式日(2000 日本)

監督/脚本:庵野秀明

原作:藤谷文子

製作:鈴木敏夫

製作総指揮:徳間康快

撮影:長田勇市

編集:上野聡一

音楽:加古隆

主題歌:Cocco

出演:岩井俊二、藤谷文子、村上淳、大竹しのぶ、松尾スズキ(声)、林原めぐみ(声)

 

この記事は「シン`エヴァンゲリオン劇場版」からの連想で「式日」を観て、その関連について書いているものです。

なので、「式日」だけでなく「シン・エヴァンゲリオン劇場版」についてもネタバレしています。ご注意ください。

①「シン」につながる宇部映画

故郷である山口県宇部市に帰ってきたカントク(岩井俊二)は、線路の上で「儀式」を執り行う少女(藤谷文子)と出会います。彼女は廃ビルに住んでいて、毎日「明日は私の誕生日」と言います。彼女に惹かれたカントクは、一緒に誕生日前日が繰り返される31日間を過ごしていきます…。

 

2000年に公開された、庵野秀明監督の実写映画第2作。

俳優ではない岩井俊二監督が堂々主演。平成ガメラでおなじみセガールの娘・藤谷文子共演。

美術館で公開されたアート映画‥だけど、決して難解な映画ではないと思います。ストーリーは割とシンプル。

僕はこれまで観たことがなくて、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を経ての鑑賞になりました。

 

なので、どうしてもエヴァとの類似点を探してしまいはするんですが。

でも、意識的にやるまでもなく、これは意外なくらいにエヴァでした。

エヴァと同じ話です。

 

映画はオール宇部市ロケ

「シン・エヴァンゲリオン」ラストに登場した宇部の風景…宇部新川駅、宇部線の線路、そして海に面した工業地帯が全編に渡って登場します。

本作を観ると、ラストの実写だけでなく、ゲンドウの回想シーンの背景も宇部の風景であることが理解できます。ゲンドウの自分語りはあれはもう完全に、庵野秀明自身の来し方ですね。

 

歴代のエヴァで登場してきた宇部線のクモハ42系列車も、主要な舞台として繰り返し描写されています。

そして線路が、何度も何度も執拗に描写されます。

 

シャッター商店街や遊園地、遺棄された集落など、様々な場所が登場しますが、総じて生活の気配は排除されていて、滅亡後のような、どこか夢の中のような、非現実的な肌触りが保たれています。

全体が現実のようでもあり、誰かの心象風景のようでもあり。

それを確定させず、どちらにもとれるように撮っているのも、エヴァと共通するところだと思います。

 

②1つのストーリーに織り込まれたいくつものフェイズ

本作は第一には、男女の出会うラブストーリー

心を病んでエキセントリックな少女と、表現者である映画監督とのアーティスティックな交流を描く、それこそ岩井俊二的な「オシャレな恋愛映画」としてのフェイズがあります。

 

一方で、リアリティの構築にはほとんど注意は払われていません

カントクと少女はただ理由もなくばったり出会い、理由もなく交流を重ねていくことになります。

少女がどうやってビルをまるごと占拠できているのか、日々変わる派手な衣装や住居を彩る多数の小道具はどうやって調達したのか、仕事もせずにどうやって食い繋いでいるのか…といったことは、一切説明されません。

そこは、舞台演劇的なリアリティが導入されています。

 

本作で優先されるのは、映画空間が彼女の心情を反映したものであること。

本作で映し出されているのは、客観的に俯瞰された世界でありつつ同時に、藤谷文子演じる少女の内面の、極めてプライベートな世界です。

そこでは、描写されるあらゆるものは彼女の心情のメタファーです。廃墟の情景が孤独な心情を物語り、雨が湿っぽい感傷を反映する…というように。

 

両親に関するトラウマから心を閉ざし、自分の中の世界に生きている少女を表現するために、映画の世界そのものが少女の内面世界になっている。

でも、ただそれだけでもない。映画は彼女の世界であると同時に、岩井俊二演じるカントクの世界でもある。

彼女を追いかけるカントクのハンディカムの画面と、映画の画面が行き来することで、彼女の世界はカントクの視点で切り取られ、脚色されていきます。

 

そして更にその外側を見るなら、これは「式日」という映画である、というもう一つ大きなフェイズもあるわけです。

そして、いかにもそのままであるカントクだけでなく、実は少女もまた庵野監督の分身である。

「式日」の世界そのものが、庵野監督の内面世界。だから宇部だし、鉄道なんですよね。

 

作品がフィクションであり同時に作り手の内面でもあるのは、どんな創作物でも共通するところなんだけど、それを小綺麗に整理せず、そのまま等価の形で重ねて出してくる。

…というのが、庵野秀明監督の個性なんだと思います。

だから見ていて、めくるめくような驚きがある。

純然たるフィクションを見ていると思っていたらいつしか地続きのままで庵野監督自身の話になっていて、かと思えば観ているこちら側、自分自身の話になっていたりもする。

 

これ本当、すごいオリジナリティだと感じていて。他に似た例をあまり見ない作り方なんですよ。

フィクションを構築するのも、そこに自分を込めるのも、クリエイターとしては普通のことなんだけど、その出し方が唯一無二なのです。

 

