勝利の女神NIKKE 希望のカフェ   作:スウェーデンクラス

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第6話 職業軍人

バンッ――!

 

乾いた衝撃音が、ジム全体を震わせた。

一拍置いて、辺りからどよめきが湧く。

 

「マジかよ……」

「え、嘘だろ……ありえねぇ……」

 

誰一人として、目の前の光景を受け入れられずにいた。

 

リングの上。

人類が誇る戦闘兵器――ニケが、一人。

 

仰向けに倒れていた。

 

デルタ。

 

アークの治安と人々を守るため造られた存在。

戦闘力において、人間を凌駕することは常識。

訓練だけでも、人間は到底勝ち得ない相手。

それが現実であり、絶対の前提だった。

 

――その前提が、今。

 

音を立てて崩れ去っている。

 

『……なにが、起きた? どうして私は……倒れている?』

 

デルタは僅かな時間をかけて思考を再起動させていた。

視界が揺れ、耳鳴りが脈打つ。

意識の奥底に、確かな衝撃の余韻だけが残っている。

 

そこへ影が差し込んだ。

大きな手が、視界の端から差し伸べられる。

 

「大丈夫か?」

 

低く落ち着いた声。

大柄で、筋肉の鎧に包まれた男が、デルタを覗き込んでいた。

 

あの瞬間まで――話は遡る。

 

ーーーーーー

 

デルタは今日も日課の訓練を行っていた。

黒のスポーツブラに、動きやすいショートスパッツ。

露出は多めだが、無駄のない機能美が宿る肢体。

機械でありながら、血潮を思わせる温度を帯びた女。

 

その拳が、サンドバッグを叩くたび。

重鋼を詰めた特製バッグが、鈍く悲鳴を上げた。

 

打撃のリズムは正確。

動きは滑らかで、余裕さえ感じさせる。

その背には、汗が滲んでいた。

 

そんな彼女へ、軽薄な影が2つ近づいた。

 

「すみませ〜ん、お姉さん。ニケですよね?いつもアークのためにありがとうございます」

 

「いやぁ〜、スタイルすっげーっすね。やっぱ鍛えてるからっすか?」

 

明らかに浮いた空気。

汗ひとつかいていないトレーニングウェア。

目的は運動ではないことなど、誰が見ても明白。

 

このジムには“有名な存在”がいる。

トレーニングにかこつけ、女性をナンパしに来る連中。

その2人が、今日の標的を見定めたのだ。

 

――健康的な美貌。

――抜群の身体。

――そして、純真無垢な笑顔。

 

彼らの下卑た下心を刺激するには十分以上。

 

デルタは彼らの意図など知る由もなかった。

打ち込みを止め、汗を拭って小さく微笑む。

 

「ありがとうございます。市民の方々にそのように言っていただけるのは、とても嬉しいことです」

 

その微笑みに、二人は顔を赤くし、慌てて本題に入った。

 

「じ、実は俺たち、あんまりトレーニングしたこと無くて……」

 

「その、よかったら指導してもらえたらな、なんて」

 

嘘くさすぎる言い訳。

だがデルタは疑う術を知らなかった。

少し考えると、すぐに答える。

 

「分かりました。私でよければお手伝いします」

 

その笑顔には――悪意を知らない無垢さが宿っていた。

 

2人は歓喜し、

だがその喜びが、わずか数分後には悲鳴へと変わる。

 

――――――

 

「いいですよ。そのまま――あと五回いきましょう」

 

その声は柔らかい。だが、容赦はなかった。

 

「ぬわぁあああああっ!!」

 

60キロの重りを付けたベンチプレスが、男の胸元へ沈み込む。

顔は既に真っ赤を通り越して紫に近い。

筋肉は悲鳴を上げ、意識は遠のく寸前――。

 

それでもデルタは静かに告げる。

 

「はい、呼吸を止めないで。まだいけます」

 

筋力トレーニングが終わると、次は有酸素。

 

「筋力と有酸素を適切に組み合わせることで、身体能力は飛躍的に向上します。次はランニングです。短距離と長距離を交互にいきましょう」

 

「は、はぁ……はぁ……ぜぇ……ッッ!む、無理っ……!!」

 

