アブドッラーは伝えている
預言者は常に次のように祈願して唱えられた。
「アッラーよ、正しい導きと悪に対する保護、更に、謙譲さと豊かさを私にお与え下さい」
ハディース「ズィクルの書」
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「…話をしませんか。ロレンス先生」
首のない男と額縁だけの男。
大人…いやもはや人であるかさえ分からない。
「…いいだろう。中に入りたまえ」
「ありがとうございます」
扉が閉められる。
歪な体をした男は杖と額縁を抱えて、もう一度ロレンスに体を向ける。
「改めて自己紹介をさせて下さい。わたくしは『ゲマトリア』のゴルゴンダ。背を向けた状態での挨拶となるご無礼、どうかお許しくださいませ。わたくしにはこれ以外の方法がありませんもので……。」
「まあそういうこった!」
「そして、私を抱えているのがデカルコマニー。彼もわたくしと同じく『ゲマトリア』に所属しております」
知らない人種…不明な目的…不気味な風貌
ロレンスは基本的に、この様な厄介者を簡単に室内に入れるタイプではない。では何故、この人の様な何かを室内に入れたのか。
…私を害するために近づいてきたのなら、何も言わずに扉を壊して入ってくれば良かったはずである…それならこいつの目的はなんだ…?ある程度引き出さなくてはならんな
「私はムハンマド・イブン・ロレンス。シャハーダ学院設立委員会でいろいろあって顧問をしている。…そこに立っているのも疲れるだろう。そこの椅子に座るといい」
ロレンスは自身のテーブルの向かいにある椅子を指差す。
「貴方の寛大な心遣いに感謝します」
「すまないが、明日にはここを発つ予定でね。準備もあるので、あまり時間を取ることはできんのだが、それでも良いかな?」
「えぇ、構いません。わたくしも無理を言っている立場ですから。それでは早速本題に入りましょう。わたくしたちが貴方と会談を設け、成し得たい目的は『貴方をゲマトリアへ勧誘する』ことです」
「…ゲマトリアとは?」
「失礼、説明を忘れていました…ゲマトリアとは貴方の様に外部の者が集まり、共に真理や秘技…崇高を探求する、大人達の集まり…とでも言えば分かりやすいでしょうか」
「哲学研究者の集まりの様なものか?」
「いえ、そうではありません。わたくしたちはそれぞれの手段で持って真理を追求しています。例えば、わたくしはテクストや文脈…文学的な視点から真理を探求しております」
「ふむ…
「普遍的なものに近いでしょう。わたくしはこの真理の探求者として、貴方が生み出したそのテクストに強く興味が惹かれているのです」
「私が生み出したテクスト?何のことかね」
「貴方が最初にこのキヴォトスに来た際に持ち込んだテクスト。それは貴方の名前そのもの。『ムハンマド』と『ロレンス』その二つのテクスト…いや記号とも言っていいでしょう。二つの記号はある種の象徴性を秘めていた」
「そう言うこった!」
「もともと、『ムハンマド』も『ロレンス』と言う言葉もこのキヴォトスにおいて存在しない物です。しかしながら、貴方という存在とこの二つの記号によって、外部の世界…とりわけ貴方の元いた世界とこのキヴォトスには、文脈的な繋がりを持ってしまった」
「それは、ある種の『文脈の交換』です。わたくしは驚愕しました…!これはキヴォトスと言う世界が意思を持って、貴方のいた世界の文脈を拝借し、さも、もともとこの世界にあったテクストとして使用し始めたのです!」
「……」
「わたくしはそこに崇高を見た!貴方がわたくしたち…いや、わたくしの手を取りさえすれば必ず『崇高』に至れる!わたくしは確信しました!」
「まあ、そういうこった!」
「…質問いいかね?」
「勿論です」
「まず、私の元いた世界とこのキヴォトスが文脈的な繋がりを持った…とはいったいどう言うことかな?」
「…ふむ。わたくしは出来る限り文書として表す事を好むのですが…ここは物で表した方がわかりやすいですね」
そう言って男…デカルコマニーはポケットから三枚のコインを取り出し、テーブルに少し距離を空けて配置した。
「この両脇に置いてあるのがキヴォトスと貴方の世界だとしましょう」
