哲学するトナカイ

哲学するということはどのようなことか、ハイデガーやカント、スティーブジョブズ、デカルトの哲学を交えて語ってみたい。ハイデガーは「存在とは何か」というテーマを敷きながら「世界内存在」や「時間性」、「存在者」というワードを踏まえて分著を書いた。哲学するには言語的な概念が必要不可欠である。カントだったら「家庭内存在」、「実在性」、「対象性」という言い方をするのかもしれない。この言葉のズレを「差異性」と称することがある。ドゥルーズの「反復」において取り分け「時間性」と「実在性」という二つの「差異性」について哲学することもひとつの「可能性」のある内容、あるいはことがらである。存在とは何か、と哲学することも険しいがひとつの点であり、スティーブジョブズの言うような点と点が結ばれるという比喩に見られる連関が考慮されるであろう。哲学するということは考察や内省することである。デカルトは観照することが一番大事と説いたほどの有名な思慮深い存在である。デカルトは分著である『方法序説』において、私が疑うことに終えることは疑っていた私がたしかに存在していた、という事実である。この私が存在していた、ということは疑いようのない事実であると考え、近代哲学の祖とされた。『コギト・エルゴ・スム』は有名な風刺であろう。我思うゆえに我あり、という言葉は改定されることもあり、スピノザの 我思惟しつつ我あり が有力候補である。哲学することはデカルトにとっては修行の類であり、天啓を賜った感のある者は他に毎日決まった時間帯に散歩をしていたカントが挙げられる。デカルトとカントは神様を信仰し、信じていたと思われる。デカルトは『省察』にて、神の栄光について語るにしても、神が無限であると考える限り神の存在論的概念について諦めないと云う様に語るにしても、なぜ疑い深いデカルトが神の存在を肯定するのであろう。誰も「神がいる気がする」という気柱を立てたことはないはずである。神を信じたかったから信じる、そして神を信仰したかったから神を信仰する、という考え方をデカルトは辿っていたのであろう。カントも神を信じたい、信仰したい、と心底思っていたと思われる。アンセルムスも神の存在論的証明に傾倒し、主にカントの〔神の〕 自然神学的証明 宇宙論的証明 存在論的証明 道徳的証明が有名な説として広まっている。いずれも確実といえる証明説ではないと個人的には考えている。誰もカントが神の存在を証明したとは口にしないのではないだろうか。奇しくもアンセルムスとデカルトは同じ神の本体論的証明を考案し、同じ内容の文章を書いてしまっていた、という逸話がある。幸運にもアンセルムスは「デカルトと同じことを書いてしまったけど微妙じゃない」、デカルトは「アンセルムスと同じことを書いたけど微妙じゃない」と思っていたらしく、どちらが先に証明したか、という論争には発展しませんでした。ちなみにバードランド・ラッセルも神の存在論的証明も試みられています。ラッセルは94歳で亡くなりました。

