この国で“共生”は成立しない──日本とイスラム教、相容れない価値観
「多文化共生」という言葉を耳にする機会が増えた。
自治体の広報、教育現場、行政方針。どこでも「多様性を受け入れる」ことが正義のように語られている。
けれど私は、ずっと違和感を覚えている。
昨今話題の宮城県の土葬問題をきっかけに、イスラム教の人との共存ができるのかを考えてみた。
そもそも共生は、GiveとTakeで成り立つ関係性
「共生」という言葉は、美しく響く。
けれどそれは、お互いに与え合い、得るものがあるときにだけ成立する関係だ。
たとえば高度な専門性を持つ外国人が日本で働き、研究や経済に貢献してくれているなら、待遇や制度で応えるのは当然だと思う。
もちろん、日本で暮らすのであるから、日本のインフラを使われても問題はない。
これはGive and Takeであり、共生と呼べるだろう。
だが、今の「多文化共生」はどうだろう。
「受け入れよう」「多様性を尊重しよう」という声は多いのに、
その人たちが何を日本社会に与えているのか、ほとんど語られない。
単に「そこに存在している」というだけで、生活習慣や制度を変えることが当たり前のように要求されていないか。
本来なら共生はGive and Takeであるべきなのに、現実には日本側だけがGiveを強いられているように見える。
価値観の根本が日本と異なるイスラム教徒
とくにイスラム教を信仰する人々への対応には、強い違和感がある。
彼らの信仰心を否定するつもりはない。
けれど正直に言えば、日本とイスラム教は本質的に相容れないと思っている。
なぜなら、価値観の根本が日本と正反対だからだ。
たとえば一夫多妻制はイスラム教で宗教的に認められており、今も中東やアフリカの一部で合法とされている。
一方、日本は一夫一妻制が原則で、重婚は刑法で禁止されている。
また、一部地域では未成年婚が文化的に容認されてきた歴史もある。
日本は逆に、性的同意年齢を引き上げ、子どもの権利保護を強めている。
つまり「子どもは守られるべき存在」という価値観と、「早く結婚してもよい」という価値観が真正面から衝突する。
そして根本的に、イスラム教は宗教と生活・法が一体だ。
シャリーア(イスラム法)という宗教規範が日常生活の細部にまで及び、
「信仰」が「生活ルール」でもある。
だが日本は政教分離・世俗法優先の社会で、宗教は個人の自由という前提で成り立っている。
文化や食習慣の違いなら歩み寄りはできても、法や倫理に関わる根っこの部分は、お互いに譲れない。
だから私は、イスラム教と日本は本質的に「混じり合う」ことはできないと思っている。
それは「異文化」ではなく、もはや「異文明」なのだ。
学校給食にも要求される「配慮」の現実
こうした価値観の違いは、日常の些細な場面でも顔を出す。
例えば学校給食。
私の友人は食物アレルギーが重く、小麦・卵・乳が食べられなかった。
命に関わるため学校も配慮はしていたが、基本は弁当持参だった。
ところが現在、イスラム教徒の中には宗教的理由で「学校側が給食の対応をしてほしい」と言われることも増えているそうだ。
「命に関わっても家庭負担」なのに「宗教は公費で配慮」。
その差に、私はどうしても違和感を覚える。
モスクを建てたい、豚肉を避けたい、土葬をしたい……。
どれも信仰としては理解できる。
けれど、なぜそれを日本社会全体に合わせさせようとするのか。
なぜ「自分たちで工夫する」という発想が出てこないのか。
日本は血統主義なのに、税金は「居住者」に配られている
しかも日本は血統主義の国だ。
国籍法では「日本人の子として生まれた者」が日本国籍を持つ。
つまり親が日本国籍でなければ、日本で生まれても日本国籍にはならない。
それでも日本では外国籍の子どもにも日本人と同じように税金が使われている。
児童手当や出産育児一時金は在留資格が3か月以上あれば国籍に関係なく支給され、国民健康保険も在留資格さえあれば加入できる。
一見「納税者への還元」に見えるが、短期間だけ働いて出産・子育てコストを日本に残して帰国する人もいる。
一方、日本人は一生税金を払い続ける。
長期的には「日本人が日本人以外の子どもを支える」構造になっている。
これは「差別」の話ではない。
限られた資源をどこに投じるべきかという優先順位の話だ。
国民に還元されるべき税が、国籍を持たない人々にまで広がりすぎている。
そのいびつさを直視せずに「多文化共生」を掲げるのは、理想という名の幻想に酔っているだけではないだろうか。
他国が示す「共生」の限界
これは決して日本だけの問題ではない。
理想を掲げて失敗した国もある。
フランスでは、郊外の移民コミュニティが失業や孤立で荒廃し、たびたび暴動が起きている。
スウェーデンやドイツでも、難民受け入れ拡大で治安悪化が問題化した。
多様性を尊重すると言いながら、実態は「文化的に統合できない人々を大量に抱え込んだ」だけだった。
「多文化共生」という理想のもとに始めた政策が、
結果的に「価値観の衝突」「制度の摩耗」「社会の分断」を生んでいる。
日本が同じ道をたどらない保証は、どこにもない。
「棲み分け」は共生の否定ではない
そもそも日本の公立学校は、日本人の子どもを前提に設計されている。
宗教や文化的背景が根本的に異なるなら、インターナショナルスクールや私立という選択肢もある。
「郷に入っては郷に従え」は差別ではなく、共生の前提条件だ。
実際、フランスやアメリカでも「公立は多数派文化ベース」「マイノリティは宗教系スクールへ」という棲み分け構造が一般的だ。
無理に混ぜようとする方が、むしろ傲慢だ。
棲み分けこそが本当の共生だと私は思う。
まとめ
多文化共生という理想は、たしかに美しい。
でも、美しさだけで社会は回らない。
本当に共生を目指すなら、まず「何をGiveし、何をTakeするのか」を冷静に考えるべきだ。
昨日、ふと考えた。
今の日本の状況はDV彼女のようだ、と。
一方的に殴り、搾取され、それでも「いつかわかってくれるはず」と念仏のようにいい続けているにしか過ぎない。
だがそれは本当だろうか?
性善説は日本人ですら薄れてきているように思う。
そんな中で、外国人が性善説で日本で過ごしてくれると思うだろうか?
私は思わない。
「Take」を払わないやつらに、日本にいる価値なんて無い。
我々日本人は、日本がそれだけ素晴らしい国なんだということを、もう少し理解しないといけない。
今、この時が、分水嶺なのかもしれない。


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