「ぼ、僕も……オェッ……ゲホッ……!!」

 

足はもつれ、呼吸は酸素ではなく苦痛を吸い込んでいるよう。

だがデルタは淡々と、真剣に、優しささえ滲ませていった。

 

「大丈夫です。呼吸を整えましょう。まだいけますよ」

 

訓練開始からわずか一時間あまり。

二人の男は地面に放り投げられた洗濯物のように転がっていた。

 

両手両足を広げ、大の字。

天井を見つめる瞳は虚ろ。

魂はそこに置き去り。

 

周囲のトレーニーたちは、哀れみと納得の視線を向ける。

 

――あの二人は、完全にやられた。

 

デルタは小首を傾げ、心底疑問そうに言った。

 

「もう終わりに?まだトレーニング開始から、一時間と少ししか経っていませんよ?」

 

その無邪気な言葉は、ナイフより鋭い。

 

「お、お姉さん……容赦……なさすぎ……」

 

「むり……ほんとむり……です……」

 

デルタは、気絶寸前の二人を見てやっと納得したように微笑む。

 

「仕方ありませんね。今日はこれくらいにしましょう。本日お教えしたことを今後も継続すれば、すぐに成果が現れますよ」

 

慈しむような微笑み。

それだけで、倒れた男たちは奇跡の回復をみせた。

 

ガバッ!!

 

「じ、じゃあ! この後、暇だったりします?!」

 

「俺たちと、一緒に食事でも!!」

 

デルタの顔に困惑が宿る。

 

「お誘いありがとうございます。ですが私はこれから、もう少しトレーニングの予定があるので」

 

その表情が、また二人の煩悩に油を注ぐ。

 

「トレーニングなんて、もう十分じゃないですか!」

 

「そうっすよ!ここまで付き合った俺らの気持ち……汲んでくれてもいいんじゃないですか?」

 

態度が豹変する。強引な圧が生まれる。

 

デルタはきょとんと、頭に疑問符を浮かべた。

 

「? ですが、教えてほしいと頼んできたのはあなた方では?」

 

男の一人が舌打ちをした。

 

苛立ちと欲望が混じり――

ついに手が伸びた。

 

デルタの二の腕をつかむ。

 

その柔らかさに、男の目が一瞬、欲に濁る。

その瞬間。

音もなく彼の視界が回転した。

 

「え――?」

 

次に、彼の背中に地面の冷たさが突き刺さった。

 

デルタの足払い。

回避も抵抗も許されない、洗練された動き。

 

「なっ……?」

 

もう一人の男と、倒れた男本人は呆然とする。

 

デルタの瞳が、冷たく細められた。

 

「申し訳ありません。私は、無断で身体に触れられるのは得意ではありません……ある人を除いては」

 

その言葉には、微かな毒と、微かな優しさが紛れていた。

 

「それに、私は今から大切な方をお待ちしているのです。ですので、貴方達のご要望は――承諾できません」

 

拒絶。

その凛とした響きが、男たちの浅ましい欲望を切り裂く。

 

彼らは冷や汗を流し、視線を逸らすしかなかった。

 

その時、凍りついた空気を、落ち着いた声が割く。

 

「すまない。待たせたかな」

 

その瞬間――デルタの顔が、初めて「人間」に似た色を帯びた。

 

振り返る。

そこには――“大柄な男”が立っていた。

 

夕日に照らされた鋼の筋肉。

厳つい体躯とは裏腹の、静かに微笑む瞳。

 

デルタの胸が、戦闘以外の理由で高鳴る。

 

――「この人」だけには、触れられてもいい。

 

そう、本能が告げていた。

 

ーーーーーー

 

デルタは背筋を伸ばし、その姿勢を一切崩さぬまま、しかし、その声音には明らかな熱を宿して言った。

 

「教官、お待ちしていました」

 

張り詰めた空気の中、ただ一人の男がデルタのもとに歩み寄る。

彼は深く笑みを刻みつつ、どこか照れ隠しのように苦笑した。

 

「教官はよしてくれないか、デルタさん。私はしがないマスターだ」

 

その言葉に、デルタは僅かに視線を揺らし、子どものように唇を尖らせる。

 

