by岩谷宏
「想い」―この非現実の沃野 結論期を展開するB・フェリーさん
ほんの。ひと時代前までの若者は、政治、経済、社会、宗教、芸術、イデオロギーなどなどに。非常にイレ込んだ幻想や情熱を持てた。言い換えれば、これら一般的・観念的存在と自己との間に、重大な関係があると盲信できた。
それが、いまでは、自国が戦争をしていてもまるで他人事だ。このぶんでは、1984年もまるで平気だろう。現代の若者は―かく申す私も含め―、なんらかの一般存在を媒介として自己が存在する、という観点から、完全な決別をなしとげたようである。
一般存在への批判や気がかりなどを表現の契機としてきた、かつてのビッグ・ネームたちのほとんどが"停年退職"しているかにみえる今日、それでは、いま、自己はなにによって存立しているのか。
MORE THAN THIS (Bryan Ferry)
ぼくはあのとき次のように感じた
人がだれかを好きになるのは
全く自動的な出来事であって
意思は介入できないし
どこでどーしてこーなったかを
確認することもできない むしろ
海の大きな潮流みたいに
人為でとどめることのできぬほど強い
この想いに
望みをかけるしかないのだ、と
これ以上のものは なにもない
なにかが まだあるか
いや なにもない
これが最高で
これがすべてだ
これ以上のものは なにもない
批判は一種のジャレ合い行為であって、美しくない。つまんないものごとに批判的にかかずらっているよりは、なにかとてもすばらしいものごとに夢中になっている方が、生き方としてはりそうである。
(例1●最近、内申書裁判というのがあったが、内申書なんて、学校が勝手につくるものだから、それをとやかく言って裁判に持ち込むこと自体おかしい。まったくあの裁判はジャレ合いの最たるものであった。)
(例2●無農薬有機栽培論がうさん臭い理由が、最近やっとはっきりわかった。つまり、うまい・安全な農作物を食べたいというのは、これまた人間の、一方的な"欲望"でしかないのだ。植物は植物でこれまた1個の生命体でっせ。かわいがってやらんとあかんし、元気のないときはかわいそがってやらんとあかん。これが明日の栽培学の基本たるべき、と私は想う。)
私という人は、本誌への参加時点から今日まで一貫して、文章それ自体が目的であったことはない。―そして、音楽も、少なくとも当時は、音楽それ自体が目的であるような音楽ではなかったのだ―。
文章は、まだ見ぬ、だれか、美しい人に、語りかけたくてたまらない気持を語りかけるための、手段であった。そして、しかし、その意思とは逆に、まあ、あんまり、美しい人に出会いはしなかった。
(今日の一般的な社会体制は、人を美しい人につくりあげていくようにはできていない。あいまいで矮小な人間を量産するようにできておるのである。)
仮に、美しい人に出会えたとして、その人を大好きになり夢中になったとしても、それは、私の中に、その人のことを大好き、という圧倒的な想いがある、そこまでで、ピタっと終りである。
好き、ということを基盤として、この現実のこの世において、なにか現実的な具体的なものごとへ展開していける、ということは絶対にない。だから、文字どおり、"これ以上のものはなにもない"のである。そして、
「これでいいのだ」というのが、最近の―前作あたりからの―フェリー氏の"悟り"だろう。言い換えれば、彼が、現実の仲で現実的に悪戦苦闘したのは、結局、現実の不毛性に気付くため、だったのである。
(ここで初学者向けの論理的説明)
なぜ現実は不毛か。それは"想い"によって新しい世界がひらかれる以前の、旧い世界のことをいわゆる"現実のこの世"というのであり、両世界はお互いに、全く異質だからである。"新しい世界"を"旧い世界"に、移植したり、つぎ木したりすることは絶対にできない。―好きな人といっしょにやっていけるなにごとか、は存在しない。ウソだと思う人はいろいろ試みてみるがよろしい。
したがって、アルバム・タイトル「アヴァロン」は、伝説上の架空の島、すなわち非現実であり、彼の想いの対象となっている美しい人な「ダイアモンド・レディー」―硬く(or剛く)―だ。
現実―旧い世界―の中で、日々、さまざまな現実性をこなしながら生きていても、自分にとっての迫力がそれらより圧倒的に大きいところの非現実―新しい世界―を同時に抱えていることは、その人を勁くする。現実の不毛性がはっきり見据えられ、どーでもよくなるからである。そしてジャレ合いとは訣別する。
(例3●パワー・トゥ・ザ・ピープル、人民に権力を、という言い方と、どこもパワーを持つことのない生き方を、という言い方の違い。これがたとえば、一般的なロックと、フェリーのような観点との違いである。)
