2023年11月30日

糸島伝説「小田のだいぐれん」 ー小田の暴れる老婆の死霊と「だいぐれん」の意味ー

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◯ 糸島伝説「小田のだいぐれん」


糸島伝説に「小田のだいぐれん」という話がある。

怨霊伝説の類である。

小田(こた)は、糸島半島北東部の福岡市海づり公園より西側一帯の地。

だいぐれんを「大愚連」とでも書けば、どこか暴走族のグループ名のような響きを感じさせる。

実際、この伝説では暴走ならぬ「暴れる老婆の死霊」が登場する。



死霊とは、この世に執着や恨みがあって成仏できなかった死者の霊のことをいう。

その死者が未練を残した特定の人の前や場所に、生前の姿かたちで出現する、いわゆる霊異現象である。

これを代表するのは、全国各地に伝承される皿屋敷伝説の「お菊」、あるいは東海道四谷怪談の「お岩」であろう。

いずれも創作上の人物であるとしても、幽霊(死霊)といえば、その典型の姿は女性なのである。

お菊もお岩も近世(戦国末~江戸時代)に誕生している。

ものいわぬ女性を強要された当時、彼女たちは女性不遇の時代にあって、その象徴として描かれたものではないだろうか。

今回紹介する小田の伝説に登場するのは、江戸時代を生きた名もなき老婆の、その死霊である。

ただ、この老婆はものいわぬどころか、やかましい方の女性だったようだが。


 ・ 小田の暴れる老婆の幽霊伝説「だいぐれん」
 ・ 昔の小田と廃寺旧跡のこと
 ・ 結局、「だいぐれん」とは


(小田の段/光明寺跡/大静寺/寿福寺/小田浜海岸 他 2023年11月撮影)




