3.神共に (永遠の命) 2025
イザヤ7:10-14
(インマヌエルの預言)
ローマ1:1-7
(挨拶)
マタイ1:18-23
(イエス・キリストの誕生)
(マタイ1:23)
「『見よ,
おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』」
この名は,
『神は我々と共におられる』
という意味である。」
Ⅰ
(マタイ1:18-23)
イエス・キリストの誕生
今日は待降節第3主日で,来週はクリスマスです。
この時期のわたしの仕事の一つに,教会に送られてくる山のような文書を整理することがあります。
その多くはルーテル教会内外の施設や団体からのクリスマス献金のお願いです。すべてに対応できないのですが,その中から幾つかの施設や団体を選んで献金しています。
その選別をするためにも,一つ一つの封書を開封して,内容を読んでいます。
読んでいると対応できないことで,胸が痛くなります。その時に,できることは祈ることです。
今日の説教題の「神共に」は,その時の祈りの言葉です。
神様が共にいてくださって,その施設や団体をお守りくださり,その方々が活動しているアフリカ,バングラディッシュやアフガニスタンの助けを必要としている人々をお守りくださいという祈りになります。
この「神共に」という説教題を見て,教会の方が「神と共にでしょう」と,わたしの方を向いて言われました。
それから,讃美歌405番を思い出されたらしく,「神共にましてですね」とおっしゃいました。
Ⅱ
(イザヤ7:10-14)
インマヌエルの預言
この「神共に」は,神様の先導性を表す言葉です。ここでの「神」という言葉は主語なのです。ですから,それだけを意味するならば,「神は共に」とすべきであります。
この「神共に」は,神様が預言者イザヤを用いて,ユダのアハズ王に告げられた「インマヌエル」(イザヤ7:4)という言葉からとっています。
一つの言葉ですから,その言葉の中に「は」とか「と」とかの助詞はなく,存在そのものを表していますから「神共に」です。
この「神共に」という言葉を告げられたアハズ王は信仰深い幸いな人であると思われるか知れませんが,アハズ王はそうではありませんでした。
この言葉が告げられた時,ユダは北イスラエルに攻められていました。
この北イスラエルがアラムと同盟を結んで,エルサレムに攻め上ぼって来たのです。
アラムと同盟を結んだという知らせに,ユダの「王の心も民の心も,森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:2b)とイザヤ書に書いてあります。
この時,神様は預言者イザヤに,
アハズ王に会い「落ち着いて,静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)ということと,
同盟して攻め上って来る彼らの計画は「実現せず,成就しない」(イザヤ7:7)ことを告げるようにいいます。
その上に,アラムがユダに攻め上ることは実現せず成就しないということについて,神様はアハズ王に,「主なるあなたの神に,しるしを求めよ」(イザヤ7:11)と言われました。
何という祝福された神様からの語りかけでしょう。
ところが,アハズ王はそれを断ります。
神様はなおも,イザヤを通してアハズ王に,「おとめが身ごもって,男の子を産み,その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14b)という「しるし」を,お与えになることをお告げになります。
ですから,クリスマスという「しるし」は,アハズ王に与えられました。
このアハズ王について辞典で調べてみますと,「ユダの王で,王としての在位は紀元前735年から715年,偶像崇拝者,自分の子を焼いて献げ,高き所,丘の上,木の下で捧げた」と書かれています。
列王記には,アハズ王は次のように書かれています。
「彼はイスラエルの王たちの道を歩み,
主がイスラエルの人々の前から
追い払われた諸国民の
忌むべき慣習に倣(なら)って,
自分の子に火の中を通らせることさえした。
彼は聖なる高台,丘の上,
すべての茂った木の下でいけにえをささげ,
香をたいた。」
(列王記下16:3,4)
それほどの不信心な王を神はどこまでも祝福し,
