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淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

黄金の10日間前日。春の嵐、西村賢太「廃疾かかえて」「一私小説書きの弁」、「セックス・ピストルズ」。

2011年04月28日 | Weblog
 明日からゴールデンウイークが始まる。
 来週の月曜日と金曜日の2日間仮に休んだら、なんと10連休になる。当然、そんなことは不可能なわけで、連休中も幾つかの仕事が入っているから、休日という感覚も余りない。
 それでも、気分的には全然違う。
 やっぱり僕にとっては黄金の10日間なのだ。

 そして今日の木曜日はその前日。
 朝からぱっとしない天気に見舞われた。
 今にも雨が落ちてきそうな空模様である。
 一応、傘を抱え、自転車に乗って出勤した。吐く息が白い。

 今日も分刻みの日程が続いてゆく。
 午前中、東京から来青した某コンサルティングと綿密なる情報交換。それを持って昼休み上司に報告し、その足で午後の会議へと雪崩れ込む。

 外は風が強い。
 春の嵐みたいだ。
 市内の中央部にあるオフィス4階のトイレに入り、用を足しながら、暫くの間、窓から八甲田の山並みと灰色掛かった街を眺めていた。
 薄っすらと、山頂付近に真っ白な雪が被っている。もう、八甲田を抜けて十和田方面へと抜けるルートも開通したようだ。
 明日から新幹線も再開する。我がセクションではそのオープニング・イベント準備で今日もまた大忙し。

 夕方4時から始まる某経済会議まで、少しの間、時間が取れたので、オフィスがある4階のディスクに腰を降ろし、いつもより忙しい速度で流れる灰色の雲を眺めながらパソコンのキーボードを叩く。

 会議はようやく5時半に終了。
 どっと疲れが出た。
 まるで重い錘(おもり)を手足に付けて一日中歩いているよう。
 会議が開かれたホテルから駆け足で家へと戻り、そのまま車庫から車を出して市の郊外部まで向かった。

 所用を終え、激しい風が吹き荒れる夜の街を走った。
 郊外のTに寄り、西村賢太の最新文庫、「廃疾かかえて」と「一私小説書きの弁」を買う。
 小雨がぱらつき、一向に風は収まる気配がない。

 明日から大型連休じゃん、もっと楽しくウキウキしろよ。
 そう、もう一人の自分が囁く。
 10年間、一向に進んでいない、原稿用紙100枚で完成となる小説でも書いてみろよ。まだ途中で投げたまま、ほったらかしにしてる、あの小説のことだよ。
 お前は、一篇の小説すら書きあぐね、そうしてグダグダしてるだけじゃねえか。

 脱け出すんだろ?
 一刻でも早く、この街から脱け出したいんだろ?
 だったら、未完成のままで10年も経っている、その小説を最後まで書き上げてみろよ!

 車に乗り込み、「セックス・ピストルズ」の「勝手にしやがれ」を聴きながら、家路を急ぐ。

 一曲目が「Holidays in the Sun」。
 なんで、急に「セックス・ピストルズ」が聴きたくなったんだろう?
 激しいギターのノイズと、ジョニー・ロットンの叫びが、冷えた車の中に響いてる。

     
     俺には「太陽の休日」なんて無用だぜ
     俺は新しいベルセン(ナチスの収容所があった場所)に向かいたい
     そしていくらかでも歴史を知りたいんだ
     いま俺は手頃な経済を手にしてる
     いま理由がわかった 理由がわかったんだ 理由がわかった
     でも俺はまだ待ちぼうけをしてる
     理由がわかったんだ
     待ってる理由、それはベルリンの壁だ


 風の音がする。
 春の嵐のような、激しい風が夜の街を駆け抜けてゆく・・・。

 明日から、黄金の10日間が始まる・・・。





「人もいない春」

2011年04月27日 | Weblog
 桜の開花宣言が出た。
 25日の月曜日、青森地方気象台が同地内にあるソメイヨシノ標本木の開花を発表した。平年よりも1日早く、昨年より3日早いらしい。

 でも何となく実感がわかない。
 今日(水曜日)も朝から雨模様。
 コールデンウイークの前半も、あまりいい天気には恵まれないようだ。どうも今年は暖かいという雰囲気がない。

 29日からは東北新幹線が全線再開する。
 弘前城築城400年を記念する桜祭りも今年はゴールデンウイーク中ぴったりと開花が重なったようだし、観光客も戻って来そうな気配もするのだけれど・・・。

 西村賢太の短編をまとめた「人もいない春」というタイトルの本がある。
 人もいない春・・・。
 これはいいタイトルだと思う。

 どこか物悲しく、そして寂しげで、言葉の中に色んな思いがたくさん詰まっている感じがするのに、至ってシンプルなのだ。
 本当に素晴らしいタイトルである、「人もいない春」。

