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那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

八王子早稲田会の総会に行って大酒を飲んだ感想

2013年06月07日 | 世直しのためにどうすべきか

昨日、6月8日は夕方から「八王子早稲田会」の総会があり、幸い晴天だったので出かけてみた。

まず私と八王子早稲田会との縁は、10数年前から行きつけの居酒屋で知り合った方(もちろん大酒飲み)が三多摩地区の稲門会の役員で、その方に入会を勧められたことから始まる。現役で大学で教えていたときだった。4年程前には幹事に任命されるなどして協力出来たのだが、その後様々なことが続いて大病を患い、お手伝いが出来なくなっていた。なるべく外へ出て交友の場を広げるよう、と思っている矢先に総会の通知があり、懐かしい先輩や現役の学生たちの顔を見て、感じることがあったので今回のブログで取り上げる。

まず普通、早大のOB会は「○○稲門会」と名称が決まっているが、八王子の場合は非常に古くからOB会が作られていたのであえて「八王子早稲田会」で通しているらしい。(ブックマークにHPをリンクしておいたので、興味のある方はご覧下さい)

総会の後の講演会から出席したところ気仙沼稲門会の幹事長が、東日本大震災の復興の模様、今後の課題などについて語っているところだった。私はかなり疲れていたので、話を聞きながら数息観(丹田呼吸による瞑想の一つ)をしていたらどうにか体調が蘇った。次いで懇親会になって、肝臓、糖尿病に悪いがたまにはいいだろう、とビールやスコッチを飲み、久しぶりに全員(70名ほど)で肩を組み「都の西北」を歌い、とたんに元気が出た。楽曲を貼っておく。http://www.youtube.com/watch?v=uQmSr7_b9_U

そういえば鬱病で苦しんでいた学生時代、このyoutubeの画面にも出てくる大隈講堂の時計台を見ながら校歌を心の中で歌ったら一発で鬱症状が治ったなぁ、と思い出した。この校歌が特に優れているのは曲がいいのは勿論、3番共に「理想」という言葉が出てくる点だ。

 

相馬御風 作詞 東儀鉄笛 作曲

1.

都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校

われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立

現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや

わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

2.

東西古今の 文化のうしほ
一つに渦巻く 大島国の

大なる使命を 担ひて立てる
われらが行手は 窮り知らず

やがても久遠の 理想の影は
あまねく天下に 輝き布かん

わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

3.

あれ見よかしこの 常磐の森は
心のふるさと われらが母校

集り散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光

いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の 名をばたたへん

わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

____________________

相馬御風は口語自由詩の詩人で良寛の研究者でもあった。「カチューシャの歌」「春よこい」などの作詞も手がけている。東儀鉄笛は雅楽の家柄に生まれ役者としても活躍した。西洋音楽も学んだが「都の西北」の独特の高尚で優美な雰囲気は雅楽と西洋音楽のフュージョンで、当時は非常にハイカラだっただろう。イェール大学校歌が下敷きになったとの研究もある。いずれにせよ早稲田の根本は在野精神と共に、理想主義、ロマンティシズムである。

ところで、ブログの愛読者の方ならご存知の通り、私は「最近の早稲田はダメになった」、「入学した時点でダメになっていた」とよく書く。二次会で政経学部の学生から話を聞いたところ、この論は想像以上に当たっていた。以下、箇条書きで纏める。

①ダメになった理由の一つは、昔は早大の先輩が大学教員になって後輩に教える、という兄弟的な親身な関係だったものが、次第に国公立出身者の教員が多くなり、在野精神、反骨精神がなくなっている、という私の持論に対して、「その通り」との答えだった。ちなみに、私は彼らを官学出身者と呼んでいる、と言うと、その学生もこの呼び方を気に入ってくれた。

実際、私が教えていた頃はまだ教員の多数派は早大出身者だったようだが、中に「母校愛なんて言ってたら今時の学生に馬鹿にされる」と言った人物がいた。彼は官学出身者だった。この感覚の開きには公務員と自営業の差ぐらい埋められない溝がある。

②話を聞いて愕然とした事実がある。私の学生の頃は、六大学野球の最終戦:早慶戦が土日に行われ一勝一負で決勝戦が月曜にずれ込んだ場合、教員は当然授業を休みにして、中には「この授業の出席不足の者でも早慶戦のチケットの半券をレポートに貼り付けたら優にする。絶対に応援に行きなさい」という、ものの分かった先生が何人もいた。私も、今は無き一文、二文の非常勤講師だった頃、同じ規則にしていた。ところが今の早稲田の教員はその古き良き伝統を全く無視して休校にしないのだという。

これにはあきれ果てた。教育者として自分の授業の一コマがそれほど重要だと思っているのだろうか?傲慢なのか鈍感なのか薄っぺらい人柄なのか理解しがたい。母校の運動部を応援し、隣に座った名前も知らぬ学生やOBとスクラムを組んで応援歌を合唱し胸を轟かせる体験は、どんな立派な授業でも教えることが出来ない貴重なものである。

誤解を恐れずに言えば、武士道における「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」(この詳しい解説はhttp://yururi.aikotoba.jp/samurai/spirit/nitobe2.htmlを参照)、もっと簡単に言えば、同じ大学の仲間の日頃の鍛錬を、称え、応援し、励まし、一喜一憂し、酒を飲み交わすことで、自己中心の世界観よりも遥かに感動的な友愛精神があることに気付く、その場を今の教員たちは奪っているのである。早大OBとして、野球に限らず、対抗戦の大事な決勝が行われるときは、応援に行った者は出席と見做す、という校則を作ることを真剣に提言する。

③非常に面白いことに「ワセウヨ」という言葉が生まれていると聞いた。つまり母校に誇りを持つ学生たちを「ネトウヨ」をもじって「ワセウヨ」と呼ぶらしい。私は可笑しくて笑ってしまった。私は学生時代に「早稲田ナショナリスト」を自称していたし、尊敬すべき先輩たちの中には「ネトウヨ」ど真ん中の方々もおられ、私自身も「ネトウヨ」と思われているかもしれない。どうでもいいことだが、それは蔑称なのか尊称なのか微妙なニュアンスを知りたかった。

ともかく、久しぶりに大酒を飲み、私としては大枚をはたいて深夜まで騒いできた。糖尿病・肝臓病の重症者にとってはタブーだったが、驚いたことに今朝起きたら嘘のように体が軽い。何事も中庸が肝心で、真面目な闘病生活の合間に時々掟を破ってストレス発散するという、両方のバランスが取れているのが健康の秘訣と改めて知った。そういえば早稲田のモットーは「よく学び、よく遊べ」だった。確かに大学生、大学院生の頃は、思い切り遊び、その代わりに同じエネルギーで学んだものだった。私が現役の頃と比較するとかなり線が細くなっている気がするし、先輩たちから見るとさらに物足りないだろうが、このような時代の閉塞感を打ち破るのは自分たちだという気概を現役の学生は忘れないで欲しい。蒋介石も孫文も中国革命の英雄たちが集い、暖かく応援したのが早稲田の懐の大きさである。

最後に、八王子早稲田会は会員の拡大に力を入れていると聞いた。早大OBは八王子に800人ほどおり、会員は200人強とのこと。OBでなく現役の学生でも入れるようなので、関係者の皆様はぜひ左下のブックマークから入会手続きを取ってください。以上です。

 


呉竹会を紹介します

2013年05月19日 | 世直しのためにどうすべきか

ブックマークに「呉竹会・アジアフォーラム」を加えました。

これは大アジア主義のシンボルといっていい頭山満の顕彰会であると同時に時事問題に関しても議論・情報を発信する組織です。

私は①思想が100%同じ人間も組織もある筈が無い、しかし②山頂が同じなら大同団結して登攀しよう、③思想は常に柔軟に、イデオロギー化しないこと、④声無き大多数の良心を信じ、⑤人それぞれの立場で世直し運動が出来る(政治家、宗教家、芸術家のみならず主婦、子供、サラリーマン、自営業者、国民の全てが主人公である)

という対立点より共通点を重視する立場です。この点から呉竹会は、文章を見る限りでは、久々に胸に響くものがありました。読者の皆さんにぜひブックマークを押して頂くことをお願いすると同時に、頭山満の思想の一端を引用します。

http://www.kuretakekai.jp/touyama_spirit/index.htmlより

______________________

東洋のルソーと呼ばれた自由民権運動家の中江兆民は、頭山満翁のことを「一年有半」という著書の中で、「頭山満君、大人長者の風あり、かつ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君有るのみ、君言わずしてしかし知れり、けだし機知を朴実に寓する者といふべし」と評しています。

中江兆民と頭山翁が民権派の集会で出会ってすぐに意気投合し、三日三晩も飲み明かしていたという事実を聞くと、いくらか<違和感>を感じられる方もおられるかもしれません。

でも、それは戦後の左翼、右翼というステレオタイプの決め付け方が邪魔をしているせいでしょう。 とりわけ「玄洋社」の前身としてあった「向陽社」は当時の板垣退助が設立した「立志社」に匹敵する、いや一時期はそれ以上の「自由民権運動」の政社であったのであり、植木枝盛と頭山翁の交友も含めて、「権力におもねらない在野精神」はなんと、大杉栄や伊藤野枝にさえも資金援助をしていた事実にまで繋がり、実に新鮮な驚きをわれわれに与えてくれます。

民権主義か国権主義かという二者選択的な視座では、全ての日本人が国家の未来を真摯に考え模索していたという「ナショナリスト」であった時代の空気を確実に捉えきれないとしかいいようがありません。

そうした、戦後の「冷戦構造的思考」から脱却して、「明治日本」の息吹に同化しながら、あらためて「頭山満と玄洋社」にまなざしを向けてみると、今日の政治家が失ってしまっている「名利を捨て公に尽くす気概」というものをひしひしと感受することが出来るのです。

呉竹会・アジアフォーラムは、そうした「頭山精神の顕彰」という作業を一つの課題として掲げています。そのことは、そのまま「近代日本史の正視」というもう一つの課題に繋がり、さらに、三つ目の「アジアの中の日本」という、古くて新しい課題の前にわれわれを導くのです。

そして、それらを正しく見据えることこそが、「しなやかな竹の精神」の復権へ向けた志操の練磨 だと考えています。

頭山翁と玄洋社の活動は、決して「右翼や超国家主義」として括ることなどできません。もっと深く「歴史的意義のある存在」だったとわれわれは確信しています。われわれは、ぜひとも、先入観を捨てて先人の足跡を見つめなおしていただきたいと思っています。

最後までご一読くだされれば幸甚です。

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なお、先日紹介した中村天風は頭山満の弟子に当たり、次のようなエピソードが残っています。(「哲人中村天風」より)

