそむく者どもにはかならず痛烈な懲罰がふりかかるであろう(5章73節)。
イエスは、ただの僕(しもべ)の一人にすぎない。 われらは、彼に恵みを垂れ、イスラエルの子らへの手本とした(43章59節)。
また、天使は女の子であるという意見があったらしい。
慈悲ぶかいお方の僕である天使たちを、彼らは女の子と称している。 いったい、それが創造されるところを彼らは見たとでも言うのか。 彼らの証言は記録され、詰問されなければならない(43章19節)。
こうして『旧約聖書』および『新約聖書』を啓典としながら、ユダヤ教およびキリスト教と異なる新たな宗教が誕生した。
戦利品
マホメットの目的は、ギリシャ語やラテン語を解さないアラビア人のために『旧約聖書』や『新約聖書』を紹介することではない。 マホメットの目的は、宗教によって徒党を組み、軍事的、政治的にメッカを征服することであった。
信者たちがあの木の下で汝に忠誠を誓ったとき、神は彼らのことをお喜びになったものだ。 彼らの心の中にあるものをお知りになって、彼らの上に静寂を下したまい、間近い勝利で報いたもうたのである。
そのうえ、多大の戦利品を得させたもうて報われた。 神は力強いお方、聡明なお方である。
神は、おまえたちがとるべき多くの戦利品をおまえたちに約束され、それを急いでお授けになった。 そして、おまえたちに敵対する者の手を抑えたもうた。 これは、戦利品を信者たちへのみしるしとして、おまえたちを正しい道へ導きたまおうとのみ心によるものである(48章18~20節)。
マホメットは実際にメッカを征服したのであるから、信者たちはマホメットに忠誠を誓うことで多大の戦利品を獲得した。
ある戦いに勝利してマホメットは次のように預言した。
おまえたちが彼らを殺したのではなくて、神が彼らを殺したもうたのである。 おまえが射とめたとき、射とめたのはおまえではなくて、神が射とめたもうたのである。 これは、神がよい試練として信者を試したもうためであった。 まことに神はあまねく聞き、よく知りたもうお方である(8章17節)。
神と使徒に服従すること
言ってやれ、「神とその使徒に従え」。 もし彼らが背を向けるならば、まことに神が背信者を愛したもうことはない(3章32節)。
信ずる人々よ、神と使徒に服従せよ。 聞いていながら、神に背をむけてはならない(8章20節)。
信ずる人々よ、神と使徒を裏切ってはいけない。 知っていながら、おまえたちへの信頼を裏切ってはならない(8章27節)。
おお、信ずる者たちよ、神に従え、使徒に従え。 けっしておまえたちの行為を無にするではない(47章33節)。
神と終末の日
信者であれ、ユダヤ教徒であれ、サビア人であれ、キリスト教徒であれ、神と終末の日とを信じて善を行う者は、怖れることもなく悲しむこともない(5章69節)。
信じる人々よ、神と使徒と、使徒に下したもうた啓典と、それ以前に下したもうた啓典とを信ぜよ。 神とその諸天使と、啓典と使徒たちと終末の日とを信じない者は、すでに遠くに迷い去っているのである(4章136節)。
終末の日は最後の審判が行われる日である。
らっぱが吹かれるとき、その日にはかれらのあいだにいかなる血縁関係もなくなり、たがいに尋ねあうこともない。
量目が重い者は栄える。
しかし量目が軽い者は、自分自身を失い、ゲヘナの中に永遠にとどまる。
彼らは顔を業火に焼かれて、唇(くちびる)をねじ曲げる(23章101~104節)。
敬虔な者は、至福の中に住むが、
放蕩者は、業火の中に住み、
審判の日、その中で焼け滅びる。
そこから抜け出すこともかなわぬ(82章13~16節)。
神と使徒に従わず、神と終末の日を信じない者には神の懲罰がある。
まことに信仰なき者どもは、汝が警告しても警告しなくても同じこと、決して信じようとはしない。
神は彼らの心と耳に封印したもうた。
また、その目には被(おお)いがかけられている。彼らには大きな懲罰があるであろう(2章6節/7節)。
彼らがたとえ耐え忍んでも、もはや業火が住まいときまってしまった。 たとえお慈悲を求めても、応じてはもらえない(41章24節)。
よって、背信者には厳罰を味あわせることだ。 彼らの所業の最悪のものに報いてやれ。
これが神の敵にたいする報いである。 すなわち、業火である。 われらのしるしにそむいた報いとして、その中に彼らの永遠の住まいがある(41章27節/28節)。
偽善者の男女、それに不信者どもには、神はゲヘナの火を約束したもうた。 それだけで彼らには十分である。神が彼らを呪(のろ)いたもうたように。 彼らには永劫(えいごう)の懲罰がある(9章68節)。
