雅子妃の曾祖父、江頭安太郎中佐の提出した国法学の論文に対する宇都宮教授(海軍大学校)の講評が、明治33(1900)年の公文書に残されています。

(国立公文書館 デジタルアーカイブ、以下同じ)
またその前年、海軍大学校長を通じて東京帝大政治学科への聴講を願い出ている文書もあります。論文執筆の為でしょうか。

宇都宮教授は論文への審査報告の冒頭、
「条理明晰議論老成優に著者の超凡にして豊富なる理解力判断力を有するを称するのみならず 併せて著者の斯学における素養の程度をも窺知するに足る者あり 海軍将校中此の種の著者を出すを見 国法学者は驚異と嘆賞とをもってこれを向かふるなるべし」
と書いています。
(前にも書きましたが、この方についての人物評は、お若いころからどれを見ても、滅多にお目にかかれないような言葉で称賛されています。一体、どれほど優秀だったのでしょうか。)
この審査報告には、
「法理上 君主は国家に非ずして 国家の機関に過ずとする学説の正理なるを論証せんとするにありて」
「国家と君主は同一体なりや、との問題に付き 是を是認すると否認する者との二泒(派?)あり 著者は後泒に属する者にして」
と書かれています。
私は全くの門外漢でよくわかりませんが、いわゆる「天皇機関説」の考え方を採用しておられたようです。
議会を君主と同等に非常に重く捉えていたこともわかります。
また読み進めると、国家に対する国民(当時は臣民)の権利を広く認めようとする姿勢がとても強く感じられます。

あくまでも講評からうかがえることではありますが、非常に先進的というか現代的で、むしろ現在の憲法の考え方に近いぐらいの印象があります。
こういう意見を、将来海軍を背負って立つと自他ともに認める人物が述べているというのは、なかなか興味深いものです。
さすがに戦争放棄まではありませんが。
また、君主(天皇)、帝国議会、裁判所、国民(臣民)をどのように配置するか、そして其々の力関係、権力構造をどう構築するかを非常に自由に論じていることがうかがえます。
特に「領土は統治権の客体に非ず」と書いておられるということが非常に印象に残りました。
後年、国体を称賛する全体主義と植民地拡大とが連関し、国の破たんをもたらしたことを考えると、なかなか示唆的でもあります。
また、君主と大臣との責任の範囲にも言及しておられるようです。
審査する宇都宮教授は、領土についても大臣の責任(の範囲)についても非常に楽観的ですが、現実に諸外国と対峙するエリート幕僚であったであった江頭氏の視点は、後々のことを考えると、かなり先見性があったと感じます。

そして「君主は国家に非ず」といった内容の論文が「有益の書と認める」ということで海軍大学校に保管の運びとなっています。
当時はこうした内容はタブーでも何でもなかったという事でしょう。
そもそもこの世代の人たちは、江戸時代末期に生まれており、ちょっと前までこんな世の中じゃなかったことを身を以って知っているわけで、皇室に対して、教条的にも観念的にもなりえないのは当然でしょう。
一通りの論評が終わった後、宇都宮教授は、
「余の論評せし所は重に本書の大主義に関するものにして其他の諸点に至ては多くは批評を試むの余地なし 唯余の一々之に向て賛辞を呈せざるは是れ著者を敬する所以なり」と記しています。
それにしても多忙な中、東大に聴講、論文まで書き、高い評価を受けていますが、その数年前には、病気で転地療養までしており、あまりお丈夫ではなかったと思われるのですが・・・・。
雅子妃の祖母の江頭寿々子さんは、句集におさめられたエッセイで、自分の父と海軍で同期であった夫の父親について
「江頭の父は兵学校始まって以来の秀才といわれ、クラスの皆も一目おいて呼び捨てにせず『江頭さん』と呼び、学科の分からない所があって聞きにいっても、必ず『こうこうだと思います』と一歩下っておしえて下さるとか、性格は謹厳実直、その上極めて優しく体格は良くて模範的な海軍士官であった」
「成績はいつもトップ、平均98点以下を取った事がないほどであったので、少尉に任官後もいつも中枢部に居り、日露戦争のときは、大本営参謀を務めて居られた。主人が五歳の時海軍省軍務局長の激務に追われ、過労から肺炎が悪化」、
大正2年、40代の若さで逝去。
「其後もクラスの皆さんは海軍の損失、ひいては日本の損失と江頭中将の遺徳を忍び、どんな会でも、先ず江頭未亡人から先へという不文律は、ずっと守り続けられたと父母から聞いている。」
このクラス(第12期)は、「花のクラス」と言われるほど優秀ぞろいで(江頭氏のほか、山屋他人、有馬良橘を輩出、この二人は大将になっている)、特に薩長出身者が一人もいないことで、結束がより強かったと言われています。
(なお、寿々子さんの父、山屋他人大将は、明治44年に海軍大学校長も務めています。)
それにしても、海兵卒業式では、総代(主席)として恩賜の軍刀を下賜され御前講演を行った人物が、「君主も国家の一機関」とする論文を書いて激賞され、その後も要職を歴任、明治天皇崩御の際には、「大葬儀海軍事務委員長」を務めた、という事実は、なかなかに考えさせられるものがあります。
ここ数年言われている「明治の精神」などというのとは、かなり異なる、というよりむしろ全く逆にさえ感じられます。
さて、この国法学の論文、雅子妃をはじめとしたご遺族の方は読まれたのでしょうか?
