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岩谷宏と一緒

岩谷宏の同居人岩谷啓子(けい子)が、犬猫まみれの官能の日々を綴る

岩谷宏のロック論 4

2007-11-30 06:15:16 | 岩谷宏 ロック
by岩谷宏


「想い」―この非現実の沃野 結論期を展開するB・フェリーさん


ほんの。ひと時代前までの若者は、政治、経済、社会、宗教、芸術、イデオロギーなどなどに。非常にイレ込んだ幻想や情熱を持てた。言い換えれば、これら一般的・観念的存在と自己との間に、重大な関係があると盲信できた。

それが、いまでは、自国が戦争をしていてもまるで他人事だ。このぶんでは、1984年もまるで平気だろう。現代の若者は―かく申す私も含め―、なんらかの一般存在を媒介として自己が存在する、という観点から、完全な決別をなしとげたようである。

一般存在への批判や気がかりなどを表現の契機としてきた、かつてのビッグ・ネームたちのほとんどが"停年退職"しているかにみえる今日、それでは、いま、自己はなにによって存立しているのか。

MORE THAN THIS (Bryan Ferry)
 ぼくはあのとき次のように感じた
 人がだれかを好きになるのは
 全く自動的な出来事であって
 意思は介入できないし
 どこでどーしてこーなったかを
 確認することもできない むしろ
 海の大きな潮流みたいに
 人為でとどめることのできぬほど強い
 この想いに
 望みをかけるしかないのだ、と
 
 これ以上のものは   なにもない
 なにかが まだあるか
 いや なにもない
 これが最高で
 これがすべてだ
 これ以上のものは   なにもない

批判は一種のジャレ合い行為であって、美しくない。つまんないものごとに批判的にかかずらっているよりは、なにかとてもすばらしいものごとに夢中になっている方が、生き方としてはりそうである。

(例1●最近、内申書裁判というのがあったが、内申書なんて、学校が勝手につくるものだから、それをとやかく言って裁判に持ち込むこと自体おかしい。まったくあの裁判はジャレ合いの最たるものであった。)

(例2●無農薬有機栽培論がうさん臭い理由が、最近やっとはっきりわかった。つまり、うまい・安全な農作物を食べたいというのは、これまた人間の、一方的な"欲望"でしかないのだ。植物は植物でこれまた1個の生命体でっせ。かわいがってやらんとあかんし、元気のないときはかわいそがってやらんとあかん。これが明日の栽培学の基本たるべき、と私は想う。)

私という人は、本誌への参加時点から今日まで一貫して、文章それ自体が目的であったことはない。―そして、音楽も、少なくとも当時は、音楽それ自体が目的であるような音楽ではなかったのだ―。

文章は、まだ見ぬ、だれか、美しい人に、語りかけたくてたまらない気持を語りかけるための、手段であった。そして、しかし、その意思とは逆に、まあ、あんまり、美しい人に出会いはしなかった。

(今日の一般的な社会体制は、人を美しい人につくりあげていくようにはできていない。あいまいで矮小な人間を量産するようにできておるのである。)

仮に、美しい人に出会えたとして、その人を大好きになり夢中になったとしても、それは、私の中に、その人のことを大好き、という圧倒的な想いがある、そこまでで、ピタっと終りである。

好き、ということを基盤として、この現実のこの世において、なにか現実的な具体的なものごとへ展開していける、ということは絶対にない。だから、文字どおり、"これ以上のものはなにもない"のである。そして、

「これでいいのだ」というのが、最近の―前作あたりからの―フェリー氏の"悟り"だろう。言い換えれば、彼が、現実の仲で現実的に悪戦苦闘したのは、結局、現実の不毛性に気付くため、だったのである。

(ここで初学者向けの論理的説明)
なぜ現実は不毛か。それは"想い"によって新しい世界がひらかれる以前の、旧い世界のことをいわゆる"現実のこの世"というのであり、両世界はお互いに、全く異質だからである。"新しい世界"を"旧い世界"に、移植したり、つぎ木したりすることは絶対にできない。―好きな人といっしょにやっていけるなにごとか、は存在しない。ウソだと思う人はいろいろ試みてみるがよろしい。

したがって、アルバム・タイトル「アヴァロン」は、伝説上の架空の島、すなわち非現実であり、彼の想いの対象となっている美しい人な「ダイアモンド・レディー」―硬く(or剛く)―だ。

現実―旧い世界―の中で、日々、さまざまな現実性をこなしながら生きていても、自分にとっての迫力がそれらより圧倒的に大きいところの非現実―新しい世界―を同時に抱えていることは、その人を勁くする。現実の不毛性がはっきり見据えられ、どーでもよくなるからである。そしてジャレ合いとは訣別する。

(例3●パワー・トゥ・ザ・ピープル、人民に権力を、という言い方と、どこもパワーを持つことのない生き方を、という言い方の違い。これがたとえば、一般的なロックと、フェリーのような観点との違いである。)

アヴァロンは、男が男として死んだあとに、行って住む極楽浄土である。美しく死ぬひけつが、「これ以上のものはなにもない」と見定めることであるのは、もう読者にもおわかりだろう。「想い」は、人にとどめをさすものであって。決して、がんばらせるものではない。

ある種が、欲望のおもむくままに何世代か生きると、そのせいで地球の環境が、その種が生きられない環境に変る。その新しい環境に適した新しい種が今度は主に生きるようになる。人間はいずれ、熱汚染だかなんだかによって滅ぶとしても、すでに人間の中に、(一部の人に)、人間であることの抑止(=アヴァロン行き)が生じていると思える。

「かぎりないもの、それは欲望」―これは、地方出身・おのぼりさん・上昇志向人間であったために、現実の不毛を見据えることができず、むしろ現実の不毛のまっただ中でぐじゃゝになっていった―美しくなるどころかますますキタナくなっていた―かつてのスター、井上陽水の歌詞の一節だ。

「想い」は「欲望」ではない。なぜなら「想い」は、そこで完全にとまっているものだからだ。対象のところでとまっている。対象を最大限に生かそうとする意思である。

むろん、未来の進化の事件を予測することはできないが、しかし、なぜか、「想い」の、そのぶ厚い安定感の中には、あきらかに"希望"がある。これが正しい路線だ、という"予感"がある。

"希望"や"予感"は、学問や仕事をやっていく場合の、新しい"仮説"を生む力である。そして、本物の仮説は、つねに、自分の中に、まるでとつぜん、天から降ってわいたような気しかしないものである。非現実が現実と切り結ぶことができ、現実を侵食していけるのは、この点をおいてほかにない。

まあ、だから、若いあなた(読者)において、なによりも大切なことは、美しくなることと、「想い」の濃い中身となるところの美しい人に出会うことだ。ひたすらツカレル人々とかかずらうことではなくて。

フェリー氏の場合も、これはもう、悟りの境地であるからして、これからの作品も、当分の間は、キンタローアメ的な、同じものになっていくだろう、と予想できる。

最後に、私も、私自身の言葉として言いたい。これ以上のものはなにもない、と。



岩谷宏のロック論 3

2007-11-29 04:49:34 | 岩谷宏 ロック
またまた、YOSHIさんが、
昔の岩谷宏の原稿を、テキスト化してくださいました。

けいこさんは、ボウイ、ロキシー、Tレックスなんかは、
今でも、大好き。
それに、ブライアン・フェリーの「美意識」、アート性は、
その「自虐性」故、けいこさんと、おんなじ、似ているわ~って、
思っているところがある。

YOSHIさん、本当にありがとう!!




「男が美しくあるための ロキシー・ミュージック」


ニュー・アルバム「Flesh & Blood」から


夢が終ってなお
なぜ目覚めることができるのか
(スピン・ミー・アラウンド/マニュフェスト)

つまり、だれも、毎朝目が覚めるときには夢は終ってるわけで、夢が終わることとひきかえに得られる目覚めなんて、つまんないじゃないか。むしろ、よりしっかり大きく夢を見続け、夢を生命の糧とし見続けることが、目覚め以降の時間の内容であってほしい。―こんなニュアンスのことが、前作のアルバム「マニュフェスト」の終りの方でつぶやかれる。
神秘学におけるデュオニソス的秘儀は、夜眠っているときに体験する夢をあらためて意識化する行為からはじまる。

 (前略)、すべての方向が自分の中に存在している、という体験を獲得することです。そもそもわれわれの個性は、決して母親の胎内からこの世に生れ出たときにはじまるのではなく、そこには無限の、永遠の過去から蓄積されたすべてがこめられているのです(神秘学講義/高橋厳)

夢見る自信の回復。自分の体温源は夢であることの確認。彼はふたたび“マザー・オブ・パール”のあたたかいおだやかな闇の中で生きる。「反復」の世界。だれも歳をとらないし、現世的・現実的に賢くなったりしない世界。―アルバムは名曲「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」から始まる。―この曲を好んで歌うレゲェのボーカリストは多い―。「夜」とか「闇」はロックの重要なキー・ワード、シンボル・ワードのひとつだ。

人間が現実・現世的に理性的であり、意識がせまく硬化することと「視覚」とは大いに関係がある。視覚的存在が自己と世界を奪う。映画、女の肉体的な存在、道路標識、町行く人々の顔、などがここではとりあげられる。

物を見るのでなく、その物が像として存在している地平、スクリーン、鏡などの方を見る、意識する―これもたしかに秘儀の初歩である。視覚像をもって視覚に平手打ちを食らわせることは、すぐれたポップ・アートにまたなければならない。

高校の漢文の教師が黒板に『酔生夢死』と書いて、「おまえら、こんな生き方をしたらあかんぞ」と言った。しかし私達は、永遠にたしかなものを、いま、ここで、たしかにつかんでいるために、訪れる不思議な酔いに身をゆだね、この胸腔いっぱいを夢の満ちる場とするのだ。

音と声、そしてある無垢で美しいプレゼンスに魂をくぎづけにされて、そのここちよさの中で、彼は、まわりが戦場のような環境の中でも、夢遊病者のように生き、夢遊病者のように死ぬ。

ふだんはわりとざっぱくなつきあいをしている相手でも、ふと一瞬、彼(彼女)が神秘的なまでに美しくせまってくるときがあるだろう。B・フェリーは、いまや、その一瞬を見すえる。見すえることで、夢はもうニ度と逃げない。見すえることで夢は世界の空気を支配し、その色さえも変える。彼は、永遠に見すえつづける。予感や憧れをのままにしておかず、いまここの温室の中に移植してしまう。それが育つ。

外的な経験の断片から構成されている世界(=これまでの、いわゆる世界)は見捨てられ、廃墟になる。内側からの、生きた、あったかい世界が、ゆっくりと生育し、ひろがる。闇の中では、見ること・見えること自身が、それだけが唯一の光となる。つまり、ついに、光とは「私」なのだ、「私」からにじみひろがる暖気が光の正体なのだ。それは太陽光線のように無差別になにもかも照らしだす光ではない。光自身のよろこびにふさわしいものをだけ…。また、それ自身もまさに光であるものをだけ…。

