『勝利の翼号』──大空を征く希望の象徴
それはまだ、空が完全に敵のものではなかった頃の話。
ラプチャーが地上を焼き払い、人類が滅亡の淵に立たされながらも、わずかな希望を抱いていた時代。
対ラプチャー戦の切り札として建造された巨大空中戦艦――《勝利の翼号》。
都市ひとつを丸ごと浮かべたようなその艦は、まさに人類の誇りであり、「空に浮かぶ最後の砦」と呼ばれていた。
鋼鉄の装甲に覆われた甲板では、昼夜を問わず出撃の準備が続き、無数の戦闘機やヘリが待機している。
その格納庫の一角には、鋼鉄の肌をもつ“人類のもうひとつの希望”――ニケたちの姿もあった。
なかでも、伝説的な名を持つ部隊がある。
《ゴッデス部隊》。
“勝利の女神”と呼ばれ、戦場に現れるたびに戦況を覆すとまで言われた、精鋭中の精鋭だ。
その一員として、ひとりのニケが艦内を歩いていた。
黒い装束を纏い、腰には一本の刀。
鋭い視線と静かな足音が、艦内の重い空気を切り裂く。
彼女の名は――紅蓮。
ゴッデス部隊の最後に合流した、異質の戦士。
凛とした佇まいの奥には、烈火のような闘志を秘めている。
しかし、その表情は今、珍しく険しかった。
紅蓮の脳内には、先ほどの屈辱的な光景が何度もフラッシュバックしていた。
格闘訓練でリリーバイスに挑み、返り討ちにされたのだ。
「……くそ、また負けた。なにが足りない……?」
拳を握りしめ、通路を歩く紅蓮の目は、静かな怒りに揺れていた。
彼女は自らを責める。敗北を恥じる。そして、鍛錬を誓う。
だがその時――
「……ん?」
鼻腔をくすぐる、未知の香り。
紅蓮の嗅覚センサーが、異質な匂いを捕らえた。
焦げるような、しかしどこか甘く落ち着く香気。
「……この匂いはなんだ? ドロシーの紅茶とは違う……」
理性では理解できぬまま、足が勝手に動いていた。
艦内の片隅。
普段なら誰も通らぬ補給区画の一角。
その奥まった通路に、ひとつだけ――生活の気配を放つ扉があった。
ーーーーーー
紅蓮は扉の前に立つと、わずかに眉を寄せる。
「……人の気配?」
扉を押し開けた瞬間、ふわりと暖かな空気と香ばしい香りが流れ込んできた。
そこは倉庫の一室とは思えぬほど整然とした空間だった。
窓から差し込む陽光が柔らかく床を照らし、机の上には書物やカップが並んでいる。
まるで戦艦の中だけ時間が止まったような、静謐な場所だった。
そして、その奥――
簡素なキッチンの前に、一人の男が立っていた。
「……おや、珍しいな。ここには誰も来ないと思っていたが」
低く穏やかな声が響く。
振り返った男は、微笑みながら紅蓮を見た。
紅蓮は、なぜかその笑みに胸が微かに波立つのを感じた。
「突然開けてすまない。この匂いは、なんだ?」
男は手元のカップを掲げ、柔らかく言う。
「これか? “コーヒー”だよ。飲んだことは?」
紅蓮は小さく首を振った。
「いや、あいにくと私はお茶が好みだ。コーヒーは飲まない」
「それは残念だな。――良ければ、一杯どうだい?」
男は穏やかに笑い、机の上にもう一つのカップを置く。
差し出されたそれは、まるで選択肢など存在しないかのような自然さで。
紅蓮は一瞬だけ躊躇したが、やがて静かに椅子を引いた。
「……では、一杯だけ。いただこう」
カップを持ち上げ、そっと香りを吸い込む。
焙煎された豆の芳香が、鼻腔を優しく包み、心のざわめきを静めていく。
「お茶とはまるで違うが……この香り、悪くない」
「お、分かるかい?」と男は嬉しそうに頷いた。
「豆によって香りも味も違うんだ。お茶の葉と同じようにね。そこが面白い」
ふと、紅蓮の口元に小さな笑みが浮かぶ。
自分でも気づかぬうちに、表情が和らいでいた。
だが――次の瞬間、ハッとしたように顔を引き締める。