 
「北京のある理髪店の二階で、頭山満翁が孫逸仙と会合せられた。哲人(中村天風のこと)もその席におられたが、たまたま下に飴屋が来た。頭山翁は甘いものが好きなので、二階に呼んで、飴の入った重ね箱の中から、『あれがよい』『これがうまそうだ』などと言いながら、物色中‥‥突然その飴屋がピストルを頭山翁につきつけた。
頭山翁は少しも騒がず、煙草をとられた。‥‥孫逸仙がマッチで火をつけた。
頭山翁は、一服深く吸い込んでフーッと突きつけたピストルに煙を吐きかけられた。
飴屋は度肝をぬかれたか、ピストルを落として逃げ出した。すかさず、哲人(天風)は、その腰の辺りを蹴って、階下にけ落とされた。
『このピストルは返してやれ』と翁がいわれるので、下へ降りて行き、気絶している飴屋の腰に、ピストルをつきこみ、『おととい来い』と腰のところを、もう一つ蹴って、二階に上がって行き、『さぞ、驚きなさいましたでしょう』と言ったら、『驚いたって、間に合わぬよ』と、翁は言われた。」
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さて深夜過ぎたので簡単ですがこれで失礼します。
 


 



悟りの世代?教育改革(4)

2013年05月15日 | 世直しのためにどうすべきか

西村修平さんのメルマガ「愚かなり橋下徹大阪市長」が届きました。いつもの様にブックマークをクリックして下さい。

チンコ廃止を求める会 ttp://www.pachinko-abolition.net/ からメルマガが届きました。長い文章ですので左記のurlから更新情報などご覧下さい。

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私は様々なメルマガが読めるように設定しているので50前後のメールが毎日届きます。その一つに、
『三橋貴明の「新」日本経済新聞』があり、この人はアベノミクス推進派ですが、河野・村山談話踏襲、TPP参加などを通して最近安部総理批判に変わってきました。

日本の首相は結局アメリカのイエスマンに成るしかないのでしょうか?忘れられないのが小泉元首相が「ブッッシュポチ」と言われたあのパフォーマンス。ブッシュ大統領の前でエルヴィスのモノマネを晒した姿には愕然としました。

都市伝説の一つですが、そうなるのはアメリカが「人工地震」を起こす技術を持っていてそれで脅かされる、あの東日本大震災もそうだった、という噂がネット上のアチコチに流れています。都市伝説やトンデモ学説は、所詮はトンデモ伝説ですが、中には多少の事実も混じっていると思います。

人工地震でなくてもアメリカの核の傘の下で守られている現状ではそうなるしかないのでしょうか?それはそれ、これはこれ、で堂々と日本の主権を貫く総理が出てこないものかと思います。

前回はイジメが現在どれほど末世的になっているかを取り上げました。ゆとり教育という愚民化政策で育った人たちを「ゆとり世代」というのに対して、今の若者は「悟り世代」というそうです。将来偉い人になりたくない、大企業に入りたくない、食べて生きていければいい、結婚も面倒だ・・・という諦めの心境だそうです。確かに良寛さんも

          焚くほどは風がもてくる落葉かな

と詠んで折角の厚待遇を断っています。しかし、言うまでもなく「悟り世代」とは次元の違う悟りです

私は「動物や幼子は最初から悟っている。十界論の畜生界というのは人間の心を例えたもの」と普段から言っていますが、これも方便として言っているだけで実際は違います。

悟りは自我が芽生えて自己中心的な世界観に囚われた状態から、鍛錬によってその世界観を一旦白紙にして本来の面目(「父母未生以前本来の面目」、父母が生まれる前の私)に気付くこと。さらにその状態から敢えて俗気を纏って実社会に生きること、と私は理解しています。

動物や幼子はこういう屈折した訓練がないまま、ほぼ丸出しの自然状態にあるために、最初から偏った自我によるエゴイスティックな世界観をもっていません。あるいは非常に素朴なバイオプログラミングされただけの可愛いエゴイズムの中にあると言い換えてもいいでしょう。動物や幼子は「働かず繕わず元のままの仏」の状態にあり、結果はそっくりですがプロセスが大きく違うわけです。

同様に「悟り世代」は結果だけは聖人の姿のように見えますが、克己し鍛錬するプロセスがないまま諦観あるいは無力感に留まっている状態です。(ついでに言えば、さきほどから「鍛錬」「訓練」という言葉を使っていますが、これも本当はそうではなく、自我や自意識に囚われ生きているよりも坐禅をするほうがはるかに面白いから続くわけで、刻苦勉励では長持ちしません)

では、悟り世代が続いた末にどうなるのでしょう?当然日本は滅びますね。しかし、敢えて楽観的な立場から見れば、本当の危機感が生まれ、声無き大多数が行動し始める絶好のチャンスのように思えます。

以下、中村天風の言葉です。

万が一将来、わが日本を滅ぼすものありとすれば、それはけっして日本以外の国ではない。日本人それ自身である。

歩譲って、いくら磨いても玉にならないとしてもだよ、磨かない玉よりはよくなるぜ。ここいらが非常に味のあるところじゃないか。

人生あまり難しく考えなさんな。暗かったら窓を開けろ、光がさしてくる。


このごろのイジメの深刻さ 教育改革(3)

2013年05月09日 | 世直しのためにどうすべきか

フォントの問題がgooブログ側でなかなか解決しないので、とりあえずhtml編集で設定した、過去の記事との調整は後回しにする。

知り合いの方から「最近の子供は変らしい。反抗期がなくて親にも教員にも反抗せず、イジメだけが陰湿になっている」旨の話を聞いた。

昔作っていたHPで私は「苛められっ子のために」というエッセーを書いたことがあり、自分の体験を交えながら、苛める側は黙っているとかさにかかってくるから、一線を越えたらキレて相手に恐怖感を与える行動を取るべきだ、とかなり過激な具体策を示したことがある。これには「よく言ってくれた」というコメントが幾つか届いた。

最近までよくチャットをやっていて身につまされて分かったのは、大人の中に中学生の常連がいて、彼らは非常に真面目で頭がいいのに苛めにあっており、そのチャットルームが一種の癒しの場になっていた。そこで聞いたのは「臭い、と言われる」「久しぶりに登校したら自分の机にお葬式の花と追悼文が置いてあった」「いつも保健室登校している」「教師に訴えても苛めっ子がの親が教育委員会のお偉方だから黙認状態」などなど、色んな情報を得ることが出来た。

http://www.honyaclub.com/shop/goods/search.aspx?cat_p=00&search=%8C%9F%8D%F5&keyw=%82%A2%82%B6%82%DF&image.x=-803&image.y=-140 で「いじめ」で検索すると4600以上の本が刊行されている。一つのジャンルが出来ていると言えるだろう。

以下は文科省のHPから、その下は検索していてたまたま見つけたのだが2ちゃんねる的なブログの、多分中学生同士の会話である。

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いじめの構造(いじめの4層構造)森田洋司1986年
 
いじめる生徒
観衆(はやしたてたり、おもしろがったりして見ている)
傍観者(見て見ない振りをする)
いじめられる生徒
 いじめの持続や拡大には、いじめる生徒といじめられる生徒以外の「観衆」や「傍観者」の立場にいる生徒が大きく影響している。「観衆」はいじめを積極的に是認し、「傍観者」はいじめを暗黙的に支持しいじめを促進する役割を担っている。

いじめの原因と背景
 
1 児童生徒の問題
対人関係の不得手、表面的な友人関係、欲求不満耐性の欠如、思いやりの欠如、成就感・満足感を得る機会の減少、進学をめぐる競争意識、将来の目標の喪失、など
2 家庭の問題
核家族、少子家庭の増加→人間関係スキルの未熟さ
親の過保護・過干渉→欲求不満耐性の習得不十分
親の価値観の多様化→協調性・思いやりの欠如、規範意識の欠如、など
3 学校の問題
教師のいじめに対する認識不足
教師も生徒も多忙で、お互いの交流が不十分
知識偏重など、価値観が限られていると、差別の構造につながりやすい
生活指導や管理的な締め付けが強いと、集団として異質なものを排除しようとする傾向が生じやすい、など
いじめのサイン
 (参考資料 都教育委員会「いじめ防止のための手引き」狛江市人権尊重推進委員会)
 
1
表情や態度: 沈んだ表情。口をききたがらない。わざとはしゃぐ。ぼんやりした状態でいる。視線を合わせるのを嫌う等。
2
服装: シャツやズボンが破れている。ボタンがとれている。服に靴のあとがついている等。
3
身体: 顔や身体に傷やあざが出来ている。マジックで身体へのいたずら書き。登校時に身体の不調を訴える。顔がむくんでいたり青白い等。
4
行動: ぽつんと一人でいることが多い。急に学習意欲が低下。忘れ物が多くなる。特定のグループと行動するようになる。使い走りをさせられる。プロレスの技を仕掛けられる等。
5
持ち物: 持ち物がしばしば隠される。持ち物に落書きされる。必要以上のお金を持っている等。
6
周囲の様子: 人格を無視したあだ名を付けられる。よくからかわれたり無視されたりする。発言に爆笑が起きる等。

_________________________________

37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 04:51:53 ID:jKiMN5nB0

勇敢にイジメを止めに入った学級委員長がフルボッコにされてたの思い出した 
そらそうよ
 
39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 04:52:53 ID:Ar89IE+IP
>>37 
止めるんじゃなくて、止めるべき人や止めれる人を読んでくるだけでいいのになwww

45: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:03:32 ID:hD6sxBTAO

>>39 
結果的に同じことになるでしょ 
学校のイジメに関しては学生の手に負えないよ 
同い年の複数人が悪意を持って1人を攻撃してるのを止められるわけない 
教師なり保護者なり1ステージ上の人間が介入しなきゃダメだよ
 
46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:04:45 ID:Ar89IE+IP
>>45 
そうだから、委員長が止めるんじゃなくて教職員を読んで来い!っていう意味でした…

48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:08:34 ID:hD6sxBTAO
>>46 
教師呼んできた奴がバレて後でボコボコにされて虐められるよ

53: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:15:04 ID:Ar89IE+IP
>>48 
そんなの教師がこってり絞っておけばいい。 
ボコボコにするような気力削ぐように指導あるでしょ。

55: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:19:49 ID:hD6sxBTAO
>>53 
教師にそんなことできるならイジメなんて存在しねぇよ
__________________________

社会の閉塞状況を示すなんともやりきれない記述の数々である。匿名の表記が同じなので
http://nyaasokuvip.blog.fc2.com/blog-entry-1584.html の一部だと思うが、ここには次のような書き込みが続いている。
________________