この奇異な、しかし決して奇異でない論悦をほのめかす曲がB④にあり、つづく最後のランニング・ワイルドは訳しにくい。いつも、ハダカの、無垢の、生れたての、本来的の、自由な自分に帰っていること、とでも訳すか…。

自然科学に代表される西欧文明は、なんでも外的操作の歴史で、その外的操作性を、さらに、社会科学とか人間科学といったかたちで形式的に応用しようとさえする。そしていま、外的操作性の権化ともいうべきアメリカが、最も非文明国・非文化国・野蛮国にみえるのはなぜか。あるいは、およそ国家というものはすべて…。音楽も、バッハが平均葎を考えだしたときから「死体乾燥」がはじまる。―モーツアルトが例のクロマチック多用とフラット・マイナーでその難を逃れようとする―。

人間存在において、外的操作の対象となり得るものは、その肉体的存在(フレッシュ&ブラッド)だ。賃金労働者、兵士、売春婦、手術台の人体、エトセトラエテセトラ。そしてその外的操作性は、客観的な法則であり、システムであり、制度であるから、一見、ひろく行き渡り易い。

外的操作性の対象となり得ないものを、外的操作性が行き渡ってしまったこの広い世界に、密度濃く、行き渡らせることができるかどうかが、ロックの課題でありメディアの課題であろう。―それは、しかし、「神秘学」とか、そのように「特殊化」されたものであってはなんにもならない。

現実の、生身の肉体をして、夢の支配領域に語らしめる。うっかり一歩前に出ず、ここにいて感じ続ける、感じ続けることを深めていく、するとフレッシュ&ブラッドにも別の意味が与えられるだろう。自己が一本の木であり、たわわな枝であり、清冽な樹液がゆるやかにめぐる。神秘とは自分自身のことだとわかる。

すると。言葉の両義性は存在の両義性を表しているのか。フェリーは「去年マリエンバードで」について語ったことがある。ここがどこなのか。いまがいつなのか。ここでこうしている自分はだれなのか。こうして、両義性はただちに多義性に転移する。そしてそれが、自己の多義性に回帰し、多義性の保持の中で、あらゆるわたしが、あらゆるあなたのなかに、なつかしくいとしい、あらゆるわたしを直視する。

この真理があまねく知れわたり、すべての兵器が錆び、すべての教養と実験室が見捨てられ、みんなが、この多義性の野原にすわりこみ、へたりこんで、“相対一を絶対一とするいつわりの力”を全身から抜くときに、もしかして、おもわずハラハラとこぼれる涙みたいに、この声が神経にしみることだろう。B・フェリーの声は、おだやかな終末の日にふさわしい。

A・ウォホールにとって「キャンベル・スープの缶」であるものが、B・フェリーにとっては「自己」であり「関係性」である。それは、自己という(一義的な)夢を(盲目的に)見つづける自己を荒野に遠く置き去りにして、訪れるあらゆる夢に対して開放的であるような多義的な自己(=関係性と自己とが同一であるという意味でシュールな自己)へのデジタルな(=デジタル時計みたいにパッと移行する)変位を行なうアートだ。もろもろの一義性の根っこがややこしくからみあって、徒労で不毛な世界をかたちづくっている、その張本人は男なのだから、ロキシーの音と声とは、まず、男が、身を洗い、美しくなり、たおやかになるために聞くべきものだろう。(ゆえに、なぜ、ゲイの人達が好んで聞くか、は増刊号に書いた。)



岩谷宏のロック論 2

2007-11-28 05:29:21 | 岩谷宏 ロック
下でコメントくださった
昔のロッキングオンファンで、イワタニストの
YOSHIさんから、
岩谷宏の昔の原稿が届きました。

YOSHIさん、テキスト起こし、本当に
ありがとうございます。

みなさんも、YOSHIさんに、感謝してね~。



「共生(共に生きること)への願い」


DAVID BOWIE
NEW ALBUM
LOW

媒介(メディウム)について考える場合、それを「橋」のような比喩で考えてはならない、と最近はっきり分かってきた。AB両岸にとって橋は異質な第三者であり、ABは変っていない。橋が壊れれば元のままだ。メディウムの原料は私達の衷心の分泌物でなければなるまい。現代の政治や貨幣は橋として考えられる。

運動の方向性として時間があって、しかし、その時間に乗せられている私自身とは、いつも、もやっとした“停滞(とどまり)”である。意識が方向性の側にあるとき、そのようにしてなにかに夢中であっても、その本人自身はさびしいのだ、ということもあろう。そのことに気付くか気付かないは、人類を、前述の新旧両メディウムの方向へと分かつのであり、たいしたことではないがこのアツバムを感じるか感じないかの差ともなる。

デイヴィッド・ボウイーは旧いタイプのロック・スターではない。つまり私達の(どこを向いているのか分らない)“方向性の代理人”ではない。彼は、言うなれば、ステイする人、このとどまりの中にとどまる人、とまどったまま私達によびかけている人、である。

運動の方向性としての時間、その疾駆の中でとどまりは無視され、ときには蹂躙される。私達がとどまりであるかぎり、私達一人一人がワルシャワである。

歴史は決してヨーロッパの発明品ではないが、全世界をひとつの歴史の動きの中にまき込んでしまった動因はユーロッパである。しかし、もう、この方向性は行き詰りである。これまでの方向性をタテ方向のバラバラの伸長運動とするなら、これからはヨコ、というか、私達の中から、中に、メディウムが形成されてくる方向をさぐるのである。この新しい方向性は歴史と同方向ではなく歴史を垂直によぎる面、のイメージである。

最近は日本でもいよいよ離婚が盛んだそうである。この場合、結婚とは社会通念であって、いわば「橋」である。つくりものの橋は(橋はどれでもつくりものだな)壊れるにしくはない。

(いわゆる“詐欺”ということも、結局この「橋」というあり方、つくり方、そして護持の姿勢、等を示すものと思われる。欺瞞、それは、ライ、ライ、ライ、ライ、とロックの歌詞では、かねてからひんぱんに出てくる。lie、lies。)

日本ではボウイーのレコードはあまり売れないのだそうである。売れない理由は明白である。それは、ロックが、ロックファンの中でひとつの思想として対象化されていないから。いわば、まだ、気分でもって、その気分に呼応するような音のみを追いかけているからである。

あるとき「いったいこれは何だろう?」と自分に問うてみること。そして、その「何」が、はっきりと言葉にはできないまでもつかめること。そしてその「何」が、自分の生活、仕事、発想、行動等の基盤になるとき、言い換えれば、自分の意識が自発的行動的になるときは、ボウイーという人間の今のあり様(よう)、出様(よう)がいかに見事なものか、肉迫的に感じとれるはずである。

(60年代にはロックとはかぎらず、ほかにもいくつかのムーブメントがあったのだが)そのような思想史を一身にになって、ちっともごまかさない人、あそばない人、裏切りをしない人がこのボウイーという人である。

「ファン」が「ファン」でしかないかぎり、あるいは「読者」が「読者」でしかないかぎり、それらは究極的には私にとって要らない人達であるし、またその人達にとっても私という人間は究極的には要らない、どうでもいい人間である。だから要らない人間であってほしくはないのでBe My Wifeと言う。無責任な「客」でなどあってくれるな。私を解り、私と共に生き、私と共に行動しつづける人であってくれ、そんな人でなければ、たとえ世界中何十万のファンであろうとも私は要らない、と。

音楽は、芸術は、メディアは、生活的に機能するものでなければならない、と言う。音楽(等)が生活的に機能するとしたら、それは(ほかに適当な言葉がないので)政治である。で、ボウイーは政治家になりたい、イギリスの首相になりたい、と言う。世界中の人々を意識化的に支配したい、とも。ここでつかむべき第一の点は、彼の音楽表現がこのように行動への意欲を持つ者の、たまたま音楽によるパフォーマンスだ、という点。

(これは非常に馬鹿げた願望でもなんでもないのであって、たとえばアフリカ人ならむしろ、欧米的日本的に音楽が音楽としてだけとどまっている現象、商品化している現象を、そんなことになんのイミがあるのか絶対に理解できない。

いわゆる、音楽商品としての音楽のあり方のその社会的背景は、それぞれ、生活が個人的生活としてあって、その個人が息抜きその他で楽しむ材料として音楽があるというあり方だろう。この場合、その人の好みによってなんでもいいのである。ロックと言う音楽の聞かれ方も、この、人によってなんでもいいのワンノブでしかない。

そうではなくて、ロック(など)が先頭を切って、歴史や、これまでの人間のあり方に大きな?を、大きなNon!をたたきつけ、私を、私達を変革へとうながしたのだとすれば、私達は音楽にとどまっていることはできないし、むしろ、音楽のそのようなあり方にとどまっていられない内心のうながしが音楽行為の起動力となるだろう。音楽家の場合は。

問題はしかし、変革へのうながしを行なう者が、本人自体はちっとも変革してなくっていいのか、ってことである。どうも私には、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ピンク・フロイド等に至るいわゆる旧タイプのロックでは、こういう、肝心な主体の問題がおろそかにされている気がするのだ。つまり、ああいうのだと、それはべつに、ジミー・ページという人でなくとも、ブラックモアという人でなくとも。R・ウォーターズという人でなくとも、よいわけでしょ?原則として、代理可能である。なぜなら彼等はプロの代理人なのだから。つまり彼等の場合は、自分の意識が、ギリギリの自分自身へと追い込まれてはいない訳だ。だから、音楽という限定の中での音楽という仕事さえちゃんとやってればいい、となってしまう。音楽は成熟するかもしれないが、ムーブメントとしてのロックは停滞するのである。

スピード・オブ・ライフ=自分の傍らをたゆみなくどんどん流れて行く時間というものに、ふと、気付く。私は、さっきから、すっと立ったままだ。ブレーキンググラス=旧方向性が無効に帰している場合、人は、往々にして鏡で自分の顔を見つめたり、足下(もと)のカーペットを見つめたりする。しかし、ほら、私がいるよ、と。
A-3には「リアル・ミー」という、日本語にはちょっと訳しにくい言葉が何度も出てくる。ほんとの、私、か。……その他、A面はもっぱら、今日の主体性論の展開であり、しかもいわゆる一般論ではなく、まさに「その人そのもの」性で通している。くどいようだけれど、これに較べると旧タイプのロックは張り子のペニスか、せいぜい包茎である。

B面は、A面の「主体」が立っている、生きている「場」の、「時代」の、認識に当てられている、と言うべきか。しぼり出すような祈りの叫びでありながら、同時に「えいっ! ぐいっ! むんず!」という把握的な感じもしっかり感じとれる≪ワルシャワ≫はブライアン・イーノとの共作で、このアルバムの圧巻である。