デカルトの道徳論には多彩な色合いは見られない。しかしながら、「仮の道徳」というデカルト自身も不明確であった概念は時々見られるようである。

眼の前に倒れている人を助けることを道徳であると思わなくても、その人のために行動すること――これが仮の道徳=信じていない あるいは仮の道徳性

デカルトはまず初めに道徳だと思わなくても行動せよ、と言います。行動してその行動のあとから道徳心というものは養われる、という考え方ですね。
カントは他者を手段として扱わず、他者を目的として扱うべきである、と主張します。あくまでも「目的として扱うべきである」とし、「目的として扱わなければならない」というmustではないと考えています。他者を手段として扱うなら、「あの本、どこにあるか探してくれ」ということも懸念されますね。他者を利用する非道徳的と思わしき行為も手段として利用する範疇に含まれます。「あの本が見つかったから、読んでみないか」と他者にその他者のためになるという目的を考慮して扱う、というやさしさが目的として扱う範疇に含まれます。その人を応援しようとして行動することはその人のプラス作用という目的のために行動することであることが顕著であろう。応援すれば良いとは一概に言えない。美味しい食事を作って応援しようとしても肥満になることもあるし、バレンタインにチョコレートを手渡ししてもむし歯になる場合がある。私たちは逞しくありたいと思い、子どもに柔道を習わせるケースがある。それでも力が付いて強暴者になり、危険になる場合があるであろう。柔道や空手も善意で応援しても微妙である可能性がある。「柔道を習うことは誰かを傷つける」ということはあり得なくもないであろう。応援すれば誰かが嫉まれるということは少なくない。応援者も嫌われ、応援される側も嫉まれる可能性がある。応援すれば誰かのためになるかもしれないが、傍から見ていた者に微妙視されることもある。私たちは応援していいとき、よくないときを見極めるべきである。隠れて生きよ、という思想もあるように、目立って応援しないことが要である。応援するなら隠れて応援するということも考えられる。隠れて応援すれば、見つかって嫉まれることを防ぐことができよう。エピクロス派の哲学徒は"隠れて生きよ"という格言を重んじていた。エピクロスはトナカイの透明人間であり、哲学するトナカイと言っても過言ではない。エピクロスは死について死は存在しないという風刺を残している。ハイデガーは死を追い越し得ない可能性があると述べた。たしかに一度死んで終わった者もいるであろう。しかし、生命的な復活劇が現実に起こり得ることをハイデガー自身が死んでから身を以て体験した。このことは死は一回性とは限らないというかすかな日差しを示している。サルトルは著書『嘔吐』においてロカンタンの自殺というもの書きたかった。ロカンタンは自殺して苦しみ、そして苦しみから解放されるために自殺をしようとして、さらに苦しむことになった。お釈迦様の牛の逸話においては、牛が蹄があり邪魔で苦しいので自殺をしようとした。すると飼い主にもっと厳しくされ、さらに蹄を付けられた……。牛は困惑して自殺したことを後悔した。お釈迦様は自殺をすることは自分を苦しめるからよくない、と言ったとされている。しかし私は終わりの自殺となるなら自殺をしてもよいだろうと考える。一生生き続けることと生命の終わりを迎えることとを加味すると終わったっていいじゃないか、と思えるのだ。いつか人生のゲームオーバーが待っていることは誇らしいと思う方も少なくない。永久に生きなくてもいい、かえって永く生きるのは嫌だ、と思う方も少なくない。ショーペンハウアーはゲームオーバーはいいと思っていた。ショーペンハウアーは人間的な欲望は満たされることを知らず、欲望=意志が苦しみの元であると説いた。この意志の否定を私たちは遂行しなければ、苦しみとペシミズムで世界は溢れかえったままであると説いた。
いや、意志の否定さえ盲目的な意志を持つ私たちには難しい、とショーペンハウアーは考えた。まず現代では意志の否定という仏教主義的な禁欲を行う者は少ないと見受けられる。何も欲しくない者なんて存在しないはずである。何も欲しくないという言葉、そしてゲームオーバーはいいという言葉はどちらも「ショーペンハウアーいい」という意味がある。ショーペンハウアーは仏教学を学び、苦しみの起源を探求した。他者との摩擦による苦しみ、すなわち人間関係の悩みが苦しみを齎すとショーペンハウアーは見出した。他者に対する同情により他者に軽蔑されることもあるかもしれないが、同情して欲しい人物も存在するはずである。この同情していいか否かで苦しむとき、誰かと共苦することで気が晴れるという。共苦とは共に苦しむことであり、共苦の同情が人間的な味わい齎すと述べる。この同情が嬉しい、ニーチェ的に言えば喜びの最たるものであるとショーペンハウアーは述べる。いいかえれば共苦感情とも言えるこの共苦の同情は苦しみから乗り越えるためのひとつの道具と言えるかもしれません。
ドストエフスキーはこの共苦の共有を大事であると考え、「ショーペンハウアーの衝動」も両者は大事にした。ドストエフスキーは『罪と罰』という小説にて「目的は手段を正当化するか」という命題で言葉が紡がれ、さらに歴史的に正義とされる「善なる観念」に基づくものであるなら、はたして殺人という手段は許されるのか、という葛藤を考えさせられる。この目的は手段を正当化するか、という命題において、優勝するために大会の試合時刻に遅れさせる、という卑怯なプレイを挙げてみます。優勝するために卑怯なプレイをするのはクズ同然でしょうね。大国を潰すために戦車を使う、というのもマキャベリの考えでありましょう。戦車を断固否定してもいいのですから、手段の戦車を使うというのは許されません。したがって目的は手段を正当化しない。殺人も認めるわけにはいかない。例の戦争中に敵陣の命を滅ぼすことが正義と言って命令してもそれは正義ではない。殺人は正義であると認めてはならない。百人殺せば英雄だ、とチャップリンが言い遺しても英雄じゃない、むしろ悪漢であろう。私たちは鵜呑みにしてよくないことは鵜呑みにしてよくない。サンタクロースを鵜呑みにすることはプレゼントを貰えるからそれはそれでいい。しかし、「私はいい人だ」と相手が言って鵜呑みにするのでは、詐欺に遭いかねない。「あなたの家族ですが」と名乗ってくる詐欺集団も鵜呑みにするのではなく、相手の情報をメモに書いておくことでスムーズにいく可能性がある。大丈夫、詐欺される心配はない。詐欺されないと信じておく手段もある。また、詐欺者と関わらない、すなわち縁を持たないように注意されたい。外出で何気なくコンビニエンスストアに行っても詐欺者や危険者と逢わないように気を付けたい。ちょっとした気のゆるみが犯罪に手を染められうる危険な瞬間である。油断は禁物とは、ヘーゲルが好きな言葉である。ヘーゲルはコンビニエンスストアを「ヘーゲルいい」と見做した。そしてまた、「コンビニ」を「ヘーゲルいい」と見做し「コンビニはいい」と考えた。「コンビニはいい」という言葉の意味には「ヘーゲル神」という内容がある。私たちはヘーゲルを理解する際にはヘーゲルの裏地を考慮・考察しておく必要があるであろう。ヘーゲルの有名な「外化」という概念があるが、「外化」とは女子語で「ヘーゲルいい」という意味がある。ヘーゲルの外化として、健康外化という運動促進が挙げられる。運動は健康を齎す、という理屈である。トイレのティッシュペーパーを劇場に利用する利用外化もある。信じれば通ずという信念外化というものもある。労働して金銭を稼ぐ労働外化もある。眼鏡を購入して装飾外化も挙げられよう。私たちは眼鏡を外化と結びつけないかもしれないが、ほかに帽子やマフラーも装飾の一種と挙げられよう。この外化とは異なる発現というものもある。スフィンクスを築く際に石や岩は用いられ形を成し発現されていることが窺える。精神が発展する過程で情報を知識化するそのタイミングで脳内外化することがヘーゲルの主張である。概念をまとめる能力は悟性として脳内に宿ります。また、概念を繋げる能力は理性として脳内に宿ります。どちらもカントの純粋批判であり、カントは「認識が対象に従う」という名言を遺しています。この名言に関して補足があります。それは対象が認識に従うわけではない、ということです。私たちはしばしば認識が対象を変化させているということを有名な転回と考えてしまいます。それは誤解であり、一大事であります。認識が対象を変化させていることは何の根拠もないでしょう。対象は変化していないと見受けられます。多くのサイトに対象が認識に従うと誤記されていることは少し調べればわかるはずです。カントに私は「対象が認識に従うんですか」と尋ねるとカントは「認識が従うんじゃないよ」と答えてくれました。その説である対象が認識に従うんじゃない、と彼は発言していました。今は亡きカントのお話を聞けなくて非常に残念であります。認識が対象に従うということは「対象が認識になっている」ということを示しています。認識は身の回りにあるという考え方ですね。認識は身の回りにあると見出したカントは悟性や理性に関して自信があったのだと私は考えています。