「では私もデルタと呼んでください。さん付けは嫌です」

 

拗ねたような声音。

ふと、いつもの冷たく強靭な彼女ではない顔が覗いた。

 

男──マスターは、肩を竦めながら穏やかな声音で言う。

 

「これでもだいぶ砕けた口調なんだがね。せめて、カフェの常連さんには“さん”付けで呼ぶことにしてるんだ」

 

「そ、うですか……。残念です」

 

デルタは視線を落とした。

微かに揺れたその心を、彼は気づかぬふりをしたのか、それとも分かった上で見守ったのかーー真意は本人にしか分からない。

 

だがその空気を、荒々しく切り裂く足音が割り込んだ。

 

「ちょっとちょっと!今お姉さんは俺たちと話してるんだ。オッサンは離れててくれないか」

 

「そうだよ!何勝手に話に入ってきてんの?」

 

先程までデルタの瞳に怯えていた男たちが、彼女を奪われる危機を前に、焦燥を剥き出しにして絡みつく。

 

マスターは、静かにデルタを、そして男たちを見比べ、わずかに首を傾げた。

 

「うん?そうなのか?それはすまなかった。気づかなかった」

 

まるで本当に気づかなかったかのような柔らかな口調。

デルタはその言い方に狼狽え、慌てて声を荒げる。

 

「な、何を言ってるんです?!教官!違います!この方達とはもう話は終わってます!」

 

振り返りざまに2人の男を鋭い眼差しで睨みつけ、それからマスターへと必死に訴える。

 

――誤解されたくない。

その心は、火がつくほど純粋だった。

 

マスターは小さく息を吐き、視線を男たちへと戻す。

 

「と、言っているが。どっちの話が本当なのかな?」

 

穏やかな声だが、その内に宿るものは別。

 

「……言っておくが、うちの常連さんに迷惑をかける奴は、ただじゃ置かないぞ」

 

その瞬間、空気が一変した。

 

淡い陽射しが射し込む平凡なカフェの一角が、突如として戦場に姿を変えたかのような、鋭利な圧。

 

その視線は、何百もの修羅場を生き延びた兵士だけが持つ、生死を分ける現実の匂いを纏っていた。

 

男たちは喉を震わせ、言葉を失う。

 

デルタはそんなマスターの横顔に、抑えきれぬ熱を帯びた視線を向けていた。

 

(……私のために、怒ってくれている)

 

その胸の奥で、張り詰めた氷が音を立てて崩れる。

マスターはふっと威圧を解き、デルタの方を向き直る。

 

「よし、じゃあ問題は無いかな?デルタさん、トレーニングをしよう」

 

デルタは即座に応える。

声は明るく、迷いの欠片もなかった。

 

「はい!」

 

彼のもとへ向かおうと一歩踏み出す――

その時。

 

さきほどの男の一人が、激情に任せて手を伸ばす。

デルタの細い手首を掴もうと──。

 

だが。

 

その手は、決して彼女に触れなかった。

 

代わりにそれを掴んだのは、

節張りした大きな掌。

 

握り潰すかのような力で男の手を押さえ込む。

 

「いだだだだ!!」

 

悲鳴が上がった瞬間、マスターの声が静かに落ちる。

 

「女性の体に了承なく触るのはよしたほうがいい。これが、最初で最後の忠告だ」

 

その声音は、怒号よりも鋭く、強い威圧を放っていた。

男たちは蒼白になり、ただ黙って頷くしかない。

 

マスターは手を離す。

男は膝を震わせながら後退り、もう二度と近づこうとはしなかった。

 

デルタは、その横顔を見つめ続けていた。

 

胸の奥が焦げ付くほどに、

熱く、苦しく、だが幸福な感情が渦巻いていた。

 

ーーーーーー

 

人工照明が白く煌々と照らす、無機質なジム。

その中央──四角く切り取られたリングの上に、たった二人だけが向かい合って立っていた。

 

デルタは、しなやかに背筋を伸ばしたまま、深々と頭を下げる。

 

「教官、先程はありがとうございました。助かりました。少しだけ困っていたのです」

 

その声音は穏やかだが、目尻には申し訳なさと、どこか柔らかな喜びが滲む。

 