 西村賢太の小説は、私小説ということもあってか、何冊も読み続けてゆくと、ワンパターンとの感想を持つ人も多いかもしれない。
 彼の小説は、だいたい大きく三つに分けられる。

 まず一つは、中学校を卒業してから現在に至るまでの過酷な労働を通じて関わった、バイト仲間やその仕事内容や貧乏生活などについて。
 そして二つ目が、めぐり合った同棲相手との出会いから凄まじい別れまでの顛末や、風俗通いや一目ぼれや失恋話など、滑稽でありながら切ない恋愛もの。
 それから三つ目が、西村賢太が心から敬愛してやまない作家、藤澤清造に関する一連の話である。
 もちろん、その大きな流れを一編の小説の中で語ってゆくという、複層的な手法も取ったりはするのだが・・・。

 西村賢太は、これまで自分が歩んできた人生を時系列に順序立てて描くというのではなく、その断片をピックアップし、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、その時々の人生における困難極まる状況を赤裸々に描いてゆく。

 なので、まだまだ美味しい(こういう言い方は右往左往している本人に対して失礼かもしれないけれど、当然にして読者は、そのどうしようもない人生模様を覗いてみたいわけで・・・)話がたくさんあるに違いなく、その辺のところは西村賢太も重々承知らしい。インタビューでも、まだ切り取っていない時期については追々発表したいと語っていた。

 「人もいない春」は、本題の「人もいない春」、「二十三夜」、「悪夢」、「乞食の糧途」、「赤い脳漿」、「昼寝る」という短編で構成されている。

 いつものように、今作もまた「悲しくてやがて可笑しき」的な、哀愁に満ちた私小説が詰まっている。
 中でも、主人公が通う弱小出版社によく珈琲を届けに来る喫茶店の女の子に一目惚れしてしまい、いつもの大暴走の果てに、結局は悲惨な目に合ってしまうという「二十三夜」がいい。

 それと、秋恵さん(このキャラがまたいいんだよねえ)という彼女との同棲生活を描いた「乞食の糧途」、「赤い脳漿」、「昼寝る」もまた、凄惨でありながら何ともいえないユーモアを醸し出していて、これらの短編も一気に読んでしまう。

 確かに、西村賢太の小説ってワンパターンだし、ウダウダした鬱陶しい貧困生活を描いているだけなのだが、読んでゆくうちに感情移入してしまい、特に恋愛話が圧倒的に面白く、途中で投げ出せなくなってしまうのだ。

 西村賢太は癖になる。
 こういう人間がいることで、自分自身を納得させ、自らの立ち居地を確認し、そして安心する・・・。
 なんて姑息な人間なんだろう、俺は。










「どうで死ぬ身の一踊り」

2011年04月12日 | Weblog
 西村賢太の私小説って、なんであんなに滅茶苦茶面白いんだろう。
 このひと、自分の恥ずかしい裸体を世間に曝け出しているようにさえ思える。
 それが私小説なのだと言ってしまえばそれまでの事だけど・・・。

 中卒で、東京生まれ。
 西村賢太のこれまで書かれた何編かの小説を読んでゆくうちに徐々に解って来ることだが、彼の父親は猥褻に関する重い罪で彼が小さい時分に逮捕されている。
 それが原因で彼の両親は離婚し、まるで世間から身を隠すようにして暮らしていたらしい。

 西村賢太は、高校に進学することなく、肉体労働で幾ばくかの金を稼ぎ、定職にもつかず鴬谷の三畳一間のアパートで暮らしていた。
 これも、彼の小説を読んで解った事だけれど、何度も家賃が払えず、夜逃げ同然で逃げ出し、都内の安アパートを転々していたともいう。
 それでも風俗通いが止まらず、稼いだ金は酒と風俗にすべて消えてしまうのである。

 何故、西村賢太の私小説にこんなにも惹かれるのか?