陽の当るところが、戦争や工業や経済競争や独占や個人の自由やなんやかんやでもってギラギラ輝いているのなら、私達は影の部分で(=ギラギラしたものの一部になろうなどとせず)、地下で生き続けるのであり、影の世界での栄養素として、あるいは連帯形成のきっかけとして、役立ち得るのなら、私のこの朽ちた魂を分かち合ってくれ、というのが最終曲、≪サブテラニアンズ≫。影の部分で…というテーマは≪ゴールデン・イヤーズ≫にも共通する。

タイトル「Low」は、要するに「落ち込んでる」こと。少しでもハイだってことは、少しでも橋を架けよう(的な)姿勢があるってことだろう。ロウは待つのである。「私」がリアル・ミーになりきっているのである。行動はするとしても、感じることを少しでもおろそかにしたような行動はしないのである。

行動すると、感じることがおろそかになる―このワナに、これまでの人間は例外なくはめられていた、と言えよう。現在の、ささくれ立った文明世界が出来てしまった根因のひとつである。十分に感じていつつ、だからこそ適確な行動が機敏にとれる―私達が、こんな人間へと自分を変えていかねばならないとしたらボウイーのパフォーマンスに接することなどは、そのためのすぐれた自己訓練素材となる。そして各人が各人にとってBe My Wifeとなり、「共に生きること」が可能になるためには、まず各人が、前述のワナを破壊してしまうことである。ワナにはめられたままの、単なる古典的個人の寄せ集め社会では、たとえごく優秀なファシズム社会であろうとも、要するにだ~めである。

非常に大切な事だから最後にだめ押し的に繰り返しておくと、肝心の「自分はどうなのか」、「自分はどう生きるのか」「自分はどう変るのか」という点に関してすっかりオロソカなのが、旧タイプのロックなのである。それらは、単に気分にだけ迎合するために、いたって売れ易い。そして、この肝心の点で自覚しないかぎり、あなたは私にとって束の間の無責任な「読者」でしかない。あなたが一人で呑み込まれて見えなくなってしまえば、私もご同様とあいなる。

●岩谷 宏


○LOW○大意

BREAKING GLASS

最近ぼくはまた/あなたの部屋の鏡を割っている/ほら、その音が聞こえるでしょ

カーペットなんか見なさんな/さっきぼくが/ゾっとするようなものを描(か)いておいたよ/ほら、見えるでしょ

あなたはとても素晴らしい方です/でもいろんな問題を抱えてます/残念です/ぼくはあなたに決してタッチできません


WHAT IN THE WORLD

あなたはただ、灰色の瞳の女の子/気にしないで、なにか言って/そう、待つんだ/あなたは灰色の瞳の、ほんの少女なんだから

部屋に閉じ込もったきり/あなたは決して外へ出ない/ぼくの中の深いところのなにかが/ぼくの中の深いところにある切ない思いが/この暗がりを通してあなたに話しかけている

この世界で何ができるか/あなたに何ができるか/ぼくはあなたの愛がほしいなあ/あなたの愛がほしいなあ

ぼくはあなたが少しこわい/なぜって愛したらあなたは泣くでしょう/でも、群衆が去ってしまうのを待って/そうだ、泣かないで待って/いまは、/あなたが愛してくれるのは/少しこわいよ

ほんとのぼくに/ほんとのぼくにとって/あなたはなんであってくれるの/なにを言ってくれるの/なにをしてくれるの/クールにクールに秘めたその下で/その炎の下で/ほんとのぼくに/あなたはなにを


SOUND AND VISION

(自分の想いへの集中から醒めて)/音や光景(ながめ)に心奪われることはない?

ぼくの住みたい部屋の色は/ブルー、ブルー、つめたいエレクトリック・ブルー/ひる日中(ひなか)うすいブラインドが降りてて/その下で/なにも気にせず/ブルー、ブルーに染められて

ぼくは/坐ったまま/音と光景の賜物を待ちたい/聞こえてくるのを、見えてくるのを待ちながら/ぼくは歌いたい/私の孤独の中にこそたゆたい訪れ/私の脳をさする音と、見えてくることを

音と光景(ながめ)の方向に/ゆったりと感覚をひらくことが/たいせつと思わない?


ALWAYS CRASHING IN THE SAME CAR

なにか機会があるたびに/ぼくは出かけて行く/制限速度を守り、信号を守り/左右に注意のしどおしだが/いつもぼくは同じ自分の車の中で壊れていくだけ

そんなとき、あなたが忍び寄って来るのに気付く/ぼくは足を床に押しつける/そうやって町をぐるぐる/ホテルのガレージへ/ゆうべなんかはすんでのところで留置場行きだった/でも結局ぼくはいつも、同じ車の中で壊れていくだけ


BE MY WIFE

ときどきすごくさびしくなるよ/ときどき(忙しすぎるせいで)人間が具体的に見えなくなる/世界中で生活したし/もう世界中どこでも知ってる/(むなしいよな)/ぼくのものになって/ぼくと暮して/ぼくと一緒にいて/ぼくの奥サンになって


(以上、もっと解り易い歌詞が日本盤のライナーについておりますので、そっちの方も見てくらさい、岩谷)



ほんにロックはどこで鳴る (レボルーションより)

2007-11-27 05:47:08 | 岩谷宏 ロック
けいこさんは、ときどき、ネットサーフィンをするんだけれども、
そこで、
なんと、「岩谷宏は、左翼」っていう言葉を見つけてしまったわけ~。

あふぉくさ~。
岩谷宏が、左翼であるはずないわって、けいこさんは、思ってしまって、
岩谷宏は、学生運動などしたことないし、けいこさんも、大学に入った時、
学生運動が下火とはいえ、まだまだ左翼学生って多かったけれども、
けいこさんは、内心、
学生運動をしているキャツラって、なにか、胡散臭くて、信じていなかった。
(昔、学生運動していた方、ごめんなさい。)


まあ、けいこさんとしては、
外の悪より、自分の中の悪のほうが、大きいだろ。
それに、気がついた時には、
人様に、拳を上げることなんか、デキネエダロウって、思っていたわけ~。

けいこさんは、どちらかと言うと、クリント・イーストウッドの
草の根ライトっていうのが、心情的には、とても、よく分かる。

そんでもって、まあ、岩谷宏の名誉のために、
「岩谷宏は、左翼」なんていう誤解は、けいこさんが解いてあげなくては
いけないんじゃあないのって思って、

今日は、
岩谷宏の、
1972年のレボルーションへの原稿を、UPしてみました。


「ほんにロックはどこで鳴る」

ロックは、本質的に破壊的・暴力的な音楽であるから、《大衆に定着》することなどあり得ない。
そしてさらに、いかなる《文化活動》とも無縁である。
その意味で、12月24日に、妨害のためのインターを歌いはじめた連中の方が、少なくとも現象としては、よっぽど真にロック的である。

「ジャズと自由は、手に手をとって進む」という言葉があるそうだけど、いくら相手のホネが折れそうになるほどきつく握って歩いたところで、みずからは《自由》になれるものではない。
そのことに気づき、いらだち、決然と怒ったときに、かの、ロックなるものは生まれたのである。
したがってただ観念でしかない自由をロックが見捨てたとき、私たちは、ひとりひとりが、みずから、自由であろうとする、すばらしい、また厳しい時代に突入したのである。

よく見たまえ、あらゆる文化活動が所詮、観念崇拝の儀式でしかないことを。
さらによく見たまえ、あらゆる《文化人》が、観念との濡れ場を人目をさらして彼と同類のスケベエ達からの投げ銭を稼いでいることを。

つぎに、いわゆる《大衆》について、
まず私たちは、国々によって体制というものの質が違うんだという点をよく認識した方がいい。
むづかしい経済史論はさておいても、ヨーロッパにおいては、それは、もっとも明瞭でもっとも力の強い反体制思想をすら生めるほどに個人主義的・精神的・観念的であった。
また、アメリカの体制とは、そのヨーロッパ人によって、インディアン殺りゃく、黒人搾取等の手段をもって、人為的に構築されたものなのだ。
(だからその強さもモロさも大きい)。

ところが、日本における体制とは土着性そのものだ。
鈍感のようで頑固、冷たいようで妙に優しく、ぬらぬらとしぶとく、おそらく世界で一番てごわい相手なのである。
たとえばヨーロッパ人は、反権力に対する処刑をまで、体制が自己を正当化するためのもっともらしい儀式と化した、そんなおどろくべき体制の力は知らないだろう。
実に実に日本人はあまりにもぬけぬけと残酷であり、ふてぶてしい。
土着性百パーセントであり、人間の精神の他の可能性についてまったく鈍いのである。
ただ、さいわいにも、その鈍さが、彼等にとって都合の悪い連中をも育てるスキをつくってしまった。
 
まあ、そんなこんなで、いわゆる社会人になって五年もたてば、公私両面にわたっていろいろ経験して、あきれかえったり、はがゆくなったり、悲しくてやりきれなくなったり、いろいろするんである。
ヒガミからいうんではないけれど、まだ社会人じゃなくてロックを聞きつづけるとしたら、そのうち七割ぐらいは、アメリカの大富豪が名画を誉めて、日本の○○社長がベートーベンを愛聴するようなぐあいに、ロックを好んで聞くようになるぜ、きっと。
大変化がおこらないかぎり、日本人てのは、だいたいそういうだらしない生き物なんだ。
げんに、いわゆる文化人とか、文化職業にたずさわっている人達の中にそういう人がもういるもの。

あの、今にして思えば、ロックの前ぶれではないかという気さえする激しいソナタ、ベートーベンの「熱情」というヤツを聞いて、レーニンさんはこう言ったそうな。
「ああ、音楽の世界にはこんなに見事なものがあるのに!」
(ロックの場合、《音楽の世界》などとたてまつっては言えないくらい社会化し現象化しつつある点に注意しよう)
ロシア革命がいまにして失敗であり、ダラクの徴候を見せはじめたのは、レーニンがわるいんじゃない。レーニンが一人しかいなかったこと、その思想に大衆を定着させようなどとしたからである。

正直に言ってほしいけど、だいたい、《大衆》なるものに本当に関心のある人いますか?
だれもそんなものに関心ありません。あるとしたらそれはナマイキと言うもの。
いまや企業だってそんなナマイキな企業は落ち目です。
それでも、どうしても気になる人は、こう考えたらいいんじゃないか。
「いまもしユートピアをめざしての暴力革命がおこったら、殺さなくちゃならん人はだれとだれで何人くらいか、説得できそうなのは何人くらいか、また自分は完全に良心に恥じずに殺す側に居れるかどうか」・・・・・そうすると、いままでのモヤモヤとした観念が、具体的な情熱へとしまってくるだろう。

