いつか人となるあなたへ、祝福を   作:RH−

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 更新時間終わってますけど、書きあがったのでそのまま投げさせてもらいます。
 ちなみに1万字超えちゃったんで文字数も終わってます(小声)


消えないものは、だけれども

 

 

 

 ──得色(とくしき)成人(なりと)。成り損ないの人間。それがお前だ。

 

 それは、彼に掛けられた呪い。

 繰り返し繰り返された、薄れようのない傷。その名を名乗る限り逃れられない呪詛。

 

 あるいは──彼が、親から最初に貰ったモノ。

 

 

 


 

 

 

 夢を見ている。

 比喩的な意味じゃなく。希望、目標となる“夢”ではなく、単純に眠っている間に見る情景としての“夢”を。見つめている。

 

 そう、自覚した。

 

成人(なりと)。お前は人の成り損ないだ。分かったら命令に従え」

 

 特別な何か、そういうような能力だとか感覚だとかがあるわけじゃない。

 ただ、疾うの昔に過ぎ去った光景が再演されていたから。随分と幼い日の情景が目の前にあったから。だから気付いたという、言ってしまえばそれだけの話だ。

 

「返事はどうした」

「……ぅ、っぐ」

「ただでさえ能力の低い愚図だと言うのに、返事までできないのか?」

 

 暗い部屋。暗い部屋だ。

 電灯をつけねば何も見えないような、4畳ほどの窓のない部屋。開けられた戸から入る廊下の光だけが小さく照らす、勉強部屋と名付けられた小さな牢獄。

 

 響くのは声。

 硬く、乾いた、男性の低い声。それと、声変わりなど気配すら見えないような少年の呻き声。

 

 

 視線を、向ける。

 

 

 明るい廊下の光を逆光にして、顔の見えない男が立っている。俯くようにしているからか、その表情は暗い闇に沈んでいた。

 その眼の向く先には、小さな子供の姿が。齢にして4歳ほどの体躯の少年が、腹を抑えて蹲っている。その姿勢もあり、そして立つ男の影に覆われるようにしているせいもあり、詳細な姿を判別することはできない。僅かに見える腕から、少しばかり痩せ形であるだろうことだけが推察できるのみだ。

 ……もちろん、それは“骨ばった”なんて言われるほどのものじゃない。そこまで行ってしまえば、何かの拍子に姿を見られた時に困るから。

 

 

 まあ、何を勿体ぶる事もない。幼年期の私が、そこにいた。

 

 

「成人。返事は?」

「は……ぅ、はい。ごめん……なさい、お父さん」

 

 立ったままだった男がしゃがみ込み、少年の髪を掴んで無理矢理に引き起こす。

 そこでようやく、彼の顔に光が当たった。

 

 黒髪黒目。どちらかと言えば美形と評せるかもしれない。この年頃で美醜も何もない、というのはもっともであるが。

 痩せてはいるが、痣や傷などはない。だって、顔は目立つから。()()()()()は、決まって胴体にされていた。

 

 ──あぁ。まだ、この頃は諦められていなかった頃だったか。

 

 小さな瞳に浮かび上がるは、疑問に苦痛、その他諸々。

 あの同僚の言うところの『漂白剤に漬けこんだ死んだ魚の目』、無色透明な瞳になっていなかった頃の眼だ。

 

 

 ()は、常のように『成り損ないの人間』と言われ続けていた。

 ()もまた、自分自身を『人間の成り損ない』だと思っていた。

 

 だけれども、同時に、少年は聡明でもあった。父と母の求める高い水準をどうにか満たせる程度には。

 故に、当然のように疑問を抱いた。

 

 ──どうして自分は、こんなに痛め付けられているのだろう。

 ──どうして父と母は、こんなにも自分を苦しめるのだろう。

 

 ──どうして、私は生まれてきたのだろう。

 

