アーク。
それは地上に代わる、人類最後の避難所として築かれた巨大な地下シェルター。
陽光も、風も、四季さえも人工的に作り出される閉ざされた世界。
だからこそ、ここにも雨は降る。
それは自然現象ではなく、与えられた潤い。
しかし、濡れた路地に響く雨音は、外の世界のそれと何ら変わらず、孤独な心を容赦なく叩き続けた。
その冷たい雨を全身に受けながら、一体のニケが暗い路地を歩いていた。
背中を丸め、震える指先で壁に触れ、足を引きずるたびに水飛沫が散る。
ジャッカル。
エキゾチック部隊の一員。
アウターリムを監視し、テロの芽を刈り取る影の部隊。
普段の彼女なら、獰猛に笑いながら走るはずだ。
だが今は、歯を食いしばり、壊れた片足でどうにか前へと進むのがやっと。
「いったたた。……失敗したなぁ。隊長怒ってるかな?」
声は震え、雨音に溶けて消えた。
脳裏に浮かぶのは作戦前の光景。
薄暗くネオンが瞬くアジトの一室。
クロウが背もたれに身を預け、口の端を吊り上げる。
『いいか、ジャッカル。今回は情報収集だ。噛みつくのは無しだ。奴らの弱みを調べてくるだけでいい』
牙を向けるべき獲物は目の前にいるのに、噛みつくなという。
ジャッカルにとって、それは難しい注文だった。
『情報収集?なにそれ?!アイツらのアジトに行って、暴れてくればいいの?!』
獲物を前にした狂犬のように目を輝かせ、笑う。
バイパーは軽く肩をすくめ、艶やかな声でたしなめる。
『違う違う〜。まずは情報を集めるの。ジャッカルなら影に潜んでアジトの中に入れるでしょ?そ・こ・で、アイツらの弱点を見つけてきて欲しいのよ〜』
くすぐるような甘い声も、ジャッカルには少し難しい。
『うぅーーーん?よく分かんないよ!!私は何をすればいいの?』
眉を寄せ、まるで迷子の子供。
そこでクロウが深く笑い、的確に指示する。
『簡単だ、ジャッカル。お前は奴らのアジトの中に侵入して、盗聴用のマイクとカメラを仕込んでくるだけでいい。これなら分かるだろ?破壊はその後だ』
瞬間、ジャッカルの顔がぱっと花開く。
『わかった!!私はカメラとマイクを仕掛けてくればいいんだね?!』
『あぁ、そうだ。いい子だな』
その言葉に、彼女は誇らしげに胸を張った。
潜入は成功した。
暗闇を駆け、影と同化するように敵のアジト奥深くへ。
マイクも、カメラも、仕込んだ。
完璧な仕事だった――はずだった。
だが運命は、彼女の足元に小さな罠を置いた。
発見され、逃走。
クロウの言葉が脳内を走る。
『見つかった場合は逃げろ。暴れるんじゃないぞ。お前が暴れて奴らが逃げると元子もない。まずは奴らの目論見とボスの居所を判明させるのが優先だ』
命令を破りたくなかった。
褒めてもらいたかった。
だから走った。
しかし、気づけなかった。
床に仕掛けられた爆薬を。
爆発は、対ニケ用ではなかったのが唯一の救い。
だが、破片は肉体を裂き、壁は倒れ、逃走は命がけとなった。
そして今。
アークの冷たい人工雨が傷口に容赦なく打ちつける。
電力は損傷箇所の修復に回され、体温は奪われていく。
やっとのことで建物と建物の狭間に身を滑り込ませる。
壁にもたれ、膝を抱え、丸く小さく身を縮める。
『なんだか、疲れちゃったな。ここに座って待ってたら、隊長やバイパーが迎えにきてくれるかな?』
かつての勢いは消え、声は幼い不安を滲ませる。
滴る雨が、心の奥まで冷やしていく。
『……ちょっとだけ、休もう』
まぶたが重くなる。
ジャッカルは、壊れかけた身体を守るために自己防衛機能を低下させる。
意識と活動を削り、修復へと力を回す。
静かに、世界が遠ざかっていく。
その最中――
コツ、コツ、と足音。
雨音とは違う、はっきりとした存在の気配。
頭上の雨粒が止む。
傘が差し掛けられたのだと気づく。
「……たい、ちょう?」
雫に濡れた睫毛を震わせ、顔を上げようとする。
視界に人影が揺らぎ、安堵にも似た温もりが胸を満たした瞬間――
世界は、闇へと沈んでいく。
ーーーーーー
――いい匂いがする。
雨の冷たさが身体の奥深くまで染み込み、感覚は曖昧な霧の中にあった。
目を閉じたまま鼻腔をくすぐる、温かくて優しい匂い。
焦げた豆の香り、焼き立てのパンの香り、だしのような深みのある香り……。
知らない匂いなのに、なぜか胸の奥が安心してしまいそうな――そんな香り。
(ここは……どこ?私は……何をしていたんだっけ?)