アヴァロンは、男が男として死んだあとに、行って住む極楽浄土である。美しく死ぬひけつが、「これ以上のものはなにもない」と見定めることであるのは、もう読者にもおわかりだろう。「想い」は、人にとどめをさすものであって。決して、がんばらせるものではない。
ある種が、欲望のおもむくままに何世代か生きると、そのせいで地球の環境が、その種が生きられない環境に変る。その新しい環境に適した新しい種が今度は主に生きるようになる。人間はいずれ、熱汚染だかなんだかによって滅ぶとしても、すでに人間の中に、(一部の人に)、人間であることの抑止(=アヴァロン行き)が生じていると思える。
「かぎりないもの、それは欲望」―これは、地方出身・おのぼりさん・上昇志向人間であったために、現実の不毛を見据えることができず、むしろ現実の不毛のまっただ中でぐじゃゝになっていった―美しくなるどころかますますキタナくなっていた―かつてのスター、井上陽水の歌詞の一節だ。
「想い」は「欲望」ではない。なぜなら「想い」は、そこで完全にとまっているものだからだ。対象のところでとまっている。対象を最大限に生かそうとする意思である。
むろん、未来の進化の事件を予測することはできないが、しかし、なぜか、「想い」の、そのぶ厚い安定感の中には、あきらかに"希望"がある。これが正しい路線だ、という"予感"がある。
"希望"や"予感"は、学問や仕事をやっていく場合の、新しい"仮説"を生む力である。そして、本物の仮説は、つねに、自分の中に、まるでとつぜん、天から降ってわいたような気しかしないものである。非現実が現実と切り結ぶことができ、現実を侵食していけるのは、この点をおいてほかにない。
まあ、だから、若いあなた(読者)において、なによりも大切なことは、美しくなることと、「想い」の濃い中身となるところの美しい人に出会うことだ。ひたすらツカレル人々とかかずらうことではなくて。
フェリー氏の場合も、これはもう、悟りの境地であるからして、これからの作品も、当分の間は、キンタローアメ的な、同じものになっていくだろう、と予想できる。
最後に、私も、私自身の言葉として言いたい。これ以上のものはなにもない、と。
「想い」―この非現実の沃野 結論期を展開するB・フェリーさん
ほんの。ひと時代前までの若者は、政治、経済、社会、宗教、芸術、イデオロギーなどなどに。非常にイレ込んだ幻想や情熱を持てた。言い換えれば、これら一般的・観念的存在と自己との間に、重大な関係があると盲信できた。
それが、いまでは、自国が戦争をしていてもまるで他人事だ。このぶんでは、1984年もまるで平気だろう。現代の若者は―かく申す私も含め―、なんらかの一般存在を媒介として自己が存在する、という観点から、完全な決別をなしとげたようである。
一般存在への批判や気がかりなどを表現の契機としてきた、かつてのビッグ・ネームたちのほとんどが"停年退職"しているかにみえる今日、それでは、いま、自己はなにによって存立しているのか。
MORE THAN THIS (Bryan Ferry)
ぼくはあのとき次のように感じた
人がだれかを好きになるのは
全く自動的な出来事であって
意思は介入できないし
どこでどーしてこーなったかを
確認することもできない むしろ
海の大きな潮流みたいに
人為でとどめることのできぬほど強い
この想いに
望みをかけるしかないのだ、と
これ以上のものは なにもない
なにかが まだあるか
いや なにもない
これが最高で
これがすべてだ
これ以上のものは なにもない
批判は一種のジャレ合い行為であって、美しくない。つまんないものごとに批判的にかかずらっているよりは、なにかとてもすばらしいものごとに夢中になっている方が、生き方としてはりそうである。
(例1●最近、内申書裁判というのがあったが、内申書なんて、学校が勝手につくるものだから、それをとやかく言って裁判に持ち込むこと自体おかしい。まったくあの裁判はジャレ合いの最たるものであった。)
(例2●無農薬有機栽培論がうさん臭い理由が、最近やっとはっきりわかった。つまり、うまい・安全な農作物を食べたいというのは、これまた人間の、一方的な"欲望"でしかないのだ。植物は植物でこれまた1個の生命体でっせ。かわいがってやらんとあかんし、元気のないときはかわいそがってやらんとあかん。これが明日の栽培学の基本たるべき、と私は想う。)