 そんな疑問を。

 幼く未熟なれど、教材として渡される物から一般的な家族のあり方を類推することができてしまったから。まだ、(感情)を残していたから。

 

 まだ、愛というものに憧れを抱いていたから。

 自分もまた人間なのだと思い上がっていたから。

 

 だからまあ、当然のように疑問を抱いて、当然のように躾をされた。

 “なんだその反抗的な眼は”、なんてありがちにも程がある言葉で。それで疑問が弱まるはずもなし、その後はお察しの通り、だ。

 

 幸か不幸か、父も母も感情的に暴力を振るいはしなかった。

 さっきのセリフを言っておいて無理があるだろうと突っ込まれそうだが、紛うことなき事実だ。あの人たちは、あくまでも理性的に躾をしていた。

 理性的に、合理的に。私を道具にするには、それが最も効率が良かったから。だから痛みを与え、言葉を投げ、ありとあらゆる手段を取った。

 

 

 私の両親は、理性的に壊れて(狂って)いた。

 

 

 自己愛の権化。

 世界にあるのは自己か他者かの二択であり、他者とは自己の価値を高めるための道具でしかない。

 

 それが、得色成人の両親だった。

 

 悲しむべきは、そんな人間に高い能力があった事だろう。

 父は国内最高峰と謳われる首都に置かれた国立大学の教授。母もまた私立大学における二大巨頭として名高い某大学の教授。

 間違いなく、国内でもトップクラスの能力をあの人たちは有していた。

 

 だからあんな性質になったのか、あんな性質だからそこまでのし上がる事ができたのか。

 鶏が先か、卵が先か──それは知らない。知らなくてもいいことだったから。

 

 同様に、なぜあの人たちが婚姻を結んだのかも知らない。

 僅かなりとも愛情があったのか、それとも単なる箔付けのためか。どうせ後者なのだろうが、まあ、どちらであってもという話だ。

 

 私にとっては、あの人たちは自己愛の権化でしかなかったから。

 

「夜までの課題だ。解けるまで飯は無い」

「……はい」

「覚えておけ。お前は私たちの言葉に従ってさえいればいい。それがお前の存在意義だ。間違っても私たちのキャリアに傷を付けるな」

 

 そんな両親の間に産まれたのが、私。得色(とくしき)成人(なりと)

 成り損ないの人間という意味を籠められた、父と母の箔を付けるためだけに教育を施された道具。

 

 いつの日か『自分は人間として産み落とされたわけではなかったのだ』と悟り、心を棄て去ることとなる機構。

 

 人の求めるままに行動し、人の命ずるままに活動し、そうして最期まで。

 

 

 まあ、これを見ている()の意識で言うのならば……下らない存在だった。

 本当に、断言してしまえるほどに下らない存在だった。

 

 倍速再生でもされているかのように早送りで流れて行く、少年が教育を施される光景。

 それを眺めて、吐き捨てる。

 

 

 私はまさしく、人間ではなかったのだと。

 

 

──*──

 

 

 不意に、場面が切り替わる。

 

「初めまして、だな。己は前出(まえいで)生人(いくと)。専門は違くとも、同期として共に教授職に就いたのも何かの縁。よろしく頼もうか」

「私は得色成人です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 随分と時が経ったらしい。

 小学受験からだと、20年ほど飛んだ形か。その間など親の指示通りに進学してきただけなのだし、見ていても変わり映えのない情景しか無かっただろうが……作為的、とでも言うべきか。

 

 

 私の人生において、転機になった……否、()()()()時期の記憶だ。

 

 

 飛び入学した大学院を卒業し、そのまま助教授に就いた27の頃。この同僚がまだ奥方と籍を入れる前の、旧姓だった頃だ。

 

「……ふむ。少々初対面ながら失礼な事を言うが、構わないかい?」

「はい?」

「成人、君、精神科医の世話になったことはあるかい?」

「えっと、ない、ですけど」

 