公文書にあるように海軍大学校に保管されたのであれば、その後は防衛庁(省)にあるという事になりますが・・・・。
孫にあたる江藤淳氏もこうした祖父の論文については何もお書きになってはいないようなので(私が見つけられなかっただけかもしれないが)、ご存じなかったのかもしれません。
もし現存するのであれば、公開していただきたいですね。
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(追記)
江藤淳氏の「戦後と私」に、祖父・江頭安太郎氏の論文についての記述がありました。
当記事で採り上げた国法学の論文は明治33年ですが、この「戦後と私」では明治35(1902)年と書かれており、内容からみても別の論文についてかもしれませんが、一部抜粋して掲載しておきます。
(引用開始)
明治三五年、海軍大学校から派遣された委託学生として東京帝国大学法科大学に学んだときの論文の写しが父の手許に保存されている。当時祖父は中佐で、論文は和罫紙に毛筆細字で書かれ、海軍大学校長に提出されているが、その内容は西洋社会思想史、特に社会主義に関するものである。
因みに祖父は森鷗外より三歳年少である。鷗外が社会主義について書き出すのは明治四十三年の幸徳秋水の大逆事件以後だから、これは鷗外の研究の広さと深さには遠く及ばないとしても、少なくとも時期的には先んじているものとしなければならない。祖父がなぜこの問題に関心を持ったか、指導教授が誰でどういう径路で文献を入手したかについては私はまだ調べていない。
しかし祖父はそこでユートピア社会主義、アナルコ・サンディカリスム、および共産主義の沿革を概説しつつその各々を批判し、国家の指導による漸進的な社会主義を将来帝国政府が採用すべき内治策として推している。
(引用終了)
(江藤淳「戦後と私」 初出は「群像」1966年10月号)
この場合の「国家の指導による漸進的な社会主義」というのは、現在の日本の社会保障・福祉制度(公的な医療保険等)や労働組合などに相当するものと考えてよいでしょうか。
国法学の論文への講評からうかがえるのと同様に、極めて先進的な論文であったことは間違いないでしょう。
若い頃から「将来の海軍大臣間違いなし」と言われた方でしたが、すでにその視野は、日本の国づくりに広がっていたようです。
(国立公文書館 デジタルアーカイブ、以下同じ)
またその前年、海軍大学校長を通じて東京帝大政治学科への聴講を願い出ている文書もあります。論文執筆の為でしょうか。
宇都宮教授は論文への審査報告の冒頭、
「条理明晰議論老成優に著者の超凡にして豊富なる理解力判断力を有するを称するのみならず 併せて著者の斯学における素養の程度をも窺知するに足る者あり 海軍将校中此の種の著者を出すを見 国法学者は驚異と嘆賞とをもってこれを向かふるなるべし」
と書いています。
(前にも書きましたが、この方についての人物評は、お若いころからどれを見ても、滅多にお目にかかれないような言葉で称賛されています。一体、どれほど優秀だったのでしょうか。)
この審査報告には、
「法理上 君主は国家に非ずして 国家の機関に過ずとする学説の正理なるを論証せんとするにありて」
「国家と君主は同一体なりや、との問題に付き 是を是認すると否認する者との二泒(派?)あり 著者は後泒に属する者にして」
と書かれています。
私は全くの門外漢でよくわかりませんが、いわゆる「天皇機関説」の考え方を採用しておられたようです。
議会を君主と同等に非常に重く捉えていたこともわかります。
また読み進めると、国家に対する国民(当時は臣民)の権利を広く認めようとする姿勢がとても強く感じられます。
あくまでも講評からうかがえることではありますが、非常に先進的というか現代的で、むしろ現在の憲法の考え方に近いぐらいの印象があります。
こういう意見を、将来海軍を背負って立つと自他ともに認める人物が述べているというのは、なかなか興味深いものです。
さすがに戦争放棄まではありませんが。
また、君主(天皇)、帝国議会、裁判所、国民(臣民)をどのように配置するか、そして其々の力関係、権力構造をどう構築するかを非常に自由に論じていることがうかがえます。
特に「領土は統治権の客体に非ず」と書いておられるということが非常に印象に残りました。
後年、国体を称賛する全体主義と植民地拡大とが連関し、国の破たんをもたらしたことを考えると、なかなか示唆的でもあります。
また、君主と大臣との責任の範囲にも言及しておられるようです。
審査する宇都宮教授は、領土についても大臣の責任(の範囲)についても非常に楽観的ですが、現実に諸外国と対峙するエリート幕僚であったであった江頭氏の視点は、後々のことを考えると、かなり先見性があったと感じます。
そして「君主は国家に非ず」といった内容の論文が「有益の書と認める」ということで海軍大学校に保管の運びとなっています。
当時はこうした内容はタブーでも何でもなかったという事でしょう。
