――アーク
人工の夜が訪れ、街のネオンがまるで地上に残された星々のように輝く時刻。
午後九時。
人々が一日の終わりに安堵し、あるいは新たな夜に心を躍らせる時間。
その喧噪のただなかを、ひとりの男が紙袋を片手に抱え、静かに歩いていた。
彼の名を知る者は少ない。
ただ、街の片隅で「ルポ」という小さなカフェを営む男。
その大柄な体躯と無骨な風貌からは想像もつかぬほど、彼が丁寧に豆を挽き、繊細な味を作り出すことを数少ない人物、ニケは知っている。
カフェ「ルポ」は朝六時から夕方四時までしか開かない。
それはマスターの信条だった。
――喫茶店とは、戦うためでも、酔うためでもない。
――心を休め、思考を静めるためにある。
だから彼は、夜の帳が下りるころには店を閉め、黙々と掃除をし、翌日の仕込みを行い、そして足りない材料を補うために街へ出る。
今夜もそうだった。
仕込みを終えた後、マーケットで材料を買い込み、袋が思いのほか重くなってしまったのだ。
「……流石に買いすぎたか」
そう小さく嘆息しながら、彼はひとりごちた。
筋肉の浮き上がる腕でも、持ち帰るには骨の折れる重さだった。
マーケットを抜けると、いつものように帰り道を選んだ――が、その道は、アークでも特に騒がしい地区へと続く。
歓楽街。
そこは、仕事帰りの人々が鬱憤を晴らし、酒と欲望の渦に身を委ねる場所。
「クソッ!なんなんだよ、あの上司!」
「はぁーあ……なんで俺じゃなくてアイツなんだよ……」
「お姉さん、ひとり? 一杯どう?」
「えぇ?どうしよっかなー?」
酔いと笑いと怒声が入り混じる。
明滅するホログラム広告の光が人々の顔を青や赤に染める。
その喧騒を、マスターは目を細めて見つめた。
――くだらん。
心の奥で、短く吐き捨てる。
『外の世界を知らぬ者たちの集まり……戦いを知らぬ、ぬるま湯の中の人間どもか』
そんな呟きが、ふと胸の奥に沈殿する。
それは怒りでもあり、諦めでもあった。
だが、すぐに自嘲するように小さく笑う。
「……いかんな。この通りを通ると、いつもイライラしているな」
苦笑しながら、彼は歩を進める。
それでも、通りの喧騒を抜けたときには、わずかに息を吐き、安堵の色を浮かべた。
だが、その瞬間――。
「や、やめてください! 離れてください!」
「なんだよ、いいだろうが! 人間様の言うことを聞けねぇのか!」
耳に飛び込んできたのは、あまりに異様な声。
マスターは即座に足を止めた。
声の方向――薄暗い路地裏。
街のネオンも届かぬ陰の中に、数人の影が蠢いている。
静かに覗き込む。
そこには、軍用ボディを持つニケの女性と、それを囲む三人の男たち。
「助けを求めている女性はどこにいるのですか?!」
ニケは真剣な眼差しで問いかけていた。
しかし、男たちは下卑た笑みを浮かべる。
「そんな奴、はなからいねぇよ。」
「のこのこ付いてきやがって……」
「ちょっとは期待してたんじゃねーのか?どうせ男も作れねぇんだろ? ブリキの身体じゃ、気持ちわりーもんな?」
笑い声がこだまする。
その下劣さに、マスターの眉間に皺が刻まれた。
「だ、騙したのですね!」
ニケは叫ぶ。
「もう一度言います! 離れなさい!」
だが、男たちは止まらない。
彼らは知っている――ニケが人間に危害を加えることは、システム上できないことを。
「はっ! 逆らえねぇんだろ? だったらおとなしく俺たちの相手をしろよ!」
「俺たち、さっきから女の子ナンパしても無視されまくってんだよ。"相手"してくれよ」
「体の構造は女と同じなんだろ? だったら“使える”はずだ」
ニケの瞳が揺れた。
怒りと屈辱、そして恐怖がないまぜになった光。
「あなたたちは……私たちを、なんだと思ってるんです!」
「うるせぇんだよ!」
乾いた音が響く――平手打ち。
ニケの顔がわずかに揺れ、唇から血が滲む。
