本文へ移動

白球追う日々に襲いかかった時代の嵐 権藤に連投指示した中日の指揮官、その人生の足跡をたどる

2025年8月5日 05時10分 (8月9日 10時35分更新)

【連載】命までは取られん 濃人渉の野球道
 1961年、過酷な連投でチームを支えた中日の新人権藤博に、指揮官は「命までは取られやせん」と告げた。その名は、濃人渉。日中戦争で大けがを負い、広島では原爆に遭いながら生き延びた。自身の経験から、選手に求めたのは戦う心。2度も九死に一生を得た命を野球にささげた男の足跡を追う。 (この連載は小坂亮太が担当します)
 
(1)白球追う日々に襲いかかった時代の嵐 権藤に連投指示した中日の指揮官、その人生の足跡をたどる(この記事)
(2)原爆「屋根の下敷きになって、はって逃げた」 2度目の九死に一生、野球観に影響
(3)「選手全員に根性をうえつけたい」厳しい指導でチームに亀裂 道半ばで絶たれた監督生活
(4)「権藤頼み」から「3本柱」へ、選手への言動も変化 アメリカで学んだ指導理論で優勝つかむ
(5)「わしは原爆を受けとるんだ」 最後の務め、広島でカープ優勝に感涙

 平たんな住宅街を抜け、急角度の坂道を上る。汗がしたたり、脇の竹林からセミの声だけが聞こえる。広島市南区の霊園。濃人は生前、お盆や正月のたびに、この小高い墓地に足を運んだ。「先祖の墓参りをした後、必ず戦死した友人の墓でも手を合わせていた」と孫の一仁(52)=大阪市=が振り返る。

軍服姿の濃人渉。日中戦争で出征し、左半身を負傷した=家族提供

 陸軍の歩兵だった同い年の旧友は1939年、ノモンハン事件で8月に負傷。3カ月後に戦病死した。自身も兵役経験者の濃人は晩年、一仁につぶやいた。「200人くらいの軍隊で1人か2人しか生き残れなかった。帰ってこられたのは運が良かっただけ」...

この記事・コンテンツの続きは会員限定です。
紙の新聞の定期購読者の方は、無料で会員登録できます。

中日プラスに登録すると
中日新聞電子版が利用できる
会員向け記事が読み放題
各種メールマガジンで最新情報をお届け

※紙の新聞とは、中日新聞朝刊・北陸中日新聞朝刊・日刊県民福井です。

よくある質問はこちら

関連キーワード

おすすめ情報

スポーツの新着

記事一覧