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「権藤頼み」から「3本柱」へ、選手への言動も変化 アメリカで学んだ指導理論で優勝つかむ

2025年8月8日 05時05分 (8月9日 10時38分更新)

【連載】命までは取られん 濃人渉の野球道
 1961年、過酷な連投でチームを支えた中日の新人権藤博に、指揮官は「命までは取られやせん」と告げた。その名は、濃人渉。日中戦争で大けがを負い、広島では原爆に遭いながら生き延びた。自身の経験から、選手に求めたのは戦う心。2度も九死に一生を得た命を野球にささげた男の足跡を追う。 (この連載は小坂亮太が担当します)
 
(1)白球追う日々に襲いかかった時代の嵐 権藤に連投指示した中日の指揮官、その人生の足跡をたどる
(2)原爆「屋根の下敷きになって、はって逃げた」 2度目の九死に一生、野球観に影響
(3)「選手全員に根性をうえつけたい」厳しい指導でチームに亀裂 道半ばで絶たれた監督生活
(4)「権藤頼み」から「3本柱」へ、選手への言動も変化 アメリカで学んだ指導理論で優勝つかむ(この記事)
(5)「わしは原爆を受けとるんだ」 最後の務め、広島でカープ優勝に感涙

ロッテ優勝記念につくられたリング。濃人渉の形見として次男賢二が着けている=千葉県栄町で

 「父は最期まで大事にはめていた」。濃人渉の次男、賢二(83)=千葉県栄町=の右手中指には、金色のリングが輝く。濃人がロッテを率いた1970年、優勝の記念につくられた指輪。濃人にとって失意の底からはい上がった証しであり、息子には「度胸のある人だった」と尊敬する父の形見だ。
 中日の監督を解任された濃人は翌63年、妻ミツに背中を押され、指導者の勉強で米国に渡った。中日では権藤博に頼り切った投手起用に終始した。孫の一仁(52)=大阪市=は「その反省もあって行ったのでは」と推測する。当時の大リーグは日本に先駆けて先発ローテーションの文化が確立され、救援で活躍する投手も増えていた。
 充実した時間を過ごしたのだろう。広島市の自宅には、大リーグ通算266勝のボブ・フェラー著「HOW TO PITCH」など野球関連の古い洋書が残っている。...

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