レヴィナスは他者論において「他者」のまなざしが「私」を確固たる展開にいざなう、という主張を見せていないにせよ、断じて言うなら「他者」の「まなざし」がその他者の存在を際立てする事態となる。他者のまなざしを受けたことにより「主観としての他者像」に変化が見られる。また、給食具を運ぶ際に先生からまなざされることで「給食具を運ぶタイミングだった、遅れないように行こう」と判断することがあり得る。先生に怒られてはまずいと「給食具を早く持っていかねば」と理性的になることが懸念される。サルトルは他者とは地獄である、と述べた。他者との色々なしがらみがあるから地獄と言ったのだ。「他者」の「まなざし」は〈私〉が他者を〈まなざす〉前に起こり得ることである。〈私〉のまなざすときを経る前に他者はアウンチングしている。どちらが先に〈まなざし〉を配るのか分からない、そういう事態も加味されたい。〈先にまなざす者〉は相手からまなざされるときにどう反応するだろうか。目線が合った二人は恋でも起こすだろうか。二人のまなざしは愛を育むこともあるであろう。数秒ではなく数分のアイ・コンタクトは何を齎すだろうか。恋愛関係の二人ならなお互いの距離を縮めるであろう。知り合ったばかりの二人なら警戒して目を見ることもあるであろう。しかし片方がもう一方を好きになってしまう例もあり、相手に溶けてしまう場合もあるであろう。その片方は溶けてしまって怖い、という体験をしているはずである。このように「まなざし」は他者の感情や情態を変化させる可能性のある「行為」である。ちなみに「まなざし」と「可能性のある行為」という言葉の女子語的意味には「サルトルいい」という内容がある。私たちは予め決まっている言葉の意味を暗示ながら「話し言葉(=パロール)」を使っているように思える。しかし私たちは複数の意味を持つ言葉を知っているはずである。その複数の意味がある言葉を使用する際には、「意味を選択している」はずである。私たちはこの複数の意味を有する言葉を慎重に扱うはずである。複数の意味を持つ言葉の一部を採用する際に、それが相手側に伝わらなくてはならないことを前提に考えると、言葉遣いに注意するはずである。この言語の一部の意味の伝達齟齬を「言語の受け取り方による差延」と評することも可能であろう。言葉の内包する伝達目的の意味とは別の非目的的な意味で受け取られることはズレであり、一般的差延と称することが加味されたい。これらの一般的差延はパロールにおいても、エクリチュールにおいても発現する可能性があるであろう。web上の広告に「参考になりましたか?」と書かれているのに「(これらを)考えましたか?」と受け取ることは、web広告の特殊差延であることが加味されたい。この特殊差延の例として、「灯台もと暗し」とパロールしたのに相手側が「東大(東京大学)もと暗し」のことだと差延する例。灯台と東大は同じ発音であるが、パロールの内容とは別の言葉で受け取られるケースがある。この別の言葉で受け取られるというズレを差延と称する。そしてまた、本来の意図する言葉の意味とは別の意味で受け取られる、あるいは解釈されるというズレも差延と称する。それにしても、差延の発生するメカニズムは何なのだろうか、という一点が残る。「トウダイ」と聞いて「東大」を思い浮かべることもあるが、もし「灯台」のことをニュアンスしていたのなら、明らかに言語齟齬であろう。いや、思い浮かべるだけでは言語齟齬であるとは言い切れない、という課題もある。「トウダイ」と聞いて「東大」のことだと誤解するのなら、初めて言語齟齬が発生したと言えよう。また、「東大」と誤解釈するときに、言語齟齬が発生したと言える。東大と言えばホリエモンであろう。ホリエモンは東大に入学したが、一年生のときに「(授業なんて)つまんねえ」と言って退学を自分で選んだ。彼は記憶力が高く、思いつきばかりだった。そしてライブドアの社長になり、あらゆるメディアで番組に登場した。『クイズミリオネア』においては出題されたすべての問題に正解し、満額の1000万円を獲得した。ディレクターが縁を結んだ可能性もあるが、それにしてもホリエモンは運がよい。1000万円を獲得するほど優遇されたという可能性もあるであろう。ホリエモンは「麻雀番組」にも出演。やっぱ頭のいい人って麻雀をするのかな、と思ったり緑一色(リューイーソー)ができるなら凄いのかな、と思ったりする。ホリエモンはトナカイの透明人間であるが、トナカイの透明人間の中にも優秀な存在は少しはいるという。エピクロスもトナカイの透明人間であるが、トナカイは凄くないとホリエモンも彼も思っている。私もことトナカイにおいて考えるとき、ホリエモンは凄いかもしれないけどあとはなあ……とトナカイを低視線で見ることがある。ホリエモンには平和活動に取り組んでもらいたい所存である。ホリエモンなら「平和を目指しましょう」と謳うであろう。平和には個人的な平和と共同体的な平和がある。個人的な平和は内的平和が確立されており、健康であることや内面的な平和、というのも心の平和が確立されている。共同体的な平和に関して外的平和、すなわち家族が平和であること、国そのものが平和であること、ということがらが確立しているのであろう。いつか自由を愛し、平和を謳歌する時代が現実化することが加味されたい。自由は全国民の幸福度により発生したり全国民の努力によって全国民自身に発生したりするものなのかもしれない。また、全国民の貢献度によって自由は基礎づけられるであろう。私は自身の勉学と社会的貢献によって自由を勝ち取りたいと考えている。社会的制裁で国そのものを攻撃することは自由へのルサンチマンの塊ではあるまいか。ニーチェの弱者の恨みが残る社会に自由を与えんとするなら、社会を守ってあげることが本来の自由主義であろう。この社会を擁護することは平和への駆け道であり、自由へ到達するといった成果を齎すのではないだろうか。しかし自由の中に悪的自由というものも登場する可能性もあるかもしれない。その悪の自由とは、悪行を行う非人道的な自由である。例えば、書店にある本を盗んだりする行為がこれに相当する。自由な社会では悪も自由に繁茂するおそれがあるのだ。この自由の中の不自由的概念は、悪の可能性を指している。不自由的な悪の可能性は、ある面において自由であり、ある面において不自由である。人は自由へ足を踏み出すとき何者かと対立する可能性がある。自由派があるからとはいえ、不自由派が派閥としてあるわけではない。ただ、監禁的な収容所の自由性を疑うことはないわけでもないようだ。強制収容所でヴィクトール・E・フランクルという人物はホロコーストの被害に遭うが、生涯、自由を失わない強い心を持っていた。これを心の弾力性と呼ぶ。心の弾力性を育むことで精神的にも鍛えられるかもしれない。収容所の自由などなかったとフランクルは思っていたが。フランクルのように絶望的な経験をした者がキルケゴールである。絶望は死に至る病と考え、絶望しない生き方を考えた。しかしアリストテレスもプラトンもスティーブ・ジョブズも絶望した経験をもった。頭が良くても絶望はつきものなのであろう。例外というものもあるが、絶望は多くの市民にあり得ることなのである。絶望には 一般的な絶望といって、人生が詰んでいるかのように感じて絶望することがらがある。そして他者に高級なネタを教えて他者が成長することを後悔して絶望するという特殊絶望がある。例えばnoteがあるよ、と優しく教えたら、相手がnoteを見つけて文章を読んで成長してしまい、面白くないというもの。後悔先に立たず、というが、口は災いの元である。成長する相手が自分が寛容できるひとなら教えても大丈夫なのかもしれない。口ばかり達者だと教えて後悔するおそれがある。見ざる、聞かざる、言わざる、思わざる、と美輪明宏さんが言っている。見ないで悪事を防ぐ。聞かないで惑わされない。言わないで失態を防ぐ。悪事を思わないで悪事を行動しないようにする。何かをしないことが大事である、という処世訓もあろう。私たちはこのような戒律を自律しながら実存する。自分は自分が訓戒を自律することで自分の励みにすることが可能である。自戒自律の精神を育むことで共同体的生活に光を燈すことも加味されたい。このように規律を築いたうえで実生活に励んでみたらいかがであろうか。ソクラテスは「善く生きること」を提唱したが、「ただ生きるのではなく」、「理想を持って生きよ」と言うのです。ニーチェが道徳的価値観の顚倒に敏感に気づき、道徳は弱者の築いた奴隷道徳であり、強者を否定するためにある――と喝采した。奴隷道徳とは、隷属者が支配者の力を否定することによって作り出した善悪という価値基準に拠るもの、と読者に説明されている。弱者のルサンチマンから始まり道徳的価値観の顚倒へ向けて強者を否定する空気感が19世紀ヨーロッパで立ち現れたことは歴史を辿ってみるしかないであろう。ニーチェは最後の哲学として「神は死んだ」と書いた。弱者のルサンチマンを抱えれば、強者もルサンチマンを抱える。弱者が強者についての価値観を顚倒させた。善人と呼ばれた強者だったが、善人から悪人と呼ばれることになり、godは強者を認めなくなった。反感を買われた強者は「神は死んだ」ということで神の想像図を否定した。世界は「成り立っていることがらの総体である」とウィトゲンシュタインは述べた。彼は「世界は事実の総体であり、物の総体ではない」とも述べた。