142: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/03/26(火) 13:21:33.88 ID:ArK701u60

実際問題会社でもいじめは存在するんだし、大人がいじめを辞められないのに 
学校からなぜいじめはなくならないのか、っていうのは正直ry 少なくする努力や気配りはすべきだがな


149: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/03/26(火) 13:25:21.59 ID:vqs18OdN0

いじめ止めようとしたら自分がいじめられる 
それ考えると見て見ぬふりも仕方ない 
加担しないだけマシ 

俺がいじめられてた頃も「逆の立場なら俺も見て見ぬふりするだろうしなー」とか考えて腹立たんかった
___________________

早い話、大人社会を含めて時代のエトスが思い切り保身的になって、長いものには巻かれろ、抵抗しても無駄、という空気が支配しているため「正義感の強い人間が損をする」だから自分は「傍観者になる」「どこが悪いか」という諦めの思想が出来上がっている。
 
そう言えばチャットにも「正義なんて言葉は嫌いだ」という意見がしばしばあり、正義を主張すると「カッコつけ」「偽善的」と絡まれる風潮があるぐらいだから「道徳教育」などというと、右翼か、としか思われないだろう。

こういうエトスの中では、大人は否応無く「狡賢く生きる」ことが要求される。子供が上記のようにイジメの問題について議論するだけまだピュアな部分が残っている証拠と言える。

文科省の分析は正しい部分もあるが(核家族の問題など)、自我心理学的分析が全く無いのが物足りない。
 フロイトとその継承者たちは「性悪説」の立場に立って、人間の無意識には快感原則(欲望のエネルギー)があり、これは、何々したい、という身勝手な叫び。一方、何々してはいけない、何々すべきである、という超自我が半無意識的に存在し、多くの場合は親の教育によって育まれる。この欲望と道徳的規範、また現実社会のルールの間に立って欲望を現実原則に沿うように調停するのが自我の働き・・・大雑把に言えばこのように解説できるだろう。

自我が巧く働いた場合、快感原則は文化的創造などに昇華され社会的評価を得ることが出来るが、超自我が弱ければ犯罪を犯し、強すぎると神経症などを引き起こすことになる。自我は無意識と環境によって、名裁判官、名カウンセラーにもなりうるし、どうしようもない反社会的人格を形成する可能性がある。(今時フロイトは古いかも知れないが、私は唯識論と共に非常に参考になり、尊重している)

こういう事情で、個々の人格形成は良心の基盤となる親の言動や社会の善悪のルール次第でどうにでも変化する。
 例えば戦争状態という時代のエトスの中では「国のために死ぬ、敵を殺す」のが正しい人間と評価されるだろう。逆に平和で一種の徳治政治が行われている社会では善良で正直な人間が評価されるだろう。

戦前の日本人は「神仏儒」の教えが交じり合い「悪いことをしたらお天道様が見てるよ」という暗黙の気風があった。
また、武士道や商人道、職人気質、農民にも二宮尊徳のいう報徳思想などが残っていたが、これらの規範は計画的かつ巧みに壊されてしまった。
 三世代同居が当たり前だった時代では、祖父母が孫たちに生き方と同時に自分の死を看取らせることで「死の現実」「命の尊厳」を教えることが出来たが、核家族社会では「死」はリアリティを持たずビデオやゲームといった架空世界のものとなった。
 悪い意味での男女平等が主張されて父親が権威を失ったために超自我の生まれるエディプスコンプレックスとその克服の環境が希薄になった。子供たちの目線から見れば、父親も教師も反抗する価値さえない下らぬ存在なのである(あくまでも第二反抗期の話)。

このような社会が産み落としたのが「デモシカ先生」(先生にデモなろう、先生にシカなれない)、モンスターペアレント、モンスタースチューデント、そして第二世代のデモシカ先生=モンスターティーチャーの三者が作り上げた「イジメという文化」である。

ではこういう閉塞状態を打ち破る処方箋は?の問題になるが、それまで書いていると夜が明けてしまうし、分かっていれば苦労しない。個別のイジメだけの問題なら答えは単純だが、そういう文化を生んだ時代全体を変えるのは容易ではない。
 確実に言えることは、確信犯的な「悪の論理」に対して純心な「善の論理」では絶対に勝てないという事実である。悪の論理は自分たちの所属している社会が「悪である」ことを自覚した上で平然と虚言を重ね、中傷し、殺人まで犯す。こういう相手に一人で真っ正直に戦おうとすると「勇敢にイジメを止めに入った学級委員長がフルボッコされた」のと同じような結果になる。だから声無き大多数との団結が大前提で、後は「諦めず時を待つ」ことだろう。

微笑禅の会を作り「見性体験記」を記しながら、私が敢えて「大いに執着心は持つべき」と述べているのはここに関わっている。菩薩行を実践しようと思えば何らかの行動を起こすにも、健康、体力、経済力が必要になる。ここを理解せずに無や空ばかり唱えるのは、どこかが根本的に抜けているか歪んでいる証拠であり、現実は少しも変わらない。慈悲と愛語が怒りや批判と同じ箱に入っているように、色即是空と空即是色は表裏一体である。つまり、今、ここで、自分に何が出来るか、を問い続け、負けない闘いを実践すること、これが最も大切なことである。

大乗の修行は、「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす。」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ。(沢木興道師の言葉)
 

教育改革について(2)

2013年05月05日 | 世直しのためにどうすべきか
まだこのブログのフォント、小さくて書きにくいですね。ほとんど勘で書いてる感覚です。後でフォントを大きくすることは出来ますが、書く前にフォント変更が出来ない状態。Gクロームをインストールし直したり復元などすると過去の文章が消えるので、粘り強くgooブログの回答を待っているところです。

西村修平さんのメルマガで、酒井信彦の日本ナショナリズム『シナ侵略主義を跳ね返せ』 『月刊日本』2013年5月号 羅針盤 2013年4月22日
http://sakainobuhiko.com/2013/05/post-225.html#extended が紹介されています。
西村さんの活動の最新記事はいつもの通りブックマークからご覧下さい。「主権回復式典」批判です。朝日新聞にも「天皇、皇后両陛下も出席したが、お言葉はなかった」とあり、西村さんは「天皇、皇后両陛下の表情に笑みの欠片さえ窺えなかった」と書かれています。

私は日本は文化大国・技術大国として世界をリードし、功利主義が支配するアメリカに日本の精神文化を教えると同時に、いい意味での大アジア主義を貫くべきという考えです。自国政府を批判し日本と友好的なアジアの人々と対等な立場で連帯するという伝統的な愛国者の立場で、むしろ何人もの在日中国人から「日本と中国は連帯すべき」と言われました(ついでに台湾の独立も認めてくれるといいのですが)。
 突拍子も無い話をすれば、現実味は無いにしても「自共連立政権」が出来たら最強なのに、と空想します。理由は単純で、自民党は最も手強い相手と組むことで嫌でも自浄作用(他浄作用?)が働くと同時に共産党も批判専門野党の立場を超克せざるを得ず、統制経済と自由主義経済が巧く融和されるからです。ちなみに「共産党」というネーミングを変えたら支持率が上がるし自分も投票するのに・・・という声をしばしば聞きます。
________________________
さて、前回の続きです。文科省のHPを見ていたらhttp://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/kaikaku/main4_a1.htm 平成14年から義務教育では完全週休五日制になったようです。心配する父兄の質問に対する文科省の答えは以下の通り。

と書いてコピペしたら、なんと文字と文字の間隔もデタラメな設定になっているので(google日本支社はGWで慰安旅行かな?)簡潔にまとめると土日は体験学習で図書館、博物館、公園等々に行きなさい、との通達です。
 待てよ、と言いたいですね。東大卒業生が中心を占める文科省の官僚自身は土日はガリベン君だった筈。私の同級生もそうでした。体験学習は社会人になれば嫌でも出来るのだから、義務教育の時ぐらいはきっちり学校に通わすのがスジでしょう。これは教員に休みを与えたいのか、愚民化教育を進めたいのか、どう考えても不自然です。体験学習が義務でない以上、小中学生は結局ゲームに夢中になり、難関校を目指す子供たちは塾に行くに決まっていますよね。これも以前、ある教員に質問したら「休日を増やしてスケジュール通りに授業を進めるのは無理。我々も困っている。どうにかならないか」という答えでした。

時短ですら、最初は経営の神様・松下幸之助が試みて成功した制度のようですが、これを逆手にとって「日本人は働きすぎ」と外圧が掛かり、役所と銀行が真っ先にそれを取り入れました。普通の人が役所や銀行に行けるのは土日に決まっているのに何をやっているのかと思います。昔から私は役所民営化論者でした。ドイツのようにボランティア精神が強い人を募り、月収15万程度で厳しい規律を残したまま、交代制で土日も休まず仕事をすればどんなに市民が助かることでしょう。銀行はさらに3時閉店です。倒産するところを血税で助かったことを忘れたのでしょうか?お金やそれに纏わる手続きが動けば動くほど経済は活性化するので、お金が動くのが余程嫌なのか、と思ってしまいます。さらに宗教法人の優遇税制を撤廃すれば消費税を上げる必要はゼロどころかお釣が来る筈です。

大学教育も同じです。
 私が非常勤講師だったとき、学生から「○○先生の授業が面白くない。ノートを読んでブツブツ独り言を言っているだけ」等々の不満をよく聞きました。それは大学教員が「教授法(教え方)」を知らないからです。これは圧倒的に予備校講師のほうが上手です。というのは人気がないと直ぐにクビになるからです。それを指摘したら「私はアカデミシャンだからそんなことはどうでもいい」と開き直った同僚がいた程です。
 要するに親方日の丸と瓜二つの精神構造になって高給と身分保障の上に胡坐をかいているわけですね。「先生と言われるほどのバカで無し」という川柳があります。私はさらに「教授教授と威張るな教授。教授オタクの成れの果て」というザレ歌をHPに書いたら、在日米人の研究者が共感して自分のサイトに引用していました。今でも残っているかもしれません。

あるエピソードを語ります(自慢話です)。私の授業は確か3年目で50人教室から200人教室に移動になって伝説の授業と先輩から後輩に語り継がれました。大学に自分の提案を出したところ拒否されたので「バカらしいから退職する」と宣言したら「辞めないで欲しい」という声が圧倒的でした。今でも学生が書いたレポートや私信をダンボール1箱分ぐらい証拠保存しています。
 また「とにかく学生の映像作品がコンテストに受かるように組織的に支援することが一番大切。そうすれば大学の人気も学生のモチベーションも高まる」という提案に対しても「大学はそういう場所じゃないから」等々、誰も賛同しなかったのに、今見るとそれを売りにしています。これには唖然としました。

