ラプチャーとの果てしない戦争に敗北した人類は、地上を捨てた。
焼け焦げた大地の下、無数の層を重ねて築かれた巨大避難都市《アーク》。
そこは、かつての空や風、そして太陽の代わりに、人工灯の光が昼夜を再現する世界だった。
人類は生き延びるために、自らを凌駕する存在を生み出した。
機械的な機能と強度を持ち、戦闘に特化した女性型ヒューマノイド――《ニケ》。
彼女たちは地上でラプチャーと戦い、人類に残された最後の希望として、その身を焦がしていた。
そんなアークの片隅。
ビジネスビルが立ち並ぶ無機質な街並みの一角に、ひっそりと佇む小さなカフェがあった。
その名は《ルポ》。
外装こそ古びたが、扉を開ければ、ほのかに焙煎豆の香りが鼻をくすぐる。
雑踏の喧騒から隔絶されたような静寂。
知る人ぞ知る名店として、ひそやかに人気を博していた。
――カラン。
扉の上に吊るされた小さな鈴が、微かに鳴る。
その音が店内の穏やかなBGMに溶けていく。
「……あぁ、いらっしゃい。いつものかい?」
カウンターの奥で食器を拭いていたマスターが、微笑みながら声を掛けた。
入り口に立つのは、フードを深く被った一人の女性。
その顔は影に隠れてよく見えない。
だが、その歩みにはどこか、戦場を渡り歩いた者の気配があった。
「……あぁ」
短く、それだけを答える。
その声には感情の起伏がほとんど感じられない。
だがマスターは、そんな彼女を責めるようなことは決してしなかった。
まるで、そこに居るだけで十分だと言わんばかりの、柔らかな眼差しで彼女を見つめていた。
一般的に、“カフェのマスター”といえば、老練な老人か、穏やかな青年を想像するものだろう。
だがこの店のマスターは、そのどちらにも当てはまらなかった。
身長は180センチを優に超え、鍛え抜かれた体格。
スーツの上からでも分かる筋肉の厚み。
鋭い眼光と引き締まった顔立ちは、むしろ“軍人”のそれに近かった。
しかし、その手つきは驚くほど繊細だった。
豆を挽く音は静かな旋律のように心地よく、蒸気が立ち上るカップに注がれる液体は、黒曜石のように深く艶やかだった。
「……またせたね。いつものコーヒーだよ」
コト、とマスターは一杯のコーヒーを置いた。
女性は無言でそれを手に取り、一口含む。
鼻腔を抜ける香ばしい香り、舌の上で広がる苦味と、かすかな甘み。
その瞬間、彼女の表情がふっと緩んだ。
「……美味い」
わずかに笑みを浮かべた唇から、その言葉が零れた。
マスターは頷きながら、静かに食器を磨き続ける。
店内には再び、コーヒーの香りと穏やかな音だけが流れていった。
しばらくの沈黙の後、マスターが不意に言葉を落とす。
「今日は仕事かい?」
女性の指が、カップの取っ手の上で止まった。
その瞳がわずかに揺らぐ。
この店で初めてだった。
彼が彼女の“外のこと”に触れたのは。
「……いや、今日は休みだ」
それだけを答えるのが精一杯だった。
「そうかい。それならゆっくりできるね。いつもは一杯飲んだらすぐに行ってしまうだろう?」
その柔らかな言葉に、女性の胸が一瞬きしむ。
――どうして、そんなに穏やかに微笑むんだ。
どうして、そんな目で見つめるんだ。
「そうだ、試作のガトーショコラがあるんだが。良ければ、試しに食べてみてくれないか?」
「い、いただく……」
咄嗟に答えた自分に、女性は戸惑う。
――なぜ私は、こんなにも動揺している。
ただ話しかけられただけだろう。
落ち着け。
任務中の尋問では、心が乱されることなんて無いではないか。
皿の上に静かに置かれたガトーショコラ。
淡い光を受けて、濃密な黒が艶めいている。
「はいよ、これが試作のガトーショコラだ。食べてみて」