 それは、その中に自分自身を垣間見るからである。
 なにも、彼と同じような人生や経験を歩んで来たわけではない。
 しかし、彼の私小説の中の主人公(西村賢太自身ということになるわけだが)は、行き着くところ、結局おのれ自身ということになってしまうのだ。

 そのだらしなさ、その小心者としての慌てぶり、そのどうしようもないプライドの高さとそれとは真逆のコンプレックス、その見栄と偏屈と呆れるくらいの滑稽さ・・・。
 自滅的で、懐疑的で、悲観主義者で、捻くれていて、女々しいくらいに依存的である。
 どうしようもないほどの糞ったれなのだ。

 「どうで死ぬ身の一踊り」、この講談社文庫から出ている私小説短編集もまた滅茶苦茶面白い。
 正直に告白すると、『他人の不幸は蜜の味』。
 そういう邪(よこしま)な心もないわけではない。
 自分が苦しいから、他人がもがき苦しむ姿を読んで、安心する。少し元気になる。
 俺も、そんな小市民の一人なのである。
 どうしようもない。
 救いようがない。

 講談社文庫の「どうで死ぬ身の一踊り」は、三篇の小説が収められている。
 表題の「どうで死ぬ身の一踊り」、あとは「墓前生活」と「一夜」である。

 大正時代に東京の芝公園で、真冬に狂死した無頼の作家、藤澤清造。
 その極貧の中で死んでいった作家を敬愛し、毎月のように北陸の七尾にある菩提寺にまで出掛けて供養を行い、果ては藤澤清造の墓標を寺から譲り受け、アパートの部屋に立てかけている西村賢太の生活が、短編「墓前生活」の中で綴られてゆく。

 それから「どうで死ぬ身の一踊り」。
 この小説もまた凄い。
 やっと巡り合った女性に恋焦がれ、同棲まで漕ぎ着けたのにちょっとした口論から暴力を揮ふるい、殴る蹴るの大怪我を負わせる。

 それに耐え切れず、愛想を尽かした女が着の身着のままで逃げ出すと、実家まで追いかけてゆき、女の前で土下座して涙を零し「もう絶対にしないから戻って来て欲しい」と復縁を哀願する。
 「これが最後」と女は復縁するのだが、また殴る蹴るの暴行を重ね、自責の念に駆られ悶々とする・・・。

 読んでいるうちに、やるせなくなるのだが、会話が妙にユーモラスなので最後まで一気に読んでしまう。
 とにかく、騙されたと思って一度読んでみてほしい。

 特に今回の文庫では、最後の短編「一夜」が途轍もなく素晴らしい。
 ここでも、同棲した女との徹底した痴話げんかと暴力の断片が語られてゆくのだが、2人の遣り取りの描写が素晴らしく、ラストのいきなりナタでぶった切ったような終わり方も凄い。

 ここには、男のどうしもないだらしなさと、惨めさと、女への絶え間ない依存と、そして未練がある。
 どうしようもない生き物なのだ。
 男って奴は!





朝吹真理子氏の芥川賞受賞作品「きことわ」を読む。でもこれは僕が今求めている文学じゃない。

2011年02月17日 | Weblog
 新宿紀伊国屋書店の2階で、夜待ち合わせをしている間、純文学系の文芸誌「文学界」を手にとって捲(めく)っていたら、今期芥川賞受賞者、朝吹真理子氏と西村賢太氏、そして選考委員である島田雅彦氏による鼎談、【「文学の多様性について」-「私」につなぐこと、「私」を消すこと】が目に留まった。

 それを読んでいたら止まらなくなって、結局、西村賢太氏の受賞エッセイ「一日」と、鴻巣友季子氏による朝吹真理子論【「アテンポラルな夢の世界」「カーヴの隅の本棚」拡大版】まで一気に読み耽ってしまった。

 面白かった。
 特に、今期芥川賞を受賞した2人の気鋭作家、朝吹真理子氏と西村賢太氏は、その作風から考え方、生き方や生い立ちを含め、まったく正反対であることがとても興味深かった。

 まさに、「私」につなぐこと、「私」を消すことというタイトルどおりである。
 西村賢太氏は絶えず「私」につなぐことを意識し、その対極で、朝吹真理子氏は絶えず「私」を消すことを意識しながら小説を組み立てていることがよく理解できる。

 同じく「文学界」に掲載されていた、西村賢太氏の芥川賞受賞エッセイ「一日」も、相変わらず面白かった。
 ある文芸評論家が彼の作品を評して、衝撃的でありながら、笑撃的ですらあったと書いていたけれど、とても悲惨で鬱屈した作品の中に、どこかユーモラスな部分が垣間見え、単に数枚のエッセイではあるけれど、相変わらずの西村賢太節が炸裂していて、これもまた一気に読んでしまった。

 本当に西村賢太の小説は面白い。
 どの小説も、それぞれ刺激的で心に迫る。
 何度も同じ事を書いてしまうのだけれど、久しぶりに見つけた、これからもずっと読み続けるであろう作家の一人となった。

 そして、今回もう一人の芥川賞作家が誕生した。
 朝吹真理子氏である。
 彼女の作品は前評判が凄く、今回の芥川賞選考委員の間でも早々と当選確実という雰囲気に包まれていたらしい。
 文藝春秋に掲載された選考委員らの講評を読んでも、ほとんどの作家が朝吹真理子氏の「こときわ」を推していた。