もう一つ舞台裏を話します。私の専門は映画研究でしたから具体的にいうと大抵の大学教員は「映画研究者や映画関係のプロは、学生100人いたとして一人出れば大成功」と考えています。事実私は耳にしました。すると残りの99人は授業料をドブに捨てているわけですね。教員から言えばいいカモに過ぎません。私はそうならないように授業を工夫して、映画論のポイントだけはきちんと抑えながら、意図的に総合文化論に変えていました。まず冗談で始まり、名曲を聞かせて解説し、本論に入り、時々脱線しながら別の話題に変えるなど、その技術は中学高校生を教える塾を経営していたときに自然と身につけました。

今の早稲田はダメになった、という話は前にも書きました。その原因の第一は時代のエトスの変化ですが、もう一つはハエヌキでない国立大学の教員が増えたためだと分析しています。早稲田の良さは

①同じ大学を出た先輩が後輩を指導する親身さと名物教授が何人もいたこと。
②地方出身の秀才が集まって、よく遊びよく学びながら、学生同士で切磋琢磨したこと。
 
の二点に要約できると思います。さらに、私が入学したときの早大第一文学部は43倍でほとんどが一発勝負でした。合格発表の掲示を見に行ったら最初の100番まで全員不合格だったことを覚えています。ところが少子化で倍率が落ちたのは仕方ないとしても、付属校(小学中学まで作ろうとしている)の裾野を広げ、一芸入試など所謂AO入試が広がったために①も②も実質的に消えようとしていています。これでは早稲田の魅力がなくなり慶応と同じになってしまいます。

長くなるので名物教授の思い出は別途書くことにして、私が提案する教育改革は

大学を株式会社にして正教員は一定以上の株主になることを義務付けるです。

大学が倒産するときは共倒れになるという危機感が芽生えたらもう少し工夫をするでしょう。ではこれで失礼します。


教育改革について

2013年04月30日 | 世直しのためにどうすべきか
案の定nttのリモートサポーターでは対応が出来ずgooブログも混乱中で解決方法がまだ届いていません。こんな小さい文字で書くのは疲れるので簡単に。
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西村修平さんの活動報告 「長野聖火リレー暴乱5周年(池袋 平成25年4月26日)」は左下のブックマークをご覧下さい。

瀬戸弘幸さんのhttp://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52958670.htmlは痛快です。

また「パチンコ廃止を求める会」メールマガジン編集部から様々な情報が寄せられました。ぜひメルマガ購読をお奨めします。
http://www.pachinko-abolition.net/

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私が「ロータス文化学院」や「那田塾」を企画しているのは、一言で言えば教育改革です。
また、私の父が戦前の小学校の校長で山村教育に青春のエネルギーを注ぎ、私も中学高校の学習塾を経営した後に大学で非常勤講師を長く勤めたので、親子二代で小学、中学、高校、大学で教えてきたわけです。私だけでも延べ20年は教育畑にいました。

Q&A形式で勉強のコツを話します。

Q:世の中に出ても役に立たない勉強を何故する必要があるのか?
A:頑張って勉強して成績が上がると、自分も親も嬉しい。先生からも褒められる。こんな純粋な世界はない。
ところが世の中に出ると、ゴマスリとコネのほうが重要だから成績だけでは出世できない。だから今のうちは純粋な世界を楽しんだほうがいいよ。

Q:私は頭が悪いから勉強できない。
A:脳細胞を調べると無限の記憶容量があり、その数パーセントも人間は使っていない。だから「頭が悪い」ではなく「たまたま嫌いで勉強していないだけ」。やる気になったら100点満点取れると思って、頭が悪いと口にしない、思いもしないこと。自己暗示にかからないように注意してください。

Q:どうしても英語が苦手です。
A:脳に疾患がある場合を除いて頭が悪いから日本語が喋れない人間はいない。アメリカ人が英語を話しているのを見て「スゴイ、英語が喋れる」と驚いた人がいる、というギャグがあるけど、蜂が誰に教わったわけでもないのに自然に幾何学的な巣を作ることが出来るように、言葉の能力は先天的に人間に備わっている。ヨーロッパなどは国境を接しているためにフランス語、ドイツ語、イタリア語、そして英語が喋れて当たり前で、これは頭脳の問題ではなく環境の問題。生活をする上で必要だから自然に覚えるだけです。
 環境ともう一つ大切なのは動機付けと思い込みです。小さいときに学ばないと外国語はネイティブなみになれない、と言われるけれど例外があります。宣教師などの場合は「神の教えを広めるため」という強いモチベーションがあり、また正反対ですが、アノ松田聖子ですら「アメリカ人と付き合いたい」「アメリカで売れっ子になりたい」という動機があったので一応英語はペラペラのようです。
 もう一つは日本で生まれた在日外国人が典型ですが、自分のの先祖に中国や韓国の血が混じっていると知った場合は、大人になっても例外的に早くマスターするようです。思い込みの力ですね。

Q:でも記憶できない。記憶するコツは?
A:記憶のコツは感動と一回忘れること。面白くて読んだ小説や、面白くてクリアしたゲームは自然に覚えている。これは記憶には「面白い」という「感動の裏づけ」が必要な証拠。だから英単語でも一度覚えて、綺麗に忘れて、再度見たときに、「あ、前に読んだ記憶がある」と感情が働くと今度は記憶に定着する。ネイティブの発音を真似しながらスペルを書くと「聴覚、視覚、触覚」の3つが同時に感覚を刺激するから覚えやすいよ。嫌いな科目は上手に「勉強」ではなく「ゲーム」にしてしまうと最強なんだけどね。
 あとは、ルール通りのものと、例外を分ける整理術。片づけ名人は秀才になるから、お母さんの片づけを手伝うといいよ。

Q:先生が嫌いだからやる気にならない。
A:よく分かります。私も高校1年の時の数学教師がいい人だったので楽しく勉強できたけど2年になってから嫌味な教員に代わり嫌いになった。これはどうしようもないな。特に10代は感受性が豊かだし。一つの方法としては、その科目が得意な友達に教えてもらって、嫌いな教員を無視することかな?
 
Q:でも先生に気に入られないと内申点が悪くなる。
A:それが一番の問題。中学校の内申点と学力の関係は3:7や4:6などそれぞれ違うけど、段々内申点が重視されるようになっていると感じます。私の娘も高校受験の試験の得点は合格者の平均点を上回っていたのに内申点で落ちて私立高校に行きました。これは教師に服従する生徒が有利になる、子供が保身的になるという意味でダメな制度の典型だと思います。個性の強い子供、鋭敏な子供が疎外されてしまうよね。唯一の解決策は教員が文句を言えないぐらいの成績を取ることぐらいかな。定期的に生徒が教師を採点する制度があるといいね。

その他、様々な質問はブックマークに入ってこのブログが入っている「ロータス人づくり企画」から問い合わせてください。個別に答えます。

自公連立政権批判が広がっている

2013年04月21日 | 世直しのためにどうすべきか
腱鞘炎、その他重要な雑事、この陽気など重なりブログ更新がままなりません。
当分は以前のような長文は無理ですので、短い文章に留めます。

西村修平さんは
「自公連立と保守派の堕落を糾す!」(左下のブックマークをクリックして下さい)

瀬戸弘幸さんは
「自公連立は足手まとい」http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52956011.html

と、理由は違いますが愛国運動に一致しているのは公明党が政権に入ったことによる怒りです。愛国運動、世直し運動に問わず、国民のほとんどがウンザリしているのではないでしょうか。

前の衆院選は民主党があまりにだらしなかったのと、真冬の投票(自公の圧勝が見えているのに民主党がなぜこの時期を選んだか不思議です)という史上最低の投票率のために自公政権が誕生したわけですが、主義主張が全く違う両党が連立を組んでいる上、この道はいつか来た道、で国民の積極的な意思の反映とはとても思えません。

まともな成人なら『憚りながら』『黒い手帳』ぐらいは最低読んでいるでしょうし、ネット情報で創価=公明党の裏の顔を知っているはずです。
 自民党良識派は公明党と手を組むのを嫌っている人がほとんどです。

google検索で「創価学会 犯罪」で検索すると400万以上ヒットします。一方「創価学会被害専門弁護士」が一人もいない不思議さが現在の日本の状況を物語っていると思います。需要が山ほどあるのに供給がゼロ、というのは経済の原理ではあり得ない筈ですよね?


政談を少し

2013年04月17日 | 世直しのためにどうすべきか
西村修平さんのメルマガ、『「主権回復式典」の中止を!』 が届きました。このブログの左下に西村さんのブログのブックマークを入れましたのでぜひご覧下さい。ブログに載らないメルマガもありますからその場合は以前同様転載します。

このところ私が多忙かつ体調が悪いために、西村さんの主権回復を目指す会の転載が続いていました。こういう形にすれば、西村さんの活動を一気に見ることが出来る上、私なりの意見も書くことが出来ると考えた次第です。

このブログが入っているHP(ロータス人づくり企画)には「お奨めリンク集」があり、そこには西村さんのブログの他に、瀬戸弘幸さん、阿修羅、その他のリンクが貼ってあります。そちらも合わせてご覧下さい。
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言葉とは面白いもので、私の故郷は旧愛媛3区ですからよく「保守王国」と言われます。「保守」というのは非常に印象の悪い言葉で、談合、馴れ合い、長いものに巻かれよ、思ったことを口にしない、などを意味します。
 さらに面白いのは、これは愛媛でも私の故郷・西予市野村町だけの使い方かもしれませんが、「偉い人」という言葉は「根性の悪い人」を意味する悪口です。だから親は子供に「あんな偉い人になるなよ」と教えるわけです。

脱線しましたが、そういう事情もあり私は「保守」と言わず「革新愛国」という造語を使っています。

都市部がバブル経済で狂喜乱舞していたころ、地方の地方は疲弊する一方でした。当時私は郷里で暮していましたが、商店街を潰して第三セクターによるショッピングセンターに集中させる議会決議に反対して、町議に全員に反対意見書を手渡しし、結果的に潰したことがあります。特別職の人たちが支持してくれたわけです。この手の三セクをやって成功した例は、本来商店街が無かった新興住宅街以外、まずありません。
 
経済面のことだけを言っているのではなく、自営業という小さくても一国一城の主という「自由な精神」が消えてしまい、常に役人に管理される社会に変わっていく息苦しさに私は激しい嫌悪感を覚えたものです。
 
バブル崩壊後は小泉=竹中政権により新自由主義経済が進められました。「小さな政府」で市場原理に任せておけばいい、という理屈でしたが、郵政民営化でどれほど田舎の生活が苦しくなっているか、町村合併でどれだけ過疎化が進んだか、故郷をお持ちの方はご存知の通りです。

