美智子さんが皇太子妃に正式に決まる前から、正田家が新聞記者を極秘に出入りさせていたことは、当時の記者たちの手記等からもよく知られています。
そのうちの一人、毎日新聞の皇室担当だった清水一郎元記者の
「『嫁ぎ行く心境』をスクープしたころ」(文芸春秋1990年2月号 338~339p)には、
当時の正田邸の様子がよく表れています。
御成婚時の報道によれば、昭和天皇が正田美智子への縁談を許可したのが昭和33年の8月15日。
小泉信三氏からの打診の後、美智子さんは突然、ベルギーでの聖心OBの国際会議出席を名目に、
9月3日から10月26日まで、欧州6か国と米国に長期海外旅行に出ている。
当時、平民出身の美智子さんは報じられたことも無く、世間的には全くの無名。
この縁談は全て、7月下旬からの宮内庁による報道規制のもとで進められた。
手記によれば、清水氏はこの年5月ごろから、皇太子とテニスをする美智子さんにいち早く目をつけていた。
小泉信三氏からの打診の後、美智子さんは突然、ベルギーでの聖心OBの国際会議出席を名目に、
9月3日から10月26日まで、欧州6か国と米国に長期海外旅行に出ている。
当時、平民出身の美智子さんは報じられたことも無く、世間的には全くの無名。
この縁談は全て、7月下旬からの宮内庁による報道規制のもとで進められた。
手記によれば、清水氏はこの年5月ごろから、皇太子とテニスをする美智子さんにいち早く目をつけていた。
◆「たまたま正田邸におりましたら」◆-------------------
(以下、「『嫁ぎ行く心境』をスクープしたころ」より)
「この旅行は、富美子さん(美智子さんの母)によれば『渦巻きから脱出させたかった、静かに自分で考える時間を与えてやりたかった』というものでした」
「帰国されて二、三日後、私は池田山の正田邸で美智子さんにお話を伺う機会を得ました。すでに富美子さんとはかなりの信頼関係を築いていたのです。
外国旅行中の娘さんの足取りを、本人の手紙より早く伝えていたこと、あるいは東宮御所の内情を説明したりもしました。
正田家としても、皇室の実際の生活ぶりなどの情報を得たかったのでしょう。」
「あえて殿下の事はお聞きしませんでした。しかし美智子さん自ら『殿下は意外に孤独な方だとお伺いしたことがあります。せめてテニスの間だけでも楽しくお過ごしいただけるよう、お相手をさせていただいているだけです。それ以上の何でもありません』とおっしゃったのです。」
ところが、(婚約当日の清水氏の記事によれば)それからわずか10日後、
「それが十一月の初め、ご承諾なされました。その数日後、今度は偶然インタビューできました。
たまたま正田邸におりましたら、どこかの報道機関が押しかけ、私は鉢合わせになるとまずいので、茶の間にいることにしました。
テレビをみていましたら、そこに美智子さんが入ってこられ、お話を伺うことになったのです。二人の話が隣の居間に聞こえるとまずいだろうということで、美智子さんがテレビのボリュームを上げたりしました。
ところが隣から富美子さんが来て、小さくされてしまうのです。
美智子さんは『子の心、親知らずだわ』と苦笑いされていました。」
「そこでサンルームのようなところに場所を移して話を続けました。
この時の一問一答が、ご婚約が発表された昭和三十三年十一月二十七日の毎日新聞夕刊一面トップを飾ったのです。『お分かりになりにくいかもしれませんが、普通の結婚と変わりはございません』とおっしゃっていたのが印象的でした。」
「ご婚約の後、お手紙をいただきました。その一部を特別に許可をいただいて、御成婚の三十四年四月十日、毎日新聞のトップに『嫁ぎゆく心境ー美智子さん本社に寄せる』と題して掲載させていただきました。」
※美智子さんと清水記者の文通※
後に清水氏(当時72歳)は、毎日新聞1999年3月22日朝刊『21世紀への伝言』でのインタビューで、このときの手紙のやり取りについて、

