(最前列左から6番目が山屋他人です)
昭和3年に、昭和天皇の大礼(即位の礼)が京都御所で行われ、雅子妃の曽祖父で、当時62歳の山屋他人大将(すでに予備役となって引退しておられる)も列席しています。
この「大禮に参列の海軍将星」と題された記念写真では最前列に、山屋氏も含む明治・大正以来の歴代大将が並び、ずらりと揮毫(サイン)しているのがわかります。(上の写真で青で囲んでいるのが「山屋他人」)
更に、最前列にクローズアップすると、
(この画像では、最前列の左から5番目になっています)
(出典:「大礼特別観艦式・大礼中の帝国海軍 :昭和3年」海軍省 昭和4年 国立国会図書館デジタルライブラリー )
さてこの時、およそ90年後に、ひ孫娘が皇后になることを想像なさったでしょうか?
この大礼については、当然のことながら多くの写真集があり、
(全体写真)
(出典:「大礼諸儀及大礼観兵式写真帖」 国立国会図書館デジタルライブラリー)
山屋氏を含め、歴代大将方は、「海軍大将」、「親任官」、「勲一等」、「旭日大綬章」始め、それぞれに最高位にあたる参列資格をいくつも有しているので、即位礼当日の「賢所大前の儀」、「紫宸殿の儀」をはじめ、「七儀」すべてに列席しておられたはずです(もちろん、夫人も同様です)。
上記の写真では、ご夫人方も古式ゆかしい小袿袴の正装姿で一緒に参列していることがわかります。
実際、前掲の海軍の写真集では、数人の海軍大将の奥様方のこうした装束の写真があります。
また、公文書館のアーカイブで公表されている資料の一部として、
「大礼記念並に同証状交付に関する件(23)」という公文書に
とあり、おそらく雅子妃の曾祖母の貞子夫人も、一連の儀式にはともに出席なさったのではないでしょうか。
典雅なおすべらかしの写真がご遺族の手元に残っておられたら、ぜひ、見せていただきたいですね
(ただ残念なことに、山屋邸は後に、戦災に遭って焼失しておられるとのことですが・・・)。
皇太子と雅子妃の婚約が正式に決定した際、私の友人が、
「雅子さんのひいおじいちゃまは大昔、仕事ではもちろん、宮中での行事なんかに日常的に参内してらしたと思うんだけど、何でそういうこと、報道しないんだろう?
宮中の公式行事の写真なんて、政府にも山ほどあると思うけど。まあ美智子さんの手前、遠慮せざるを得ないんだろうけどね」
とよく言ってました。
この写真は、ずいぶん前に見つけたものですが、目星を付けて探すと、こういう写真は簡単に出てきます。
生前退位や新天皇への代替わりの皇室関連のニュースが頻繁に流れている中、次の皇后のご先祖が、昭和の大礼に参列していたことなど、うってつけの話題だと思うのですが・・・・。
雅子妃は、平成の新時代の皇太子の縁談の候補としてつとに有名で、華やかな経歴だけではなく、歴史的背景や皇室との縁を持った、至極順当なお妃候補だったわけですが、婚約当初から、そうしたことをなるべく感じさせないよう、非常に意地悪く焦点をずらした系譜・親族の紹介がなされており、奇妙なマスコミの悪意が目につきました。
”先祖に軍人が存在することへの配慮”もあったのでしょうが、軍人ではない方も当然おられるわけで、どうやら雅子妃は初めから、美智子皇后への忖度も含め、マスコミの利益構造とは必ずしも合致しない存在と位置づけられていたようです。
”先祖に軍人が存在することへの配慮”もあったのでしょうが、軍人ではない方も当然おられるわけで、どうやら雅子妃は初めから、美智子皇后への忖度も含め、マスコミの利益構造とは必ずしも合致しない存在と位置づけられていたようです。
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山屋他人は、数々の主要ポスト歴任を経て、海軍大将に昇進したのが大正8(1919)年ですから、主に大正天皇時代の重臣だったと言えるでしょう。
大正帝が皇太子時代には、御用掛や軍務のご進講も務め、また山屋夫妻のご親戚には、大正初頭に宮内省侍医を務めた医学博士もおられました。