今話題になっているアベノミクスの実態はなんなんでしょう?行き過ぎた新自由主義経済の反省の上に立った試みだと思っていましたが、http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:8xKXUtA7SuUJ:www.mitsuhashitakaaki.net/2013/01/09/korekiyo-25/+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jpを見ると

「要するに、これは、世界中を不幸にした2000年代前半のグローバル資本主義の姿です。
このグローバル資本主義の構造を改め、国民本位の資本主義を取り戻すのが、新政権の使命であるべきです。安倍政権が「保守」を標榜するなら、なおさらでしょう。
先の総選挙で、自民党は、「日本を、取り戻す」というスローガンを掲げました。
ところが、取り戻されようとしているのは、「小泉政権下の日本」のようです。
いや、民主党から日本を取り戻して、アメリカに渡すということだったのかな?」

「私も産業競争力会議のメンバーに竹中平蔵が連ねているのに唖然としました。
産業構造を破壊し、生きる希望を失わせた竹中!安部総裁の信頼が揺らいできました。」

などの意見があります。
それにしてもあの異常な小泉人気は何だったのでしょう?タクシーの運転手さんと会話すると「女房が小泉に熱を上げているが理解できない」という言葉を何度も聴きました。日本人の欠点として、ファナティックになる、という側面は確かにあると思います。

今「新自由主義」をwikiで検索したら、言おうとしたことが簡潔に書いてあったので、これを引用してとりあえず終わりにします。
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水岡不二雄によると、ネオリベラリズムは、狭義には、規制緩和・民営化・社会福祉切捨てなど現実の政府が取る諸政策をいう。また、広義には新古典派経済学を基礎とし、市場機能を歪めるとされる政府による介入は民間では適切に行えないものに限定すべきとする市場原理主義思想に基づいて、狭義のネオリベラリズムの政策を推進することにより、資本蓄積と社会統合を図る、資本主義の調整様式のひとつである[28]。

資本主義経済は、恐慌と革命を封じ込めなければ持続性を持ち得ない。新自由主義は、これを実現するために、新古典派経済学の諸前提を宗教の聖典のように絶対化して、この前提を、経済・社会のすべての個人・集団によって実践されるべき規範にまで高め、自己責任や、他者をうらやまない「no-envy」思想などを中心とする市場原理主義の経済思想を作り出した。

これに基づき、低福祉、低負担、自己責任を基本として小さな政府を推進する、ネオリベラリズムの諸政策が遂行された。具体的には、製造業に代わり金融業が経済の中核部門にすえられ、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などが推進された。原子的経済人に擬制された諸個人や国家は、絶え間ない競争状態におかれ、市場原理主義思想を受け入れなければ「負け組」になるかも知れないという恐怖にさらされた。高度な金融技術によって組織された金融業が資本蓄積を保障する一方で、自己責任の原則のもと「負け組」となった人々は、政府や資本主義体制を批判しないよう誘導されて、革命が封じ込められ、資本主義の安定が図られた。これが、新自由主義である、と批判している[29]。
_________________
この他に、新自由主義のパラドックスとして、小さな政府が逆に大きな政府になる、という現実も指摘されています。

「 腐臭を放つ輩「シバキ隊」(西村修平)・・・主権回復を目指す会」より転載

2013年04月07日 | 世直しのためにどうすべきか

腐臭を放つ輩「シバキ隊」
http://nipponism.net/wordpress/?p=21716

<「シバキ隊」、醜悪且つ腐臭を放つ輩だ!新大久保デモに見る「百鬼夜行」 >


送られてきたメールで、「シバキ隊」と称する輩の言動を目にして、怒りを通り越して人としての劣化にただただ溜め息をつかざるを得ない。

槇 泰智は政治・思想運動の傍ら、家族を養うため真面目に仕事を営んでいる。その人と、仕事をオチャラケの道具にして喜ぶとは、何と醜悪且つ腐臭を放つ輩だろうか。

下記に挙げるのはそのメール、パソコンの画面上からさえ、連中の腐臭が漂って来るようでおぞましい。これを槇氏の家族、子供らが見たら一体何と思うだろうか。その心中たるや察するに余りある。

全く関係ない槇 泰智とその家族を貶めて、よくもまあ、この輩は「排外主義反対」とか「レイシズム反対」云々を口に出来るものだ!

人の心に思いを馳せ、公の場所を意識して言動を自制・イマジネイションすることは社会人として基本的な常識だが、それらが欠けたまま成人になった暁には、荒(すさ)んだ、歪(ゆが)みきった人間が形成される実例であろう。

<参考>
https://twitter.com/Kino_Toshiki/status/318293247166402560
Kino Toshiki ?@Kino_Toshiki
今日サウンドカーを貸していただきました、
まきやすともさん、ありがとうございました!!
左翼が使っちゃってごめんなさい(笑)

https://twitter.com/Kino_Toshiki/status/318320486226468864
Kino Toshiki ?@Kino_Toshiki
瀬戸先生、ぜったいブログに「あのサウンドカーは
反日勢力からの提供に違いないだろう」とか書くはず(笑)
いまから笑いをこらえるのが大変(笑)

https://twitter.com/kdxn/status/318378931466170368
野間易通? @kdxn
今日いちばんおもしろかった話は「仲良くしようぜ号」が
まきやすとものレンタカー会社から借りた車だったってことw 
これ木野さん、絶対わざとやったでしょう。

https://twitter.com/yasudakoichi/status/318296821007003649
安田浩一? @yasudakoichi
まきやすともさんに感謝!
RT@Kino_Toshiki: 今日サウンドカーを貸していただきました、
まきやすともさん、ありがとうございました!!
左翼が使っちゃってごめんなさい(笑)”


オチャラケを目的にした「在特会」の血縁兄弟が「野間」であり「木野」 、悪のりする安田浩一氏はその同類といわれても致し方ないだろう。

この「木野」なる人物は、常人が感ずる生理的な不快感・嫌悪感に人一倍の愉悦を覚えるらしい。知性と品性を欠き、何の取り柄もない「おちょくり」を皮肉(シニカル)と錯覚したまま、一人で悦に入っている。この人物、外面は人間づらしているが、心の内はゾンビに例えられようか。

槇は、「在特会とその仲間」が集う新大久保デモには一貫して批判的であるが、「シバキ隊」とやらには全く関知していない。にもかかわらず、その槇に「木野」と「野間」たちは何を目的に何をしたいのかさっぱり見当がつかない。あえて詮索すれば、「今日が面白い」(野間)とする刹那的生き方に辿り着くのだろう。だとすれば、彼らは正しく「在特会」と血縁の兄弟そのものである。

人としての信義が欠落し、不誠実かつ不真面目な人間、世間ではこの手の類を 「人間のクズ」とも言う。これらの類に共通しているのは、皆が皆、揃いも揃って重度の“ツイッター中毒患者” であるという点だ。映像で見る限り、新大久保デモ(在特会)とそれに対する「シバキ隊」の様相は、あたかも白昼夢に見る「百鬼夜行」の乱舞だ。

「ミイラ取りがミイラに」「朱に交われば赤くなる」 、両者を眺めつつ、ネットとは適切な距離を置くべきとつくづく自戒する昨今である。

ところで、31日の新大久保デモに「シバキ隊」のカウンターを恐れたのかどうか知らないが、高田誠ら音頭を取ってきた連中らが顔を出さなかったという。つまり、ヤバイと察知して逃げたのである。何とまあ卑怯者か、その稀代の卑怯振りは何回も指摘してきた通りであるが・・・。
在特会の呼びかけで集まった「デモ参加者」らも、高田誠らに置いてきぼりにされ、裏切られた現実を少しは学習するべきではないか。

◆写真:雨にも風にもマケズ 毎週決行!韓国大使館へ アンチ「水曜デモ」H25.4.3 第66回

暴風雨の中、慰安婦強制連行の捏造を糾す槇 泰智氏(四谷四丁目交差点、平成25年4月3日)


◆【動画】雨にも風にもマケズ 毎週決行!韓国大使館へアンチ「水曜デモ」
youtube
http://www.youtube.com/watch?v=qyFBPWDbYuw
ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20518647


「「第4回名画鑑賞・意見交換会 『暗殺』(監督・ 篠田正浩)・・・主権回復を目指す会」より転載

2013年04月04日 | 世直しのためにどうすべきか

第4回名画鑑賞・意見交換会 『暗殺』(監督・ 篠田正浩)

ー幕末維新、それは凄惨な血で彩られた革命だったー


【開催趣旨】
日本人の心の繊細さ、多様性を知らずして、わが国の文化と伝統を語ることは難しい。それは感性を養う作業であり、主として我々は優れた文学作品や名画を通し、豊かな心のあり方を会得していく。

第3回目 『暗殺』
 昭和39年(1964)松竹制作 監督・ 篠田正浩 脚本・山田信夫 出演:丹波哲郎、岩下志麻、木村功、小沢栄太郎 音楽・武満徹 演奏・横山勝也(尺八)、一柳慧(プリペアド・ピアノ)

原作は司馬遼太郎の『奇妙なり八郎』。新撰組創設に関わった清河八郎の陰謀と島津藩を巡る寺田屋事件が見せ場だ。

勤皇と佐幕、開国と攘夷を巡り、新撰組のテロと暗殺が公然と行われた。それに対する下級武士集団の壮烈な応酬などなど、「殺るか殺られるか」のただならぬ人間関係に視点を定めつつ、篠田監督は幕末維新の主力を担った青年たちをパセティックに描いた。それは又、明治維新を「無血革命」とする思想の怠惰を批判する行為にも繋がる。幕末維新とは凄惨な血で彩られた正真正銘の革命だった。

※参考
歴史を動かす革命という巨大な舞台は、常に凄惨な血に彩られる。飽くことなく生け贄が晒され、呻き声は舞台に横溢する。しかし反逆者たちはそれを踏み分けて進む。だかららこそ逆に、人は雄大なロマンをそこに見る(野村秋介)

◆【信念を貫けば 十字架が待っている】
http://nipponism.net/wordpress/?p=15776
◆【保守派言論人の怠惰を糾す!】
http://shukenkaifuku.com/past/shuchou/080106.html


日時:平成25年4月14日(日) 17:30開場 17:50上映開始

場所:文京区民センター(2-C会議室) 東京都文京区本郷 4-15-14 03(3814)6731
地図: http://www.jca.apc.org/~monsoon/bunkyoukumincenter.htm
アクセス:地下鉄 春日(大江戸線、三田線)、後楽園(丸の内線、南北線)、JR 水道橋

※会場負担費:300円(任意)

連絡:西村(090-2756-8794)


