分布
初めに、日本全国に堀籠さん491件(4,355位)、堀米さん749件(3,236位)、堀込さん556件(4,001位)程いらっしゃいます。(※ただし2007年電話帳調べ)
割と珍しい名字ですので、馴染みのない方は多いのではないでしょうか。
ホリゴメさんの多くは、山形県、宮城県、長野県、群馬県、茨城県など東日本にいらっしゃいます。
『批評社 埼玉苗字辞典』には、ホリゴメさんの戸数として以下のように集計しております。
堀籠 宮城県黒川郡大和町 150戸、富谷町22戸、加美郡色麻町20戸
堀篭 長野県北佐久郡御代田町38戸、佐久市58戸
宮城県柴田郡大河原町22戸、黒川郡大衡村44戸
堀米 群馬県高崎市50戸
茨城県鹿島郡鉾田町18戸
長野県下高井郡山ノ内町27戸
山形県西村山郡河北町65戸、最上郡鮭川村39戸
堀込 群馬県佐波郡境町20戸
山梨県北巨摩郡長坂町19戸
堀籠、堀米、堀込の違い
いろいろ調査をしてみますと、どうやら堀米さん、堀込さんは元々堀籠さんであり、一部の堀籠さんが、より画数の少ない堀米、堀込の字を選択していたと考えられます。確かに「籠」の字を毎回毎回書くのは面倒かもしれませんね。
姓氏家系大辞典
名字の由来、歴史を調べるに当たり、まずは、太田亮先生が昭和初期にまとめた『姓氏家系大辞典』を見てみましょう。この辞典は、本当に素晴らしいです。現存する名字に関してこれ以上詳しく書いてある辞典は他にはないでしょう。
ご自身の名字を調べる際には、まずは、この辞典を見てみる事をお勧めします。
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堀籠
①児玉党 下野国安蘇郡堀籠より起る。武蔵七党系統に見ゆ。系はなし。
②清和源氏 為義の裔、元隆の後と云う。①の氏と同異を詳にせず。佐野庄堀籠郷慶龍山天宝禅寺元亨元年十二月鐘名に「大檀那中務尉藤原朝臣通義、堀籠宮内左衛門尉源有元」と見ゆ。
③能登の堀籠氏 文和四年の天野安芸守遠政代・堀籠六郎左衛門尉宗重の軍忠状に「長伊勢守の一族家人等」云々と。
④紀伊の堀籠氏 日高郡の名族にして、「堀籠氏・永世十年御霊社棟札に、堀籠源七というものあり。其の余、代々芝氏と並びて南部の公文職たり」と見ゆ。芝条参照。又日高郡芝村の地士に堀籠弁右衛門あり。
⑤雑載 その他、武蔵等に存す。
堀込 ⑥下野等に此の地名存し、飯田氏譜に甲斐巨摩郡若巫堀込氏を載せ、又武蔵等にも此の氏存す。
堀米 堀籠に同じ
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堀籠の由来はこれだけあり、数少ないホリゴメさんですので、
大抵のホリゴメさんは、このいずれかに当てはまるのではないでしょうか。
少し、詳しく見たいと思います。
①の児玉党云々ですが、児玉党は、中世武蔵の地の侍集団であった武蔵七党でも随一の武力を誇った一団です。
藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の惟行が児玉を名乗った事が始まりです。
堀籠氏は、児玉党の浅羽氏の庶流との事です。
浅羽氏は、児玉氏、入西氏と別れ、現在の埼玉県坂戸市浅羽周辺を本貫としておりました。
従って、下野国安蘇郡堀籠より起るとありますが、これは誤りで、坂戸市に、堀込という地名もあり、こちらが堀籠氏の本貫と考えます。
実際、坂戸市堀込にある大宝寺は、堀籠氏の居館であったとされています。
また、『諸本集成倭名類聚抄 外篇 (日本地理志料 ‐ 和名類聚抄国郡郷里部箋注)』によれば、
「越生(おごせ)の郷、其の承元(1207-1211)、宝治(1247-1249)間の文書に見る、即ち越生氏の邑する所、其の族に大類、堀籠、黒岩、鳴瀬の諸氏あり。所謂児玉党也」とあり、越生は、坂戸市のすぐ隣となります。
この児玉党ですが、『吾妻鏡』に源頼朝による平泉合戦の際に児玉党の浅羽五郎行長、越生右馬允有弘が活躍したとあり、『大和町史』によれば、文治5年(1189)に、その功として黒川、志田、加美、玉造等(宮城県)に所領を与えられたとあります。そこに一族の堀籠氏も加わっていた事は容易に想像できるでしょう。