そして、この即位礼の昭和天皇とも、皇太子時代、ごく短期間ではありましたが、ともに軍令部勤務で職場を同じくした時期があり、よく御存知であったと思います。
大正12(1923)年に予備役となった後は、当時、これほどの地位を極めた方としては非常に珍しく、完全に第一線を退き、旧盛岡藩士として、岩手県出身者の学生会や海軍会の会長を務めたり、同郷の名士同士で親しかった鹿島精一(鹿島建設社長)、田中館愛橘(物理学者、帝大教授)、後輩の栃内曽次郎大将らとともに、旧盛岡藩主・南部家の顧問を務め、同家の後援を行うなど、いわゆる名誉職を引き受けるにとどめています。
(当時はまだ、上京後も、かつて属した旧藩を基盤とした交友関係が生涯にわたって大きな意味を持っていたことがうかがえます。
盛岡藩はいわば「賊軍」扱いだった時代もあり、なおさら結束が強かったのかもしれません。)
山屋氏の人物評には、「温厚な君子人」、「おおよそ軍人らしからぬ」、「学究肌」とのフレーズがよく出てきますが、退職後の人生の選択にそうした性格が表れており、もしかしたらお若いころには、事情が許せば軍人以外の道への希望もあったのかもしれないな、とも感じました。
ただ、(公文書等の記録によると)「親任官」として、晩年までずっとこうした即位礼を始めとする宮中行事など冠婚葬祭、各種催しには出席なさっています。
山屋他人は、日米開戦も、その後の敗戦と海軍の消滅をも知ることなく、昭和15年9月に75歳でお亡くなりになりました。
さて一方、この時、京都御所で即位の儀式に臨んだ、若き昭和天皇。
敗戦後、占領期における昭和帝の行動が、今に続く日米間の安全保障体制の形成に深く関与していたのではないか、と考えられる公文書やそれに基づく論考が、近年、新たに提示されるようになっています。
またそれに伴って明らかになりつつある、あらゆる分野における戦後日本の「作られ方」についても同様に、平成のごく初期に学生生活を終えた世代としては、驚愕と同時に大変困惑させられるものでありました。
敗戦後、占領期における昭和帝の行動が、今に続く日米間の安全保障体制の形成に深く関与していたのではないか、と考えられる公文書やそれに基づく論考が、近年、新たに提示されるようになっています。
またそれに伴って明らかになりつつある、あらゆる分野における戦後日本の「作られ方」についても同様に、平成のごく初期に学生生活を終えた世代としては、驚愕と同時に大変困惑させられるものでありました。
この記念写真には、山屋氏の後輩で、この大礼から17年後に首相となって第二次大戦を終結に導くことになる鈴木貫太郎大将の姿もみられます。
また同じく後輩で、友人でもあった百武三郎大将の姿も見られます。
百武氏は、山屋の末娘・寿々子嬢(雅子妃の母方祖母)の結婚の際の仲人でもありました。
お相手は山屋と同期の故・江頭安太郎中将の子息・豊氏(日本興業銀行勤務)で、この江頭(父)氏と百武氏もまた、同じ佐賀藩士の同郷という縁がありました。
百武氏は、昭和11年11月から19年8月まで、昭和天皇の侍従長を務めています。
鈴木、百武両氏をはじめ、記念写真に写った方々のうち、敗戦時、存命だった方は、山屋氏が見ずに済んだ悲惨な光景を目の当たりにすることになりました。
この最前列に居並ぶ歴代大将方の多くは、主に、明治、大正期に天皇に近く仕えた幕僚のトップであり、ご夫人方も含め、同期を中心に強い人間関係が形成されていました。
彼らは、この時、皆で即位を見守った昭和天皇の、その後の敗戦から独立に際してのあり方、そして何より、苦楽を共にした同輩・仲間の子孫である雅子妃の現状(と平成の皇室)を、遠い世界から、一体どのような感慨を持って見ているのだろうか?
昭和3年の「大禮に参列の海軍将星」と題された記念写真、いろいろ考えさせられる一枚ではあります。
(「官報」「人事興信録」「大将傳・海軍編」「昭和大礼京都府記録」「新岩手人」「大正天皇御大葬写真帖」「郷関を出でし岩手の人々」「国立公文書館アジア歴史資料センター」)