「井尻先生の本意は何処に・・・主権回復を目指す会」より転載

2013年04月02日 | 世直しのためにどうすべきか

井尻先生の本意は何処に (主権回復を目指す会)
http://nipponism.net/wordpress/?p=21634

<軍事占領下での日米安保条約は無効である>

◆写真:米国大使館へ向け、焼き殺された同胞の無念を弔う(平成23年3月10日 米国大使館前)

重複するが主権回復を目指す会は、肝心な点については何回も繰り返して言わなければならない。

昭和27年4月28日、講和条約が発効すると同時に日米安保条約も同時発効した。同時発行、ここにこそ最大の矛盾、まやかしが存在する。

講和条約発行と同時に、日米安保条約で米国占領軍は撤退せず、引き続き「在日米軍」の名の下で常駐しているのである。本来、対外的条約(日米安保)は戦勝国との講和条約が締結され、わが国の主権が確立・安定した後に、つまり全ての占領軍が撤退した後に結ばれるべきはずであった。

日米安保は米国の軍事占領下において、主権が存在しない状況下で締結された条約であり、こんなもの無効でしかあり得ない。同時発行はレトリックである。

日本全土が、米軍に好き勝手に使用される状況を放置して70年、何が「主権回復式典」か。言うまでもないが、このまやかしの式典を誰よりも喜んでいるのは米国である。式典では駐日米国大使のご臨席を仰ぎ、オバマ大統領の祝辞を披露するつもりなのだろうか。

来たる4月28日、安倍政権と自民党が計画する「主権回復式典」は米国占領軍の実体を隠蔽するまやかしである。この日は、国恥」記念日または主権回復「祈念日」が相応しい。天皇陛下のご列席を仰ぐことで、「主権回復式典」を日本国民に強要するなど許されない。安倍政権と自民党は天皇陛下の政治利用を止めろ。


           公開質問状「主権回復記念日」と祝日化の疑念を問う
               <井尻先生の本意は何処に>

拓殖大学名誉教授 井尻千男先生


平成25年4月1日      
主権回復を目指す会      
東京都千代田区西神田2-3-18  ダイヤモンドレジデンス307 


1)4月28日の「祝日化」は、果たして井尻先生の本意なのでありましょうか?

 弊会は、日米安保体制下における外交・軍事の実質的な主権喪失という現状を放置したまま、4月28日を「主権回復記念日」とすることは欺瞞、まやかしであるとの立場に基づき、その「祝日化」に反対しております。

 今年、自民党・安倍政権は、4月28日に政府主催の「主権回復の日」式典を開催する意向を固めていますが、昭和27年(1952年)当時、我が国の施政権外に置かれた沖縄県などが「切り捨てられた屈辱の日である」として、反対の意思を表明しています。

 現時点では、「記念日」あるいは「祝日化」といった文言こそ用いられていませんが、畏れ多くも天皇陛下を政治利用して式典への御臨席を仰ぐ、その背後には、自民党・安倍政権による将来的な「祝日化」の企図が存在すると推し量るものであります。

弊会は、我が国の真の国家主権が回復していないという認識を「祝日化」に反対する根拠としておりますが、その認識は何も弊会に限られたものではなく、「主権回復記念日」の趣旨に賛同されている所謂保守派の方々においても見受けられるものです。

<ご参考>
◆ 「今も主権は回復していない」と語る西田昌司議員
→【2011.12.19】西田昌司『戦後66年経って今も主権は回復していない!!』
http://www.youtube.com/watch?v=gyVfcCKJO6g

◆ 「日本が『国ごっこ』をやめて真の主権国家になる始まりの一日に」
 と語る稲田朋美議員
→弁護士、衆議院議員・稲田朋美 主権回復記念日を設ける意義は
http://megalodon.jp/2012-0417-1745-12/sankei.jp.msn.com/politics/news/120417/plc12041703210003-n4.htm

◆ 主権回復を「記念」ではなく「祈念」する必要性について語る長谷川三千子氏
→2/5【自主独立】主権回復五十八周年記念国民集会[桜H22/5/1]
http://www.youtube.com/watch?v=9P19r-TweM8

 井尻先生におかれましても、「主権回復記念日」を設ける必要性を提唱され、「主権回復記念日国民集会」を開催されるに至った背景には、世上に蔓延する国家主権意識の希薄さへの危惧の念があり、それに警鐘を鳴らす意図があったものと推察致します。

 すなわち、我が国国民の国家主権意識を高めることこそが、当初の目的であったのではないでしょうか。

 ところが昨今、「主権回復記念日国民集会」においては、「祝日化」という概念が独り歩きして、それ自体が目的化してしまっているかの如き印象を受けます。

 我が国の真の国家主権が回復していないという問題意識に立脚すれば、4月28日を「祝日化」して文字通り「お祝い」することは、まさに明後日の方を向いた本末転倒に他ならないと弊会は考える次第であります。この点につきまして、井尻先生はどのようにお考えなのでありましょうか。

2)「民族左翼」とは、どの事実に基づく、どのような定義、意味内容でありましょうか?

 昨年、チャンネル桜の水島総氏が公の放送で、4月28日の「祝日化」に反対する弊会を指して「民族左翼」という造語を発した際、井尻先生はその言辞に賛意を示すかのような相槌を打たれました。

<ご参考>
【水島総】戦後レジーム打破!尖閣防衛・東北復興・主権回復[桜H24/4/23]
  http://www.youtube.com/watch?v=0cLVlwfDv2w

「事実を挙げて、道理を説く」ことを行動の指針とする弊会としましては、我々の言論・主張におけるどの事実を以って「民族左翼」と称されたのか、そもそも「民族左翼」の定義、意味内容とは何であるのか、お尋ねしたく存じます。

 これに対する明確なご返答を頂けない場合、「民族左翼」なる造語が、事実を踏まえたものではなく、建設的な議論から逃避する上での所謂「印象操作」「レッテル貼り」の域を出ないものと理解せざるを得ない次第であります。


原爆について

2013年03月17日 | 世直しのためにどうすべきか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8Bより抜粋引用(この後に私の意見を述べます)

極東国際軍事裁判において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、ラダ・ビノード・パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている[31]」と、戦争犯罪人がそれぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。(略)

またパールは1952年11月、広島市を訪問し、講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」[34]など、原爆投下を強く非難した[35]講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下を批判した。(略)

原爆投下当初にはアメリカ側にも原爆投下を批判する意見があった。また強引に原爆投下を命令したトルーマンへの厳しい批判もある。

「いかなる詭弁を用いようと、原爆投下の主目的が、戦闘員ではなく女子供老人などの非戦闘員の殺傷であったことを否定することはできない。そもそもアメリカは日本を挑発しなければ決して真珠湾を攻撃されることはなかっただろう。」―ハーバート・フーバー 第31代アメリカ合衆国大統領

「原爆投下は、米国兵士の命を救うためには全く必要のないものだった。我々は日本に原爆を投下する必要はなかった。」―ドワイト・アイゼンハワー 米第34代大統領 連合国軍総司令官

「日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだ、と告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。」―連合国軍総司令官 ダグラス・マッカーサー

「ドイツがアメリカに原爆を落としたとしましょう。その後ドイツが戦争に負けたとします。その場合我々アメリカ国民の誰が”原爆投下を戦争犯罪とし、首謀者を極刑に処す”ことに異議を唱えるでしょうか?原爆投下は外交的にも人道的にも人類史上最悪の失敗だったのです。」―マンハッタン計画参画の科学者 レオ・シラード

「アメリカはこの戦争を外交的手段で終了させられた。原爆投下は不要だった。日本の犠牲はあまりにも不必要に巨大すぎた。私は東京大空襲において、同僚達と、いかにして日本の民間人を効率的に殺傷できるか計画した。その結果一晩で女子供などの非戦闘員を10万人焼き殺したのである。もし戦争に負けていれば私は間違いなく戦争犯罪人となっていただろう。では、アメリカが勝ったから、それらの行為は正当化されるのか?? 我々は戦争犯罪を行ったんだ。一体全体どうして、日本の67の主要都市を爆撃し、広島・長崎まで原爆で、アメリカが破滅させ虐殺する必要があったというのか。」―ロバート・マクナマラ ケネディ政権国務長官 元世界銀行総裁

「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味を持たなかった。海上封鎖は十分な効果を挙げていた。この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」―ウイリアム・ダニエル・リーヒ 米海軍提督・大統領主席補佐官

「私はトルーマンに、広島の破壊を示す写真を示した。大統領は、それを見て、我々が負わなければならない恐るべき責任について、私に吐露した。」―ヘンリー・スティムソン 米陸軍長官

「軍人として命令を受けた以上、任務を遂行するのは当然」[83] ―ポール・ティベッツ(エノラゲイ号機長)

「多くの人々が死んでいるのはわかっていた。喜びはなかった」[84][85]―モリス・ジェプソン(エノラゲイ号技術者)
____________________________
この他、都市空襲は50万人以上の非戦闘員を殺戮している。

既に日本に勝ち目が無いを分かった段階での無差別攻撃であり、瀕死の重傷者にトドメを刺す戦略で、残酷なことこの上ない。上記のほかにJ・レノンも「日本人が黄色人種でなければ原爆投下は無かった」旨の発言を残している。

原爆投下以来、人類の思想が一変し、大義名分や善悪の問題はどうでもよくなり「どんな卑怯な手を使っても勝てばいい」「勝者が常に正しい」時代になった。

そのアメリカの核の傘の下で日本は形式的には独立国家として、実質的にはアメリカの51番目の州どころか、アメリカの属国になっている。

言うまでもなく現在の日本の条件(憲法、非核三原則など)では万一核攻撃の標的になった場合
1.万歳降参
2.憲法改正核武装(標的になった後では遅いが)
3.アメリカとの軍事同盟に頼る
のほかに見当たらない。
(ちなみに私は核ミサイルを発射地点にUターンさせる究極の専守防衛兵器の可能性について以前書いたことがある。今調べてhttp://allabout.co.jp/gm/gc/292478/ でドクター中松が全く同じ公約をしていたことを知った。可能ならばぜひ開発してもらいたい)
 愛国運動の最大の難問の一つはここにあり、「親米」を主張する人々でも非常に戦略的な親米論であることを忘れてはならない。
 
吉田茂元首相のようにしたたかな人物なら、アメリカが作った平和憲法を盾にとって日本の経済成長を成し遂げることができたが、民主党でも自公連立政権でもそういう芸当が出来ず、アメリカの言うがままに動いているとしか思えない。この歯がゆさは日本人の誰もが感じているに違いない。

それにしても、余りにも無残な敗戦だった。あれは戦争ではなく殺戮実験である。
 日本の女性が米軍基地をたむろして黒人にわざとレイプされるのを好む現象をとりあげ、「性的唯幻論序説」で岸田秀が、原爆による圧倒的な敗戦とその後の政治家の隷属的外交が原因と断定していた記憶がある。私なりに解釈すれば、アメリカ人はマレビト(人知を超える強烈な力を持つ存在)、つまり一種の宗教的なカリスマになってしまったわけだ。レイプされて喜ぶというのは尋常ではないし、そういう人間を作った日本という国家も当然尋常ではない。

天皇制の保全という「条件付き降伏」に拘る鈴木貫太郎首相に対して「日本は勝つときも負けるときも潔く」と諭して無条件降伏を受け入れさせ、玉音放送の原稿に朱を入れ、現在の象徴天皇制を発案したのが禅者として私が最も尊敬する山本玄峰師だった。
 当時の日本としては最善の決断だったと思うが、とうとう日本がここまで来るとは、山本玄峰師がご存命ならどんな言葉を発せられるだろう。

自殺する子供たち 生きがいの喪失

2013年02月24日 | 世直しのためにどうすべきか
タイトルとは全く関係ありませんが、微笑禅の会のネット会報は、これまで「禅」のジャンルにいれていたのを「微笑禅の会ネット会報」というジャンルを新たに作ってそこに纏めました。興味のある方はご覧下さい。

さて本題に入る。マイミク(mixiの友達)に貴重な情報を載せている人がいる。今日はそのオリジナルから引用することにする。


http://www.shinrankai.or.jp/jinsei/jin01.htm(浄土真宗親鸞会のHPです)

◆第1章◆「人生の目的」なかったら大変だ!