世界に関する対象領域はウィトゲンシュタインが喝采した。物の総体である、と断言してしまうと物は事実性を見出せず、世界は動かなくなるであろう。何も動かない世界もまたひとつの世界であろう。何も動かない世界にも「動くものが無い」という事実が加味されるであろう。では何もない世界では何という事実があるか。それは何もないという事実が一例としてある。何もない世界にも空間はあるという。成り立っていることがらとはどのようなことがらであろうか。印刷術が成り立っていることがらでいかがか。消しゴムで文字を消すときに練り消しが出来るのも物の事実の成り行きである。練り消しが出来るという事実がないなら練り消しは出来ない。事実項(概念)というものが世界には存在する。練り消しが出来ないという事実項があれば、練り消しにすることはできない。何もない世界には何もないという事実があり、”あるもの”は存在しないという事実がある。パルメニデスの「あるものはある」というトートロジー的世界観は、このような世界には通用していない。「あるものはある」という事実はその世界にはないからだ。その世界にはどんなものも存在しない。「あるものはある」とは物質的な出来事であるが、私たちの住むこの世界には通用している。「あるものはある」とは現実問題である。さて具体的に”何という”あるものはあるという分析に入る。コップはあるものとして存在し、あらしめられたようにある。永続的にコップがある場合もある。これに比して雨の一粒はあるものであるが、地面に落ちたときに様相を変える。一粒は砕け散り一粒は分散してしまい、一粒としてあるものと形作っていた形跡がなくなる。パルメニデス的に言えばそれは「あるものは現在はあらず、分散した」というはこびとなる。これはさっきあったものは現在は存在しないという考え方である。あるものと語りつつ「現在は」の転位で「あらず」と語る。これがデリダの言語論的転回と書いておこう。しかし反駁がある。「あるものは現在地点ではないか?」だとしたら「現在あるものは現在はあらず、分散した」という命題は自己矛盾ではないか?──これに応えるべく、「あるものは」と発言するときその地点で「現在一粒ある」という事象があるが、「現在は」と発言するとき――その地点で「現」の「げ」という語り口をしたとき──その地点で「現在一粒はあらず」という出来事になっているのである。これには少々理解しかねることがあるであろう。現在一粒あるが、現在はその一粒はあらず、という命題に違和感を覚えるからであろう。話し手の言葉の順序通りに「現在はその一粒はあらず」と発展しているのである。そして現在地点の差異というものも懸念される。「現在一粒ある(が)」というときと「同じく」「現在はその一粒はあらず」というときの「現在性」は異なる時系列で語られているからである。現在が2連チャンしてもその両者の現在性は同じ時点を指し示すわけではない。しかしながらこれは現在性の可能性を引き出した一例であろう。「現在本を読んでいるが、現在は本に書かれた文章を考え中である」というとき、現在本を読んでいながらその現在地点で考え中である、という風に同じ時点で両者は行われている。とも解釈できよう。現在ラジオを流しているが、現在ストレッチをしている、というとき、現在ラジオと並行してストレッチを同時に行っている、というはこびがある。この同時性の実現というものを同時はないと否定する現代思想も登場している。しかし同時性を有する出来事ふたつというものは容易にあるであろう。ハムスターがかごの中で駆けるとき、かごも同時に動いている。誰かが歩いているとき風も同時に吹いている場合がある。こんなことを言うならAさんだけでなくBさんやCさんにも同時性が発覚するであろう。パソコンを見ているときに誰かが食事をしているケースは多大にあるではないか。睡眠中に家族が仕事をしていることもある。同時性の実現は現代にはありふれている。近代以前だったら誰かがパソコンを見ているとき、という前提がまずない。みんな無意識のうちに同時に生きているんじゃないでしょうか。古代ギリシャでも本を読みながら歩くこともあったんじゃないか。二宮金次郎のように歩いて読書して働いて、同時に生活する、という微笑ましいエピソードがあるが、これは二宮金次郎という言葉の意味が「ながらあすてあすて」という内容だから、意味の通りに生きたのではないか。それは「カミーユカミーユ二宮金次郎とらあすもさんてぷーてーぷーてーながらに生きてーくださいね……」という意味である。「とらあすもさんてぷーてーぷーてー」は「ながらに生きよ」という意味である。二宮金次郎は「何かをしながら、別の何かをする」という自ら自身の中で同時行為を頻繁に行っていたのである。これほど努力家であると成功率が上がっていくのではないだろうか。努力することを不断に行った二宮氏は銅像として小学校に設置されたのも、小学校の頃は理解できなかったが大人になってみれば凄さが滲み出ていて素晴らしいなと思う。これに対比して(私は)ドストエフスキーは「罪と罰」という小説を書き上げて尊敬していたが、凄いとは思えなくなってしまった。ドストエフスキーの「神がいなければ、すべては許される」という登場人物の話は、「神がいなくても、物事を判断する私たちがいる」という反論を食らってしまうおそれがある。よって「神がいなければすべては許されるという命題は偽である」と結論付けられる。この命題を言い換えると「すべては許されないなら神はいる」、という対偶になる。とすると、すべては許されないわけではないので、神はいないというはこびがある。しかしすべては許されるというのは極論であり、神はいないという命題は立証することはできない。それにしても、神は存在するとか神は存在しないとか、そういう存在の証明は不可能である。悪魔の証明というように、悪魔が存在しないということを証明することは不可能である。ましてや天使が存在しないということを証明することも不可能である。「悪魔は私にも他者にも見当たらない、悪魔がいたと発覚したことはない、ゆえに悪魔はいない」と述べても、悪魔は宇宙の果てにいるかもしれない。「悪魔はどこにもいない」と言い切ることはできないはずである。しかし「悪魔は日本にはいない」と限定的に言い切ることは可能であるかもしれない。「悪魔はこの部屋にはいない」とか「悪魔はこの店舗にはいない」という表現は事実である可能性がある。それでも「悪魔はどこにもいない」といったいわば全体的な俯瞰は早合点なのではないだろうか。それにしても、女の人は悪魔が宿る、などと言われているようである。悪魔が宿るから小悪魔にもなったり、お金を騙し取ったりするとも言われよう。こういう詐欺に遭わないためにも、日々用心することが肝である。誰にも騙されない肝で立派に一人立ちしたいのなら、すぐに行動を起こすのもよいかもしれないが、冷静になって、慎重に言葉を選ぶべきである。悪魔はドラゴンクエストというゲームに登場することがあるが、このゲームは悪魔の対象領域である。昔、鉛筆を転がしてダメージを与えて勝つという遊びが流行ったが、この鉛筆の象徴として「デスピサロ」という悪魔が描かれていた。また、悪魔族のレッサーデーモンという遊戯王カードも過去に販売された。悪魔の対象領域には「ドラクエ」「遊戯王カード」という対象が含まれる。そして「悪魔の意味の場」には、悪魔が何十体もあるという仮説が出来上がる。これは「悪魔が暗躍したところ、そして悪魔の数」を哲学的・科学的な見解から分析していく見出しである。「水の意味の場」には、あちこち至る所で水があることが浮かび上がる。水が流れる川も「水の意味の場」に属する。ましてや海も「水の意味の場」に属する。「水の意味の場」には広大な対象性が加味される。「意味の場」というものは、対象性を見出すひとつのものさしであろう。私視点で考えれば、世界各地で水道場があり、すべてを網羅することなど不可能に近い。<私>は水を出すとき、手を洗うために使うこともあれば、水を飲むために使うこともある。水の対象領域には飲み水、洗い水といった用途が含まれる。そして、池、川、湖、海さえも水の対象領域に含まれる。こうなってしまうと、「意味の場」と同じような概念のように見えてくる。しかし、「意味の場」というものは領域の狭い感じもする。「対象領域」というものは広く扱える感じもするのではないか。それにしても、「ニュアンス対象」という事象も「対象性」に属すると考えられよう。相手を尊重することを「ニュアンス」と取って内在的に抱えることもある。微生物を燃やすという微生物を「ニュアンス対象」として行うこともあるであろう。現代は、「ニュアンス」と「ニュアンス対象」との区別の曖昧性が発露した時代である。哲学者である自信がある方は、ニュアンスについて考えていただいても構わないはずである。ニュアンスとは何か、ニュアンス対象とどう違うのか、という哲学的な命題を考慮しておくべきときが誰かにあるはずである。「誰かの対象領域」には、アンパンマンであったりデカルトであったり、広大な対象性が加味される。「哲学者の対象領域」にもデカルトが出てくる場合もある。この場合、アンパンマンは対象領域に現れない可能性がある。デカルトは理性について以下のように述べているらしいです。