「おとめが身ごもり,男の子を産み,
その名をインマヌエルと呼ぶ」
(イザヤ7:14b)
というクリスマスのしるしをお与えになりました。
徹底した御恵みではありませんか。
Ⅲ
(ローマ4:1-12)
アブラハムの模範
パウロは,この徹底した恵みを,ローマの信徒への手紙で明らかにします。
それは罪人の罪を赦し,罪を覆(おお)い,罪のない者とし,義とする恵みです。
ちょうど,先週の「聖書を学ぶ会」は,ローマの信徒への手紙4章の「アブラハムの模範」のところでした。
アブラハムが義とされたのは,行いによるのではなく,神様を信じたからであると次のようにパウロは伝えています。
「肉によるわたしたちの
先祖アブラハムは何を得たと
言うべきでしょうか。
もし,彼が行いによって
義とされたのであれば,
誇ってもよいが,
神の前ではそれはできません。
聖書には何と書いてありますか。
『アブラハムは神を信じた。
それが,彼の義と認められた』
とあります。」
(ローマ4:1-3)
その後に,パウロは次のように書きます。
「不信心な者を
義とされる方を信じる人は,
その信仰が義と認められます。」
(ローマ4:5)
そして,ダビデを例に上げ,「ダビデも,行いによらずに神から義と認められた人の幸いを,次のようにたたえています」(ローマ4:6)として,ダビデの詩とされる詩編32編1,2節の言葉を上げて,「不法が赦され,罪を覆い隠された人々は,幸いである。主から罪があると見なされない人は,幸いである」(ローマ4:7)と書きます。
この徹底した恵みは,おとめが身ごもって産んだ「インマヌエル・神共に」と呼ばれる男の子の十字架上での「贖い」によってもたらされました。
この神様の御恵みに生かされる時に,わたしたちも神様と共に生きて行く喜びに溢(あふ)れて,ダビデと共に「死の陰の谷を行くときも,わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩篇23:4a)と言うことができます。
その時には,わたしたちが主語になり,「神共に」は「神と共に」となります。
(2007年12月16日)
3.神共に (永遠の命) 2025
イザヤ7:10-14
(インマヌエルの預言)
ローマ1:1-7
(挨拶)
マタイ1:18-23
(イエス・キリストの誕生)
(マタイ1:23)
「『見よ,
おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』」
この名は,
『神は我々と共におられる』
という意味である。」
Ⅰ
(マタイ1:18-23)
イエス・キリストの誕生
今日は待降節第3主日で,来週はクリスマスです。
この時期のわたしの仕事の一つに,教会に送られてくる山のような文書を整理することがあります。
その多くはルーテル教会内外の施設や団体からのクリスマス献金のお願いです。すべてに対応できないのですが,その中から幾つかの施設や団体を選んで献金しています。
その選別をするためにも,一つ一つの封書を開封して,内容を読んでいます。
読んでいると対応できないことで,胸が痛くなります。その時に,できることは祈ることです。
今日の説教題の「神共に」は,その時の祈りの言葉です。
神様が共にいてくださって,その施設や団体をお守りくださり,その方々が活動しているアフリカ,バングラディッシュやアフガニスタンの助けを必要としている人々をお守りくださいという祈りになります。
この「神共に」という説教題を見て,教会の方が「神と共にでしょう」と,わたしの方を向いて言われました。
それから,讃美歌405番を思い出されたらしく,「神共にましてですね」とおっしゃいました。
Ⅱ
(イザヤ7:10-14)
インマヌエルの預言
この「神共に」は,神様の先導性を表す言葉です。ここでの「神」という言葉は主語なのです。ですから,それだけを意味するならば,「神は共に」とすべきであります。
この「神共に」は,神様が預言者イザヤを用いて,ユダのアハズ王に告げられた「インマヌエル」(イザヤ7:4)という言葉からとっています。
一つの言葉ですから,その言葉の中に「は」とか「と」とかの助詞はなく,存在そのものを表していますから「神共に」です。