『……なにを笑んでいる、私は。警戒を怠るとは……』
己に小さく叱責を飛ばす。
だが、不思議なことに、この男の前では張り詰めた神経が自然と解けていくのだった。
紅蓮は改めて目の前の男を観察する。
年齢は三十代半ばほどか。
隆起する筋肉が服の上からでも分かる。
その姿勢、その呼吸、その瞳――
どれを取っても、ただ者ではない。
そして、彼女の本能が告げる。
『……この男、軍人か?』
気づけば、紅蓮の視線は無意識に鋭くなっていた。
その眼差しを受け、男は少し首を傾げて言う。
「……俺の顔に、なにかついてるか?」
紅蓮はハッとして、すぐに目を逸らす。
「あ、いや……失礼した。気に障ったのなら、謝る」
男は静かに笑った。
「まさか。――美人に見つめられて怒るほど、俺は狭量じゃない」
その一言に、紅蓮の呼吸が止まる。
「……っ」
頬が、熱い。
何かを言い返そうと口を開くが、言葉が出ない。
今まで、敵に刀を向けることしか知らなかった紅蓮の胸の奥に、得体の知れない動揺が広がっていった。
その瞬間、艦内の騒音も、遠くの通信音も、すべてが霞んでいく。
ただ、陽の光の中で微笑むその男だけが、
紅蓮の視界の中心にいた。
ーーーーーー
紅蓮は、手にしたカップを静かに傾けた。
琥珀の液体がゆるやかに波を描き、芳しい香りが鼻孔を抜けていく。
最初はその苦味に戸惑いを覚えたが──今は、舌の奥に残る柔らかな甘みが心地よい。
一口ごとに、胸の奥の棘のようなものが、少しずつ溶けていくようだった。
「……美味しかった。感謝する」
紅蓮は、ゆっくりとソーサーにカップを置いた。
その小さな音が、静寂の部屋に溶けて消える。
彼は振り返り、軽く笑った。
「口にあってよかった。……この豆は、地上で拾ったんだ。偶然ね」
淡々とした口調の奥に、どこか懐かしむような響きが混じる。
紅蓮は、そんな彼の横顔を黙って見つめていた。
その仕草、その立ち居振る舞い、どれもが軍人というには柔らかすぎた。
だが同時に、漂う空気は異様なまでに落ち着き払っている。
戦場をいくつも渡り歩いた者だけが持つ、あの独特の静寂──。
紅蓮の鋭い感覚が、彼がただの兵士ではないことを告げていた。
「君は、いつもここにいるのか?」
紅蓮の声は落ち着いていたが、その瞳の奥は探るように光っていた。
「申し訳ないが、貴方のような者を見たことがない。所属を教えてほしい」
彼は答えず、代わりに穏やかな笑みを浮かべる。
「俺はただの後方支援の兵士だよ。それ以上でも以下でもないさ」
短い沈黙。
紅蓮はその言葉を、まるで一太刀で斬り裂くように見据えた。
「……あくまで、真実は語らぬということか」
その声に棘はあったが、怒気はなかった。むしろ、微かな敬意が混じっている。
「それでいい。誰にでも、斬られたくない過去というものはある」
そう言って紅蓮は立ち上がる。
コートの裾がわずかに揺れ、鞘に納めた刀の鍔が、光を受けて鈍く光る。
出入り口へと向かう途中、ふと足を止め、振り返った。
「……また。ここに来ても、いいだろうか?その……コーヒーを、もう一度いただきに」
彼は、わずかに目を細めて笑った。
その笑みは、何故だか胸を温かくする。
「いつでも。俺はここにいることが多いからね」
紅蓮は静かに頷くと、今度こそ背を向けて歩き出す。
ドアが閉じると、彼女の足音が通路にこだました。
その歩みは軽く、普段の彼女には見られないほど柔らかなものだった。
──通路を進みながら、紅蓮は考えていた。
あの部屋のことを、誰かに話そうとは思えなかった。
あの香り。あの空気。あの男の静かな声。
どれもが、自分だけの秘密であってほしいと願っていた。
胸の奥に、奇妙な感情が芽生えていた。
それが何なのか、まだ名前を知らない。
