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聖書と仏教の接点・マイスター・エックハルト

 新約聖書の好きな話の中に「ルカによる福音書第10章38節から42節」のキリストがエルサレム巡礼の旅の途中の話で、マリヤとマルタという姉妹の話があります。

 時々というよりもかつて、この話を引用し、13世紀ドイツの有名に聖職者マイスター・エックハルト(以下エックハルト)の感得の話をしたことがあります。

 エックハルトの感得が仏教の悟りにも似たところがあるということで、宗教哲学の世界では語る人の多い、聖職者ですが、エックハルトの思想の基本にかかわる諸命題が死後異端とされるなど、神秘学者と呼ばれることが多い人物です。

 ヨーロッパ各地に禅が流行しているようですが、その中に聖職者、神学者の中にもキリスト教の沈黙の世界の有り方と迎合するところを見出す方もあり、その中でこの神秘学者エックハルトの思想が語られているのです。

 そのようなこともあり自分としてもエックハルトについては非常に興味のあるところです。

 さてルカによる福音書第10章38節から42節の話にもどりますが、改めてどんな話かとなりますが、今朝は聖書からではなく、クリスチャンでもあった故遠藤周作先生の作品使用し、遠藤周作先生がこの聖書物語をどのように解釈していたか紹介し話を進めたいと思います。

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『聖書のなかの女性たち』(遠藤周作著 講談社文庫)p62~p64から

  十月の中旬、先ほどお話したようにキリストはベタニアにある披女たちの家にたち寄りました。有名なマルタとマリアの話はこの時起ったのです。
  
 家の女主人であるマルタはキリストとその一行をもてなすため台所で御馳走をこしらえはじめました。彼女はキリストを尊敬していましたし、尊敬する人のために食事を作ることは彼女のような主婦の心から考えれば手厚いもてなしだったのでしょう。だが妹のマリアは柿(マルタ)の仕事を助けもせず、人々と一緒にキリストの話をくい入るように聞いていた。改心して以来、彼女は自分の過去と罪をやさしく理解し、手をさしのべてくれた人の言葉のためだけに生きていたのです。

 猫の手も借りたい祝宴の準備にマリアが手伝いもしないことが、柿のマルタには不満でした。彼女はもちろん、悪意をもっていたのではない。ただ一刻も早くキリストとその弟子のために食事を作り、旅の疲れをねぎらいたかったのでしょう。

「マリア、来て手伝って」

 だがマリアは曖昧な返事をするだけでキリストのそばから離れようとはしなかった。
 遂にたまりかねたマルタはキリストにむかってこう言ったのです。

「妹はわたしだけに塞の世話をさせるのです。少しは手伝うようにおっしゃって下さい」

 キリストはそのマルタの顔をみあげてやさしく答えました。

「マルタよ。あなたは多くのことに心を使いすぎる。忙しすぎる。けれども必要なことはただ一つ。マリアはその最良の部分をえらんだのです」

 この「マルタとマリア」の話からキリストが柿マルタを叱責したとお思いにならないで下さい。

 キリストは自分をもてなすために台所で働くマルタの心はよく知っていられた。ただ彼はこうした良妻賢母的な彼女の性格の陥りやすい過ちをこうした瞬間をとらえて優しくおしえたのです。

 マルタよ。あなたは立派な女だ。しっかりとした性格だ。あなたはこうして私のために働いてくれている。だがその立派さ、しっかりさが自分だけの独善性を人生の中にみちびき入れはしないか。今日、台所の仕事のことであなたはマリアを非難する。台所の仕事だけなら大したことではない。だが人生の生き方についてもあなたは「自分はいつも正しい」と考える危険をもっていないだろうか。

 そして心の悲しい人、罪に躓(つまず)かざるをえなかった人を自分の世界か拒絶し、それをひそかに軽蔑する危険ももってはいないだろうか。人間はみな弱いのだ。その弱さを自分の中にも認めない者はいつかやはり知らずに他人を裁いてしまうだろう。

 だが私がこうして町から町を歩くのは裁くためではない。罪に願いた無数の人間の苦しかった人生を理解し共感するためなのだ・・・・・。

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文中の「この「マルタとマリア」の話からキリストが柿マルタを叱責したとお思いにならないで下さい。」以下は遠藤先生の思い入れによるキリスト像とその言葉です。

実際の一般的な聖書では、

 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎い入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言葉に聞き入っていた。ところが、マルタは接待にことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った。「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください。」
 王は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り坂り去ってはならないものである」。

となっています。

 ここで以前にも引用したエックハルトの登場です。エックハルトは聖書のこのマリアとマルタの話を説教話として残しています。

 日本語訳の説教話で手に入りやすいものとして講談社学術文庫、岩波文庫から出版されています。
  参考にこのに書から同じ個所を引用します。

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(講談社学術文庫 神の慰めの書 マイスター・エックハルト著 相原信作訳 p276~p277)