そもそも「ワレワレェ 労働者ワァ」とか、「ワレワレ学生ワ。」とか叫んでいるときには労働者も学生もどこにもいやしないのである。
いるのは、非常に抽象的な、観念のオバケだけである。
学生は勉強すべし、労働者は労働すべし、人間すべて労働すべし、学生の労働は勉強なり。そして、いつも非常に生き生きと好みのままに、クリエイティブにやろうではないか。
これこそたたかいであり、しかも一ミリの百分の一ずつくらいは確実に勝つたたかいなんだ。ゲバ棒ふるったって勝ちゃあせん。相手が銃をつかわないことに甘えるな。

----とまあ、ゲバ学生批判みたいなこと、日頃思っているものだから書いてしまったが、むしろ彼等にはモダン・ジャズファンが多い。「ジャズとゲバ棒・彼等の観念・は手に手をとって」というやつか。体制が狡猾にもゆるしている《スキマ》、というより、《ワナ》の中でいくら踊ったりあばれたりしたってしょうがないのになあ。
「バカだなあ、バカだなあ、だまされちゃああってえ・・・・。」ほんとにあいつらはおしあわせで、お気の毒。

ロックを聞いている連中って、一見みんな(たぶん私も)、たよりなげな優しいカオをしている。
このたよりなさとか優しげな感じとかが、実は今、一番たいせつなものなんじゃないか。
自由ってのは一面、とりとめないということでもある。
とりとめなくてどうなるかわからないコード進行とか、まさにとりてめなくてどうなるかわからないギター・フレーズといった、ロックに特徴的なことは、トニカからもブルースコードからも《自由》だということでまさしくあり、しかもそれは、最高の音楽的教養(体験)と、最高の音楽的テクニックと、最高の表現意欲から生まれるものだから。
ニクソンなんかのいう自由が動物の自由だとすれば、人間の人間らしい自由とは、なにか、なにか、なにか。
ロックとは単純でしつような問いかけであり、その模索と実現へむけて私達の身をリズミックに整えさせて、解き放つ。
ロック特有のストップ・ノートやひんぱんな休符は、音楽がはじめて、人間を私有しないで、むしろ弾き手や聞き手を、その自分自身へと突き返し、再び迎える、そういう、歴史上まったく新しい躍動である。
なぜ長髪か。
バイタリスなどでまとめて、ひたいを出したスタイルはどうみたって挑戦的であり、動物の自由にこそふさわしい。およそそうゆう頭からは内面の豊かさは感じられない。ワク組の中でいかにツルツルうまく動くか、そんなことにふさわしい。
男性の女性化などというけれど、べつに女にあこがれるわけじゃない。
ただ、従来的な男のイメージ(タタカイ)をきらっているだけなんです。
長髪の、たよりなげな優しげな男性こそ、人類史はじまって以来、はじめての《文明人》なのであります。
あるノンセクト・ラジカル君は、ショート・ヘア、少年みたいな服装、そしていわく「ボクはあんな気分だけでタイハイしているってのはイヤなんです」
ところがですね、たいせつなのは「気分」なのであります。
言いかえれば、日常の生活感覚こそが、ただひとつ人類すべてにとってたいせつなんであります。
気分をのぞけば、オソロシイ「観念」あるのみですぞ。

女の子はなぜ----ロングヘアか?
考えてもみなさい。女のショート・ヘアというより、要するにさほど長くない髪はですね、女が、こともあろうに、男なみに、せっせと今日の体制なるおのに参画はじめるときにおこるものなんです。
あるいは「自我」も含めて、あらゆる観念に奉仕し始めるときににね。
ロ-----ング・ヘアの女の子たちはたいていお料理もうまいし、やりくりや子供育てるのも好きですぞ。
なに?そんなステキなのばっかりじゃない?
そうかねえ。
広告代理店や歌謡曲プロダクションの手先でもって、そうゆうインチキがときどきいるけど、そうゆうのはだいたい年増だし、それに服装がなんとなくつくりごとじみているからすぐわかるよ。

いわゆる今日的なファッションを、自己顕示欲的にでなく、自分なりに着こなしていて、それが、本(ボーグとか装苑とかいろいろ)のにおいを感じさせない、そういう気づかいとコツみたいなもの、つまり、個性(自分が自分であるということ)と時代とか社会というひらけた流動的なものとの一致感、をみごとに身につけるのもロック・ファンである。

職業柄よくインタビューをするけど、一番気持ちよくはじめからキサクになんでも明るく答えてっくれるのが、そうゆう、気づかいがイタについているかっこいい女の子たちである。
なぜ人間は人間として(歯車としてではなく)社会化されねばならないか------こうゆう問いに、彼女らは明快に服装でもってすでに答えていてくれるのである。
勝手なものを着たらいいしゃないか、とか、職業柄でさ、とか、金がないからあるもの、またはとにかく安いものを着つづけるけるとかいうんじゃ、人間は、その唯一のよき意味において、「社会化」されないのであり、疎外の、ヒンヤリ・カサカサした地獄はいつまでも、つづくんである。
地獄は何処にあるか。
そのへんの、日常の中にあるんである。
だから-----気分がたいせつ。
しかし、最後に、歌詞も大切。
ジャズの歌詞における人間観=しおたれ節。ひかれ者の小唄となんでもいいが、たとえば、フール・ストップ・ザ・レインの歌詞をくらべてみよう。

岩谷宏
1972年 レボルーション







岩谷宏のロック論 1続き

2007-11-26 07:57:50 | 岩谷宏 ロック
A1 Speed of Life
 ボウイは今年の1月8日で30才になる。
 なんだかんだで、みんな、時間の車に乗って生きて行くのだ。

A2 Breaking Glass
  最近はまたぼくは
  あなたの部屋の鏡を割っているんだ
  あなたが鏡の中の自分の顔は見ずに
  外界を直視してくれるように・・・

  足元のカーペットを見つめるなんて
  よしなさい
  カーペットの上にはさっきぼくが
  こわい絵を描いておいたよ
  あなたはとても素晴らしい方ですが
  いろんな悩みをかかえています
  だからそれが障害になって
  ぼくはあなたにさわれません

A3 What in the world
  こんな世界で 私に、あなたに さしあたり何ができるのだろう
  でも なれなれしくするつもりは少しもなく
  私はあなたを愛しているんだ
  本当の私だけを見続けてください
  そして みんなが声を上げるまで待とう
  彼等がいってしまう時を待とう

A4 Sound and Vision
  私はじっとして、ひたすら待ち続ける深海魚
  深いところで、エレクトリック、ブルーの部屋の中で
  薄いブラインドの下りた部屋の中で
  一人っきりで、なにごとにも関心がないままに
  私は待つ
  聞こえてくるのを
  見えてくるのを
  その訪れを・・・・・・

A5 Always Crashing in the Same Car
  いつもいつも
  いまや殆ど義務的に
  事ある度に車で出掛ける私
  走行計は上がり、信号は点滅し
  私は右を見たり左を見たりで忙しい
  でも、いつも私はただ
  いつも同じ車の中で
  ひとり壊れてしまうだけ
  あなたが目の前に現れても
  ただ急ブレーキを踏むだけだ

A6 Be My Wife
  こんなことをやっていても
  ときどきすごく淋しい気持ちになるな
  世界中を廻ったけれど結局
  たしかなものはなにも得られなかった
  私は客(ファン)など欲しくなかった
  まさに
  一緒に生活出来る人が欲しかったんだ

A7 新しい町で、新しい職に就いて・・・と言うのだが、
  この曲には歌詞は全然なし。


B1 Warszawa
  後半、ラテン語の祈祷文らしきものをボウイは歌い上げるが、
  聞き取り不能。
  したがってラテン語かどうかも不明。

B2 Art Decade/B3 Weeping wall
  芸術の無能。
  ただ、壁が涙で濡れているだけ。
  80年代が、ポリティック・ディケイドであろう、と
  ボウイは予見しているのであろう。
  私の予言としては、このディケイドに、
  極右と極左が完全に重なったような新政党が登場し、
  勢力を得るだろう。

B4 Subterraneans
  地下生活者。
  ケラワックの小説の題名でもあるが、
  現在のボウイの真情と現状。
  歌詞の一部は、
  ”Share my falling soul”
  と聞こえる。



以上、このアルバムは、コンセプト的には、ロキシー・ミュージュックのSong for Europeにも似ているし、ルー・リードのBerlinにも似ている。
ただし、こちらは単に主観的な心情的な情緒的なところがなく、相変わらず”その先”を見よう、待とう、という、いかにもデビッド・ボウイらしい厳しさと積極性が根底に貫かれている。



くそっ!
こんな世の中、いいかげんにどうにかならないか!と思っている人達、国家にも権力にも政治にも貨幣制度にも根底的な馬鹿馬鹿しさを感じている人達は、とくに若い人達は、おそらく世界中どの国にも多かれ少なかれいるのであろうし、過去にもいた。
その人達は、しかし現実には、それぞれ孤独な個人であって、ロックは原則として、そういう人達すべてにとってのメディウムたり得るものである。
最大の問題は、優しさは暴力のように顕在的な力になり難いという点である。
暴力とその機構や制度が人を組織化するのはたやすい事だが、こちらにはまだ今の所、有効な組織論・コミュニケーション手段がない。
まあ、ボウイがめでたく「世界優しさ党」の総統にでもなったら、私は日本事務局の雑用係ぐらいにはなってあげよう。


(岩谷宏)
1977年





岩谷宏のロック論 1

2007-11-24 20:36:06 | 岩谷宏 ロック
DAVID BOWIEの アルバム 「LOW]のライナーノーツから、 抜粋。


ヨーロッパ各地から刈り集められたユダヤ人は、その殆どがポーランド国内の強制収 容所に送り込まれた。ガス殺、射殺、そしてワルシャワ市内のゲットーでの病死餓死 を含めて、その数およそ600万人という。その前の段階でポーランドの指導者層や 知識階級の人々約2万人が短期間の間に殺された。ポーランドはこのようにナチに蹂 躙されたばかりでなく、戦中戦後にわたって、ソヴィエトを主とする戦勝国からも、 取引の材料とされた。一方、ワルシャワは、東欧の諸都市の中では、文化芸術学問が 最もよく栄えた都市として有名である。

ロックは、とくに60年代後半にプログレッシブ・ロックなどによって対象化され、 思想として再把握されたロックは、歴史を”断つ”という意味での「断歴史思想」と 言える。 歴史の中心的な力となったのは古今東西、「暴力」であるから、一種のユートピア思 想とも言えるマルクスシズムも、「暴力」革命を条件にする以上、歴史の延長線上に ある。だから今、パリ、ローマ、ロンドンなどよりも東欧諸都市に、歴史の暗さ、陰 惨さが、一種の廃墟感・虚脱感 を伴って感じられるのではないか。ここ数年、概念 としてのヨーロッパの、その肥大した部分、良くも悪くもダイナミックに活動展開し てきた部分----アメリカ----を追及してきたボウイは、前作「ステイション・ツゥ・ ステイション」でついに「私はまぎれもないヨーロッパ人だ」と、いわば積極的にあ きらめて、そしてこのアルバムでは、そのヨーロッパ人としての自分自身の暗部を見 つめようとする。個々の現象論を離れて、内面の本質論に迫ろうとするとき、シンセ サイザーの抽象的な音は格好の道具である。