だが確かに、紅蓮は感じていた──
「また、あの部屋へ行きたい」と。
自然と、唇の端が緩む。
それを見た通りがかりの整備兵たちは思わず目を丸くした。
ゴッデス部隊の剣・紅蓮が、微笑んでいる。
──後に、その日の紅蓮は誰が見ても上機嫌で、
リリーバイスとレッドフードに
「何があった?」
と問い詰められる。
しかし、彼女はいつもの冷静な笑みを浮かべてこう答えるのだ。
「……別に。少し、美味しい飲み物に出会っただけだ」
その言葉の奥にある熱を、誰も知らないまま。
ーーーーーー
──空中戦艦「勝利の翼号」。
その巨躯は大空をゆるやかに進み、船体を包む風が静かな唸りを上げていた。
地上では戦火が絶えず、ラプチャーとの終わりなき戦争が続いている。
だが、その中にあっても艦内のある一室──「誰も知らぬ小さな部屋」には、静寂と香りに満ちた時間があった。
次の日も。
そしてその次の日も、紅蓮は暇を見つけては、あの部屋へと足を運んでいた。
理由は単純だ。あのコーヒーを飲みに。
そして──そのコーヒーを淹れる“男”に、会うために。
扉を開けると、柔らかな陽光と焙煎された豆の芳香が迎える。
その香りは戦艦の金属臭を忘れさせるほどに穏やかで、紅蓮の心を落ち着かせた。
男はいつものように、黙々とコーヒーを淹れている。
その所作には一切の無駄がなく、研ぎ澄まされた職人の手並みだった。
紅蓮は椅子に腰を下ろすと、自然と口を開いていた。
「まったく、ドロシーには困るのだ。ああやってお高く止まっているから、足元を掬われるのだろうに」
「困ったお人だな」
「どうすれば、リリスに勝てるだろうか? 今の私には何かが足りないのだろうか」
「それは俺に聞かれても分からないよ。ただ……言えることは、貴女は十分に強い。それは確かだ」
男の言葉は、静かに、しかし確信を持って紅蓮の胸に届いた。
戦場では幾度となく「強い」と言われてきた。
だが、それは戦士としての評価。
今の言葉には、もっと深い何か──彼女の“存在”そのものを肯定する響きがあった。
紅蓮は一瞬言葉を失い、それを悟られまいと話題を変える。
「レッドフードに刀を触られた。そればかりか、隠れて私の反応を見て楽しんでいるようだ」
「赤い彼女か……ふふ。しそうなことだ」
彼は紅蓮の愚痴にも怒らず、笑いながら相槌を打つ。
それが不思議と心地よかった。
紅蓮は自分でも気づかぬうちに、日々の出来事、些細な悩み、戦いの迷いまでも口にしていた。
彼の前では、なぜか鎧を脱いでいられたのだ。
やがて、ふと沈黙が訪れる。
紅蓮は少し視線を落とし、静かに言った。
「……すまない。いつも私の話ばかりを聞かせてしまっている。たまには、君の話も聞いてみたい」
男は、カップを磨く手を止めた。
少しだけ間を置いて、穏やかに笑う。
「俺は、貴女が一生懸命に話す姿が好きだったんだが」
──その瞬間、空気が止まった。
『……す、好き?』
紅蓮の思考が一瞬で真っ白になる。
いつもの冷静さはどこへやら、顔が一気に熱を帯びていく。
「な、な、何を言っているんだ?! わ、私は! ただ、君の話を聞きたいと、それだけ言ったのだ!」
と、慌てふためきながら身を引く。
そんな紅蓮を見た男は、「すまない」堪えきれず笑った。
そして、ゆっくりと話し始める。
「俺の将来の夢だが──」
紅蓮の動きがぴたりと止まる。
「将来の夢?」
戦場の只中で、その言葉はあまりに現実離れしていた。
男は頷き、カップを置いて小さく息を吐く。
「俺は、この戦争が終わったら、喫茶店を開いてみたいんだ」
その声には不思議な力があった。
戦場では聞くことのない穏やかさと、未来への希望。
紅蓮は思わず彼を見つめる。
「喫茶店……?」