 朝吹真理子氏の経歴もまた華々しい。
 慶応大学の大学院を卒業し、父親は詩人でフランス文学者、祖父や祖祖父も実業家で元衆議院議長を務めた人物。
 親戚縁者も、錚々たる著名人に囲まれている。中にはノーベル化学賞を受賞した人もいる。

 そういう点、中卒で、しかも父親はわいせつ事件で逮捕され、一家離散にあい、貧困と重労働を強いられ、本人も逮捕暦があるという、西村賢太氏とはまったく正反対な生き方をしてきた人だ。
 もちろん、どんな生き方をしてこようが、中卒だろうが大卒だろうが、そんなことは一切その人間の本質とは関係のない事項である。
 周辺も含め、その人の生い立ちや家柄などは、暮らした環境とも相まって、その人格や考え方に多くの影響を及ぼすこともまた厳然たる事実ではあるけれど・・・。

 その朝吹真理子氏の芥川賞受賞作「きことわ」。
 最初、読む前にタイトルの意味がよくわからなかった。
 ところが冒頭の書き出しを読んで、意味がわかった。

 この小説は、永遠子(とわこ)と貴子(きこ)という2人の女性に関する物語だからだ。
 きこと、とわこ。きことわ・・・。

 鼎談、【「文学の多様性について」-「私」につなぐこと、「私」を消すこと】の中で、朝吹真理子が言っていた、とても興味深い言葉があった。
 別にタイトルなんて必要ないと思っていて、タイトルのない小説を編集者に提案したこともあったのだとか。

 彼女の小説「きことわ」は、七つ歳の離れた2人の過去と現在が絶え間なく交錯し続け、永遠子が見続ける夢もまた、物語の中で幾重にも現れては消えてゆく。
 そして、貴子の妻子ある男性との別れや、永遠子の母親の過去の不倫などもまた、まるで儚い夢物語のように綴られてゆく。
 でもそこに確かなものは何もなく、一切が曖昧で、イメージだけが淡い水彩画のように連綿と描かれてゆくのである。

 素晴らしい美文だと思う。
 淡くて、静謐で、しかも冷たい地下水のようなものが基底に流れている。

 でも、僕には退屈だった。
 今の僕に必要な文学ではない。
 この「きことわ」を、映像にして、その断片たちをもう一度積み上げていったとしたら、きっと傑作になるだろうとは思うけれど・・・。









「バレンタイン・デーの東京は一面銀世界。重い湿気の含んだ雪が激しく降っていた」

2011年02月15日 | Weblog
 2月14日月曜日、今日はバレンタイン・デー。

 新幹線が全線開業してからは、車を利用して新青森駅まで向かい、そこの立体駐車場に停めて新幹線に乗り込んでいるのだけれど、たまに現青森駅から接続列車を使ってみようということになり、家から2キロほど離れた青森駅まで歩いて向う。

 雪の威力はかなり衰え、車道に雪はほとんどないけれど、歩道は未だツルツルに凍ったままで、うっかりすると転倒してしまうほどだ。
 注意しながら駅を目指した。

 8時28分発の新幹線。
 車内ではずっと「文藝春秋」3月号を読んでいた。
 今月号の「文藝春秋」が滅茶苦茶面白い。 
 朝吹真理子氏と西村賢太氏の芥川賞2作品が掲載されていることもあるのだが、ほかにも「秘めたる恋」特集とかてんこ盛りの濃い内容に仕上がっている。

 1981年に飛行機事故で亡くなった、脚本家の向田邦子の秘めたる恋愛がまた哀しい。
 生前にある男性と交わした手紙の一部を妹の和子氏が紹介しているのだけれど、何気ない向田邦子の気遣いが、読む側の心を震わせる・・・。

 そのほかにも、ダイアナ妃、エリック・クラプトンとパティ・ボイド(あの名曲、いとしのレイラは、この2人の悲愛から生まれた)、それから小津安二郎に、詩人田村隆一の妻を奪った北村太郎(彼を題材にした、ねじめ正一氏の小説「荒地の恋」は恋愛小説の傑作である)らの、切なくも哀しい、叶わなかった恋の数々・・・。
 これがまた面白いのなんのって。なので、東京まであっという間に着いてしまった。

 東京に着き、お昼もちゃんと摂らずに都内をひた歩く。
 空はどんよりと曇っていて、時々雨が落ちてくる。
 初日最後の訪問を終え、外に出ると雪さえ舞ってきた。宵闇が降りる頃には、本格的な雪模様。ますます雪は激しくなり、歩道も車道も真っ白に染まってゆく。

 新宿歌舞伎町の旧コマ劇場横にある老舗の鰻屋さんに入って鰻重。
 それでも足りずに、近くのラーメン屋さんへ。ここがまた美味い。
 醤油に漬けたニラとニンニクが幾つかテーブルに置かれていて、それを適宜ラーメンに入れて食べる。
 お腹がいっぱいになる。

 外に出ると、激しく濡れ雪が落ちている。
 まるで北国にいるような錯覚に陥った。このままだと今夜はかなりの積雪になるだろう。
 なんで東京に来て、雪を見なきゃいけないわけ?