私という人は、本誌への参加時点から今日まで一貫して、文章それ自体が目的であったことはない。―そして、音楽も、少なくとも当時は、音楽それ自体が目的であるような音楽ではなかったのだ―。
文章は、まだ見ぬ、だれか、美しい人に、語りかけたくてたまらない気持を語りかけるための、手段であった。そして、しかし、その意思とは逆に、まあ、あんまり、美しい人に出会いはしなかった。
(今日の一般的な社会体制は、人を美しい人につくりあげていくようにはできていない。あいまいで矮小な人間を量産するようにできておるのである。)
仮に、美しい人に出会えたとして、その人を大好きになり夢中になったとしても、それは、私の中に、その人のことを大好き、という圧倒的な想いがある、そこまでで、ピタっと終りである。
好き、ということを基盤として、この現実のこの世において、なにか現実的な具体的なものごとへ展開していける、ということは絶対にない。だから、文字どおり、"これ以上のものはなにもない"のである。そして、
「これでいいのだ」というのが、最近の―前作あたりからの―フェリー氏の"悟り"だろう。言い換えれば、彼が、現実の仲で現実的に悪戦苦闘したのは、結局、現実の不毛性に気付くため、だったのである。
(ここで初学者向けの論理的説明)
なぜ現実は不毛か。それは"想い"によって新しい世界がひらかれる以前の、旧い世界のことをいわゆる"現実のこの世"というのであり、両世界はお互いに、全く異質だからである。"新しい世界"を"旧い世界"に、移植したり、つぎ木したりすることは絶対にできない。―好きな人といっしょにやっていけるなにごとか、は存在しない。ウソだと思う人はいろいろ試みてみるがよろしい。
したがって、アルバム・タイトル「アヴァロン」は、伝説上の架空の島、すなわち非現実であり、彼の想いの対象となっている美しい人な「ダイアモンド・レディー」―硬く(or剛く)―だ。
現実―旧い世界―の中で、日々、さまざまな現実性をこなしながら生きていても、自分にとっての迫力がそれらより圧倒的に大きいところの非現実―新しい世界―を同時に抱えていることは、その人を勁くする。現実の不毛性がはっきり見据えられ、どーでもよくなるからである。そしてジャレ合いとは訣別する。
(例3●パワー・トゥ・ザ・ピープル、人民に権力を、という言い方と、どこもパワーを持つことのない生き方を、という言い方の違い。これがたとえば、一般的なロックと、フェリーのような観点との違いである。)
アヴァロンは、男が男として死んだあとに、行って住む極楽浄土である。美しく死ぬひけつが、「これ以上のものはなにもない」と見定めることであるのは、もう読者にもおわかりだろう。「想い」は、人にとどめをさすものであって。決して、がんばらせるものではない。
ある種が、欲望のおもむくままに何世代か生きると、そのせいで地球の環境が、その種が生きられない環境に変る。その新しい環境に適した新しい種が今度は主に生きるようになる。人間はいずれ、熱汚染だかなんだかによって滅ぶとしても、すでに人間の中に、(一部の人に)、人間であることの抑止(=アヴァロン行き)が生じていると思える。
「かぎりないもの、それは欲望」―これは、地方出身・おのぼりさん・上昇志向人間であったために、現実の不毛を見据えることができず、むしろ現実の不毛のまっただ中でぐじゃゝになっていった―美しくなるどころかますますキタナくなっていた―かつてのスター、井上陽水の歌詞の一節だ。
「想い」は「欲望」ではない。なぜなら「想い」は、そこで完全にとまっているものだからだ。対象のところでとまっている。対象を最大限に生かそうとする意思である。
むろん、未来の進化の事件を予測することはできないが、しかし、なぜか、「想い」の、そのぶ厚い安定感の中には、あきらかに"希望"がある。これが正しい路線だ、という"予感"がある。
"希望"や"予感"は、学問や仕事をやっていく場合の、新しい"仮説"を生む力である。そして、本物の仮説は、つねに、自分の中に、まるでとつぜん、天から降ってわいたような気しかしないものである。非現実が現実と切り結ぶことができ、現実を侵食していけるのは、この点をおいてほかにない。
まあ、だから、若いあなた(読者)において、なによりも大切なことは、美しくなることと、「想い」の濃い中身となるところの美しい人に出会うことだ。ひたすらツカレル人々とかかずらうことではなくて。
フェリー氏の場合も、これはもう、悟りの境地であるからして、これからの作品も、当分の間は、キンタローアメ的な、同じものになっていくだろう、と予想できる。
最後に、私も、私自身の言葉として言いたい。これ以上のものはなにもない、と。