「そう。自分で豆を選び、淹れて、客を迎える。心が安らげる場所を作りたいんだ。そして、帰る場所のない人たちの、拠り所でありたい」
語る彼の瞳は、どこまでもまっすぐで、眩しいほどに澄んでいた。
紅蓮は、その姿を見ながら息を呑む。
その横顔は、夢を語る少年のようでありながら、確かな覚悟を感じさせた。
──戦うためだけに生まれた私には、こんな夢を語る資格はあるだろうか。
そんな考えが脳裏を過ぎり、胸が締めつけられる。
紅蓮は小さく笑い、俯きながら言った。
「……良い夢だ。では、自分の店を持った時は“マスター”と名乗るのかい?」
男は少し驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと笑う。
「“マスター”か。いい響きだな」
その言葉に、紅蓮もつられて微笑んだ。
彼女は空になったカップを指で押し出す。
「では──“マスター”。おかわりを、もらえるだろうか?」
男は目を見開いたあと、ゆっくりと笑みを深める。
「はい、ただいま」
手際よく豆を挽き、湯を注ぐ。
その所作はまるで儀式のように美しく、香りが空間を満たしていく。
紅蓮はその背を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「そうだ、店が出来たら私専用の席を用意してくれるのだろうね?」
「分かったよ。その時は用意してくるのを待っているよ」
──それは戦場では決して得られない、穏やかな時間だった。
ーーーーーー
ふと、紅蓮は思い出したように尋ねた。
「ところでマスター? ここには、私以外は本当に来ないのか?」
男は手を止めて首を傾げる。
「うん? ああ、貴女だけが来ているよ。こんなむさ苦しい男に付き合ってくれる女性なんて、なかなかいないからね」
その冗談めかした言葉に、紅蓮は頬を染め、思わず視線を逸らす。
「そ、そうか。……別に私は、マスターをむさ苦しいとは思っていない。
むしろ、話しやすくて……一緒にいると、心地良いとすら思っている……」
マスターはその言葉に、微笑み一言。
「ありがとう」
その一言に、紅蓮の胸が跳ねる。
そして、また顔に熱が集まるのを感じた。
「そ、そんなことより!」
と咄嗟に顔を寄せ、話題を逸らす。
「マスター。そろそろ、私を名前で呼んでくれても構わないのだが?ずっと“貴女”ではむず痒い」
男は笑いながら頷き、
「それは失礼した。じゃあこれからは呼ばせてもらうよ、ぐれ──」
──その瞬間、ドアが開いた。
「もし? どなたかいらっしゃ……いま……」
ピンクの髪が差し込む。
ドロシーだった。
そして彼女は、紅蓮とマスターが至近距離で顔を見合わせている光景を見て──頬を真っ赤に染める。
「こ、これは失礼いたしましたっ!」
バタン、と勢いよく扉が閉じられた。
紅蓮は一瞬固まる。
次の瞬間、弾かれたように立ち上がると、慌ててドアへ向かう。
「ま、待て! 勘違いをするな!!」
出ていく寸前、紅蓮は振り返り、マスターを見た。
「マスター! すまない、また今度来る!」
その瞳は、どこか名残惜しげで。
男──マスターは小さく笑い、カップを拭きながら呟く。
「……待ってるよ、紅蓮。俺の──初めての常連さん」
その声は、静かな部屋にいつまでも残響のように漂っていた。
ーーーーーー
紅蓮がマスターの部屋へ通っている――その事実が、ゴッデス部隊の中で公然の噂となった。
発端は、彼の淹れる香り高いコーヒーに惹かれてドアを開けたドロシーの、ほんの一言だった。
それ以来、紅蓮がその部屋に足を運ぶと、そこには必ず誰かがいた。
「あら、紅蓮じゃない。いらっしゃい」
と優雅に微笑むリリーバイス。
「お、紅蓮じゃん!! 邪魔してるぜぇ〜」
と悪びれもなくカップを掲げるレッドフード。