 三つのものがマリヤをして主の足下に坐せしめたのである。
 
 一つは、神のもとである柔和さが彼女の魂をとらえたのである、次に、はげしい言い現わし難い憧れが彼女を襲った。第3位に、キリストの御口より流れ出る永遠の御言葉より彼女が汲みとった甘美な慰籍と歓喜とが彼女を魅了したのであった。
 
 マルタもまた三つのものによって、立ち働き、愛するキリストに仕えるように動かされてたのである。
 第一は女盛りの年配者であり、極度にまで練りに練られたその心根である。それによって彼女は、饗応の仕事に対して自分ほど適任であるあるものはないと信じたのである。第二は愛の命ずるて手近な務めをてきぱきとやってゆくことのできる賢明さである。第三は愛すべ客人の秀でた品格である。
 
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(岩波文庫 エックハルト説話集 田島照久編訳 p206~p207)

 第一に、マリヤの魂をとらえたのは、神の慈しみであった。第二は、大きな言い表しがたい願望であった。彼女はなにものともわからぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っていたのである。第三は、キリストの口から流れ出る永遠の言葉より彼女が汲みとった甘美な慰めと歓喜であった。

 マルタもまた三つのものによって、立ち働き愛するキリストに仕えるように動かされてたのである。第一は、円熟した年齢と、極限まで鍛え抜かれた(魂の)根底であった。そうであるからこそ、もてなすという仕事には、自分において他に適しているものはないと彼女は信じたのである。第二は、愛の命ずるさいこうのものはを目ざして、外的な仕事を手ぎわよくさばくことを知る賢明さであった。第三は、愛する客の高い気品であった。
 
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前回のブログでは、

 エックハルトは、イエスがマルタに語った「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」の意は、マルタが間断なく神の中へと上昇していく段階にある者ということであり、それに対しマリヤは、歓喜と甘美の段階にいたのであり、まだやっとこれから学校に上がり生活を学び始めようとするところであった。と、マルタが早すでに本質的なものを堅持する段階にあるのに対し、マリヤが主の足下に跪き歓喜に酔いしれている状態は、聖なるものではないとしている。

と書いています。さらに

 思うに、宇宙意識や「宇宙に存在するあらゆるものは、一つにつらなっている」(理想社 講座仏教思想 第一巻存在論 時間論 道元の時間論玉城康四郎著P279)との意識。

 また「全世界の存在のそれぞれが、すべて自己である」(NHK出版 シリーズ・哲学のエッセンス道元 住光子著 P93)などの各段階は、エックハルトの言うところのマリヤの精神的段階と同じような気がするのである。

 自然との共生も然りである。マリヤ的な段階の「神のもとである柔和さ」「なにものともわからぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っている」「永遠の御言葉より彼女が汲みとった甘美な慰籍と歓喜」から得られる概念であるような気がする。

 ガイア的な思想も全て「永遠の御言葉より彼女が汲みとった甘美な慰籍と歓喜」からの叫びである。

 エックハルトはいう「マリヤはマリヤとなる前にマルタとならなければならない」(上記神の慰めの書P290)と語る。

 これは大乗仏教における般若心経の「色即是空 空即是色」と同根である。

 エックハルトの

 「多くの人々は、感性的な事物が現前しても五官が何の痛痒をも感じないような境地が達成され得るものと思っている。しかしそのようなことはありえないのである。すざまじい騒音が私の耳に甘美な弦楽器の音色と同様たのしくひびくということは、私のとうていなしえないところである。ただ、合理的に神に則って形成せられた意志が一切の自然的な快楽をこえて存立する境涯は到達することができるはずである。理性が意志に方向転換を命じ、意志自ら『我それをなすを喜ぶ』と言うのを理性が直観するような場合がそれである。」(上記神の慰めの書P291)

という説教は、「空即是色」における「色」の現実に立ったからこそ主張できる説教であると思う。

と書いていました。
 
 今朝は、この言及に西田哲学の上田閑照先生のお考えを紹介追加したいのです。上田先生はエックハルトについては知る人ぞ知るです。

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『上田閑照集 第七巻 マイスター・エックハルト』(岩波書店)p11~p14から 

 私はしばらく前に、南ドイツの或るベネディクト派の修道院で、キリスト教徒と仏教徒が黙って坐って沈黙を共にするZazenという名称の集まりに加わったことがありまして、大変感銘しました。
 
 言葉以前に戻って沈黙する、その沈黙が、他の宗教の人たちと宗教的に共にいる仕方であると同時に、自分自身の宗教へのより深い道になる、そういう在り方としての沈黙です。
 
 黙って坐って、黙る。坐って沈黙を共にするということの中に、エックハルトが「神はそれ自身において無である」と言いましたその「無」、それをリアルに生きる、死んで生きる仕方がそこにあると考えることができると思います。
 