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小田の暴れる老婆の幽霊伝説「だいぐれん」


だいぐれん。

普段の生活のなかでは聞きなじみのない言葉である。

これを、小田(こた)では「暗闇」や「暗黒」を意味し、また里人たちの「恐怖心」を表す言葉だという。



これは江戸時代の話である。

当時、志摩郡小田村に「段(だん)」という集落があった。

夕闇が迫る時間になると、この集落を中心に、村では戸を固く閉めて早々に寝静まる家が多かったという。

なぜならば、村には「鬼婆」が出るからである。

鬼婆とは、段の集落で亡くなった某家老婆のことで、その死霊が村人たちの前に出てくるというのだ。



生前のこの老婆は、ひねくれ者の意地悪で、粘着質で口汚く、業突く張りのけちんぼうであった。

自分に都合の悪いことはすべて他人のせいにし、言葉を交わせば他人を見下す悪口ばかり。

ときに周囲からの好意すらも悪いように曲解して受けとり、すぐに不機嫌になる。

このため、近所の人たちはもちろん家族親類からも疎まれる存在だった。

ところがそんな老婆も、ちょっとした病気をきっかけにあっけなく死んでしまう。



  あの鬼ババァが逝ったげナ



老婆の死を心から悲しむ者など誰もいなかった。

ある一面では、とても哀れな老人だったともいえる。

それでも老婆の葬式には、多少の弔問客もおとずれ、焼香をして手を合わせてくれた。

葬式は滞りなく済んだ。

すっかり陽も落ち、家族親戚の者もほっと一息ついていたところ。

突然、あの怒声が響いたのである。



  「ワシはお前らのせいで地獄に堕ちようとしておる!!!」



声の主は、いま先ほど荼毘に付されて骨壷に納まったばかりの老婆である。

生きていた時分のままの姿であらわれた老婆は、まさに鬼の形相。



  「ワシはお前らを許さんぞ・・・道連れにしてやる!」



老婆は、恨みつらみの言葉を吐きながら、そこらの物を投げつけて家人たちを追いかけ回す。

何が何だか理解が追いつかず、恐怖で逃げ惑う家人たち。

ひとしきり暴れまわった老婆は、いつのまにか消えていたという。



老婆の出現は、この日だけで終わらなかった。

それからというもの、外の暗闇が迫ると、老婆の霊はたびたび近隣の家々にも出てきては、罵詈雑言を吐き散らし、乱暴の限りを尽くしたのである。

やがて被害は村全体におよぶほどまでに。



  そろそろ鬼ババァの出る時間たい



村の家々では、暗くなる前に戸を閉ざし、明かりを消す。

そして老人から子どもまで早いうちに床に就くようになった。

このため、夜の村は物音ひとつしない真っ暗闇で、猫の子一匹見あたらないといわれていたほどである。

平穏な日常を取り戻したい。

そう切実に願った村の人たちは、遠近の寺々に依頼し、悪霊退散の大施餓鬼を執行してもらうことにした。

仏教では、自らの悪行などによって死後に餓鬼道へ堕ちた者は、餓鬼に身を落とすといわれている。

餓鬼になった者は、常に飢えと渇きに苦しまなければならず、またその苦しみから俗世(現世)をさまようこともあるという。

このことから、そういった餓鬼に食べ物や飲み物などの施しを与えることで供養する慣習があったのである。

老婆の家では、屏風をしつらえ、飾りつけられた祭壇には野菜や果物などのほか、たくさんの供物が並べられた。

何人もの僧侶たちが会した法要では、途切れることなく読経がつづき、時おり鐃鈸や伏鉦が打ち鳴らされた。



  これだけの法要をすれば、さすがの鬼ババァも成仏するやろ



事実、農村の一老婆の法要としては異例ともいえる大がかりなものとなった。

しかし。

法要のさなか、再びあの怒号が仏間に響き渡ったのである。



  「ワシを餓鬼のごと扱いよってくサ!!!」



驚いてうしろを振り向けば、そこには白髪を振り乱した老婆の姿が。



  「こげな時化(しけ)とう施しば受けて成仏できるほど、ワシはめでたくなかッ!」



般若の顔で満座の中になだれ込んできた老婆を、誰も止めることはできなかった。

自らのために用意された供物を手にとった老婆は、それを次々と満座の人たちに向かって投げつける。

ついでに屏風を押したおすと、祭壇までも破壊し、やりたい放題の大暴れである。

あまりの老婆の剣幕に腰を抜かす人。

悲鳴をあげながら逃げだす人。

法要の場は大混乱となり、盛大な供養は失敗に終わった。

それにしても老婆の怨念のすさまじいこと。

これは一筋縄ではいかん。

たまりかねた村の人々は、当世の福岡で一大智識と名高い僧侶にあらためて浄霊を要請する。



  それほどまでの強力な邪霊となれば、八万地獄へ突き落とす以外に法はなか



老婆の墓前。

集まった人々の面前で、高僧の強い法力による加持祈祷がおこなわれた。

このとき老婆の死霊は出てこず、またこれ以降も村人たちの前にあらわれることは一切なくなったという。

その後、段の集落某所には、一基の供養塔が立てられた。

これは老婆の屋敷跡だとも伝わるものの、今やすでに存在していないようである。




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昔の小田と廃寺旧跡のこと


小田(こた)は、糸島半島北東の福岡市西区にあって、その東西は海浜に面している。

東側は福岡市海づり公園から北に伸びる小田浜海岸まで、西側は夫婦岩で有名な二見ヶ浦海岸である。

古くは志摩郡小田村で、明治22(1889)年の町村制施行にともない、近隣の宮浦・西浦・草場・玄界島・小呂島の5村と合併。

明治29(1896)年に志摩郡小田村から糸島郡北崎村に改称された。

福岡市に編入されたのは昭和36(1961)年のことで、その後の昭和47(1972)年の区制施行により「福岡市西区(大字)小田」になって現在にいたる。



糸島伝説「小田のだいぐれん」は、江戸時代の話だという。

江戸時代の志摩郡といえば、その一円は福岡藩領で、小田は「福岡領志摩郡48ヵ村」の1村であった。

年貢の対象となった郡内各村の田畑面積は、平均すると1村につき70町ほど。

そのなかにあって田畑149町を抱えた小田村は、桜井村283町、野北村166町、今津村162町につぐ大村であった。

享保年間初頭(1716年-)、小田村の田畑の等級は「上ノ位」と記録されている。

特に麦・大豆の生産を「よろし」とし、また薪材にも恵まれ、運送の便も自由であるとして「好村」と評された。(『筑前国続風土記拾遺』)

山間地に集中する村の人口は、江戸期をとおし、おおよそ200戸1000人前後を維持している。

牛馬の数も200頭を大きく上回り、村内の百姓経営は安定していたとみえる。



明治時代初期、小田村の集落は、本村(段・井手・田中・小賦倉・山方)・西園・木原・濱・森・船津の6ヵ所。

この当時、村内207戸のうち「僧家」が4戸あった。(『福岡県地理全誌』)