別の日には、
「ふふ……マスターはお話がお上手ですね」
とドロシーがマスターに異様なほど距離を詰め、紅蓮はその姿を引き剥がすようにして小競り合いを起こした。
紅蓮にとって、あの静かな部屋は心の拠り所だった。
戦場で心が荒みそうになった時、彼の笑顔とコーヒーの香りが、どれほど心を救ってくれたか。
しかし、今やその場所はゴッデス部隊全員の社交場と化していた。
彼女だけの「安らぎ」は、もう彼女だけのものではなくなっていた。
ーーーーーー
戦況は悪化の一途を辿り、紅蓮は転戦を重ねる日々を送っていた。
激戦の連続、仲間の負傷、焦げつくような緊張。
あの部屋の香りを思い出す余裕すら失っていた。
――ようやく、戦線が落ち着いた。
紅蓮は誰にも告げず、あるいは告げることで誰かに先を越されることを恐れるように、静かにマスターの部屋へと歩いた。
足取りは疲れていたが、その胸の奥には久しぶりの安堵があった。
出発前、彼女は皆に釘を刺していた。
『今日は私がマスターの所へ行く。お前達は絶対に来るな』
すぐにドロシーが噛みつく。
『何故ですか? マスターは貴女のものではありません。それに指図される謂れもありません』
ラプンツェルが微笑みながら同調する。
『私も、あの殿方とのお話は楽しいので、また行きたいのですが……』
レッドフードは大声で笑った。
『おれだってあの男前と話してぇよ! 今まで内緒で会ってたくせに、せこいって!』
紅蓮は唇を噛みしめ、やがて静かに言う。
『……すまないと思っている。だが、今日だけは私に譲ってくれ。次は、邪魔をしない』
その言葉にドロシーがひとつ息を吐き、腕を組む。
『いいでしょう。しかし――今後、私とマスターの間を邪魔することは許しません』
まるで、マスターは自分のものであるかのような声音だった。
その言葉に、紅蓮の胸が小さく痛んだ。
リリーバイスは、ただ静かに笑ってその様子を見ていた。
ーーーーーー
「はぁ……」
ため息がもれる。
連戦による疲労が、身体だけでなく心にまで染みついていた。
しかし、あのドアの前に立つと、胸がふっと軽くなる。
だが、何かがおかしい。
――香りが、しない。
紅蓮は小さく眉を寄せた。
いつもなら、部屋の前に立つだけでコーヒーの芳香が迎えてくれるはずだった。
だが今日は、それがない。
少しの不安を胸に、ドアを開ける。
そこには、いつもと同じ――いや、“いつも通りの笑み”を作っているマスターがいた。
だが、その笑顔の奥に、紅蓮は言葉にできない影を見た気がする。
「すまない、マスター。最近は……戦場が立て込んでいて、なかなか来れなかった」
紅蓮はそう言いながら、いつものように軽く微笑んだ。
マスターは穏やかに頷くと、
「知ってるよ。君たちがいるから、俺達は耐えることができているんだ。ありがとう、紅蓮」
と、柔らかく微笑んだ。
その笑みは優しい――だが、どこか遠い。
「……マスター?」
紅蓮は一歩踏み出す。
「いつものを、頼む」
いつものように、当然のように、あの香りを求めて。
だがマスターは、動かなかった。
代わりに、ほんの少し哀しげな笑みを浮かべた。
「……すまない、紅蓮」
その声には、何かを悟らせる痛みが滲んでいた。
「俺はもう……コーヒーを淹れられないんだ」
「……え?」
紅蓮の瞳が、揺れる。
まるで、時間が止まったかのように。
マスターは静かに、自らの左袖を捲り上げる――そこには、何もなかった。
腕が“あった”はずの場所に、ただ包帯が巻かれている。
右手の指も二本欠け、膝下から先の右足は――存在せず、代わりに簡易的な義足がはめられていた。
「なっ……ど、どうした!? どうしてそんな――!」
紅蓮は思わず叫ぶ。
現実を拒むように首を振る。
