09/02/20
このような大恩ある仏が世に出現し、私たちが値うことができるのは無量劫に一度であるといいます。ところがこの仏に値うことはできても、法華経に値うことは難事です。さらにその値い難い法華経に値うことはできても、末代(末法)の衆生が、法華経の行者に値うことはなお難しいと説かれています。
それに加えて、法華経の行者日蓮大聖人と諸経典に説かれる諸尊・諸仏とを比べるならば、その勝劣は、末法の法華経の行者の方が遙かに勝れていると御教示されています。その経証として、陀羅尼品の「有供養者福過十号」の文を挙げられています。
御開山日興上人は『日興遺誡置文』の中で、
「於戯(ああ)仏法に値ふこと希にして、喩へを曇華(どんげ)の萼(はなぶさ)に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か。爰に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に遇ひ奉ることを得」(御書1883~4㌻)
と述べられ、末法において、御本仏日蓮大聖人と、大聖人が説き出された寿量文底の大法に巡り値うことがいかに難事であるかを譬えをもって説かれています。
今私たちは、値い難い末法の法華経の行者に値い、また行者の一身の御当体である事の一念三千、寿量文底の三大秘法、即本門の戒壇の大御本尊に巡り値うことができました。
末法の法華経の行者に値うことさえ難事中の難事であるにもかかわらず、さらにまた、大聖人が『立正安国論』を著し、衆生済度の大悲願である立正安国の道理を説き明かされてより、750年の大佳節にまで巡り値うことができました。
地涌の菩薩としての我が身の福徳、宿縁深厚なることを考え合わせると、今ここで、私たちは一人ひとりが破邪顕正の折伏行に奮い立たずにはいられません。地涌の菩薩としての使命と責任を果たさずにはいられません。
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