 戸惑うように返す私に、あの同僚──生人は笑みながら大きく頷く。

 ああ、そうだった。アイツは、初手も初手から“こう”だったのだった。

 

 表面上だけ(口調なんか)は丁寧なように取り繕っているが、本質は唯我独尊。

 “人によって見せる度合いは変えている。現代社会で生きようと言うのだ、その程度はわきまえているさ”などと言っていたが、実際はどうだったのか。

 少なくとも『失礼な事を言う』と前置きすればなんでも言っていいわけではないだろうに。

 

「うん、だろうな。むしろそうではなければ日本の医師の怠慢を嘆いていたところだ。成人、悪い事は言わないから精神科を受診してくるといい」

「……あのですね、少なくとも初対面のあなたにそんな事を言われる筋合いは──」

「ああ、そういうのはいいよ。怒ったように振る舞われたところで出てくる感想など“見事な絡繰りだ”という称賛か“見ていられない”という嘆きでしかないからな」

 

 その言葉で、ピタリと私の動きが止まる。

 冷や水を浴びせられた、というより機械が電源を抜かれた、みたいな形で。

 

「よし、では次の質問に移ろう。成人、君は哲学的ゾンビというものを知っているかい?」

「……外から観測されるかぎりは普通の人間と区別できないが、本質的な感覚を持ち合わせていない存在、だったでしょうか」

 

 哲学的ゾンビ。

 哲学的活動を行うゾンビなどではなく、哲学的な文脈上で語られるゾンビを指す言葉だ。

 定義としては『外面的に観測される限りは普通の人間と全く同一であるが、しかしながらクオリアや現象的意識の一切を持ち合わせない存在』という、難解でよく分からないもの。

 

 いわゆる“心の哲学”における思考実験で、とどのつまりは人間の持つという“心”とは何であるかを問うための命題だ。

 現代では明らかなように、人間とは電気信号で動く生物である。それは単なる身体を動かすという文脈だけでなく、頭蓋骨の内側、脳髄も含めての話だ。

 分かりやすく言えば、怒りの感情を浮かべるための電気信号、悲しみの感情を浮かべるための電気信号、といったものが存在する、という話。

 

 故に、それら電気信号が完全に解明できれば“感情”も科学的・物理的に説明できるようになるが、はたしてそれで“心”の全てを説明できるのか、みたいな事を探るための思考実験が哲学的ゾンビなわけだ。

 

「うん、端的ながら素晴らしい説明だ。誤解されがちだが、哲学的ゾンビは演技をしているわけではない。サイコパスと呼ばれるような代物とも違う。生体的には人間と一切の区別がつかない存在だ。悲しい出来事に遭遇すれば、常人が悲しいと感じる時と同じような脳内物質が分泌されるし──外に出る振る舞いも同様のものになる。怒りも、喜びも、何もかもが同じだ。生体反応を、つまりは物理的、化学的、電気的な反応を追ったところでそこに違いは無い。同じような脳内物質が生成されているし、脈拍や発汗なども同じような反応が示される。では何が哲学的ゾンビか否かを区別するのかと言えば──」

 

 言葉を切り、ピッと人差し指が立てられる。

 向けられた先は、生人から私へと。

 

「君の言った通り、本質的な感覚。“脳”ではなく“心”と呼ばれるもの。ズキズキ痛むのズキズキ、という部分。空腹感と呼ばれる独特の感覚。赤色の物から受ける赤い、という印象。物理的に説明される現象から離れた、人間が心で掴む“感覚”と呼ばれるもの。それらをひっくるめたクオリアを有するか否かが、哲学的ゾンビであるか否かを分ける」

「……この話の流れだと、まるで私がそうであると言われているように感じるのですが」

「うん、だから己はそう言っているのだよ。君の現状は哲学的ゾンビとは少しばかり外れた場所にあるのだろうが、近似できる誤差だろうからな。というか、もう一般人の演技は止めたまえよ。まるで見ていられない。己が確信を持ったのだ、誤魔化したところで無駄だぞ?」