濁った思考がゆっくりと形を取り始める。
隊長の命令。
潜入。
爆発。
雨の中で……倒れた。
(あぁ、そうだった……失敗したんだ。……それから、隊長か、バイパーが、助けてくれたんだ……)
重力に負けたまぶたを、意志の力で押し上げる。
少しずつ視界が開いていくと、頭上で静かに回るシーリングファンが見えた。
その回転が、ひどく柔らかく見えるのは――ここが安全だからだろうか。
微睡む頭のまま、扉の開く音がした。
「…隊長?!」
声が裏返るほどの期待を込めて、ジャッカルは勢いよく体を起こす。
だが、そこにいたのは――見知らぬ大柄な男。
分厚い胸板、縄のような腕、面構えには人を斃してきた影がちらつく。
一瞬で身体に電流が走り、ジャッカルは痛みを無視して臨戦態勢を取った。
「くっ…!…お前は誰だ?!ここは何処?!」
傷口が悲鳴を上げたが、それでも後退はしない。
本能が告げていた。
――この男は危険だ。
隊長やバイパーよりも、もっと……血の匂いがする。
逃げなければ。
一刻も早く帰らなければ。
そんな焦燥を見抜いたように、男は低く感心した声を漏らす。
「ほぉー。もうそこまで動けるのか。なら、大丈夫そうだな」
そう言うと、あっさり背を向け、扉へ向かう。
「待て!何処に行くつもり?!それに、ここは何処なの?!」
縋るような叫び。
振り返った男は、子犬の威嚇を面白がるように優しく目を細めた。
「ここは喫茶店だ。こっちに来な。腹が減っているだろ?」
そして、今度こそ本当に部屋を出ていった。
「……え?」
怒りと戸惑いと拍子抜けが胸の中でぐちゃぐちゃに混ざる。
どうして攻撃してこない?
どうして拘束しない?
どうして……優しい?
扉の向こうから、温かな声が響く。
『おお〜い。早く来ないと、冷めてしまうぞ』
警戒心を胸に張り付けたまま、ジャッカルはゆっくりと扉を開いた。
広がったのは――温かな光に満ちた世界だった。
大きな窓から差し込む穏やかな人工日光。
木の家具。
香ばしい匂い。
どこか郷愁を誘う、静かな喫茶店。
そして先ほどの男がテーブルに座り、ジャッカルを待っている。
机の上には、見たこともないほど多くの料理が並んでいた。
目を奪われ、思わず喉が鳴る。
「ほら、そこに座りな。まずは腹ごしらえだ」
男はコーヒーをひと口。
ジャッカルの胃がキュッと鳴る。
(な、なにここ……?こんな店、アウターリムには無かった……)
情報を集めねば――と脳裏にクロウとバイパーの教えが蘇る。
『何よりも情報が大事』
だから、座った。
慎重に、警戒しながら。
だが、次の瞬間――言葉を失った。
料理。
料理。
料理。
皿の隙間など見当たらないほど、色鮮やかに世界が埋め尽くされている。
「好みが分からなかったからね。とりあえずある物で作ってみた。食べれるものから食べな」
耳に入るが、頭では理解できない。
ただ、視界の中で湯気が揺れ、誘惑が波打つだけ。
(な、なにこれ?!これって……料理?!こんなにいっぱい……見たことない!)
理性が悲鳴を上げる。
(だ、ダメ……!絶対に毒だ!これで私を眠らせて……きっと何かするつもりなんだ!)
