勝利の女神NIKKE 希望のカフェ   作:スウェーデンクラス

4 / 7




第4話 女医

医療従事者の朝は早い。

誰よりも早く目を覚まし、誰よりも多くの命を預かるための準備をする。

カルテを確認し、緊急患者に思いを馳せ、無数の予定を頭に叩き込み、会議の内容を整理する。

彼らの一日は、始まる前からすでに走り始めている。

 

この日も、アーク内の病院で働くメアリーは、まだ薄暗い時間帯にベッドを抜け出した。

寝ぼけ眼を擦りながら浴室へ向かい、シャワーの音が静かな部屋に響き渡る。

温かな水が、仕事へ向かう意識を呼び覚ますように肌をなぞる。

 

シャワーが止むと、バスタオルを巻いた彼女が現れた。

手際よく髪を乾かし、椅子に腰かけ、鏡に向かって化粧道具を並べる。

いつもと同じような朝のはずなのに、今日の彼女の手はどこか慎重で、そして……期待に震えていた。

 

ーー今日は、一週間に一度の“特別な日”。

 

普段は控えめな化粧しかしない。

医療従事者として、派手さより誠実さが求められると知っているから。

 

ーーでも、今日は違う。

 

指先が静かに震える。

リップスティックのキャップが開かれる音が、小さな期待を告げるように響いた。

 

「……ふふ。あの人は、どんな化粧がお好みなんでしょう?」

 

自分でも驚くほど自然に浮かんだ言葉。

誰かを想って化粧をする。

それは、彼女にとって久しく忘れていた、とても大切で、とても恐ろしい感情だった。

 

胸の奥に、くすぐったいような、苦しいような熱が灯る。

気づかないふりをしているだけで……本当は知っていた。

その熱の正体を。

 

でも。

彼女はニケで、彼は人間。

その間に横たわる深い断絶を、自覚してしまったら――。

だから敢えて、今日も気づかないふりをする。

 

身支度が整うと、いつもの一歩よりゆっくりと玄関に向かう。

心臓が早く打ちすぎないように、深く息を整えながら。

 

ーーーーーー

 

彼女が辿り着いたのは、とある喫茶店。

ルポ――毎週訪れる、大切な場所。

 

扉を開けると、すでに多くの客で賑わっていた。

残された席は、最後のひとつ。

 

『あらあら……もうこんなにお客さんがいたんですねぇ。少し遅すぎましたか?』

 

心で呟き、少し肩を落とす。

 

ーーどうしてこんなにも混んでいるのだろう。

皆、彼の淹れたコーヒーを楽しみに来ているのだろう。

 

「いらっしゃい、メアリーさん。すまないね、今手が一杯でね。空いてる席に座って待っててくれるかい?」

 

聞き慣れた低く柔らかな声。

マスターの言葉に、メアリーは思わず微笑む。

 

「大丈夫です。座って待っていますね」

 

静かに腰掛け、周りを見渡すと、客たちは幸せそうにモーニングを楽しんでいる。

耳に入ってきたのは、若い女性たちの静かではあるが、賑やかな声。

 

「ここのマスターって硬派な感じがして良くない…?」

「わかる〜!しかも人当たりも良くて……!」

「今度デートに誘ってみようかな?」

「抜け駆けはだめだからね〜!」

 

楽しげな声。

弾む憧れ。

その中心にいるのは、彼。

 

『……マスターは人気ですねぇ』

 

苦笑に隠した痛みが胸を刺す。

そして、ふと思ってしまった。

 

『……お付き合いしている方はいるのでしょうか?』

 

思考は一瞬で危険な領域へ踏みこむ。

だがすぐに、首を横に振った。

 

『何を言っているのでしょうか、私はニケ。そして彼は人間です』

 

ーー届かぬ距離。

ーー越えてはいけない壁。

 

叶わない未来に触れた瞬間、心に走った痛みに気づかないふりをして、視線を逸らす。

 

ーーそんな愚かな自分が少しだけ、愛おしい。

 

