『仮面ライダークウガ』論──「伝説=神話」を否定しようとしてかえって「伝説=神話」になってしまう究極の脱構築ヒーロー
昨日『救急戦隊ゴーゴーファイブ』について書いたので、是非ともこの流れで『仮面ライダー』に触れておこうかと思うのだが、「クウガ」に関しては私自身あまり思い入れのない作品になってしまう。
理由は簡単、リアルタイムでの「クウガブーム」の外にいた人間だからであり、流石に『星獣戦隊ギンガマン』のようにリアルタイムから現在まで何千回と見直すようなことはしなかった。
地元でも一応放送はされていたが当時はそこまでハマっていなかったし、どちらかといえばポケモン金銀やアニメ「ZOIDS」を見ていたし、何より中学3年生=受験生だったのである。
そういうこともあってか、私は多くの特撮ファン・オタクが口にする「クウガショック」なる洗礼を一切経験せずにここに来てしまったので、リアルタイムでどう感じたかは語れない。
しかし、ではだからと言って語ってはならないのかというとそうではないだろう、たとえ後から入ったとしても語れることはあるはずだし、私なりに「クウガ」は色々と見ていて刺激や驚きが多かった作品であることは事実だ。
というのも、本作ほどいわゆる「ヒーローの死」、もっと言えば「神話の否定」ということに関してここまではっきりとストレートに打ち出した作品はないからである。
「クウガ」に近い現象を持っていたのは『機動戦士ガンダム』や『鳥人戦隊ジェットマン』辺りだが、『仮面ライダークウガ』はその中でも一際異彩を放つ作品ではあった。
今回は私なりに見た「クウガ」がどういう作品かについて語ろう、ちなみに「タイムレンジャー」に関しては既にこの記事で詳細を書いているので今更多くは語らない。
さて、この記事に関して何を立脚点に語ればいいのかと思ったのだが、これに際して実は10年近く前に親友の黒羽翔がヒントを送ってくれていたのである。
それは「ギンガマン」も「クウガ」も「古代から甦った伝説の戦士」という要素が共通しており、物語の中で徐々に「伝説」の内容が語られ解き明かされていくという構造が共通しているのだと。
そして戦いを重ねるごとにメキメキと強くなっていくという構造が視覚的に納得できる「画面の運動」として提示されているという点に気づいた時、私の中で一気に「クウガ」の見方が繋がったのである。
なるほど、「クウガ」とは要するに「平成ライダー0号」であると同時に「裏ギンガマン」のような作品であり、同じ髙寺成紀が作っただけあってやはり共通項は多い。
そう考えると「ギンガマン」という作品はそれ自体がスーパー戦隊シリーズにおける1つの「ヒーロー神話」の到達点であると同時に、その眩い「光」が「クウガ」という「闇」を生み出したのだとも納得できる。
だから「仮面ライダークウガ」に関しては「仮面ライダーシリーズ」である以上に「髙寺成紀Pのヒーロー神話の総決算」と言った方が近いし、実際「クウガ前夜祭」としての「ギンガマン」という見方もまた違った角度から見えてきて面白い。
やはり東映特撮の歴史を語る上で、戦隊・ライダー・プリキュアという垣根すら超えてしまった1つの「現象」としての「クウガ」は伊達ではなく、90年代戦隊の原体験を味わっている身としても興味を引かれる。
もちろん「クウガ」だって「仮面ライダー」と名付けている以上は昭和ライダーへのオマージュ的な要素は盛り沢山であるが、なんと言っても私にとってはクウガの「アクション」がとても面白かった。
そんな私にとっての「クウガ」はどんな作品かというと、「伝説=神話」を否定しようとしてかえって「伝説=神話」になってしまうという究極の脱構築ヒーローである。
なぜかといえば、それはこの作品をご覧いただいければお分かりだと思うのだが、「クウガ」は歴代の特撮の中でも「1年がかりで人間が怪人(化け物)になる物語」を「画面の運動」として克明に視聴者に見せつけた作品だからだ。
ドラマパートに関してはぶっちゃけ2000年当時ということもあってかかなり時代遅れな部分が目立つのだが、やはり富永研司というスーツアクターのお陰でもあるのだが、クウガの存在感=色気は今見ても鳥肌が立つ。
まずクウガは単独の仮面ライダーであるにも関わらず、そのフォームの数は歴代屈指の12ものフォームを持っており、しかもご丁寧に白→赤→青→緑と変化していき、最後は「黒」になる。
これを単なる「パワーアップ」だと思ってはならない、クウガにおける12ものフォームの登場はすなわち「進化」を意味し、新しいフォームが出るごとにクウガ=五代雄介はメキメキと強くなっていく。
そのことはまず立ち上がりの2話を見てもらえればわかるように、1話のクウガは白のグローイングフォーム、すなわち「蛹」あるいは「幼虫」の状態であり、同時に「素人」を意味している。
まだ何者にもなっていないわけであり、だから力不足でやられるわけだが、2話では燃える教会をバックに雄介が「だから見ててください!俺の!変身!」という言葉と共に血潮を激らせ自らの決意でクウガに変身する。
ここで初めて赤色のマイティフォームに変身するのだが、赤は「情熱」の赤であると共に「戦いの始まり」をも意味するし、同時に「炎」でもあるが故にスタートダッシュにはもってこいの演出だ。
比較というわけではないが「ギンガマン」が第一章のリョウマ覚醒でやっていたことを五代雄介は2話かけて描いたわけであり、1話目では単に「アークルを手にしただけ」なのに対して2話で初めて「ヒーロー」になる。
