それから暫くして、巡回を終えた乾は学園に帰ってきた。そして彼はあてがわれた自分のデスクに座ると、考え事を始めた。
彼の思考の中心にはゲヘナ学園風紀委員会……ひいてはそのトップであるヒナがいた。彼女は何故にああも動いているのだろうか? そんな事を考えていたのだ。
しかしどれだけ考えても答えは出ないし、そもそも答えが出るとも思っていない。だから彼は考える事をやめた。
「シャーレの先生、か……」
「あら、先生に会ったのですか?」
「天雨か、確かに先生と名乗る人物にはあったさ。……反省文は?」
「今は腕を休める為に休憩中です」
天雨アコだった。彼女はこの前起こした独断行動の反省文──レポート用紙にして1000枚の内、159枚目を書き終わった所だ。
乾がシャーレの先生について考えていると、アコが声をかけてきた。彼は簡潔にシャーレの先生と会ったとだけ伝えた。しかしその解答に彼女は不満があるようだった。
乾がシャーレの先生と会ったという言葉に、アコは少し不満そうな顔をした。彼女にとって天敵であるからこそ、彼の口から他の人物の名前が出る事にむず痒い気持ちになったのだ。
その事に対して、乾は不思議そうに彼女に問うた。すると彼女は悪びれもせず言った。
「いえ、あのひとにはちょっと遺恨と言いますか、何と言いますか……」
「遺恨、ね。彼の仕事を邪魔した?」
「う……」
「図星か。まだ反省文は終わっていないんだろ?」
乾はそう告げると、彼女に手を差し出した。その手にはペンが握られている。
アコはそれを見るなり苦い顔をしたが、大人しく乾からペンを受け取ると反省文を書き始めた。
……彼はキヴォトスの外から来た人間だ。故に、キヴォトスに疎い。だから彼は知らないのだ。シャーレがどんな場所なのかを。そしてアコと先生の間に何があったのかも。乾はペンを走らせるアコを見てから、再び思考の海へと潜っていった。
……それから暫くして、アコが本日分の反省文を書き終えた頃だった。巡回に出ていた風紀委員会の面々が戻ってきた。その中にはヒナもいた。彼女は自分のデスクに座って一息つくと、アコに言った。
「アコ、反省文はどこまで行ったの?」
「委員長、ただ今お持ちします!」
バタバタと忙しげにアコは反省文の束を取りに行った。そして風紀委員会の面々は各々、報告書を記入し始める。
乾は喉が渇いたのでカップにコーヒーを
乾はカップをテーブルに置きながら彼女に視線を向けた。彼女は相変わらずの無表情だった。アコから受け取った反省文に目を通しつつ、ヒナは言った。
「で、シャーレの先生には会ったのかしら?」
「ああ。何と言うか……」
その質問に対して乾は正直に答えた。シャーレで先生と呼ばれている人物には会った事があると。そして彼は言った。
乾がシャーレの先生に会った事と、その先生が風紀委員会に協力を要請してきた事は別問題である。だから自分はそれを受けるかどうかは分からないし、まだ決めていないと。
するとヒナは興味なさげに答えた。
「まあ、あなたがどう考えてようと私は受ける。アビドスには迷惑をかけてしまったわけだし」
「アビドス……アビドス高校だったか? 一体アコは何をやったんだ?」
「あなたは知らないのも無理はないわ。だってあなたがキヴォトスに来た日に起こった事だし」
ヒナはそこまで言うと、アコからコーヒーを受け取った。
そして一すすりすると、ぽつりぽつりと語り始めた。アコがシャーレの先生と衝突した事を。そして彼女の言葉に耳を傾けつつ、乾はヒナから話を聞き出した。
曰く、「エデン条約」なるものの締結に際して事を有利に運びたいが為に、アコがヒナに無断で──仮に断りを入れようにもヒナは首を横に振っただろうが──独断でシャーレの先生を確保しようと兵力を動員した事。
そして、その代償は高くついたという事。アコがシャーレの先生に手も足も出なかったという話を聞いて、乾は言った。
彼はアコが田中をあまりよく見てはいない理由がわかった気がしたのだ。同時に、彼女が自分の事を先生と慕う理由にも納得がいったのである。
だから彼は言ったのだ。
「……それは確かに遺恨だな」
と。それから乾はヒナから話を聞いていたが、その最中にイオリの報告書が出来上がってきた。
これでようやく、今日の業務が終わるらしい。乾はこの後も自習をするつもりだが、他の面々は一度帰るようだ。乾は軽く挨拶を交わし、彼女たちを見送った。
それから暫くして彼は椅子に深く腰掛けると言った。
「今日も今日とて騒動か。ゲヘナって所は治安が悪いのか? 流石にキヴォトス全域がこうとは思えないが……」
独り事を言いながらも、乾は自習を始めた。治安維持を主任務とするならば、知識は欠かせない。彼は冊子を開くと、黙々と勉強を始めた。
彼の自習は深夜にまで及び、時計の短針が2を指した時には……乾は机に突っ伏していた。
「……乾! ヘルメットを付けろ! 乾……!」
「う……む?」
ふと、乾は誰かの声に起こされた。どうも眠ってしまったらしい。
目を覚ますと辺りは暗く、自分がギアを装着している事に気が付いた。積み上げられた土嚢、疲弊した様子の特機隊員達、時折流れて来る放送……乾はあの時の自分であると、確信した。
──しかし、何故今時になってこんなものが?