その瞬間だった。
「――おい。そこまでにしておけ」
低く、鋭く、まるで刃のような声が路地裏を裂いた。
男たちが振り向く。
そこに立っていたのは、紙袋を片手にした大柄な男――マスターだった。
街灯の下、その影が伸び、三人を圧する。
「なんだよ、テメェ……邪魔すんなよ。これから楽しいとこなんだよ」
「そうだそうだ。ニケの一体くらい使い潰したって、誰も文句言わねぇよ」
「それとも……仲間に入りてぇのか? 俺たちの使った後の“中古品”で良けりゃ、なぁ?」
笑い声。
それは、酔いと傲慢の混じった汚らしい音。
だが、マスターは首を小さく横に振る。
「……あんたら、そんな態度だから女の子が寄ってこないんだよ」
静かに言葉を放つ。
「改めたらどうだ? ……いや、無理か。抵抗できない相手を狙う時点で、もう終わってる」
その声に、空気が変わった。
男たちは顔を歪め、怒号を上げる。
「テメェ、調子乗ってんじゃねぇぞ!」
「帰れよ! 怪我したくなかったらな!」
ナイフの銀が、路地の光を反射する。
ニケは慌てて声を上げた。
「そちらの方! 私はニケです! あとのことは大丈夫です! だから、早く逃げてください!」
――逃げろ、と。
だが、マスターは笑っていた。
「目の前で助けを求めてる子がいるんだ。……放っておけるかよ」
その微笑に、ニケは息を呑んだ。
次の瞬間、マスターが一歩、踏み出す。
「テメェぇ!」
ナイフを構え、男の一人が突進する。
素人の突き。
マスターは左手の紙袋を投げつけた。
ドッ――。
重い音と共に、袋が男の顔面を直撃。
瓶や缶詰が詰まった袋の衝撃で、男は一瞬のけぞる。
その隙を逃さず、マスターの膝が男の股間を蹴り上げた。
呻き声を上げ、前屈みになった男の腕を捻り上げ、小手返し――。
鈍い音と共に、男の身体が地面に叩きつけられる。
続けざまに、腹部へ一撃。
「ぐっ……!」
男が昏倒する。
「一人目」
マスターは無造作に言い放ち、次の男を見据えた。
「この野郎!」
もう一人が叫びながら突進してくる。
振り上げられたナイフを、マスターは前腕で受け止め、肘で相手の顎を跳ね上げる。
ガツン――鈍い音。
相手の身体が浮き、次の瞬間には路面へ叩きつけられた。
「二人目。……で、次は?」
静かに問いかける声に、最後の男の顔から血の気が引いた。
「い、いや! 俺は違うんだ! コイツらが勝手にやってただけで、俺は……!」
マスターの眼光が、鋭く射抜く。
「なら、こいつらを連れて消えろ。……さもないと、今度は意識じゃなくて命を刈り取るぞ」
低く、抑えた声。
それは怒鳴り声よりも遥かに重い。
「ひ、ひぃーーーっ!」
男は泣きそうな声を上げ、倒れている二人を引きずりながら逃げ出した。
静寂が戻る。
マスターは、その静寂のなかにひとり立ち尽くしていた。
息を乱すこともなく、ただ、さっきまでの暴力の余韻だけが彼の眼差しに僅かに残っている。
そしてその後には、膝をつき、うつむいたままのニケ——。
「怪我はないか?」
低く、しかし優しさに満ちた声が、夜の空気をやわらかく震わせた。
その声を聞いた瞬間、ニケの身体に走っていた緊張が少しずつほどけていく。
彼女の前に差し出されたマスターの手には、先程までの剣呑さは微塵もなく、ただ純粋な「気遣い」だけが宿っていた。
けれど、ニケはその手を取ることを躊躇した。
彼女は知っている——自分の身体は、見た目に反して重い。
この手を取れば、人間である彼に無理な力を強いることになる。
そして何より、彼が「触れる」ことで、自分が機械であることを思い知ってしまうのが怖かった。
マスターは、その逡巡を察したのか、穏やかに微笑んで言った。
「……あぁ、そうか。さっきまでクズみたいな男に言い寄られていたんだったな。男の手なんか、もう見たくもないか」
少し違った解釈をしたマスターは、そう言って、ゆっくりと差し出していた手を引こうとする。