デカルトにとって、「理性」とは神が人間に付与した能力で、神の理性は無限ですので、間違うことが無いと考えられましたが、しかし、人間には感性があるので間違うことがあると言いました。

Yahoo知恵袋
デカルト編

デカルトは神の無限性を心の底から信じていたと考えられます。カントは理性も間違えるという言葉を残しています。理性的な誤算をした際には理性も間違えた、と表現することができます。カントはすべては認識形式から始まると考えます。認識形式に先天的に情報の速算が行われていることをカントは提起します。Aさんが「ヒエログリフの鳥の象形文字」を見たとき、こういう鳥だろう、と認識形式に情報が速算される。こういう鳥だろう、と認識形式に先天的に入っている。石のような楕円形の硬い物体をBさんが見て、Cさんに「あちらに落ちている石と似ているね」と言われ、「石がこういう形をすることはありうるな」と認識形式に先天的に入っている。見た石を自分の認識形式に入っているイメージ図の『石』というものと照らし合わせて『これは石だ』と判断するケースも多々あるであろう。さらに「顔」を見て認識形式に入っている誰かの顔を想起することもあり、似ている/似ていないという判断をするケースもある。レヴィナスは顔交換という概念を考え、顔が交換されることは危険であると結論付けた。いまなお顔に化粧をする多くの存在があの人に似たいと無理な願望を抱く場合が少なくない。顔は似てないから化粧して似ようという考えである。そして整形で恰好よく顔を変化させるというのも危険である。整形をしてはならないことは重々教えておくべきであり、整形は神が許さない罪であることは受け入れるべくしてかかることであろう。レヴィナスは顔で人を殺すことを考えたが、神の前で神を見た者が神に対して自殺していくことを考えてはいなかった。悲痛に歪んだ顔を見せては誰かが心配になって助けようとする、という一説もレヴィナスは思考していたが、文著には書かなかった。ただし、レヴィナスは彼の著書「全体性と無限」において他者を理解することの難しさを説明した。フッサールもまた「顔」を見れば相手の心理を窺える、というある種の確信を発想した。そして「心の具合」を「表情」から察するという確信も抱いていた。他者の「心」を不明瞭とした媒体で諦めるのではなく、他者の「心」をレヴィナス風に言えば対話で感じることをも加味していた。「心」を観察することを他者から始めようとしたフッサールだったが、自分自身の「心」を観察することを思い立った。これは感情観察というものと相通ずるものである。感情を流れるままに吐き出し、感情を手放す、というリリースも一番大事ではないか、と思い至る。不幸の感情を手放すことは、不幸にならない道なのである。この幸福観は、不幸からの解放を伴う。不幸からの弁証法的進路というものもヘーゲルは考えていた。不幸の時は引き出しを開けることで、あるいは気分転換することなどで対処していくことがらがある。不幸は誰にも陥ることのある出来事であると割り切り、さらに不幸によって生じたメリットを考えて見出すことが要となるはずである。不安を抱えた非本来的自己から先駆的になって本来的自己を目指すというハイデガーの一項目が懸念される。ハイデガーは非本来的要素を分析し、たとえば弱音を吐く癖があるなら弱音を吐くのをやめようと努めるべきである。お喋りの癖があるならお喋りを慎むべきである、という改善によって本来的自己が見出されることも加味されたい。上手くいかないなら上手くいく段取りを取れるよう努力することを目指し、おしっこが漏れやすいなら膀胱を浄めていくほかない。非本来的から本来的へと転換することがらが問題なのである。今悩んでいることは大した悩みではない、とレヴィナスはいう。視点を少し変えただけ、あるいは見出したことで悩みは即解消されることが可能である、という見方を教えられれば人生はもっと楽になるのではないか。レヴィナスのいう「他者の顔」の倫理的痕跡から目撃者である私たちに何かが問われている、と私は考える。まず私は「他者の顔」に曇りや悲哀がないか観るはずであり、元気なら明るい「顔」をしていると思って生きている。そして記憶中枢には元気な頃の顔、悲しい頃の顔といった記憶が溜められていることであろう。そして現在の顔は眠たそうな顔をしている。しかし不良者に絡まれると悲哀のこもった顔をして、私に助けを呼びたいような視線を向ける。不良者は悲痛に歪んだ顔を見て一瞬ためらい、他の不良者も「本当に殴っていいのかよ」とためらう姿を見せる。顔を見たAくんとBくんは同じ顔でも感想が違うこともある。この視ても感想の差があることを視延と称することができるであろう。ためらったAくんとBくんは攻撃の手をやめることになる。AくんとBくんは誰にも見つからないように去っていった。……「悲痛に歪んだ顔」を見せることで助かったこの方の主観では、不良たちが理性のフィルターを通していじめてはよくないと捉えてくれたことが幸いです。不良たちが仮にいじめを続けるべきであると本能的になるなら、それはそれで危険性があるということになります。本能的な判断では間違いもあり、理性の誤謬もあるのです。
私たちは本能的になって恋愛を始めようとします。この恋愛関係から、結婚に発展し、本能的に子を授かりたくなる、ということがかなりあり得ます。本能的に子を欲しがるいっぽう、他方では子を授かることの負い目を世人的イメージとして加味されることもあります。世人的イメージとは、ハイデガーのダス・マンという概念と親和性があり、また大衆的な見方や視線を加味することである。世人的イメージを取り扱う例を挙げよう。大衆が百円均一に行けば安く品物が手に入るから行こうとするイメージを世人的イメージと称する。この世人的イメージに沿って買い物をしに行くことが世人的な生き方と称する。多くの人々は、世人的な生き方をしていると語られることもあるであろう。独我論者においては、世人的な生き方より自己流の生き方をしている傾向にある。独我論を信じると世人的な概念を一切シャットアウトしてしまうおそれがある。独我論を抱くと偏見や独断に陥りかねないおそれがある。世人的なイメージを描けないことはそれ自体残念であろう。しかし優れた思考能力を持っているのであれば、世人的なイメージを描けなくても十全なイメージを描けるはずである。頭が良くなっておけば社会に参画した際に思考能力が大いに役立つことでしょう。「頭だけ良くなっとけ」という言葉は十代の頃に言われた言葉です。時々頭がどれだけ良いか気にすることもあります。また、他者の頭の良さも加味することもあります。思考能力を高めなさい、と教師たちは言うわけではないでしょう。それでも思考能力を意識していく実践に取り組むことも善いかと思います。やはり思考能力や地頭力が現代には求められることがあります。想像力を養うために読書をすることも懸念されます。「空気を読む」という言葉も昔流行ったことがありましたが、「空気を読む」ことは相手の気持ちを察しようというものです。疲れている誰かを見たときは休ませてあげる、そして眠っているときは静かに過ごす、という風に気遣いをしてあげる。レヴィナス風に言えば休息は私たちを実存させる、という特殊な働きがある。休息は私たちを幸せにする、という一面も伴う。しかしながら、透明人間(全員ではないが)の場合、眠ることもなく生活するという事態が懸念される。私たちが「透明人間は」という切り口で語るとき、それはどこを指しているのか、吟味する価値があります。「透明人間は」本体の次である、というとき、それは正しい感じもします。では「透明人間は」神経が通ってない、というとき、透明人間全員を神経が通ってないとは言えません。ですから一口に「透明人間は」と発言することが誤りなのです。林の「透明人間は」血がない、というとき、これは林の透明人間に限定している。よく林の透明人間を見てみると血液が通ってないことがわかり、では他の林の透明人間も血が通ってないということも分析する。たくさんの林の透明人間を見ていくうちに本当に血が通ってないパターンばかりであると勉強になったとする。そうなると林の透明人間は血がない、という結論に到達する。「透明人間は」血がないというとき、ゴキブリの透明人間の誰かが血があることから、この言い方は否定されるであろう。「透明人間は」というとき、「林の」という言葉を先頭に持ってくるのとは違って広範囲の存在を対象にしてしまっている。これでは『透明人間は血がない』という命題は偽となるはずである。「透明人間は」本体の次である、という命題は、広範囲の存在を対象にしてしまっていますが、真である可能性があります。透明人間はみな、本体という一号機の次以降のはずと考えるからである。しかし透明人間が幽霊に至ってしまえば3号機以降になるでしょう。もしかしたら五号機は幽霊として3番目であるはずです。幽霊と似通っていそうなゴーストという存在は、透明人間ではなく、ゴースト一号機であるはずです。ゴーストは血がないと考えられるでしょう。透明人間は血がない存在があるが、ゴーストは血がない、という知識も加味されたい。プロレスラーは身体が頑丈で、血はない。プロレスラーは最強を重んじるが、最強だと強がりを主張することは無いと言っても言い過ぎではない。最強だと言われて嬉しいプロレスラーばかりであり、朝鮮人参の透明人間は最強という格を手にする場合がある。最強という地位に朝鮮人参の透明人間は君臨している。朝鮮人参の透明人間はうんこさんの透明人間より強いのか、という疑問があるが、朝鮮人参の透明人間の方が強い傾向にある。朝鮮人参の透明人間の内在的なパフォーマンスが観衆の期待に応えてくれることもあり、ましてやプロレスラーはサービス精神が旺盛であるはずである。精神(guist)は自己である、とデカルトは考えた。精神という言葉はヘーゲルが使い始めたと言われている。ヘーゲルは五百億体存在していた、とされる。ヘーゲル同士で手を組み哲学的思索を深めていったと思われてならない。ヘーゲルの精神現象学においては、行動主義を批判したストア主義が現れ、内なるものを吟味する思想が拡散した。ストア主義からはスケプシス主義が現れ、内在的な概念を懐疑する主義が広がっていった。スケプシス主義からは懐疑的な側面が顕著に見られ、あらゆるものを疑ってしまうという不幸な意識に見舞われてしまう。このとき自己意識は不幸な意識を体感している。自己意識は不幸な感情をも経験する可能性がある。それでも不幸を乗り越えること、あるいは強い勇気を持つことが要である。プラトンの四元徳、すなわち「知恵、勇気、節制、正義」というものがあるが、気概が正しく働くと勇気という「徳」が発現すると考えられていた。「理性」が正しく働くと「知恵」という「徳」が発現し、「欲望」が正しく働くと「節制」という「徳」が発現する、と考えられていた。この欲望を理性的に扱うと「節制」という徳になるのではないか。欲望が正しく働くとはどういうことか。欲しいものの中で欲するべきものだけを欲する、というのがこの欲望の形態であろう。これは「節制」というはこびでもあろう。質素な生活や簡素な生活を送るためには欲望の形態を柔軟に運んでいくことが要です。1日500円生活という簡素な生き方を実践している方もおり、余計なことをしないんだなぁと感じます。ストア派の理性的になって情念を制御すること、およびアパテイア(不動の心)を確立することこそストア派の目的である。ピュシス(自然本性的)で自然に従って生きることをストア派は目指した。ノモスという人為的制度というものをコスモスという秩序は影で支えることもしばしばある。ノモスは法であり、ソクラテスは2名に対して問答法や説得をして、たぶらかしたことを罪を背負い審判によって毒杯を仰いだ。【法は法だ】と毒を飲んだ、と語られている。自己弁護が苦手なソクラテスは、素直に毒杯を飲んだ、と言われ、ソクラテスと逢うことも楽しみである。ソクラテスは「それについて無知であることを知っている」といういわば「無知の知」を説いた。ソクラテスは「ネット民さんはコマゲーションⅡについて知っていないと(ソクラテスは)知っている」と言ってくれました。私はニーチェですと言うと、「ニーチェは大事にする」と言ってくれました。ありがとうございました。