乾は不思議に思いながらも、銃を支えに立ち上がった。照明弾が光を放ちながら、空高く打ち上げられる。限られた明かりの中で階段を一段、もう一段……と昇る。そしてようやく登り切ると、薄暗い通路をゆっくりと進む。
通路のあちこちに、特機隊員がいる。
負傷している者、くたびれた様子で壁に寄りかかる者、そして警戒する者……と様々だ。それらを横目で見ながら、乾は歩みを進めた。
そして暫くして彼はようやく辿り着いた。屋上に続く扉へと。
彼が突き当りの扉を開けると、視界が光に埋め尽くされた。
それと同時に、単調な音が鳴り響く──。
「……はっ?!」
乾は時計の鐘の音で目を覚ました。彼は慌てて跳ね起きると、深い溜息と共に立ち上がり背伸びをした。
窓の外はまだ暗いが、二度寝をする程でもない。しかし筋肉のこわばりを強く感じた。痛みに堪えつつ片づけをすると、乾は部屋を出た。そして私室として充てがわれた部屋に戻ると、彼はシャワーを浴び始めた。
「どうして今更、あんな夢を……?」
ふと出た独り言だが、誰もそれに答える事は無く。シャワーの音がそれをかき消した。
乾がシャワーを浴び終える頃には空が白み始めていた。そして彼は着替えると、今日1日のスケジュールを確認した。今日は土曜日。学校は休みだ。だがしかし、彼にはやる事が山積みだった。まずは……朝めしだと乾は思った。
それから彼は身支度を整えた後に、食堂へと向かった。風紀委員会の入っている建物の廊下をゆっくりと歩く。窓の外からは、名前も知らない鳥のさえずりが聞こえる。
目の前で、運動部に所属する生徒がわいわいきゃっきゃとはしゃぎながらも、廊下の奥から食堂へと入っていくのを見た。
──それとは対照的に、乾が食堂に入った途端に周囲が沈黙で包まれた。そんな空気を意に介さずに席に着くと、朝食の注文を食券機で行った。そして食事を持ってくるまでの間に時間を使いつつ勉強をした。彼の朝は早いのだ。
……それから暫くして、彼が朝食を食べ終えた頃だった。不意に後ろから声をかけられた。振り向くとそこにいたのはヒナだった。
「あら、随分早いのね?」
「空崎。君こそ、今日は休みじゃないか?」
「あいにくそう休ませてくれないのよ。面倒な事にね」
「仕事熱心じゃなくてよかったよ」
「それはどういう意味かしら……」
乾はヒナに対し、仕事熱心を通り越して仕事中毒者ではないかと思っていた。
しかし実際のところ、ヒナが大変面倒臭がりではあるが下手に休んだ時の皺寄せが大変な事を知っているからこそ、どんなに疲れていても必ず出勤するのであった。
そして案の定と言うべきか、彼女は風紀委員会の仕事の他に他の業務も行っていたようだ。乾はそれに気付きつつ言った。彼はヒナに、今日は休みなのかと問うたのだ。
すると彼女はそう答えた後、ふと思い出したかのように言った。
「今日の昼から、付き合ってもらえないかしら?」
「それはいいが、どこで待ち合わせる?」
「後でモモトークに送っておくわ。それじゃ」
「あ……おい!」
それだけ言うと、ヒナはどこかへと歩き去っていった。それとともに食堂は賑わいを取り戻す。乾は彼女の態度に違和感を覚えながらも図書室へ向かった。
理由は簡単、自習の続きだ。勉強を始めると時間はあっという間に過ぎていった。
「もうこんな時間か。一体何があるんだか」
気が付けば昼食時になっていたようで、乾はヒナに示された待ち合わせ場所へと向かった。
そこはゲヘナ自治区の中心にある駅だった。乾が待ち合わせ場所に辿り着くと、既にヒナはそこにいた。彼女は駅の改札前の壁に背を預けていた。そして乾の姿を見ると、彼に声をかけた。そして乾の姿を見ると、彼に声をかけた。
ヒナが待っていたのは地下鉄であり、バスではなく電車で移動した。その間、乾とヒナの間に会話はなかった。目的地に到着した時には既に夕方だった。空は紅く染まりつつあり、太陽がビルに隠れようとしていた。
