砂漠を走る。馬が走る。砂塵を足跡に残して、ひたすらに走る。月に照らされた影すら引き離さんというほどの速度で6つの影は砂漠を走り去っていた。
走る中、男の影は思考していた。
数時間前、ゲマトリアのゴルゴンダと名乗ったあの男の言葉である。
『近頃、キヴォトスに来てからの違和感や時間の流れなどの認識に、誤差が生まれていませんか?』
男はその言葉の後、自身の最大の欠落を認識した。『思い出した』のではなく、認識したのだ。
「私の名は…私の名はなんであった…?!
ムハンマド?ロレンス?違う!センセ…?そんなものではない!私の、私の苗字と名は何処へ消えた?!」
いや…欠落させていたということまではいい。
問題は、私は"名前を忘れているということすら忘れていた"と言うことだ。
男はその瞬間、血の気が引いた感覚を感じた。
自分が知らぬ間に、自分でなくなってきている。この事実に恐怖したのだ。その恐怖の中で、男はゴルゴンダとの会話を必死に思い返し、とある一説を思い出した。
『キヴォトスの認識が貴方を通じて外へ出ようとする働きもあるはずです。』
「侵食しているのか…?【キヴォトスというテクスト】が私を?」
男はこの世界に来てから二つのテクストをキヴォトスに持ち出した。それが『ムハンマド』と『ロレンス』である。
しかし。
しかしながら、この男が唯一他者から与えられたテクスト、記号が確かに存在した。それが、『先生』である。
男は理解した。いや、認識した。
男はアティクなどのキヴォトス人に自身の名を名乗る前に、自身の名を『先生』と言う記号に定義させられてしまったのだ。
その後、自身はどうなったか?
男は『先生』であると言うことを理由に、彼女達に責任を取ると言って、先頭に立ち、傭兵として最前線で戦い、いつの間にやら学校を作らんとしている。
常軌を逸している。
普通の先生がこんな事までするだろうか。
いや、少なくとも、私が知る中で先生の役割として、そんなものはなかった。
もしや息子も…そうなのか?
男はもはや息子の名さえ思い出せなかった。
だがしかし、希望はある。
自身がこの世界に持ってきたスーツ。
確か、スーツの内ポケットにあったはずである。
財布か名刺入れか、名前の書いてあるものが。
男は走っている。
それは、ロレンスでも先生でもない、一人の子を持つ親として、ただ自分と言う存在を思い出すために。
ーーーーー
銃声が聞こえる。激突音、衝突音が砂漠に響く。
ロレンスが帰ってきたらそこは、戦場であった。
「…何が、起こっている」
ロレンスはそれを見た瞬間、思考が一時停止した。誰も知るはずのない基地を、なぜ攻撃されているのか。なぜ敵はあんなにも豊かな装備を持ち、我々に攻撃を仕掛けているのか。
今までの牙城が崩れた様な感触だった。
全てがうまくいっていた様に感じていた。先生として彼女達の前を歩いて守る、そんな彼女達のセンセになっていたと思っていた。
だが、それが嘘だとしたら?
キヴォトスからもたらされたテクストに、自分が呑み込まれていただけだとしたら?
もし、息子もそうだったら?
ロレンスは分からなくなっていた。自分の名を忘れていたと言う事実と息子もそうではないかと言う心配によって、ロレンスは思考が止まっていた。それは、ロレンスと言う人間が、この男が実のところ、何処までもただの『先生』という役割を持っただけの人間であったことを示していた。
役割は人間を規定しない。
男は、今役割という殻を破り、そして今息子を憂う一人の親として、弱々しくこの大地に立っていた。どれだけ、賢い人間であろうが、技術を持つ人間であろうが、正気に戻った以上、もう一度命を賭けることなど、容易ではない。
男は、ムハンマドでも、ロレンスでもない。
ただの、名を無くした人間であった。
呆然とその場に立ち尽くす男。
しかし、その瞬間、背中に衝撃が走った。
「センセ!何ボーッと突っ立ってんだよ!」
アティクだ。
「私たちの学校が壊されてんだ!早く、敵を倒しに行くぞ!」
そう言って彼女は男の背中を叩いた。
「センセ!指示を下さいっス…!」
ウマルがそう言って男の方に触れた。
「…センセ…みんな貴方を待ってる…!」
アリがそう言って袖を引っ張る。
「ロレンス先生!いつも通り、私達を引っ張ってくくれよ!」
スンナが抱きながら男の顔を見る。
「ロレンス先生…私達の学校を守って…下さい…!」
アーファがそう言って男を見る。
少しの沈黙の後、男はもう一度手綱を握った。
男は無言で馬を走らせた。基地へと馬を走らせた。
走らせて、走りながら自分を恥じていた。
確かに、自分はキヴォトスによって『先生』というテクストに操られていたのかもしれない。本当は、こんな事するよりも早く、息子に会って地球へ帰りたいと思っているのかもしれない。
しかし。
しかし、彼女達を救った事実は変わらない。彼女達が救われた事実は変わらない。であるなら、何を戸惑う必要があるのだろうか。
あまりにも短い葛藤、あまりにも必要のない葛藤ではなかろうか!
「君達!着いてきなさい!不埒な敵に、シャハーダ学院の底力を見せつけてやろうではないか!」
男はそう言って、自分の意思で『先生』へと成ったのだった。
こんなに短い覚醒回があっていいのだろうか。
まぁ、これを書く為に最初からロレンスの本名を出さなかった訳で…
しかし、そろそろ私も生徒に焦点を当てたいので、早足になっているのかもしれませんね。そろそろ、第一章は終わりますよ。