それが「悪法である」ことを証明するために自害したのだと思います。処刑後民衆も後悔したといいます。 「ソクラテスの弁明」の彼の最後のセリフは、『さあ帰ろう。私は死ぬために、君達は生きるために。どちらが「正しい」かは、神のみぞ知ることだ。』でした。

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ソクラテスは「毒杯を飲んだ」と言われているが、本当は「毒杯を口に含んだが消化魔法で消化した」という見解がある。ソクラテスは「毒杯を飲んでない」ということがらがソクラテスの人生の一部である。私にソクラテスは「毒杯を飲んでないよ」と教えてくれた。ソクラテスよ、さらば、友達よ。
ソクラテスとパロールで語り合うことはなかったものの、お話を聞かせてくれたテクニックは持っていた。「愛してる」と私に言ってくれたことを「嬉しいです」と表現したこともあった。ソクラテスは4000年生きたと言っていた。ソクラテスの「善く生きる」というのは難解であり、ソクラテスは晩年に「善く生きるなんてない」、と発想していた。私もそれには同感である。
善く生きる、ということや、上手く生きる、という内容の事象は語りえないのではないか。善く生きるという言葉は曖昧性を持つ言葉ではないか。上手く生きる、と意気込むことはあっても現実として実現しないこともしばしばある。そして、大丈夫なように生きる、という感じの事柄も実現できない。
凄まじいように生きる、という事柄も実現できない。完璧に生きる、という事柄も実現できない。楽しみに生きる、という事柄も実現できない。凄まじく完璧に生きる、という事柄も実現できない。取り分け生きる、という事柄も実現できない。このように実現できない事柄を語っても無意味である、とニーチェは言う。宇宙空間は無限に拡がっており、空間は果てしなく続いているのである。時間ははるか過去でも現在も「ない」のである。どこから時間が動いたか、と考えても、時間は動いたことはないのであるから、時間が発生したということもない。カントは「時間は主観である」と述べていた。時間は主観であり、想像する程度であり、時間の像というそのような流れはあり得ない、というのが結論である。時間はないと考えるが、空間は無限性を持つ。宇宙の果てには誰も行くことはなく、宇宙の果てなど存在しないのであろう。ヘーゲルの承認欲求という概念は、『精神現象学』という主著でたびたび現れる概念である、とされる。主人と奴隷の間では承認欲求が重大な一面となる。現代では他者からの承認が必要視され、他者を承認することから始めてみよう、という風潮も少なからずあるようである。主人の承認欲求は、奴隷に対して放たれ、奴隷の自己意識はこの相互承認を重んじる。奴隷も承認されることに苦になることはない、とされる。主人と奴隷という語り口で話すときのこの主人という言葉のニュアンスは、旦那を持つ妻が旦那を主人と呼ぶときのニュアンスと差異性があるであろう。同じ言葉でもニュアンスが異なることには注意が必要であろう。デリダであったら言語ニュアンス的差異、ウィトゲンシュタインであったら言語ゲームという発想をするのかもしれない。使用的文脈の異なる言葉、あるいは文化的文脈の異なる言葉から言語ゲームは展開されていく。主人という言葉を妻が使うときの文化的文脈は、旦那を指して表している可能性がある。主人という旦那という言葉を妻が使うとき、奴隷を持つはずの主人という旦那という使用的文脈があるであろう。しかしその妻は『奴隷』という旦那の大事な存在を知っているのである。その奴隷もその妻と相互承認することが要求されるのかもしれない。言語ゲームにおいては言葉の使用に依存するという考えに基づいている、とされる。
さきほどの主人という言葉を一口摘んで、言語のニュアンスの差延を見出すことも簡単である。主人⇔奴隷という図式の真ん中の⇔を延期するという差延の意味の一部と同じ部分として表現されることもある。言語ゲームにおいて記号⇔をどう捉え、前後にある言葉同士を提示してどう捉えるか、という発想もあるはずである。記号⇔を左右に何か力が働く関係を想起することもあるし、対他的関係になっているという考え方もあるはずである。言語ゲームはどこで開くべきであろうか。問題を言語ゲームの一環として捉え、問題集を個人間に、あるいは一般社会に提出することも懸念されるであろう。テレビ番組では問題を発表することにより、視聴者の回答の出来具合をうかがうことも可能であろう。全国民に対する一斉IQテストというのも2003年に放送され、問題ゲームという見方もあるかと思います。これはいわばクイズゲームですね。言語ゲームにおいては言語の文化と使用する言語の意図性が問題視されます。『コアラ』という言語を使用するとき、動物のコアラを指して使用することが一般的な出来事である。しかし『コアラ』という言葉の意味は『言語ゲーム ケミケミケミケミケミ』という内容がある。『ケミケミケミケミケミ』という言葉の意味は『モリリフィンいい』という内容がある。ひとえに『コアラ』と言ったからといって動物のコアラを指しているのではなく、『モリリフィンいい』とモリリフィンという生命体が面白いと思う"意味で"発言した可能性がある。また、言語ゲームという言葉を内包する女子語は『コアラ』という言葉だけであると言われている。『コアラ』がヒントという話もあるが、その言葉の意味が少し深かったからであろうか。

コアラとは何か?と問題があったとしよう。「言語ゲーム」と答えたとしよう。出題者は、「コアラは動物だろう」とあなたの意見を否定するかもしれない。しかし、この画像の動物は何か、という問題ではない。コアラとは何か、という問いである。コアラという言葉の意味を答えたが、出題者はコアラという言葉の意味を知っていなかったのである。出題者にコアラという言葉の意味を知っていないと追求することもあるであろう。出題者はコアラという言葉の意味を知っていなかったために恥をかくことになったのである。出題者は、「申し訳ない」と回答者に謝るであろう。出題者が回答者に教えてもらうのは、やや勉強不足という事態が浮上する。やや勉強不足という言葉の意味は、『レヴィナスいい』、という内容がある。教えてもらう、という言葉の意味も、『レヴィナスいい』、という内容がある。この事態という概念を事実とは区別するべきであると、哲学ではウィトゲンシュタインが考えた。仮定法の集まり、今Aさんの目の前に絵というものをBかcのうちBを出してみせるとAさんは喜び、しかしcを先に出すと不機嫌になる、という事態がある、という仮定法である。事実である、という表現に代えると未来の想定内のことがらである内容を事実であると言ってしまう危険性がある。『事実である』という言葉の意味は、『未来のことじゃないんだぞ』という内容がある。『事実』という言葉の意味は、『未来のことじゃない』という内容がある。事実を言うときよりも事態を言うときがとある像を持ち出しているさいに懸念される。イベントで優勝したら喜ぶという”像”が生まれる、という事態となる、と仮定法で言ったとしよう。もし優勝していたら喜ぶはずだったと正解を出しているから嘘ではない、としよう。そこで、イベントで優勝したら喜ぶという事実が待っている、という仮定法も加味されたい。優勝したら喜ぶという事実が待っているというのも嘘ではないとしよう。また、「優勝したら喜ぶという”像”が生まれる、という事実がある。※1」という少し濁った表現もあるが、※の事実がある、という言葉遣いおかしいとも言えよう。像が生まれる、というときには、事態という言葉を添えた方が幾分よいかもしれない。物事と事物の使い分けも加味されたい。

  • 事物:博物館には、古代の事物(物)が展示されている。

  • 物事:物事を深く考えることは、人間として重要だ。

このように事物と物事という語を使い分けすることが可能である。事物というのは質料と形相の結合体であり、質料因と形相因として規定される。個物の普遍性的思考と個物の限定性的思考において、前者を普遍にある個物を思考したということと捉えることが可能である。後者を数少なく個物を思考したということと捉えることができよう。まず名があって個物となる、という言説は納得できないと思われる。個物があって普遍的事態があるのではなく、多数の個物があって普遍的事態がある。この個物の一体性と、数少ない出処からの事態と、普遍的な事態との区別が懸念される。しかし多数の個物を現実化する前から、イデア界で個物のイデアとして存在することをプラトンは考えた。名も個物もイデア界にイデアとして存在する、と言った。こうしてみると、唯名論や実在論ではなくイデア論による展開が的を得ているとプラトンはいう。名が先か個物が先か概念論(人間知性の内に概念として存する)が先かという論争は、存在することは知覚されることという概念論が信憑性を欠くうえ、横からイデア論を差し込む余地がある。しかしトマスはイデア論を考えていなかった。普遍は実在せず、名があるにすぎない、ということが結論であるとされ、唯名論支持者に軍配が上がった。トマス・アクィナスが唯名論支持者が勝利したと言ったが、トマスが普遍論争を上手くまとめたようであったし、論争は終局を迎えた一因にはトマスの力能にあると思われる。