天井から降り注ぐ光は、研ぎ澄まされた彼女の肢体を際立たせる。

鍛え抜かれた筋肉がしなやかに引き締まり、戦士としての美しさと女性としてのしなやかさが同居していた。

 

マスターは静かに息を吐く。

 

「なんてことはないよ。ああいう輩は、分からせてやるのが一番早い」

 

口元に浮かぶのは、先程の威圧とは正反対の、大人の微笑。

 

そしてーー

苦笑しながら、彼は眉をわずかに寄せる。

 

「さっきも言ったが、教官はやめてくれないか?」

 

その言葉に、デルタの肩がかすかに揺れた。

彼女はマスターと初めて会った時のことを思い出すと。

それは、彼女が彼を"教官"と呼ぶことになる出来事だった。

 

ーーーーーー

 

当時、デルタはいつも1人でトレーニングを行っていた。

だが、その表情は孤独に沈んでいた。

 

ニケ。

戦うためだけに創られた、兵器。

 

ーーゆえに、誰も近づかない。

 

デルタはただひたすらに、サンドバッグに拳を叩き込んでいた。

衝撃でバッグが軋むたび、空気が震える。

周囲の者は目を逸らし、言葉を交わす者はいない。

 

それを破ったのは……柔らかな声だった。

 

『1人でやるのは面白くないでしょう?』

 

デルタの拳が止まる。

振り向くと、そこには長身で筋肉質な体を持つ1人の男がいた。

 

『私でよければ、お相手しますよ』

 

彼のその声を、デルタは冷ややかに断ち切った。

 

『結構です。私はニケです。人間の貴方には、私の相手は務まりません。怪我をするだけです』

 

自信ではなく、事実として。

世界の差だと。

 

だが、男は微笑んだまま言い放つ。

 

『それはどうかな?ニケといえども、技術が無ければ非力な人間にも負けるかもしれないよ?』

 

その瞬間。

デルタの瞳が燃え上がる。

 

ーー兵器としての存在そのものを否定されたようだった。

 

『……今なんとおっしゃいましたか?私に技術が無いと?』

 

打ち込みを止め、まっすぐ男を睨む。

 

普通の男なら、その気迫だけで膝を折る。

しかし彼は――微動だにしなかった。

 

『いいでしょう。では軽くスパーリングをしましょう。貴方が私に、一発でも打ち込めたら貴方の勝ちです』

 

デルタの宣告に、男は穏やかに頷く。

 

『わかりました。では、私が勝てばーー私の喫茶店にぜひ立ち寄ってくれないかな。いわばお店の宣伝ってやつ』

 

まるで散歩でもするかのような軽さ。

その余裕に、デルタは苛立つ。

 

『言っておきますが、怪我をしても知りませんよ。手加減はするつもりですが…』

 

男はグローブを締めながら答えた。

 

『お構いなく。いつでもどうぞ』

 

ゴングの音が脳内に響く。

デルタは最初から全力だった。

 

空気が裂けるほどの突き。

一撃で終わらせるつもりだった。

 

ーーだが。

 

『おっと、いい突きだ』

 

ただの一歩。

その一歩だけで、男はすり抜けていく。

 

外した拳の風が後方のロープまで震わせた。

 

デルタは次々と拳を放つ。

連撃。

正確無慈悲な連撃がマスターに迫る。

 

一発当たれば、人間は意識を手放すだろう。

それでも。

 

当たらない。

 

どれだけのラッシュを繰り出しても、

男は余裕の笑みを浮かべたまま、紙一重で回避する。

 

やがて。

 

『ハァ……ハァ……何故です?何故打ってこないのですか?』

 

デルタの息が荒れ、汗が肌を滑り落ちる。

美しい肉体が、敗北の影に震え始めた。

 

男は苦笑しながら言った。

 

『あまり、女性のことは殴りたくない』

 

女性――

そう扱われた瞬間、デルタの心が揺らぐ。

怒りか

羞恥か

それとも、兵器となって、初めて女性として扱われた嬉しさか

自分でも判別できない想いが込み上がる。

 

『何処まで私のことを馬鹿にするのです?!』

 