ヨーロッパ人は、歴史の中心的な推進者であったのだから、そのヨーロッパ人が断歴 史的な立場に立つとは、自分の否定であり、その結果としての空虚さを持つこと、孤 独になることである。そのような状態になった自分を単純に露呈していくのがたとえ ばルー・リードのスタイルであるが、ボウイはこれをさらに対象化し、そこにこそ、 積極的な意義を見出そうとする。そここそが、自分が真に生きられ、また、他者との (からの)真のかかわりも得られる場であり、欺瞞も誇張もなく、自愛の自閉もない 場なのである。このアルバムの各曲で、もはやボウイはステージを想定していない。 歌詞からもお分かりのように、個室で聞く孤独な個人が対象である。

現在ボウイは、音楽が音楽でしかないことのまだるっこしさに、いい加減イヤ気がさ して来たらしく、政治をやりたい、イギリスの首相になりたい、なれるもんなら世界 の独裁者になりたい、いや、まず、自分が喜んで住みたいような新しい国を作らねば ----等ナドと言っている。 これは、20才で文学を捨て、にわか仕立てで土木工学を勉強し、海中に(そこなら だれの所有地でもどこの領地でもないから)ユートピア都市を建設しようとしたアル チュール・ランボオを連想させる。 たしかに、民主主義の”民”が”愚民”でしかない現状で、良質の独裁政治を夢想し てしまう癖は、私にもある。しかし、私には、始まりが文学でも演劇でもなく、思想 書でも政治運動でもなく、音楽であったことへのひっかかりを捨て去ることは出来な いだろう。音楽はリズムであり肉声であるから、変化へのプロパガンダ性は教訓性か ら最も遠く、むしろ、それ自身変化そのものである得るからである。このアルバムで は、うっかり聞くとルー・リードとまちがえそうな、ぬけたボーカルを一部に聞くこ とができる。

”遅れてきた白人”である日本人は、現在のところまだ、アメリカ的ヨーロッパ的な 考え方や生活様式を取り入れている過程にある。そして、いわゆる日本的なものは、 そのようになった感性から趣味的に再把握される。社会や自分自身のヨーロッパ化ア メリカ化白人化が徹底してゆく中で、これではやはりヤバいぞ、と感じ始めたわずか な人達が、ロックの意識的な聞き手となっているのであろう。たしかに、まだるっこ しく、実効乏しいメディウムではあるけれども、現在のところかろうじて唯一のメデ ィウムである。でも、また私はここで、音楽が政治であっていいと、いやむしろ、音 楽性を中心に据えない政治など、今後の政治としてはしんじられない、とさえ思う。 もちろんこの場合は、音楽とは、(ナチの愛好した)ワグナーやベートーヴェンでは 困るし、佐良直美や三波春夫でも困るわけで、明快で躍動的なオフ・ビートでなけれ ばならないし、自分をぬけぬけと凸型に主張することとは逆の、うつろで、ぎりぎり に孤独な声でなくてはならないが。

続く。


ひろしは 犬猫奴隷 パート6

2007-11-22 07:26:49 | 岩谷宏 犬猫
けいこさんが、保護してきたわんちゃんや猫ちゃんの
数って、どの位なんだろうって、ふと思うんだけれども、
けいこさんは、まめで、論理的な岩谷さんと違って、
いい加減な、アバウトな性格だから、
この17年間の犬猫保護記録なんどは、
残していないわけだけれども、
けいこさんのまあ脳味噌の少ない頭の、
記憶をたどってみると、
少なくとも、600匹~700匹位の
わんちゃん猫ちゃんたちを
保護しているかも~って、思う。

一年で100匹保護して、みんなもらって頂いた
っていう年(2001年とか2002年かな?)
もある~。

いろいろ我が身を振り返ってみると、
岩谷宏と、おバカなけいこさんの犬猫奴隷時代は、
多摩時代と、千葉時代に、分けられるかな。

そんでもって、
「トマスと一緒」にも、書いたように、
多摩時代のわんちゃんと猫ちゃんっていうと、
アラン、トマス、ヤズ、アンリ、シロで、
それから、公園猫のクロとマウスと
忽然と消えたシロの兄弟と、
シロが産んだ三毛猫と茶トラ白ちゃんと、
それから、またまた、お話すると、
スンゴーク長い話になってしまう
公園近くの一人暮らしのおばあちゃんに
飼ってもらうことになったキキと呼んでいた
猫と、そして、そのNおばあちゃんが、
キキを飼ってから捨て猫を1匹飼うように
なったんだけれども、

Nおばあちゃんとけいこさんが、
ビロードのようなすてきな毛皮を
お召しになっているって、言っていた、
キジトラオスと、
それから、岩谷さんの仕事場の近くにいた、
本当に知能指数が高いんじゃあないっていう
白黒ちゃんと、
それから、団地の中を、悠然と歩いていた
茶トラ白フクちゃんなんどかな。

あの公園で、けいこさんは、
2回ほどだったか、もっとだったか、
子猫を保護してしまって、そして、里親さんを
懸命に見つけたし、
わんちゃんも、団地に隣接する小学校と
スーパーで3回保護していて、
そして、その三匹は、その三匹と一緒に、
団地の近隣の家を、一軒一軒訪ねて、
飼ってくださいって、頭を下げ続けたし、
そんな、話を、し出すと、ながーいながーい
お話になってしまう。

一応、もう一度、
多摩時代に、我が家に来た猫ちゃんだけを
おさらいすると、

我が家にはじめに来た猫は、
背中が、ガチャガチャ模様で、
しっぽは短いっていう、三毛猫で、
本当の三毛猫って、
白と茶トラ模様と、そして黒色で、
できあがっているわけだけれども、
この三毛猫ちゃんは、
白と茶トラとキジトラ模様で
なんか、その毛色が、
シュールしているんじゃないの~って、
いうアランちゃんだった。

それから、本当に風格があって、
孤高の猫だなって思う、
だから、猫って、芸術家から
愛され続けてきたんだわって、納得する、
けいこさんの父から、白足袋猫と呼ばれていた
茶トラ白のトマスが、我が家に来て、

それから、D動物病院から、
歌舞伎猫のような白黒模様の、
八二一さんのところの、八割れ猫ちゃんの
ようなヤズちゃんが、我が家には来て、

それから、アンリという、
細身の小顔のスレンダーの茶トラ猫で、
うるさいうるさい、お黙りって、一喝して
しまいたいような、おしゃべり猫なんだけれども、
まあ、けいこさんの膝を、独占したがる
けいこさんの愛を独占したがる、
脳味噌が足りないアンリちゃんが、
我が家には来て、

それから、トマスの母親である野良猫シロが
我が家にはやって来た。


そんでもって、
「トマスと一緒」を読んでもらえば分かるように、
シロは、けいこさんと出逢ってから、
三毛猫と茶トラ白を産んで、そして、
懸命に育てたわけで、

けいこさんが、多摩から千葉に引っ越しが
決まった頃には、
シロの子猫、三毛猫が子猫2匹を産んでいて、
その三毛猫と子猫2匹は、野良猫から、
公園の隣接した住宅地の
Sさんのお宅の家猫ちゃんに、地位を昇格
していただき、
けいこさんは、本当に本当に、ほっとしたわけ。

そんでもって、シロの子猫茶トラ白は、
とても、なれている猫だったから、
千葉に一緒に連れて行こうかって、
岩谷さんと話しているとき、
どうも、その茶トラ白ちゃんには、
恋人が出来てしまったらしく、
その恋人にふらりと吸い寄せられるように、
公園から消えてしまった。

あの公園の野良猫達は、クロは老衰で死んだし、マウスは
交通事故に遭って、若くして亡くなってしまったから、

けいこさんが、多摩から千葉に引っ越した時には、
なんか、神様の配剤だったのかもって、思うくらい、
あの公園から、野良猫は、いなくなってしまって、

その後、けいこさんが、2005年に、公園を
訪れた時には、猫の姿なんどは、1匹も
見えなかった。

けいこさんと、あの公園の猫ちゃんたちは、
深い縁でつながっていたんだなって、
いやに人工的になってしまって、子供の
嬌声だけが、こだまする、空虚な空間を
けいこさんは、見続けたの。
2005年の暮れだったと思う。

でも、公園にある大木のケヤキは、きっと
あの公園にいた野良猫たちを、みんな覚えて
くれていると、けいこさんは、思っているし、
岩谷さんと、けいこさんの、心には、
ずっと、ずっと、あの公園猫達は、
大切な思い出として、生き続けている。

多摩時代のわんちゃんから、猫ちゃんから、
けいこさんは、なににも、代え難い
こころの豊かさを、頂いたって、
思っている。
神様が、けいこさんにくれた宝物ってね。

だから、とっても、不遜なんだけれども、

ああぁ、わんちゃんやねこちゃんを知らない人生なんて、
人生の半分を知らないって、ことよね~って、
けいこさんは、思っている。

(今日の画像は、2005年の暮れにとった
あの公園のけやきと青空。)







ジム・ウィリスの詩

2007-11-20 07:24:43 | 岩谷宏 犬猫
けいこさんの大好きな、ジム・ウィリスの詩を、
書いてみます。

これは、けいこさんのHP上にも、載っています。

今日の画像は、白血病で、短命で逝ってしまった
けいこさんの保護したサビちゃん。
巨大郊外型スーパーの駐車場で、泣いていた。
保護して、白血病のキャリアであることが判明して、
里親さんを募集したが、
白血病のキャリアの子を、もらってくれる人は
いなかった。
たくさんの猫のいる我が家、
サビちゃんは、エイズキャリア猫のいる和室で、
ずっと、狭いケージ暮らしをせざるをえなかった。
我が家でなければ、もっと、上等の生活ができただろうと、
申し訳ない思いに駆られる。
岩谷さんは、一日の数時間、エイズキャリア猫たちを、
ケージに入れて、そして、
サビちゃんを、十分に日光浴させ、運動させていた。
サビちゃんは、岩谷さんが、大好きだった。

サビちゃんは、1才と半ヶ月の頃、
突然、具合が悪くなり、帰らぬ猫となってしまった。

岩谷さんは、今度生まれて来るときは、
白血病キャリアでない方がいいねと言って、
サビちゃんの亡骸を、裏庭に埋めてあげた。






人間側にしか、問題解決の主体はない by Jim willis


"We Are Their Heroes"We Are Their Heroes
Copyright © Jim Willis 2001, all rights reserved


If you worry that you have not made a difference, you have,
for only those who do not worry about it have not.