 今夜のお宿は、新宿西口の都庁近くの高層ホテル。
 駆け足で歌舞伎町からホテルへと向かった。
 びしょ濡れでホテルの部屋へと戻り、お風呂を入れてのんびり浸かった。

 ベッドに独り横になり、降りしきる雪と、一面銀世界の都庁付近を眺めた。
 テレビを点けて、フジテレビの月9ドラマ、三浦春馬と戸田恵梨香の「大切なことは すべて君が教えてくれた」を寂しく観る。

 「大切なことは すべて君が教えてくれた」、視聴率がかなり悪いらしい。
 でも皮肉なことに、内容に関してはここ最近のベストかもしれない。

 ドラマに釘づけになってたら、携帯に次々と電話が入る。
 結局、11時過ぎまで話し込み、携帯の電源も無くなってしまった。
 楽しみにしていた「大切なことは すべて君が教えてくれた」が・・・。とほほ。

 ホテルの窓から、もう一度外を眺めた。
 都庁の灯りがまだ何カ所か点いている。
 でも、タクシーのほかに車はまったく見当たらない。
 車道も、歩道も、激しく降り注ぐ雪で真白に変わっている・・・。

 2月の雪降る東京。
 心がざわめく。
 なぜか、無性にざわめいている。





 

「文藝春秋」、NHK「日本の、これから 無縁社会・働く世代の孤立を防げ」、TBS「冬のサクラ」。

2011年02月13日 | Weblog
 朝のまどろみの中で、微かにニュースが流れている。

 エジプト大統領を辞任したムバラク氏の一族が、ヨーロッパとアメリカ各地に多額の不動産や銀行口座を保有していて、その資産総額は約5兆8400億円にも上るのだとか。

 それにしても・・・。
 国民は貧困に苦しみ、政治は混迷を極めているというのに、ムバラク前大統領は何故、辞任への流れを撤回したのだろう。それで、ますます国民の怒りが爆発してしまった。
 結局、辞任に追い込まれ、副大統領に権限を移譲とか。

 眠りが解け始める間に聞こえて来る、朝のテレビニュース・・・。
 目を覚まして窓から外を見たら、明るい朝の日差しが溢れている。
 いい天気だ。
 2月13日の日曜日。

 それにしても、昨晩夜9時からオンエアされたNHK総合テレビ「日本の、これから 無縁社会・働く世代の孤立を防げ」は考えさせられた。
 無縁社会とは、高齢者が激増したことによる現象だと考えていたけれど、その波は若者たちへも及んでいるのだとか。

 年老いた親の介護に、失業や派遣の問題、そして未婚率・・・。
 このままで推移すると、現在の結婚適齢期にある者たちが、20年後には生涯未婚率、男性30%超、女性20%超までに上昇し、孤独死も年間10万人を超えてしまうのである。
 いわゆる「2030年問題」だ。

 今朝の「東奥日報」の一面には、全国世論調査の結果が載っていて、『菅内閣支持20%割れ』。
 鳩山内閣退陣時点の支持率が19.1%だから、ほぼ並んだ形になってしまった。

 高齢社会に突入し、年金は破綻、失業者も倍増している。若者たちは就職出来ず、巷には派遣やアルバイトで凌ぐ人間で溢れている。
 ロシアや中国や韓国などの諸外国は、自国の理論を曲げずに強硬な戦略を持って他国と渡り合っている(その主張の是非はこのさい脇に置いておいて)。

 日本は何処に行こうとしているのだろう。
 未来に希望がない。漂流している難破船のようだ。
 閉塞感、言いようのない圧迫感が、この国を覆っている・・・。

 午前中に掛かって来た携帯で長電話。
 時計を見たらお昼近い。
 溜まったブログを書き込み、夕方まで少し時間が空いたので、久しぶりにスポーツジム。
 もう一カ月近く運動していない。
 昨日、ちょっとした時間を見つけてジム(たまたま貰ったギフト入館券で入った他のスポーツジム)に駆け込んだから、実際は今日が本当に久しぶりの(いつも通っている)ジムとなった。