渾身の突き。

すべてをぶつけた拳。

 

だが――

 

デルタの視界いっぱいに広がったのは、

自分の顔すぐ目の前で止まっている男の拳。

 

一撃たりとも触れさせてもらえず。

逆に一発で終わらされる寸前の制圧。

 

完全なる敗北。

 

デルタは唇を震わせ、言うしかなかった。

 

『……ま、まいり……ました』

 

男はグローブを外しながら、優しく笑う。

その笑みが、とても温かった。

 

そして――

デルタは、それ以降、彼がジムに来ると教えを請うようになり、敬意を込めて呼んだ。

 

「教官」と。

 

兵器としてではなく。

一人の“女性”として扱った初めての人間に。

 

ーーーーーー

 

デルタの意識は、ほんの刹那、遠い記憶へ沈んでいた。

戦闘マシーンとしての痛みと命令、失った仲間たちの声──

そして、唯一そこに差し込んだ温もり。

 

(あの頃の私は機械。ただ命令に従い、戦い、壊すだけの存在だった)

 

胸の奥に沈殿する暗い影が、ふと蘇る。

だが──

 

「デルタさん?」

 

自分を呼ぶ声音が、闇を断ち切った。

デルタは肩を跳ねさせ、はっと我に返る。

 

「では、教官も私のことをデルタと呼んでください」

 

不意に強い声音で言い切る。

そこには、迷いを振り払った意志が宿っていた。

 

マスターは片眉を上げ、困ったように笑う。

 

「何故そうもマスターと呼ぶのを嫌がる?」

 

問いかけられ、デルタは唇を震わせる。

恥ずかしさが全身を駆け巡り、目線が落ちる。

 

小さく、囁くように紡がれる言葉。

 

「その…マスターと、呼ぶと、まるで……私の、ご主人様と……呼んでいる気がして…」

 

声はあまりに細く、マスターの耳には届かない。

 

「うん?デルタさん?何か言ったか?」

 

デルタは反射的に顔を跳ね上げた。

頬は熱に染まり、それでも瞳は揺らぎなく彼を見据える。

 

「では、私が教官に勝てばデルタと呼んでくれますか?」

 

その言葉は挑戦であり、願いであり、告白にも似ていた。

 

マスターは、大きく息を吐き出す。

少しだけ肩を竦め、面白そうに目を細めた。

 

「だったら、俺が勝った場合は、どうなるんだ?」

 

デルタは一瞬だけ怯み、だがすぐに胸に力を込める。

 

「その時は……教官が私に…その……して欲しいことを、なんでも一つだけ、聞いて差し上げます!」

 

思考が暴走しかけているのが誰から見ても明白で、

デルタの耳まで真っ赤になっていた。

 

マスターは返す言葉に困り、笑いが喉で漏れる。

 

「わかった。じゃあ何をするかは、デルタさんが決めていい」

 

デルタは息を整え、凛と告げた。

 

「なら、組み手でお願いします」

 

「組み手?いつもの軽いスパーリングではなくてか?」

 

これまで二人が積み上げてきた訓練の延長ではない。

勝負としての本気。それを望む瞳。

 

「はい。なので打撃は無しです。どちらかの背中を地面に倒した時点で勝負有りです」

 

その声音には確固たる自信があった。

 

(組み手なら──教官の巨体を利用できる。潜り込んでしまえば、私の勝ち)

 

デルタの中で、勝利への道筋が鮮明に描かれていく。

 

マスターはゆっくりと頷いた。

 

「わかった。それでいい。レスリングや柔道みたいなものだな?」

 

肩を回し、関節の鳴る小さな音が空気に弾ける。

次の瞬間、マスターは姿勢をぐっと低く落とした。

 

その身体から、見えない圧力が溢れ出す。

 

デルタの呼吸が浅くなる。

獣が牙を隠し、ただその存在だけで空間を支配していく。

視界が揺れるほどの威圧。

 

──この男は、本物だ。

 

一歩でも誤れば、即座に地へ叩き伏せられるだろう。

そう確信させる気迫。

 

マスターは短く、静かに告げる。

 

「さぁ、やろうか。いつでもいいよ」

 

そして二人は向かい合い、

 