ため息を落として、ぼんやりと時間を流すふりをしたその時。

 

「席まで案内できずに申し訳ない、メアリーさん」

 

優しい声音が降ってくる。

 

どうしてだろう。

その優しさが、今は少しだけ胸に痛い。

 

「いいえ、忙しいのはわかっていましたから。今日は“特別な日”ですからね」

 

誤魔化すように、いつもより明るい声を出す。

笑顔は上手く作れた……はず。

 

マスターは静かに笑った。

 

「そうですね。今日は一週間に一度の日ですから。この日を目当てに来てくださる方々に感謝です。……メアリーさんも、“特別メニュー”にいたしますか?」

 

「はい、お願いします。コーヒーにはクリームを入れてくださいますか?」

 

マスターは、少し得意げに笑いながら答える。

 

「常連さんのお気に入りは把握してますから、毎回言わなくても大丈夫ですよ。……では、もう少しだけお待ちください」

 

彼の後ろ姿を、見えなくなるまで目で追ってしまう。

毎回そうしてしまう。

気づかないふりをしているけれど、本当は――。

 

端末を取り出して仕事の確認を始める。

そうやって、募る想いをなだめるのも、もう日課だった。

 

ーーーーーー

 

「お待たせしました。当店のスペシャルメニューです」

 

彼が執事のような丁寧な所作でテーブルへ置いたのは、たっぷりクリーム入りのコーヒーと、ぶ厚く柔らかいパンケーキ。

ふるふると揺れる姿はまるで、彼が注いでくれた想いの形のよう。

 

「いつ見ても、お見事ですねぇ」

 

自然にこぼれる感嘆。

温かな香りに、悴んだ心が解けていく。

 

「ありがとうございます。ゆっくりお召し上がりください」

 

その優しい言葉ひとつで、彼女の一日は輝き始める。

 

ほんの少しだけ、欲を言うなら。

あと数秒だけでいい。

その声を、独り占めしたかった。

 

でも、今日もまた――気づかないふり。

叶うはずのない想いを胸に秘めて、

メアリーは、彼が自分のために作ってくれた朝を、大切に味わった。

 

ーーーーーー

 

食事を終え、クリーム入りのコーヒーを一口含む。

柔らかな甘さと芳醇な香りが、緊張していた心をゆっくりと撫でていった。

深い満足が身体を満たし、思わず声がこぼれる。

 

「……ごちそうさまでした」

 

小さく、誰にも聞こえないはずの声音。

けれど。

 

「ありがとうございます。メアリーさん」

 

背後から返された声に、肩が跳ねた。

振り向けば、笑みを浮かべたマスター。

 

「マスター? いらっしゃったのですね。お恥ずかしい……」

 

頬に手を当てて顔を隠す彼女に、マスターは穏やかに言った。

 

「恥ずかしがる事なんて無いですよ。言葉にしてくれるのは、とても嬉しいことです」

 

たったそれだけで、また心が揺さぶられる。

胸の奥に、甘い痺れが広がる。

 

「言葉に出るほど、このパンケーキは美味しいんです。常時メニューに置いて欲しいくらいですよ?」

 

彼が忙しいのを知っていながら、声をかけたい。

それはワガママだと分かっているのに、止められなかった。

 

「皆さんそう仰ってくれるのですが、このパンケーキには手間と時間がかかりますから。一週間に一度にしないと、ひとりで切り盛りしてる身では大変で」

 

苦笑交じりの声。

けれどその奥に、客たちへ込められた想いが確かに宿っていた。

その誠実さが、またメアリーの胸を温める。

 

そして、不意に。

 

「でしたら、私がお仕事を辞めて、ここで働きましょうか?」

 

冗談のつもりだった。

ーーけれど、口にした瞬間、心臓がぎゅっと縮む。

 

マスターは目を瞬かせる。

 

「あ……いえ、今のは冗談が過ぎましたね」

 

慌てて言い繕おうとすると、彼はふっと目を細めた。

 

「それはいいですね。メアリーさんとなら、もっと楽しく働けそうだ」

 