「変革などない」と心配しているなら、
いいえ、そんなことありません
心配しない人こそが、なにも変革していないのです

If you feel overwhelmed, if the weight of problems is too heavy to bear,
remember it is a shared burden
and the strength of numbers can accomplish much.

打ちのめされ、問題の大きさに耐えられない時
あなたの肩の荷を分かち合っている人がいると、覚えていてね
そんな人が増えることが問題の解決なんです

If you think society and government are blind,
it only serves to remind that we need to change
one mind at a time, one law after another.
We effect change by cooperation, not by isolation.

社会、政府は何も理解していないと思うなら、
そんな気持ちは、人の心を一度に変えたり、
法律を次から次へと変えることにしかならないわ
分断ではなく、協力することが、変化をもたらすのよ

If you consider that we cannot save them all,
and what difference does one make?,
you ought to know the joy of the one who is saved.
Mourn those we cannot save, it is a eulogy to their being.
Do not let their loss be in vain.

みんな全員を助けられないと思うなら、
この状況では、なにも変わらないと言うなら、
目の前に助け出された1匹の救われた喜びを知るべきよ
救えなかった子達への追悼は、彼らが存在したことへの賛美
彼らの死を無駄なものにしないで

Be kind to yourself, remember your needs
and those of your family and friends of every species.
If you give everything, what will you have left for yourself,
or for them?

あなた自身に優しく
あなた自身や、あなたの家族、他の命を犠牲にしないで、
無理をしたら、あなた自身や家族のために使うものは
残らないわ

Strive to be happy and healthy. You are needed.
Achieving balance in life is a lifelong struggle.
We who help those who do not have all that they need
should be among the most grateful for what we have.

自分自身が幸せで健康でいて
あなたは必要とされているのだから
中庸こそが、長い長い戦いには必要
必要とする全てを持っていない動物を助ける私たちは
自分の現状にこそ感謝しなければならないわ

Be proud of your accomplishments, not your opinions.
The quality of your efforts is more important than the quantity.

あなたの意見ではなく、あなたのやったことを誇り、
あなたの努力は量ではなく、質のほうが、大切

Forgive your own deficiencies - sometimes your caring is sufficient.
Everyone can do something, it is up to you to do the thing you can.
A kind word and a gentle touch can change a life.

自分の足りないところは責めないで、
ただ、今の目の前のやらなければならないこと、
それだけで充分
人は誰でも何かできる。出来ることは、違えど
暖かい言葉とやさしい行い、それが人の人生を変えうる

If anger wells up within you, because people are the problem,
remember your humanity and that people are also the solution.
Concentrate on specific needs, pay attention to the individual -
they make up the whole.

人が問題を作るのだから、もし、怒りが湧き上がっても、
あなたの人間性を忘れないで
問題を作るのも、解決するのも、私たちなのだから
自分の必要なことのみに集中して、目の前の一つのことだけで充分
一つが集まり全体を作り、個人が集まり社会全体を作るのだから、

See beyond the unlovable, the unattractive,
the impure and the wounded -
see that their spirit is as deserving as the rest. Help them heal.
Their eyes are windows to their soul
and the mirror of your sincerity.

嫌いな人、魅力的でない人、汚い人、傷ついた人、
そんな人達を越えて行きましょう
彼らの魂だって、あなたと同じように、愛すべきものでしょう
彼らにはむしろ癒しが必要なのよ
彼らの目は彼らの魂の窓、
そして、あなたのまことの魂が映る鏡

All species, all beings, share this Earth in a chain of life.
Care more about what makes us alike than what separates us.
Policies, rules and regulations are not infallible.
Apply them judiciously, interpret them wisely.
No decision based purely on money is ever the right one.

この地球上に住む命は、命の輪
私たちを分断する物でなく、私たちを結びつける物のほうを
愛して
政治、法律、法制、それは絶対的なものではないでしょう
正しく、賢く、使うべき
唯単に金儲けの行動は、いつも正しいわけではない

Listen to your heart. Sometimes we have to do that which
we are most afraid of.
Be true to yourself and your beliefs.
Family may abandon you,
friends may disappoint you, strangers will ridicule you.
People shun what they do not understand.
Help them to understand - kindly, softly, gently.

心の叫びに耳を傾けて
時には、最も恐れなければならないことを私たちはしなくては
いけないけれど
でも、あなた自身とあなたの信念を偽らないで
家族はあなたを見捨てるかも、友人はあなたに失望するかも、
わけのわからない人はあなたをあざ笑うかも
人間って、理解できないことからは逃げるんです
だから、優しく、静かに、、、、理解してもらえる様に

Those who do not respect all life are to be pitied.
Often the wrongdoer is as in need of help as his victims.
Forgive, then teach by example.
Educate yourself or you cannot hope to teach others.
No action based in hatred is ever right
and anger drowns out wisdom.

命を大切に出来ない人は、哀れむ人です
犯罪者でも、犠牲者と同じで、助けが必要な人でしょう
許してあげて、そして、具体的なことで教えてあげて
自分を高めなくては
そうしなければ、他人を啓蒙するなんて希望は持てないでしょう
憎しみからの行動は、いつも正しいとは限りません
怒りは英知をかき消します

Yours may be a voice crying in the wilderness,
make it a voice to be respected.
Listen more than you talk, be courteous and reliable.
Learn to ask for help. Never waiver from the truth.
Know that it takes a lot of strength to cry
And with every defeat, we learn.

あなたの叫びは荒野に響き渡る声かもしれません
その声を尊敬のまなざしで見てもらえるように
話すことより、聞くこと
そして、思いやりをもって、信頼できるように
助けを求めることをためらわないで
真実からの叫びは決して放棄しないで
叫びをあげることは強さが必要
そして、敗北するから、学べるのよ

All Creation celebrates that which is in its own best interest.
The Children are our hope - nurture them.
Nature is our legacy - protect it.
The Animals are our brethren - learn from them.

神の創造物は、その最大の関心のなかにあるものを祝福する
子供は・・・・私たちの”希望”-----慈しみましょう
自然は・・・・私たちの”遺産”----守りましょう
動物は・・・・われ等が”同胞”----彼らから学びましょう

Your rewards will not be material, but they will be meaningful,
and the courage of your convictions can survive anything.
We are small boats cast adrift on a cruel sea,
but someday the tide will turn toward a safe harbor.
No matter how dark the storm clouds,
or deep the pain of heartbreak - never forget:
We are their heroes.

あなたのしてきたことは、目に見えないことだけれど、
でも、とても意味のあること
信念への勇気は何かを生み出す
私たちは、過酷な海に漂う小さな小さなボート
いつかこの波は安全な港へと向かうでしょう
たとえ、世界が暗い雲で覆われても、
たとえ、心が深く深く傷ついても・・・・
決して忘れないで

私たちこそが、問題を解決する主体であるということを









先日 ON BOOK のパーティーで

2007-11-18 11:53:42 | 岩谷宏 ロック
先日、橘川幸夫の会社 ON BOOKのパーティーに
呼ばれまして、本当に久しぶりに、橘川幸夫君と
彼のカミさんであられます、小林裕子さんに会ったんですね。
けいこさんは。

橘川君は、若い頃と少しも変わっていなくって、
あらまあ、髪の毛も真っ黒で、50すぎても
青年のような橘川君に
けいこさんは、超びっくり!!って思ってしまって、
そんでもって、
昔から美人だった裕子ちゃんは、まあけいこさんと同じ、
50代になってしまいましたから、
少しは、変わったけれども、
裕子ちゃんは、髪の毛をUPなどしておりまして、
しっとりとした感じなんですが、
お話なんどをし出すと、
そのおしゃべり具合が、まあ、かっちょいい女の子なんですわ。
やはり、70年代を強く生き抜いた強者であります。
たばこもヘビーだし、お酒も酒豪と言わるほど、頂きますが、
ああぁ、こんなかっちょいいおなごは、あまりいません。
けいこさん的には。

やはり、70年代からロックし続けた男と女は、
すんごいんであります。
まあ、岩谷宏とずっと35年ともに生き続けたけいこさんも、
強烈な個性の女の子であるわけですが、
裕子ちゃんには、負けます。
けいこさんは、裕子ちゃんほど、現実処理ができません。

橘川家を支えたのは、裕子ちゃんですね。たぶん。
「裕子ちゃんの料理はうんまい」と昔、岩谷宏が
言っていましたから、
料理の出来る女は聡明っていう世の通説通り、
彼女はとても聡明で心の温かい女の子であられます。

裕子ちゃんを一目見て、彼女こそが、
橘川君を、ずっと、支えて来たんだなって、
橘川君の会社をずっと懸命に支えて来たんだなって、
けいこさんは、思ったわけです。

なぜ、橘川幸夫君の、ON BOOKに、けいこさんが、
呼ばれたのかっていうと、
岩谷宏が、1982年ロッキングオンから出して、
絶版になっていた、
「にっぽん再鎖国論 ぼくらに英語はわからない」を
改題して、「ぼくらに英語が分からない本当の理由」って
いう題名で、ON BOOKで、復刻してくれたからなんですね。

この本は、本当に良い本です。

そこで、なんと、あのロッキングオン初期時代の投稿者
であられます、滑川海彦さんにも、会っちゃったんです。
彼は、東大卒業後、都庁に勤めていたんですが、
今は、橘川君主催のデメケンの一員で、
最近は、「ソーシャル・ウェブ入門」
(技術評論社)が、アマゾンで一位で、独走気味に、
売れているらしいです。

あぁ、彼もあまり変わっていませんでした。
すぐに、ナメちゃんって、けいこさんは、わかりました。

そんでもって、そこで、
早樋さんっていう方にお目にかかって、
また、渡辺さんっていう方にお目にかかって、
また、藤巻さんっていう方にお目にかかって、
みんな昔のロッキングオンファン、イワタニストで
あるっていうことで、
なんか、ブライアンフェリーの話だとか、
キングクリムゾンの話だとか、盛り上がっちゃった訳です。

名刺をいただきましたから、
みなさまには、けいこさんが最近書いた本
イワタニストにとっては、どうでも良い本でしょうが、
送らせていただきます。
もう少しお待ちください。

渡辺さんが、75年ごろだったか、岩谷さんプロジュースの
舞台「名無し人」に関わった石田君、黒川君の近況を
教えてくれて、
石田君は、けいこさんの頭にも強烈に残っている子で、
パン屋さんになりたいって、食べ物やさんをしたいって
言っていた子で、とても、「美しい」子でしたが、
彼は、今は、ラップの世界では、知らない人はいないくらい
有名な、ラップの親分のようになっているらしいです。
黒川君も、映像メディアで活躍しているって
渡辺さんが、けいこさんに教えてくれました。

そんでもって、渡辺さんも、橘川君の ON BOOKから、
本を出したそうです。
みなさん、是非、読んでくださいね。

2次会が盛り上がって、けいこさんは、
終電電車にも乗れなくなってしまい、
橘川君の事務所に泊まらせていただきました。

ナメちゃんは、今、銚子に住んでいるということでしたが、
彼も、銚子行き終電バスに乗れませんでしたので、
ON BOOKの市川君の所に泊まったそうです。

家に帰って、岩谷宏に、
石田君と黒川君の話をしたら、
ほっとした様子で、
「石田君や黒川君どうしているのかな~って
心配していたんだ」と、ぼそりと言いました。

渡辺さんから、
岩谷さんと関わったみんな、みんな、
彼らのその場所で、がんばっています。
それだけ、伝えてください・・・って
けいこさんは、言われて、

ああぁ、一緒に生きるって、こういうことよね。

ああぁ、フェリーが歌うように
「行かせないで!」「行かないで!」
みんなここにいようよ。
ここがすべて、ここが始まり。
そして、この場所以外には、なにもないっていう、
そんな、「幸せ」を、かみしめることの出来る至福感って、
そう、やたらにはないわけで、

ロッキングオンは、やはりすごい場を、創っていたんだな~って、
けいこさんは、改めて、ロッキングオンの偉大さを、
感じたわけであります。


渋谷陽一、あんたは、偉い!!