この「神共に」という言葉を告げられたアハズ王は信仰深い幸いな人であると思われるか知れませんが,アハズ王はそうではありませんでした。
この言葉が告げられた時,ユダは北イスラエルに攻められていました。
この北イスラエルがアラムと同盟を結んで,エルサレムに攻め上ぼって来たのです。
アラムと同盟を結んだという知らせに,ユダの「王の心も民の心も,森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:2b)とイザヤ書に書いてあります。
この時,神様は預言者イザヤに,
アハズ王に会い「落ち着いて,静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)ということと,
同盟して攻め上って来る彼らの計画は「実現せず,成就しない」(イザヤ7:7)ことを告げるようにいいます。
その上に,アラムがユダに攻め上ることは実現せず成就しないということについて,神様はアハズ王に,「主なるあなたの神に,しるしを求めよ」(イザヤ7:11)と言われました。
何という祝福された神様からの語りかけでしょう。
ところが,アハズ王はそれを断ります。
神様はなおも,イザヤを通してアハズ王に,「おとめが身ごもって,男の子を産み,その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14b)という「しるし」を,お与えになることをお告げになります。
ですから,クリスマスという「しるし」は,アハズ王に与えられました。
このアハズ王について辞典で調べてみますと,「ユダの王で,王としての在位は紀元前735年から715年,偶像崇拝者,自分の子を焼いて献げ,高き所,丘の上,木の下で捧げた」と書かれています。
列王記には,アハズ王は次のように書かれています。
「彼はイスラエルの王たちの道を歩み,
主がイスラエルの人々の前から
追い払われた諸国民の
忌むべき慣習に倣(なら)って,
自分の子に火の中を通らせることさえした。
彼は聖なる高台,丘の上,
すべての茂った木の下でいけにえをささげ,
香をたいた。」
(列王記下16:3,4)
それほどの不信心な王を神はどこまでも祝福し,
「おとめが身ごもり,男の子を産み,
その名をインマヌエルと呼ぶ」
(イザヤ7:14b)
というクリスマスのしるしをお与えになりました。
徹底した御恵みではありませんか。
Ⅲ
(ローマ4:1-12)
アブラハムの模範
パウロは,この徹底した恵みを,ローマの信徒への手紙で明らかにします。
それは罪人の罪を赦し,罪を覆(おお)い,罪のない者とし,義とする恵みです。
ちょうど,先週の「聖書を学ぶ会」は,ローマの信徒への手紙4章の「アブラハムの模範」のところでした。
アブラハムが義とされたのは,行いによるのではなく,神様を信じたからであると次のようにパウロは伝えています。
「肉によるわたしたちの
先祖アブラハムは何を得たと
言うべきでしょうか。
もし,彼が行いによって
義とされたのであれば,
誇ってもよいが,
神の前ではそれはできません。
聖書には何と書いてありますか。
『アブラハムは神を信じた。
それが,彼の義と認められた』
とあります。」
(ローマ4:1-3)
その後に,パウロは次のように書きます。
「不信心な者を
義とされる方を信じる人は,
その信仰が義と認められます。」
(ローマ4:5)
そして,ダビデを例に上げ,「ダビデも,行いによらずに神から義と認められた人の幸いを,次のようにたたえています」(ローマ4:6)として,ダビデの詩とされる詩編32編1,2節の言葉を上げて,「不法が赦され,罪を覆い隠された人々は,幸いである。主から罪があると見なされない人は,幸いである」(ローマ4:7)と書きます。
この徹底した恵みは,おとめが身ごもって産んだ「インマヌエル・神共に」と呼ばれる男の子の十字架上での「贖い」によってもたらされました。
この神様の御恵みに生かされる時に,わたしたちも神様と共に生きて行く喜びに溢(あふ)れて,ダビデと共に「死の陰の谷を行くときも,わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩篇23:4a)と言うことができます。
その時には,わたしたちが主語になり,「神共に」は「神と共に」となります。
(2007年12月16日)