(1)「なぜ生きるか」  問われている時代
「あなたの家族が、自殺しようとしたら、どう言って止めますか」
 こう聞かれ、自信を持って答えられる人は、どれだけあるだろう。

 平成10年の自殺者は、急激に増加し、初めて3万人を突破した。1日あたり約90人も自殺している。自分の家族や友人に、いつ、自殺者が出てもおかしくない。いや、自分自身が、何か大きな障害にぶつかった時、果たして、大丈夫だろうか?
「死んではならない。生きることが尊いのだ!」 と子供に叫んでいた大人が、次々と自殺していくのは、一体どうしたわけか。

 平成11年、日本を代表する評論家が手首を切って自殺し、世間を驚かせた。
 校長先生の首吊り、飛び降り、割腹自殺も相次いで報じられた。
 警察官がピストル自殺、エリート官僚が飛び降り自殺、政治家が首つり自殺……。
 どんな"偉い人"も、分かったつもりで、まったく分かっていないのが、人生の目的「なぜ生きるか」の答えではないだろうか。

 新聞の投書欄には、子供たちの、"心の叫び"が寄せられている。

●千葉県・高校二年生 「着たくもない窮屈な制服着せられて、受けたくもないつまらない授業を受けさせられて、やりたくもない部活やらされて、家に帰っても宿題とか家事とかいっぱいあって、だーれも生きた心地なんてしてないのに『命の大切さ』なんて口先だけで教えられたって実感なんて持てない」(朝日新聞・平成10年4月20日)

●和歌山県・高校生 16歳 「人は何のために生きているのかと思います。日本人の平均寿命は80歳前後です。80年間も何のために生きていくのですか?  学歴社会ー当たり前のように使われているこの言葉が、たいして勉強のできない者にどれだけ不安を与えているか分かりますか。自分の夢に向かって一生懸命がんばってるのに、つらいことの方が多く残りの人生がとても嫌です。  最近の高校生はーと、よく言われますが、まじめにやっている者もいるんです。それでもうまくいかなくて、不安で逃げ出したくなって、自分のような人間が、本当に何か役立つんだろうか、つらいことを乗り越えて、まだ生きていく必要があるのか。  命は大切です。当たり前のことで、分かっているけど理解できない。あと六十年以上も、この苦しい日本の中で生きていきたくない。こんな思いで毎日過ごしています。  人は何のために生きているのですか。だれか教えてください」(産経新聞・平成10年3月19日)

●神奈川県・高校一年生 「実はみなさんに相談があります。  それは『人(自分)は何のために、何を目的に、何を目指して生きているのか』ということ。自分であれこれ考えて、一度は納得してみるものの、またすぐに、『夢を目指してがんばるのもいいけど、それをかなえて、そして自分が死んだ時、何が残るのかなぁ?』などと考えてしまいます。  みなさんに聞けば、いい答えが見つかりそうな気がします。期待しているので、どうかみなさんの意見を聞かせてください」(毎日中学生新聞・平成11年12月14日)

 近年、子供の自殺も急増している。平成10年度に自殺した公立小、中、高校の児童・生徒は192人。前年度より四割も増加しているのだ。
 子供たちの、素直な問い掛けに、誠意をもって答えたい。それが、自殺を予防するだけでなく、我が身の人生を見つめ直すきっかけになる。

「なぜ生きるか」、人生の目的を知りたいという声が高まる中、あなたは、どんな解答を準備しているだろうか。(略)


(3)目的なき人生イコール不安な人生
 「人生の目的がない」という人は、着陸する空港が分からないまま飛んでいる飛行機と同じで、不安、苦悩から離れられない。
 オギャアと生まれた時を、飛行機が飛び立った時にたとえてみよう。大空では、一分一秒たりとも静止できない。休む暇なく飛ばねばならないのが人生である。

 では、どこへ向かって飛べばよいのか。目的地もなく飛び続ければ、やがて燃料切れの墜落が待っているだけだ。
 着陸すべき空港が見つからぬまま、刻一刻と燃料切れが近づいてくる。こんな飛行機に乗っている心境はどうだろうか。不安でたまらない。
 そんな中、美しい音楽を聞いたり、おいしい食事を味わおうとしても、楽しめるはずがない。

 目的地の空港にあたるのが「人生の目的」である。
 いつでも、安全に着陸できる大空港がハッキリしてこそ、本当に、安心、満足した人生が開けるのである。

(4)目的が先か 生きることが先か
「生命を大切にしよう」
「自殺してはならない。がんばって生きていけば、きっといいことがあるさ」
「生きることが尊いんだ」
 このように励ましてくれる人ばかりだ。

 しかし、「とにかく生きよ」と励まされても、方角が分からねば進みようがないではないか。
 ちょうど、見渡す限り水平線しか見えない大海原に、1人浮かんでいるようなものである。四方八方眺めても、陸地がどこか、さっぱり分からない。
 この場合、陸地が「人生の目的」にあたる。じっとしていれば沈むだけ。生きるからには泳がねばならぬ。では、どこへ向かって泳げばよいのだろうか。
「精一杯、泳げるだけ泳ぐだけさ」と強がっても、方向が分からないまま泳げば、ますます、陸から遠ざかるかもしれない。
 そのうちに体力が尽きておぼれるのは目に見えている。

 その不安に満ちた心境は、まさに、「人生の目的」を知らずに生きる姿である。

 陸地がどこか、ハッキリ分かってこそ、全力で泳ぐことができる。
「人生の目的」は何か、ハッキリ分かってこそ、どんな荒波も乗り越えて、全力で生きることができるのだ。

 幸福な人生への第一歩は、「なぜ生きるか」、人生の目的をハッキリと知ることである。

______________________________
以前にも書いたようにチャットをしていると、頭のいい子、真面目な子、個性的な子供たちが陰湿なイジメに逢い、教師も黙殺したり、ひどい場合にはそれに加担すらしている現実と出会う。時代の閉塞感、暗黒社会のなせる業で、「悪の論理」が純朴な善意や正義感を押しつぶし、出口が見つからないのが今の日本の実態と言っていい。

突拍子も無い喩えをする。チェッカーズが都会生活の喜びを歌っていた同時期に、尾崎豊は大人社会への絶望を歌い、若者の教祖と言われて不審の死で幕を閉じた。彼の死後に尾崎ファンになった私は、尾崎は天才だと言って同世代にバカにされたが、彼はこういう社会を敏感に先取りしていた。彼の作った歌は鬱病と信仰喪失体験が背景にあるために非常に激しい強度で真面目な若者たち心を揺す振り、今でも例外的な存在としてますます評価が高まっている。

上記の親鸞会の書き手は「人生の目的を決めること」と若者たちに諭しているし、それはその通りだと思う。が、若者たちは「こんな時代に生きていくこと自体が辛いから目的の持ちようが無い」と言いたいのではないか?ドブ川の中で棲むのが嫌になり清流を求めて彷徨っている魚のような心境だろう。

子供や若者たちが「人生の目的」が持てる社会をどうやって作っていくか。これこそが私たち大人に残された「人生の目的」に他ならない。私は「真の革命は無意識の底の底を浄化することから始まる」と思っているが、これは容易なことではない。かといって一休禅師のように「心配するな、なんとかなる」と言える時代ではないのも確かである。
 




日本人の幸福度ランキング

2013年02月23日 | 世直しのためにどうすべきか
ある人から「日本人の幸福度ランキングは世界で90位ぐらいらしい」と聞いた。
 確かに自分を見ても周囲を見ても幸せ一杯の生活をしている、という人はまずいない。

以前、人間の幸福のレベルを簡潔にまとめた本を読んだ。微細な記憶は曖昧だが基本は間違っていないので自分なりにアレンジして記す。

①生命の危険がない。衣食住が足りている生活。
②愛のある生活。恋人、夫婦、家族愛など。
③趣味娯楽、芸術を楽しむ余暇のある生活。
④社会的地位、名声を得ている。
⑤思い通りの自分になっている。自己実現、個性化。

①から順次⑤までレベルが上がっていくわけだが、⑤の段階に達した人はおそらく世界中に一人もいないと思う。必ず言うに言われぬ悩みを抱えているだろうし、菩薩行を実践しようとすれば、「この世に一人でも苦しんでいる人がいる限り、それを自分の苦しみとして救済する」と誓願を立てている訳だから悩みの塊の中にいるのが本来の姿だ。
 私にも数多くの悩みがあるが、生きがいを一つだけ挙げよと質問されたなら、何か世の中のために立つことをしているかどうか、に集約できる。最澄は自らを愚中の愚、狂中の狂、と規定しながらも「一隅を照らすものは国宝である」との言葉を残している。

下に抜粋引用した文章はもっと実際的な生活体験や統計による考察なのでごく一般的な幸福度の比較だが、なるほど日本はここまで住みにくくなっているのか、よく分かる。そういえば何人もの知人が海外に移住したり、退職後は移住するといっているわけだ、と今更ながら気付いた次第です。

http://kyouki.hatenablog.com/entry/2012/12/13/073158より

たとえば、ブータンは非常に国民の幸福度が高い、というのは、よく知られた話だ。
でも、ほんとかな、と思って調べたら、たとえば、こんな話もあると知った。
ブータンは人口70万人の国だが、民族問題があり、約10万人もの難民がいる。
また、識字率は47%に過ぎない。
どうやらブータンをそのまま幸福社会のモデルにすることには、無理があるようだ。(詳しくは ブータンは本当に幸福な国か )

