今晩のNY株の読み筋=FRB高官発言に注目か
- ウエルスアドバイザー
2020年4月、東京都国立市に所在する旧国立駅舎が復原されて一般公開された。
旧国立駅舎は赤い三角屋根が特徴で、木造の駅舎は1926年に竣工。都内では旧原宿駅舎に次いで歴史のある駅舎として異彩を放っていた。
一橋大学が立地し、学園都市としても文化的な香りが街に漂う国立駅は、西武グループを一代で築き上げ、衆議院議長にも上り詰めた堤康次郎の悲願でもあった。
学園都市として発展を遂げてきた国立は、戦災復興期に経済面から、高度経済成長期には増える自動車の波によって、バブル期は高層化する集合住宅によって、そのつど街の変化を求められてきた。
国立の住民は時代が変わっても頑なに文化・教育・自然を守ろうと奮闘し、それら押し寄せる変化の波を頑なに拒んできた。
都市化が急速に進んだ戦後の東京において、国立ではどんな問題が起こり、どんな道を歩んできたのか? 少し前には、引き渡し直前だったマンションがデベロッパーによって自主的に解体されたこともあったが、こうした問題を振り返ることで国立の独自性を見てみたい。
■「歓楽街」か「文教都市」か? 揺れた戦後の方針
戦前期まで農村然とした国立は、西武グループの総帥だった堤康次郎が学園都市を築き上げたことで文教都市へと姿を変えた。
玄関口となる国立駅は、赤い三角屋根の駅舎が特徴で、長らく国立のシンボルとしても親しまれてきた。
国立は戦前期に学園都市として発展を遂げたが、戦後も文化・教育・自然を大事にする思想を強くしていく。しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。
国立に隣接する立川市は、戦前から立川飛行機(現・立飛ホールディングス)など軍需工場が多く立地していた関係から連合国軍の空襲対象になり、戦後は広大な地域がアメリカ軍に接収されている。
そのため、立川に多くのアメリカ兵が駐留。基地の街だった立川はアメリカ兵が羽を伸ばして遊べる環境にはなかったため、周辺にはアメリカ軍を相手にする歓楽街が自然に形成されていった。
戦災で荒廃した日本には工業需要はほとんどなく、農業で生計を立てるしかない。しかし、それまで商店や町工場を経営していた事業主たちが農業に転じられるはずもなく、糊口を凌ぐ手段としてアメリカ兵たちの懐に頼った。
立川に隣接する国立も事情は同じで、終戦直後には駅前を中心にアメリカ兵を相手にする歓楽街が形成されていく。
それまでの国立は文教都市として歩んできたこともあり、市民の間には街の復興を歓楽街に委ねるという選択肢を「風紀が乱れる」「これまで学園都市として醸成してきた文化や住民意識が水の泡になる」と問題視する声も強かった。
市住民の意見は容認派と反対派で真っ二つに割れた。当然、議会でも両者の意見が対立している。
国立の針路は文教都市なのか? それとも歓楽街なのか? 最終的に議会は文教都市を選択するが、その採決は1票差という僅差だった。
そのため歓楽街を支持した住民ハレーションは残ったが、こうして国立は歓楽街による発展という道を捨て、戦後も文教都市として歩んでいく。
■注目浴びた「国立歩道橋事件」
国立の文化・芸術を重んじる姿勢は、その後も脈々と受け継がれて現在に至っている。それは時に社会問題として世間から注目を浴びる事件に発展することもあった。
そのうちの1つが、「国立歩道橋事件」だ。
高度経済成長期に日本全国で自家用車の保有台数は急激に増えたが、なかでも全国に先駆けて東京都は道路整備が進んでいたこともあってマイカーのみならず商用の自動車も増えていた。
自動車の通行量が増えると、比例して交通事故も増える。東京都は小中学生の安全を確保するため、通学路の整備に乗り出した。
現在の価値観に照らせば、自動車の危険から小中学生を守るには歩車分離や車道側を立体交差させるだろうが、当時は歩行者が自動車を避けるための工夫が凝らされた。
その結果、通行量の多い幹線道路には歩道橋や地下道などが建設されていった。しかし、小中学生にとって歩道橋や地下道は遊び場と化す可能性があった。