戦場で幾多の死線を越えてきた彼女が、今ほど狼狽えたことはなかった。
マスターは、穏やかに微笑む。
「……ヘマをしたんだ。ラプチャーの攻撃を、躱しきれなかった。だが、部下の命は守れた。これくらいは安いものだ」
軽く言うその口調が、かえって痛ましかった。
「違う!そうじゃない!」
紅蓮は震える声で叫ぶ。
「マスターは後方支援のはずであろう!なぜ前線に!? なぜ、こんなことに――!」
マスターは、少し視線を伏せ、そして静かに言う。
「俺は……兵士だよ。街を守るために、命令で出た。なんとか踏ん張ったんだが……このザマだ。でも――君たち、ゴッデス部隊が来てくれたおかげで、生き残れた。君のおかげだ、紅蓮」
紅蓮の視界が、ぼやけていく。
心臓の奥を、冷たい手で掴まれたような痛み。
「……なら、私たちがもっと早く着いていれば……マスターは、こんな怪我をせずに済んだのか……?」
「違う」
マスターの声が、紅蓮の思考を断ち切った。
その眼差しは、まっすぐに紅蓮を捉える。
「君たちが来てくれたから、俺は生きている。部下も生き残った。君が責任を感じることはない」
その言葉と同時に、マスターは右腕――唯一残った腕で紅蓮の肩に触れた。
温かい。確かな体温。
「……それに、俺は案外、頑丈なんだ」
と冗談めかして笑う。
だがその笑みは、涙が滲むほど優しかった。
紅蓮は震える体を抱きしめるように自らの両腕を回し、嗚咽を漏らす。
「す……まない……本当に……すまない……」
その小さな声は、懺悔のようで、祈りのようだった。
次の瞬間、マスターは紅蓮を静かに抱き寄せた。
「……え」
紅蓮の瞳が大きく見開かれる。
マスターの胸に押し当てられた頬から、鼓動の音が伝わってくる。
「紅蓮。……俺の心臓の音が聞こえるか?」
「……あぁ……」
涙で濡れた頬のまま、紅蓮は小さく頷く。
「俺は生きてる。……大丈夫だ」
その声に、不思議と心がほどけていく。
戦場でも感じたことのない安堵。
温もりと、鼓動と、命の重さ。
紅蓮は、彼の胸の中で静かに息を吐く。
けれど――次の言葉が、再び彼女を現実に引き戻した。
「紅蓮。……俺は、この負傷で戦えなくなった。だから、この艦を降りなくてはならない」
「……え?」
紅蓮は瞬きを忘れた。
「降りる? この艦を……離れるのか?」
マスターは、苦笑する。
「地上に降りて、義手と義足をつけてもらう。そして……また戻ってくる。ここに。紅蓮のもとに」
「だから――待っててくれ」
その言葉は、静かな誓いのように、紅蓮の胸に刻みつけられた。
愛おしい。
離れたくない。
もっとこの人のそばにいたい。
抑えきれない想いが、瞳からこぼれ落ちる。
「……あぁ。分かった。……待っている。君を」
その声は震えていたが、確かな意志を宿していた。
ふたりの顔が、ゆっくりと近づく。
紅蓮の視界に、マスターの瞳と唇だけが映る。
そして、静かに――唇が触れた。
「……んっ」
それは、誓いのような、祈りのような口づけだった。
戦火の中で、確かに生きていることを確かめ合うように。
長い沈黙の後、マスターは紅蓮の髪を撫でながら、苦笑した。
「……すまない。こんな時に、勢いでキスなんて」
紅蓮は、涙を拭いながら首を振る。
「いや……私は、嬉しかったよ」
そして、彼を抱きしめ返す。
それは、言葉よりも強い肯定の抱擁だった。
しばらくして、紅蓮は小さく微笑む。
「マスター……。もう一度、コーヒーを淹れてくれないか?」
マスターは驚きの表情を浮かべた。
「だが、この身体じゃ……」
紅蓮は微笑み、首を横に振る。
「大丈夫。私が手伝う」
そして、二人は寄り添うように、ゆっくりとコーヒーを淹れた。
震えるマスターの指を、紅蓮の手がそっと支える。
香りが立ちのぼる。
