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宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ①

2018年01月31日 | このくにのかたち
「岡部長景巣鴨日記」と「ある侍従の回想録」。
旧岸和田藩主・岡部子爵家出身の兄と弟が書いたものである。


◆兄は東條内閣で学徒出陣を決定◆


前者の岡部長景は、明治17年8月生。岡部長職の長男、
村山長挙(朝日新聞社長)の兄。大正15年に子爵。
外務省に入り亜細亜局文化事業部長、内大臣秘書官長を経て、昭和5年貴族院議員、14年には国民精神総動員中央連盟事務局総長、15年帝室博物館顧問を歴任。

昭和18年東條内閣の文部大臣となり、学徒出陣を決定。
13万人とも、20万人超ともいわれる(文書が残っておらず確定人数不明)多くの学徒を戦地に送ることとなった。(戦死者も、概数すら不明)
同年9月の有名な「雨の神宮外苑」では、東條首相と共に出席、「開戦の詔」を奉読している。

なお、東條首相と岡部大臣は学習院初等科の同級生である。

       

(「出陣学徒を送る右から岡部文部大臣、東條内閣総理大臣、嶋田海軍大臣」
  出典:「写真週報」昭和18年 11月3日号)

戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に22カ月間拘留される
釈放後は、文化事業に復帰、27年、国立近代美術館長、国際文化振興会理事長などを歴任。昭和45年死去。

長景氏の夫人は加藤高明首相の娘で、夫人の母方祖父は三菱の岩崎弥太郎。
長景氏の長男・長衡の夫人は、毛利子爵家出身で華子妃の叔母にあたる。


(また、弟の村山長挙は、明治27年生。長職の3男で、朝日新聞創始者村山龍平の養子となり長女藤子と結婚。昭和15年朝日新聞社長。戦後辞任したが、26年公職追放解除とともに、社主に復帰、35年社長。昭和52年死去。)
      
 (日本人名大辞典、世界大百科事典、日本大百科事典、岡部長景巣鴨日記より)




◆末弟は昭和天皇の侍従◆

そして後者「ある侍従の回想録」の著者岡部長章は、明治42年生。
岡部家の八男。
東京帝大卒業後、帝室博物館、昭和11年から21年まで昭和天皇の侍従を務める
退官後、京都外語大教授、香雪美術館評議員、泉州学園理事。
夫人は、三菱の岩崎家出身。

「閨閥」(立風書房)では、岡部、村山の両家を岩崎家の傘下として書いているが、姉や妹は、大名家(後に離婚)のほか、三井財閥、川崎財閥等にも嫁いでいる。

(参照;一族の画像https://omugio.exblog.jp/17481819/)





◆朝日新聞社の車で巣鴨プリズンへ◆
               
         (国立国会図書館デジタルライブラリー)

自著によれば、兄・長景氏は自身の戦犯容疑での逮捕について、

「(弟・長挙の夫人)藤子さんよりの話で先刻新聞社より電話でお名前があった」と疎開先から上京の際、市兵衛町の村山邸で知らされている。

収監当日は、「朝食は美知子富美子のお料理で飯田の饂飩(うどん)とホットケーキの御馳走」、(美知子というのは、現在の朝日新聞社主)

朝日新聞社の自動車を九時半に呼び」「愈々(いよいよ)自動車も来たので着換へして皆玄関で見送を受け長挙と長衡(長男)とが同車した。」
             (「岡部長景巣鴨日記」より)

朝日新聞の車で同社社長の弟といっしょに巣鴨プリズンまで行っていることがわかる。
この本の「解説」(京大教授による)にも、長景・長挙の兄弟は家族も含めて極めて近しいと書かれており、村山邸での二人の写真も掲載されている。

また、同じく解説には「長景は、華族、政界、官界、財界、ジャーナリズムにまたがる姻戚関係を持ち、各界の結節点に位置する人物であった」とも書かれている。

※ちなみに、朝日新聞のもう一つの創業家の上野家も、九鬼子爵家(三田藩)との縁組がある。

戦時中の朝日の翼賛的報道や戦意高揚を煽る論調、そして虚報の連発に、こうした血縁的背景が無関係とは到底考えられないだろう。

さて、このような戦中の朝日新聞の「立ち位置」は、末弟長章氏の「ある侍従の回想録」の中で、敗戦の混乱時にはっきりと表れている。




◆玉音放送◆


そもそも敗戦時の玉音放送を執り行った下村宏情報局総裁が、元朝日新聞副社長だったことは有名だ。
前任の情報局総裁も、同社の緒方竹虎であり、のちの東久邇宮内閣での「一億総懺悔」という表現も、内閣書記官長となった緒方によるものとされる。
(「占領期の朝日新聞と戦争責任」)