闘いが──始まろうとしていた。

 

デルタの心臓が、銃声のように鳴り響く。

 

(今度こそ── “デルタ”と呼ばせてみせる)

 

ーーーーーー

 

リングの上には、沈黙が満ちていた。

デルタとマスター。

互いに一歩も動かず、ただ睨み合う。

ジムの照明が彼らの影を長く床に落とし、空調の低い唸りだけが音として存在している。

 

どちらも動けないのではない。

動かないのだ。

相手の呼吸の乱れ、視線の揺れ、わずかな体重移動――そのすべてが次の瞬間の勝敗を分けることを、二人とも知っていた。

 

デルタの瞳が、鋭くマスターを射抜く。

彼の体格は圧倒的だ。

長身、厚い胸板、無駄のない筋肉。

わずかに沈み込んだ姿勢だけで、とてつもない威圧感を放っている。

 

『まったく隙がありませんね』

 

その眼差しの奥に、デルタは畏怖と敬意を同時に抱いていた。

 

『流石です、教官。ですが――私にも、譲れない想いがあります』

 

その瞬間、デルタの足が一閃した。

リングの床を打つ音と同時に、彼女の身体は鋭く沈み込み、風を裂くようにマスターへ突進する。

反射的に視界が揺れ、筋肉が火花のように収縮する。

それはまるで、戦場を駆ける弾丸。

 

マスターは動かない。

 

『もらった!』

 

デルタの心が跳ねた。

確信に満ちた笑みが、口元に浮かぶ。

 

だが、その瞬間。

マスターの表情を見て、デルタの背筋が凍る。

動けないはずの彼が笑っていたのだ。

 

その笑みは、すべてを見透かした者の余裕。

“気づくのが一瞬遅れた”

そう悟った時には、もう引き返せなかった。

 

『誘われた!? ……でも、もう行くしかない!!』

 

デルタは迷いを振り切り、全身をぶつけるようにタックルを仕掛ける。

その肩が、マスターの腰に食い込む――だが。

 

「……っ、重い……! まるで、岩のよう……!」

 

腕に力を込めても、びくともしない。

全身の筋肉が軋む。

そんな中、マスターの低い声が頭上から響いた。

 

「うん、いいタックルだ」

 

その言葉と同時に、デルタの片足を掴む感触。

次の瞬間、視界が反転する。

 

天井が迫る。

床が背中を叩く。

乾いた音がリングに響いた。

 

――何が起きた?

 

視界がぼやけ、頭の中で疑問が渦を巻く。

さっきまで自分が攻めていたはずなのに、今は仰向けに倒れている。

 

……冒頭の光景へと、繋がる。

 

「大丈夫か?」 

 

マスターの声が優しく降り注ぐ。

伸ばされた手。

デルタはその手を掴むと、まるで羽のように軽く身体を持ち上げられた。

 

驚くこともなく、ただ静かに息を整える。

 

「完敗です、教官。……なにをしたのですか?」

 

マスターはわずかに笑い、汗を拭いながら答える。

 

「タックルに対するカウンターだ。俗に言う“応じ技”ってやつさ」

 

デルタの唇がわずかに吊り上がる。

 

「流石です……まさか、最初からタックルを誘われていたとは思いませんでした」

 

「身長差があり、さらに体格差もある。だからこそ、君が低い姿勢で仕掛けてくると読んでいた」

 

穏やかな声。

だが、その奥には確かな戦闘勘の鋭さが潜んでいた。

 

デルタは静かに頷くと、恥じらいを隠すように視線を逸らす。

その頬が、ほんのりと色づく。

 

「そ、その……負けてしまいましたので……約束の……教官の願いを一つだけ……聞いて差し上げます。……なんでも致しますので」

 

言い終えた途端、デルタの声は小さく震え、目が泳ぐ。

その仕草はあまりに初々しく、あまりに真っ直ぐで――無防備だった。

 

もしこの場に第三者がいたならば、誰もが息を呑んだに違いない。

その表情は、凛々しい戦士のものではなく、一人の女性としての照れと緊張に染まっていた。

 

一方でデルタの脳内では、別の物語が展開していた。

 