だが、その瞬間——ニケは反射的に、その手を掴んでいた。
「い、いえ!そういうことではなくて!」
慌てて声を上げるニケの手を、マスターは包み込むように握り返す。
そして、何事もないかのように軽く腕を引いた。
「そうか。それはよかった」
わずかに力が込められたその手は、驚くほどに強く、そして温かかった。
機械の身体を持つニケが、そのまま軽やかに立ち上がる。
彼の力だけで。
「……え?」
ニケは、自分が今、何をされたのか理解できず、呆然と彼を見上げた。
彼の表情は、まるで子供を安心させる父親のように柔らかく笑っていた。
「怪我は……ないようだな」
マスターは散らばった紙袋を見つめる。中身の一部は地面に転がり、果物や野菜が無惨に散乱していた。
「こりゃあ、買い直しだな」
と苦笑する彼の姿に、ニケは思わず頭を下げた。
「あ、あの……!その、私のせいで荷物がダメになってしまいました。本当に申し訳ありません。弁償しますので、金額を教えていただけませんか?」
真っすぐな謝罪の言葉に、マスターは肩をすくめて微笑む。
「いいんだ。君を助けられた、それで十分さ。安い買い物だった」
その言葉とともに、マスターは踵を返し、再び夜の街へと歩き出す。
しかし、ニケの心には、言葉では表せない衝動が生まれていた。
「ま、待ってください!」
必死に声を張り上げる。
マスターが振り返る。街灯の明かりが彼の輪郭を照らし、柔らかな笑みが浮かぶ。
「……せめて、何かお礼をさせてください!」
ニケのその真剣な瞳に、マスターは少し考える素振りをしてから言った。
「……じゃあ、今度ウチの店に来てくれないか?お礼なんていらない。ただ、うちでゆっくりコーヒーでも飲んでいけばいい」
まるで、彼女を客として自然に招くような口調だった。
それがかえって、ニケの胸を熱くさせる。
「そ、そんなのはお礼になりません!」
慌てて言い返すニケに、マスターはふっと笑った。
「大丈夫、大丈夫。……あ、そうだ。君の名前を教えてくれるかい?常連さんの名前は覚えておく主義なんだ」
「……私みたいな“量産型”には、名前はありません。型式であるイーグルと呼ばれています」
その言葉は、どこか寂しげに響いた。
まるで「名を持たぬこと」が、彼女自身の存在を薄くしてしまうかのように。
『あぁ、私が量産型じゃなかったら、ちゃんと名前を教えれたのにな』
マスターは少しだけ視線を落とし、考え込む。
そして、ゆっくりと顔を上げて言った。
「じゃあ——“アイラ”さん、ってのはどうかな?」
「……え?」
「イーグルって、つまり“鷲”のことだろう?ラテン語では“アクイラ”と言う。でもそれだと、少し堅苦しいから“ク”を抜いて“アイラ”。どう?君にぴったりだと思うけど」
その瞬間、ニケ——いや、“イーグル”の胸に、今までにない熱が走った。
冷たいはずの胸の奥で、確かに何かが鼓動した気がした。
「アイラ……アイラ。はい!私はこれから“アイラ”と名乗ります!」
何度も噛み締めるように呟き、そう言ってマスクの下で笑う彼女の顔を、マスターは静かに見つめ、満足げにうなずく。
「じゃあ、店で待ってるよ、“アイラ”さん。これは名刺だ。慌てなくていい、時間ができたときにおいで」
夜風が二人の間をすり抜け、マスターのコートの裾を揺らした。
彼は振り返らず、ゆっくりと通りの先へと歩き去る。
その背中を、“アイラ”は目を離せずに見つめ続けた。
名前を与えられた喜びと、もう一度会いたいという淡い想いが、胸の奥で静かに燃えていた。
やがてその姿が完全に見えなくなっても、アイラは小さく呟いた。
「……マスター。必ず、会いに行きます」
その言葉は、夜の闇の中へ溶けていったが、確かに彼女の心の奥で輝き続けていた。
ヒロインは?
-
D
-
ルドミラ
-
イーグル"アイラ"