微笑むマスター。
その笑顔を前に、女性の鼓動が速まっていく。
彼の瞳の奥に、なぜか温かさが宿っていた。
戦場では決して見たことのない、柔らかな光。
「い、いただきます……」
震える指でフォークを持ち、慎重に一口。
――その瞬間、世界が変わった。
口の中で溶けていく甘味。
苦味と香りが舌の上で調和し、胸の奥にまで染み渡る。
これまで“食事”とは、ただの栄養補給でしかなかった。
だが今、初めて理解する――これは、生きるための喜びだ、と。
「……」
何も言えずに俯く女性を見て、マスターは少し首を傾げた。
「口に合わなかったかい? 無理をすることはないよ」
皿を下げようとした瞬間――彼女の手が、その手を掴んだ。
自分でも驚くほど強く、そして熱く。
「い、いや! これは……その、とても美味しい……から、全部食べる……」
しどろもどろになりながらも、必死に言葉を繋ぐ。
マスターは優しく笑みを返した。
「それは良かった」
その微笑みは、なぜだか胸を痛くさせるほど優しかった。
コーヒーとケーキを平らげた後、女性は深く息を吐いた。
指先がまだ熱を帯びている。
――何をやっているんだ、私は。
たかが会話ひとつで、こんなにも心が乱れるなど。
任務で、どれほどの男を“演技”で落としてきたと思っている。
これはただの錯覚。
久しく他人とまともに言葉を交わしていなかっただけだ。
『……たるんでいるな。帰ったら訓練を増やそう。次からこの店は使えない。私を詮索し始めている』
そう言い聞かせながら、店を使わないと決めたことから感じる胸の微かな痛みを無視して、支払いを済ませようと立ち上がる。
その時、マスターが穏やかに声をかけた。
「もう帰るのかい? 今日は少し話ができて嬉しかったよ。また来てくれ。次は違うケーキを用意しておくよ」
その笑みを見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
――あぁ、私は。
私は、この人を――。
顔が熱くなる。慌ててフードを深く被る。
「……ま、また来る」
やっとの思いで言葉を絞り出す。
もっと気の利いたことを言いたかったのに、喉が塞がって何も出てこない。
そんな彼女に、マスターは穏やかに尋ねた。
「貴女の名前は? 常連さんの名前は覚えておきたいんだ」
一瞬の沈黙。
やがて、彼女はわずかに顔を上げた。
「……デ、デイジー……と呼んでくれ」
「分かった。またのお越しをお待ちしているよ、デイジーさん」
その言葉を聞いた瞬間、耐えきれずに彼女は踵を返した。
――そして、逃げるように店を飛び出した。
アークの人工灯の下、通りの雑踏へ紛れ込む。
胸の鼓動がまだ収まらない。
『なにをやっている、私は……』
ポケットの中で端末が震えた。
彼女はすぐに応答する。
「……あぁ、了解した。すぐに調査し、終了後始末する」
短く言い切る声は、先ほどまでの柔らかさを完全に消していた。
フードの下、冷徹な瞳が戻っている。
――彼女の名は《D》。
《シージペリラス》を率いるリーダー。
アークの闇を切り裂き、腐敗した権力を断罪する者。
端末をしまい、ふとカフェの方向へ振り返る。
「……また来る。マスターに会いに」
誰にも聞こえぬように呟いたその声は、ほんのわずかに震えていた。
初めて知る感情――誰かに、また会いたいと思う気持ち。
胸の奥でその温もりを確かに感じながら、
彼女は再び冷たい夜の街へと歩き出した。
今日も《シージペリラス》は、世界をより良い方向へ導くため、
静かに、そして確実に悪を断罪するのだった。
くっ!
他の作品もあるのに、書いてしまった!!
だが。悔いはない