そうしてライジングがアメイジングマイティなどさまざまなフォームを手にしていくわけだが、この過程は言うなれば柔道や空手などの「帯」の変化に近い。
柔道や空手の世界では「白」に始まり「黒」が最強とされ、「素人=白い人」「玄人=黒い人」という言葉もここから来ているのだが、クウガの戦いはまさに武道の概念に近いだろう。
戦えば戦うほどメキメキ強くなっていき、アルティメットでは一回全身真っ黒になった後、五代雄介がそのクウガアルティメットの狂気に飲み込まれず、人間としての心を持っていたので目が赤色になる真のアルティメットフォームに至った。
だが、これは決して喜ばしいことではなく、雄介は戦えば戦うほど古代の戦士・クウガが内面に持つ闘争本能というか狂気のようなものに飲まれていくのだ、それを象徴するのがEPISODE 35「憎悪」のこのシーンである。
どうだ、とてもヒーローが正義の力で悪を倒すというカタルシスがこのシーンには全くないだろう、むしろ一方的に「蹂躙」すらしており、BGMも演出も全体的に暗いホラー調なのだ。
ちょうど私が1週間ほど前に書いたスーパー戦隊シリーズ終了の記事でコメントしてきた反転アンチのてぃあーすに対して「ヒーローも悪党も使う力は所詮暴力である」という話がここで繋がってくる。
五代雄介=クウガはこの時初めて「ヒーロー」としてではなく「生物兵器」として、ただひたすら冷徹に、しかしこれ以上ないほどの抑えきれない怒りを持ってジャラジという外道を抹殺した。
だが、その心はもはやかつての「みんなの笑顔を守りたい」をモットーとしていた五代雄介ではなく、ただ寡黙に言葉にならない怒りの咆哮でぶちのめす戦闘マシンに成り下がってしまっている。
髙寺成紀は「メガレンジャー」「ギンガマン」でも「ヒーローの存在がかえって罪なき者たちを傷つけることもある」という話を描いてはいたが、クウガではとうとうそれが「主人公としてのあり方」のレベルにまで食い込んできた。
この話を境に五代雄介からはどんどん笑顔がなくなっていき、終盤ではもはや人としての心や理性すらどんどん削られていって、そして最終決戦に待ち受けていたのは「自分が笑顔になるため罪もない人々を殺す」というダグバと戦うことになるのだ。
そう、「クウガ」の1つ特徴的なところは「ギンガマン」同様に原初的な野生に近い古代のオーパーツを武器として戦っていながら、肝腎要のクウガはあくまで「未確認生命体第4号」という「グロンギの同族」としか世間には映っていないことにある。
これもまた大きな違いであり、「ギンガマン」は「伝説を神話として肯定的に描いた作品」であり、青山親子の視点から語られる史観論にしたことで一貫して明るく爽やかな純粋理想としてのヒーローを非常に高い完成度で描き切った。
対して「クウガ」では、五代雄介の協力者や理解者になってくれる人はいたとしても、クウガというヒーローの存在は決して肯定はされず、所詮どこまで行こうと「異形の怪人」でしかないのである。
そしてラストで出てきたアルティメットフォームの姿こそ、実は昭和ライダーのデザインに最も近いのである、比較として昭和の「仮面ライダー」として本郷猛の仮面ライダーと南光太郎の仮面ライダーBLACKを比較してみよう。
見てもらえればわかる通り、クウガアルティメットフォームは初代仮面ライダーやBLACKに酷似したデザインになっているのだが、これももちろん狙ってのことである。
最初は真っ赤な血潮から始まったクウガという存在は最終的に昭和ライダーと同じところへ辿り着くのだが、大きな違いとしては初代もBLACKも「スタート時点で既に人外」だった。
本郷猛も南光太郎も改造出術を受けた時点で既に「化け物」だったわけであり、最初から「境界線の向こう側」だったのに対して、五代雄介はグロンギとの戦いの渦に巻き込まれていく中でそこに至ったのである。
何が言いたいかというと、『機動戦士ガンダム』『鳥人戦隊ジェットマン』ですら肯定的に描かれていた「1年がかりで真のヒーローになる」という構造が「クウガ」では一貫して「否定的」であるということだ。
雄介にとってクウガとして強くなったのはあくまで「結果」でしかなく、彼自身は強くなることを望んでいたわけではないし、できることならば暴力抜きで解決できればそれに越したことはない。
だが、グロンギという「話し合いによる相互理解」が全く通用しない相手にはひたすら暴力で倒す以外に解決の道はないというのをとことんまで露悪的にやった究極の脱構築ヒーローである。
それはおそらく『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』『星獣戦隊ギンガマン』の3作でヒーローの「解体」「喪失」「再生」という3ステップをやってきた髙寺成紀だからこそ辿り着けた境地なのだろう。
ヒーローであることをとことんまで否定するためにヒーローとして戦い続けなければならないというジレンマを1年通して描き切ったという点において、本作に匹敵する作品はないのではないだろうか。
「クウガ」に関してはやはり機会があればレビューしておくべきかとも思ったのだが、それはあくまでも確約できない未来なので今回はひとまずここまで。



記事を読ませて頂いてなぜ自分は戦隊シリーズとは親和性が低く知人レベルでしかないのか❓がハッキリ分かりました。 自分はウルトラマンティガ(1996)と仮面ライダークウガがヒーローとして原点でありヒーローはサポートする存在はいても本質的には孤独であるという事を原体験として感じていて戦隊は共…