 

 どうにか再起動した私の動きが、再度固まる。

 それはまるで、認識できない識別子のファイルを放り込まれたプログラムのように。あるいはもっと分かりやすく、自身の内に対処法がないエラーに遭遇した機械のように。

 

 否、事実としてどう対応するべきか分からなかったのだ。

 そもそもの話。この時までに私の本質を察しなかった者がいなかったわけではない。他人と関わるようになってから20年ほどの時が経っているのだ。

 人並に振る舞って曖昧にボヤけさせたところで、深くまで立ち入られれば輪郭も見えてくる。

 

 ……もちろん、アイツのように初対面で見抜いてきた者はいなかったが。

 

 だが、なんとなくでもソレを察した者はいた。いたが、大抵は私と距離を置くようになったのだ。

 まあ、当然の話だろう。哲学的ゾンビが実在すると思っている哲学者が稀であるように、そんな存在は基本的にあり得ない。

 そうでなくとも、自分というものが薄弱である者は嫌われる傾向があるのだ。いわんや、という話であろう。

 

 だから、私が“そうである”と察した者は離れていった。

 少なくとも、それを理解して、確信して、それでもなお関わろうとしてくる人間はいなかった。ましてやさらに踏み込もうとしてくる相手など。

 

 初めての経験。

 それも、前触れも文脈もなく唐突に訪れた状況。

 

「なるほど、なるほど。少し理解できてきたぞ? 君はあれだ、幼いんだな。幼いままに心を捨てた。棄てられてしまった。封じるのではなく消去を選んで、実行できてしまった。だから僅かに残った心の残滓もまた幼いまま成長できていない。君はまだ納得も割り切りもできずに何故を問い続けている。十中八九、家族。それも父か母か両方か、そこに原因があると見た」

 

 ドンピシャという言葉でも足りないような言葉に、私の全身が固まる。

 まさか何かを嗅ぎつけていたのか、マスコミの回し者か、などと考えていたのだったか。

 

 そして──そんな私を見て、生人は大きく口角を上げた。

 

 宗教画に描かれる悪魔のように、あるいは蛇が笑むように。

 ニヤリと、ニタリと、これ以上無いぐらいの悪人面で。笑って、離したはずの右手をもう一度差し出してきて。

 

「やはり、己は果報者であるらしい。このような出会いに恵まれるのだから。ああ、なんと素晴らしい日か。成人(なりと)、これより己は君を友と呼ぼう。そして、己の座右の銘を贈ってやろう」

 

 ──人生は変容の連続だ。

 

「覚えておけ、成人。生も死も唐突に過ぎるほど急に訪れるものだ。人は容易く死ぬし、呆気なく死ぬ。休み明けに会う約束をしていた友と棺越しに再会することすらある。死よりも軽い変化であればいわんや、という話だ。故に、変容は恐るるべからず。選択は躊躇うべからず。いつか、お前に“その時”が来る事を祈るよ、友よ」

 

 そんな、強烈というか劣悪というか、どう形容すべきか悩むのが私とアイツの初対面。縁のはじまり。

 その後にも色々あって、色々受けて、そして──

 

 アイツが海外の学会へ出ている間に、全ては終わった。

 

 

──*──

 

 

 パチリと、目を開く。

 朝と呼ぶには早い薄明るさ。時間で言えば、4時30分あたりだろうか。少なくとも、陽は昇り切っていない明るさ。

 

「……はぁ」

 

 最悪な寝覚めだ。

 今となっては下らないと断言できるし、俺とは別の存在であると棄て去りはしたが……あの私の人生を追体験するなど、一種の精神攻撃だろう。しかもわざわざ重要ではない部分は早送りされるようにして、走馬灯みたく圧縮して叩き込まれたのだ。

