論理哲学論考(解説)
論理哲学論考を略して論考と表すことを踏まえて、言語の限界を明らかにすること、これを論述していく所存である。なお論考では枝番号という形で記述されていることを補足しておきたい。
1.世界は何で成り立つか
世界は成り立っている事柄の総体である、と説明してある。2番目には、成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう、とある。
問題A)成り立っているという語と成立という語の差異とはいかに
事態の成立ではなく、成り立っている事態と表現した方が適しているのではないか。事態の成立という語は後期に変哲という評価が彼に下された。「成り立っている事態と言えばいいんだ」と後期ウィトゲンシュタインは考えた。
別の『論考』の1.1にはこう書いてある。
1.1 世界は事実の総体だ。もののではない。
「もののではない。」という文は世界は物の総体ではないことを示唆している。そして1.11~1.21までで、おおよそひとつが成り立っているときに他の存立として何かが成り立つ、あるいは何かが成り立たたないという考え方を提示する。2で彼はこう述べる。
2 成り立っていることがら、事実は諸事態の存立〔das Bestehen〕だ。
前述したとおり、同じ2において「成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう」という訳もあるが、この訳は彼は否定している節がある。「・・・事実は、諸事態の存立だ」、という訳こそ彼が表現したい内容である。
3 事実の論理的像は思考〔der Gedanke〕だ。
別の論考には「3 事実の論理像が、思考である。」と表記してあるが、これは前述の「論理的像」と「論理像」とは同じものを指示していると受け取れるであろう。
ただ単に語りうるのは事実だけである、というウィトゲンシュタインの理念をゆっくり考えてみよう。どうだろう。語りうるのは、意味のない命題でも通用するのではないか、こうした疑問が生じる。しかし意味のない命題は語りうると言わない、というアプリオリな解決が齎されるであろう。それでは「~かもしれない」という表現はどうだろう。これも語り得ない話である。
近頃、「かもしれない」を使用するな、という批判が相次いでいる。そういう方に限って、「断言して語れ」と言われる。ウィトゲンシュタインもなるべく断言に基づいた形で語ることを貴慮していたはずである。「かもしれない」という表現にならざるを得ないのは、そこに確実性や根拠が稀薄であるからである。こうした言語の根源的な稀薄性といった解釈が成り立つところに、語りえない言語的活動という収束が見出されることをも彼は考えていた。彼は「~かもしれない」という言語的活動を観て怒ることはなかった。「~かもしれない」という表現が出た際には、いまひとつ思考を進めてみることを思慮していた。どこからどこまでが「~かもしれない」と収束するのか、その「~かもしれない」という語で柔軟で正確でありうるのか、どちらから思惟を始めるべきなのかも懸念していた。彼の思索によれば、「~かもしれない」という表現は正しい言い方である場合があるというものであった。そして、その正しい言い方というのは、話し手と聞き手の言語的背景にも依存するというものであった。「大丈夫、その試合で勝てるよ」、と言われるとプレッシャーを感じる。しかし、「その試合で勝てるかもしれない」と言われるときと比べると、前者よりプレッシャーを感じない。断言的な台詞は重みに感じるが、曖昧語ではより重みが小さいことも窺える。しかし例外はあり、断言されるとその内容を拵えて上手くいくケースもあり、それは言語的背景次第であるということである。
4 思考とは、有意味な命題のことである。
思考というのは、有意味な命題という場合と無意味な命題という場合に分けられる。したがって、4の文は詭弁ではないかと後期ウィトゲンシュタインは振り返る。


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