そもそもこの世代の人たちは、江戸時代末期に生まれており、ちょっと前までこんな世の中じゃなかったことを身を以って知っているわけで、皇室に対して、教条的にも観念的にもなりえないのは当然でしょう。
一通りの論評が終わった後、宇都宮教授は、
「余の論評せし所は重に本書の大主義に関するものにして其他の諸点に至ては多くは批評を試むの余地なし 唯余の一々之に向て賛辞を呈せざるは是れ著者を敬する所以なり」と記しています。
それにしても多忙な中、東大に聴講、論文まで書き、高い評価を受けていますが、その数年前には、病気で転地療養までしており、あまりお丈夫ではなかったと思われるのですが・・・・。
雅子妃の祖母の江頭寿々子さんは、句集におさめられたエッセイで、自分の父と海軍で同期であった夫の父親について
「江頭の父は兵学校始まって以来の秀才といわれ、クラスの皆も一目おいて呼び捨てにせず『江頭さん』と呼び、学科の分からない所があって聞きにいっても、必ず『こうこうだと思います』と一歩下っておしえて下さるとか、性格は謹厳実直、その上極めて優しく体格は良くて模範的な海軍士官であった」
「成績はいつもトップ、平均98点以下を取った事がないほどであったので、少尉に任官後もいつも中枢部に居り、日露戦争のときは、大本営参謀を務めて居られた。主人が五歳の時海軍省軍務局長の激務に追われ、過労から肺炎が悪化」、
大正2年、40代の若さで逝去。
「其後もクラスの皆さんは海軍の損失、ひいては日本の損失と江頭中将の遺徳を忍び、どんな会でも、先ず江頭未亡人から先へという不文律は、ずっと守り続けられたと父母から聞いている。」
このクラス(第12期)は、「花のクラス」と言われるほど優秀ぞろいで(江頭氏のほか、山屋他人、有馬良橘を輩出、この二人は大将になっている)、特に薩長出身者が一人もいないことで、結束がより強かったと言われています。
(なお、寿々子さんの父、山屋他人大将は、明治44年に海軍大学校長も務めています。)
それにしても、海兵卒業式では、総代(主席)として恩賜の軍刀を下賜され御前講演を行った人物が、「君主も国家の一機関」とする論文を書いて激賞され、その後も要職を歴任、明治天皇崩御の際には、「大葬儀海軍事務委員長」を務めた、という事実は、なかなかに考えさせられるものがあります。
ここ数年言われている「明治の精神」などというのとは、かなり異なる、というよりむしろ全く逆にさえ感じられます。
さて、この国法学の論文、雅子妃をはじめとしたご遺族の方は読まれたのでしょうか?
公文書にあるように海軍大学校に保管されたのであれば、その後は防衛庁(省)にあるという事になりますが・・・・。
孫にあたる江藤淳氏もこうした祖父の論文については何もお書きになってはいないようなので(私が見つけられなかっただけかもしれないが)、ご存じなかったのかもしれません。
もし現存するのであれば、公開していただきたいですね。
------------------------------------------------------------------------------
(追記)
江藤淳氏の「戦後と私」に、祖父・江頭安太郎氏の論文についての記述がありました。
当記事で採り上げた国法学の論文は明治33年ですが、この「戦後と私」では明治35(1902)年と書かれており、内容からみても別の論文についてかもしれませんが、一部抜粋して掲載しておきます。
(引用開始)
明治三五年、海軍大学校から派遣された委託学生として東京帝国大学法科大学に学んだときの論文の写しが父の手許に保存されている。当時祖父は中佐で、論文は和罫紙に毛筆細字で書かれ、海軍大学校長に提出されているが、その内容は西洋社会思想史、特に社会主義に関するものである。
因みに祖父は森鷗外より三歳年少である。鷗外が社会主義について書き出すのは明治四十三年の幸徳秋水の大逆事件以後だから、これは鷗外の研究の広さと深さには遠く及ばないとしても、少なくとも時期的には先んじているものとしなければならない。祖父がなぜこの問題に関心を持ったか、指導教授が誰でどういう径路で文献を入手したかについては私はまだ調べていない。
しかし祖父はそこでユートピア社会主義、アナルコ・サンディカリスム、および共産主義の沿革を概説しつつその各々を批判し、国家の指導による漸進的な社会主義を将来帝国政府が採用すべき内治策として推している。
(引用終了)
(江藤淳「戦後と私」 初出は「群像」1966年10月号)
この場合の「国家の指導による漸進的な社会主義」というのは、現在の日本の社会保障・福祉制度(公的な医療保険等)や労働組合などに相当するものと考えてよいでしょうか。
国法学の論文への講評からうかがえるのと同様に、極めて先進的な論文であったことは間違いないでしょう。
若い頃から「将来の海軍大臣間違いなし」と言われた方でしたが、すでにその視野は、日本の国づくりに広がっていたようです。