片方のコインに小さなコインを隣り合わせる。
「この小さなコインが貴方です。貴方はこの世界に何か理由を持ってか…それとも事故かは存じ上げませんが、やって来てしまった」
もう一方のコインに小さなコインが移動する。
「この時。このキヴォトスという世界は貴方の世界を認識しました」
「…このキヴォトスという世界に意志があると?」
「少なくともわたくしはそう考えます」
「そういうこった!」
「ターニングポイントはそこからして少し、貴方が自身の名を定めた時にあります。貴方の名前はこのキヴォトスの世界に存在しない記号によって構成されていた。そして、貴方の名前…それが本名であるかはどうでもいいのですが、少なくともその記号はとてつもなく大きな文脈を付随させていたのですよ」
そうして、コインとコインの間にペンを挟む様に置く。
「貴方が自身の名を外部から持って来た事によって、文脈の一部は貴方と言うトンネルを通ってこのキヴォトスに入り込んだ…その瞬間、貴方は成ってしまった」
「何に?」
「ふむ、言ってしまえば親善大使…いや、やはりトンネルと言った方が定義しやすいでしょう。貴方はこのキヴォトスと貴方のいた外部を渡すトンネルとして、"概念のトンネル"として機能したのです!」
「そう言うこった!」
「……概ね理解はできる」
「なんと…!私のこの思考を共に理解し、共有してくれているのですか?」
「私も文化人類学者だからね。まぁ、概念…そう言った文学的なテキストは何度も読んできた」
「…素晴らしい!貴方も我々と同じく研究を生業とする者でしたか。やはり、貴方は逸材です!『ゲマトリア』に協力しませんか?わたくしたちは共に近しい学びを共有している。きっと貴方のテクストは崇高に至るための…」
「だが、遠慮しておこう」
「…理由を伺っても?」
「実に簡単な話だよ。私には今その様に真理探求という行為に身を費やすほどの時間などない。詰まるところ忙しいのさ」
「ふむ…それは理解できます。貴方も、『先生』と言う記号を持っている通り、生徒に知識を享受しなくてはならない…と言う事ですね?」
「その通りだゴルゴンダ君」
「そう言うこった!」
「…それなら、ここは一度引き上げましょう。」
そう言ってゴルゴンダとデカルコマニーは席を立つ。そうして、コインとペンを回収して、もう一度ロレンスに体を向けた。
「本日は、ありがとうございましたロレンス先生」
「…こちらこそありがとう、デカルコマニー君とゴルゴンダ君。『ゲマトリア』への参加だが、もう少し考える時間をくれたまえ。もしかすれば、いつかは時間的余裕が生まれるかもしれないからね」
「おお…!それは嬉しい返事ですね。ゲマトリアの仲間たちにも良い知らせになるでしょう」
「そう言うこった!」
振り返り
扉の前に立つ。
「…そうでした。最後に忠告だけしておきましょう」
「何かね?」
振り返る事なくゴルゴンダは続ける
「貴方はトンネルとして機能してしまった。そうなれば、キヴォトスの認識が貴方を通じて外へ出ようとする働きもあるはずです。近頃、キヴォトスに来てからの違和感や時間の流れなどの認識に、誤差が生まれていませんか?」
「誤差…?」
「例えば、貴方がここに来てからすでに一年が経過しているにも関わらず。生徒の学年が上がらない…なんてどうでしょう?」
「……!」
まるで、目の前にあったはずのものにいまさらになって気づく様な感覚であった。ロレンスは今の今までそれを違和感とすら感じていなかったのだから。
「…思い当たる節がある様ですね。わたくしの仮定は間違っていなかった様で何よりです」
「そういうこった!」
「それと、最後に一つ。
お早めのご帰還をお勧めしますよ」
そうして男は消えた。
ロレンスはしばらく考えに耽った後、ゴルゴンダの忠告を思い出して隣の部屋へと足を運んだ。
コンコン
「なんだよセンセ?もう晩飯か?」
「…荷物をまとめなさい。今すぐ基地に戻るよ」
ロレンスの額には、冷えた汗が滲み出ていた。
電話が鳴る。電話が鳴る。ロボットの手は静かに受話器を取り出す。
「こちら、カイザーSOF」
「…依頼をしたい。目的は基地破壊。目標はアビドス砂漠の奥地、
バアス旅団の拠点基地」
動乱、未だ止まず。