現象学においては、ノエシス(認識作用)とノエマ(認識対象)という構造が用いられ、空(くう)というノエシスが色(しき)というノエマを捉えるという、空即是色という構造が考えられる。仏教でいうところの空即是色という言葉を引用しているわけだが、仏教的な解釈とは異なる解釈を書かせていただいた。二次元アニメで色(しき)というものがあるが、中身が空っぽという空(くう)であると解釈され、色即是空という構造が見出される。

力は動力因あって発生するものであり、筋トレするときにも目的因を果たすために筋力を行使する。始動因と作用因どちらも動力因と同じ類であろう。目標因という使われ方はされない方であり、到達因という使い方はされない。目的因は志向因や指向因とは言わない。しかし現象学の志向性という概念はたしかにある。そこで、志向性を持って然る私たちの志向因は何なのか。「気になるから→志向する」、という簡単なテーマが答えであろう。

突然、「りんごがありますよ」、と言われて、りんごがあるか気にする、とする。志向性としては、「りんごがどこにあるか気になる→周辺を志向する」というもの。次に「目の前にりんごがありますよ、という言葉の是非が気になる→嘘かどうかを志向する」というもの。次に「りんごを見ようとする→視界を重視することを志向する」というもの。次に「りんごを視界に入れたと考える→本当にりんごか否か確かめることを志向する」というもの。

志向のパターンは、りんごがあるか気になることから始まるのではないだろうか。そして聞いたことを嘘か否か考える懐疑主義者もいることであろう。この懐疑はあくまで全員に当て嵌まるわけではないが、候補として置いた。りんごを見ようとすることが気になった先にある志向なのではないか。最後にりんごが視界に入っているのを考えて、果たしてりんごなのか否か確かめようと志向することが考えられる。このように意識の志向は自然に展開を見せていく。聞いたことを嘘だと思わずりんごがあると思ってりんごを見つけようとすることを二番目に候補として置くことも妥当であるかもしれない。この際には周辺だけでなく活発的にりんごを探すというスピードアップをすることが懸念される。りんごを視界に入れたと思ったらりんごだと疑わない可能性も懸念される。この際にはりんごを見つけたと思って面白い、と感じるのかもしれない。

さて、りんごは赤いという一説は、誰が考えて、公の共通概念としたのだろうか。赤いりんごを見て赤いと思うことは何ら不自然ではないだろう。しかし、このりんごは赤いとどうして信じてしまうのだろう。りんごは赤いもの、というレッテルを持つ方は緑色のりんごがあることに気づいていないのかもしれない。自分の血が赤くて、りんごの色も赤いと考えてしまうのではないだろうか。自分の血を見るという経験は、色の勉強になっているのではないだろうか。幼い頃に身体の皮膚を傷つけてしまうこと、そこに純粋な学びがあったのであろう。身体を薬と称される葉っぱで擦ってもらう、という経験を私は受けたことがあるが、葉っぱも大事であると考えさせられた。さて、自分の血を見て、よいものとみることはないであろう。おいしい血を流す、という話も聞いたことがるが、私は血を舐めたりはしないはずである。りんごの赤さは人気の要素であることが考えられる。しかし、このりんごは赤いという一点をどうして私たちは持つかというと、共通感覚があるからだとカントはいう。りんごが赤いという一点を誰もが共通的に感じるのである。この目の前にある「りんご」がりんごと呼ばれるものであると確信している。しかもりんごの中のひとつのりんごであり、他のりんごと共通していることも確信している。しかし、何を出すか教えないで、緑色のりんごを前に出されると、緑色の何だろうな、りんごっぽい形だけどな、と推測し始めることが考えられる。緑色のりんごを共通感覚で感じることが最初の方ではないということがあると考えられる。あとで、「緑色のりんごなんです」と答えを教えると、緑色のりんごというものを正確に認識するようになっていく。その彼は、赤いりんごと緑色のりんごがあって、りんごは赤色だけじゃない、緑色のりんごもあるんだ、と学んで機嫌よくなって帰っていくのかもしれません。緑色と書きましたが、薄緑色というりんごもあるらしい。リンゴには様々な種類のりんごがある。これは後天的なコモン・センスではないか。様々なリンゴがあると確信するには、様々なリンゴを見渡すという経験がなくては起きない、という現象学的観点が懸念されます。様々なリンゴを見渡すといっても、潰れてぐしゃぐしゃになったりんごというサンプルではエポケーして判断を保留することが考えられる。フッサールはりんごを確信するにはどうすればよいか2000京回考えた。りんごを見たからといってりんごと思わない、無分別の境地も存在する。りんごであると知らずにりんごを見ている、そんな境地である。誰かが「それはりんごです」と彼に伝えるとする。彼はりんごであると発想するが、最初はその赤いものがりんごだっと信じられない。他者がりんごという言葉を使ったのを聞いたりお店でりんごを見たりして経験してからりんごというものについて信じるようになる。そしてりんごという言葉を使い始める。他者と共通の考え方という「りんごはこういう形」「頂点にヘタがある」「りんごの配色」といったものを私たちは把握する。りんごのパターンというものを加味することがある。自分のりんごの像と他者のりんごの像は一致している場合がある。自分だけがりんごの感想を持っているわけではない。誰かがりんごが白い、と言い出したらどうであろうか。「りんごは白いんだよ」と上から教育をされているとしたらどうであろうか。いいや、あながち嘘ではない。白いりんごは存在する。だけど、赤いりんごなのに白いというのは嘘である。りんごはすべて白いという言い方は嘘である。りんごの中に白いりんごがある、というのなら嘘ではない。あながち、というのは一概に、という意味である。皮を剥く前にりんごは白く見えない、というのも赤い皮であるから。しかし、川を剥いてみれば白いように見えることがある。白いりんごと思っていなくても皮を剥いた後は白いりんごとして現出する。白いりんごの形で抽出した際に、このりんごは白い、と確信するのである。それは、ナイフでりんごの皮のすべてを切っていったという前提があっても可能である。皮むきの機械ですべての皮を切っていっても可能である。赤いりんごだという思いから白いりんごだという思いにシフトすることは、ひとつのパラダイムシフトである。赤い皮があるりんごは赤いりんご、赤い皮がない一般のりんごは白いりんご、という考え方がある。私は、皮を省いて考えれば、すべてのりんごは白い、という一説も考えている。緑色のりんごはあるが、私は緑色のりんごを食べたことがなく、目の前で見たこともない。それでも、ネット上で緑色のりんごの皮と内部を見ると、皮は緑色でも、内部は白く見えている。白いりんごもあるが、内部は白く見えている。すべてのりんごが、内部は白いことから、皮がなければすべて白いりんごと化すのではないか、と考えている。

まなざしは何を生み出すか。母親の子に対する〈まなざし〉は、子は母親に好感を持つ機会となる。〈まなざし〉は愛を育む可能性がある。〈まなざし〉を受けた子は、優しさや思いやりを母親の中に見出すケースがある。この〈まなざし〉を暖かいまなざしと受け入れるかは、子の感じ方によるであろう。母親のまなざしにより愛を育む子の心理というものは、子も憶えていき、子の子にも〈まなざし〉の重みを伝えることに繋がり、世代を越えて優しさ=〈まなざし〉が実を結ぶのである。こうした上家系と下家系の共通点、すなわち優しさ=〈まなざし〉が次だけでなく次の次の次の……にも受け継がれることは、まさに素敵そのものであろう。素敵というより、素晴らしいという見方もある。私たちは自身の子だけではなく、孫、ひ孫のことも真剣に対応しなくてはならない。子を持つ重み、子を尊重すること、および子を大切にすることを忘れてはならない。