震えながら睨むジャッカルに、男は穏やかに言う。
「毒が入ってないか気になるのか?じゃあ……」
そう言うと、ひと皿を手に取り、迷いなく口へ運んだ。
飲み込む。
笑う。
「うん、上手くできたな」
その瞬間、ジャッカルの涎がテーブルに落ちた。
男は挑発するように、次の皿へ手を伸ばす。
「食べないのか?だったら俺が全部食べるぞ?」
「私がたべる!!」
思考より先に身体が動いた。
スプーンを奪い取ると、獣のように皿へ喰らいつく。
肉を、野菜を、スープを――息も荒く一心不乱に。
男はただ静かに、微笑んで見守った。
どれだけ時間が経っただろう。
空になった皿が山を築いていた。
食欲の嵐が止み、ジャッカルは大きく息を吐いた。
「ぷはぁーーー!!お腹いっぱい!もう食べれない!!」
満ち足りた笑顔。
その顔を見ると男は柔らかく笑った。
「それは良かった」
……しかし。
ふと正気を取り戻したように、ジャッカルの目が鋭く細まる。
「あなた誰?どうして私を助けたの?」
男は軽く肩を竦め、ため息を落とす。
「少しは警戒心が解けたと思ったんだけどね」
「なにそれ?!答えになってないよ!!」
苛立つジャッカルを宥めるように、男はゆっくり名乗った。
「みんなは俺のことをマスター、と呼んでいる。君もそう呼んでくれ」
「マスター……」
胸の中でその言葉が転がる。
名前を呼ぶという行為。
そこに宿る温度が、なぜか心を揺さぶった。
「さぁこっちは名乗ったんだ。君の名前は?」
瞳を向けられ、息が詰まる。
しばしの沈黙の後、絞り出すように答える。
「……私は、ジャッカルって名前」
マスターはすぐに、優しく微笑んだ。
「ジャッカルか、いい名前だ」
――心臓が跳ねた。
初めてだった。
部隊以外の誰かに、優しく名前を呼ばれたのは。
その温度を振り払うように、ジャッカルは顔を赤らめて叫ぶ。
「そ、そんなことよりここは何処なの?!早く私を解放?して!!」
マスターは愉快そうに笑った。
「ここは俺の店だ。解放と言うが拘束もしてないし、出ていくなら止めないよ。怪我は大丈夫なのかい?」
「こ、このくらいの怪我大したことないもん!!私は出ていくから!!」
勢いよく立ち上がろうとした――が。
足がもつれ、床が迫る。
「わわ!?」
衝撃は来ない。
代わりに、温かく大きな手がお腹に周り身体を支えていた。
「ほら、まだ治りきってないんだ。もう暫くここにいるといい。怪我が治って1人で歩けるようになったら、いつでも出ていっていい」
顔を上げると、マスターの微笑みがすぐ近くにあった。
ジャッカルは、なぜだか――その瞳から目を離せなくなった。
ーーーーーー
ジャッカルの警戒心は、生半可なものではない。
エキゾチック部隊──その名を背負う者たちの常識として、信頼は命より高価だ。
生き残るためには、決して心を許してはならない。
ジャッカル自身、それを知っている。
己の胸に鋼を纏い、決して他者を近づけてはこなかった。
……なのに。
目の前の男。
「マスター」と呼ばれるその人物に対してだけは、どうしてか、その鋼が音を立てて外れそうになる。
助けられてから数時間後──
ジャッカルはまだ店を出ることができていなかった。
いや、出ようと思えば出られた。
脚を引きずろうが、その気になれば外へ逃げ出すことなど容易い。
それでも、彼女は動かなかった。
喫茶店ルポの片隅に置かれた椅子。
そこでじっと、マスターの動きを追っていた。
カウンターには立て続けに客が訪れ、香り高いコーヒーが次々と淹れられる。
「マスター?注文お願いします」
「はいよ」
「おかわりお願い」
「はい、ただいま」
忙しない声が次々と飛び交っても、マスターの動きは乱れない。
滑らかで、どこまでも洗練され、そして温かい所作。
その姿を眺めていると──不思議と視線を外したくなくなった。
(どうして、こんな……)
胸の奥が落ち着かない。
ざわざわと落ちてくる何かに、彼女の本能が困惑する。
そんな折──
客の一人が、ジャッカルを指差すように尋ねた。
「マスター?あの子は?アルバイトでも雇ったの?」
ジャッカルの耳は、無意識にその言葉を拾っていた。
答えに興味はない……そう思いたかった。
だが、彼女は確かに聞こうとしていた。
この男が、どう答えるのか。
マスターが一度視線を向け、柔らかく、苦笑を浮かべる。
「可愛らしい子でしょ?まだ懐いてくれなくてね」
──可愛らしい子。
瞬間、ジャッカルの顔が熱を帯びた。
「わ、私は犬じゃない!!」
その言葉に自分でも驚くほど大きな声が出た。
反射的に立ち上がり、店の奥へ逃げ込む。
背後で客たちがくすりと笑った気がした。
部屋に入り、音を立てて扉を閉める。
胸の奥が、爆発でも起こしたように騒ぎ出す。
なんなの、この感情は。
こんな気持ち──知らない。
ベッドに突っ伏し、混乱を抱えたまま呻く。
『うぅ〜〜。なんなの?!どうしてこんなに、鼓動がうるさいの?!