 第三者がいれば見やすく感じられるのかもしれないが、当事者としては最悪以外の何物でもない。生人ならば『最近は追想にまでディレクターズカット版があるのか? 見やすくて涙がちょちょ切れるようだね』などと鬼のように嫌味を言っていたことだろう。

 

「まあ、仕方ないか」

 

 すっかり眠気の覚めた身体で伸びをしながら、小さくボヤく。

 

 起きてしまったことは、どうにもならない。二重の意味で。

 仕方がないし、仕様もないし、それでお仕舞い。まあ、それだけの話だ。

 

「しかし、なんというか」

 

 飢えも渇きもないというのに、眠気だけはあるというのは……前々から思ってはいたが、どうにも一貫性がない気がするのだが、とか。

 というかそもそも肉体を維持して動かすためのエネルギーはどこから来てるんだ、とか。

 

 余計な事を頭の中でつらつらと巡らせながら、ベランダへと歩を向ける。

 横目で確認してみれば、デジタル時計には4と27の表示が。

 

「少し、体が重いな」

 

 前世の職柄、そこそこ徹夜にも慣れてはいたのだが。

 疲労が溜まっていたのか、あるいは。

 

 まあ、いい。

 俺は俺にできる事を。あの幼子が、いつかの日に大空を自由に飛べるように。それだけだ。

 

 なんとなくの直感ではあるが、戦争は末期に近い。司祭が俺を呼ぶ名が“同胞”である以上は、きっと俺もその時に。

 ならばこそ。なればこそ。

 

 アレとは違う結末を、keyには。

 

 

 

 ……などと、思っていたのだが。

 

「……クター、ドクター。聞いていますか?」

「あー、その。すまん」

「やっぱりですか。……その、もしかして、なんですけど。私の昨日の質問のせいでドクターの気を害してしまっていたようなら」

「それはない。断言する、それだけはない。俺はkeyの考えを尊重するし、感情で態度を変えるような真似はしない。……もちろん、その考えに瑕疵があるようなら指摘はするが。お前がお前として考えたのなら、決してそれを否定しない」

「そ、そうですか。……えっと、ドクター。ちょっと、近いです」

「……すまん。少し、熱くなった」

 

 微妙な空気を咳払いすることで誤魔化す。

 

「それで、何を話していたんだ?」

「昨日の愛とは何か、という命題について、あれからも考えてみまして。改めて調べているうちに、別の記述を見つけたんです」

「ほう?」

「曰く──生まれ落ちたその瞬間に与えられる物。大抵は本人の意思が伴ったりしない誕生において、一つの呪いとして解釈されうる生誕において、それでもいいのだと親が肯定する心。生まれてもいいのだと、生きていていいのだと無条件に行われる祝福。それこそが、愛である」

 

 思わず、体が固まる。

 それはあの日、生人と出会った瞬間にも重なるように。

 

 だってそれは、()にとって到底無視できない定義だから。

 

「これは生命全般に当てはまる定義だと思ったんです。もちろん、その生物がどれだけ複雑な思考ができるかに応じて程度は分かれると思いますけどね? ただ、単なる生存戦略における繁殖であったとしても、親が子に抱く感情は往々にして強いものであることが多いというのは示されていますので」

「あ、ああ。そう、だな」

「はい。そこでふと疑問が浮かんだんですが──」

 

 分からない。

 俺が今、ちゃんと返事をできているのかも。まともな思考ができているのかも。

 

 まるで意識そのものを殴られたかのような、酷い衝撃。足元どころか世界そのものが揺れているんじゃないかと疑うような感覚に、ついぞ味わえなかった酩酊感とはこのような感覚なのだろうかと妙な感想が零れる。

 体質的なものか、どれだけ酒を飲んでも酔わなかったのだよな、なんて思考が逸れて──

 