彼らのうちには、信仰にはいった者もあり、また背をむけた者もあった。だが、焼きつくす火はゲヘナの火だけで十分である。
われらのしるしを信じない者は、いまに火に投げこんでやる。皮膚が焼けただれるたびに、われらは何度でも皮膚をとりかえて、彼らに懲罰を味あわせてやろう。まことに神は威力あり、聡明であらせられる(4章55節/56節)。
懲罰が彼らを頭上や足下から襲う日、神は言いたもう、「おまえたちのしてきたことをよく味わうがよい」(29章55節)
このような危機感をあおりたてる手法は、現在でもハルマゲドン、ノストラダムスの大予言等のように通用する。 特に宗教問題だけに限るものでもない。 例えば、日本に軍国化の兆候があると言って危機感をあおりたてる人がいる。 このような危機感をあおりたてる人は、本当は日本が他国と戦争することを望んでいる人である。 なぜなら、日本が他国と戦争になれば、日本に軍国化の兆候があるという予言が的中したことになり、うれしいからである。 戦争を望まないのであれば、そんな危機感をあおりたてるようなことはしないはずである。 朝鮮出兵を敢行した豊臣家が亡んだ後、江戸時代は長期にわたる天下泰平の時代となった。 そんな天下泰平の時代に、朝鮮出兵の気運が高まりつつあると再軍備の危機感をあおりたてても無益であろう。 そんな意見を聞くことで、江戸幕府は天下泰平を維持しようとするのではない。 ところが、江戸幕府を亡ぼした明治維新政府では、征韓論は政治上の大問題となった。 軍国化や戦争の危機感をあおりたてることによって得られるであろう結果は、軍国化や戦争にほかならない。
神を畏れよ
最後の審判によって、神と終末の日を信じず、神と使徒に従わない者には懲罰があるから、だれもが神を畏れなければならない。
神の裁きはかならず来る。それゆえ、これを急ぎ求めるな。 神をほめ讃(たた)えよ。 神は、彼らが併置する者どもから超越して、いや高くおわします。
神はみ心にかなう僕(しもべ)たちの上に、「わしよりほかに神はない。 されば、わしを畏れかしこめ」と警告させるため、ご命令の息吹きをもたせて天使たちを下したもう(16章1節/2節)。
神を畏れる人々にとっては、そんな輩のことにたいしてなんの責任もない。 彼らも神を畏れてくれればよいがと警告するだけでよい(6章69節)。
信仰にはいり、主を畏れる者には、
現世でも来世の生活においても吉報がある。神のみことばに変更はない。 これこそ大いなる成果である(10章63節/64節)。
信仰あつく神を畏(おそ)れる者にとっては、来世の報酬のほうがはるかにすぐれている(12章57節)。
上にある主を畏れ、命ぜられたことを行う。
神が言いたもうに、「ニ神を認めてはならぬ。神は唯一である。 それゆえ、わしのみを畏れよ」(16章50節/51節)
神が唯一であることは後世のイスラム教学では重要視されたという。
慈悲
おまえたちの神は唯一の神、そのほかにいかなる神もなく、慈悲ぶかく慈愛あつき神(2章163節)。
神にお赦しを乞え。神は寛容にして慈悲ぶかい方(4章106節)。
神は懲罰のはげしいお方であることを知れ。 かつまた、寛容にして慈悲ぶかいお方であることも(5章98節)。
たとえおまえたちが神の恩恵を数えたてようとも、とうてい数えつくすことはできない。 まことに神は寛容にして慈悲ぶかい方である(16章18節)。
開巻の章
慈悲ぶかく慈愛あつき神の御名(みな)において。
神に讃(たたえ)えあれ、万有の主、
審判の日の主宰者に。
あなたをこそわれわれは崇(あが)めまつる、あなたにこそ助けを求めまつる。
われわれを正しい道に導きたまえ、あなたがみ恵みを下しになった人々の道に、
お怒りにふれた者やさまよう者のではなくて(1章)。
これでコーランのほぼ全体を見た。これからは興味ある事項を拾ってみる。
喜捨
礼拝の務めを守り、喜捨を行い、跪拝する人々といっしょになって跪拝せよ(2章43節)。
礼拝の務めを守り、喜捨を行え。おまえたちが自分のためになるように行った善事は、すべて神のみもとに見いだされるであろう。 神はおまえたちの所業をみそなわしたもう(2章110節)。
おまえたちの友はただ、神とその使徒と、礼拝を守り、喜捨を行い、ひれ伏し拝む信者たちのみ(5章55節)。
神の定義
神は答えて言いたもうた、「わしはおまえたちの知らないことを知っている」
・・・
天使たちは言った、「畏れ多いこと。あなたがお教えくださったもののほかは、私たちにはなんの知識もありません。まことにあなたは全知にして聡明なお方です」(2章30~32節より)