3.神共に (永遠の命) 2025
イザヤ7:10-14
(インマヌエルの預言)
ローマ1:1-7
(挨拶)
マタイ1:18-23
(イエス・キリストの誕生)
(マタイ1:23)
「『見よ,
おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』」
この名は,
『神は我々と共におられる』
という意味である。」
Ⅰ
(マタイ1:18-23)
イエス・キリストの誕生
今日は待降節第3主日で,来週はクリスマスです。
この時期のわたしの仕事の一つに,教会に送られてくる山のような文書を整理することがあります。
その多くはルーテル教会内外の施設や団体からのクリスマス献金のお願いです。すべてに対応できないのですが,その中から幾つかの施設や団体を選んで献金しています。
その選別をするためにも,一つ一つの封書を開封して,内容を読んでいます。
読んでいると対応できないことで,胸が痛くなります。その時に,できることは祈ることです。
今日の説教題の「神共に」は,その時の祈りの言葉です。
神様が共にいてくださって,その施設や団体をお守りくださり,その方々が活動しているアフリカ,バングラディッシュやアフガニスタンの助けを必要としている人々をお守りくださいという祈りになります。
この「神共に」という説教題を見て,教会の方が「神と共にでしょう」と,わたしの方を向いて言われました。
それから,讃美歌405番を思い出されたらしく,「神共にましてですね」とおっしゃいました。
Ⅱ
(イザヤ7:10-14)
インマヌエルの預言
この「神共に」は,神様の先導性を表す言葉です。ここでの「神」という言葉は主語なのです。ですから,それだけを意味するならば,「神は共に」とすべきであります。
この「神共に」は,神様が預言者イザヤを用いて,ユダのアハズ王に告げられた「インマヌエル」(イザヤ7:4)という言葉からとっています。
一つの言葉ですから,その言葉の中に「は」とか「と」とかの助詞はなく,存在そのものを表していますから「神共に」です。
この「神共に」という言葉を告げられたアハズ王は信仰深い幸いな人であると思われるか知れませんが,アハズ王はそうではありませんでした。
この言葉が告げられた時,ユダは北イスラエルに攻められていました。
この北イスラエルがアラムと同盟を結んで,エルサレムに攻め上ぼって来たのです。
アラムと同盟を結んだという知らせに,ユダの「王の心も民の心も,森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:2b)とイザヤ書に書いてあります。
この時,神様は預言者イザヤに,
アハズ王に会い「落ち着いて,静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)ということと,
同盟して攻め上って来る彼らの計画は「実現せず,成就しない」(イザヤ7:7)ことを告げるようにいいます。
その上に,アラムがユダに攻め上ることは実現せず成就しないということについて,神様はアハズ王に,「主なるあなたの神に,しるしを求めよ」(イザヤ7:11)と言われました。
何という祝福された神様からの語りかけでしょう。
ところが,アハズ王はそれを断ります。
神様はなおも,イザヤを通してアハズ王に,「おとめが身ごもって,男の子を産み,その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14b)という「しるし」を,お与えになることをお告げになります。
ですから,クリスマスという「しるし」は,アハズ王に与えられました。
このアハズ王について辞典で調べてみますと,「ユダの王で,王としての在位は紀元前735年から715年,偶像崇拝者,自分の子を焼いて献げ,高き所,丘の上,木の下で捧げた」と書かれています。
列王記には,アハズ王は次のように書かれています。
「彼はイスラエルの王たちの道を歩み,
主がイスラエルの人々の前から
追い払われた諸国民の
忌むべき慣習に倣(なら)って,
自分の子に火の中を通らせることさえした。
彼は聖なる高台,丘の上,
すべての茂った木の下でいけにえをささげ,
香をたいた。」
(列王記下16:3,4)
それほどの不信心な王を神はどこまでも祝福し,