そんな空の下で二人の目に飛び込んできたのは……とある料理屋だ。そして二人は中へと通され、大きな部屋まで案内された。そこにはチナツもいた。
「ここは一体?」
「詳しい事は後。とりあえずエビでも食べてて」
「エビか……」
「苦手だった?」
「いや、そういう訳ではないんだが」
ウェイターが運んできた大量の茹でたエビを掴んでは食べる。
こうして黙々と食べていると、台湾で
紅一と喧嘩した時は最終的に食べきれずに残してしまい、彼女からは叱られたものだ……と乾は思いながらも黙々と食べた。
そして食事も一区切りすると、ヒナが話を切り出した。
「それで、話だけど……」
「なんだ?」
「委員長、私からお話します。乾さん、シャーレに行ってみませんか?」
同席していたチナツが乾にそう言った。シャーレだって? と聞き返す乾に対し、彼女は続けてこう言った。
何ということはない。連邦生徒会長がキヴォトスの様々な所で起きる問題を解決するために設立された部活であるらしく、そこならば安全だということをチナツは説明したのだ。そしてヒナもそれに同意し、更にはゲヘナ生も何人か当番として派遣しているという事を付け加えた。
それを聞いた乾は考えた。
確かに自分は今現在、ゲヘナ学園で外部協力員として働いている身だ。だがしかし、自分は生徒ではない。そこまで考えて、ふと湧いたのが田中が働くシャーレがどんな場所かという興味。
「シャーレには今、人がいるのか?」
「実際のところ、顧問である先生はアビドス高校の件で不在です。ですが部員は毎日来ている事には変わりありません」
「それで、俺に何をして欲しいんだ?」
「あなたには、シャーレのオフィスがあるビル──D.U.地区までのゲヘナ生の護衛をお願いしたいのです。あそこは我々も、職務では入れません」
チナツはそこまで言うと、茹でたエビを一つかみ。それを口に放り込んだ。
ラーメン屋で、まだシャーレには生徒の出入りが少ないと田中から聞いた事を思い出す乾。彼の脳裏に、田中が独りで黙々と作業をしている姿が浮かび上がった。
正直言って、護衛の対象であるゲヘナ生が来る事が懸念材料だ。だがしかし、行って見ないと何とも言えなさそうな気がした。乾はチナツに質問を返した。
シャーレのビルに行くとして、護衛はどういった人員で行うのか。また、警護の期間はどうなるのか……という事だ。その問いに対しチナツはエビを飲み込むと、ゲヘナ生が3名。そして乾自身が1名だと回答した。それを聞いた乾は、その3人の中にアコはいないのかと問うた。
すると、チナツはコップを手に取ってこう答えた。
「今のところは、ですね。何しろ彼女は1000枚の反省文があるので、早くてもそれが終わってからじゃないでしょうか」
「また大変な量だな」
「……それほど、彼女の自責の念も大きいのでしょう」
チナツの言葉に乾は呆れる他なかった。
大体、1000枚と言う数字に乾は驚いたが、アコならばやりかねないと納得していた。
それから1時間半後、話が纏まった一行は帰る事にした。タクシーで帰るヒナたちとは別れて、乾は駅へと歩く。駅の改札を通り、プラットホームに到着した時だった。乾は何となく口笛を吹きたくなった。
──そう言えば、先輩を見つけた時も口笛が聞こえたっけ。
気づけば、「いぬのおまわりさん」のフレーズを吹いていた。
口笛を吹きながら、乾は電車が来るのを待った。駅のホームで大の大人が口笛なぞ、恥ずかしいにも程がある。乾はそう思ったが、口笛を止める事が出来なかった。幸いにも自分以外の人はいなかったし、口笛を吹く乾に気付く者もいなかった。
そんな彼の背後から迫りくる人物がいた。
──駅のホームに、電車が来た。
それと同時に、乾の後ろに来た人物も走り始めた。その速度は速く、そのまま電車に飛び乗るかと思ったが──。
「あーっ!」
「ああ──っ!」
「あああ──っ!」
「ああああ──っ!」
「あああああ──っ!」
──振り向いた乾は、叫びながらその人物の顔を指差し、相手も乾の顔を指差した。
トレンチコートにサングラス姿の相手──