「私はどうなのだろうと、そう思ったんです。科学倫理やまた別の哲学的側面を持つ話ですが……事実だけを見るならば、私は命を持たない機械です。熱を持たない0と1の集積体です。……同じデータ、同じアルゴリズム、同じパラメーターを用意すれば、私は簡単に複製できる存在です」

 

 それ以上の衝撃に、また思考が引き戻される。

 

「key……」

「これは『そんなことはない』だとか『keyは生きている』みたいな風に言ってほしい、なんて話じゃありません。もちろん、ドクターからそう言ってもらえるのならとても嬉しいですけど。だけれども、事実は事実として、揺らぎようがないんです」

 

 それは、彼女にとってどれだけの重さを持つのだろうか。

 ここまで高度な思考を行える彼女にとって。チューリングテストなど疾うに超えた、もはや感情を宿しているのではと思えるような彼女にとって。

 

 自身は決して生きてなどいない(単なるプログラムなのだ)と認めることは、はたして。

 

 仮想空間に投影された少女の手は、強く握りしめられていた。

 少なくとも、それだけは間違いのない事実だった。

 

「私は機械です。0と1の羅列です。そんな私が生まれた時、私という自意識が芽生えた瞬間に──はたして、私は愛情を受けていたのだろうか。私の誕生は、祝福されていたのか。それが、私が思ったことなんです」

「それは……」

 

 何かを言おうとして、けれども何も言えずに口を閉ざす。

 そんな馬鹿みたいなことを、何度も繰り返す。

 

 ……分からない。どう答えるべきなのかも、何を言いたいのかも。

 だって、私は一度だって愛を覚えた事がないから。愛情を向けられた記憶がないから。それなのに何かを答えるだなんて、思い上がりにもはなはだしい。

 

 俺は、どうしようもなく無力だ。

 

 だけれども、keyは俺とは違った。

 ああ、違ったのだ。

 

「でも、それはすぐに答えが出ました。だって──私には、ドクターがいましたから」

「俺、が……?」

「はい。まだ、私にとっての愛の定義は分かりません。でも、でも──ドクターが私にしてくれたこと。それは、きっと愛だと思うんです。ただの0と1の集合だった私に、あなたが手を伸ばしてくれたこと。言葉を投げてくれたこと。考えるということを、教えてくれたこと。それは、きっと愛なんだと思うんです」

 

 はにかむような笑みは、雪が陽に溶けた後に生まれる澄んだ水のように。

 光そのものほど眩しくはなくて、だけれどもキラキラと光を反射しているかのように。

 

 ……だから、俺はその光に照らされてしまった。

 目を逸らしていたそれが、映ってしまった。keyとは違う、弱く醜い姿が。

 

「なあ、key。これは、俺の知り合いの話だ。……俺の知り合いには、親から一度も愛情を受けなかった奴がいた。そいつはいつしか心を捨てて意思を棄て去るようになり、最期には自ら終わることを選んだ。愛が何かも分かっていないそんな奴に……愛を抱く事は可能だと思うか?」

「ドクター……」

 

 分かっている。

 こんな問い、何の意味もない。起きた事は起きた事。仕方がないし、仕様もないし、そもそもお仕舞いになった事だ。

 何をどう論じようと、そこに意味など生まれ得ない。

 

 ただ、keyを困らせるだけの問いだ。

 

 こんなもの──

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、確実な事は言えないかもしれませんが……」

「……え?」

「何か、おかしなことを言ったでしょうか。ドクターの仰る“知り合い”というのは、これまでにも何度か話に出てきた“意思のない人形”さんでしょう? だから私は──っと、これは本題から外れるので、一旦後に回してもいいですか?」

「あ、ああ。すまない」

 

 謝れば、軽く首を横に振られる。

 

「いえ、別に謝られるようなことでもないので。それで、愛を知らない人間が愛を抱くことはできるのか、ですけど……私は別に不可能じゃないんじゃないかと思います」

「その、心は……?」

「単純な話です。過去がどうであったかというのと、未来がどうであるのかというのは全く別の話だからです」

 