世界の国々の幸福度合いについて、いろいろな調査がなされているようだが、国の豊かさと国民の幸福度には、ゆるい相関しかない。
こちらのグラフが面白い。
横軸に国民ひとりあたりの所得、縦軸に国民の幸福度をプロットしたもので、所得水準が上がれば、幸福度が相当低い人々は減るので、全体の幸福度は上がるが、かといって、低い所得水準でも、幸福度の高い社会の実現が可能であることを示している。
このグラフを見ても、日本より、タイやベトナムのほうが、国民の幸せ度は高いのである。

少なくとも、こういった調査から、「国の経済の衰退を甘受して、国民の幸せはない」という論理は、日本人らしい、ある種の強迫観念ではないか、という気もしてくる。

ところで、日本人の幸せ度調査を見ていても面白い結果がでている。(略)

このグラフは、第一生命経済研究所が、幸福感に関する意識調査の結果を発表した有名なもの(2011年8月27日~9月14日)。
この調査によると、女性は60代で幸福度が頂点に達し、その後、なだらかに低くなっていく。
男性は、40代でひどく不幸になり、その後は、どんどん幸福感が増し、80代でピークに達するという。
たしかに、自分を振り返ってみると、40才ごろ、まだ会社にいたころ、最高に、不幸だと感じていた。
会社では、自分の限界を痛感し、かといって、中間管理職として仕事に追いまくられ、不在がちで家では、嫁や子供と充分なコミニケーションも取れず、友達づきあいもほぼ会社内に限られて気の置けない交友は少なく、まったく、どん詰まりの状況であった。
僕の場合は、会社を辞めて、ずっとラクになったのだが、そのまま会社に残っていたら、さらに、閉塞感が高まっていただろうと思う。
そして、この調査の意味することを信じれば、僕はこれから、どんどん幸せになっていく。
もし、80才まで健康に生きることができれば、いまよりとんでもなく幸せになれるはずで、これほど、楽しみなことはない。

それにしても、男性は、幸福度がどんどん高まり、逆に、女性は、なぜ、60才以降、幸福度が下がっていくのだろうか。
40代の辛苦から逃れた反動が、それを可能にするんだろうか。

内閣府の調査によると、各国で行われている同様な調査の結果は、U字型のものが多いという。若者と高齢者が、熟年層より幸福であるのが一般的である、という。
アメリカの調査でも、U字型になっているという。
一方、日本の場合、男女の合計を出すと、グラフはU字型にならず、年齢に従ってなだらかに減る右肩下がりのグラフになってしまう。
__________________________
データは古いが次のような考察もある。http://diamond.jp/articles/-/19942

北欧諸国があらゆる「幸福度ランキング」で上位を占めているのはなぜか、世界的に見ても豊かなはずの日本が、どうして81位(*(2010年 ギャラップ「世界幸福度調査」より))なのか??。キーワードは「自由に生きること」。ハワイをベースにノマドライフを実践する本田直之が幸福度ランキングトップの北欧(デンマーク、スウェーデン、フィンランド)の人たちと幸福について語り合って得た確信とは?

アメリカ的物質至上主義が
幸福感につながらなくなった?

 北欧の国々は、税金と社会保障を合わせた国民負担率は6~7割近く。実際に使えるお金は少ないのに軒並みランキングの上位を占めています。

 一方、日本の国民負担率は4割程度。使えるお金も多く、モノも豊富にあって豊かなはずの日本人が、なぜ幸せを感じられないのか。それは、アメリカ的な物質至上主義が幸福感につながらなくなったからではないかと思います。

 私が日本人の描く「幸せ」に違和感を覚え始めたのは、日本経済が再びバブルを迎えていた2005年頃のこと。デュアルライフをするために毎月のようにハワイにいっていた時期でした。その違和感はなんなのだろうと、ずっと考えていたのです。

 ハワイはアメリカの一部ですから、幸福度ランキングの上位に名前があがることこそありませんが、過ごしていてとても幸せを感じられる場所です。(略)

モノやお金に振り回されず
精神的・体験的なものに重きを置く

 2007年から実際にデュアルライフを始めてみて、また毎年ニュージーランドやオーストラリアなど、幸福度ランキング上位の国々で生活をする中で、強く感じたこと。それは、古い価値観のままでライフスタイルをつくっていくと、幸せではなくなってしまうのではないかということでした。

 ハワイやニュージーランド、オーストラリアは、シンプルな暮らしをしているけれど幸せそう。しかし、モノは豊富にあるはずの日本がハッピーではない……。違う環境の場所を行ったり来たりすることで、その違いが浮き彫りになったのです。

 そもそも私には、モノをたくさん欲しいとか、いい車に乗りたいといった欲求は、もともとあまりありません。デュアルライフを始めた当時は、違和感を覚えているのは自分だけなのではないか、またハワイの価値観だけが別のところにあるのではないかと思っていました。しかし、そうではなかったのです。

 その思いを決定的なものにしたのが、2008年夏にアメリカで起こったサブプライムローン問題でした。アメリカではここ数十年にわたって、住宅のサイズ(スペース)が10年ごとに20%ずつ拡大してきたのだそうです(『スペンド・シフト』ジョン・ガーズマ+マイケル・ダントニオ著 有賀裕子訳/プレジデント社)。

 そして、そこに収まるモノを買うようになった結果、家具や家電製品や衣類、アクセサリーやおもちゃなどが増え、車もどんどん大きくなっていきました。

 しかし、それはローン(借り入れ)によってつくられた幸せでした。サブプライムローンが破綻してストーリーが崩れてしまうと、なくなってしまったり、足かせとなってしまうものばかり。見た目こそ裕福そうですが、実は中身はカツカツで、まったくハッピーではないことが明らかになったのです。

 これは、今の収入がずっと続いていく、自分が持っている資産が値上がりするという想定のもとで、ライフスタイルをつくってしまったことが原因でしょう。

 一方、ハワイやニュージーランド、オーストラリアには、モノが少なく暮らし自体はシンプルですが、豊かな自然や旅をはじめとしたライフスタイルがありました。モノやお金に振り回されるのではなく、精神的・体験的なものに重きを置く。見た目は質素でも、そのほうが実は豊かなのだ。私はそう確信するに至ったのです。(略)

「自ら選ぶこと」が、幸せな人生を
送れるかどうかの決定的な差

 物質至上主義とは、言い換えるならば、車や家などモノや場所などさまざまな制約に縛られて生きることでもあります。そうした制約から解放され、自由に生きること。

「Less is more」は、人生を楽しむために、とても重要な思想だと思うのです。

 今の世の中は、過去の幸せの価値観やストーリーを追い求めていくと、ハッピーではなくなってしまう時代です。

 もちろん、うまくいっている人もいるでしょう。しかし頑張って働いて、モノを買って、昇進したり年収が上がったりしても、どこか幸せを感じられないという人が増えているのは、冒頭のランキングのとおりです。

 先ほど述べたサブプライムローンの例はアメリカの話ですが、けっして他人事ではありません。給料が下がる、会社がなくなる……当たり前だと思っていたストーリーが崩れてしまうことは、今や日本人の誰にでも起こり得る問題です。まずは、その事実に気づかなければなりません。

 最近では、2005年に私が感じたように、流行のファッションやブランド品を買うため、あるいは高級車やマイホームを手に入れるために、長い通勤時間、ストレスフルな仕事や人間関係を続けることに違和感を覚える人も増えてきました。

 モノに興味がないといわれる「草食系」世代が登場したのも、まさにそのひとつの流れだし、私のように、好きなところに住んで自由に働きたいとデュアルライフを始めるのもそう。

 広告やCMなどに影響されてライフスタイルをつくるのではなく、本当に自分にとって大切なもの、幸せはなんだろうと考え、自ら選ぶこと。それが、幸せな人生を送れるかどうかの決定的な差です。

 

名画鑑賞会のおしらせ

2013年02月18日 | 世直しのためにどうすべきか
主権回復を目指す会を主催されている西村修平さんが下のような映画鑑賞と意見交換を催されます。今回は名作『切腹』。私は映画は基本的に一回しか見ないのですが、これは数回見ました。最後の決闘場面は真剣を使ったために物凄い緊張感と迫力があります。映画ファンには必見の映画です。詳細は「主権回復を目指す会」http://nipponism.net/wordpress/ をご覧下さい。
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ご案内 <名画鑑賞・意見交換会>
「『切腹』を見ずして日本映画を語れない」
【開催趣旨】
日本人の心の繊細さ、多様性を知らずして、わが国の文化と伝統を語ること難しい。それは感性を養う作業であり、主として我々は優れた文学作品や名画を通し、豊かな心のあり方を会得していく。そうした観点から主権回復を目指す会は今年度から月一回の予定で名画鑑賞・意見交換会を開きます。

第2回目 『切腹』
 監督・小林正樹  出演・仲代達也(写真) 丹波哲郎 三國連太郎
 昭和37年(1962)松竹制作

万座を圧する仲代達也の演技が圧巻だ
◆『切腹』は映画という表現形式において、日本映画が頂点を極めた作品の一つではないだろうか。宮島義勇のカメラは重厚で、映像は一切の無駄を省いた様式美で研ぎ澄まされている。脚本は橋本忍、精緻を極めた話術が格調高く、日本語の美しさに酔いしれる。その画面に緊迫感を与えるのが武満徹の音楽、尺八、琵琶の効果音が絶妙。美術、衣装、小道具・大道具に至るまでが皆同じだ。

◆映画は武家社会の虚飾と武士道の残虐性を告発する主題。小林正樹監督はこの重い主題を映画という総合芸術の粋を尽くして、万人が楽しめる娯楽作品に仕上げた。『切腹』、それは世界に誇る日本映画の金字塔でもある。1963年カンヌ国際映画祭/審査員特別賞、第13回毎日映画コンクール/日本映画大賞・音楽賞・美術賞・録音賞を受賞。

日時:平成25年2月24日(日)
   17:30開場 17:50上映開始
場所:文京区民センター(2-C会議室)
    東京都文京区本郷 4-15-14 03(3814)6731
地図: http://www.jca.apc.org/~monsoon/bunkyoukumincenter.htm
アクセス:地下鉄 春日(大江戸線、三田線)、後楽園(丸の内線、南北線)、
     JR 水道橋
※会場負担費:300円(任意)

主催:主権回復を目指す会 連絡:西村