大谷翔平のMLB入りは中日の『ウルトラC』から!? 初のメジャーリーガーを獲得した当時の舞台裏
2024年4月22日 11時28分
◇記者コラム・人生流し打ち
黒人初の大リーガーを記念した「ジャッキ・ロビンソン・デー」(4月15日)にちなみ、後輩記者に2番目を知っているか聞いてみた。「さあ、2番目は分からないもんですから」。その名はラリー・ドビー。実は中日ドラゴンズでもプレーした。日本選手の単独最多録の通算176号をマークした大谷翔平につながる日米の前時代を伝えるのも年長者の仕事かも。
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ラリー・ドビーは1962年6月、中日に入団した。47年にインディアンス入りした外野手でア・リーグ初の黒人選手。引退して2年間のブランクがあったが、直前に中日に加入した元ドジャースのドン・ニューカムと並び日本初の大リーグ出身選手とされる。
【外国人選手を受け入れた土壌】ドラゴンズの前身である名古屋軍は球団創設の36年、バッキー・ハリスら4人を米国から招いた。有力選手を巨人などにさらわれたローカル球団にとって外国人こそが出遅れをカバーする秘策だった。以来、ファンも好意的に外国人を受け入れてきた。
【なぜ大リーガーに】。62年は濃人渉監督の2年目。前年オフには折り合いが悪かった森徹ら生え抜きを放出した。中でも森は早大出身のスラッガーで、プロレスラーの力道山が後見人で中日でも本塁打王に輝いた人気選手。キナ臭い話にふたをするためには戦力補強に加えて話題を提供する必要があった。
【当時のフロント事情】球団を運営した中部日本新聞社(現中日新聞社)は新愛知と名古屋新聞の合併会社。野球では新愛知は『名古屋軍』、名古屋新聞は『金鯱軍』の母体で、その後金鯱軍は消滅し、名古屋軍がドラゴンズとなった。
ところがねじれ現象が起きた。当時ドラゴンズを運営していたのは名古屋新聞出身の幹部で、球団会長は与良ヱ(あいち)、球団代表は高田一夫。監督は金鯱軍の選手だった濃人、ヘッドコーチはやはり金鯱軍にいた石本秀一。消滅したはずの球団が息を吹き返した形だった。
【大リーグのルートは】そんな状況下でのスター放出劇。成績も春先から不振をきわめ、観客も激減した。代表の高田は濃人、石本と同じ広島県出身。名古屋新聞入社後、運動部を経て金鯱軍のマネジャーを2年間務めるなど2人と深い関係にあった。そして活路を大リーグに見いだした。
では、どうやってルートを開拓したのか。高田はマネジャーを退いた後、首相官邸詰め、従軍記者などを経て中日スポーツ編集部長も経験したが米国に人脈はない。後に渉外担当補佐になる足木敏郎が生前、種明かしをしてくれていた。「米国のコミッショナー事務局を通じ、来日の脈がありそうな選手を紹介してもらっていたそうです」。意外にも正攻法だった。年俸はドビーが2万ドル(720万円)、ニューカムが1万8000ドル(648万円)。当時は固定相場制で、首相の月給は26万円の時代である。
ドビーは72試合で打率・225、10本塁打。ニューカムは81試合で打率・262、12本塁打。ともに1年で退団したが、足木によれば2人の打球は数字以上に迫力があり、ファンも喝采を送ったそうで中日は3位に。付け焼き刃だったフロントのもくろみは何とか当たったが、抜本的な解決には至らず濃人監督もこの年で退団した。
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何はともあれ米球界と日本を結ぶパイオニアはドラゴンズ。あの苦肉の策が長い月日を重ねて大谷翔平の活躍つながったと言えるかもしれない。(増田護)
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