『私は“なに”を要求されるのでしょうか?……は!ま、まさか私が“する”のでしょうか!?』

 

彼女の思考は暴走を始める。

 

『ですが、何がきても大丈夫です! シグナルに教えてもらった本で予行練習は完璧です!』

 

『……さぁ、教官! 私の準備は万端です! 貴方を必ず喜ばせてみせます!』

 

真剣な顔でそんなことを思っている彼女を前に、マスターは何も知らずにただ穏やかに微笑んでいた。

 

ーーーーーー

 

リングの中に、静けさが戻っていた。

先ほどまで交錯していた鋭い視線も、激しい呼吸も、今はもう穏やかなリズムを取り戻している。

マットに落ちる照明の光が、二人の姿を柔らかく包んでいた。

 

マスターは軽く息を整えると、微笑みを浮かべて言った。

 

「じゃあ、俺のことは――これから“マスター”と呼ぶように」

 

一瞬、空気が止まる。

 

「……え?」

 

デルタの唇から、戸惑いの声が零れた。

その瞳はぱちぱちと瞬きを繰り返し、まるで聞き間違いを疑っているようだった。

 

マスターは肩をすくめて、少し照れくさそうに笑う。

 

「流石に、店の中で“教官”と呼ばれるのはまずいからな」

 

あまりにあっさりとした理由に、デルタは目を瞬かせたまま固まってしまう。

ほんの数秒の沈黙。

その後、わずかに眉尻を下げて、困ったような悲しいような笑みを浮かべながら、静かに詰め寄る。

 

「そんなことでいいのですか? もっと……違う“こと”でも、対応しますが……」

 

彼女の声は震え、頬が赤く染まる。

言葉の端々に、恥ずかしさと――ほんの少しの期待、そしてそれを打ち消すような残念さが滲んでいた。

 

マスターはその様子に苦笑し、軽く手を上げると、デルタの頭にコツンと小さなチョップを落とす。

 

「うぐっ……!」

 

不意の衝撃に、デルタは頭を押さえながら目を丸くする。

その姿に、マスターは堪えきれず吹き出した。

 

「まったく、君は……何を期待していたんだ?」

 

温かな笑いがリングに広がる。

デルタは耳まで真っ赤にしながら慌てて言葉を返した。

 

「い、いえっ! そ、そんな下心があったわけではありませんっ!」

 

そう言いながら俯き、頭をさすり続ける姿は、普段の凛々しい彼女からは想像できないほど可憐だった。

マスターはその姿に優しい視線を向け、ふっと息をつく。

 

「……ほら、さっさと続きをしよう。時間は有限だ。行くぞ――“デルタ”」

 

その一言に、デルタの肩がピクリと反応した。

 

「……はいっ!」

 

と返事をするも、表情はどこか嬉しさでほころんでいる。

 

しかし次の瞬間、ふと気づいたように目を丸くする。

 

「……いま、“デルタ”と呼びませんでしたか?」

 

マスターは少し頬を掻きながら、気恥ずかしそうに笑う。

 

「ほら、早く構えないと……俺から行くぞ?」

 

言葉と同時に、マスターが軽くステップを踏み込み、素早く打ち込んでくる。

デルタは反射的に構えを取り、腕でそれを受け止めながらも、笑みを浮かべて言う。

 

「いま、デルタと呼びましたよね!? もう一度呼んでください!」

 

その明るい声に、マスターは呆れたように息を吐きつつも、どこか柔らかい表情で答える。

 

「気が向いたらな」

 

再び二人は動き始めた。

打撃の音が小気味よく響き、汗が光を弾く。

だが、その空気は先ほどのような殺気を孕んだものではなかった。

 

そこにあったのは――

互いを信じ合い、心を通わせるような、温かな気配だけ。

 

踏み込み、受け、流し、笑い合う。

その一つ一つの動作に、どこか柔らかい絆が生まれていくように。

 

リングの上には、静かな安堵と微笑が残っていた。




悪い癖で、長くなりました笑
ちなみに、私はいつもベンチプレスを90キロでトレーニングしています。
最初は50キロもままならなかったのですが、今は90で出来てます!!(自慢!)
僕の推しランキング上位キャラのデルタでした!!

続篇希望

  • D
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