 いきなり走るのはしんどいので、自転車を漕いで腹筋などのマシンを一時間ほどこなした。
 外はとてもいい天気。
 青い空が広がっている。

 汗を流して、また車で家へと戻り、今度は歩いて中心市街地まで。
 パサージュ広場で、一生懸命作業しているスタッフたちに激励訪問。みんな寒そうなので、近くのコンビニで温かい缶珈琲とお茶を買い求め、僅かな気持ち程度の差し入れ。

 そのあと、某駅前複合施設で、明日から行く東京に向けての打ち合わせと関連する資料の点検を行う。
 それから今度は某駅前複合施設の一階に下りて、某関係者と今後にむけた対応策を話し合った。

 外に出たら、もう日がどっぷりと暮れていた。
 また仕事で3連休も潰れてしまった・・・とほほ・・・。
 N書店で、芥川賞受賞作2作が掲載された「文藝春秋」を買って家へと戻った。
 西村賢太氏の小説を、いつもは褒めない石原慎太郎氏が絶賛していた。これには吃驚。

 夜9時からのTBS日曜劇場「冬のサクラ」第5回目を観ながら、濃い目の紅茶とチョコレートを頬張る。
 あっ。
 明日ってバレンタインなのね・・・。







「我がM的日常における、2、3の哲学的考察」

2011年02月09日 | Weblog
 毎日、西村賢太の小説をひたすら読み続けている。
 憑かれたように読んでいる。

 西村賢太の、無残で、悲惨で、やるせない生活と、無頼や矜持(きょうじ)や生き急ごうとしている滑稽な姿に、激しい共鳴を覚える。

 中学校を出て、親元から離れ、独り、友達もなく、恋人すら出来ず、風俗通いと酒を浴びるほど飲み、他人と暴力沙汰を起こし、東京の芝公園で凍死して果てた大正期の不遇作家を心の師と仰ぎ、やっと見つけた女性と同棲を始めるも、殴る蹴るの暴行を続け、言葉の暴力を浴びせ、その激昂(げっこう)が収まるとひたすら土下座して女性に平伏す。
 そうかと思えば、若いソープ嬢に入れ込み、放蕩の限りを尽くし、過酷な労働でコツコツと貯めた貯金をすべてその女性に使い切り、借金の返済もしてあげたのに、いきなり裏切られて捨てられる・・・。
 
 西村賢太に負けず劣らず、こっちだって破滅願望ならしっかり根付いている。
 鬱憤(うっぷん)や不満なら、吐き出しても余りある。
 嫉妬や羨望なら、誰にも負けない。
 くそったれな日常を送り続けていることでの、溜まりに溜まった「滓(おり)」もまた、どうしようもないくらいに膨れ上がっているのである。

 でも、西村賢太はそこから這い上がったからまだマシだ。
 勿論それは、芥川賞を獲ったからそれが成しえたというわけではない。
 小説家としての地位を築き、たくさんの印税が入って、生活が豊かになったから勝利を掴んだという意味でも決してない。

 這い上がったという意味は、自らを『吐き出す』場所がやっと確保できたという意味であり、肥大化した自意識の塊をようやく投げ捨てることが出来たという意味でもある。

 そういう意味において、西村賢太は幸せになったのだ。
 『吐き出す』場所を見つけた人間は、みな幸福になるのである。
 その一点のみにおいて幸福である。
 いいなあ・・・幸せになれて・・・。

 では、幸福になれない人間たちはいったいどうしたらいいのか?

 そんな不幸な人間たちは、また明日から、今ある、この『くそったれな日常』をどうにかこうにか死なずに生きてゆくしか道はない。
 マゾヒズムの中に、どっぷり浸かって、ぐだぐだと毎日をやり過ごしてゆくしか、他に方法はない。

 S、サディズムとは、フランス革命時代の貴族で小説家だったマルキ・ド・サドから由来しているが、M、いわゆるマゾヒズムとは、オーストリア生まれで、女性からの被虐の快感に陶酔するその体験を小説にして一躍ヨーロッパ文学界の寵児(ちょうじ)となった、レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホに由来する。

 世間に叩かれ、卑下され、裏切られてもなお、そこから這い出し、誰からも羨(うらや)ましいと思われたい、そう人間は心の底から願っている。
 誰だって、どん底の生活をこのまま一生続けたいなどとは思わない。

 しかし、それでもほとんどの人間は、いつしか老い、惨めな躯体を世間様に晒(さら)し、連れ合いはこの世界から去り、孤独と絶望の中で独りごちるのだ。
 「もう一度、始めから人生をやり直すことが出来るなら、俺は悪魔にだってこの魂を売るだろう」と。

 勝ち組だろうと負け組だろうと、やがていつかは歳をとり、若かりし頃の美貌や肉体は衰え、最後の審判を待つ身と成り下がる。
 這い上がることも出来ず、吐き出す場所も見つからず、ただこのくそったれな日常を生きてゆくしかない人間にとって、残された唯一の方法とは何か?

 レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホになるしかない。
 あるいは、180度転換して、徹底的なマルキ・ド・サドになるしかない。
 中途半端が最低最悪だ。

 どうせ死ぬなら、一夜の馬鹿騒ぎに徹するしか術(すべ)はない。
 ただし、この「一夜の馬鹿騒ぎ」という生き方もまたかなりしんどい。中途半端は最低最悪だ。

 じゃあ、どうすんの?
 ごめん、俺にもわかりません。

 まずは、徹底的にMへと成り下がりましょう! 




この作家は凄い! 芥川賞を受賞した西村賢太氏の「苦役列車」を読んでから、完全な中毒状態!

2011年02月08日 | Weblog
 久しぶりに、本当に久しぶりに、一気に、そして息つく隙もなく、この小説を読み終えた。
 それほど長い小説でもないし、数時間あれば読んでしまえるほどの分量だ。
 芥川賞を受賞した西村賢太氏の「苦役列車」がそれである。それから、併載された「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」である。

 どちらも本当に素晴らしい。
 個人的に言えば、村上春樹とデビュー作「風の歌を聴け」で出会ったとき以来の衝撃だ。
 もちろん、西村賢太と村上春樹、2人はまったく異質の作家であり、その作風、文体など、ほとんど共通項は見当たらない。
 なので、文学的に比較する事は安易に出来ないけれど、初めて読んだ際の衝撃度という点においては、ほとんど同レベルにある。

 西村賢太の書く世界、つまり彼が用いる私小説という手法は、自分の恥部や暗部も白日の下に曝け出し、自らの「生活」や「生き様」を激しく抉(えぐ)り出すという手法であり、身を削る荒行といっても過言ではない。

 小説を読んで、あまりにも強い感銘を受けたので、西村賢太氏の別の小説を本屋さんで捜し求め、一冊だけ残っていた新潮文庫から出ている「暗渠の宿」を買い、その小説もまた一気に読んでしまった。

 ほかにも「小銭をかぞえる」、「どうせ死ぬ身の一踊り」、「二度とはゆけぬ町の地図」、それから随筆集である「一私小説書きの弁」も無性に読みたくなり、結局全作品、アマゾンで買い求めてしまった。

 西村賢太は、小説の中では貫多という男にその名を変え、自分自身を徹底的に裸にする。
 友達もいない。
 父親は、その昔、性的行為の果て警察に捕まり、その事が原因で離婚した母親から、いつも生活費を無心している。
 日雇いで稼いだ金は、ソープランドに通うか、酒を飲むことですべて使い切り、何度も家賃を踏み倒し、都内の安アパートを転々としながら凌いでいる。

 そんな自暴自棄な生活を、西村賢太は硬質な文体で書き殴る。
 太宰治や坂口安吾も確かに素晴らしい作家だとは思うけれど、この西村賢太もまた、それらの大家と肩を並べるほどの資質を持っているのではないかとさえ思えてくる。

 昨日、布団の中に入ってから、一気に読み終えた「けがれなき酒のへど」、この小説もまた凄い。凄過ぎる。

 主人公の「私」は、心底から女を欲しいと願う、うだつの上がらない30代の男性だ。
 中卒であることにコンプレックスを抱き、今日もまた単純労働で得た金をソープランドにつぎ込んでいる。
 ある日、彼は一人のソープ嬢に一目惚れしてしまい、その娘に遭うために折角揃えた文学全集を売り払い、定期的に彼女が勤める店へと通い詰めるのだ。

 やがて女は、サラ金から借金があることを告げ、彼はその金を全額工面するから「僕の彼女になって欲しい」と嘆願し、その提案を受け入れた彼女と晴れて結ばれるのだが、金を貰った彼女は主人公の前から突然姿を消してしまう・・・。

 悲惨で、滑稽で、馬鹿馬鹿しいほどに切なく、そして愚かな物語が展開してゆく。
 「けがれなき酒のへど」に限らず、他のどの短編も、労働の苦しさだったり、女の狡さだったり、貧乏の苦しさだったり、生きることの悲しさだったりを、芯のある独特の文体で描いてゆく。

 まだ西村賢太の全部の小説を読み切ったわけではないので偉そうに論評することなんて出来ないけれど、この作家、これから一生付き合って行ける、僕の大切な大切な、何人かの内の一人である。

 西村賢太の小説が「大嫌い!」という人間も少なからずいるだろう。
 中には、嫌悪感すら覚える読者もいるかもしれない。
 あまりにも痛々しくて、あまりにも倦んでいて、あまりにも暗過ぎているのに、どこか、ユーモラスで、どこか愛くるしくて、どこかアッケラカンとした部分がある。

 いやあ。
 それにしても、こんなに芥川賞受賞作を面白いと思ったことも久しぶりだ。
 ここ最近、ずっと裏切られてきた気がする(人の小説のことなんて言えないけど)。
 西村賢太の小説って、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読んだときのインパクトに近いものがある。

 西村賢太、絶対に読むべしっ!!