神は全知であることの説明である。 だれも知らないことを知っていることが全知であるようなので、このことを利用して神の簡単な定義をつくることができる。
定義1:神は知らないこと(無知)を知っていることである。
定義2:無知を知っていることは全知である。
定義1、2より、神は全知であることが結論される。 なお、無知を知っていることは必ずしも神ではない。 また、ことわざで、「神のみぞ知る」とは、だれも知らないことをいう。
神はいや高くおわします。 これこそ真の王者。 汝への啓示が果たされないうちにコーランをせきたててはならない。 ただこう言え、「主よ、私の知識を増してください」(20章114節)
復活の時を知りたもうのは神お一人。神は雨を降らしたもう。 子宮の中にあるものをよく知りたもう。 だれ一人、明日何で稼(かせ)ぎ、またいずこで死ぬかを知ることできはしない。 まことに神はよく知りたもう。よく通暁したもうお方である(31章34節)。
復活の時を知っているのは神だけである。 したがって、だれもそんな時を知らない。
ことばに本当の解釈はあるのか。 ことばに興味をもつ者が必ずいだく疑問にマホメットは次のように預言している。
神こそ、汝にこの啓典を下したもうたお方である。 その中には瞭然(りょうぜん)とした文句があり、これらは啓典の母体である。 また、別に曖昧(あいまい)な文句がある。 心にひずみのある者は、曖昧なほうにとりついて、混乱を求め、かってな解釈をしようとする。 しかし、神のほかにほんとうの解釈を知る者はない。 知識に根をおろしている者は言う、「われわれはこれを信じます。いずれも主のみもとから出たものです」。心ある者以外は、なにも反省しない(3章7節)。
注目すべき個所を強調してある。 神だけがことばのほんとうの解釈を知っている。 したがって、だれもことばのほんとうの解釈を知らない。
神の恵み
死を恐れて幾千人もが一挙に家を出たのを、おまえは見なかったか。 神は彼らに、「死ね」と言いたもうた。 だが、また生きかえらしめたもうた。 神は人間に恵みを垂(た)れたもうお方である。 しかし、大多数の人間は感謝もしない(2章243節)。
「死ね」と言いたもう神に感謝させようとする独特の表現である。 私が武器を持った者に「死ね」と言われ、恵みによって生かしてもらったら、その者に感謝するだろうか。
信ずる人々 vs. 信仰なき者
見よ、おまえたちは彼らを愛するが、彼らはおまえたちを愛してはいない。 おまえたちは啓典のいっさいを信じている。 ところが、彼らがおまえたちに会うと、「われわれも信じている」と言う。 しかし、彼らは自分たちだけになると、怒りのあまりおまえたちにむかって指を噛(か)む。 言ってやれ、「怒り狂って死んでしまえ。神はおまえたちの胸中の思いをことごとく知りたもう」
吉事がおまえたちを訪れれば、彼らは不愉快になり、凶事がおまえたちを襲えば、彼らはそれを喜ぶ。 しかし、おまえたちが耐え忍んで神を畏れるならば、彼らの企みはいささかもおまえたちを害することはない。 神は彼らの所業をあまねく知りたもう(3章119節/120節)。
「おまえたち」は信ずる人々であり、「彼ら」は信仰なき者である。
神の愛する者
汝が彼らをやさしくとりあつかったのも、じつを言えば、神のお慈悲によったこと。 もし汝が冷酷でかつ粗野な態度であったならば、彼らは汝のまわりからちりぢりになったことであろう。 とにかく彼らを赦し、彼らのために赦しを乞うてやれ。 今度のことについても、彼らとよく合議せよ。 いったん決意したらなら、まず神にたよれ。 神はたよる者を愛したもう(3章159節)。
神はたよる者が大好きである。
妻の人数
コーランには妻の人数についての規定がある。
もしおまえたちが孤児を公正にあつかいかねることを心配するなら、気に入った女を二人なり三人なり、あるいは四人なり娶(めと)れ。 もし妻を公平にあつかいかねることを心配するなら、ひとりだけを、あるいは自分の右手が所有するものを娶っておけ。 いずれにも偏しないためには、これがもっともふさわしい(4章3節)。
「右手が所有するもの」とは、女奴隷をいう。 4章2節によると、孤児たちには財産をわたさなければならないことが規定されている。
妻は四人までである。 ところが、マホメット自身には多くの妻妾がいたので、例外の規定がある。