小田の南東は、郷土の仏教の聖地「今津」に接している。

今津といえば、古代怡土庄の貿易港として栄え、臨済宗開祖の栄西(えいさい)が十数年滞在したという誓願寺などの古寺も多い。

このためか、小田には廃寺旧跡が少なくない。

かつては光明寺・正法寺・正善寺・如意庵・宝照院などが存在していたようである。



このうち小賦倉(こぶくら)の光明山にあった光明寺は、万歳山を号し、7堂を構える巨刹だったという。

開山時期は不詳としながら、奈良時代の「清賀上人」によるものと伝承されている。(一説には空也上人とも)

しかしその後、兵火にかかって廃絶したといい、現在は観音堂と大日堂が設置されている。

その本尊は、高さ2メートルほどの千手観音の古仏とし、脇立の6像とともに鎌倉期の名工運慶の祖父「詫摩」作と伝えられる。

当初7堂のあった場所には石仏が並び、その名残を示していたようである。

このうち子院である小園坊・花園坊・赤江坊・水上坊・杉谷坊・明光坊については、それぞれ観音堂西北の田間に字名で残っているという。

寺のあった山下を「大門」と呼ぶのは、ここに光明寺の山門があったからである。



小田地区の人口は、平成15(2003)年の705人から、直近の令和5(2023)年10月時点では459人と、ここ20年間で急速に減少している。(福岡市公式Web:公称町別登録人口

現在の同地区内の寺院は、川原にある「大静寺」(長谷山)と木原にある「福寿寺」(望海山)の2寺である。




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小田公民館のすぐ西側にある光明山にあったとされる大寺院「光明寺」の跡地には、観音堂と大日堂があります




結局、「だいぐれん」とは


上記伝説の舞台は、江戸期の志摩郡小田村である。

なんでも同村某家の老婆亡き後、その死霊が村人たちの前に幾度もあらわれては、乱暴を働くなどの実害をもたらしたという。

その怨念は強烈で、福岡の高名な僧侶による加持祈祷でようやく収束。

老婆の霊は地獄に堕とされて成仏したとしている。



仏教用語に「大紅蓮(だいぐれん)」という言葉がある。

大紅蓮地獄の略らしい。

人は死ねば、生前に悪行を積んだ者については、地獄に堕ちてその責め苦を受けるという。

地獄の主こと閻魔大王による罪の裁きを受け、獄卒である鬼たちによって罰を与えられるというそれである。

仏教における地獄には「八大地獄」といって8種もの階層があるとされる。

これは「八熱地獄」、すなわち熱気による刑罰を受ける地獄のことを指し、そのそばに存在するのが「八寒地獄」である。

大紅蓮地獄とは、この八寒地獄の8番目に数えられる。

ここに堕ちた者は、あまりの極寒のため、折れ曲がった全身の皮肉が裂けて流血するという。

この様相を紅色の蓮の花に見立てたことから「だいぐれん」と呼ばれるようになったようである。



伝説の最後、鬼婆こと小田村の某老婆は、この酷寒の地獄に突き落とされてしまったのだろうか。

であるなら、人道に外れた犯罪者でもなく、少々の乱暴者とはいえ性悪というだけの老婆をどこか気の毒に思わなくもない。

紅蓮(紅蓮華)といえば、燃え盛る炎にたとえられるものである。

老婆の燃えたぎる恨み怒りの情念は、最終的に高僧の法力によって焼き尽くされてしまったということにしておきたい。




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鳥山石燕によって描かれた「死霊」は、鬼(般若)のごとき相貌の老婆。安永5(1776)年『画図百鬼夜行』より




参考:『糸島伝説集』同編集委員会 編(糸島郡観光協会1973年)
   『水木しげる妖怪大百科』水木しげる 著(小学館2004年)
   『筑前国續風土記』貝原篤信 著(名著出版1973年)
   『筑前国續風土記附録(下巻)』加藤一純・鷹取周成 著(名著出版1978年)
   『糸島郡誌』糸島郡教育会 編(名著出版1972年)
   『怡土志摩地理全誌2 志摩編』由比章祐 著(糸島新聞社1999年)




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現在の小田の地に構える寺院は、大静寺(画像上)と寿福寺(画像下)のみ


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posted by 由比 貴資 at 21:55| Comment(0) | 糸島伝説
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