学校の教師から生徒へ<まなざし>を向けることは、生徒も有り難く感じるように思う。「生徒Aくん、私を見て、この<まなざし>を受け取ってね」と目と目を合わせて言われたら嬉しいに違いない。学校の教師は<まなざし>を怠らない方がいいのではないか。むしろ積極的に生徒たちへ<まなざし>を向けることを検討した方がいい。家族内で起こり得た<まなざし>を学校の教師も実践する。そういう実践が平和な社会を築いていくひとつのピースとなるのではないか。<まなざし>を受けた生徒は<まなざし>を知り合いや友人にも送ろうとすることが懸念される。<まなざし>は親子間だけでなく、教師と生徒たちだけでなく、友人も含めるのが妥当である。友人に対する愛はフィリアー(友人愛)と呼ばれる。このフィリアーを大切にしてほしいと存ずる。フィリアーが円滑な人間関係を築く土台となり、相手を思いやる礎となる。友人と聞いて私たちは友人を思い浮かべるかもしれないが、初めて友人を紹介されたときには何を第一概念とするであろうか。第一に普通の人かな、とか第一に優しそうだな、とか、そういう概念が第一印象とも言い換えられる。第一に拵えたこと=第一印象があると普通は考えるが、微妙人、微妙者、可愛い、美人、マダム、大丈夫、という第一概念もある。この大丈夫という概念は、その人から大丈夫という感じを感じたから拵えたのであろう。眼鏡を掛けているというのは印象じゃない、という説もある。第一概念には他にも頭が良さそう、いい方、いい人、スタイルがいい、体格がいい、素敵、という概念も含める。こういう分析していく作業を厳密主義の所以と称する。出会ったら何を第一概念としたか、第二には何を第二概念としたか、こういう作業が厳密主義者の思考である。この方は何番目に優しいか、こういう問いもあるが、第一概念から第二概念までしかないという統計データもある。私はよく素敵が気になる。素敵とはどういう方をいうのかと。素敵な人は自分自身だけなのか、他にもいるのか。素敵な人は高邁なのか。デカルトによれば、高邁であれば情念に左右されない、と言います。これは高慢の定義という感もあります。物自体の存在は認識されない、認識されない存在が物自体の存在なんだよ、という説明が定義のように感じることが否めません。もうひとつ、超人というのは永劫回帰を積極的に肯定できる存在、というのも定義に感じませんか。あの方は優しい、という一般的な説明と感じが違います。あの方は優しい、というのは定義ではなく、総合的命題であります。高邁の徳を抱える超人は、未来永劫情念に左右されない、という定義づけがあるかもしれません。ニーチェのらくだや獅子という概念も定義づけから出発していると言える。らくだのように怠けていて、重い荷物を運ぶ存在、そしてわれ欲するとアクティブな獅子という存在という風に定義づけされていそうな感じが否めない。

絶対精神という概念は、ヘーゲルに由来する。この絶対精神という概念は、私”たち”の人生の可能性的存在であり、それぞれの形で解釈されるため、具体的な定義を持たない。準絶対精神という私の概念では、絶対精神の次の位に座する存在、とでも書いておこう。絶対精神は神と同等な存在である。これはヘーゲルは述べていないが、定義感がある。絶対精神を主張するものの、むしろヘーゲルは無神論者の立場をとる。ヘーゲルによれば、神は存在しない。ナポレオン皇帝が絶対精神である、というのである。彼こそが勝負の神である、という。しかしナポレオンが世界を創成したわけではないと、注釈をする。(誰も)世界を創成することはできない、とヘーゲルは断言した。世界を創成するとしたら、最高のプログラマーではないか。しかし、非世界創成の最高のプログラマーは現に世界を創成していないのではないか。今のAIや現存在の存在に世界を創成する力量はないのではないだろうか。

ハイデガーはダス・マンに関して説明したが、平均性や均等化、懸隔性とは全く別の仮象的存在の声を聞くことがある。それは第一に、「その人に君の隠し事はバレてるよ」という声である。第二に、「ここで隠し事を明かさないとダメだよ」という声である。これはいわば幻聴というものである。幻聴というのは、なんてことない声、すなわちファイファイという単純な声も含める。ファイファイと聞いた程度では困らないだろうが、「面白いこと言わないと」「上手いこと言わないと」とせがんでいそうな声も幻聴に含める。ハイデガーは幻聴を支持することを懸念していた。幻聴で聞いたことがらは、重く受け止めてしまうことがある。幻聴によっては、隠し事をすべて明かしてしまうというきっかけとなることがある。幻聴は私たちに強力な威圧感を与えることがある。私たちは幻聴を信用してしまうこともある。とはいえ、ダス・マンの一種にも幻聴と捉えることもできる。「米の需要度が増してきたよな」というダス・マンの声を聞くこともある。また、自分の自己意識で「米を安く買える場所はどこだろう」とダス・マンの声を聞くこともある。この自己意識で聞こえるダス・マンの声は幻聴ではないことも懸念される。良心の呼び声と世人の声の区別がいかほどか大事である。「明日米が安く買えるよ」と声が聞こえたら、世人の声だと思うかもしれない。でも良心の呼び声である可能性もある。ゆっくり判断を拵えておくことも大事である。冷静になって世人の声ではないと弁えたら天使の声と思ってその通りに実践する手がある。世人の声と天使の声の出方を機にどちらかか、あるいは良心の呼び声か見極めることもあり得なくもない。ハイデガーのダス・マンは頽落の様態であると誤解されているが、世人の声のことであり、仮象形態と呼ぶ。「明日から自販機の飲み物が二百円に値上がりするよ」という世人の声を聞くとき、令和7年九月三十日火曜日を軸に考えてみたくなる。自販機が高くなる日を認識することが懸念される。

スピノザの神は全自然という考え方、表象知、理性知、直観知に分類する知の構造は、いささか詭弁的な印象を受ける。表象知は身体や家屋など表象されているものの認識的知識である。理性知とは理性で判断した際に拵えた知識である。直観知とは感覚に受け止めた情報を知識化したものである。暗黙知は暗黙に把捉された情報的知識である。このように言語的明晰化することが哲学である。ウィトゲンシュタインは「哲学は思考の論理的明晰化である」と断言している。アポリアケー(観想)して分析していく作業を哲学的であると私は考える。アポリアケーはセネガ(観想)とも言い換えられる。観想とは『考える』、観想的とは『考える方法』、観想的態度とは『考える力』といった意味内容があり、哲学的な第一歩を仄めかしている。表象知では奇跡や預言が含まれ、それは表象している事象と判断されているからである。スピノザは奇跡や預言を信じていなかった。直観知だけは信じていたが、直観したことは少なかった。『とにかく美味い』、『とにかくうまい』という二つしか信じていなかった。スピノザは聖書を読んだけれど奇跡や預言を受け入れることはなかった。
神様という人格神は存在しないと考え、神即自然はスピノザにとって必須項目であった。スピノザはすべては神の属性の現れとしたが、人間は神なのか神の属性の現れなのか曖昧でいたそうです。人間は神であるということと人間は神の属性の現れ、どちらなのか決めたくなかったと考えられています。スピノザは、すべての者が神の知への愛を最高善達成者を目指すなら不可欠であると考えた。すべての者が神の知的愛を持つことを希求したが、すべての者という言葉のうちに神は入っていないと考えることもできるであろう。神以外の者が神を愛するということは、神即自然という前提を危うくさせているようにも映る。人間も自然も神なのであれば、人間は人間を愛すべきという事態に陥るのではないか。そして、神も人間を愛すべきという事態に陥るのではないか。神即自然という言い方はやや言い過ぎているのではないだろうか。すべての自然に神が宿る、神性が宿る、神の属性が宿る、といった考え方もあるが、すべての自然が神であったりそうした宿性があったりすることは詭弁である感も否めない。神即自然とは神がすべてである、というニュアンスであれば、この世界には神性な存在しか存在しないということになるであろう。世界には、と書いたが、これは世界そのもの、および世界のすべても神性な存在であると解釈することも可能である。こうした観点から見れば、世界=神の総体、という図式が成り立ってしまう可能性も否めない。また、世界は神の総体である、という一説も成り立ってしまうと考えることができるであろう。

スピノザは直観を重んじたが直観知は実はないと考えていた。スピノザは本音としては表象知も理性知もないと思っていたのだ。文筆のためにエチカを詭弁という前提で書き上げたのである。

勇気を重視した哲学者は、プラトン、スピノザ、ニーチェ、心理学者はアドラーが挙げられる。

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哲学するトナカイ|ネット民
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