おお、預言者よ、われらは、汝が婚資を与えた女、神が戦利品の中で汝の右手の所有とした女、 汝の父方の叔父ならびに叔母の娘、母方の叔父ならびに叔母の娘で汝とともに移住した者、 みずから預言者にからだを与えたいという信者の女で預言者が結婚したいと思った者たちを、汝の法にかなう妻と定めた。 ただし、これは汝だけに特別に定めたことで、信者たちは別である。 われらは、妻ならびに奴隷女に関して信者に定めたことをよく知っている。 これは、汝に非難のないようにするためである。 神はよく赦したもうお方、慈愛あつきお方である(33章50節)。
なぜ預言者にだけ妻が四人より多くいてもよいのか。 神が赦したからである。
男優位
男は女より優位にある。 というのは、神がおたがいのあいだに優劣をつけたもうたからであり、また男が金を出すからである。 それゆえ、善良な女は従順であり、神が守りたもうたものを留守中も守るものだ。 逆らう心配のある女たちにはよく説諭し、寝床に放置し、また打ってもよい。 もし彼女たちが言うことを聞くなら、それ以上の手段にはしってはならない。 まことに神は高く、かつ偉大であらせられる(4章34節)。
尋ねること
信ずる人々よ、いろいろなことを尋ねてはならない。 はっきりわかれば、かえってためにならないものだ。 しかし、コーランが下されているときにものを尋ねるのなら、おまえたちにはっきりさせてくださるであろう。 神のお赦しを受けられよう。 神はもともと寛容にして大度のお方である(5章101節)。
信者はマホメットにいろいろなことを尋ねてはならない。 では、尋ねるとどうなるのか。
おまえたちより以前にも、ある民がこの種の問題について尋ねた。 しかし彼らは、すぐに信仰をなくしてしまった(5章102節)。
信仰をなくしてしまう。
多数意見
もし汝が地上の大多数の者に従うならば、かならず神の道から迷いでるであろう。 彼らは、空想に従っているにすぎない。 ただ嘘をついているだけである(6章116節)。
偶像崇拝
おまえたちは、神を除いて偶像を崇拝し、嘘をついているにすぎない。 神を除いておまえたちが崇拝しているものは、どんな糧(かて)を授ける力もない。 よって、神に糧を求め、神を崇拝し、感謝せよ。 おまえたちは、神のみもとへ帰されるのだ(29章17節)。
諸派を起こす者
宗教を割り、諸派を起こす者は、それぞれの宗派のもっているものに喜悦している(30章32節)。
私も同意見である。
メッカの多神教徒
メッカの多神教徒はマホメットに次のように意見した。
「われわれは、ひとたび死んでしまえば、もうおしまいである。 よみがえるなんていうことはないのだ。
おまえたちが真実を語っているのなら、われわれの先祖を連れてきてくれないか」(44章35節/36節)
彼らは、「あるのはこの世の生活だけだ。死んだり生きたりするだけだ。 われわれを滅ぼすのは、ただ時だけだ」などと言う。 彼らは、何も知らず、ただ揣摩臆測(しまおくそく)しているにすぎない(45章24節)。
これに対する反論は次の通りである。
言ってやれ、「神こそは、おまえたちに生命を与え、次いで死を授け、さらに復活の日、おまえたちを集合させたもうお方である。 これには一点の疑念もない。 しかし、多くの者はこれを知らない」(45章26節)
憶測
おお、信ずる者たちよ、憶測をできるだけ避けよ。 ある種の憶測は罪である。 たがいにさぐりあったり、陰口をたたいたりするではない。 おまえたちの中で、だれか死んだ兄弟の肉を食うのを好む手合いがあろうか。 いや、おまえたちだって嫌(きら)いであろう。 神を畏れよ。まことに神はよく憐(あわ)れむお方、慈愛あつきお方である(49章12節)。
信者
信者というのは、神とその使徒を信じて、けっして疑念をいだかず、財産と生命をかけて神の道で戦う者のことにほかならない。 こういう者こそ、誠実者である(49章15節)。
平安
楽園の中で、彼らは、くだらぬ話や罪なことばを聞くことはなく、
ただ、「平安あれ」「平安あれ」と言うのを聞くだけ(56章25節/26節)。
「平安あれ」「平安あれ」と言うのは非常に簡単である。 しかし、ただ「平安あれ」「平安あれ」と言うのを聞くだけなのは、 最後の審判により楽園に入ってからである。
サタン
彼らはまたサタンに似ている。 サタンが人間に、「信仰なんか捨てよ」と言って、人間が信仰を捨てると、サタンは、「私は、おまえとはかかわりない。ただ万有の主なる神を畏れる」などと言う(59章16節)。
「彼ら」はユダヤ教徒である。
参考文献:
『コーラン』中公バックス 世界の名著17、藤本勝次、伴康哉、池田修訳、中央公論社
制作:須田隆良(2000/9/4) 修正(2001/7/8)
E-Mail: knxkg921@ybb.ne.jp