けいこさんは、アート好き

2007-11-17 06:51:42 | 岩谷宏 ロック
けいこさんは、音楽を聞いたり映画を観たり、
そんでもって、写真を観たり、絵を見たりするのが
大好き。
まあ、一般的に「アート」が大好きなんだけれども、
「アート」って、日常にも、いっぱいごろごろ
転がっているって、思っています。

(環境音楽を創っていたブライアン・イーノは
ある意味、とっても、真理の人ですね。)

けいこさんは、毎日、必ず空を見上げるんだけれども、
空の模様って、その時、その時、一瞬が、アートしている
っていう感じで、大好きです。
特に、雲の形って、同じ曇は、一つとしてないわけで、
この世は、アートでいっぱいって、けいこさんは
いつも、思っています。

昔、松村雄策が、「イターナウ」というグループを
作っていて、そのグループ名のコンセプトは、
岩谷宏が、考えた訳だけれども、
「今が永遠」「今がすべて」っていう、すんばらしい
思想であります。

空を見上げると、
いつも、松村雄策の「イターナウ」を思い出す
けいこさんです。

話は、ちょっと、脇道にそれますが、
アート好きなけいこさんは、アートでも、
「書」は、どうも、好きにはなれません。
「書」は、けいこさんの父親の得意な分野なんだけれども、
けいこさんの父は、今は、もうパーキンソン病という難病で、
字さえ、書けなくなってしまいましたが、書と短歌が好きでした。
「書」が得意であった父親の影響で、
けいこさんは、小さい頃から、書道を、
無理矢理、やらされたんだけれども、
けこさんは、書道には、陶酔感をなにも、感じませんでした。
墨の匂いには、官能性を感じましたが。

アートって、官能です。アートって、陶酔感です。
無私にならないと、アートはわき上がってきません。
けいこさんは、書道には、少しも官能性を感じませんでした。
書を書くことには、全く、無私にはなれませんでした。


それより、けいこさんは、
人の普通に書く「字体」に、それも、本当に、
純粋で、繊細で、なんていう、「字体」には、
その人の人柄を感じ、その人の本質を感じ、
「あたまぐるぐる」になってしまう位、陶酔感を感じてしまいます。
けいこさんは、一種、パーツフェチなんですね。
人の全部っていうより、その人のここがステキ!!って
思うと、その人のことは、すべて、大好きになってしまいます。
「一」の中に「すべて」があるわけです。
だから、人それぞれの「字体」って、その人の本質的人柄ですよね。

自分では悪筆だっていう、岩谷宏の「字体」は、岩谷宏そのものです。
ブライアン・フェリーのような英字を書くけいこさんの「字体」は、
ブライアン・フェリーと似ている、けいこさんそのものです。

そんでもって、よくペン習字なんどの、チラシが
新聞に入っていたりしますが、
あんなもの、けいこさん的には、「へ!」ですね。
おならです。いりません。けいこさんは。
ぺん習字をしていたような字がきれいな人って、
経験的に言って、全く本質的な人ではないので、
けいこさんは、ぺん習字のような字を書く人は、
はなっから、信じていません。

またまた、話は、脇道にそれますが、
「書」と言えば、川端康成の晩年の「書」って
すんばらしいですね。
一流の人って、なにをやっても、たぶん一流なのねって、
川端康成の「書」を、某雑誌で観て、そう、思いました。


そんでもって、けいこさんは、音楽は、ロックが大好きです。
中学生の頃から大好きで、
もちろん、今でも大好きです。
今はですね。アークティックモンキーズに陶酔しています。
あんなバンドを輩出するっていうのが、キリスト教世界、
EUの強さです。
すんごく肯定的な彼らの音は、セックスピストルズ以来、
けいこさんの頭脳を、撃沈したんですね。

中学校時代、ビートルズをはじめとするロックは、
不良の音楽でしたから、
お昼休み、内緒で、放送室から、
ウオーカーブラザーズのレコードをかけて、
校舎内に、放送してしまったけいこさんは、
職員室に呼び出され、先生から大目玉を食らいました。
そんな思い出もあります。

けいこさんは、72年当時、デビッド・ボウイの
ファンクラブ会長だったんです。
それが、けいこさんの唯一の自慢ネタ。

そんでもって、72年の初夏に、ロッキングオンを、
新宿紀伊国屋で手にして、カルチャーショックをうけ、
当時、デビット・ボウイ信者であった岩谷宏に出会い、
そんでもって、渋谷陽一や橘川幸夫や松村雄策に
運命的に、出逢ったんです。

この4人は、けいこさんの、本当のお友達です。
いやいや、けいこさんは、この4人は、
けいこさんの、永遠の恋人、永遠の情夫って、
思っているわけです。




ひろしは 犬猫奴隷 パート5

2007-11-16 23:17:06 | 岩谷宏 犬猫
そんな訳で、犬猫保護(犬猫拉致ではありません)に
まっすぐ、直球になってしまったけいこさんは、
それから、たくさんのわんちゃんねこちゃんを保護し続けたんです。

保護する猫ちゃんって、体が本当にきれいで、
家猫の産んだ子猫じゃあないのっていう、
猫ちゃんも、たまにはいるんですが、
たいていは、雑巾猫のような猫ばっかり。
本当にみんな汚いんです。

蚤が体いっぱいの猫ちゃんだったり、
シラミがわいている猫ちゃんだったり、
鼻風邪をひいていて、目がグジュグジュの猫ちゃん
だったり、ウジが肛門からわき出ている猫ちゃんで
あったりするわけです。
虫をみて「きゃー」なんて、叫んでしまう女の子は、
捨て猫ちゃんには、けっして、けっして、
触れないって、けいこさんは、
思います。

けいこさんは、虫はなんでも平気です。
ゴキブリも平気。アリさんも平気。
もちろん、鈴虫なんて、大好きです。
秋の夜長の鈴虫の音色なんて、最高でしょ!
セミの抜け殻なんていうのも、大の大好き。
あの透明なセミさんの抜け殻を、じとっとした汗の中で、
見ているだけで、幸せを感じてしまう単純おばかなけいこさん
は、虫さ~ん、ダニさんでもいいわよ~、
だれでも、「あたしのところに、来てちょうだい」ってな感じ。
ダニさんさえ、世界の一部って、感じちゃうわけです。
あなたがいなければ、世界は成り立たないって、
そんなふうに思っちゃう訳です。
けいこさんは。

命あるもの、それは、宇宙そのもの。
あなたが、宇宙であり、私が、宇宙そのものです。

そして、同時に、他者の命(まあ、お魚さんや、豚さんなんどね)
を頂いて生きていかなければならない、
命の業を、人はみんな持っているわけですが、
その命の業は、他者の命につながるという、
とても、すんばらしいことなのでありますから、
けいこさんは、小さなちいさな虫さんの命の中に、
自分の業の深さを、感じるとともに、
同時にその業に、自分の命が蕩尽していく至福さを、
感じます。

それで、雑巾のような小汚い猫も、ヘイキノヘッチャラと
いう訳なんですね。
けいこさんは。





ひろしは 犬猫奴隷 パート4

2007-11-16 07:46:20 | 岩谷宏 犬猫
ええーっと、下のほうで、
「こうして、今日もまた、岩谷さんとけいこさんは、
犬猫奉仕に、精を出しているわけです。」って
書いてしまったんですが、

なんということはありません。
おばかなけいこさんは、ただ、犬や猫を保護して来るだけなんです。
実際に、我が家の犬猫のお世話係は、岩谷さんなんですね。


今は、住宅地で、保護するわんちゃんねこちゃんは
とってーも、少なくなりましたが、
我が家が、当時、この住宅地に引っ越してきたばかりには、
公園に野良猫がいっぱいで、
けいこさんは、ほんとうに、この住宅地に引っ越したことを、
「しまった、しまった」って、思いました。

住宅地は、新興住宅地でもあり、また、庭スペースが
多いですから、
この住宅地に、猫を置き去りにしても、なんとかだれかが、
拾ってくれるだろうって、そんな、フトドキものが、
後を絶たなかったんですね。

でも、捨てる人は、本当に何も分かっていないわけですよ。

こんな田舎の新興住宅地に東京やら横浜から引っ越してくる
家族は、そんなに、金持ちの輩ではないんです。
だから、購入した家は、財産だって思っているから、
猫を飼って家をガリガリやられて、汚くされると
もう、家を売ることはできないわ~って、
みんな思っているわけです。
だから、当住宅地に捨てられた猫ちゃんなんて、
だれも見向きもしないんです。

「みゃーみゃー」言って、捨て猫ちゃんが泣いていても、
かわいそうって、我が家に来るのは、
たいていは、小学生です。
小学生が、公園に捨てられていたとか、けがをしているとか、
まあ、けいこさんに言って来るわけですよ~。

もちろん、捨て猫ちゃんを見て、ほーっておけない大人も
いるわけですが、
大人は大人で、「岩谷さん、○○に、子猫が捨てられている!!」
っていう電話をして来るだけなんです。
そんな電話を受け取ると、まあ、けいこさんは、
「またか、またかよ」とは思うんですが、
もう、菩薩の心になってしまうんですね。

哀れ哀れ、捨て猫ちゃんは、一人では生きていけません。
わんちゃんも、ねこちゃんも、人とともに生きてなんぼの人生よ~。
哀れ哀れ、本当に、おなかが空く経験って、かわいそうぉって、
思ってしまって、
すぐに、捨て猫ちゃんのいる場所に、キャリーバックなどを持って、
直行してしまうんですわ。

そんなおばかなけいこさんが、犬も猫もみん~な保護してきてしまうんですね。

実を言うと、なぜ、けいこさんが、捨て犬や捨て猫の情報が
けいこさんの耳に入り次第、その場所に直行するのかっていうとですね、
けいこさんは、一度、とっても、とっても、痛い経験をしているからなんです。