それは、初めて出会ったあの日と同じ香り。
マスターはカップを紅蓮の前に置く。
「はいよ。俺と紅蓮の……スペシャルブレンドだ」
少し照れたような笑顔。
紅蓮はふっと笑う。
「ふふ……なんだいそれは」
彼女は一口、静かに口に含む。
豆の挽きは荒く、蒸らしも足りず、味は少し薄い。
だが――不思議なことに、涙が溢れた。
「……美味しい」
心の奥でそう呟いた。
今まで飲んできたどんなコーヒーよりも、温かく、優しく、そして――愛しかった。
ーーーーーー
マスターが艦を離れる日。
艦の格納デッキには、ゴッデス部隊の全員が整列していた。
風が吹き抜け、金属の床を擦る靴音が小さく反響する。
輸送機のエンジンが低く唸りを上げるなか、隊員たちは皆、彼の前に集まっていた。
「マスター! また戻ってきますよね? もっとお話がしたかったのに……」
目を潤ませながら言うドロシーの声。
「なぁ、男前マスター。次に戻るときはさ、オススメのカセットテープ、頼むぜ」
軽口を叩くレッドフードも、笑っていながらその目の奥は寂しげだった。
「あの、マスター? もし……もしよければ、帰ってきた時は、私の部屋で話しませんか? そして……その時は、ハァ……ハァ……❤️」
ラプンツェルの過剰な誘いには周囲から一斉にため息がこぼれたが、誰も彼女を止めようとはしなかった。
そして最後に、スノーホワイトの静かな声が響いた。
「必ず戻ってきてくださいね。みんな、マスターを待っています。もちろん、私も……」
一人ひとりの言葉に、マスターは困ったように笑みを浮かべる。
彼の笑みは、優しく、穏やかで、けれどどこか遠くを見ているようだった。
――少し離れた場所。
紅蓮は静かに佇んでいた。
その横に立つリリーバイスが、肘で軽く突きながら囁く。
「あなたは行かなくていいの? 最後のお別れ、したいでしょう?」
紅蓮は微笑んだ。
「私は大丈夫だ。……むしろ、他のみんなの方が、今は彼と話したいだろう」
その声は穏やかだったが、その瞳には確かな光が宿っていた。
信頼。
約束。
そして、再会を疑わぬ確信。
リリーバイスはその表情を見て、ふっと笑う。
「へぇ……そういうこと。貴女も、なかなかすみにおけないわね」
「なっ……! ち、違う! そういうものではない!」
紅蓮は顔を赤らめて否定する。
「……ただ、約束してくれたのだ。必ず戻ると。彼は、約束は破らぬ男だ」
彼女の視線の先――そこには輸送機へと歩みを進めるマスターの背中があった。
その瞬間、ドロシーがやたらとマスターの腕や胸を触りながら
「お手伝いしますね」
と言っているのを見て、紅蓮は心の底から斬り捨てたい衝動に駆られたが、どうにか堪える。
――今、取り乱すわけにはいかない。彼との約束があるのだから。
輸送機のタラップを上る直前、マスターがふと振り返る。
その目と紅蓮の目が交わる。
声は届かない。
だが、確かに聞こえた。
『――帰ってくる』
紅蓮は、そっと手を挙げ、唇を動かす。
『――待っている』
短い無言のやり取り。
それだけで充分だった。
轟音を上げて輸送機が上昇していく。
その白い航跡が空に消えても、紅蓮はじっと、いつまでもその方向を見つめ続けた。
……だが――。
彼が再びゴッデス部隊に戻ることは、二度となかった。
ーーーーーー
「ハッ……!」
滝壺の轟音が響く。
現代。
紅蓮は、隠れ家の寝台で飛び起きた。
額には汗が滲み、呼吸は荒い。
夢を見ていた。
遠い昔の夢を。
――コーヒーを淹れてくれた、彼の夢を。
「……はぁ……はぁ……。まったく、嫌になるね。随分と昔のことを……」
思考転換の副作用で多くの記憶が霞んでしまっても、マスターの面影だけは決して消えなかった。
彼の笑い方、手の温もり、そしてあの口付け。