「結婚の儀が迫るにつれて多忙になった美智子さまから
『これからはお手紙にしましょう』といわれた」
「あて名のない封筒に便箋が3枚。細かく丁寧な字だった」
とあり、父親の会社の秘書を通じてやり取りされていたことが書かれている。
正式婚約以降もしばらくは清水氏を自宅で応対していたこと、そして手紙も、掲載されたものだけではないことがわかります。そちらも今後、公開してもらいたいものです。
(後年、紀子さんが同様に結婚当日、4年間懇意だった朝日に手紙を掲載させている。)
後に清水氏(当時72歳)は、毎日新聞1999年3月22日朝刊『21世紀への伝言』でのインタビューで、このときの手紙のやり取りについて、
「結婚の儀が迫るにつれて多忙になった美智子さまから
『これからはお手紙にしましょう』といわれた」
「あて名のない封筒に便箋が3枚。細かく丁寧な字だった」
とあり、父親の会社の秘書を通じてやり取りされていたことが書かれている。
正式婚約以降もしばらくは清水氏を自宅で応対していたこと、そして手紙も、掲載されたものだけではないことがわかります。そちらも今後、公開してもらいたいものです。
(後年、紀子さんが同様に結婚当日、4年間懇意だった朝日に手紙を掲載させている。)
婚約発表当日に掲載された正田邸内での美智子さんへの単独インタビュー記事と、ご成婚当日の手紙の掲載、この二つが昭和の皇太子ご成婚に関して、「私の2大スクープになりました」と手記は締めくくられています。
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驚く程の世慣れたやり手ぶりで、彼女の「マスコミ操縦術」は母親譲りなのがよくわかります。
到底、昔から言われ続ける「正田家は何度も固辞した」「身分違いで滅相もない」という感じではありません。
また清水記者が書くように、富美子さんは皇室の内部情報を求めており、
朝日の佐伯記者も同じく、(週刊朝日2008.12.5号より)
「(正田家が)お妃選びの情報を欲しているのは明らかでした」、
「ようやく富美子さんとの体面がかなったのは6月26日。とはいえ、一方的に情報を聞かれるだけです」
その後、軽井沢の別荘にも同行し、
「民主化が行き過ぎることはないでしょうか」など、「夫妻と夜更けまで話し込んだ」。
そして以下の美智子嬢の旅行事情を知ると、更に考えさせられます。
◆大使館を使っての世界旅行◆------------------------
欧州を終えて米国に入った10月半ばごろから一般のマスコミも気付きはじめ、現地特派員が同行取材。
本人もナイアガラなどで記念写真を撮らせている。
見出しには「ご辞退したが」、「悩みながらの旅行」などとあるが、よく読むと以下の内容がしっかり織り込まれている。
(ただし、報道規制下であったので報じられたのは婚約後。)
週刊朝日(昭和33年12月7日号p13)によれば、
「各地で特別な扱い」、
「彼女のスケジュールはすべて大使館から大使館へと組まれていた。飛行場へ着くと、大使館の車が待っている。乗るときも もちろんそうである。」、
「プライベートな一人の女性の海外旅行にしては”異例な大使館旅行”だった」。
※一部、知人や親戚の駐在銀行員宅に滞在。
また、読売新聞(昭和33年11月29日)でも、
「ともかく、美智子さんの外遊コースは、五年前の皇太子さまのときとそっくりだった。ベルギーからイギリス、イタリア、スイス、フランス、オランダ、アメリカへ。」
5泊したパリの大使公邸二階の来客用アパルトマンは、「5年前に皇太子さまが特に所望されて泊まられたところだった。」
そして驚いたのが、読売新聞(同年11月28日)の
「外電がすでに美智子さんの皇太子妃内定を伝えていたので、ロンドンでは”ロイヤル・ファミリー”にもひとしい待遇を受けたが」とのくだり。
※ロンドン滞在は9月半ばごろと思われる。このころすでに外国では報道されていたということなのだろうか?