もー訳わかんないよ!!』
思考が空回りし、心が追いついてこない。
そんなとき、ノックの音。
優しく、そっと。
『……ジャッカル?さっきはすまない。懐くなんて、動物に対して言うような言葉だった』
ドア越しに落ち着いて響く声。
その調子がまた苛立たしいほど優しい。
「うるさい!!あっちに行け!!1人にしてよ!!」
拒絶。
……でも、追いかけて来たことが嬉しいなんて思いたくなかった。
こんな感情、自分じゃない。
マスターはしばし静かに立ち尽くし──
『……分かった。もうすぐ閉店時間になる。それまでここで待っていてくれ』
足音が遠ざかっていく。
ジャッカルは顔を上げ、ドアを見つめた。
『……入ってこないの?』
疑念とも、期待とも言えない何かが胸に沈む。
『違う違う!寂しくないもん!ちょっと優しくされて、戸惑ってるだけ!!』
これ以上、考えたら壊れてしまう気がした。
布団にもぐり込み、眠りに逃げる。
『隊長、バイパー……こんなの知らないよ。早く会いたいよ……』
胸に溜まった不安と恋しさを抱きながら、眠りへ沈む。
ーーーーーー
再び、あの匂い。
温かくて、安心して、優しい……そんな香り。
目を開ける。
薄暗い部屋の中で、夕焼けがカーテンの隙間から差し込んでいた。
眠気を擦り、重い足を引きずって扉を開ける。
店内にはオレンジ色の柔らかな光。
夕日が窓から差し込み、カウンターを金色に染めている。
テーブルの上で皿を並べているマスターがいた。
その背中が、どこか懐かしいほど温かかった。
「起きたか?さっきはすまなかったな。ほら、夕飯にしよう」
微笑む声が、なによりも優しい。
その優しさがまた胸を掻き乱す。
いつもの元気は出ず、トボトボと席につく。
スプーンを持つ手が、ぎこちない。
食べ物を口に運ぶたび、知らなかった味が広がる。
温かい。優しい。……苦しい。
「大丈夫か?どこか痛むのか?」
その声に、ぴたりと手が止まる。
彼女は俯いたまま、震える声を落とした。
「……ねぇ。どうして私を助けたの?どうしてご飯を作ってくれるの?