現在、宮城県の黒川郡、加美郡には、多くの堀籠さんがいらっしゃいますが、この児玉党の末裔と考えます。
児玉党における堀籠氏
宮城県黒川郡の堀籠氏
②清和源氏為義流というのは、源為義を祖とした源氏の一派ということで、源頼朝、義経もその一人となります。
『尊卑分脈』清和源氏によれば、元隆とは、源頼朝の弟、義経の兄となる全成(今若丸、悪禅師)という人物がおり、その息子が隆元という名であり、この流れを組んでいるのではと想像します。ただ、この全成、隆元は親子2代にわたって謀反の疑いで処刑されており、その後武家としては地に落ちて細々と生きながらえていたと考えられます。
※ただし、後醍醐天皇の寵妃、阿野連子は公家としての子孫で、こちらの家系は栄華を極めたようです。
ここに出てくる鐘は、日本寺の国指定重要文化財である鐘です。この鐘は、下野国佐野庄堀籠郷(栃木県佐野市掘米町)の天宝寺鐘として寄進され、60年を経て鎌倉五山の浄妙寺鐘となり、江戸湾を渡って日本寺鐘となった経緯があります。
鐘銘には、大檀那中務尉藤原朝臣道義、堀籠宮内左衛門尉源有元とありますが、藤原朝臣道義とは、中世堀籠を所領の一部としてた小野寺通義の事です。おそらく、堀籠有元は、下野国佐野庄堀籠郷に在って小野寺氏の被官的な立場であったと考えられます。また、その名の通り源氏の末裔であります。
堀籠宮内左衛門尉源有元
堀籠宮内左衛門源有元は、南北朝の動乱で新田義貞に従い戦死しております。
その後、一族はどうなったでしょうか。堀籠郷、現在の佐野市堀米町には、ホリゴメさんはいらっしゃいません。敗戦後四散したと考えられますが、現在明確な資料は残っておりません。しかし、今現在、山形、茨城、宮城などの一部に下野からの移住を伝えている家もあります。北畠氏に従い戦を続けたものもいたでしょう。また、前述の小野寺氏は、この頃、秋田仙北地方と、宮城登米地方にも所領がありました、小野寺氏を頼って仙北や登米に移動したものもいたと考えます。
茨城の堀籠さんは、北畠に従ったとの伝承があります。山形の堀米さんも元は下野からの出との伝承があります。
清和源氏の末裔と考えられるのは、以下の通りです。
茨城県の堀米氏
山形県鮭川町の堀米氏
仙台市/水沢市の堀籠氏
山形県河北町の堀米氏
③堀籠有元と同時期に、能登では、金頸城にて、城主の長新左衛門尉胤連(長谷部氏)、桃井直常南朝方と吉見氏等の北朝方の戦がありました。戦は、北朝の勝利に終わりました。その際に、天野安芸守遠政の家人、堀籠六郎左衛門尉宗重が功を立てたと云う、軍忠状が確認されております。また、弟の七郎宗成の記載もあります。
能登では、現在までホリゴメの名字はなく、堀籠宗重の子孫に関して不明です。児玉党の堀籠氏と考えられております。
ただ、天野氏の所領は、静岡、長野にあったそうです。
④紀伊の堀籠さんには、『堀籠家文書』が残っており、堀籠源七及びその出自は明確になっているようです。
公家の卜部氏を祖とし、吉田神社の祠官吉田氏の裔が、足利義詮に仕えていた湯川氏に属し林と改め、湯川直春の時代1500年代に紀伊の堀籠谷に移住し、春の字を賜り堀籠源七郎春安と名乗るとあります。代々公文職をしていたようです。
紀伊の堀籠氏
⑥堀込さん
長野にも堀込さんは多いようです。
長野県松本市/佐久市の堀籠/堀米氏
また、群馬県松井田町人見村に堀込氏の屋敷があります。
町指定文化財『堀込家上段の間』名主だった堀込氏の館に領主が来た時に休んだ間だそうです。
春日社神官の藤原家久より出て、武田信玄に仕えた堀込豊前を先祖とするそうです。
信玄公より人見村、八代村、仁田村の三か所の所領を賜ったとの事です。
始め堀籠と書き、のち堀込と改めたそうです。
『群馬県姓氏家系大辞典』
これ以前は、どのような出自であったか不明ですが、児玉党堀籠氏を祖との説があります。
⑦その他、上記に分類されないホリゴメさんを紹介します。
その他のホリゴメ氏
分布図
なお、本調査に際して、
『ぶらり・さの歴史さんぽ』著者で、安蘇史談会の元会長でありました、故・京谷博次さんよりご協力を賜りました。