一般の日本国民は、彼女のことなどまだ誰も知らないというのに。
なお、週刊明星(同年11.23号)によれば、米国APが美智子嬢を打電したのは(未確認情報として)11月7日、ニューズウィークが11月10日号で報道。
当時はテレビすら普及しておらず、一般人は外国の情報を入手する術もなかった。
一般の日本国民は、彼女のことなどまだ誰も知らないというのに。
なお、週刊明星(同年11.23号)によれば、米国APが美智子嬢を打電したのは(未確認情報として)11月7日、ニューズウィークが11月10日号で報道。
当時はテレビすら普及しておらず、一般人は外国の情報を入手する術もなかった。
そもそも「主婦と生活」(昭和34.1月号)によれば、
美智子嬢は旅行のお別れを告げるためわざわざ軽井沢に皇太子を訪ねており、その時、皇太子は、
「イギリスにいったら、スコットランドまで回るといい。特に首都エジンバラを見ておくといい」とアドバイスしている。
また「週刊女性」(同年12月14日号)も同様に皇太子のアドバイスの記述があり、
「一部には、旅行をすすめたのは皇太子自身だとか、旅行するまえに、すでに美智子さんは、ご自分が皇太子妃になられることを知っていたとかいう推量も生まれたのだが、」とある。
残念ながら日程上エジンバラは訪問できず、美智子さんは「はたで見るのもかわいそうなくらいに、がっかりしていたそうだ。」
また、帰国に際して、
毎日新聞 (同年11月27日)
同社の内田特派員は、米国(ワシントン)から帰国する美智子さんに同行。
途中、ホノルル空港で4時間半の待ち時間があり、ハワイ現地社員も含め一緒にドライブしている。
「美智子さんにすすめ、ハワイの本社通信員が案内役となって、アロハ塔からワイキキ海岸、ダイヤモンドヘッドに車を走らせる。」
この時の「マウナルア湾」を背にした美智子嬢の写真が大きく掲載されている。
その後、東京行の便に危うく乗り遅れそうになっている。
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この結婚は、一体、いつ決まっていたのだろうか?
宮内庁は「悩みながらの世界旅行」をお膳立て・演出するつもりだったようだが。
(箔づけとの記述もちらっとある)
当時、海外渡航は自由化されておらず、個人が即座に7か国もの海外旅行などありえない話だ。
宮内庁の演出というのは敗戦後、天皇制存続のため大手紙の皇室記者を使っての悪質なプロパガンダが盛んに行われており(「国民の天皇」他多数)、元来、お手のものだ(今も続いているようだが)。
しかしこの時は、同庁の影響下にない外信部の特派員が関わったうえ、婦人雑誌等も大きくとりあげたためか、
明言はしないまでも察しがつくように書いてあり、上手くいかなかったようだ。
むしろ結婚後、「縁談からの逃避行」がテレビ等で繰り返されたようだ。
◆白樺のしるし汚さぬよう◆--------------------------
婚約決定時の新聞を見比べると、清水氏の毎日(特別夕刊)が質・量ともに格段に充実しています。
この海外旅行の実情を知って、改めて冒頭の手記やスクープ記事を読むと、またいろいろ印象も変わってきます。
この記者だって当時からおおよそわかっていたわけです。
(新聞では、帰国後の美智子嬢の震えるような結婚決意のスクープ記事から数ページめくると、ハワイのドライブ記事と写真が出てきて、ちょっと意地悪です。)
さて、同記者はすでに2012年にお亡くなりになっているようです。(参照)
大昔、文通までしていた美智子さん、半世紀後の彼女の醜態を、晩年この方はどのように見ていたのでしょうか?
(そもそも新聞社は群馬も含め全国に支局があり、相対的に見ても彼女は東宮妃に推される根拠に乏しく、「なんで突然、この娘なのかな?」と記者は皆、感じていたと思うのだが・・・・)
御成婚当日、清水氏のスクープ記事に付けられた
「誠実に”光”を求めて 白樺のしるし汚さぬよう」
との見出し、今となっては、何とも皮肉な文言になってしまいました。