……どうして、ここまで優しくしてくれるの?」
今まで生きてきた世界では、そんな疑問を抱くことすら、許されなかった。
「こんなこと、今までしてもらったことない。いつもは食って食われるかの場所にいたのに。こんなに優しくされたら、意味わからなくて頭の中ぐちゃぐちゃになっちゃうよ」
その言葉は弱さではない。
必死な叫びだ。
マスターは、穏やかな笑みを浮かべた。
「……なんでだろうな。誰かを助けるのに、理由なんてものは必要か?」
ただひたすらに温かみのある言葉に、胸が一杯になる。
「なにそれ。意味わかんないよ。それに、私はニケなんだよ?放っておいても、死んだりしない」
精一杯の虚勢だった。
「ニケだから、誰にも助けられないと?それは間違っている。ニケであろうが無かろうがーー目の前で助けを求めているなら、全力で助ける。それが大人の役目だと、俺は思う」
何度も壊れてきた心に、その言葉がそっと触れた。
それからしばらく、ジャッカルは黙って食事を続けた。
静かに、けれど確かに、胸の奥が温まっていく。
「美味しいか?」
声が届いた途端ーー堰が切れ、自分でも驚くほど涙が溢れた。
「……うん、うん。すっごく、美味しいよ」
頬を伝う涙に夕日が反射して、ジャッカルはまるで、泣いている理由さえ分からない子供のようだった。
マスターは何も言わず、ただそっと見守る。
夕焼けに染まった小さな喫茶店。
泣きながら食事をする少女と、
その涙を責めずに受け止める大人。
そこには確かにーー生きてきた世界では知らなかった、静かな幸福があった。
ーーーーーー
次の日もーージャッカルは喫茶店にいた。
その翌日も。
さらにその翌日も。
傷はとうに癒えている。
いつだって外へ出られた。
元いた世界に戻れる強さもある。
それでも、彼女は戻らなかった。
戻りたいと思わなかった。
喫茶店ルポの扉を開けるたびーー胸の奥が、少しだけ温かくなる気がしたから。
「ねぇ!マスター!?これってどこに仕舞うの?!」
元気いっぱいの声が店内に響く。
棚に立てかけた箱を抱えたジャッカルが、勢いよく振り向いた。
マスターは振り返り、笑みを浮かべる。
「それは裏の荷物置きだ。頼む」
「わかったぁ!!」
返事も弾むように明るい。
走っていくジャッカルの後ろ姿を眺めながら、マスターは思わず目を細めた。
最初にここへ来た時とは別人のようだ。
あの頃は、踏み込む者すべてを牙で威嚇する野生の獣のようだった。
今はーー笑っている。
「ジャッカル。これを3番テーブルに持って行ってくれ」
「任せて!!」
トレーをそっと抱え、落とさないよう慎重に。
気合いと緊張が入り混じった表情だが、目は輝いている。
「マスターもとうとう新しい子を雇ったんだね」
「若くて元気だねぇ。まるで看板娘だ!」
常連客の冗談めいた声に、マスターも肩をすくめて笑う。
「えぇ。助かってますよ。よく手伝ってくれるんです。自慢の看板娘です」
その言葉が聞こえた瞬間、ジャッカルの耳はぴんと立つように赤く染まった。
「ま、マスター!?次は、何をすればいい?!」
照れ隠しの声は、いつもより大きく。
元気に店を駆け回る姿は、まるで最初からここにいたかのようだった。
ーー1週間。
あの夜から、気づけばそんな時間が過ぎていた。
閉店後には食卓を囲み、マスターの料理を頬張り、その度に美味しいと笑う少女。
その笑顔が店内に灯りを灯す。
彼女はもう、この店の空気の一部となっていた。
そして──その日は突然やって来た。
客足が珍しく少ない静かな午後。
ジャッカルはほうきを手に、軽快に床を掃いていた。
「ピカピカにするからね!!」
「頼もしいな」
マスターもカウンター周りを片付ける。
穏やかで、誰も壊せないと思えるほどの時間。
……はずだった。
カランッ──
扉のベルが鳴る。
「いらっしゃい!マスター!お客さんだよ!!」
今やすっかり板についた声。
初めてこの店に来たあの日からは想像もできなかった姿だ。
しかし、店に足を踏み入れた人物を見た瞬間──ジャッカルの身体が硬直した。
黒い短髪。
鋭い目つきの奥に潜む、揺るがない闘気。
パンク調のジャケット。
肩からは裏社会の気配がこびりついている。
喫茶店には似つかわしくない“空気”。
ジャッカルが身に沁みて知る世界の匂い。
口が震え、絞り出す声。
「た……い、ちょう?」
世界が音を失った。
ジャッカルの顔に宿るのは驚愕、そして──
押し殺してきた、帰還の予感。
その女性は無言でジャッカルを見据えていた。
ーーーーーー
「隊長ーー!!迎えに来てくれたんだね!待ってたんだよ!!」
瞬間、ジャッカルは駆け出していた。
弾けるような笑顔。
どこかで失われたはずの少女らしい表情。
だが──その足は、クロウの前で止まる。
隊長と呼ばれた女、クロウは腕を組み、涼やかな瞳で笑った。
その笑みには、血と硝煙と裏切りの匂いが混じっている。
「待たせたな、ジャッカル。お前が仕掛けたマイクとカメラのおかげで、
奴らの組織は無事に解体できた」
誇りを滲ませた声。
それはジャッカルがずっと求めていた褒め言葉だった。
「……!じゃあ、終わったんだね……!」
「ほら、行くぞ。もうこんなところに隠れる必要はない」
クロウは踵を返し、ジャッカルの手を取って歩き出そうとした。
だが──その手は、引かれない。
「……?どうした、ジャッカル。早く行くぞ」
振り返った隊長の眉間に、深い皺が寄る。
ジャッカルは視線を泳がせ、それでも勇気を振り絞って言葉にした。
「……ねぇ、隊長。私……もうちょっと、ここに居てもいいかな?」
その問いは震えていた。
揺れていた。
これまでの彼女には無かった弱さが滲む。
クロウの瞳の奥に、怒りというよりも、理解を拒んだ冷たい色が宿る。
「……なんだと?」
ジャッカルは慌てて言葉を繋いだ。
「ち、違うの!そんな変な意味じゃなくて!