「Everything Will Be Alright」

2011年02月06日 | Weblog
 どんよりと曇った日曜日の朝。
 風も、雪も、まったくない。
 冬のような、それでいて曖昧模糊とした中途半端な天候の休日の朝だ。

 昨日の夜、携帯にメールでソウルメイトから「飲みに行かない?」とのお誘い。
 でも、ちょうど車を運転していた最中だったので、「今度またね」と返事をする。
 電話が終わり、所用を済ませ、郊外の中央インターチェンジ付近の公園脇に車を停めようとしたら、車道の両側に物凄い雪の壁が出来ていて、停車することすら不可能になっていた。
 仕方がないので、広い車道を探し、そこに車を停め、シートを倒して独り音楽を聴いていた。

 車の中で「クラブトン」の枯葉を聴いていたら、何故か涙が零れて来た。

 毎日、毎日、こうして「ああでもない、こうでもない」と、遊園地で置いてきぼりをくった迷子みたいに悩み呆けている。
 先日も、ぼんやり頬杖をつき、やることもなく、昔のブログをつらつら眺めていたら、その悲観的な心情を吐露する内容の多さに、さすがの自分も呆れてしまった。
 俺はいったいどうしたいんだろう?
 自分で自分がよく分からなくなってくる。

 そして昨日の夜も、仕事の電話が何件か入り、その対応をしているうちに11時が過ぎ、突然激しい睡魔に襲われて、そのまま眠ってしまった・・・。

 日曜日は10時に起床。
 朝食を摂って、また市内中心部へと歩いて出掛ける。
 N書店に入って雑誌コーナーを覗いていたら、隣の男性が「あおもり草子」200号を手に取り、ぺらぺら捲って眺めているではないか。
 そーっと見ると、なんと、僕の書いたコラムを熱心に読んでいる。さすがに気恥ずかしく、赤面したままその場所を急ぎ足で離れた。

 N書店を出て、コンビニエンスストアで新聞を買い求め、向かいの珈琲ショップで一休みしようと中に入ったら、見覚えのある顔が3人。仕事仲間たちだった。
 今日の正午から夜店通り商店街で開催される「鍋横綱」のイベントがあって、そこにスタッフとして駆り出されたらしい。

 珈琲を啜り、その帰り道、イベント会場を覗いてみる。
 どの鍋も100円で売っている。その中から「鍋」グランプリを決定する、今回が最初となるイベントだ。
 何人かの知りあいに会い、挨拶を交わし、その場を離れた。

 家に帰る。
 まだ時計の針は午後を回ったばかり。
 明るい日差しが部屋の中に入ってくる。窓から明るい青空が見えた。

 こんな長閑な日曜日の午後、家の中に居るのも珍しい。
 芥川賞を受賞した西村賢太氏の「苦役列車」を読む。
 凄まじいまでの、孤独と貧困、そのやるせなさが迫る。

 自分をその中に投影する。
 主人公(私小説なので作者本人ということになるのだが)のように定職を持たず、その日暮らしに明け暮れているわけではないけれど、この私小説を読んでいると、主人公と自分とが何故かオーバーラップしてしまう。

 放蕩の限りを尽くし、いい加減で、適当で、自堕落で、自暴自棄で、自意識の塊で、破滅的でいながら、慎重で、その上どうしようもない臆病者なのだ。
 これは俺じゃないか!
 どうしようもない、糞ったれ野郎じゃないか!

 西村賢太氏の「苦役列車」を読み終え、心がざわめき、また外へと飛び出した。
 玄関を出た瞬間、電話が鳴った。
 色々と話し込み、雪の降らない、まったりとした街中へと出た。

 N書店に入って、西村賢太氏の文庫本「暗渠の宿」を買う。
 本を買って、何気なく店内を眺めていたら、またまた今月号の「あおもり草子」を立ち読みしている男性と遭遇する。
 一瞬、僕のコラムで目が停まり、ちょっと斜め読みしながら次のページを捲っていた。

 外に出ると、もう陽が傾き始めている。
 あーあ。また明日から仕事かよ・・・。