「おとめが身ごもり,男の子を産み,
その名をインマヌエルと呼ぶ」
(イザヤ7:14b)
というクリスマスのしるしをお与えになりました。
徹底した御恵みではありませんか。
Ⅲ
(ローマ4:1-12)
アブラハムの模範
パウロは,この徹底した恵みを,ローマの信徒への手紙で明らかにします。
それは罪人の罪を赦し,罪を覆(おお)い,罪のない者とし,義とする恵みです。
ちょうど,先週の「聖書を学ぶ会」は,ローマの信徒への手紙4章の「アブラハムの模範」のところでした。
アブラハムが義とされたのは,行いによるのではなく,神様を信じたからであると次のようにパウロは伝えています。
「肉によるわたしたちの
先祖アブラハムは何を得たと
言うべきでしょうか。
もし,彼が行いによって
義とされたのであれば,
誇ってもよいが,
神の前ではそれはできません。
聖書には何と書いてありますか。
『アブラハムは神を信じた。
それが,彼の義と認められた』
とあります。」
(ローマ4:1-3)
その後に,パウロは次のように書きます。
「不信心な者を
義とされる方を信じる人は,
その信仰が義と認められます。」
(ローマ4:5)
そして,ダビデを例に上げ,「ダビデも,行いによらずに神から義と認められた人の幸いを,次のようにたたえています」(ローマ4:6)として,ダビデの詩とされる詩編32編1,2節の言葉を上げて,「不法が赦され,罪を覆い隠された人々は,幸いである。主から罪があると見なされない人は,幸いである」(ローマ4:7)と書きます。
この徹底した恵みは,おとめが身ごもって産んだ「インマヌエル・神共に」と呼ばれる男の子の十字架上での「贖い」によってもたらされました。
この神様の御恵みに生かされる時に,わたしたちも神様と共に生きて行く喜びに溢(あふ)れて,ダビデと共に「死の陰の谷を行くときも,わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩篇23:4a)と言うことができます。
その時には,わたしたちが主語になり,「神共に」は「神と共に」となります。
(2007年12月16日)
3.神共に (永遠の命) 2025
イザヤ7:10-14
(インマヌエルの預言)
ローマ1:1-7
(挨拶)
マタイ1:18-23
(イエス・キリストの誕生)
(マタイ1:23)
「『見よ,
おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』」
この名は,
『神は我々と共におられる』
という意味である。」
Ⅰ
(マタイ1:18-23)
イエス・キリストの誕生
今日は待降節第3主日で,来週はクリスマスです。
この時期のわたしの仕事の一つに,教会に送られてくる山のような文書を整理することがあります。
その多くはルーテル教会内外の施設や団体からのクリスマス献金のお願いです。すべてに対応できないのですが,その中から幾つかの施設や団体を選んで献金しています。
その選別をするためにも,一つ一つの封書を開封して,内容を読んでいます。
読んでいると対応できないことで,胸が痛くなります。その時に,できることは祈ることです。
今日の説教題の「神共に」は,その時の祈りの言葉です。
神様が共にいてくださって,その施設や団体をお守りくださり,その方々が活動しているアフリカ,バングラディッシュやアフガニスタンの助けを必要としている人々をお守りくださいという祈りになります。
この「神共に」という説教題を見て,教会の方が「神と共にでしょう」と,わたしの方を向いて言われました。
それから,讃美歌405番を思い出されたらしく,「神共にましてですね」とおっしゃいました。
Ⅱ
(イザヤ7:10-14)
インマヌエルの預言
この「神共に」は,神様の先導性を表す言葉です。ここでの「神」という言葉は主語なのです。ですから,それだけを意味するならば,「神は共に」とすべきであります。
この「神共に」は,神様が預言者イザヤを用いて,ユダのアハズ王に告げられた「インマヌエル」(イザヤ7:4)という言葉からとっています。
一つの言葉ですから,その言葉の中に「は」とか「と」とかの助詞はなく,存在そのものを表していますから「神共に」です。