ここのマスターの料理って、本当に美味しいんだ!
隊長も食べてみてよ!ほら、今すぐ──」
精一杯の拙い理由を並べようとするが、クロウの言葉が遮る。
「ジャッカル。……ここの男に絆されたのか?」
その声音は、敵に向ける殺気となんら変わらない。
「バカなことを言ってないで、来い。役目を忘れたのか」
クロウは踵を返し、店を去ろうとする。
ジャッカルの胸が締めつけられる。
「待ってよ!隊長!!」
その声で、クロウの足が再び止まる。
ゆっくり振り返り、ジャッカルの前へと歩み寄る。
見上げるジャッカルの目に映るのは、憧れ、恐れ、そして……離れたくないという小さな願い。
「あのね……隊長。私──」
「黙れ」
乾いた音のような言葉が、少女の思いを断ち切る。
クロウは冷徹な声で言い放った。
「いいかジャッカル。私たちの居場所はアウターリムだ」
その言葉は、ナイフより鋭く突き刺さる。
「こんな温い場所じゃない。私たちはゴミ溜めで、生き延びるために意地汚く噛みつき続けるしかないんだ」
空気が凍りつく。
「ここの奴に何を吹き込まれたか知らないが──私たちの立ち位置を忘れるな」
クロウの威圧。
その存在すべてが冷たい空気を纏っている。
ジャッカルは、視線を落とし──震える唇で絞り出す。
「あ……うん……」
(そうだ。私は……ニケ。任務がある。居場所なんか、他に無かった)
俯いた瞳が揺れる。
指先が震える。
胸の奥で、何かが崩れ落ちていく。
ほんのつかの間の陽だまりのような日々は、クロウの冷たさだけで粉々に砕かれてしまうほど、脆かったのだ。
ーーーーーー
店内に満ちた沈黙は、氷点の刃のように張りつめていた。
クロウの言葉に、ジャッカルは唇を噛み、立ち尽くしている。
俯いた額から滑り落ちた息が、弱く震えていた。
その冷たい空気を破ったのは、柔らかな、しかし強い響きを持つ声だった。
「――あんまり、うちの看板娘を虐めないでくれるかな?」
振り返ると、カウンターの奥。
静かに姿を現したマスターが、ジャッカルを庇うように一歩前に出ていた。
その穏やかさが、この場だけ別の温度を持っている。
「マスター?!」
ジャッカルは顔をぱっと明るくし、小走りで駆け寄る。
その無邪気な笑顔が、クロウの視線を一瞬凍らせた。
ジャッカルが誰かに、そんな表情を見せる。
それが自分以外の誰かに。
理解が追い付かない。
「ジャッカル?その方はどなたかな?君の上司かい?」
優しく問いかける声。
その響きは、クロウの脊髄に異質な震えを走らせた。
『……危険だ』
クロウの心の奥底で、鋭い警報が鳴り響く。
――その声を聞くな。
――その優しさに触れるな。
――壊される。
それほどまでに、温かく、柔らかい声だった。
「うん!マスター!隊長は私の上司だよ!!隊長!この人は、ここのマスターだよ!!」
場違いなほど明るい声。
だが、クロウの眼はマスターから離れない。
マスターもまた、氷と炎の狭間でクロウを見つめ返していた。
視線が交錯し、火花が散る。
互いの存在を測り合う探りの眼差し。
沈黙だけが、二人の間に重たく落ちる。
やがてマスターが口を開く。
「私はここのマスターをしている。数日前、怪我を負っていたジャッカルを見つけてね。傷が癒えるまで、ここに居てもらっていたんだ」
彼は続ける。
ジャッカルを責めさせまいと前に立つ者の声で。
「だから、この娘は仕方なくここに居たにすぎない。あまり責めないでやってくれるかな」
「ぇ?待ってよ、マスター。ここに居たのは……」
『私の意思』
