「上級国民」裁判が我々に問い掛けるものとは

遺族の涙と「正義感」

 次に思い浮かんだのが、光市母子殺害事件だ。1999年4月、山口県光市で当時18歳1カ月だった少年が水道工を装い、乱暴目的で集合住宅の一室に入ると、当時23歳の主婦を絞殺。一緒にいた生後11カ月の長女を床にたたきつけ、首を絞めるなどして殺害し、遺体をそれぞれ押し入れと天袋に隠して立ち去った。家裁から逆送された少年は、一審で検察から死刑を求刑されるが、山口地裁は無期懲役を言い渡す。検察が控訴するも、二審の広島高裁でも無期懲役となった。

 これを受けて、妻と子どもを殺された夫が記者会見を開き、「これで死刑でないのはおかしい」と厳しい表情と言葉で訴えると、メディアが大きく報じた。すると、検察が上告した最高裁で、審理が広島高裁に差し戻される。この時に、最高裁が指定した弁論期日を新たに選任された弁護人が欠席してすっぽかしたことから非難が広がり始めると、少年はそれまで罪を認めて反省を貫いてきた主張を変え、乱暴目的を否認。不意に相手の女性を殺害してしまったと改めて無罪を主張したことに、ことさら非難が集中した。

 法廷で少年は、性的行為は死者を生き返らせるためのもので、それも山田風太郎の小説「魔界転生」の記述から思い立ったと言った。遺体を押し入れに隠したことについては「ドラえもんが何とかしてくれると思った」などと語った。誰もが知る「ドラえもん」の寝床は押し入れであることからそう思った、と自ら説明している。これに世間の批判は最高潮に達した。少年法の精神など関係ない、死刑でなければおかしい、さっさと死刑にすべきだ、という気運だ。

 広島でこの差し戻し控訴審を私が取材した2007~08年当時は、スマートフォンなどまったく世間に普及していなかった。ましてSNSなど未開だった時代だ。専ら少年の裁判への批判はメディアが代弁していた。テレビのワイドショーならば、コメンテーターが厳しい口調を競うように批判を浴びせ、視聴者はどのコメントが自分の考えと合致するか、品定めをして溜飲を下げた。

 それが今では、個人がSNSやニュースコメントとして自身の意見を簡単に発信できるようになった。そこで発せられる言葉は、時として強烈な刃(やいば)ともなる。2020年5月に女子プロレスラーの木村花さん=当時(22)=がSNSでの誹謗中傷から自ら命を絶ったことはその典型として知られるが、こうした攻撃的言動や罵詈(ばり)雑言を繰り返して、いわゆる「炎上」を引き起こす側の心理に作用しているのは「正義感」だと分析されている。自分の持つアイデンティティーや常識に照らして、不謹慎であったり、正しいと思うことから逸脱していたりする相手を許せないと思うことから始まって、そこに正義の鉄ついを加える。間違っている人は徹底的に罰しなければならない、そう思う感情がエスカレートしていく。

 裁判で罪を認めないことは悪である、正義に反する、自分のアクセルの踏み間違いを車のせいにするなど、もってのほかだ。許してはならない。いつの間にか、自分が裁く側になったように、被告の権利を無視して意見する。昔から日本人が勧善懲悪の物語を好んだように、まるで水戸黄門や大岡越前、はたまた暴れん坊将軍のように悪代官を成敗するような気分に浸る。

◇不満の発散、「祭り」の場となる裁判

 そう、時代劇の悪役と言えば悪代官が代名詞だった。つまり統治する側が庶民を苦しませる。そこに絶対的な正義の味方が登場して不正を正す構図。身分が上の人間、特権階級はそれだけこっそり優遇されておいしい思いをしているという感覚。「上級国民」という言葉は日本人が受け入れやすい素地があった。

 そこに加わる遺族の涙。光市の事件と一緒だ。妻子を失った若い夫が涙ながらに罪を認めない被告を責め、公然と厳罰を望む。遺族への同情が正義感を燃えたぎらせる。

 飯塚被告は、アクセルとブレーキを踏み間違えたことはない、と言った。ブレーキを踏むところを目で確認したとも法廷で証言している。その一方で、自転車に乗っているところをはねて死亡させた親子を、「乳母車を押していた」と証言している。ひょっとすると、高齢ということもあって記憶の混同が起きているのかもしれない。本当にアクセルを踏み込むようなことはしてない、と思い込んでいるだけなのかもしれない。だが、独自の正義感に燃え、不寛容の人々はそれを認めない。法的な裁判手続きも無視して、早く罰しろと叫ぶ。それでカタルシスを得る。魔女狩りという言葉があったように。

「下級国民」を自認する人々にとっては、日頃の不満、抑圧を発散できるまたとない好機となる。努力する者が報われる社会であるはずなのに、そうはならない現実。日頃の苦労が「上級国民」の成敗、没落によって報われた気分になる瞬間。可視化されたSNS上に、参加者が多ければ多いほど盛り上がるネット上の「祭り」の場。その舞台が死刑や刑事裁判によって提供される。

 疑わしきは被告人の利益に、とは刑事裁判の鉄則である。だが、そんなものを無視して、非日常の空間に倒錯する人々がいることを教えてくれる。そんな彼らの幾人かは現実の世界で、死刑を判断する裁判員裁判に参加している可能性を否定できない。

 ただ、その暴走を止めるべく職業裁判官という「上級国民」が存在していることも確かである。

◇ ◇ ◇

 青沼陽一郎(あおぬま・よういちろう) 作家・ジャーナリスト。1968年長野県生まれ。犯罪・事件や社会事象などをテーマに、精力的にルポルタージュ作品を発表している。著書に「食料植民地ニッポン」「オウム裁判傍笑記」(ともに小学館文庫)、「私が見た21の死刑判決」(文春新書)、「侵略する豚」(小学館)など。映像ドキュメンタリー作品も制作。

(2021年9月2日掲載)

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