そしてこの表現が、決して奇をてらって技巧を凝らした結果ではない。

あくまでも、自分の思いをそのままに、愚直に真っ正直に表現した結果、そういう表現になっているのだと思えるんですよね。

③シンジやアスカとの共通項

親に見捨てられたという思いから、心を閉ざし、自分の世界に閉じこもる少女。

その少女の内面世界が、「式日」の作品世界そのものに投影されている。

これは、「シンジと、彼の内面であるエヴァ世界」の関係と同じものになっています。

 

少女はシンジであると共に、アスカでもあります。

傷つくことに怯え、過剰な防衛反応で攻撃的に振る舞う彼女はアスカとよく似た描き方です。

その場合、おずおずと少女に近づこうとするカントクがシンジでしょうか。

 

本作を観ると、特に「シン」におけるアスカの描き方は「式日」から触発されたところがあるのでは…という気がしてきます。

少女は日ごとに自分自身をリセットし、毎日「明日は私の誕生日」と言い続けます。

永遠に繰り返される学園祭前日…ではなくて誕生日前日。また「ビューティフル・ドリーマー」ですね。

成長することを拒絶しているのは、永遠に14歳であり続ける「エヴァの呪縛」のようです。

 

少女は夜もほとんど眠らず、「真実に向き合うことが恐ろしく睡眠ですら拒絶している」と言われています。

これは、「シン」でアスカが眠ることの出来ない体になっているのを連想します。

「シン」でのアスカの、裸にジャケット羽織ってゴロゴロしてる様子は、本作での少女の日常と共通したイメージがあるんですよね。

 

後半で、少女は姉の人格に成り代わってしまいます。「彼女は、ついに彼女でいることも拒絶してしまった」

惣流アスカが式波アスカに変わったのも、もしかしたらそういうことなのかも。

④現実への帰還というハッピーエンド

逃げ込んだ虚構の世界も、現実を反映して不安と不可解に満ちたものになっていく。それもエヴァと共通するところですね。

毎日屋上からの自殺を試み、「まだ大丈夫だった」と確認する少女。死や絶望という破滅はこの世界に常に潜んでいて、いつ彼女を捕まえるか分からない。

そんな危険の中を、線路をたどる綱渡りのように彼女とカントクが進んでいく。1日ずつ数えていくカウントダウンを、いかにも死へのカウントダウンのように思わせつつ。

 

そんな危険をギリギリのところでかいくぐり、本作は最後、少女が現実に帰還するところに帰結します。

夢から覚めた? それともまだ俺たちはまだ夢の中にいるのかい?」とカントクは少女に問いかけます。

そして「これが俺たちの…きみの現実だからさ」と。

少女が笑うことができ、自分の誕生日を「12月7日」と告げて、映画は終わります。(これは藤谷文子の実際の誕生日)

 

永遠に誕生日前日を繰り返すという虚構の世界を脱却して、現実に帰る

誕生日が来るということは、きちんと1年に1つ年をとる。つまり、大人になるということ。

思春期のモラトリアムな夢の世界を終わらせて、大人になって、現実を生き始めるということ。

 

旧エヴァからずっと、庵野監督は辛い現実を拒否して虚構に逃げ込むことを切実に描きつつ、最後には現実に目覚めることを目指して描いてきました。

旧劇場版でも、そのメッセージは明確だったと思います。オタクである観客に「現実を見ろ!」と突きつけるその手法はいささか暴力的で、痛々しいものではあったけれど。

エヴァの旧劇場版をハッピーエンドというのは難しいものがあったけれど、「式日」でははっきりと少女が現実に帰るハッピーエンドを描いています。

だから、「シン」のあの「現実に帰る」エンディングは決して唐突なものではない。庵野監督は最初からずーっと、ブレてないんですよね。

⑤「線路」の意味

映画では、「クモハ42型」が詳細に紹介されます。

「車体形状 自動運転台付き20メートル車

ドアは片側2箇所 片開き半自動扉

小型座席 セミクロスシート

車体色 ぶどう色2号

座席68 立席36 定員104名

自重45トン

昭和8年に製造

現在全国でここの2両だけが営業運転中」

 

 

 

宇部新川駅を通る、庵野秀明が通学などの日常に使っていただろう思い出の列車。幼少時の記憶とセットになった列車です。

エヴァでは、旧シリーズからずっと、シンジの深層心理の自問自答の場として登場しています。

「シン・エヴァンゲリオン」のラストシーンは、この列車との決別でもありました。

 

自分が線路に惹かれる理由について、劇中では「2本の線路は絶対に交わらないから、いい」ということを言っています。

庵野監督のたぶん生来の実感であり、エヴァではシンジを通して、また「シン」ではゲンドウを通して描いてきた、人との距離感。他人と距離を縮めることを極端に恐れ、嫌がり、線路のように絶妙な距離を保ちながらずっと並走してくれることを求める心理…ですね。

 

でも、「式日」でも「シン」でもポスターの絵柄になっているように、2本の線路は確かに交わらないけれど、線路同士はポイントで交わります。

並走している車両が、同じ路線に乗り入れて「連結」することもある。

ポスターの線路は、そんな心理…他人との交わりを恐れ絶妙な距離感を求めるけれど、同時に交わることにほのかな期待も寄せている…を表しているんじゃないかと思います。

 

↑「シン」ポスターにおける「線路」

 

 

 

 

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