そう続けようとしたジャッカルの声を、クロウが遮る。
「あぁ、うちの隊員が世話になったようだ。礼を言う」
その声音には、感情の混ぜられていない礼節の刃があった。
続く言葉が、この場所に再び冷気を流し込む。
「聞いていたと思うが、私達の任務先はアウターリムの中だ。申し訳無いが、ここにジャッカルがこれ以上世話になるのは不味い。私達に悪感情を抱く奴らがこの店を襲わないとも限らない」
その言葉にジャッカルは思い至る。
――私のせいでマスターが狙われる。
『……どうして気付けなかったんだろう。私って、本当にバカだなぁ』
自嘲めいた笑みが、震える唇に浮かぶ。
だがマスターは、ジャッカルを見て微笑んだ。
「迷惑だなんて思っていないよ。むしろ、彼女のおかげで楽しかった」
その一言が、ジャッカルの胸を柔らかく撫でていく。
マスターの笑顔を見たクロウは、ふっと表情を緩ませた。
「……ジャッカルが懐くのも分かるな」
その呟きは、小さく、だが確かに僅かな熱を帯びていた。
「隊長?」
不安げに見上げるジャッカルに、クロウは短く命じる。
「行くぞ、ジャッカル。外で待ってる」
それだけ告げて踵を返す。
去りゆく背中へ、マスターが声を投げた。
「貴女もまた来るといい、コーヒーを飲みに」
クロウの足が、一瞬だけ止まる。
だが振り返る事なく、扉を出た。
静寂。
取り残されたジャッカルは、震える指先を握りしめながらマスターを見る。
「あのね!マスター。私ね!?」
伝えたい事は溢れているのに、言葉が見つからない。
マスターは、気遣うような眼差しで微笑む。
「あぁ。分かってる。もう行くのか?」
ジャッカルは噛みしめるように頷き、
「うん……でも!!こことマスターが嫌いになったからじゃ無いよ!!私にはやらなくちゃいけない事があるの!!」
――それに
これ以上迷惑をかけられない。
溢れそうな涙を押し込みながら。
マスターはゆっくりと首を振る。
「分かっている。君が居なくなるのは寂しいが、仕方ない。あんまり無理はするんじゃないぞ」
その優しさが、胸に痛く刺さる。
「う、うん!!マスターもね!働き過ぎたらダメだよ!!」
無理に笑って言うと、扉の方へ歩き出す。
だが、
「ジャッカル」
呼び止められて振り返った。
夕焼けの光の中で、マスターが静かに笑っていた。
まるでこの店そのものが、彼の背中から温もりを放っているようだった。
「行ってらっしゃい。また帰ってこい。ここはもう、君の居場所だ」
その瞬間――
胸が、きつく締め付けられる。
嬉しい。
苦しい。
寂しい。
愛おしい。
何ひとつ整理できないまま、涙が滲む。
けれど、ジャッカルは精一杯の強がりで。
「うん!! 行ってきます!!」
店を飛び出した。
外ではクロウが無言で待っている。
「来たか。行くぞ」
二人は並んで歩き出す。
俯くジャッカルの足跡に、ぽつぽつと水滴が残る。
クロウは無言でその頭に手を置き、乱暴に撫でた。
その手の温度だけが、彼女の心を支えていた。
そして、彼女達は地下社会の闇へと身を投じる。
自らの任務の為。
めっっっっっちゃ長くなりました(^◇^;)
せっかくリクエスト頂いたので、気合を入れたのですが、やり過ぎました。
ジャッカルって、なかなか話の中に入れるのが大変な子ですね笑
なんせバカの子だから笑
キャラが違うとかは、勘弁して下さい。
バカすぎると、それこそコメディになっちゃう笑
ほかにも、リクエストがあれば感想なので教えて下さい。
ちょくちょくマスターの話もやっていきたいなと思っています。
もしかして、クロウって、ちょろいか?笑