この「神共に」という言葉を告げられたアハズ王は信仰深い幸いな人であると思われるか知れませんが,アハズ王はそうではありませんでした。
この言葉が告げられた時,ユダは北イスラエルに攻められていました。
この北イスラエルがアラムと同盟を結んで,エルサレムに攻め上ぼって来たのです。
アラムと同盟を結んだという知らせに,ユダの「王の心も民の心も,森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:2b)とイザヤ書に書いてあります。
この時,神様は預言者イザヤに,
アハズ王に会い「落ち着いて,静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)ということと,
同盟して攻め上って来る彼らの計画は「実現せず,成就しない」(イザヤ7:7)ことを告げるようにいいます。
その上に,アラムがユダに攻め上ることは実現せず成就しないということについて,神様はアハズ王に,「主なるあなたの神に,しるしを求めよ」(イザヤ7:11)と言われました。
何という祝福された神様からの語りかけでしょう。
ところが,アハズ王はそれを断ります。
神様はなおも,イザヤを通してアハズ王に,「おとめが身ごもって,男の子を産み,その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14b)という「しるし」を,お与えになることをお告げになります。
ですから,クリスマスという「しるし」は,アハズ王に与えられました。
このアハズ王について辞典で調べてみますと,「ユダの王で,王としての在位は紀元前735年から715年,偶像崇拝者,自分の子を焼いて献げ,高き所,丘の上,木の下で捧げた」と書かれています。
列王記には,アハズ王は次のように書かれています。
「彼はイスラエルの王たちの道を歩み,
主がイスラエルの人々の前から
追い払われた諸国民の
忌むべき慣習に倣(なら)って,
自分の子に火の中を通らせることさえした。
彼は聖なる高台,丘の上,
すべての茂った木の下でいけにえをささげ,
香をたいた。」
(列王記下16:3,4)
それほどの不信心な王を神はどこまでも祝福し,
「おとめが身ごもり,男の子を産み,
その名をインマヌエルと呼ぶ」
(イザヤ7:14b)
というクリスマスのしるしをお与えになりました。
徹底した御恵みではありませんか。
Ⅲ
(ローマ4:1-12)
アブラハムの模範
パウロは,この徹底した恵みを,ローマの信徒への手紙で明らかにします。
それは罪人の罪を赦し,罪を覆(おお)い,罪のない者とし,義とする恵みです。
ちょうど,先週の「聖書を学ぶ会」は,ローマの信徒への手紙4章の「アブラハムの模範」のところでした。
アブラハムが義とされたのは,行いによるのではなく,神様を信じたからであると次のようにパウロは伝えています。
「肉によるわたしたちの
先祖アブラハムは何を得たと
言うべきでしょうか。
もし,彼が行いによって
義とされたのであれば,
誇ってもよいが,
神の前ではそれはできません。
聖書には何と書いてありますか。
『アブラハムは神を信じた。
それが,彼の義と認められた』
とあります。」
(ローマ4:1-3)
その後に,パウロは次のように書きます。
「不信心な者を
義とされる方を信じる人は,
その信仰が義と認められます。」
(ローマ4:5)
そして,ダビデを例に上げ,「ダビデも,行いによらずに神から義と認められた人の幸いを,次のようにたたえています」(ローマ4:6)として,ダビデの詩とされる詩編32編1,2節の言葉を上げて,「不法が赦され,罪を覆い隠された人々は,幸いである。主から罪があると見なされない人は,幸いである」(ローマ4:7)と書きます。
この徹底した恵みは,おとめが身ごもって産んだ「インマヌエル・神共に」と呼ばれる男の子の十字架上での「贖い」によってもたらされました。
この神様の御恵みに生かされる時に,わたしたちも神様と共に生きて行く喜びに溢(あふ)れて,ダビデと共に「死の陰の谷を行くときも,わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩篇23:4a)と言うことができます。
その時には,わたしたちが主語になり,「神共に」は「神と共に」となります。
(2007年12月16日)