また、横断歩道と比べると歩行者が迂回することを強いられる歩道橋や地下道は歩行者目線のインフラとは言えなかった。
それでも、東京都は通学路の安全対策という大義名分で23区内から歩道橋や地下道の建設が進めていった。そして、それは三多摩(多摩地域)にも及んでいく。
■歩道橋架橋への強い反対、そして訴訟へ
国立市にも1970年に駅前からまっすぐに延びている大学通りを跨ぐように歩道橋の架橋が計画された。
大学通りは車道と歩道、そしてその間に緑地帯が設けられている。この緑地帯は国立を学園都市として開発した国土計画興業(現・西武・プリンスホテルズワールドワイド)が所有していた。緑地帯はオープンスペースとして開放されていたものの、そこに常設の歩道橋を建設するわけにはいかない。
そのため、東京都は地元小学校のPTAを通じて歩道橋の架橋するための調整を働きかけるが、一部の保護者から歩道橋に反対が起こった。その理由は、前述したように「歩道橋は自動車を優先させる道路施設である」ということだった。
また、そうした自動車を優先させる歩道橋建設のために景観を犠牲にしてもいいのか? といった疑問も提起された。
この反対運動は、小中学生の安全には代えられないという正論に押されて沈静化する。ただ、反対運動によって年度をまたいでしまったことから歩道橋の整備予算が見送られた。
翌年に歩道橋計画は階段式からスロープ式へと進化し、予算も増額されて再提案された。
再浮上した歩道橋の提案に対しても、母親を中心とする保護者一同から反対運動が起こった。東京都は住民の意向を無視して建設を強行。その結果、訴訟にまで発展した。
訴訟を含む一連の出来事は、「国立歩道橋事件」と呼ばれる。同訴訟は住民側の訴えがしりぞけられる形で終結している。
ただ、歩道橋には賛成の立場でも、そこには濃淡があった。たとえば、「歩道橋が建設される場所は暗がりなので防犯面で心配が多い」と建設する位置に疑義を呈し、場所の変更を求める賛成派もいた。
■高層マンション開発めぐり、市と事業者の対立も
歩道橋の一件から約30年後の1999年、今度は大学通り沿いに高層マンションの建設計画が持ち上がった。
国立市は市内の用途地域を変更した1989年に、商業地の高度規制を撤廃して容積率を大幅に緩和した。これにより、国立市でも高層マンションの建設が可能になった。
これに着目したデベロッパーは文教都市に住みたいという新住民の需要をすくい取り、1999年に大学通り沿いに高層マンションを計画する。
これが地域住民の不評を買い、さらに市長も反対を表明。法律に違反している物件ではないため、市は建設中止を命じることができず、景観条例に基づいてマンションの高さを高さ20メートル以内に収めるよう行政指導をするにとどまった。
この行政指導によって、デベロッパーは建設予定のマンションを縮小。高さ44メートル・14階建てへと変更したが、それ以上は譲歩できないとも市に通告している。
国立市では1999年に新たな市長が誕生しており、市長はマンション建設に反対していたことから、市の方針もマンション建設反対に傾いていった。
マンション建設そのものを撤回させたい行政と建設を進めたい事業者の対立は激化し、複数の訴訟へと発展。
中でも、高さ20メートルを超える部分が違法であるとして、反対住民らが撤去を求める民事訴訟については、東京地裁では大部分で主張が認められたものの、最高裁では事業者側が逆転勝訴している。
■住民が「国立」に抱く強い思い
国立住民の地域を思う気持ちは、冒頭の国立駅舎を復原する工事でも一定の影響を及ぼした。JR中央線は東京駅―名古屋駅間を結ぶ大幹線だが、そのうち東京駅―高尾駅間は東京圏の通勤路線としての趣が強い。
当時、立体交差化が進んでいなかった同区間は踏切事故などにより輸送障害が頻発する路線として有名だった。輸送障害を減少する取り組みとして、JR東日本は1999年から中央線の立体交差化の工事に着手した。
中央線の高架化は定時運行に欠かせないが、その工事を進めるには国立駅舎が干渉してしまう。JR東日本は駅舎を移動させるのではなく、解体して高架化工事完了後に新駅舎を建設することを選択した。