             


以下、岡部長章著「ある侍従の回想録」p194~195(当然のことながら、この本は朝日ソノラマ刊である)によると、

(引用開始)

考えてみれば、玉音放送が終わった直後に最初に御前に出たのは、私だったのです。
「今の、どうであったろう」
との仰せです。玉音放送の国民への反響を心配されていたのです。
先を考えられ行動される陛下は、それまでにない充実したご様子でした。それで私は、陛下のお考えにこたえられる一案を思いつきました。

「私の兄(長挙)が朝日新聞におります(村山龍平の養子で社長)。
こういう場合は、新聞社が一番早いと思います。皇后宮大夫の広幡も兄のことを良く知っております。(必ずこの考えに賛成で許可すると思い)聞いてまいってはいかがかと存じます。」

「それはよい。ぜひ、そうしてくれ」というお答えを得ました。
さっそく広幡大夫に連絡すると、「大変よい思いつきだ」とのことで、ダットサンを一台用意してもらい、防空服に着替えて目立たぬようにして、有楽町の朝日新聞社に行きました。

兄に、陛下が心配なされているので状況を聞きにきたことを告げると、
「社の者をみんな講堂に集めて玉音放送を伺った。その後に『時局重大だから、一同心して社の大任を果たすように』というような訓示をする予定であった。
そのうちにこちら(自分)も泣いてしまい、訓示などできずに止めてしまった。
全国の状況はまだ分からないが・・・・」と言葉少なに話してくれました。
私が「では、効果がありましたね」と念を押すと、「まあそうだ」と一言ポツリといいます。
「それではこのことを申し上げます」と兄に伝え、朝日新聞社を出ました。


(引用終了)


この末弟・長章氏の本の「解説」で保阪正康氏は、

「岡部は、岸和田藩の藩主の流れを汲んでいる。長兄の岡部長景は外務官僚であり、その後は貴族院議員になっている。
昭和16年の東条内閣では文部大臣を務めている。華族(子爵)の爵位も得ている。
岡部は13人兄姉の末弟になるが、その血脈は日本のエスタブリッシュメントにそのままつながっている。
つまり日本の政界、財界、官界などの有力者となんらかのかたちで縁籍になる
という家系である。」

と、兄の「岡部長景巣鴨日記」の「解説」と同様のことが述べられている。



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どちらも著者サイドから依頼される「解説」なので仕方がないのかもしれないが、もうちょっと批判的な記述があってしかるべきではないだろうか。

学徒出陣というのは、戦時中を代表する重大な政策だ。
多くの学徒が悲惨な最期を遂げたというのに、裁可した大臣は戦後、免責されたあげく優雅に美術館館長だったのだ。
本来なら、朝日新聞がここぞとばかりにその人物を責め立てるはずだが、長年、しれっと知らん顔しているようだ。

学徒の出征数や戦死者数が未だ明確でないことにほっとしているのは、文科省や送り出した大学だけではないのだろう。

それにしても、こうしたことが意外と知られていないのは、自社に不都合なことを報道するわけがないうえに、外部の書き手も仕事を貰う立場上、書きにくいということなのだろうか。

或いは「藩屏」の家柄の人々は情報源でもあり、その上、彼らへの批判は、皇室の戦争責任に繋がる面倒な存在なのかもしれない。

書き手に不利益になることは書かれず、書かれないことは気づかれないままだが、殊に昨今、皇室報道周辺に配置されているお決まりの書き手たちの虚偽や不作為は、殆ど犯罪的と言っていいだろう。

それにしても、同社の言うところの「戦争責任」というのをどのように解釈したらよいのだろうか?
自社の社主の親族がこれほど深く関係しているというのに。

一方で、戦前から社主家と対立関係にあった主筆の緒方竹虎はじめ社員・記者の側も、戦中の政権の中枢にいたのだ(反東條ではあったが)。
敗戦時、「東久邇内閣は朝日内閣」と呼ばれたほどである。

(「新聞 資本と経営の昭和史-朝日新聞筆政 緒方竹虎の苦悩―」
「緒方竹虎とCIA」)

「アカヒ新聞」などと言われるのは、存外、そう悪いことではないのかもしれない。
 





戦前は、岡部子爵家に見られるこうした血縁関係が、そのまま宮中を中心とする政治体制を形成していた。
敗戦で、すべて終わったと思われていたが、こうした宮廷政治の名残りは、驚いたことに「戦後体制」の構築にまで及んでいたようで・・・・


                  「宮中政治と朝日新聞と学徒出陣②」へ続く