引っ越した当時、野良猫の多さにびっくりしてしまったけいこさんは、
その野良猫ちゃんたちを、どうすることも出来ず、無力感を
とっても感じていたんですが、
ある日、用事があって、自転車で市内まで出かけたんですが、
自宅から出て5分ほどした場所で、1ヶ月にも
満たないキジトラの子猫が、びしょぬれになって泣いていたんですね。
そんでもって、その時、瞬時に潔く、子猫を抱きしめ、
自宅に直行すればよかったんですが、
その1ヶ月前に保護したクリーム系の子猫が、里親さんが決まらず、
我が家で飼うことなってしまって、
里親さんって、なかなかきまらないのね・・・という、落ち込む経験を
していたものですから、この子の里親さんも決まらなかったらどうしようって、
びしょぬれになってうろうろしていた子猫を手に取るのを
躊躇してしまったんです。
そして、用事を済ませて、家に帰る時に、この子猫ちゃんが、
いたら、この猫ちゃんを、家に連れて帰ろうって、思ったんですね。
そして、そのまま、その場を去って、
用事をすぐに済ませて、その子猫ちゃんが泣いていた場所に
戻ったら、子猫ちゃんは、雲隠れしてしまったのか、
どこにもいないんです。
その子猫ちゃんがいた道路の下は、田圃で、その日は、
農薬の空中散布があった日で、びしょぬれになったのは、
田圃に落ちてしまったからじゃないのって、思って、
その辺を、ずっと、探し続けたんですが、
「いない、いない、ばー」されちゃったんじゃあ
ないのっていう位、どこにもいないんです。

その時の、「喪失感」、「出来ることがしてあげられなかった」
っていう痛みが、ずっと心の底にあって、
その子猫ちゃんの姿が、忘れられないんですね。
けいこさんは。

それで、毎日、毎日、
なくなった義母にお線香をあげるように、
そのキジトラの1ヶ月の子猫ちゃんには、
「ごめんなさい、ごめんなさい」って、謝っているんです。

こんな痛い「喪失感」を生涯味わうなら、
捨て犬や、捨て猫は、潔く保護しちゃって、
なんとか、真剣に、懸命に、里親さんを探してあげようって、
この1ヶ月のキジトラの猫ちゃんを、失ってから、
それから、けいこさんは、保護することに、まっすぐ
直球になっちゃったわけです。




ひろしは 犬猫奴隷 パート3

2007-11-15 23:49:31 | 岩谷宏 犬猫
ええーと、下で、岩谷さんの朝の毎日の行事、
家の猫ちゃんに、岩谷さんが、ひれ伏しては、
せっせと、餌を運び、
「さあさあ、ルークちゃん、どうぞ、
朝食が出来ましたよ。お食べくださいね。
今日も、いつもと変わらないキャットフード
なんですが、私の稼ぎが少ないので、
こんなものしかご用意できませんが、
おいしいですか?」
なんて、言っては、合計約30匹に、
一人一人に、フードを、運んであげる
「岩谷さん猫陶酔の巻きその①朝時間」を
お伝えしたわけですが、

岩谷さんは、
猫ちゃんたちに、お食事をせっせと運び終え、
それから、しばらくすると、
猫ちゃんたちは、みんな、うん○を、モヨオしては、
時間差で、トイレにかけこみますから、
岩谷さんは、猫ババ、あの、くさぁーい、
クサヤかと、思うほどの、あのうん○を、
レジ袋を持っては、お猫さまたちのいる、
ケージやらお部屋を周り、回収に、お伺いするわけです。

「どれどれ、今日も、かりんとうのような真っ黒な
程良い固さの良い排泄物ではないですか?
どれどれ、下痢はしていないですね。」
なんて、言いながらですね、
一生懸命、トイレを掃除してあげるわけです。

これが、結構時間がかかるんですわ。

お食事をあげる→トイレの掃除をしてあげる→
食器回収する→食器を洗うという
一連の作業が、岩谷さんの家事仕事としては、
朝と同時に、夕方もあるわけです。

それも、たっぷりと、朝夕3時間半づつもかけてです。
うんざりです。うんざりです。
けいこさんなら、うんざりです。
こんな猫まみれの毎日。うんざ~りって、きっぱり言い切ります。
けいこさんならですね。

でも、岩谷さんは、とても、まめな人です。
とってーも、まめな人ですから、
保護猫を含めて約30匹いる我が家の猫ちゃんたちの健康のこと
お世話のことが、いつも頭から離れないわけです。

そんでもって、太陽がいっぱいの日、
晴れ間の日には、お猫さまに、日光浴をさせなければって、
思っているわけです。
人間の子供、まあ、けいこさんの産んだ子供の日光浴を、
岩谷さんが、そんなに気にしていたなんていう記憶は、
けいこさんにはありませんから、
岩谷さんは、お猫さまの日光浴が、本当に大事なんですね。
いつも、頭には、お猫さまの日光浴のスケジュールが
入っているわけです。

仕事をしようかなっていう午前8時頃になると、
やはり、朝4時から、肉体を酷使しているせいで、
岩谷さんは、うつらうつらしてしまうんですね。
かわいそうなことに、
毎日、仕事を、はじめるぞーっていう時になると、
眠気がおそって来るわけです。

それでも、貧乏な我が家、頂いた仕事は、きっちり
几帳面に、そして、迅速に、やらなければ、
賃金など、我が家には入らないわけですから、
岩谷さんは、我が身にむち打って、仕事をするわけですが、

その仕事中に、「猫の日光浴スケジュール」を、
瞬時にこなすわけです。

我が家は、今から6年ほど前だったでしょうか、猫の専用運動場を
作ったんです。
というか、おばかなけいこさんが、猫を保護しすぎて、
お部屋を一部屋作らなくてはならなくなり、
そのお部屋(本当に安物建物)と、母屋とをつなげるスペースに、
猫専用運動場を作ってしまったわけです。
その時、悟った真理は、
「スペースが増えれば増えるほど、保護猫ちゃんも
増えていく」っていうことでした。
その真理を会得してからは、我が家の敷地にお猫さまスペースを
増やそうとは、もう思わなくなりました。

贅沢な、お猫さま専用運動場で、お猫さまたちを、順番に日光浴させて
あげるのが、岩谷さんの、仕事中の、また仕事であるわけです。

岩谷さんの頭の中では、お猫さまたちの日光浴順番は、
論理的に、決まっているらしいですが、
その論理的順序は、けいこさんには、どうも、よく分かりません。

でも、約30匹のお猫さまたち、全員が、日光浴が出来るようにと、
スケジュールを立てていることだけは確かです。

猫ちゃんたちは、みんな、日光浴が好きですね。

老猫トマス、けいこさんの愛してやまないあのトマスちゃんは、
もう17才ですから、猫生の晩年になって来ました。
ですから、トマスは、一日中寝ているわけです。
それも、日光の当たる2階のベランダで。
晩年のトマスは、老人と同じで、体が寒いのでは
ないでしょうか。
だから、太陽を浴びるのが好きなんですね。
たぶん。

トマスは、太陽を浴び、ゆっくりと深呼吸を
し続けます。
けいこさんは、そのゆっくりとした深呼吸をする
トマスの胸の動きに、渋さを、感じます。
時の重みを感じます。
トマスだけの重厚な、ずっしりした重みを、感じます。

こうして、今日もまた、岩谷さんとけいこさんは、
犬猫奉仕に、精ををだしているわけです。
ジャンジャン。




ひろしは 犬猫奴隷 パート2

2007-11-15 09:07:34 | 岩谷宏 犬猫
我が家は、千葉県のとある地方都市の大きな住宅地の中にあるんですが、
この家に来たのが1995年。
バブルははじけていましたが、家の値段は本当に高くって、ぼったくられた
って、けいこさんは、思っています。

岩谷さんは、住居など、なんにも、興味がない人で、
イワタニストたちが、聖地と呼んでいた、立川の若葉町団地に
岩谷さんも、けいこさんも、
ずっと住んでいてもよかったんですが、

あのですね~、アランという猫ちゃんを、1990年に
初めて飼うことになり、
(このアランちゃんを飼うことになったお話は、
「トマスと一緒」のこちらに書いてありますので、興味のある方は、
読んでくださいね。)

アランの次に、けいこさんが、いっちばん好きなトマス君を飼うことに
なり、その次に、蚤だらけの茶トラおばか猫アンリを飼うことになり、
その次に、不細工な白黒ヤズ君が、我が家においでになりまして、
その次に、トマスの母親のシロを、団地の3DKに
入れてあげたわけですよ~。

ああぁ、猫って、「個」というか、パーソナルな部分が、強烈な生き物でしょう。
それが、猫の魅力でもあるんですが、猫が狭い場所に5匹もいますと、
本当に、いがみ合いが始まるわけです。
シロが、他の猫ちゃんたちに、苛められて、かわいそうな状況になって、
そんでもって、やっと、岩谷さんは、住居を移さなくちゃあって、
本気に考えてくれたんです。


現実的なことに関しては、岩谷宏の頭の中の脳味噌は、
全く反応しないわけですから、自ずから、現実的な生活の処理は、
けいこさんが、み---んな背負っているんですが、
まあ、けいこさんの妹が、千葉県のとある由緒正しいお寺に
お嫁にいって、その千葉県に、毎年、毎年、夏の、お盆になると、
けいこさんは、オセガキの行事にかり出されていたんですね。

そんでもって、千葉の田舎って、まあまあすてきじゃない~って、
けいこさんは思って、けいこさんの生まれた所って、とっても寒い場所なんですが、
いずれ、けいこさんのところに、寒い場所に住んでいる両親を呼ぼうか、
妹も近くにいることだしって、
そんな、単純な決断だけで、今の住宅地に、引っ越したんです。
1995年の春ことです。
サリン事件があった年です。

バブルがはじけて、地方の地価は、どんどん下がりましたから、
けいこさんのいる家の地価も、今は、引っ越した当時の三分の一です。
ほんとうに、けいこさんは、おばかな国民で、
国家のぼったくり陰謀に遭っちゃったっていう、感じですね。
今の家を購入などしたのは・・・・。

でも、5匹の猫ちゃんのために、岩谷さんは、あの団地を出る決心を
したわけですから、
猫ちゃんが、いなければ、こんな田舎の地方都市に引っ越すこともなかったんですが、
また、反面、猫ちゃんがいてくれたおかげで、青空や雲や木々や海のすばらしい
自然の美しさに毎日酔いしれるそんな至福感を、岩谷さんも、けいこさんも
味わっているわけですから、
5匹の猫ちゃんには、感謝感謝であります。

まあ、こんなお話をすると、
いかに、岩谷さんが、「猫ちゃん奴隷状態」であるかって、
分かるというものです。

ハイ。