しかし、国立住民たちにとってJR東日本の駅舎を解体するという決断は許容できなかった。そうした経緯から駅舎の保存運動が起きる。JR東日本は住民の意向を聞き取った上で解体の方針を変えなかった。
住民とJR東日本の板挟みにあった国立市は、折衷案として自前で駅前用地を購入し、そこに駅舎を復原させることを決めた。
歴史的建築物を再現する手法には、「復元」と「復原」の2つが用いられる。
厳密な定義はないが、復元は研究者や学者が文献などを参考にして持てる知識を総動員しながら再現する手法を指す。図面が残っていない石器時代の古墳や竪穴式住居などがこれに該当する。
一方、復原は図面などの資料・史料を基にして以前の姿へと戻す作業を指すことが多い。駅舎は明治以降に建設されているので図面が残っているケースが多く、復原が用いられるケースが増えている。
ただし、これが必ずしも正しいわけではなく、事業者や地域、年代によっても復原と復元への使い分けに傾向の違いが見られる。
国立駅舎は中央線の高架化工事が完了した後に復原作業にとりかかった。そのため、高架化工事中は作業ができず、旧駅舎の部材は倉庫でいったん保管されていた。こうした費用はふるさと納税などを活用し、一般財源から支出することを避けた。
さらに駅舎復原後も、国立市は三角屋根の駅舎風景を守る工夫を続けている。復原された国立駅舎の隣地はJR東日本が所有していた土地だったため、駅ビル拡張に伴って商業施設を建設する計画が進められていた。
復原駅舎は昔の姿なので、背が低い。その隣に高層の商業ビルが建てば、圧迫感が出てしまう。それでは、せっかく復原した三角駅舎の景観が台無しになってしまう。
国立市はJR東日本と掛け合って、隣地を用地交換によって取得した。こうして三角屋根の木造駅舎とその景観を守った。
■引き渡し直前のマンションが解体、背景は「地域性」?
国立市では2024年にもデベロッパーが引き渡し直前のマンションを自主的に解体するという異例の事態が起きている。同物件は建築基準法など一連の法律には違反しておらず、事業者からも明確な理由が発表されていない。
当時の報道では、マンション建設により富士山が見えなくなるという理由がクローズアップされ、そうした景観を大事にする国立という地域性が強調されていた。
マンション解体の真相は現在に至っても明らかになっていないが、これまで国立が歩んできた歴史的な流れを見ると、そうした憶測が飛び交うことは不自然ではない。
◇
国立駅は新宿駅まで中央線で約30分、東京駅まで約45分という通勤圏にある。国立は西武グループの総帥だった堤康次郎が悲願としていた学園都市として開発し、それが発展の礎になっている。
東京や新宿までの所要時間や利便性を考慮すれば、堤が学園都市を建設しなくても農村から住宅地へと変貌したことは間違いないだろう。
しかし、学園都市の建設は地域住民の意識を変え、そして市が文教都市としての自覚を育てることにもつながった。
それを「住民が心の底から郷土を愛して、強い愛着を持っている」と捉えるか、はたまた「面倒な住民が多い」と受け取るかは人によって判断が分かれるだろう。
日本全国が人口減少する現在も、東京23区ではタワーマンションの建設が喧しい。これらタワマン建設により、ますます23区への一極集中は進んでいる。
その一方で、同じ東京都内でも三多摩は人口減少が始まっている。学園都市として発展を遂げてきた国立市も人口減少の波が押し寄せることになる。
それでも文教都市を貫くことができるのか。それとも針路を変更して都市化との協調路線を取るのか? はたまた第3の選択肢があるのか?
都市は不変ではなく、時代や社会状況に応じた変化を求められる。まちをつくり、そして育てるのは行政・住民ばかりではない。大学に企業といった組織体、またそこに通勤・通学する人たちもまちに関わる当事者だ。
みんながどんな意見を出し、そしてどんな選択を取るのか? 今後の国立がどうなるのかといった部分にも注目していく必要がある。
小川裕夫/楽待新聞編集部
不動産投資の楽待 編集部
最終更新:11/9(日) 19:00
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