 ──ああ。

 今度こそ、心からの眩しさを覚える。月のように、いや、太陽のように。そんな眩しさを。

 

「もちろん、世界には取り返しのつかないことはあります。過去は消えたりせず、変えることもできず、ただ後ろを付いてきます。──だけど、それでも。きっと未来には、可能性があると思うんです」

「可能性、が」

「ええ。何度も言いますけど、時間の連続性は否定できません。過去があるから現在があるのだし、現在があるから未来がある。だとしても、これから向かう未来には無限の可能性がきっとある──というのは、少しばかりロマンチストによりすぎかもしれないですけど」

 

 浮かび上がるのは、ブルーアーカイブにおいて語られていた言葉と、あの同僚の続けた言葉。

 “この先に続く未来には、無限の可能性があるのだから”。

 

 そして。

 

「“だからこそ、私達は変化を繰り返し、歩を止めずに進み続ける”のです。そうなれば、これまで知らなかった愛を抱くこともあり得る……んじゃ、ないでしょうか」

「はは……ああ、そうか。そうだな」

 

 思わず、笑いが零れる。

 アイツのこの言葉は、keyに話していない。だから間違いなく、この子が自分の内から生み出した言葉だ。

 

 こうしてここでもドクター(博士)と呼ばれている事といい、なんとも因果なものだ。

 

「それに──後に回した話ですけど。あくまでもその知り合いさんとドクターが違う人という前提で言いますが、その人とドクターは全く違いますよ」

 

 目を丸くする。

 そこまで隠すつもりもなかったし、この口ぶりならば彼女もおおまかに察しているだろうに。もしかすれば、俺は生人の真似をしているだけという事すら察しているかもしれないだろうに。

 

 それなのに、何を──

 

「だってドクターは、意思を持っているじゃないですか」

「え?」

「私にただの道具ではなく、考えて答えを出せる存在になってほしい。それが意思じゃないとしたら、何が意思なんですか」

 

 ────。

 言葉が出ない。頭の中だけじゃなく、視界までもが白飛びしかける。

 

 けれど、keyはそれが分かっているのかいないのか。それに、と言葉を続ける。

 

「それに、ドクターは必ずその知り合いさんを“意思がない”と言いますけど……本当にそうなんですか?」

「いや、それは。だって」

「その知り合いさんは、自分から終わることを選んだんでしょう? 誰に命じられたわけでもなく。……もちろん、その是非は問われるべきことです。一概に正しいとは言えないでしょう。だけど、その人に意思が一つとして無かったのか。私はそこは再検討する余地があると思いますよ」

「は、ははは……ふはははは!」

「ど、ドクター?」

 

 もう、笑うしかない。

 何が“私のような末路に至ってほしくない”だ、この子はとっくに私も、俺も超えた先にいるじゃないか。

 

 ああ、それにしても。なんてことだ。

 言われるまでどうして気付かなかったんだ。まさしく、keyの言う通りじゃないか。

 

「ありがとう、key。その言葉は、間違いなく一つの救いになる」

「あの、ドクター!? ちょっとテンションおかしくなってないですか!?」

「それでも、だろう!」

「答えになってないですよ!?」

 

 強く、その身体を抱きしめる。

 感謝を伝えるために。俺も抱いているという愛情を伝えるために。

 

 強く、強く。

 

「……まあ、ドクターが嬉しいのならそれでいいですけど」

「ああ。本当にありがとう、key」

 

 気付きを得れば、やりたい事がいくらでも浮かんでくる。この子のためだけじゃなく、俺自身の望みとして。

 そうか。これが、生きるということか──なんて、妙な感慨すら浮かんでくるようだ。

 

 ならば、選択を躊躇いはしない。

 開いた視界は、これまでと比較にならないぐらい眩しく見えた。

 

 

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