 エックハルトは、「神は無である」と言いましたが、ただ神に関してだけでなく、エックハルトの言葉で言いますと、「神の根底は私の根底、私の根底は神の根底」、その根底が無です。ですから無であるということは、そこで私が本当に私になるその一番の深い場所ということです。そういうことがエックハルトの場合、思想的にはっきり追究されていて、しかも生き方としてはさっき言いましたように「何故なしに生きる」という、そういう言葉で表現されています。そういうことが本当に一人一人の生きる直接のところでどう受けとめられるか。今触れましたように、黙って坐って沈黙するというそれが一つの具体的な道になると考えることができると思います。
 
 それともう一つ、エックハルトの独特な考え方は、そのように神の奥底の「無」にまで徹底することが、同時にまた、この現実の世界に還って来る、そういう考え方と結びついているということです。神との合一から去って、「無へ」と「この現実に還ってくる」こととが相即しているということです。「無に」坐って、そこから立ち上がって「世界内へ」です。
 
 大変注目されている説教の一つですが、ルカ伝第十章の最後の方にある、有名なマリアとマルタの物語についてのエックハルトの逐語的な釈義があります。イエスが旅を続けておられた時にある村に入って行かれる。そうすると、マルタという名の女がイエスを家に迎え入れる。そのマルタにはマリアという妹がおりましたが、その妹のマリアはイエス様が入ってみえるとすぐに万事を放棄してイエスの足元に坐って、みことば御言に聞き入る。

 それに対して姉のマルタの方はイエスやイエスのお供の人たちの接待のために台所で忙しく働く。そこでマルタがイエスに「主よ、妹が私だけに働かせているのを何ともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」と言うわけですが、それに対して、主は次のように答えられる。
 
 「マルタよマルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、なくてはならぬものはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ」と。
 
 これは文面からしますと、イエスの言葉としては、マリアの方を神との関係における、より優れた在り方としてそこに出している、そういう趣旨に読むのが通常です。しかしエックハルトはそれを逆転して、マルタの方をイエスが高い立場として出しているのだというように読んでいます。つまりマルタはもう神との合一の立場を通り抜けて、そして台所に還ってお客の接待のために働いている、その在り方こそ本当の在り方である。マリアはまだ合一に、合一の立場に止まっている。
 
 しかし合一の立場からさらにそれを通り抜けて行くことができる。そういうような趣旨にエックハルトは解釈しております。ですからイエスがマルタに言われた「あなたは多くのことに心を配つて思い煩っている」というその言葉に対して、エックハルトは独特な解釈をします。つまりマルタは今や思い煩うことができる、心を乱されることなくして思い煩うことができる。そういう立場に到達している。思い煩いの中にではなくて、他の人たちのための思い煩いをもって人々のために仕事をする、そういう立場になっている。
 
 そのようにエックハルトは読んでいます。これは非常に独特な解釈の仕方です。釈義の仕方として問題になるでしょう。しかし、神との合一からもう一つそれを去って、神を捨て、神無きところ、即ち神の奥底の無に徹底するということが、同時に、現実に還ってくる、そして現実の中で具体的に人々のために働くことだという、そういう立場をはっきり打ち出したところに大きな意義があると考えられます。
 
 こういう考え方が、やはり現代の私たちにも大きく響いてくるのではないかと思います。あらゆる既成のものが崩れて、もう一度無から出直さなければならない時代と言えるわけですが、その時本当の無とはどういうことか、それをエックハルトが説いていると言えます。そして、そこは同時にキリスト教と仏教とが真に触れ合うことができるところ、そして触れ合うところに立つことによってキリスト教と仏教との、歴史的伝統の中に蓄積されている違いも豊かさとして経験できる、そういうところであると言えます。
 
 それからもう一つ。現在、世界が一つになって、キリスト教と仏教が触れ合っているわけですが、そういう世界状況そのものは宗教自身が開いたものではなくて、技術が開いたものであります。そういう技術の世界に対してやはり真の自由というものはどういうものであるか、技術に巻き込まれないで真に豊かに生き抜くことのできる自由の根源をどこに求めるか、それをエックハルトの考え方が暗示していると見ることができると思います。

 神なき時代に本当に生き抜くということ、それをエックハルトから学ぶことができるのではないか、そのように考えられます。

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 宗教哲学として学ぶときに、何を学ぶべきか、その過程の中で自分自身が一歩進んだ止揚なのか、それとも編成替えなのかわかりませんが、思考が進み何かしらの思いが生まれてきます。

 私のブログは、学者先生の言葉をそのまま紹介することが多いのですが、それは自己の恣意を最小限にし言葉としたいからです。

 上田先生の言葉は、非常に好きでこれまでに掲出していませんでしたので、今朝は非常に長い文章になってしまいましたが、記録としてとどめたいと思います。

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