どれもが鮮明で、熱く、忘れられない。
「……ふふ。もういないと分かってるのに、ね……」
紅蓮は膝を抱える。
「まだ、どこかで……コーヒーを淹れているんじゃないか。……そんなことを、つい考えてしまうよ」
――胸の奥が痛む。
彼がいない現実が、何よりも苦しい。
小さな嗚咽が漏れた。
「……っ……く……また、会いたい……君に、会いたい……」
震える身体を自ら抱きしめる。
けれど、もう彼の腕は、そこにはない。
やがて紅蓮は顔を上げる。
涙で赤く染まったその瞳に、再び力が宿る。
「いけないね……こんな顔、彼に見られたら笑われてしまう」
空を仰ぐ。
雲の切れ間から光が差す。
「見ていておくれ、マスター。君が信じてくれた“勝利の女神”として……私は、もう少し、もがいてみるとしよう」
その声は風に溶け、滝の音に飲まれていった。
ーーーーーー
同じ頃――。
アーク。
喫茶店《ルポ》。
穏やかなジャズが流れる店内で、マスターはいつものようにカウンターの奥に立っていた。
棚に整然と並ぶ豆の瓶。
磨き上げられたカップ。
その中で、ひときわ目を引くのは――カウンター正面、ぽつんと空いた一つの席。
「ねぇマスター?」
常連の女性が問いかける。
「その席、いつも空いてるけど……予約席なの?」
マスターは少しだけ笑って、答えた。
「……そうですね。予約席です。この店の"1人目の常連さん"のね。いつ来るか分からないんだけど」
「なにそれ。ロマンチックねぇ。きっと、その席に座りたいって女性、いっぱいいると思うわよ?」
「はは……そうかもしれませんね」
軽やかに笑いながら、彼はカップを磨く。
だが、その手の動きは、ほんの一瞬止まる。
客はケーキの話題に移り、その席のことはもう気にしなかった。
けれど、マスターの視線はそっと、空席へと向けられる。
その目は優しく、どこか切なかった。
『……もう会えないとは分かってるんだが、どうも女々しいな、俺は』
心の中で呟く。
あの日、交わした“約束”が、今も胸の奥で微かに熱を帯びている。
紅蓮は空を見上げ、
マスターは席を見つめる。
――互いに生存を知らぬまま、同じ想いを抱いて。
時を越えてもなお、
二人の心は、静かに交錯していた。
リクエストの紅蓮ですが、流石に地上にいる紅蓮とアークのマスターが会うのは無理があったので、こういう展開になりました。
いいですか?いいですよね?
なんか、1番恋愛してるけど、決して報われない感じがして、悲しくなりました笑
マスターの謎が深まりましたねー。
人間なのか、果たして機械なのか、徐々に分かってくるのかな?
続編希望
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D
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ルドミラ
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イーグル"アイラ"
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メアリー
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ジャッカル
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デルタ
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紅蓮(多分無理笑)
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その他