「へ……?」

 

頬から耳の先まで、一気に熱がこみ上げる。

反応できずに固まる彼女へ、さらに追い打ちをかけるように。

 

「でも、それは叶わないのでしょうね。メアリーさんは腕利きのお医者様です。貴女を頼って多くの方が病院に行くのでしょう。貴女を独り占めしたら、皆に怒られてしまう」

 

優しい微笑。

からかうようで、けれど嘘はひとつも無い声音。

 

ーー独り占め。

 

その言葉が、胸に深く突き刺さる。

息の仕方さえ忘れてしまいそうになる。

 

「え……あ、その……」

 

言葉が出ない。

頼りなげな吐息が漏れるだけ。

そんな彼女の混乱を、知ってか知らずか――

 

「コーヒーのお代わりはいかがです?甘いものの後は、ブラックがおすすめです」

 

「あ、いただきます……」

 

彼は軽く頷き、滑らかな動きでカウンターへ戻っていく。

残されたメアリーの頭には、彼の先ほどの言葉が何度もこだましていた。

 

ーーもっと楽しく。

ーー独り占め。

 

その響きだけで、いつも冷静なはずの心が乱れてしまう。

 

「はい、おかわりのコーヒーです」

 

「あ……ありがとうございます」

 

「ゆっくりくつろいでから、お仕事に向かってください」

 

微笑んで離れていく背中。

その背中に救われ、その背中に焦がれる。

 

ブラックコーヒーの苦味が、乱れた心を静かに沈めていく。

 

ーーーーーー

 

コーヒーを飲んで、なんとか心を鎮め終わる。

店内を見渡すと、いつの間にか客はまばらになっていた。

腕時計の表示に目を向ける――出勤ぎりぎり。

 

『いけない……! 早く行かないと』

 

慌てて席を立ち、カウンターへ向かう。

 

「おや、メアリーさん。行かれますか?」

 

「えぇ、少し……ゆっくりしすぎました。遅刻しそうです」

 

照れ隠しの笑みに、マスターも小さく笑った。

 

「それはいけない」

 

そして、周囲に誰もいないのを確認すると――

そっと顔を近づけ、囁いた。

 

「メアリーさんなら、パンケーキ――いつでもお出ししますよ」

 

「え……?」

 

目を見開くメアリーに、少年のようないたずらめいた笑み。

 

「特別メニューを出した当時から、通ってくださってますからね。これくらいは当然の権利です」

 

「いいんですか?」

 

「他の方には内密に」

 

軽やかなウィンク。

そして別の客から声が飛ぶ。

 

「マスター? 注文いいですか?」

 

「今伺います」

 

返事をしてから、再びメアリーへ振り向く。

 

「お仕事――いってらっしゃい」

 

優しい声。

優しい眼差し。

 

彼が背を向けたあと、メアリーは胸に手を当てて小さく言った。

 

「……はい。行ってきます」

 

店の扉を出る。

朝の光が、胸の奥の温度まで鮮やかに照らし出す。

 

ーー実らない想いだと分かっている。

それでも。

 

今だけは、この温かさを信じていたかった。

 

ーーーーーー

 

場所が変わり、病院の廊下には――

 

「ぎゃーーーー!!!」

「うわーーーー……がくぅ」

 

絶叫が轟いていた。

 

「せ、先輩? 今日はいつもより注射に気合いが入りすぎでは……?」

 

恐る恐る声をかける後輩医師ペッパー。

 

「そんなことありませんよ〜? では次の方〜♡」

 

はち切れんばかりの笑顔で、絶妙に痛い注射を次々と撃ち込んでいくメアリー。

その注射はまるで――

抑えきれない恋心の八つ当たりのよう。

 

病院中に、悲鳴が響き続けた。




書いて欲しいニケなどがあれば感想なので教えてくださいー。
他の作品の流れを考えつつ、箸休めに笑

ヒロインは?

  • D
  • ルドミラ
  • イーグル"アイラ"
  • メアリー
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。